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07.大東亜戦争・支那

外国を干渉させろ ~ 第二次上海事変

第二次上海事変は支那が仕掛けた戦争だった。

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 昭和12年(1937年)8月13日から始まった第二次上海事変で蒋介石軍のドイツ軍事顧問団は上海から撤退するよう蒋介石に進言しますが、蒋介石は
「面子だ、面子」「世界の前で私は面子を失うだろう。外国の驚くべき宣伝を見たまえ。そうはできない。干渉させるチャンスなんだ」と拒否しました。

 蒋介石軍はなんとか外国の干渉をいれようとさまざまな試みを行います。日本軍を攻撃する以前の12日に支那は日本総領事と商社の電話線を切断します。13日に支那軍88師が租界から外に通じる道路をすべて遮断しました。これにより一般市民も閉じ込められることになります。そして支那軍機は英国人経営のキャセイホテルやパレスホテルに爆弾を投下します。これによって民間人2000人ほどの死傷者がでます。支那軍はバリケードや建物、移動車両の上に外国の旗を掲げさせるという暴挙まで行います。密集市街地の中心に塹壕を掘り、外国人の資産を遮蔽物にして銃を備え付けて、銃眼のついた胸壁に第三国の旗をたてました。こともあろうに支那の民間人が建物の中にいっぱいになるとそれをバリケードとみなして支那軍は移動してきて射撃を始めるということまでやっています。何度も何度も日本側は支那軍に市民に近いところから戦闘地域を移動するように要請しますが、支那軍は拒否します。米国の新聞は支那の陰謀を隠し「新しい統一された支那が日本と闘っている」として日本軍の爆撃を見出しに掲げて金切声をあげたものもあったといいます。

 しかしながら蒋介石の目論見通りにはいかず、日本海軍陸戦隊は10日間もの間、不眠不休で10倍の敵と戦い、日本人居留民を守り抜きました。日本人居留民も土嚢を作るなどして必死に日本軍を助けました。陸戦隊が負ければ通州と同じように全員虐殺されていたでしょう。8月23日に日本陸軍の上海派遣軍が上陸しました。陸戦隊の大健闘です。

 8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節 NYタイムズ8月31日
「7月はじめに北京郊外で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実はひとつしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んではおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできるだけの努力をした。だが日本軍は支那軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。支那軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中で巻き込もうとする意図があるかのように思えた」

「"外国人は日本を支持" 上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々な会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、皆、以下の点に同意するだろう。
 日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸数日の間、兵営の中から一歩も出さなかったのである」


  この頃のNYタイムズは反日的だったといいますから、支那が明確に一方的に攻撃し、あまりにも卑怯で残忍だったということでしょう。しかしながら、現在の日本の言論空間はこの第二次上海事変から日本が支那を「侵略」したことにしています。



参考文献
 展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著/ 田中秀雄(訳)
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著) / 茂木弘道(訳)
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」

添付写真
 空爆によって炎上中の上海。日支どちらの空爆かは不明。手前は米国アジア(極東)艦隊旗艦の軽巡洋艦オーガスタ。(PD)

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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00

恨みは深し通州城

学校では教えない、マスコミも語らない通州事件。

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 日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件がありましょうか。昭和12年(1937年)7月29日、支那保安隊による日本人大虐殺が行われました。「通州事件」です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(支那人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。例えば岩波新書「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子(著)を開きますとこの事件については一切触れていません。山川の高校教科書「日本史」にも一切書かれていません。

 昭和10年(1935年)11月に冀東防共自治委員会が成立しています。殷汝耕(いん じょこう)が委員長に就任します。保安隊の第一総長は張慶餘(ちょう けいよ)で、第二総長は張硯田です。12月に冀察政務委員会が発足して宋哲元が委員長になると二人は宋に会い、抗日決意を述べ、宋哲元は軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれ、と命じカネを渡します。つまり、通州の保安隊は秘密裏に冀察の宋哲元とつながっていたのです。

 昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が勃発すると保安隊は宋哲元の第二十九軍の開戦に呼応して通州で決起するよう指示をうけ、第二十九軍の戦闘序列に編入になります。そして保安隊3000人は通州城に集結します。7月28日夜12時、通州の城門は閉じられ、通信、交通とも遮断されました。
 このとき南京放送で
「日本軍敗走」「冀東を攻撃、殷 汝耕を血祭りにする」というデマが流れており、デマを信じた保安隊の抗日態度は決定的になっていました。29日払暁、保安隊は手薄な日本守備隊を攻撃し、日本人民間人を殺戮しました。

  これには日本軍の支那二十九軍宝通寺部隊への爆撃にミスがあり保安隊を誤爆したことを原因とする説がありますが、誤爆は27日のことで、直ぐ特務機関長が冀東政府の殷汝耕に陳謝し、機関長自ら現場を視察し、遺族の弔意に奔走し、保安隊幹部一同に対して誤爆を釈明し慰撫に努めているので、日本人虐殺の契機になったとは考えにくいです。

 通州大虐殺は29日明け方から始まり、日本人はなぶり殺されました。午後4時になってようやく日本軍機が爆撃を行い、保安隊は通州から撤退します。救援部隊が到着したのは30日の朝でした。日本人は頭部を切り落とされたり眼球をえぐり取られたり、胸や腹を割られ内蔵を引き出され、陰部を突き刺されるなど極悪無道の殺され方をしました。日清戦争以来の支那のお決まりの虐殺手口です。

 当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ
「日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」

「この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし、120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し自分の拷問者を見れなくした。アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクオイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった」



参考文献
 展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著/ 田中秀雄(訳)
参考サイト
 WikiPedia「通州事件」

添付画像
 通州事件の生存者(PD)

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恨みは深し通州城 奥田英子
http://www.youtube.com/watch?v=NG3TOn9uuAk

日本を戦争に引きずり込め ~ 盧溝橋事件

明らかな戦争挑発。日本の侵略はない。

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  昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件が勃発しました。北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と支那国民革命軍第二十九軍との衝突事件です。これは支那共産党の策略と見て間違いなく、前年の西安事件によって蒋介石は命を助けてもらうかわりに抗日に同意し、共産党員らが早く決起するよう煽り立てたものです。

  盧溝橋事件より前に支那二十九軍は日本軍を各個撃破する計画をたてており、これは盧溝橋事件後に日本軍が計画書を発見しています。支那二十九軍は5月から増兵、トーチカなどの整備にあたっていました。副参謀の張克侠(共産党員)は積極的に日本軍撃滅を考えていました。張克侠は二十九軍10万の兵力をいくつかの集団軍に編成し、北京、天津、チャハルの三戦区にわけ、この地区に分散配置している日本軍を撃滅した後、機をみて山海関に出撃し、満州攻略を考えており、この計画を支持していたのが、共産党の指導者である劉少奇書記です。

  事件発生後、日本軍の憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが土砲と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事件拡大を策していたことが判明しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は
「劉少奇の指導を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書に記してあります。

  モスクワのコミンテルン本部は盧溝橋事件勃発をうけ、次のような指令を発しました。

1.あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならない
2.右目的の貫徹のため、あらゆる手段をりようすべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、彼等に行動をおこさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち判らしめなければならない。
4.党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。
5.党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。


  共産党員はこの指令に基づいて幾度も停戦協定をやぶり、日本からの和平の働きかけを悉く壊していったのでした。

  当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ

「日本人虐殺は続いていた。掠奪、殺人が継続した。そして盧溝橋で日本軍が銃撃された。中国共産党がこれをやった。火をつけて引火させたのだ」

「(これまでの抗日テロにたいして)日本は今度は迅速に対応した。共産主義者は後退し、南京の軍閥の統治下に呻吟(しんぎん)していた北京市民は、日本との門が開かれたことを喜んだ。彼らは蒋介石の北京抹殺計画を知っていた。また世界では知られておらず、中国人は皆知りたがっていたことだが、蒋介石はモスクワの共産主義と平和協定を結んでいたということも知った。中国共産党は権力の座に昇ろうとしていたのだ。中国共産党は蒋介石と日本を戦わせようとし、戦争に引きずり込んだ。思ったとおりになった。しかし北京の市民はこれらの共産主義者に抵抗した。町が共産主義者に乗っ取られたならば、南京に屈従しなければいけないし、反日軍閥に救いを求めばならない羽目になるのだ」




参考文献
  展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著/ 田中秀雄(訳)
参考サイト
  WikiPedia「盧溝橋事件」
添付画像
 盧溝橋の国民党革命軍部隊(PD)

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実録 支那事変 1/4
http://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc

支那敗残兵の蛮行 ~ 第二次上海事変

支那軍の蛮行が日本軍の仕業としてすりかえて語られているのは要注意。

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 昭和12年(1937年)、8月13日支那便衣隊が日本海軍陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃射撃を浴びせていきました。第二次上海事変の勃発です。支那は対日全面戦争を仕掛けてきたのです。

 支那は十分な装備と弾薬を準備しており、トーチカと呼ばれるコンクリートで固めた陣地を構築し日本軍を誘引しました。そのため日本軍は大苦戦となります。11月5日、上海南方60キロメートルの杭州湾に面した金山衛に日本の第十軍が上陸。上海の街に「日本百万上陸杭州北岸」と縫い上げたアドバルーンがあげられました。これには支那軍が大きく動揺。9日には一気に崩れ、退却を開始します。退却といっても本来は途中に防衛線がいくつかあり、ドイツ軍事顧問団の苦心策「ヒンデンブルク・ライン」で態勢を立て直し、日本軍を迎え撃つことができます。しかし、支那軍は誰もそうすることはありませんでした。3ヶ月にわたる上海の戦いは終結しました。

 支那の兵たちは退却時にはそこらの民家に押し入り、めぼしいものを略奪した上で火を放ちました。日本軍に雨露しのぐ屋根と糧秣を残さないための作戦です。

 支那軍大元帥・蒋介石の日記には以下のように記されています。


「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(11月30日月間総括)

 この支那軍の行為は日本軍にすりかえられて述べられていることが多いので注意が必要です。三光作戦といい、日本軍が「焼き尽くす、殺しつくす、奪いつくす」という三光の作戦を展開したというものです。日本語の「光」に焼く、殺す、奪うという意味はなく、支那語にその付帯意味があります。辞書を引けばすぐわかります。日本軍が作戦名を支那語でつけることはありません。

 犬飼総一郎(第十六師団通信班長・陸軍中尉)

「自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫も29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も支那兵による略奪の跡歴然たるものをこの目で見た。いかにそれが物凄いか、すざまじいものか、全く想像外であった」

 一等兵戦死 松村益ニ(著)昭和13年10月

「『我々は常に第一線にあって進撃した。そして残虐の場面をみた。支那兵はわれとわが同胞をたたきのめすのです』
 僕たちは敵を撃退せしめた。彼等の部隊の宿舎になっていた民家を掃蕩したとき、家の中に支那の婦人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼らはどうして自分のきょうだいを虐殺しなければならないのか。僕たちには解くことのできない謎である。
 家の中は掠奪の嵐に足の踏み場も無い。
 支那の農民が殺されている。素裸に引き剥かれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ。
 小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけているのに泣いて抵抗した故なのであろう。
『おれたちの子供がこんな目にあわされたら・・・』」


 シナ軍の蛮行は南京へ続きました。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 小学館「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)

添付写真
 敗走後に首都南京を焦土とする支那の狂気を伝える当時の新聞 日新報道「南京の実相」より

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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00

陸軍上陸部隊の大苦戦 ~ 第二次上海事変

支那が仕掛けた大戦争。日本の侵略ではない。

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 昭和12年(1937年)、8月13日、午前9時半ごろ、支那便衣隊が日本海軍陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃射撃を浴びせていきました。第二次上海事変の勃発です。支那事変の始まりです。
 
 コミンテルンのスパイだった国民党の張治中は対日戦に備えて、上海の陣地構築を行い、軍事輸送のための車両と船舶を支配下におき、食料を作戦予定地に蓄えておくよう政府に要請しました。衝突が起これば、4,5師を上海正面に投入し、日本の陸戦隊を一気に殲滅し、揚子江岸に日本軍の上陸に備えて2個師を配備する計画を練ります。
 揚子江を160キロメートル遡った江陰に要塞を気づき、小山のふもとから幾重もの鉄条網、幾段ものトーチカ群を築き、頂上には32センチ巨砲を4門すえつけます。ドイツ軍事顧問団によって設計された最新式のものです。さらに遡った南京付近の要塞も改造し、ドイツから輸入した電動照準装置のついた高射砲が設けられます。こうして日本軍を上海におびき寄せ大戦争を行う準備ができあがり昭和12年(1937年)8月13日に本格実行されました。

 上海では7万の支那軍に4千の海軍陸戦隊が包囲されます。日本は名古屋第三師団と四国善通寺第十一師団を派遣しました。上陸した陸軍部隊は要塞化された部落を目の前にし足踏みします。それどころか夜になると支那軍が夜襲をかけてくるのです。
 支那軍はチェコ製の軽機関銃を持ち、日本軍が近づくと弾のカーテンを作るぐらい惜しみなく弾を使いまくり、各自十数発の手榴弾を持ち、日本軍へ突撃して手榴弾投げまくります。日本軍は攻めあぐね死傷者が増大していきます。支那には一般民のゲリラもおり、これも日本の作成遂行を困難にしました。また支那軍には督戦隊というのがおり、前線の兵士が命令無く後退すると射殺するのです。このため、死に物狂いになって攻撃してきました。

 さらに敵は支那兵だけでなくアメーバ赤痢というのもいました。生水を飲むことは禁止されていましたが、乾きに耐え切れず飲んだものはアメーバ赤痢にかかり、簡単には治りません。コレラも発生し、嘔吐と下痢でついていけなくなる兵が続出しました。トーチカと病気に阻まれて上陸軍は身動きが取れない状態となります。

 9月に入り、日本軍は三個師団の追加を決定。その後、更に三個師団、そして一個師団を追加増援して合計九個師団の大軍となります。何が起こっているかよく飲み込めていない軍首脳部は不拡大方針にこだわり、兵を逐次投入してしまうという愚行を犯してしまいます。そして戦死者9,115、負傷者31,257という日露戦争の奉天戦に匹敵する損害を出すことになってしまいました。この後の南京戦をあわせると戦死者21,300、戦傷者5万余にも上ります。

 名古屋駅、岐阜駅、静岡駅、豊橋駅に白木の箱を首からつるした兵士が大勢降り立つようになります。何百ものおびただしい数です。この光景に国民もようやく上海戦の苦戦を知ることになりました。
 


参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」

添付写真
 上海事件で出動した日本海軍陸戦隊(PD)

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日本人居留民を守り抜いた海軍陸戦隊 ~ 第二次上海事変

第二次上海事変勃発。支那事変は支那が仕掛けたもの。

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 昭和12年(1937年)8月9日、支那国民党の張治中(共産党工作員)によって、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が殺害されました。7月7日から勃発した盧溝橋事件からの日支衝突の和平交渉の最中の出来事でした。明らかな支那の挑発でした。支那軍は3万の軍で上海の日本租界を包囲。対する日本は陸戦隊わずか4千。 日本領事館は在留日本人を小学校や歌舞伎座、旅館、東西本願寺に避難させます。

 8月13日午前10時30分、商務印書館付近の支那保安隊が日本の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせてきました。日本軍はできるだけ交戦を避けようとします。午後5時54分、八字橋から支那軍が急襲してきます。これは爆破を伴う本格的なもので、陸戦隊は遂に反撃を開始しました。

 この第二次上海事変はコミンテルンの策謀であり、国民党に潜伏した張治中が指揮しています。日本人居留民を包囲し、日本軍をおびき寄せ、大戦争をおっぱじめようとするものです。蒋介石としては日本を叩いて屈服させ、条約を全部無効にしたいという意思が働いていました。日本はこうした意図を読み取れず、不拡大論、戦線拡大論が交錯することになります。

 上海ではドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った支那軍に対して寡兵の陸戦隊が大奮戦します。八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退しています。
 一般日本人居留民はどんどん引き揚げさせましたが、通州の大虐殺が再現されるかもしれないとの恐れから、残っているひとりひとりの日本人に警備がつけられ、汽船やブロードウエイマンションに避難させます。それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の吹き出しに従事し、残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作ります。

 16日には支那軍が大挙して陸戦隊本部へ押し寄せますが、日本軍は戦車と装甲車を使って防戦。その後も支那軍は攻撃を続け、当初の2個師から3個師を加え、7万の大部隊まで増強します。寡兵の日本陸戦隊は常に守備について休むことも睡眠をとることもできません。日がたつうちに損耗と疲労はたまってきます。
 ようやく18日と19日に横須賀と呉の特別陸戦隊が上海へ到着。これでもまだ合計6千3百名で、支那軍の1/10の戦力です。
 22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破されます。しかし、日本軍は必死に応戦し、夜明けとともに支那軍の攻勢もやみます。更にその夜からも支那軍が各戦線で攻撃を行い、23日にわたり激戦となりますが、陸戦隊はかろうじて防衛します。

 23日に待ちに望んだ日本陸軍部隊が上陸を開始します。陸戦隊は守り切ったのです。25日以降は支那軍は日本陸軍の部隊を攻撃目標にせざるを得ず、それまでのように陸戦隊に積極攻撃に出てくることはなくなりました。第二の通州の惨劇を免れることができたのです。

「緒戦の一週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」後日、蒋介石はこう悔やんだといいます。

ニューヨーク・タイムズ8月30日
「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」

ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙9月16日
「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」

 日本の侵略などどこにもありません。


参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」

添付画像
 「大山中尉射殺事件」(昭和12年8月9日)<上海で支那保安隊に、大山勇夫中尉と斉藤一等水兵が惨殺された> 日新報道「南京の実相」より

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Battle of Shanghai 1937 1of 4 Background of Battle
http://www.youtube.com/watch?v=K4qfH8tf4cQ

Battle of Shanghai 1937 2of4 Beginning of Battle
http://www.youtube.com/watch?v=PObxULJSOVg

Battle of Shanghai 1937 3of4 Air Operation of IJNAF
http://www.youtube.com/watch?v=ucaZM0-5IN0

Battle of Shanghai 1937 4/4 Landing Operation of IJA
http://www.youtube.com/watch?v=dGmeFA55e98

抹殺された歴史「通州事件」

日本人が被害を受けた歴史は抹殺されている。

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 昭和12年(1937年)7月29日、北京郊外の通州で日本人約230名が虐殺されました。「冀東防共自治政府」保安隊(支那人部隊)約3,000人が110人の日本軍部隊・特務機関を襲撃し、続いて日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)虐殺した事件です。

 7月7日に盧溝橋事件が勃発し、冀察(きさつ)政務委員会の宋哲元は蒋介石の命令によって北京を死守するように言われていましたが、持ちこたえれず北京を脱出。そのとき、天津の第三十八師、通州の保安隊に攻撃命令を出していました。通州の保安隊は冀東政府の軍隊でしたが、裏で冀察政府の宋哲元とつながっており、盧溝橋事件が勃発すると宋哲元の第二十九軍に編入されていたのです。はやい話、保安隊は表面は親日を装いながら日本軍撃滅の機会を狙っていたということです。天津の日本軍は寡兵ながら防戦し、日本軍機が支那軍の本拠地を爆撃し防ぐことができましたが、通州は間に合わず、大惨劇となりました。

 日本人救出のため現場に急行した日本軍人の証言の一部
「場内は実に凄愴なもので至る所に無残な日本居留民の死体が横たわっておりまして殆ど全部の死体には首に縄がつけられておりました。頑是なき子供の死体や夫人の虐殺死体は見るに耐えませんでした」
「旭軒という飲食店をみました。そこでは四十から十七、八歳までの女、七、八名は皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されておりました。その中、四、五名は陰部を銃剣で突き刺されておりました。家の入り口には十二、三歳ぐらいの男子が通学姿で射殺されていました。家の中は家具、布団、衣類など何もなく略奪されていました。」


「市中のカフェーにおいて(中略)ひとつのボックスの中に真っ裸の女の死体がありました。これは縄で絞殺せられておりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されておりました。子供は手の指をそろえて切断されておりました」


 これは後の東京裁判で証言された一部です。東京裁判では他の証拠資料あわせて受理されることはありませんでした。あくまで日本は加害者でなければならず、連合国の都合の悪いものは却下です。

 私は通州事件を学校で教わったことはありません。現在でも年表など見ても載っているもののほうが少ないのではないかとおもいます。自由社の歴史教科書を見てみましたが、記載されていませんでした。山川の高校教科書も見てみましたが、記載されていませんでした。以前、新宿の平和祈念展示資料館の年表をチェックしましたが、載っていませんでした。

 通州事件は東京裁判でかき消され、日本の歴史から抹殺されました。当時、日本は条約に基づいて北京に軍をおいてました。盧溝橋事件は支那の挑発であり、背後にはコミンテルンがいます。支那は通州で日本人大虐殺をやりました。上海でも支那から戦争をしかけています。日本の侵略などありません。日本は被害者なのです。しかし、東京裁判で被害者であるはずの日本の姿は消去され、侵略者である、加害者であると捏造され、南京大虐殺などという大嘘がばら撒かれて今日に至っているのです。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『酸鼻極めた通州事件』田中秀雄
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「通州事件」

添付写真
 日本軍により安寧を取り戻す通州(PD)

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通州事件の真実 01 Sさんの体験談 1-5
http://www.youtube.com/watch?v=U7vJtEzXo_g

通州事件の真実02 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=8lFoaBcKAPY

通州事件の真実03 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=lVkRoG8NAn0

通州事件の真実04 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=xpv2a9s_mfU

通州事件の真実05 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=WcINl5PCAMA

支那が仕掛けた盧溝橋事件

戦争を仕掛けたのは支那だった。日本が侵略したというのはウソ。

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 明治33年(1900年)の義和団事件以来、北京から天津一帯に、日本や欧米の軍隊が条約に基づいて駐屯していました。支那は外国人居留民を保護できる能力がなかったからです。

 昭和12年(1937年)7月7日、日本の一個大隊が間近に迫った司令官の検閲に備え北京郊外で夜間演習をしていました。近くに永定河が流れ、そこに架かる盧溝橋から数百メートルのところに宛平という町があり、その北の龍王廟付近で演習していたところ、堤防あたりから、突然、数発の銃弾が打ち込まれました。日本軍が集合ラッパを吹くと、再び弾が飛んできました。(死傷者なし)
 日本側は東京の参謀本部に連絡し、支那へ軍使を派遣して直接謝罪要求をすることになりました。北京を含む二省は冀察(きさつ)政務委員会が行政権を持っており、二つの省を支配する第二十九軍は宋哲元が兼ねており、蒋介石の南京政府からは半分独立していました。
 第二十九軍の軍事顧問を務めていた桜井徳太郎少佐が支那側に向かい、秦徳純北京市長にあって説明すると、秦市長は軍使を歓迎し、支那側からも現地に使者を派遣すると述べます。
 そうしているうちに、またも龍王廟から銃声が聞こえてきて、報告を受けた牟田口廉也連隊長は「撃たれたら撃て」と命令。一木清直大隊長は中隊を展開させ、歩兵砲隊は龍王廟を目標に展開します。明け方5時30分、再び龍王廟とそばの堤防上から攻撃を受けたので砲撃を開始。支那側トーチカを吹き飛ばします。すると今度は宛平県城、盧溝橋上、川中島などから日本軍に銃砲撃が集中してきます。

 第二十九軍の副参謀長、
張克侠(ちょう こっきょう 共産党員は北京周辺に駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定しており、盧溝橋事件はその一部であり、その作戦計画案が日本軍によって後に没収されています。張克侠は第二十九軍10万の兵力をいくつかの集団軍に編成し、北京、天津、チャハルの三戦区に分け、この地区に分散配置している日本軍を撃滅した後、機を見て山海関に出撃し、関外の領土を奪おうとしていました。この計画を共産党の劉少奇書記が承認していました。戦後の東京裁判のとき、この劉少奇が西側の記者に盧溝橋事件について「仕掛け人は中国共産党であり、自分が現地指揮官である」と証言しています。ですから東京裁判では盧溝橋事件の審議はヤバくなり、支那側判事は審理を中断してしまいました。

 この頃、日本国内では近衛内閣が誕生したばかりでした。近衛首相はただちに不拡大方針を徹底することで現地へ通達。杉山陸相は増派案を進言しましたが退けられます。しかし、支那側の攻撃が続いたため、11日には杉山陸相から再び増派案を提言します。これには近衛首相も同意せざるを得ない状況を悟り、不拡大の努力を行う条件付で同意します。
 現地では解決に向かって動き始めます。宋哲元は撤退に向けて動きます。しかし、17日蒋介石がラジオで
「盧溝橋が占領されるなら、北京は第二の奉天になり、北京が第二の奉天になれば、南京が北京にならないと誰が保障できるであろうか、いよいよ最後の時がやってきた」と述べたのです。さらに蒋介石から宋哲元へ使者がきて「蒋介石は対日戦を決意している」と告げられ宋は「蒋介石の指示に従う」の述べます。これで支那軍の撤退は取りやめとなり、桜井少将が襲撃された事件を機に作戦本部の石原莞爾部長は内地の三個師団の動員を決断し、全面的な闘いになります。このとき宋哲元は冀東保安隊に日本軍攻撃を命令したためあの無残な「通州事件」につながることとなります。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡辺昇一・田母神俊雄(共著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)

添付画像
 北平周辺駐屯日本軍撃破第29軍特別演習計画要図 「大東亜戦争への道」より

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「日本を攻撃せよ」ドイツ軍事顧問団

日本の侵略はない。支那が仕掛けた戦争の背後にドイツ軍事顧問団。

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 昭和3年(1928年)秋、支那の国民党・蒋介石はドイツのマックス・バウアー大佐を軍事顧問として受け入れます。ドイツは第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によってさまざまな制約が加えられる一方、共産主義革命の危機にあり、マックス・バウアー大佐は軍部内で力を持っていました。大正9年(1920年)、マックス・バウアー大佐中心にクーデターが起こります。しかし、軍部の足並みがそろわず、マックス・バウアー大佐は退役し、ソ連、スペイン、アルゼンチンで軍事顧問として働き、国民党の招きで支那へやってきたのでした。そして後、ヘルマン・クリーベル中佐、ゲオルク・ベッツエル中将といずれもエリートの軍人に引き継がれていきます。

 蒋介石&ドイツ軍事顧問団が日本軍と軍事衝突を最初に起こすのが第一次上海事変でシナ第19路軍3万(この時点では国民党の軍ではない)が日本海軍陸戦隊を攻撃します。これをみて国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍(指揮官・張治中)を上海作戦に加えます。第87師、第88師はドイツの軍事顧問団の調練を受けた軍隊です。この戦闘で支那側は1万を超える戦死者で、日本側は7百余りでしたが、それでもこれまでの支那軍との戦闘と比較すると予想外の損傷でした。支那軍はチェコ製機関銃とドイツ製の手榴弾など圧倒的な破壊力を持つ火器で武装し、士気も旺盛だったのです。
 満州では関東軍が熱河作戦を発動しており、蒋介石は第17軍7万人(ベッツエル中将が指揮)を張り付かせて戦わせますが、このときも日本軍は予想外の苦戦でした。

 ドイツ軍事顧問団、ゲオルク・ベッツエル中将は共産党との戦いである第5次掃共戦でトーチカ建設による包囲作戦を蒋介石に進言し、昭和9年(1934年)10月には共産党を壊滅寸前に陥れます。このころドイツのフォン・ゼークト大将が支那を訪れており、蒋介石に対して意見書を提出しています。そしてこのとき以下も薦めています。

「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策をとること」


 ゼークト大将はドイツ軍事顧問団に就任後、国軍再編成を行い、軍の各教育機関も数多く設立させます。ゼークトの後任はアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将となり、昭和10年(1935年)1月に「支那国防基本方針」を蒋介石に提出します。共産党は既に壊滅状態、次の攻撃目標は日本です。対日戦の準備が進められ、高射砲と防空組織の基礎造成、上海、南京間の陣地構築、南京城の要塞化に力が入れられます。
 ファルケンハウゼン中将は対日開戦を執拗に進言し、昭和11年(1936年)になると
「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手が塞がらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」と進言します。余談ですが、ファルケンハウゼン中将は大使館付武官として日本に居たことがあるだけあり日本語ができ、蒋介石も日本に留学していたので二人は日本語で話しをしていたといいます。
 
 こうした流れの中、西安事件がおき、昭和12年、盧溝橋事件が勃発し、そして第二次上海事変が勃発し、ドイツ軍事顧問団が日本軍殲滅のためにつくりあげられた陣地へ日本軍が誘導されるかのごとく引き込まれていったのでした。日本は条約に基づいて軍隊を駐留して、租界に暮らす日本人居留民を保護していただけです。侵略の意図も何もありません。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
参考サイト
 WikiPedia「第一次上海事変」

添付画像
 アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン 1911年名古屋滞在時代(PD)

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通州事件

教科書が書かない通州大虐殺。

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 昭和12年7月30日東京日日新聞(現在の毎日新聞)号外
 「通州で邦人避難民三百名殆ど虐殺さる」
 「半島同胞二百名も気遣はる」


 当時の人は号外を見て驚いたでしょう。通州事件は昭和12年(1937年)7月29日冀東防共自治政府保安隊(支那人)が日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。新聞見出しの「半島同胞」というのは朝鮮人(当時は日本国籍)のことです。虐殺の行われ方は極めて残酷であり、鬼畜の仕業です。

 昭和12年8月4日東京日日新聞 夕刊
 「通州保安隊反乱の全貌」
 「近水楼に弾丸集中」
 「比類なき鬼畜行動」
 「我居留民に暴虐の限り」


 支那保安隊は日本居留民の家を一件残らず襲撃し、無辜の居留民に対して掠奪、暴行、陵辱、殺戮など残虐のかぎりをつくしました。支那人特有の猟奇的な殺害方法です。お決まりの虐殺方式は「頭部を切り落とし」「眼球を抉り取り」「今日腹部を断ち割り」「内臓引き出し」「陰部突刺」というものです。

 通州へ救援に赴いた支那駐屯歩兵第二連隊小隊長の証言
「守備門の東側を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極に達した。『日本人はいないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切り取られた老婆、腹部を銃剣で突き刺された妊婦の死体がそこここの埃箱の中や壕の中などから続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され、惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってあるもの等、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を突き通し、一家六名数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
 
 この残酷な虐殺手口は昭和3年(1928年)の済南事件と全く一緒で、支那の虐殺文化です。
 
 この通州大虐殺の3週間前に盧溝橋事件が勃発しており、停戦しても支那軍が執拗に挑発、攻撃を繰り返していました。デマを流すので有名な南京放送が「盧溝橋で日本軍は支那二十九軍に惨敗」「蒋委員長は二十九軍を以って大挙冀東を攻撃し、偽都・通州をほおむり・・・」と事実と正反対の報道を流すと冀東保安隊は動揺しました。そして機先を制して自治政府の要人を生捕りにし、日本人を殺戮すれば恩賞にあずかれると考えてこの事件に至ったようです。

 この通州の虐殺事件を戦後のGHQの情報操作「真相箱」ではそのまま日本軍の南京虐殺という"でっちあげ"に流用したと思われます。「真相箱」の南京事件の項では
「集団的な掠奪、テロ行為、暴行等人道上許すべからず(日本軍の)行為」「日本軍の捕虜となった中国兵を集め、これを4,5人ずつロープで縛り、束にして惨殺」「日本軍兵士は街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で刺殺し・・・」と報道しています。通州の支那兵の行いと酷似しています。

 この事件はこの年の12月に冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い解決しています。しかし、歴史の観点では事件当時、日本人は激昂し、「恨みは深し通州城」という歌まで作られたほどで、猟奇的大虐殺事件として刻まれなければなりません。ところが戦後、GHQの焚書と検閲により事件は歴史から抹殺されました。教科書には記載されていません。歴史の年表にも記載されていないものがほとんどのようです。



参考文献
 日新報道「南京の真相」
 小学館「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『酸鼻極めた通州事件』田中秀雄
参考サイト
 WikiPedia「通州事件」

添付画像
 通州事件を報じた新聞(PD)

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通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造.mpg
http://www.youtube.com/watch?v=JZl9wUDt5U4

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