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昭和天皇の独自外交

昭和天皇は独自外交を展開していた。

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 昭和20年(1945年)、大東亜戦争敗戦後の連合国占領下、昭和天皇はマッカーサーと11回も会見を行っています。特に昭和天皇は日本の安全保障問題に懸念を持っており、第3回会談では憲法九条に対して「世界の国際情勢を注視しますと、この理想より未だに遠い様であります」と述べられています。マッカーサーは「戦争をなくするためには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ」と説得しています。憲法九条の「軍隊を持たない」というのは日本弱体化だけでなくGHQに潜む共産主義者が革命を起こしやすくするために考えたことなのですが、マッカーサーはそれらに素直に従っていたということです。

 昭和22年(1947年)、日本社会党の片山内閣が発足。芦田外相は非武装で国連に安全保障を依存するという方針は非現実的と判断していましたので、講和成立後も米軍が日本の安全保障を確保し、代わりに日本が基地を提供するという特別協定の提案をまとめています。実は日米安保の原型は日本社会党が作っていたのです。しかし、この提案はアメリカ本国には届きませんでした。GHQ内で握りつぶしたようです。

 この頃、冷戦構造が芽生え始めると沖縄の軍事的価値が浮上し、米国では沖縄を米国に併合するべきという論と併合できないので信託統治にすべきという論がでてきます。このとき昭和天皇の「沖縄メッセージ」があります。沖縄は主権を日本に残したまま「長期租借方式」に基づいて行われるべき、というものです。よく反皇室派がこの沖縄メッセージだけつまんで沖縄を切り捨てたとか、基地がどうこう言いますが、赤化懸念や米国の論争といった背景があるのです。
 さらに大陸では共産党が国民党に勝利し、朝鮮半島に緊張が及ぶようになっていくと米国は反共意思を強くし、大統領特使ダレスを日本に送り込みます。マッカーサーべったりだった吉田茂は日本の非武装化を述べたところ、ダレスは国際間の嵐の激しさを述べ、激怒します。そして朝鮮戦争が勃発。ここで昭和天皇からダレス宛てにメッセージが送られます。このメッセージには吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できないので、安全保障問題は彼らをはずして行うべき、というものでした。このメッセージで講和への道筋がついたと言われます。

 このほかにも昭和天皇は日本に長く住んでいたフランス人のヨゼフ・フロジャックというカトリックの神父と接触して昭和23年(1948年)にローマ法王にメッセージを送られています。ローマ法王からも返信メッセージがあったようで、内容は謎ですが、なんらかの外交パイプを持とうとしていたと思われます。また、英国王室にもメッセージを送られています。昭和天皇独自の外交でGHQを牽制しようとしていたのかもしれません。

 昭和28年(1953年)4月、既にサンフランシスコ講和条約の効力が発生した後のことです。昭和天皇は東京裁判の主席検事だったジョセフ・キーナンが帰国するときに歓談していますが、キーナンは「今度の選挙で吉田氏、重光氏らのなかからだれを指名すればよいと思いますか」と質問します。そして昭和天皇はこう答えられます。

「いまは政治のことからまったく離れているので・・・」

 戦後まもなくの、政治混乱期に日本の将来を案じ、独自の外交を展開し、サンフランシスコ講和条約までこぎつけ、“ようやく政治から離れられた”というお気持ちだったのでしょう。



参考文献
  新潮45 2009.9「二重外交展開、占領下も『君主』でありつづけた昭和天皇」河西秀哉
  「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘 畑好秀(編)
参考サイト
  WikiPedia「片山内閣」
  沖縄県公文書館 "天皇メッセージ" http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

添付画像
  昭和21年の昭和天皇 日本国憲法にサインしたときのもの(PD)

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大東亜戦争を戦った朝鮮人

大東亜戦争を勇敢に戦った朝鮮人がいた。抹殺された歴史!

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 大東亜戦争当時、朝鮮人は日本国民として大東亜戦争を支持し戦いました。

 朱 耀翰(しゅようかん 後に韓国国会議員)昭和16年(1941年)12月14日の米英打倒大講演会 演題「ルーズベルトよ答えよ」
「正義人道の仮面を被り、摂取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。・・・君は口を開けば正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、日本人が人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、 これに反対し、削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りをあたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国のものであったか。・・・しかし、君等の悪運は最早尽きた。・・・一億同胞・・・なかんずく朝鮮半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜の聖戦の勇士とならんことを誓っている」

 李 光洙(イ・グァンス 日本名、香山光郎 文学者)
「私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れずこの聖戦完遂に邁進する者であるからして、子々孫々の栄華を得るであろう」

 昭和19年頃に東京に留学していた朝鮮人が、京城(ソウル)の朝鮮人街の映画館に入ったところ、ニュース映画で上映される日本軍の戦況に関するニュースに観客が熱狂する様子を見て驚いたといいます。東京の映画館でさえこれほどではなかったそうです。

 昭和13年(1938年)に軍隊が志願兵を募集したところ、定員400人のところ2,946人が応募しました。そしてその後の募集も驚異的な倍率になります。

1939年  12,348名志願   613名合格
1940年  84,403名志願 3,060名合格
1941年 144,743名志願 3,208名合格
1942年 254,273名志願 4,077名合格
1943年 303,394名志願 6,300名合格

 崔貞根(高山昇)中尉は沖縄戦で敵鑑哨戒中、敵艦船群を発見し、敵艦船めがけて突っ込みました。急降下爆撃中に被弾して帰還は望めなかったため咄嗟の判断だったといわれています。以下その感状です。

「身は半島に生まるるも 至誠忠常に国を憂へ 率先して陣頭に立ち 部下のコウ望殊に厚し」

 金尚弼(きん しょうひつ)大尉 昭和20年(1945年)4月3日、沖縄沖で敵艦に体当たり(神風特攻隊)して戦死。生前、父と兄に寄せた言葉。
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁には我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです」

 昭和20年の硫黄島の戦いでも朝鮮人軍属はまともな武器もないのに勇敢に戦ったことが記録されています。爆雷を抱いて敵戦車に突入した人も一人や二人ではなかったといいます。
「元山地区陸戦隊の大多数は半島人にて編成しありたるところ、勇猛果敢昼夜なき白兵を持って敵を撃退。指揮官の下、同地を死守する統制ある戦闘を実施しつつあり、陸海軍賞賛のマト・・・」(大本営宛て電文)

 現在、韓国では日本に協力したものは「民族の反逆者」と言われます。果たしてそうか?韓国人も先人は崇高な使命感を持って大東亜戦争を戦ったのではないでしょうか。あるものは大東亜共栄圏の理想に燃え、あるものは皇国民としての使命感を持ち、あるものは朝鮮独立のために・・・。

 朴鉄柱(韓日文化研究所)昭和42年(1967年)ソウル
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼビッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。二百数十万の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである」

 大東亜戦争を戦った朝鮮人。彼らの成し得たことは誇るべきものだったのです。



参考文献
 草思社「親日派のための弁明」金完燮(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史」(続)渡部昇一著
 小学館SAPIO 2009/9/9「『民族の反逆者』か『祖国の英雄』か、2つの歴史が引き裂く朝鮮人将校の『特攻精神』」裵淵弘
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
 株式会社国際規格「日韓2000年の真実」名越二荒之助(編著)

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  朝鮮人志願兵による市街演習(日本人として戦った朝鮮兵より http://nandakorea.sakura.ne.jp/frame.html)

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硫黄島決戦

決死の敢闘、硫黄島玉砕。

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 昭和20年(1945年)2月19日、米軍が硫黄島に上陸します。よく、「沖縄は日本唯一の地上戦」といわれますが、これは誤りです。テレビでもよく間違ったまま報道されます。もう少し言うと南樺太や千島列島でも戦闘があります。日本領という定義だとペリリュー島も該当するでしょう。

 小笠原方面最高指揮官・栗林忠道中将は昭和19年(1944年)5月に父島へ赴任し、米軍は硫黄島に来ると予見して、全長28キロに及ぶ地下陣地構築を指示します。サイパンの水際作戦は艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えたからです。地下陣地の有効性はペリリューで実証されました。

 19日、米軍は上陸したものの一発の銃弾も飛んでこないのを不思議に思いました。島南部の飛行場占拠を目指し進みます。上陸地点の海岸が兵員と物資、弾薬でいっぱいになった午前10時頃、遂に日本軍の隠蔽陣地から猛射を浴びます。海岸では塹壕も掘れず米軍の死傷者は続出しました。進めばいつの間にかどこからともなく猛射を浴びます。ロケット弾が「ヒュー」という音を立てて飛んできて米兵の四股はバラバラになって吹き飛びました。あまりの惨状に発狂する米兵が続出したといいます。栗林戦法は恐ろしい程の効果を発揮しました。米軍は平文で電報を打ちます。

「われわれはかつて見たこともない精強な日本軍に遭遇し、1ヤード、1ヤード血の進撃を続けている。病院船を回航せよ、病院船を回航せよ」

 21日、木更津からは神風特攻隊「第二御楯隊」が組織されます。

 定森中尉
「敵艦に体当たりする一瞬は二百七十分の一秒ぐらいだという。敵艦の二百メートル前からが二秒、自分は何とか笑って突っ込めそうだ。単機で巨艦上の敵兵一千以上に挑むのは男冥利につきますわ」

 第二御楯隊は空母サラトガ、護衛空母ビスマルク・シーに突入。サラトガは大破戦場離脱、ビスマルク・シーは轟沈。護衛空母ルンガ・ポイントほか輸送船らも大火災を起こします。これに硫黄島の守備隊が呼応して米砲兵陣地を猛射し、夜間には米爆薬庫を襲撃し爆破に成功しました。硫黄島の兵士たちは息を飲んで特攻を見つめていました。

「きたぞ。俺たちのために死んでくれるんだ」

南海岸のほうから軍歌が高唱されます。全滅を待つばかりの陸軍残存部隊高唱しているのです。(歩兵の本領)

 万朶(ばんだ)の桜か襟の色
 花は吉野に嵐吹く
 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
 散兵戔(さんぺいせん)の花と散れ

軍歌は次第に島の北にも広がっていき、全島を揺さぶる大合唱となっていきました。

 栗林戦法は米軍に大打撃を与えましたが、日本軍も次第に戦力を消耗していき、翌月の3月17日「帝国海軍万歳、勝利を確信す」の電文が海軍の最期になります。3月18日には栗林中将から最期の電文が大本営に入電されます。
 3月16日、米軍は硫黄島の占領を正式に発表。「26日と9時間の戦いで海兵隊戦死傷者24,127人、その歴史168年で最も厳しかった」

 3月26日、栗林中将、市丸少将らは最期の突撃を敢行。この奇襲は成功し、米軍の戦闘機整備隊と工兵大隊を殺傷し、建設大隊や野戦病院、米軍トラック30両を爆破炎上させました。結局斬込隊262名が戦死。翌27日までに栗林中将を初め陸海軍の司令官と幕僚は自決して果てました。

「硫黄島」を書いたビル・D・ロス
「硫黄島は集団の勇気および個人の勇気が問われたランドマーク(画期的事件)であった。その戦いは、人類がおそらく二度と目撃するとは思えないほど強烈なものであった」



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
 新潮文庫「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯久美子(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」

添付画像
 硫黄島戦闘の様子(米軍撮影 PD)

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硫黄島決戦 ~暁に祈る~ http://www.youtube.com/watch?v=LSB2JmV5r9s

ブラック・デス・アイランド ~ 硫黄島

硫黄島の戦い。

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 昭和20年(1945年)2月19日 ~ 3月26日、硫黄島で日米死闘が繰り広げられ、日本軍は玉砕しました。日本側戦死 17,845~18,375 (軍属82を含む)、米側戦死 6,821 戦傷 21,865。米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのんだといいます。

 昭和19年(1944年)秋になるとマリアナが陥落したせいで、硫黄島は最前線となり、将兵も「任地硫黄島」といわれただけで、顔から血が引くようになっていました。

 硫黄島の戦いは過酷な戦闘がよく言われていますが、米軍上陸前からさながら地獄の様相でした。まず硫黄島には水がない。雨以外の飲料水はゼロです。そこに二万の将兵がいるわけです。50メートルほっても水は出てきません。海岸近くを掘ると硫黄混じりの塩水が出て来て炊事はこの水で行いました。地下壕を掘ると中は40度から50度の温度になります。さらに米上陸前からも米軍機や米潜水艦の攻撃によって本土からの輸送も困難になってきて、食料も不足し、度重なる空襲の恐怖も加わり、発狂するもの、自殺するもの、逃亡するものが現われました。中には自分の銃で自分の足を撃ち、内地に送還してもらおうとするものもいて、「敵前従軍免脱」として銃殺刑になったものもいます。

 米軍が上陸してくるほんの10日ほど前の昭和20年(1945年)2月10日、根本正良少尉らの一式陸攻隊は硫黄島へ緊急強行輸送を行います。硫黄島に着陸し、荷物を下ろすと何気なしに折り詰め弁当を3/4食べて残りをすてると、滑走路の補修工事をしていた現地兵が、それを拾い上げ、飯粒を一粒一粒集めはじめました。根本少尉はそれをみて愕然とします。そして機内に戻ってありったけの帰路のための弁当をかき集めて現地の兵士たちに差し出しました。兵士は弁当を将校に渡すと、将校は「俺はいい。皆でいただけ」といい、それを見ていた根本少尉の眼に涙がにじみました。

 硫黄島へ食料を運んだ輸送艦に荷揚げ作業のために現地の兵士が艦上にあがってきたとき、船の乗組員は思わず息をのみます。どの現地兵士も真っ黒で皮膚につやが無く、手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていたからです。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていてました。船の乗組員は「火星人だ。まさしく人間ではない。火星人だ」と思ったそうです。

 2月11日、11万の大兵力を満載した486隻の米大艦隊はサイパンに集結していました。13日、米機動部隊が北上。14日硫黄島作戦牽制のため本土を直撃する別働隊が北上。日本側は米軍は沖縄に来ると予想していました。16日になって硫黄島に来ることを知ります。
 硫黄島の兵士たちは妻子の写真を焼き払い、決戦に備えてました。16日午前7時、米艦隊は硫黄島に向け、いっせいに砲門を開きます。17日午前10時半頃砲撃が止まり、米駆逐艦と大型砲艦艇約20隻海岸に急進してきます。島の南端にある摺鉢山(すりばちやま)砲台は米の集中砲爆撃で崩壊寸前となっていました。「敵を揚げて叩く」栗林戦法を守っていたのでは自滅の恐れがあり、一矢報いることを決断します。健在な砲を米艦艇に向け砲撃を開始。米艦艇は無数の命中弾を受け、火を吹き、沈み、乗組員多数が吹っ飛びました。

 17日夕刻から続々と米船団は集結します。硫黄島は南の島だというのにさんご礁の砂浜も緑の椰子もなく、異様な形の摺鉢山と低く黒い断崖と砂浜が続いているだけの島です。島へ砲撃すると島から吹き上がるのは茶褐色の土煙だけでした。上陸を前にした米兵はこう言いました。

  ブラック・デス・アイランド



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫 「硫黄島玉砕」多田実(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」

添付画像
  硫黄島地上作戦を支援する米F6Fヘルキャット(PD)

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実録 硫黄島玉砕 http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY

近衛上奏

共産主義を警戒していた近衛文麿。

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 昭和20年(1945年)1月9日、米軍はルソンに上陸。2月11日、連合国によるヤルタ会談が行われ、ヤルタ密約が取り決められソ連の参戦が決定します。(日ソ中立条約の一方的破棄) 日本は知りません。このヤルタ密約の発表は1年後に行われています。

 2月19日、硫黄島に米軍が上陸。

 2月に入ってから重臣たちが昭和天皇にそれぞれ拝謁を行っています。7日に平沼騏一郎、9日に広田弘毅、14日に近衛文麿、以降、若槻礼次郎、岡田啓介、東條英機と続いています。近衛文麿は3年ぶりの昭和天皇への謁見でした。
 近衛は昭和天皇に「近頃お目にかかれませんでしたが、いかがでいらっしゃいますか」と言うと玉座の前にある椅子の前まで進みます。こうした行為は普通の臣下のものには出来ない行為で、近衛家という「五摂家」ならではであり、近衛はどっかりと椅子に腰を下ろしました。昭和天皇は「近衛はいかがか」と声をかけると、近衛は「恐れ入ります。お陰様で元気にしております」と答えました。そして起立すると、モーニングのポケットから和紙を取り出し読み上げます。

「敗戦は遺憾ながら最早(もはや)必死なりと候。
 以下、この前提の下に申し述べ候。
 敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん 小さな傷のこと)たるべきも、英米の興論は今日までのところ、国体の変更とまでは進みいらず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)したがって敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こるであるべき共産革命に候」

「つらつら思うに我が国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於いては、ソ連の異常なる進出に御座候」「特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有・・・」

 近衛文麿は勝利の見込みの無い戦争は一刻も早くやめ、共産主義革命に備えるべきとしています。これは戦況と内外政治情勢をみた的確な判断といえますが、米国は講和に応じる気はさらさらないこと、陸軍の動揺など重要な部分が欠けています。昭和天皇は近衛文麿の上奏にある程度同調されるものの、陸軍の動揺を考慮して「もう一度戦火を挙げた上でないと、話はなかなか難しいと思う」と述べられています。近衛は「そのような戦果が挙げられるとはとても思えません」と述べます。ここで陸軍の動揺を抑える元帥にすべき人物として、阿南惟幾(あなみ これちか)大将の名前があがりました。

 この後、近衛上奏文がもとで吉田茂が逮捕されています。上奏文の準備は吉田らのグループが行い、近衛を説得したものでした。近衛文麿も結構危ない橋を渡ったといえます。

 このほか広田弘毅はソ連との戦争を回避するよう上奏しており、東條英機は断固たる抗戦論を述べます。梅津参謀総長は台湾に敵を誘導して一撃する論を上奏しています。

 こうした近衛文麿の動きは評価する向きもありますが、どうもこの人の言動はふらふらしており、終戦直後に昭和天皇の責任を口にしたり、東條英機の責任を強調したり、マッカーサーと二度会見し、憲法改正に乗り出したり、ということを行っています。そして反共の近衛はGHQ共産主義者のターゲットになり、戦犯指名され逮捕状がでると出頭を拒否して自殺しました。昭和天皇は近衛文麿の自殺の報を聞き、たった一言「近衛は弱いね」とおっしゃったといいます。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 「昭和天皇論」小林よしのり(著)

添付画像
 近衛文麿(PD)

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昭和宰相列伝2 近衛文麿他 (1937-1941)
http://www.youtube.com/watch?v=74h-Pvya1Ow

捷一号作戦

海軍は戦争する気がなかった?

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 捷一号作戦は昭和19年(1944年)10月23日から同25日にかけて米軍のレイテ上陸を阻止する日本軍の作戦名です。おとり作戦とよく言われますが、日本海軍の機動部隊(小沢部隊)が米機動部隊を牽制し、戦艦を中心とした水上砲撃部隊(栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊)を米軍上陸地点に送り込み、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃して米のフィリピン奪還を頓挫させる作戦です。

 10月23日、戦艦大和、戦艦武蔵を擁する栗田艦隊は米潜水艦の魚雷攻撃を受け、旗艦の愛宕が沈没。このため指揮システムを新たに構築しなければならず、通信不備の原因となります。
  10月24日、シブヤン海に入った栗田艦隊は米艦載機延べ246機の攻撃を受け、戦艦武蔵は沈没。栗田艦隊はレイテ突入を断念し、反転します。しかし、連合艦隊司令部から激励電文が飛び、また反転してレイテへ向かいます。

 おとりとなった小沢機動部隊は米機動部隊(ハルゼー艦隊)を発見し、少ない艦載機で攻撃を開始。ハルゼー米機動部隊はおとりに食いついてきます。しかし、小沢艦隊の旗艦・瑞鶴の通信設備に不具合があり、攻撃機発進の電報は栗田艦隊にも連合艦隊司令部にも打電できませんでした。栗田艦隊はおとり作戦がうまくいっていることを知ることがでなかったのです。

 10月25日未明、西村/志摩艦隊はレイテ湾へ突入し、オンデンドルフ艦隊に迎撃され、ほぼ全滅しました。(スリガオ海峡海戦)

 栗田艦隊は25日夜明けにサマール島沖に進出し、米護衛空母艦隊(スプレイグ艦隊)を発見。米艦隊は速力が18ノットで逃げ切れることができず、全滅は時間の問題でした。戦艦大和、長門、金剛、榛名が護衛空母艦隊を蹴散らした後、レイテに揚陸中の米輸送船団約80隻を撃滅する予定でした。しかし、栗田艦隊は護衛空母1隻と駆逐艦3隻を撃沈したところで反転北上。謎の大反転といわれるものです。この後、主砲射撃指揮所旋回手は敵主力艦(テネシー、カリフォルニア、ペンシルバニア)を発見し、主砲射撃準備までできていました。しかし、艦橋からは何の指令も無く、無言だったといいます。なぜレイテに突入せず、反転したのか?栗田長官は昭和52年(1977年)、亡くなるまで沈黙を守りました。

 この戦闘ではちょっとしたエピソードがあり、米駆逐艦ジョンストンは総員退艦して海上に投げ出されたとき、迫り来る日本の駆逐艦を見て、機銃掃射されると思い、もうこれまでと覚悟したそうです。しかし、振ってきたのは缶詰などの食糧と水であり、艦橋には不動の姿勢で立つ艦長が沈み行くジョンストンに向かって敬礼していたといいます。

 栗田艦隊はレイテの米輸送船団を攻撃することなく、米第7艦隊と決戦することもなく、レイテから消えていきました。栗田艦隊がレイテに突入していても日本の降伏が遅れただけだったという意見もありますが、数日後の米大統領選に影響を与えたかもしれず、戦争が長引けば厭戦気分、または共産主義の脅威の台頭など情勢を変える材料もありました。

 結局、連合艦隊は戦力を集中させて総力で米軍を攻撃したことは一度もありませんでした。航空戦力と海上部隊を効果的に連携させて攻撃したことも一度もありませんでした。ガダルカナルでもミッドウェーでも戦艦大和を使うことはありませんでした。これは「温存艦隊」といって戦力を維持して敵に脅威を与え続け敵の侵攻を遅らせるという考えがあったのかもしれません。しかし、戦力を逐次投入していた結果、レイテにおいてその機能さえも無くしてしまいました。



参考文献
 「歴史街道」2009.9『マッカーサーが震えた日』吉田一彦
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著) / 茂木弘道(訳)
 ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
 WAC「『太平洋戦争』こう戦えば・・・」三野正洋(著)
参考サイト
  WikiPedia「レイテ沖海戦」

添付画像
 アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る(駆逐艦「磯風」から撮影)(PD)

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小磯内閣誕生

小磯内閣は戦争を終わらせることができなかった。

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 昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。東條内閣は崩壊し、小磯内閣が誕生しました。日本は条件付降伏をアメリカに打診し、アメリカでも日本へ降伏勧告を行う案が持ち上がりましたが、ルーズベルト大統領は拒否しました。
 そして戦局は好転せず、9月15日に米軍はペリリュー島へ上陸。小磯内閣は何ごとも動きが遅く、「木炭自動車」と揶揄されます。昭和天皇はこう回想されています。

「この内閣は私の予想通り、良くなかった。改造問題にしても、側から言われると直ぐ、ぐらつく。云う事が信用できない。その代わり小磯は私が忠告すると直ぐ云う事を聞く。それでいて側から云われると直ぐ、ぐらつく。つまり肚(はら)もなく自信もない。その為しばしば米内を煩わせて小磯に忠告した」

 この小磯内閣は小磯國昭の政治基盤が弱いことから近衛文麿の提案によって米内光政との連立内閣という形になっています。陸相に東條英機の推す杉山元が陸相となっていることから、近衛文麿に何か考えがあったものと思われます。依然として東條英機の影響力は残っており、部下だったものに対して「小磯は3ヶ月もすればつぶれるから、自分が帰ってくるまでがんばれ」と励ましていることが周囲に伝わり、近衛文麿、鳩山一郎、細川護貞、松野鶴平ら、反東條勢力は警戒を強めています。

 そしてついに米軍はレイテにやってきます。レイテで決戦し、一撃を与えてから講和への道筋をつけようとしましたが、陸海軍意見が一致せず、陸軍内でも山下泰文大将はルソン決戦を主張し、寺内南方総司令官と意見があいません。結局、陛下の御意志ということで、レイテで戦うことになりましたが、連合艦隊はレイテに突入せず、残念な結果に終わってしまいました。

 講和への道筋がなんらたたないまま昭和19年(1944年)は暮れていきますが、以前『新・平成日本のよふけ』という番組に元大本営作戦参謀の瀬島龍三氏が出演しており、昭和19年のクリスマスにモスクワへいくため東京を発っています。youtubeにも番組録画がアップされています。

瀬島龍三談
「モスクワについたのは1月19日でした」
「大使に戦局の実体の説明をして・・・」

 番組はここで一旦切って編集されています。5日滞在したといいますから、何かほかにも活動していたのでしょうが分かりません。何をしてきたのか?指示したのは誰か?梅津美治郎か?
 このとき瀬島氏はソ連がドイツにいた兵力を東、満州方面へ転戦させているのを目撃し、百個師団を満州に集めるとして、昭和20年(1945年)8月の後半から9月が極めて危ない、と判断したと述べています。8月8日にソ連は日ソ不可侵条約を破り満州、樺太、千島列島へ攻め込んできたわけですから、後世の我々からすれば「もっと早くなんとかできなかったのか」と思うところです。

 昭和20年(1945年)3月、支那重慶国民政府の密命を帯びて来日した繆斌(ぼく ひん/みょう ひん/びゅう ひん)は小磯内閣に日支単独の和平交渉を提案しました。(繆斌工作) 小磯国昭首相はこの提案に飛びつきましたが、繆斌は蒋介石の親書を持っておらず、信用できない、と反対の声が強く、それでも小磯国昭は繆を通じての交渉にこだわり続け、遂には行き詰まり、4月7日、内閣総辞職となりました。既に沖縄には米軍が上陸していました。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 光人社「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也(著)
参考サイト
  WikiPedia「ペリリューの戦い」「小磯内閣」

添付画像
  小磯内閣(PD)

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新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第6回 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=4q98IHjCgPw

東條英機暗殺計画

東條英機暗殺計画があった。

S18_october_1941


 昭和19年(1944年)5月、大東亜戦争の戦局が悪化してくると東條内閣にかげりが見えてきます。岸信介国務相(軍需次官 戦後、内閣総理大臣)は東條英機に対し「軍需産業に責任を持っている次官の立場から言うと、サイパンが取られればどうにもなりません。B-29が連日空襲をかけてくれば、大都市の軍需産業は壊滅してしまうという、現実の問題ですから」と述べます。岸は東條内閣を見限っていました。

 海軍では東條英機暗殺計画が持ち上がります。倒閣へ向けた正攻法を用いなかったのは、嶋田海軍相が東條英機と懇意であるのと、東條英機の憲兵を使った強引な手法、戦局悪化のあせりと思われます。高木惣吉海軍少将、神重徳大佐、三上卓元海軍中尉らが暗殺計画を練り、7月14日を決行の日とします。ところが、神重徳大佐が連合艦隊参謀として転出することになり、さらに7月7日にサイパンが陥落。東條内閣更迭が現実味を帯びてきたため、計画を中止することになりました。

 陸軍内でも暗殺計画がありました。大本営参謀の津野田知重少佐が中心となって暗殺計画をたて、決行日は7月25日となっていました。東條英機が乗ったオープンカーを襲撃して手榴弾を投げる予定でした。計画は山形に隠遁していた石原莞爾に持ち込まれ、献策書を読んだ石原は「総理にする人間を誤らないことだね」と答え、献策書の表紙に「全然同意す」と記しました。さらに計画は大本営参謀の三笠宮に持ち込まれ賛同を得ました。秩父宮にも持ち込まれ「後継者は小畑敏四郎(陸軍中将)がいいだろう」と賛同しました。しかし、陸軍は東條英機の守備範囲内だったため情報は漏れ、計画者は逮捕されました。

 このほか陸軍の参謀本部戦争指導班の松谷班長は正攻法で東條英機に直接進言しています。

「7月1日 午後より市谷分室において班長以下昭和20年春季頃を目処とする戦争指導に関する第一案を研究す。今後逐次『ジリ』貧に陥るべきを以って、速やかに戦争終結を企図するの結論に意見一致せり」(戦争指導班の日誌)

 しかし、松谷班長は、すぐ前線へ飛ばされます。陸軍省の戦備課の主任だった塚本大佐も東條英機に面会を求め終戦を説得したため突然グアムに飛ばされ、戦死してしまいます。

 この状況に重臣らは危機感を募らせ、近衛、岡田、若槻、米内、阿倍、広田が平沼邸に集まり、東條不信任の結論を出し、東條英機に伝えます。岸信介の離反とこの重臣会議の結論により、東條英機は7月18日総辞職を奉上し、東條内閣は瓦解しました。

 東條英機は親しい人には本音を漏らしていましたが、昭和18年頃にこんなことを言っています。
「戦というものはね、山の上から大石を転がすようなものだ。最初の50センチかせいぜい一メートルぐらい転がったときなら、数人の力でとめることもできるが、二メートルさらに五メートルとなれば、もう何十人か何百人かで止めなければとめることは出来ない。それ以上になれば結局谷底まで、行き着くところまで行かねば始末はつかないんだよ」

 この後、小磯内閣が誕生し、講和論が台頭してきますが、レイテ決戦で大失敗し、時期がつかめず、東條英機の言葉どおり、坂道を転がることを止めることは容易ではありませんでした。後に鈴木貫太郎、阿南惟幾による策略によって大きな力を引き出し、谷底寸前で止めることになります。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)

添付画像
 東條内閣 昭和16年10月18日(PD)

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学徒出陣

様々な思いを胸に。

19431021


 大東亜戦争最中の昭和18年(1943年)10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布しました。それまでは兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されており、次第に徴兵猶予の対象は狭くされ、ついには理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃することとなりました。戦場に行くことはないと思っていた学生たちの気持ちは複雑なものがありました。

丸山昴(兵科四期・対潜・東大・防衛事務次官)
「戦局がこんなに切迫しているのに、俺たちだけ大学の中で特権に甘えていていいのだろうか」

香田一郎(兵科四期・対空・東京トヨタ自販)
「いずれ当然来るべきものが来たまでだ」

宮井仁之助(飛行要務十四期・東大・日本生産性本部理事長)
「軍国主義もここまで来たか」

吉田満(兵科四期・電測・東大・日銀幹事)
「今この祖国が騒然としている中で、大学で勉強していても前途に何があるか。学問をやりたかったら舞台が転換してからでも遅くはない。参戦は決して学生の本分ではないが、来るべきものは迎えよう」

藤森耕介(兵科四期・対空・湖北工業常務)
「若干二十二歳、国家も俺とともに終焉が近いのか」

 “俺たちが始めた戦争ではない”などさまざまな思いから批判する学生も多かったといいます。しかし、運命を受けいれるほかはありませんでした。「戦争が始まった以上、選択の余地はない、時代の運命だな」(上記 宮井仁之助)

 昭和18年10月21日、東京神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開かれました。朝から雨がシトシト降っていました。

東條英機の演説一部
「茲(ここ)に明治神宮外苑の声域におきまして、征途に上がらんとする学徒諸君の装容に接し、所懐(しょかい)を申し述ぶる機会を得ましたることは私の最も欣幸(きんこう)とする所であります。(中略) 諸君は胸中深く決する所あり、腕をして国難に赴く烈々たる気迫、将に勇敢なるものがあることを、私はその諸君の輝く眸(ひとみ)に十分これをお察しし得るのであります・・・」

  この東條首相の演説を聞いた学生の感想。
「忠君愛国を叩き込む話で、またかという感じだった。毎度同じ事を聞かされてうんざりですね」
「国の考え方が正しいという前提に立っていますから、頼むよという首相の言葉に対し、死を持って報いようと思いましたね」
「『生還を期せず』をことさら高く読み上げたのは、個人としては違和感がありました。戦争だから死ぬことはあるが、だからといって、死ぬことにこだわるのはおかしいと思いましたね」

 案外、学生は冷静に捉えています。戦前は真っ暗な時代であり、若者はみな教育を通して忠君愛国ガチガチに洗脳されていたというイメージからは程遠いです。イメージは戦後創られたものでしょう。

 壮行式の一般スタンドでは女学生たちがいっせいに紺の上衣を脱ぎ、白いブラウス姿に変わり、無限の連帯と哀惜の意思表示を行います。雨の中、誰一人傘をさす生徒はいませんでした。最後の隊列がゲートを出ようとするときスタンドの人波は崩れ、女学生が出口にどっとなだれを打って駆け寄ってきました。これは当時は不謹慎なことでしたが、「一期一会」、これで終わりだと思ったゆえのタブー破りでした。
 スタンドの女学生の中には東條英機の三女、幸枝さんがいました。幸枝さんは家では見せたことのない、大きな苦悩を抱えた父の姿を見て、涙が流れてしかたなかった、やむにやまれず学徒出陣という手段をとったものの父も悲しかったに違いないと思いながら、直立不動で父、東條英機を見つめていたといいます。



参考文献
 角川学芸出版「東條英機」太田尚樹(著)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
参考サイト
  WikiPedia「学徒出陣」

添付画像
 出陣学徒壮行会(1943年10月21日)(PD)

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学徒出陣 昭和18年 1943年
http://www.youtube.com/watch?v=rohZy17TL_I

世界に衝撃を与えたマレー攻略、シンガポール陥落

白人植民地主義の長い歴史の終焉。

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 昭和16年(1941年)12月8日、日英開戦。にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。この快進撃を支えたのは現地のマレーの人たちです。

「星港攻略記」筑紫二郎(著) 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封より) 日本軍が占領した飛行場の修理の場面
「私達にはいつも味方があった。それは住民である。ジョホール・バールからやってきた避難民の住民たちがわれ先と集まってきて手伝ってくれた。彼らは一様に『早くシンガポールを陥してくれ』という。人力もなかなか馬鹿にならない。二日経つと何とか飛行機が降りられるようになった」

 マレーのラーマン王子は自らマイクの前に立ち、「マレー人よ、日本軍に協力せよ!」とラジオ放送を行っていました。

「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
「私がマレー人を見る目は、いつか同胞にたいするような親しさを覚えるのだった。
 彼らも進撃する戦車の上に、バナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを投げて声援していた。現地に来てから、単なる掛け声でなく、これらマレー人のためにも、イギリス人をこの土地から一日も早く追放しなければと考えたのだった」

  日本軍は住民の支援を受けながら快進撃しましたが、ゲマスという山岳地ではオーストラリア部隊と一週間の激戦を行っています。

 現代シンガポールの社会経済史(シンガポール中学校の教科書1985年版)
「オーストラリアの兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証として、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵二百人の大規模な墓の上に一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には、『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉がかかれていた」

 昭和17年(1942年)2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入、15日には日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍は降伏しました。

  この難攻不落の要塞といわれたシンガポール陥落はイギリス軍史上最大規模の降伏であり、世界に衝撃を与えました。

 フランス ド・ゴール将軍2/15の日記
「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」

 アメリカ歴史学者 ヘレン・ミアズ
「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 - (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った - の戦であることが判明したのである」

 マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです」

 マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏
「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした」

 マレーではイギリスにくっついて商売していた華僑は日本軍が来るのを喜ばなかったため、ゲリラとして日本軍に抵抗しています。「マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した」という反日プロパガンダもあります。戦後、日本人がマレーに調べにきたことがあり、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ」などと情けないことを言っていたといいます。これを聞いた元上院議員のラジャー・ダト・ノンチックは驚き「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と答えました。ノンチック氏は「日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした」と述べています。

 マレーシア元外務大臣 タンスリー・ガザリー・シャフィー元外務大臣
「日本の政治家の冒頭の挨拶は、ハンで押したように決まって次のような、『過ぐる大戦において我が国は貴国に対してたいへんご迷惑をおかけし申しわけありません』というお詫びです。
 私は、そのたびに、なぜそのような挨拶をなさるのですか。あの戦争で日本は立派なことをなさったではないですか。日本軍がイギリス軍を追い払ってくださったからこそ我々は独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシアも、インドネシアも、シンガポールも、その他インドを含めた東南アジア諸国の独立は考えられません」

 シンガポール陥落は日本軍とマレー人が協同して成し遂げたことであり、世界に衝撃を与え、白人による植民地支配の歴史を終わらせたのが歴史の真実です。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 日本教育新聞社「日本人よ ありがとう」土生良樹(著)
参考サイト
  教科書が教えない歴史
      アジアにおける日本と大東亜戦争 マレーシア編 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_3.html
  WikiPedia「マレー作戦」

添付画像
  クアラルンプールに突入する日本軍部隊(PD)

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敵軍遂に白旗揚ぐ http://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI

«歴史を変えたマレー沖海戦

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