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外蒙古の悲劇 ~ ゲンデン首相

ゲンデン首相を襲った悲劇。

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  現在のモンゴル人民共和国と内蒙古自治区は19世紀には清朝の支配を受けていました。1911年に辛亥革命がおき、清朝が滅亡するとハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言します。1924年にモンゴル人民共和国が成立しました。
  昭和2年(1927年)、支那の蒋介石が反共クーデターを起こすと、コミンテルン(共産主義の国際組織)はモンゴル人民共和国と支那を切り離す路線をとり、昭和3年(1928年)、モスクワの指令によって外モンゴルから右派が一層され、昭和5年(1930年)反宗教運動、裕福な牧民からの財産没収、強制集団化、個人商業の禁止政策が採られました。

  昭和7年(1932年)、満州国の建国を見て、外モンゴル民衆は親ソ政策に対して反乱を起こし、スターリンはあわてて政策転換し、経済援助をはじめました。

  同昭和7年、ゲンデンが首相が就任しました。昭和10年(1935年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出し、戦闘を禁止します。そして外モンゴルと満州の国境調整の場であるマンチューリ会議が開かれました。

  ハルハ廟事件の前年、昭和9年(1934年)にソ蒙相互援助秘密協定が結ばれており、スターリンはゲンデン首相に公式化を要求しますが、ゲンデン首相が引き伸ばしたため、スターリンは外モンゴルの副首相のチョイバルサンを使い、日満軍を攻撃(オランホドク事件)し、国境紛争によってソ連軍の外モンゴル駐留を認めるように圧力をかけていきます。ソ連としては満州国は脅威であり、外モンゴルと満州国が手を結ぶのを恐れており、なんとしても外モンゴルを掌握したかったのですが、ゲンデン首相は抵抗します。またスターリンはラマ僧を一掃するよう要求していましたが、ゲンデン首相は仏教に帰依しており、これも抵抗の要素になりました。

  昭和11年(1936年)3月、遂に「ソ蒙間友好条約」「相互援助議定書」が締結されました。ゲンデン首相は解任。国境警備隊は内務省直轄にして親ソ派のチョイバルサンの指揮下になりました。

  ゲンデン首相には有名なエピソードがあります。(モンゴルでは有名らしい)

スターリン
「日本が攻め込んできたら君はどうするつもりなんだ。」
ゲンデン 
「私は祖国を捨てて逃げたりはしない」
スターリン
「坊主どもはどうするんだ」
ゲンデン 
「我国は人口が少ない。ラマ僧は還俗させて働かせるつもりだ」
スターリン
「ゲンデン、君はラマ僧といっしょに社会主義をやろうなんてよく言うね。モンゴルのハーンになろうとでも言うのかい」
ゲンデン 
「グルジア人のスターリンさん、あんたこそロシアのハーンに君臨しているじゃないか。私がモンゴルのハーンになって悪いかね

  このように言い放ってけんかになり、ゲンデンはスターリンのほっぺたを「平手打ち」したうえ、『足蹴にし』、「パイプを取り上げて投げつけた」と言います。

  ゲンデンは昭和11年(1936年)7月に逮捕され、拷問をうけ、自分が日本に雇われスパイになったと自白強要させられ、ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意させられました。この名簿はチョイバルサンに渡され「反ソ反革命日本のスパイ組織参加者」の一斉検挙となります。
  昭和12年(1937年)11月、ゲンデンは処刑されます。これよりノモンハン事件(昭和14年)が起きるまで2万6千の蒙古人が粛清されたといいます。外モンゴルの人口が80万人ですから、人口の約6%です。いかにすさまじい出来事だったかわかるでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)

添付画像
  19世紀後半のモンゴル人住居の風景(PD)

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哈爾哈(ハルハ)廟事件

スターリンが仕組んだハルハ廟事件。

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  昭和10年(1935年)1月8日、ソ連指揮下の外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)軍が満州国境数キロを侵犯し、満州国の監視哨を追い、陣地を作り、人員を拉致し、馬を奪います。年末まで小競り合いの状態となります。この事件の前年11月にソモ相互援助秘密協定が結ばれており、これを公式化するよう外蒙古に圧力をかけるため事件はスターリンが仕組んだものでした。

  事件当時、外蒙古の首相はゲンデンでした。国防相はデミドで、両者は親日家でした。事件を起こしたのはソ連派でした。ゲンデン首相は事件後、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出して戦闘を禁止しています。その後、スターリンはゲンデン首相をモスクワに呼び、相互援助秘密協定を公式化するよう求めましたが、ソ連軍の外蒙古駐留は経済負担を増すものでゲンデン首相は引延ばしました。この親日派の不在時にソ連派のチョイバルサンは再び日満軍を攻撃(オランホドク事件)しています。

  「満蒙」という言葉を聞いたことがあると思いますが、日本が満州国を建国したときに東蒙古の一部が満州領土内に組み込まれていたためこう呼んでいます。ホロンボイルと呼ばれる満州国の北西の地方とあわせて特殊行政区域として興安省が設置されています。関東軍は蒙古の伝統的な牧畜経済を守る政策をとっています。外蒙古がソ連の援助(侵略)で人民共和国になりましたが、内蒙古は漢人の軍閥が農耕開拓を推し進めたため、遊牧民が暮らすための牧草地がどんどん減っていたのでした。興安省では農耕民の進入を阻止して、バルガ族、ダグール族などの遊牧文化を保護し、その伝統的行政組織には手をつけず、独自の軍隊の保有さえ自由にしています。そして多くの日系参事官が行政を監督し、熱心に衛生や教育の近代化に取り組んでいます。こういった面でも関東軍が民衆に受け入れら、満州建国がスムーズにいったことがわかるでしょう。

  一方、外蒙古ではソ連による破壊的大変革が行われたため、満州国へ脱走するケースは少なくなかったようです。外蒙古にはハルハ族、満州国にはバルガ族と分かれていましたが両民族は相反するものではありませんでした。

  ハルハ廟事件はスターリンが仕組んだものでしたが、その裏ではハルハとバルガの両民族が探りあい、交流を計ったようです。この事件を機に国境確定会議であるマンチューリ会議が開催されます。第一回から第五回まで開催され意見の一致は見ませんでしたが、出席した満州川蒙古人と外蒙古人の間で反ソの密約が出来上がり、情報をキャッチしたソ連は警戒し、出席を要求しました。
 この会議の満州国側代表はリンション興安北省省長でしたが、昭和11年(1936年)に逮捕され軍法会議にかけられ死刑となります。これは通敵行為があり、現在の歴史研究でも裏づけされているようで捏造ではないようです。このとき、満州国代表に守備隊長であるウルジン将軍もおり、事件に加担していたようですが、警備軍顧問の寺田大佐が懸命に奔走し、逮捕を免れています。マンチューリ会議の外蒙古側はサンボー全軍総司令官副官でしたが、この人はソ連から代表解任され、その後処刑されました。

  ウルジン将軍の軍事顧問であった岡本俊雄氏は次のように述懐しています。
「静かに満州国という国の枠を離れて蒙古人の立場で考えた場合どうだろうか。蒙古人の如く常に異民族に征服されて来た彼等にとって、誰にも侵されない、蒙古人は蒙古人だけの国をもちたい。つくりたい、という理想を彼等がもっておっても当然のことである」

  日本人にはこういった感情が強かったようです。リンション興安北省省長が逮捕されたとき他に五名が死刑判決となりましたが、二名は減刑となっています。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
 岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)

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 西部国境に配備されていた満州国軍の興安騎兵隊(PD)

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日本国憲法は無効

日本国憲法は憲法ではなかった。

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  現在の「日本国憲法」と呼ばれるものはGHQが作ったものです。1990年以降にワシントンの国立公文書館で、OSSの機密文書が再調査されたことにより、戦後の日本の政策はOSSというCIAの前身にあたるアメリカ戦略情報局による「日本計画」の流れの延長上にあります。このOSSの実体は共産主義者の巣窟で、第一条や第九条をはじめとするGHQ憲法の内容を含め、占領政策に多大な影響を及ぼしています。

  法律家、弁護士である南出喜久治氏は占領憲法(現、日本国憲法 GHQ憲法)は「憲法」としては「無効」である、と述べ、法的階説で言えば一番上位に帝国憲法が存在しており、次に占領憲法があり、そして一般の条約と法律があると論じています。つまり「占領憲法」=「GHQとの講和条約」であり占領を容易にするための中間的講和条約という実質を備えており、サンフランシスコ条約で占領が解かれたのだから復元しなければならないものの、全面否定はしない、としています。

  従来、占領憲法はハーグ陸戦条約の条約附属書第43条[占領地の法律の尊重]に抵触するので無効と言われてきました。

「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽すべし」


  しかし、南出氏はハーグ陸戦条約は大日本帝国憲法13条の一般条約大権に基づいて締結されているので、下位の規範にあたるとし、上位の帝国憲法の改正を無効とするのは論理の飛躍と矛盾があると指摘しています。

  南出氏の「無効論」は大日本帝国憲法(明治憲法)第七十五条に論拠をおきます。

  第75条 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス

  これは摂政を置いているときは憲法を改正できない、とするものです。摂政というの天皇陛下に御不例(病気)があったというような場合に置かれるものです。占領期には摂政はいませんでしたが、この第七十五条は天皇大権を行使し得ない、そのような国家の予期しうる通常の変局時には憲法は改正できないというものですから、軍事占領下という天皇大権が行使できない、独立を奪われた異常下において、第七十五条が適用(類推適用)され、憲法改正はできないというわけです。つまり、憲法改正できないのだから占領憲法は憲法として無効になります。

  では占領憲法はどのような位置づけかというと憲法の直系としての法律ではなく「講和条約」の位置づけとしています。講和条約は国家存亡の折、国家を存続させるために、ある程度、憲法に抵触したとしても締結すべきもので、マッカーサー草案強要から政府原案の作成、国会審議の具体的経過を見れば、占領憲法というのはGHQの占領統治を容易にするための中間的講和条約という実質を備えています。ですから、全面否定しているわけではなく、占領憲法に基づいた法律がすべて無効になるというわけではありません。

  南出氏の「無効論」は私の感じる限り、このところ急速に認識され始めています。政治家でもこの無効論を支持する人が何人かいます。「改憲論」「自主憲法論」もありますが、占領憲法の「改憲」も「自主憲法」も憲法の正統性は保たれません。改正するのであれば明治憲法を改正すればよいのです。明治憲法は自主憲法であり、自主憲法論もその内容を明治憲法改正に向ければよいわけです。「護憲論」も占領憲法でよい部分があるというのなら、その内容を明治憲法の改正内容に向ければよいのです。

  日本国としての正統性、それを維持するためにまず行うことは明治憲法が「憲法」であり、占領憲法は「憲法」としては無効であり、講和条約あるいは占領基本法の位置づけであることを認識することでありましょう。急速に認識されだした「無効論」、近いうちに大きなことが起こるかもしれません。



参考文献
  ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
  総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
  展転社「戦後日本を狂わせたOSS日本計画」田中英道(著)
参考サイト
  WikiPedia「ハーグ陸戦条約」
  国立国会図書館 大日本帝国憲法 http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html

添付写真
  ダグラス・マッカーサー(PD)

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新無効論 「日本国憲法」は講和条約 (2-1) 南出喜久治 http://www.youtube.com/watch?v=3pc-SCJncLk


新無効論 「日本国憲法」は講和条約 (2-2) 南出喜久治 http://www.youtube.com/watch?v=Qw_ofGRny-Y

白洲次郎のジープウエイ・レター

従順ならざる唯一の日本人、白洲次郎。

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  戦後占領下、終戦連絡中央事務局・次長の白洲次郎はGHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。GHQ憲法に抵抗した白洲次郎の話はNHKで紹介され、テレビドラマでやっていたのでだいぶ有名になってきたでしょう。その中で「ジープウエイ・レター」の話は有名です。国立国会図書館に「ジープウエイ・レター」を見ることができますが、私の手持ちの書籍のジープウエイの絵とはちょっと違います。書き写しなどのためでしょうか。

  昭和21年(1946年)2月3日に憲法改正案(松本案)がGHQへ提出されましたが、それから10日後に民政局ホイットニー准将より"マッカーサー草案"を提出してきました。このとき幣原首相と松本国務相はこの草案はひとつの案だと捉えていました。しかし、白洲次郎はホイットニー准将に面会し、"マッカーサー草案"は指令であることを感じます。それを松本国務相に話をしたところ、松本国務相は手元の紙片に絵を描いて白洲次郎に示しました。その絵がこの「ジープウエイ」です。そして白洲次郎はホイットニー准将にこの絵を添えて手紙を書きます。

「彼をはじめ閣僚は貴下のものと彼らのものとは、同じ目的を目指しているが、選ぶ道に次のような大きな差異があると考えています。
  貴下の道は、直線的、直接的なもので、非常にアメリカ的です。彼ら(日本政府閣僚のこと)の道は回り道で曲がりくねり、狭いもので、日本的にであるに違いありません。
  貴下の道はエアウエイ(航空路)といえましょうし、彼らの道はでこぼこ道を行くジープウエイといえましょう・・・松本博士は、その感想を次のよう(な絵)に描きました・・・」


  これはホイットニーには時間稼ぎと思われ、極めて強い返書が返されました。

「あなたのお手紙では、13日に私がお渡しした文書(マッカーサー草案)を『あまりに急進的な』という言葉で形容されているが、そのような言葉でも表現できないほどに厳しいものになり、最高司令官がお渡しした文書で保持できるよう計らっておられる(日本の)伝統と体制さえも、洗い流してしまうようなものとなるでしょう」(マッカーサー草案が受け入れられない場合のことを言っている)

  もはやこれは恫喝でしょう。これにも白洲次郎と松本国務相ひるまず、返書を書いたところ、48時間の期限付き最終通告を出しました。幣原内閣は揺れに揺れて2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、受け入れを決定します。3月4日、再度松本案をGHQに提示しましたが、GHQのホイットニーやケーディスが不快感を示し、マッカーサー案を日本語化し、討議が行われ、ファイナルドラフトが作成されました。そして3月6日に閣議で新憲法の最終草案が了承され、発表されると間髪いれずにマッカーサーは声明を出します。

「天皇、政府によって作られた新しく開明的な憲法が、日本国民に予の全面的承認の下に提示されたことに深く満足する」

  このGHQ憲法には日本を管理する為の政策機関として設けられた極東委員会からも「国民は憲法を理解していない。時期尚早である」と反発があがります。しかし、マッカーサーは拒否。強引に押し通しました。
  4月10日の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなりましたが、GHQは鳩山一郎を公職追放にし、吉田内閣ができました。そして8月24日、GHQ憲法は衆議院で圧倒的多数により可決してしまいました。議場では多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしました。



参考文献
  講談社文庫「白洲次郎」北康利(著)
  河出書房新社「白洲次郎」
     『独立秘話を知りすぎた男の回想』白洲次郎
     『白洲次郎の抵抗』児島襄
  新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)
参考サイト
  WikiPedia「日本国憲法」「鳩山一郎」
  Letter from General Whitney to Mr. Shirasu, dated 16 February 1946, answering "jeep way letter"
      http://www.ndl.go.jp/constitution/e/shiryo/03/081/081tx.html

添付画像
  「ジープウエイ」国立国会図書館 ハッシー文書より
      http://www.ndl.go.jp/constitution/library/06/hussey/hussey_183l.html

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「国民主権」の危うさ

国民主権の正体。

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 現在、日本国憲法には「国民主権」がうたわれています。

前文

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

 第一条にも「国民主権」が書かれています。


第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 この国民主権について学校教材用の本を見ますと次のように説明されています。

「『国民主権』などといった場合の主権には、国の政治のあり方を最終的に決定する権力、という意味があります・・・したがって、日本国憲法では、日本国民に国の政治のあり方を最終的に決定する権力をあたえているのです」

 私が子供の頃、憲法の話が書かれた本を読んだことがあり、「国の中で誰が一番偉いか」という問いかけがありました。内閣総理大臣?天皇陛下?国民主権だから国民が一番偉いんだ!という内容です。

 学校教材用の本を更に読みますと、次のように書いてあります。

「民主主義は、個人の価値を認め、個人の人格を尊重する『個人主義』が前提となって成立します。日本国憲法第13条に『すべての国民は、個人として尊重される』とあるのは、まさに、日本国憲法が個人主義を採用していることのあらわれだといえます」

 学校では「国民主権」「個人主義」を通して、「オレ様国民は主権者様だ!」と教えているわけです。

  弁護士の南出喜久治氏によると国民主権というのは非常に暴力的なものだと述べています。100人で構成される国家があり90人が残りの異端の10人を殺してしまうという法律を作ったとします。憲法も改正できるから10人を抹殺することを容認する、これが国民主権であり、人が神になり、そういう暴力が正当化されることがあるというものです。

  国民主権はロック、ルソーによって発展させられた概念で、ルソーは「社会契約論」の中で、「一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向する」としています。一般意志は契約者全体、つまり人民であり、それが主権であると言っており、「主権」は一般的契約(法)の限界を超えるわけにはいかないと述べています。
 しかし、国民主権は南出氏の言うように「国民の意志」自体が法であり、既存の法を一瞬にして無とし、無限定な力として暴走する危険性を持っています。ですから国民主権のような観念を憲法に持ち込むべきではないとする憲法学者が世界に多いといいます。

 南出氏はイエス・キリストの話もあげています。イエスは捕らえられてユダヤのローマ総督であるピラトの前に引き出されますが、ピラトはイエスに何の罪も認められず、しかも、ここでは死刑にすることは許されなかったのに、ユダヤ人の群集に煽られてイエスを十字架刑という極刑にしてしまいます。これが国民主権の源流だと述べています。

 GHQ製日本国憲法は「オレ様は主権者様だ」と国民に教えました。3年前に中華人民共和国の習近平氏が来日したとき天皇陛下が引見しましたが、鳩山総理(当時)、小沢民主党幹事長(当時)が1ヶ月ルールを無視したのが問題になりました。こうした行為は畏れを知らないGHQ憲法世代「主権者様」の特徴でありましょう。主権者様に選ばれた政治家なんだから天皇陛下は思いのまま動くモノだという意識の現れです。官僚を批判し、政治主導にするというのも「主権者様」に選ばれたという意識を持った政治家の奢りでしょう。本来、官僚だの政治家だの言う前に能力が問われるものです。

 「国民主権」によって主権者様となった日本国民はルソーの言う「公共的利益」を志向したでしょうか。否、「国民主権」は日本国民を傲慢不遜な個人主義に育て上げ、自由だの権利だのばかり叫び、"今だけ、カネだけ、自分だけ"のエゴ国民を作ってしまったのです。



参考文献
 日能研ブックス「日本国憲法」(東京出版『あたらしい憲法のはなし』復刻版より)
  ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
  中公文庫「社会契約論」ルソー(著)/ 井上幸治(訳)
  小学館「天皇論」小林よしのり(著)
  WiLL2010.3「本家 ゴーマニズム宣言 小沢も亀井も不敬な政治家」小林よしのり

参考サイト
  WikiPedia「国民主権」

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 ジャン=ジャック・ルソー(PD)

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不思議の国ニッポン!あるのにナイ、ないのにアル、自衛隊

自衛隊はまるで禅問答?

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 デュラン・れい子著「一度も植民地になったことがない日本」に、れい子さんの夫(オランダ人?フランス人?)がこう言っています。イラク戦争あたりの頃の話と思われます。

「なーんだ。やっぱり日本には軍隊があるじゃないか!」

 れい子さんの夫は昭和49年(1974年)に日本に来て日本の高度成長、日本人のエネルギッシュさに驚いていました。そのとき、日本には軍隊はない、と思っていたようです。


「いったい全体なんだったんだ、あの昔の日本人は!みなインテリでまじめな人たちだと思っていたのに」

「彼らは口をそろえて『日本は平和憲法だから軍隊はない』と言ったんだぞ。だが自衛隊は結局、軍隊と同じじゃないか!なぜ『軍隊はないが、自衛隊はある』と言ってくれなかったんだろう」

 れい子さんの著によると自衛隊のイラク派兵が決まって以来、自衛隊の存在がヨーロッパの一般の人々にも知られるようになり、驚きを隠さない人が多かったといいます。日本通のイギリス人は以下のように表現したといいます。

「あるのにナイ、ないのにアル。日本の自衛隊はまるで禅問答」


 さらにヨーロッパの人からすれば自衛隊のイラク派兵も銃も戦車も大国日本の軍隊がオランダ軍に守ってもらっているのも謎だし、日本が米国を支持したのなら犠牲も覚悟の上が世界の常識なのにサマーワが安全か否かの調査に行くというのは、何のことやら意味不明なのだそうです。イラク派兵については是非の議論はあるでしょうが、れい子さんは自衛隊の活動はテロが起きる前にやるべきではないか、日本がイラクとアメリカの話合いの場は作れないか、と問いかけて、大国日本は不思議の国になるばかり、と述べています。

 このような不思議の国ニッポンになってしまっているのはGHQ憲法第九条があるからなのですが、昭和25年(1950年)の朝鮮戦争で日本は警察予備隊を組織しています。これは再軍備であり、海上保安庁所属の特別掃海隊は13隻の掃海艇と323名の乗組員が、仁川奇襲上陸作戦に参加し、戦死者1名、重軽傷者18名を出しています。それまでマッカーサーなどが説いていたのは日本を非武装中立にして国連によって安全保障を確保すべき、というものでしたので、GHQ憲法は戦後占領下で既に破綻していました。破綻しているのに誤魔化し続けたため、不思議の国ニッポンになってしまったのです。

 実はGHQ憲法第九条は表向きは日本が白人の脅威にならないよう再軍備不可にしたものですが、裏には共産革命の意図が隠されていました。GHQに潜んでいた共産主義者(ピンカーズ)が将来日本で革命を起こしくする目的もあったのです。革命を阻止するのは軍隊ですから、邪魔だったわけです。マッカーサー(真っ赤ーさー)はこうしたピンカーズに操られていました。

 占領下で既にGHQ憲法は国際情勢に合わないものとして破綻していたにも関わらず、講和条約後も後生大事に抱えこんでしまったことは日本を不思議の国にしてしまったばかりでなく、日本国民を平和の豚にしてしまいました。GHQ憲法を早期に破棄しておけば、日米安保なども異なった形になっていたでしょうし、米軍基地問題も解決しやすかったでしょう。拉致問題も起きなかったでしょう。残したために「憲法第九条が平和を守った」などというGHQピンカーズの亡霊に取り付かれた妄想者が叫び、マスコミを通じて平和の豚が量産されてしまいました。

 昨今北朝鮮の核ばかり語られますが、中共(中華人民共和国)はミサイル300基の照準を日本に合わせており、核弾頭も含まれているといいます。東シナ海を脅かす中共はマラッカ海峡へもミサイルの照準を合わせています。インド洋にも中共の軍艦がうろうろしています。人民解放軍の海軍は東シナ海を南下し、太平洋の制海権を得ようとしています。どれも日本のシーレーンです。航行が制限されたり、遮断されれば日本国民の台所に直結する話です。中共にとって目障りなのは沖縄の米軍基地。与那国に自衛隊配置させたくないのも中共。日本はどうすればよいか自明の理でしょう。日本はまずは普通の国家に戻るべきです。



参考文献
 講談社α新書「一度も植民地になったことがない日本」デュラン・れい子(著)
 ビジネス者「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
 光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇 義朗 (著)
 転展社「戦後日本を狂わせたOSS"日本計画"」田中英道(著)
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 護衛艦「こんごう」からのRIM-161(SM-3)の発射(PD)

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GHQ憲法記念日は屈辱の日

外国から押し付けられた憲法など屈辱と感じるのが普通。

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 5月3日は憲法記念日です。「日本国憲法」と呼ばれるGHQ製の憲法は「白洲次郎」の物語の通り、「押し付け」であることが大分、日本国民に知られており、ありがたがる人は一部のマルクス主義系の思想の人やマスコミぐらいでしょう。
 最近ではアメリカの資料公開によってOSSというアメリカ戦略情報局によって作成された「日本計画」にもとづき戦後直後のGHQによる日本統治が進められてきたことがわかっています。その中にフランクフルト学派と呼ばれる知識人向けマルクス主義者が多くおり、その流れをうけてGHQのピンカーズ(赤い奴)が日本の伝統を破壊し、共産革命に導くために日本国憲法は作られました。

 GHQ憲法の英語原文を見たとき松本国務相は幣原首相にこのように述べています。

「総理、実に途方もない文書です。こんな憲法はいまだかつて見たこともない。こういうものを決めては、わが国は混乱するばかりです。まるで共産主義者の作文ですよ」


 GHQ憲法のマッカーサー案にはこんな条文がありました。

Article XXVIII. The ultimate fee to the land and to all natural resources reposes in the State as the collective representative of the people. Land and other natural resources are subject to the right of the State to take them, upon just compensation therefor, for the purpose of securing and promoting the conservation, development, utilization and control thereof.
第二十八条 土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス
国家ハ土地又ハ其ノ他ノ天然資源ヲ其ノ保存、開発、利用又ハ管理ヲ確保又ハ改善スル為ニ公正ナル補償ヲ払ヒテ収用スルコトヲ得


 共産主義の考え方が見事に入っています。また、
「第十六条 外国人ハ平等ニ法律ノ保護ヲ受クル権利ヲ有ス」という条文もあり、これはインターナショナリズムです。フランクフルト学派の思想はインターナショナリズムです。この条文含めて外国人利権に関わるところは白洲次郎や法制局の佐藤達夫の懸命の努力により削られました。

 GHQ憲法の首魁はGHQ民政局のケーディス大佐です。彼はユダヤ人であり、OSSに所属していました。ケーディス大佐はGHQが反共に転換した後、帰国しますが、国務省にジョージ・ケナンを訪ねたとき、ケナンはケーディスに向かってこう言います。

「あなた方は日本を共産主義にしてソ連に進呈しようとしていたのだという噂もありますよね」

 ケーディス大佐は失脚し、二度と日本に戻ってきませんでした。ケーディス失脚の経緯を聞いた前第八軍司令官R・アイケルバーガー中将は厳しいコメントを残しています。

「彼は日本人に手本を示した。空虚な理想主義者は奢りと腐敗におぼれて自滅するという手本だ」


  GHQ憲法は英文を一夜で訳したせいか、憲法前文もよく読まないと何が言いたいのかよくわかりません。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」


  この部分は日本以外の国はすべて平和を愛する国だといっており、「生存」まで他国に預けるような言い方をしています。日本には主権がないような言い方です。また日本だけ悪い国で他の国はいいくにだ、とも解釈でき、日本が悪さしなければ平和なんだと言わんばかりです。

 GHQ統治下の日本には主権がなく、その時に日本の憲法が勝手にGHQによって作られたのですから、憲法としての正統性はありません。ポツダム宣言にも憲法を変えてよいことなど書いていません。また、占領下は明治憲法第75条の類推適用により憲法の改正は不可の状況であり、GHQ憲法は憲法としては無効になります。

 戦後占領下、米国GHQは共産主義者の作文憲法を日本に押し付け、プレスコードによって憲法批判を禁じ、公職追放という恐怖で言論を封じました。憲法記念日は屈辱の日なのです。しかし、多くの日本人はGHQが作ったウソの歴史を前提に「GHQ憲法はすばらしい」と洗脳され憲法記念日を祝ってきたのです。



参考文献
  WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
  「歴史通」WiLL 2009.3『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
  総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
  ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
  岩波書店「日本国憲法の誕生」古関彰一(著)
  転展社「戦後日本を狂わせたOSS"日本計画"」田中英道(著)
参考サイト
 国立公文書館 3-15 GHQ草案 1946年2月13日 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html
  WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」

添付画像
  ダグラス・マッカーサー(PD)

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【絶対正義GHQ】 http://www.youtube.com/watch?v=wEpg_n_MiYY

聖帝オホサザキと昭和天皇

2000年、伝統は受け継がれた。

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  オホサザキ(仁徳天皇)は日本の第16代天皇(在位:313年2月14日-399年2月7日)です。都市を発展させ善政を敷いたため聖帝として名高い天皇です。

  あるときオホサザキは高い山に登り、山上から国を眺め国情視察を行いました。するといずれの家からも煙が立ちのぼっていません。この情景から人々が貧しいため、煮炊きができないと判断した天皇は3年間、税や使役を免除しました。
  その間、天皇も耐え忍びました。御殿が破損して雨漏りがしても修復せず、桶で雨を受けました。また、天皇自身が雨漏りのない箇所に移るという具合に自ら苦労されています。
  この仁徳天皇のあたりから天皇は宗教的な神に近い存在から、統治上の具体的な解決を示す統治者に変化してきています。そしてその特徴は人民を思いやる慈悲深さであり、天皇自らも体験して分かち合うということにあります。

  仁徳天皇のこの話は昭和天皇に通じるものを感じます。

「朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。」昭和20年8月15日 終戦の勅書 (赤誠・・・少しもうそや偽りのない心 信倚・・・信頼)

「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す」昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書の一文より。(休戚とは喜びも悲しみも、という意味)

「皇太子以下たべ盛りの子供たちはそうもゆくまいが、私の食事だけは国民と同じ配給量にしてくれ」
    ・・・戦後まもなく

「戦災の国民を考えれば私は平気だ。十日間ぐらい風呂に入らなくても構わない」
    ・・・昭和21年6月6日 巡幸に際して貨物駅に列車を止めて仮宿泊


「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物着たって当たり前だが、日本は負けて、今みんな着るものも無くてこまっているじゃあないか。洋服なんか作る気になれない」
    ・・・昭和22年夏東北巡幸を前に侍従長に洋服の新調を勧められて。

  昭和天皇は昭和19年暮れより、防空施設として造られた御文庫に住まいを移されますが、終戦後も国民に住居がいきわたるまでは、と吹上御所に戻るのを断り続けました。

「公の仕事をするには手狭なところがあるが、私生活に不自由はない、引揚者や戦災者のことを思うとそんなもの(新居)を別に造るときではないと思います」
    ・・・昭和22年6月3日 文庫の手狭な様子について宮内庁記者の質問に答えて。


「家が建ったね」
    ・・・昭和22年12月広島行幸 広島の街を眺めながら。

  昭和36年12月に新たに建てられた吹上御所に移られました。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」



参考文献
  PHP文庫「日本の神話と古代史がよくわかる本」日本博学倶楽部(著)/ 島崎普(監修)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)

参考サイト
  WikiPedia「仁徳天皇」

添付画像
  大仙陵古墳(「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より)

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昭和天皇香淳皇后その2
www.youtube.com/watch?v=hnOvL2gOPVo

昭和天皇とマッカーサーは親密だったのか

昭和天皇が国民に語りたかったこと。

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  昭和天皇とマッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。

  マッカーサーが解任されたとき昭和天皇はアメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。

共同通信 昭和26年4月15日
「玄関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやかにご歓談された」

  こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどというのを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。

  月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。

  昭和50年(1975年)、昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。
  訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウスの天皇歓迎ディナーの招待を断りました。

  明らかに昭和天皇はマッカーサーを拒否しています。

  昭和天皇はこのときの訪米を前に外国人記者団とこんなやりとりをしています。
記者
「陛下は、過去30年間における日本人の価値観の変化をお感じになりますか」
陛下
「戦争の終結以来、いろいろな人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし、広い観点からみるならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません(略)」

記者「陛下は先の質問に対するお答えで、戦前と戦後の変化はないとおっしゃいましたが、これは日本が軍事大国に復活する可能性があると、お考えになっていることを意味しているのですか?」
陛下
「考えていません。日本国憲法は日本が軍事大国になることを認めていません」

記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下
「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」

記者「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」
陛下
「いいえ、私はその可能性についてはまったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです」

  私はこれらのことを見るとGHQの政策によって洗脳され骨抜きにされた国民に対して昭和天皇はこういいたかったのではないかと思えてなりません。

「マ元帥の意思は朕の意思にあらず。日本には伝統的によいものがあり、国民は自信と誇りをもってそれを大切にせよ」 


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  「新潮45 2009/9」『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』川西秀哉
添付画像
  昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)

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【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2 www.youtube.com/watch?v=qw8N_zqbPoQ

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談

伝統によって育まれた品格。

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  添付の写真を見たことのある人も多いでしょう。この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されました。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

  この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。

作家 高見順
「かかる写真はまことに古今未曾有」

歌人 斉藤茂吉
「ウヌ!マッカーサーノ野郎」

  しかし、皇太子殿下(今上天皇)とご学友は奥日光に疎開していましたが、この写真を見るなり口々にこう叫んだというのです。

「日本が勝った!」
「マッカーサーはネクタイもしないで礼儀をしらない!」
「成り上がりの田舎っぺ!」
「アメリカはあの程度の国か!」
「日本は礼節の国だぞ!」

  皇太子殿下の前なのでご学友が気を使ったとも考えられますが、よく考えると皇太子殿下やご学友の感想は的を射ていると思います。といいますのは、日露戦争の旅順戦の水師営で行われた乃木希典・ステッセル会談を思い浮かべるからです。水師営で乃木将軍は敗軍の将にも帯刀を許し、最大限の礼をもって迎えています。会見写真は一枚も撮らせませんでした。このことは世界を驚愕させました。これは明治天皇の指示によるものです。当然、大東亜戦争当時も日本はこの精神を継続しています。ちなみに、マッカーサーの父は旅順戦に観戦武官としていましたので、マッカーサーはこの話を父から聞いているはずですが、何も学習していないと言えます。対して昭和天皇は乃木将軍より教育を受けています。

  日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉えた写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです。マッカーサーは昭和天皇が命乞いにきたと思っていました。

昭和天皇「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」(マッカーサー回想記)

 この会見の内容は口外しない約束でしたが、マッカーサーはベラベラしゃべりました。昭和天皇は昭和52年(1977年)に記者からマッカーサーとの会見内容について聞かれ、「マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした」「男子の一言は守らなければならない」とお答えになり、生涯口外することはありませんでした。


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
参考サイト
  WikiPedia「乃木希典」

添付写真
  昭和天皇とダグラス・マッカーサー 第一回会見のときの写真(PD)


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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1 http://www.youtube.com/watch?v=Ux7vS2P18kY

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