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2010年11月

大空を駆けた戦士たち

当時には当時の日本人の思いがあった。

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 子供の頃、ゼロ戦のプラモデルを作ったものですが、今の子供はTVゲームのほうが主流でプラモデルは作らないのでしょうか。

 ゼロ戦は大東亜戦争でも日米戦での印象が強いですが、初陣は支那事変です。昭和15年7月上旬、第十二航空隊長の新藤三郎大尉は「新型戦闘機受領」の命を受け、横須賀基地海軍航空隊に出張します。そこでゼロ戦と初めて対面して目を瞠り(みはり)ました。スマートな機体、密閉式の風防、両翼には戦闘機の武装として見たことが無い20ミリ機銃、日本の戦闘機として初めて、油圧による引き込み脚。
 昭和15年9月13日、新藤大尉は陸上攻撃機の援護のゼロ戦13機の指揮官として重慶上空へ進撃します。敵戦闘機と遭遇してゼロ戦初の空戦となりました。結果敵機27機全機撃墜。味方の損傷はゼロという伝説的な戦果となりました。

 ゼロ戦は開戦時、真珠湾攻撃で活躍し、台湾から飛び立ったゼロ戦はフィリピン上空で空戦を行うという未曾有の長距離攻撃を行っています。そしてニューギニア方面で活躍し、米のF6Fヘルキャットが出現するまで航空戦での優位を保ちました。

 ゼロ戦は防弾設備がなく、人命軽視だった、という話を聞いたことがある人が多いでしょう。たしか「ゼロ戦燃ゆ」という映画でもそのような話が出ていた記憶があります。初期の21型に防弾設備はありませんが、52型には防弾設備があります。また、初期に防弾設備がなかったのは、中途半端な防弾装備を施すよりは軽量化を図り、速度や運動性などを向上させることで被弾確率を低下させた方が合理的であると考えられたからであり、人命軽視ではなく、むしろ被弾させないための人命重視です。人命軽視だった、というのはおそらく戦前を全否定する戦後思想から出たものでしょう。

 ノンフィクション作家の神立尚紀氏はゼロ戦乗りだった人の取材をしています。その中で話しを聞こうとすると「いや私は死に損ないですから・・・勘弁してください」という場面に出くわしたと述べています。新藤三郎氏も元ゼロ戦搭乗員の間では「誰が行っても戦争の話はしたがらない」という人でした。新藤氏は戦争後半「いままで大勢の部下を死なせてきたが、もはや日本が勝つとは思えない。またこの搭乗員たちを死なせるのか・・・俺もそろそろ死に場所を考えなきゃいかんな」と考えたといいます。その自分が生き残った。複雑な思いで戦後をすごしたことでしょう。元ゼロ戦乗りの中には日本敗戦によって一変した価値観や歴史観への反発と戸惑いによって沈黙を続けた人が多いといいます。

 ゼロ戦ではなく、陸軍の「隼」戦闘機の話ですが、加藤隼戦闘隊で活躍した安田義人氏は「私は自分の子供に戦争の話を多くは語らなかった。というのは、戦争というものの職烈さ、無残さ、空しさを含めて、よくその真相を語りえなかった」と述べています。また、「若鷲たち(戦闘機乗り)が、まなじりを決して敵機に立ち向かう勇気は、また戦争の無残さ、空しさとは別もの」とも述べており、戦後価値観の変化の中でどう戦争を語ればよいかの戸惑いがあったのでしょう。戦後は「戦争は残酷」という一辺倒の論調が教育、言論空間を支配しましたから。

 「大空のサムライ」を書いた元ゼロ戦乗りの坂井 三郎(さかい さぶろう)氏は平成12年(2000年)に亡くなりました。もう大空を駆けた戦士のほとんどの方は鬼籍に入られたことでしょう。戦後の言論空間はこうした祖国の栄光を信じ、国を守るために命をかけた人たちの思いを封じてきたように思います。もう「戦後」は十分です。これからは先人の思いを素直に見れる世にしたいものです。


参考文献
 ワック出版「歴史通」2010.9『零戦、かく戦えり』神立尚紀
 学研文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人著

添付画像
 靖国神社に展示されているゼロ戦(JJ太郎撮影)


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実録 ゼロ戦の勇姿
http://www.youtube.com/watch?v=amOBBNC-1HE

「ハル・ノート」の根底にあった人種差別

ルーズベルトもチャーチルも日本人に偏見を持っていた。

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 昭和16年(1941年)2月からスタートした日米交渉は11月27日、アメリカより「ハル・ノート」が日本に提出され、日本は事実上の宣戦布告と受け取り交渉決裂となります。日本は開戦に踏み切りました。このハル・ノートは後の東京裁判のパール博士が述べたとおり、「もしハル・ノートと同じような通牒を受けとったなら、たとえモナコやルクセンブルクのような小国といえども、矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」という屈辱的な内容でした。アメリカ人の歴史化であるアルバート・J・ノックも同じ趣旨のことを述べています。
 
 アメリカのルーズベルト大統領は大の日本人嫌いでした。駐米英国公使キャンベルの手紙によるとルーズベルト大統領はスミソニアン博物館の自然人類学担当の博士、アレシユ・ヘリチカと親交があり、博士から二つのことを学んだと書いています。
 ひとつはインド人は白人と同種である。もう一つは
「日本人が極東で悪行を重ねるのは頭蓋骨が未発達で白人に比べ2000年も遅れている」という説でした。このヘリチカ説を踏まえてアジアに文明の火を灯すには「ユーラシア系とヨーロッパ・アジア系とインド・アジア系を作り出し、それによって立派な文明とアジア社会を作り出していく。ただし、日本人は除外してもとの島に隔離して次第に衰えさせるというのがルーズベルト大統領の考えである」と書いています。
 
 この考え方は「ハル・ノート」にも現れています。以下「ハル・ノート」の一部です。
 
 ・日本の支那、インドシナからの軍隊及び警察力の撤収
 ・日本は重慶にある中華民国国民政府以外の支那におけるいかなる政府、政権を認めてはならない
 ・日本の支那大陸における海外租界と関連権益全ての放棄(事実上の意訳)


 日本の軍隊を支那から引き揚げれば、治安は維持できませんから、日本人居留民は日本へ引き揚げることになります。租界も認められなければ日本に引き揚げなければなりません。満州国も認めてはならいということであれば、満州に住んでいる日本人も日本へ引き揚げなければなりません。日本人を日本列島に押し込めて、貿易を遮断して衰えさせるということでしょう。
 
 この「ハル・ノート」はアメリカのハル国務長官より提出されていますが、ハル国務長官自身が作成したのはこれよりもっと緩やかなもので、アメリカは戦争準備の時間稼ぎをするつもりでした。しかし、イギリスや中華民国(重慶政府)の反対で潰されました。イギリスと中華民国はアメリカに早く参戦して欲しかったのでもっと強硬に出て欲しかったわけです。そしてハリー・ホワイトという財務省の人が書いたものが提出されることになったのです。このハリー・ホワイトという人はコミンテルンという共産組織のスパイで、ソ連のスターリンから「何がなんでも日本を戦争に引き入れよ」と指令を受けていました。ですからハリー・ホワイトは日本人嫌いのルーズベルト大統領の意に沿うようなものを作成したと思われます。このハリー・ホワイトの「ハル・ノート」を読んだルーズベルトは「黄色い猿を島に閉じ込めてやれ」と思ったことでしょう。そしてこれでやれ、とハル国務長官に命じ、ハル長官はそれを駐米大使に手渡しました。
 黄色い猿(日本人)が白人と対等に渡り合い、アジアのリーダになることは許せないという偏見と嫉妬、悪意をルーズベルト大統領もっていました。イギリスのチャーチル首相も同じで「日本を農業国に逆戻りさせる」と述べています。日米戦争にはこうした人種差別が根底にあったのです。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一著
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之 共著
 光人社「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也著
添付画像
 コーデル・ハル(PD)



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ハルノート 太平洋戦争
http://www.youtube.com/watch?v=YR4zXcwrGlY

日本人よありがとう

かつて日本人の心は清らかで美しかった。

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 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍はマレー半島東側に上陸し、イギリスがアジア植民地支配の牙城として難攻不落の要塞を誇ったシンガポールへ向けて、マレー半島1000キロの縦断進撃を開始しました。後にマレーシアの上院議員となったラジャー・ノンチック氏はこのとき16歳の少年で、ラジオ放送で日本軍上陸の報を聞きます。そしてノンチック少年は身の毛のよだつような興奮と緊張に立ちすくんでいましたが、急いで父ラジャー・イシャックの部屋に飛んでいきました。
 
「とうとう日本軍が来たね」

そうしている間にも、胸がジーンとしてきて、身体の震えが止まらなかったといいます。
 
 ノンチック氏はこの大東亜戦争について以下のように述べています。
 
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍をみたときに、今まで感じたことの無い興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです」

 ノンチック氏は日本の大東亜省が推進した「南方特別留学生」に選ばれ、日本に来てマレーの独立運動を行い、宮崎高等農林学校(現宮崎大学)、陸軍士官学校で学び、福岡へいき、東大で学びました。日本敗戦後はマレーに召還となりマレー独立のために活動し、後に国会議員となりました。戦前の日本を良く知り、戦後の日本も良く知っていました。そのノンチック氏は戦後の日本を心配して次のように述べています。
 
「今の日本人にアジアへの心が失われつつあるのを残念に思っています。これからもアジアは、日本を兄貴分として共に協力しながら発展してゆかねばならないのです。ですから今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知ってもらいたいと思っているのです」

 現代日本人は歴史を奪われ大東亜戦争を「侵略戦争」だったと洗脳されています。日本人は自虐と自信喪失に陥っています。だからノンチック氏は日本人に本当のアジアの歴史の事実を知ってもらいたいと述べています。そしてノンチック氏は日本人が日本人の心を失い、利己主義、金拝主義に陥ることを心配して以下の詩を書いています。日本人は本当の歴史を知り、ノンチック氏の言葉を噛み締めるべきでありましょう。


 かつて 日本人は 清らかで美しかった
 かつて 日本人は 親切で心豊かだった
 アジアの国の誰にでも 自分のことのように
 一生懸命つくしてくれた


 何千万人もの 人の中には
 少しは変な人もいたし 
 おこりんぼや 我が儘な人もいた 
 自分の考えを 押しつけて
 威張ってばかりいる人だって 
 いなかったわけじゃない

 でも、その頃の日本人は 
 そんな少しの嫌なことや 不愉快さを越えて
 大らかで 真面目で 希望に満ちて明るかった

 戦後の日本人は 自分達日本人のことを
 悪者だと思い込まされた 
 学校でも ジャーナリズムも
 そうだとしか教えなかったから 
 真面目に 自分達の父祖や先輩は
 悪いことばかりした 残酷無情な
 ひどい人達だったと 思っているようだ

 だから アジアの国に行ったら ひたすら ペコペコ謝って
 私達はそんなことはしませんと 言えばよいと思っている

 そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
 自分の国や 自分までが 偉いと思うようになってきて
 うわべや 口先だけでは 済まなかった 悪かったと言いながら 
 独りよがりの 自分本位の 偉そうな態度をする
 そんな 今の日本人が 心配だ


 本当に どうなっちまったんだろう
 日本人は そんなはずじゃなかったのに
 本当の日本人を 知っている 私達には
 今はいつも 歯がゆくて 悔しい思いがする

 自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
 こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
 ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか

 自分達だけでは 集まって
 自分達だけの 楽しみや 贅沢に耽りながら
 自分がお世話になって住んでいる
 自分の会社が仕事をしている
 その国と 国民のことを 蔑んだ眼でみたり バカにしたりする

 こんな 人達と 本当に仲良くしてゆけるだろうか
 どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ


 1989年4月 クアラルンプールにて



参考文献
 日本教育新聞社「日本人よありがとう」土生良樹著
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

添付画像
 ジョホールバル攻略戦(PD)

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日本人よありがとう (マレーシア元上院議員 ラジャー・ダト・ノンチック)

http://www.youtube.com/watch?v=WrUHchsWwkg

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