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2010年12月

アメリカ本土爆撃

戦後隠された事実のひとつ。

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 大東亜戦争時、風船爆弾でアメリカ本土を爆撃したのは有名ですが、航空機で爆撃したことはほとんど知られていません。
 昭和17年(1942年)9月9日未明、オレゴン州沖にいた伊25潜水艦から零式小型水上偵察機に76キロ焼夷弾2個をつんで発進させました。そして水上偵察機はカリフォルニア州との州境に近いブルッキングス近郊の森林地帯まで飛んで焼夷弾を投下しました。予定通り発火しましたが、数日前まで降り続いていた雨の森林地帯が湿っており、延焼することなく自然鎮火しています。森林を2度にわたって空爆しています。アメリカ史上初の出来事です。9月29日深夜にも二度目の空襲が決行され、今度はオレゴン州のオーフォード近郊の森林地帯に焼夷弾を投下しました。
 
 この爆撃は『たけし・さんまの世界超偉人伝説』で紹介され、パイロットだった藤田飛曹長本人が出演しています。昭和37年(1962年)藤田飛曹長はオレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号を贈られています。藤田氏からは戦争中、軍刀として用いた愛刀をブルッキングス市に寄贈しましたが、その刀は戦犯として召喚された場合は自決するために持参したものだったと述べています。
 『たけし・さんまの世界超偉人伝説』では元海軍軍人の西村晃さんも出演しており、「全くしらなかった」と発言していますから戦争当時も極秘にされていたのかもしれません。戦後、極秘にする必要はないように思いますが、日本がそこまで出来たという事実は戦後の言論空間はタブー視してきたのでしょう。

 爆撃だけでなく、砲撃も行っており、昭和17年2月21日、伊17号潜水艦はカリフォルニア州サンタバーバラ近郊のエルウッド製油所を砲撃しています。伊26号潜水艦は昭和17年6月20日にバンクーバーのエステバン岬灯台を砲撃。伊25号潜水艦は昭和17年6月21日コロンビア川の河口にあるアストリア海軍基地を砲撃しています。これは当時日本国内でも大々的にニュースとして報道されましたが、これもほとんど知られていないでしょう。
 
 当時、アメリカ本土空襲構想というのは一般的な話で昭和18年9月には野依秀市という人が「米本土空襲」という本を書いて出版し、アメリカ本土空襲の必要性を説いています。佐藤軍務局長という東條英機首相の腹心がいますが、この人もアメリカ本土空襲について言明しており、「米本土空襲」の本の中でも述べられています。こうした本は日本敗戦後GHQが徹底的に焚書しました。処分して一般の人の目につかないようにしてしまったのです。これも、後に伝わらなくなった一因と思われます。現代日本人は「記憶喪失」にされてしまっているのです。



参考文献
 Gakken歴史群像アーカイブVOL9「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著
参考サイト
 WikiPedia「アメリカ本土空襲」

添付画像
 史上初のアメリカ本土空襲を行った大日本帝国海軍の零式小型水上偵察機(PD)
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世界超偉人伝説 史上ただひとり米国本土を爆撃した男伝説
http://www.youtube.com/watch?v=Fq4Pv4ioxLQ

 

デヴィ夫人とスカルノ大統領

最終的に道を踏み外したが日本と縁の深いスカルノ。

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 テレビでおなじみのデヴィ夫人ですが、インドネシアのスカルノ元大統領の夫人です。この方については色々と評価はあるようですね。私は日本の伝統文化を大切にしようとする行動は好評価しています。
 
 いつだったかテレビでデヴィ夫人の自叙伝的な番組をやっていました。昭和40年(1965年)スカルノ大統領が失脚して苦労の道を歩んできた、というような番組だったと記憶しています。夫人のこうした大統領夫人時代の話が出てくるのであれば、夫人の夫であるスカルノ元大統領と日本と関わりが少しぐらい出てきてもいいものだと思うのですが、マスコミは触りたくないようですね。
 
 インドネシアは第二次世界大戦以前はオランダの植民地でした。スカルノ大統領は1927年インドネシア国民党を結成しますが、逮捕されスマトラ島のベンクルに流刑になっていました。ところが昭和16年(1941年)にオランダが日本に対して宣戦布告し(先に宣戦布告したのはオランダである)日本と交戦状態となり日本は今村均中将率いる陸軍主力16軍がわずか9日間でオランダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア連合軍を撃破し降伏させます。昭和17年(1942年)3月のことで350年にわたるオランダ支配の終焉です。そしてジャワの学生や青年の嘆願によって今村中将はスカルノを解放しました。そしてスカルノと話をします。
 
今村
「私が今、インドネシア六千万民衆に公然と約束できることは、私の行う軍政により、蘭印(オランダ)政権時代の政治よりもよい政治と、福祉の招来です。ですから、あなたが日本軍に協力するか、中立的立場をとって何もしないで形勢を傍観しているかは、どちらも随意です」

 数日後、スカルノは今村中将のもとを訪れ、こう決意を話します。
「先日は失礼しました。あれから同志たちとも相談いたしましたが、閣下が、日本軍政はオランダ政権時代よりも、インドネシアの福祉を増進することを約束されましたので、私どもはこれを信用し、私と同志は、日本軍政に協力することにしました」
 
 こうしてスカルノはインドネシアの指導者の地位につきます。今村中将とスカルノは深い信頼関係にあり、デヴィ夫人の話だとスカルノは今村中将を「本物のサムライ」だと言っていたそうです。今村中将(このときは大将)が戦犯でインドネシアに召喚されたとき、奪還作戦を立てていました。

 インドネシアの軍政では日本人、インドネシア人ともに独立へ向けて準備を行います。インドネシア軍の編成、軍の訓練のほか、議会や行政を整備し、学校を作り着々と準備を整えていきました。ところが昭和20年(1945年)8月に日本軍が突然降伏したため19日に予定していた独立宣言を17日に早めてスカルノは独立宣言をします。日本軍は巧みにインドネシア軍に武器をわたし、再度支配に乗り出したオランダ軍とインドネシア軍は交戦しますが、この中には旧日本兵も多く含まれていました。スカルノとともにインドネシア独立へ向けて戦います。そして1949年オランダの暴挙が暴かれハーグ協定によりインドネシア独立が認められました。

 東京都港区の青松寺にスカルノ大統領が建てた石碑があります。ともに戦った二人の日本人にささげられています。

 市来龍夫君と吉住留五郎君へ

  独立は一民族のものならず 全人類のものなり

   1958年8月15日 東京にて スカルノ


 これらスカルノ元大統領の話は「ムルデカ17805」という映画がありましたので、いくらかの日本人は知っているかもしれません。しかしデヴィ夫人があんなに有名なのですからもっと知られてもいいと思います。もちろんデヴィ夫人は戦後にスカルノ大統領に出会い結婚していますのでそれ以前のスカルノの話は直接は関係ありませんが、世界で最も親日の国であるインドネシアの話です。こうした国の話は当たり前のように日本人の耳に入ってくるのが普通だと思うのです。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子著
 光人社NF文庫「陸軍大将 今村均」秋永芳郎著
 桜の花出版編集部「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」
 
添付画像
 スカルノ(PD)

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インドネシア独立記念パレード
http://www.youtube.com/watch?v=ElAoXeGmj2k&list=QL





日露戦争が世界に与えた影響

世界に衝撃が走った日本の勝利。

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「日露戦争が始まった年、私はちょうどヨーロッパにいましたが、ある日、東郷大将がロシアの海軍をうちやぶり、ロシアが新しくヨーロッパからウラジオストックに派遣した艦隊が、日本海で全滅させられたことを聞きました。このニュースがヨーロッパに伝わると全ヨーロッパの人民は、父母を失ったように悲しみました。イギリスは日本の同盟国でしたが、このニュースを聞いたイギリス人のほとんどいずれも眉をひそめ、日本がこのような大勝利をおさめたことは、結局白人の幸福ではないと考えたのです」

 これは支那革命の父といわれた孫文が神戸で講演した内容の一部です。さらに次の話があります。

「その後まもなく、私は船でアジアにかえることになり『スエズ』運河を通るときに、たくさん土人(原住民のこと)がいまして、これはほとんどアラビア人でしたが、私が有色人種であるのを見て『お前は日本人か』と問いかけてきました。それに答えて『違う、私は中国人だ。何があったのか、なぜそんなにうれしそうなのだ』といいますと、『なんでも、ロシアがヨーロッパからまわした海軍を、日本が全滅させたということだ。そのニュースが本当かどうか知らないけれど、自分たちは運河の両側にいて、通る船ごとにロシアの負傷兵がヨーロッパへ送られるのをよく見る。きっとそれはロシアが大敗した証拠に違いない。これまで我々東洋の有色民族は、いつも西洋民族の圧迫をうけて、苦しめられ浮かび上がれないが、こんどは日本がロシアを負かしたのだから、東洋の民族が西洋の民族を、うちやぶったことになる。日本人が勝ったのは自分が勝ったようなものだと思う。これは本当に歓喜すべきことだ。だから自分たちは、こんなに愉快になり喜んでいるのだ』といっていました」。

 インド建国の父、ネルーはこのとき16歳の少年でしたが、「日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍を沢山買い込んで読もうと勤めた」と述べています。

 「アジアは日本の勝利に飛び上がって喜んだ」と「日露戦争全史」の著者ウォーナー夫妻は書きました。インドを旅行したイギリス人の見聞には「大きな興奮がインド全土を駆け巡った。片田舎の村でさえ、インド人たちは車座になって、また夜は水煙草の壷の囲りに集まって日本の勝利について語り合っている」と述べています。中村屋で有名なビハリ・ボースは日露戦争の日本の勝利に刺激されて日本に来てあのカレーが誕生しています。

 支那でも衝撃が走り、大量の学生が東京へ留学に訪れ、明治39年は1万5千人になり、直接日本に触れ、日本が維新によって外圧を克服し、立憲君主と富国強兵を通じて近代化に躍進した歴史の道筋を理解しました。支那だけでなく、フィリピンやベトナムやインドから祖国独立に熱血をたぎらせた青年たちが次から次へと日本に来ました。

 ロシアに痛みつけられてきたトルコでも熱狂し、トルコ共和国国歌(独立行進曲)の作詞者であるメフメト、アーキフは賞賛を込めて日本の勝利を描写し、女性作家で英文学のハーリデ・エディーブ・アドバルは日本海海戦の年に誕生した息子を「トーゴー」(東郷元帥のこと)と名づけました。トルコでは息子に「ノギ」(乃木将軍のこと)と名付ける親も少なからずいたといいます。ユダヤ人の中でも子供に「トーゴー」と名付けることが流行しました。

 このように私たちの先人はアジアの人たちに感動と勇気、希望を与え、民族主義の気運を盛り上げていたのです。この日露戦争の勝利は世界史上、大変な意義があったと言っても過言ではないでしょう。



参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子著
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著

添付画像
 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦三笠(PD)

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日露戦争_壱
http://www.youtube.com/watch?v=6gY4lHXoHTE

日露戦争_弐
http://www.youtube.com/watch?v=3jJnWlSWTHE

日露戦争_参
http://www.youtube.com/watch?v=3EcMGWAf1JU

日本人の勇気をたたえた英国海軍のグールド少将

日本人の心を海外から逆輸入。

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 4年ほど前に旧日本軍小型潜航艇がシドニー湾で発見されたニュースがありました。

 旧日本軍には2人特殊潜航艇というのがありました。回天という人間魚雷ではありません。小型を活かして敵湾内に入り込み雷撃する兵器です。敵地に潜入するわけですから任務には命を捨てる覚悟、勇気が必要でした。この特殊潜航艇による攻撃は開戦時のハワイ・真珠湾、昭和17年5月のオーストラリア・シドニー港、マダガスカル島・ディエゴ・スワレズ湾などで行われました。

 昭和17年5月(1942年)特殊潜航艇3隻はシドニー湾に進入し1隻は湾への侵入に成功し魚雷攻撃を成功させています。2隻は発見され自爆します。成功した1隻は湾からの脱出に成功しますが、帰途米巡洋艦「シカゴ」によって撃沈され、これが平成18年(2006年)11月に発見されたものです。

 大東亜戦争当時、特殊潜航艇の乗組員(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)に対して英国海軍のグールド少将は海軍葬の礼をもって弔いました。これには当時オーストラリアで「なぜ我々の同胞を殺した敵兵をそれほどまでに遇するのか」と大変な議論になったそうです。グールド少将はラジオを通じて、毅然として次のように演説したといいます。

「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」

 そして4人の日本兵士の遺骨は交換船で日本に返還(昭和17年10月19日)され、遺族のもとに届けられました。

 このグールド少将は敵といえどもその武勇を称える姿は日本にも武士道精神として存在しており世界共通のものでありましょう。しかしながら現在の日本では語るのはタブー視されているように思います。
 マダガスカルでは英軍の巡洋戦艦とタンカーを沈めた特殊潜航艇の乗組員二人は島の山中で降伏勧告も聞かず、ライオンのごとく勇敢に戦い、そしてついに射殺されました。この日本兵二人も現地では英雄視されています。どうも現代日本は歪んでいるように思います。


参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
参考サイト
 Japan On the Globe(153)  国際派日本人養成講座
  Common Sense: 海ゆかば~慰霊が開く思いやりの心 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog153.html
 WikiPedia「特殊潜航艇によるシドニー港攻撃」

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添付画像
 シドニー湾を攻撃し撃沈された甲標的(PD)

旧日本軍小型潜航艇、戦後60年後、シドニー湾で発見 1/3
http://www.youtube.com/watch?v=Yhty70kdBqE


2/3
http://www.youtube.com/watch?v=AfUvRTSR09g
3/3
http://www.youtube.com/watch?v=9w67VFVX6qk

朝日新聞が捏造した南京虐殺

マスコミが真実を書くと思ったら大間違い。

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 昭和12年(1937年)12月の南京攻略戦で朝日新聞は八十人もの取材班を南京へ投入しています。毎日新聞は七十名。南京では外国の報道陣も自由に取材できました。世田谷区ほどの南京城に八十人も居れば精度の高い取材ができます。

 朝日新聞の記者は十二月十七日付「意外日本製の砲」という見出しで「13日敵砲陣地を占領したが(略)大砲四門がどこ製と思ふか?『昭和二年大阪工廠というマークがついているではないか』」と大虐殺が行われた?とされる日にのんびりと大砲を見に行っています。「幕山では、最後の一人まで、チョッコを握って皇軍に抵抗していた少年があったよ」という記事もあります(幕山はおそらく城外の幕府山)また、国民党の脱走兵の死体が百メートルにわたり累々とあった記事もあります。

 南京では報道規制はどれくらいあったのでしょう。
 朝日新聞の取材全体の指揮をとった上海支局次長の橋本登美三郎氏は当時の報道規制について
「何も不自由には感じていない。思ったこと見たことはしゃべってたし、書いていたよ」と述べています。
 朝日新聞の上海支局長の山本治氏は軍に検閲を依頼する担当をしていました。検閲の実態については以下のように述べています。

「検閲のはっきりした基準というものはなく、とにかく軍のこれからの動きがわかるような記事はだめでした。私はその年の四月まで新京支局にいて関東軍の検閲を経験していましたから軍の検閲は大体わかっており、私の持っていくものはほとんどフリーパスでした」

 山本治氏は南京虐殺について次のようにも述べています。
「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことがありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」

 南京戦は朝日新聞にとって通常の戦場以上でもなければ以下でもない取材報道です。

 ところが朝日新聞は戦後、「中国の旅」に続き、1980年代に「南京大虐殺」大キャンペーンを行い、「偕行南京戦史」を作り上げます。この中に便衣兵(ゲリラ)の処断や下関、幕府山での捕虜、敗残兵の処断が記載されており、これを青山学院大学名誉教授で国際法専門の佐藤和男博士は検証し、戦時国際法違反ではないと断定しました。

 朝日ではありませんがNNNドキュメント「兵士たちが記録した南京大虐殺」(2008年4月)を見ますと素人の人が南京虐殺を調査している姿を追いかけています。また昔インタビューしたのだと思いますが、旧日本兵の証言が出ています。これらは前述の捕虜処断に関わった旧日本兵の証言を切り貼りして、あたかも虐殺があったかのように印象付ける悪質な編集内容です。佐藤和男博士の検証した師団、連隊とNNNが編集した兵士の証言の師団、連隊とが一致します。(13師団歩兵六十五連隊、山砲兵第十九連隊)佐藤和男博士は南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈しています。NNNドキュメントでも素人の方の調査を報じています。もちろん当時、国際連盟に中華民国代表はこれらを戦時国際法違反として提訴していません。

 平成19年(2007年)にジャーナリストの水間政憲氏が朝日新聞に南京虐殺の犠牲者数について質問を出しています。これに対して朝日新聞は以下の通り回答しています。

「朝日新聞として南京大虐殺の犠牲者数は特定しておりません。2006年12月30日の社説『日中歴史研究 事実に語らせることだ』は『中国側は犠牲者数を30万人とし、日本軍による残虐行為の象徴的な事件と見る。だが、だが日本側には20万人説や数万人説などさまざまな見解がある』と記しています」。

 南京戦当時の朝日新聞と現在の朝日新聞の言っていることは全く異なっています。


参考文献
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会監修
 小学館文庫「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

添付画像
 昭和12年12月17日朝日新聞記事 「南京の実相」より

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参考映像:「朝日が作った歴史」年表転載
http://www.youtube.com/watch?v=EoAmItpLGuE

1971年8-12月 「朝日」本多勝一記者「中国の旅」連載
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1972年9月 日中国交回復
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1978年 中学歴史教科書に「南京」登場
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1979年 中国の歴史教科書にも記載
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1985年 南京大虐殺記念館開館
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1994年 愛国主義教育実施要領(各地に反日記念館)
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2005年 中国・反日デモ多発

柴五郎

静かな英雄。

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 明治33年(1900年)に北京で義和団事件が起こり、各国大使館は義和団に包囲されましたが、籠城戦で大活躍したのが日本の柴五郎中佐です。また、義和団鎮圧後に各国は掠奪、暴行の限りを尽くしましたが、日本軍はそのようなことをせず、規律正しかったため、この後の日英同盟に結びついています。司馬遼太郎著「坂の上の雲」ではこのことが少ししか書かれておらず、秋山好古と柴五郎は士官学校の同期で、秋山真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だったことが書かれています。

 柴五郎は会津の出身で明治元年(1868年)の会津若松落城のときは10歳でした。幼い頃は「キンネン五郎」と呼ばれ、珍しいくらい大人しい子供だったといいます。戊辰戦争のとき五郎は大叔母の家におり、難を逃れましたが、母ら女性らは会津城下におり、官軍が攻めてきたときに全員自刃して果てました。会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年五郎も東京へ護送されました。その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後、旧会津藩の藩士らは下北半島の斗南へ流され、五郎もそこへ行きました。映画で「北の零年」というのがありましたが、それの会津藩版のようなものです。劣悪な環境化で凍死、餓死するものが次々とでました。五郎は死んだ犬の肉まで食べたといいます。

「武士の子たるを忘れたか。会津の武士ども餓死して果てたるよと薩長の下郎武士に笑われるのは、のちの世までの恥辱なり」

こう父親に叱責され想像を絶する生活に耐えていきます。

 明治4年(1871年)、五郎は青森県派遣の給仕に選ばれたのをきっかけ人生が急展開し、東京に行き、明治6年、陸軍幼年学校に入学しました。このとき秋山好古と同期になります。その後、陸軍士官学校に進んだ五郎は諜報員になることを目指し、明治17年には清国駐在となり大陸を念入りに調べていきます。このことが義和団事件の北京籠城にあたって大きな力になったといわれています。日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て明治31年(1898年)に米西戦争の折にアメリカに行き、秋山真之と一緒になります。

 明治33年(1900年)義和団事件が勃発。各国公使は協力して義和団にあたることになりましたが、総指揮をとったオーストリアのトーマン中佐の判断ミスによりオーストリア兵が逃げ出すという失態がおこり、イギリスのマクドナルド公使が総指揮をとることになりましたが、軍人出身のマクドナルド公使は柴五郎の才能を見抜き、5カ国の兵の指揮官を命じます。どのような苦境にあっても冷静沈着な柴五郎の指揮と日本兵、義勇隊の活躍に籠城の各国兵士は士気を鼓舞され、どの国の武官も柴五郎の指揮下に好んで入るようになり、すべての作戦計画は柴五郎に裁可が求められるようになりました。柴五郎は諜報員としての得意の密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日の籠城戦を持ちこたえました。

英スタンダード紙社説
「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と推しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」

 明治37年(1904年)日露戦争が勃発。柴五郎は砲兵連隊を率いて従軍。日露戦争後はロンドンに着任し、少将に昇進。日英同盟に関する協議に参画します。明治44年(1911年)、上海に派遣され、辛亥革命の諜報活動にあたります。その後も軍人として活躍し中将に昇進し、大正8年(1919年)、陸軍大将に昇進しました。会津藩は賊軍や逆賊とさげすまれた歴史があり、会津藩出で陸軍大将に昇進したのは初めてのことでした。その5年後に引退。

 昭和16年(1941年)真珠湾攻撃の際の自筆の略歴
「万歳を叫び、狂喜感涙するのみ」

 昭和20年(1945年)敗戦のときの柴の日記
「玉音を拝承し、悲憤激昂、生を欲せざらんとす。さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」
「国のために生きた自分の使命は終わった。かくなるうえは、潔く武人としての最期を飾りたい」

 同年9月15日に切腹を計りますが、老体とあってうまくいかず、致命傷には至りませんでしたが、その傷がもとになり12月13日帰らぬ人となりました。享年87歳。


参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎著
 PHP研究所 歴史街道2010.5
   「ここは戦場なるぞ!悲劇と辛酸が心に刻んだ会津武士の誇り」中村彰彦
   「何かひとかどの修行を・・・二人の武士に導かれ、少年は軍人の道へ」八尋舜右
   「米兵は勇敢だが将校は無能・・・若き天才と視察した米西戦争の教え」江宮隆之
   「武人の矜持が結んだ日英同盟、そして二度目の亡国に際し・・・」松田十刻
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著

添付画像
 柴五郎(PD)

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三光作戦という南京虐殺つくり話

三光作戦はプロパガンダでした。

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 昭和12年(1937年)支那事変で南京攻略戦が行われました。司令官の松井石根大将は南京攻略に際して、注意書を定め兵士に徹底させています。以下特に注意した点の要約です。

・中立地帯には立ち入りを禁じ歩哨を置く。
・中山陵(孫文の墓)、革命志士の墓、明孝陵には立ち入りを禁ずる。
・外国権益には絶対に接近してはならない。
・入城部隊は特に師団長が選抜し、そのものには注意事項、とくに外国権益の位置等徹底させる。
・掠奪行為、又不注意といえども火を失するものは厳罰に処する。


 ところが中共では日本軍は野蛮にも殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす「三光作戦」を展開したといい、南京で大虐殺があったなどと言っています。おかしいですね。三光の「光」って殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす意味があったでしょうか。日本語に「光」は明るい意味しかありませんが、支那語では以下の意味があります。

デイリーコンサイス中日辞典 (三省堂)
 ━ 『形』
 (1) 《多く結果補語として》何もない,少しも残らない:
 *輛~|焼き尽くす.
 (2) 滑らかな,すべすべした:
 [油~]つやつやした.
 
 三光作戦というのは支那語であり、日本軍が支那語の作戦名などつけませんね。これは支那軍が撤退するときに行った焦土作戦のことですね。日本軍に施設などを使わせないために行った作戦です。これを日本軍の行為にすりかえたわけです。ニューヨークタイムスの当時の記事にも朝日新聞の記事にも記載があります。「日本に渡す”廃墟南京” 狂気・支那の焦土政策」(昭和12年12月10日朝日新聞)

 このときの模様を外国人記者のダーディン氏はこう述べています。
「中国軍の焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間もおこなわれた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう」

 さらにダーディン記者は日本軍が南京城を攻撃する直前の12月11日には支那軍による市内の掠奪行為が広がって12日夕方には暴徒と化したと述べています。これは中華民国の唐生智将軍が南京からトンズラしてしまったからです。南京の治安は一気に悪化したのです。
 このダーディン記者は国民党宣伝部ベイツ教授のプロパガンダレポートを真に受けて南京で日本軍が残虐行為をしたと誤報を出してしまいますが、それ以外は不自然な証言は見当たりません。

 以上のように「三光作戦」というのはプロパガンダなのですが、こうして注意してみれば、ウソにはほころびがあるものです。戦後言われている歴史には多くそういうものが含まれていますので、不自然だと思ったら調べてみたほうがいいでしょう。特に日本軍は残虐だったと宣伝されてきていますが、日本の軍規は非常に厳しかったのです。例えば強姦すると無期懲役または7年以上の懲役です。戦争が人を変えるという人もいますが、だとすれば敵も同じなわけで、差が現れるとすれば「民度」の差であり、日本人ほど法を守り、道徳観念を持った民族はなく、相対的にみても日本軍が残虐だったということはないのです。



参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明著
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明著
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会監修

添付画像
 昭和12年12月10日朝日新聞  日新報道「南京の実相」より

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国際連盟は南京虐殺を無視していた

マスコミは報じませんでした。

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 平成19年(2007年)2月の衆院内閣委員会で昭和13年(1938年)の国際連盟で中華民国側が「南京の死者は2万人」と主張して無視されたことが明るみになりました。その時の週刊新潮の記事によるとこのことは新聞では報道されていないと指摘しています。私はこの頃、ネットでこのことを知りましたが、それまで南京虐殺は東京裁判まで出てこなかったという認識でしたので国際連盟で提議されたいたというのは驚きました。しかも2万人という数字を中華民国側が主張していたのです。

 この国際連盟の議事録をみますと中華民国代表は
「日本軍が南京で虐殺した中華民国市民の数は20,000人と推定され、また若い娘を含む何千という女性が陵辱されました。」と主張しています。しかし、この主張のよりどころはニューヨークタイムス、ロンドンタイムス、デイリーテレグラフ、モーニングポストという新聞記事をベースに主張しており、国民党自身の調査、報告をベースに主張してはいません。各新聞の報道も実は中華民国政府顧問のベイツ教授らの伝聞によるものを記事にしたようです。つまりプロパガンダに利用されたというわけです。

 ホロコーストに匹敵する大虐殺があったのであれば新聞の一面を飾るはずですが、当時ニューヨークタイムズの記事の見出し一覧をみると、南京虐殺があったとされる昭和12年(1937年)12月14日あたりの記事はパネー号事件(日本海軍機が米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を誤爆)の記事ばかりです。しかも12月8日の記事には
「南京防衛戦の攻防、中国焼工作戦」と書かれており、「焦土作戦」の記事が出ています。支那軍は退却時に施設など燃やしてしまい、日本軍に使わせないようにするのです。蒋介石の日記、昭和12年(1937年)11月総括には以下の記載があります。
 
「抗戦の果てに豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いも寄らなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」

 これらからも南京では敗残兵が逃げ込み支那兵によるすさまじい行為が繰り広げられたことが想像できます。日本軍はこのあとに南京に入ったのです。

 国民党は南京陥落後、南京から漢口、重慶で10ヶ月間300回もの記者会見を開いています。重要なニュース、緊急ニュースがあり、外へ発表する必要が生じた場合は、臨時緊急会見を開くか、電話で記者たちに電話をする、たとえそれが深夜であっても一刻たりとも遅延することはありませんでした。そこでも南京虐殺には一言も触れていません。記者たちは一部のメディアが報じる日本軍残虐行為の知りたがったと思いますが、何も触れられないのでこれはプロパガンダだと思ったことでしょう。国際連盟でも「またウソ八百かよ」と聞いていたことでしょう。

 当時の欧米人の支那人に対する認識はアメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントの言葉によく表れています。現在の中華人民共和国も全然変わっていません。

「中国に長くいる英米人に『中国人の性格で我々とは最も違うものを挙げてください』と訊いたら、ほぼ全員が躊躇なく『嘘つきです』と答えると思う」



参考文献
 週刊新潮07.03.08
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会監修
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道著
 芙蓉書房出版「暗黒大陸 中国の真実」ラルフ・タウンゼント著/田中秀雄、先田賢起智訳

添付画像
 週刊新潮記事

 

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南京虐殺という大嘘

南京虐殺は世紀の大嘘。

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 私は子供のころから「日本は南京でひどいことをした」と教えられてきました。NHKの大河ドラマで「山河燃ゆ」というのがありました。このドラマでは南京で日本軍が虐殺を行ったとしていたと記憶しています。

 あるとき「南京虐殺は無かった」という本が発売され、話題になっていました。テレビを見ていましても南京虐殺のことが取り上げた特集番組をやっていました。思い出しますのがこのときに南京攻撃に加わった実際の日本兵の証言です。既に80歳を過ぎた老人で、顔はぼかしていました。何人かが証言していたと思います。

「こっちも生きるか死ぬかだからね。川べりで機関銃で撃ちまくった。」
「金品の強奪は戦利品という考え方だった」

 これらの証言は民間人か非武装の軍人を川べりにならべて無差別に撃ち殺したり、民間人から金品を強奪したり、婦女暴行を働いたということだったと記憶しています。民間人が撃たれて死ぬか、揚子江に飛び込んで死ぬかしかない状況であり、揚子江に飛び込んだとしても泳いでいるところを機関銃で撃たれたと報道していました。

 このとき疑問が湧いたのです。武器を持たない無抵抗の民間人、あるいは非武装の軍人に対してどうして「こっちも生きるか死ぬか」という証言になるのでしょうか。相手が攻撃してこなければ「生きるか死ぬか」という心境にはならないはずです。この証言はヘンだなと思い始め、機関銃で20万も30万も殺せるか?天皇陛下の軍隊といわれ規律が厳しかった日本兵が金品強奪や婦女暴行など所かまわず常態化して行うだろうか、日本刀で何万人も殺せるだろうか。20万とか30万の死体はどこへ行ったのか。

 南京虐殺は大嘘と気づきました。証言はつまんで日本人に贖罪意識を持たせるように編集されていたのです。一つ例をあげると日本軍の山田旅団が支那兵捕虜の扱いに困り、揚子江まで連れて行き解放しようとしたことがあります。このとき、支那兵が暴動を起こしました。そして日本軍は捕虜約1000名を射殺しました。捕虜は逃亡しようとしたり、暴動を起こした場合は国際法上、処刑してもかまいません。しかし、こういった事実をたくみに南京大虐殺という組織的、意図的大量殺人に作り変えて報道していたのです。

 30万も大虐殺があれば大量の死体があるはずですが、誰も見た人はいません。東京裁判で11万人の埋葬記録が証拠として提出されましたが、埋葬活動した団体が昭和12年南京虐殺があったとされるとき、ほとんど活動していなかったことが昭和60年になって分かりました。東京裁判で証拠が捏造されていたのです。

 南京虐殺というのは東京裁判で日本がドイツのホロコーストと同じ罪があるとして世界に宣伝するために、支那国民党のプロパガンダを持ち出して捏造したものでした。最近は真実が広く知れ渡るようになったので、マスコミは南京虐殺については口をつぐむようになりましたが、まだまだ国民の中には大嘘を信じている人は多いでしょう。

 

参考文献
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明著
 WAC「『南京大虐殺』のまぼろし」鈴木明著
 日新報道「南京の実相」

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 南京昭和12年12月20日の街頭 大虐殺があったとされる頃の南京の写真(日新報道「南京の実相」より)

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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0

ペリリュー島玉砕にある心

戦争の中にも心がありました。

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 昭和19年9月15日からパラオ諸島のペリリュー島にアメリカ軍が上陸。11月27日まで激戦が展開され、日本守備隊9,800名は玉砕しました。

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を!」

 
 これは太平洋司令官長官ニミッツ元帥が作った詩と言われています。ニミッツ元帥は日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎を尊敬しており、武士道精神を持っていました。戦後、戦艦三笠(日本海海戦のときの旗艦)を保存するよう尽力したのはニミッツ元帥です。
 ニミッツ元帥の武士道精神を思わせるエピソードに昭和20年(1945年)5月中旬のある日の沖縄戦でのことがあげられます。米海軍の駆逐艦が慶良間海峡に入り、流暢な日本語で
「日本の皆さん、薬品も衛生材料も尽きたことでしょう。太平洋戦域最高司令官の命により、海岸に揚げます。重砲撃破いたしません」と伝え、薬品類を渡したのです。「敵に塩を送る」という言葉がありますが、まさに武士道精神です。皮肉なことに日本海軍は武士道精神に敗れたのでした。
 
 もう一つペリリューには次のような詩があるので紹介しておきます。ネット上あちこちで掲載されています。以前調べたときは毎日新聞のコラムがソースだったように思います。今は毎日新聞はこのようなことを書かないでしょうね。ちなみにパラオは旧日本領であり、とても親日の国です。
 
 
 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 

 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

 その瞬間、彼は悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。




参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 光人社「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也著
 オークラ出版「世界に愛された日本」『ニミッツ提督と東郷元帥』皆本義博

添付画像
 ペリリューで日本軍の塹壕を爆破して前進する米軍兵士(PD)


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激戦のペリリュー島!
http://www.youtube.com/watch?v=XnwvIhsGhmY




日本はアジアの光

それとなくわかっているはずです。我々の先人を好評価する声。

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 今から28年ほどの前、アジア各国の軍部代表がマニラに集まった時のことです。フィリピンと韓国の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本人と現在の日本企業を罵倒する演説をしました。そこで、インドネシアのアリ・ムルトポ准将は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護しました。(准将はアセアン結成の中心人物)

「日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。我々は軍人だから、人類は絶滅する日まで戦争は続くと考えて、日本の軍人から、ハワイ空襲戦やシンガポール攻略戦を聞こうではないか。私はシンガポールのリー・クワンユー首相の『日本に学べ』運動はすばらしい政治戦略だと思っている」


「もし、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。近くに強力な競争相手がいるということはすばらしいものだ。
 もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。だから企業の成功は容易である。日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。
 インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。(中略) つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、アジア・アフリカにつくしている、と考えている。
 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか」


 私はこの話を何年か前にネットで発見して大変感動したものです。日本の言論空間ではこういった話はタブーになっています。入手できるのはネットの発達のおかげです。大東亜戦争から今日の日本の発展まで日本を高く評価するアジアの国は多いのです。日本国内では戦後はともかく、戦前全否定、大東亜戦争を侵略戦争という論調が多いでしょう。村山談話なる「アジアの国を苦しめた」というアジア全域を指しているかのようなトリックまで使われています。しかし、中共、北朝鮮、韓国の特亜以外は大東亜戦争を高く評価しています。戦争そのものは良いこととはいえませんが、当時は外交の一手段として否定されるものではありませんでした。ですから現代の価値観で語ることはできないのです。私たちの先人が日本の自存自衛と大東亜の解放を「聖戦」と信じて邁進したあの時代、あの戦争をもういい加減見直してもいいでしょう。

 朴鉄柱(韓日文化研究所)昭和42年ソウル
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼビッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。二百数十万の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである」



参考文献
 産経新聞社 別冊「正論」2009Extra.11『日本はアジアの光、と語った反共の立役者との友誼』中島慎三郎
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

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 インドネシアの指導者と日本軍人(PD)

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大東亜戦争の名言集
http://www.youtube.com/watch?v=Gz8s23-SQG4


真珠湾に空母が居なかったのはなぜか

アメリカは真珠湾が攻撃されることを知っていた?
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 私は子供の頃、日米開戦の真珠湾攻撃の話で米国は真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)を事前に知っており、空母を真珠湾から逃がしておいた、という話を聞いていました。また、米国は日本が先制攻撃するのを待っていたとも。
 
 日米開戦となれば日本は真珠湾を攻撃してくると米国が見ていたのは間違いありません。既に米フランク・ノックス海軍長官は昭和16年1月24日の時点でハワイ海軍基地が日本による空爆、魚雷攻撃、破壊工作、潜水艦攻撃、ハワイ海域への機雷設置および日本艦艇からの砲撃に対して、弱点を抱えている点を指摘しています。ノックス海軍長官はスチムソン陸軍長官に手紙を出して
「日米開戦は必至である」「そのとき日本側は必ず真珠湾を攻撃してくる」「それは夜明けの奇襲となるであろうから警戒措置を取るように」という意味のことを書いています。
 さらに7月25日にハワイでアドバタイザー紙が真珠湾が空襲を受ける可能性があるという特集記事を発表しました。この頃、米国は日本に対して全面的禁輸措置をとっており、これはいわゆる最後通牒とでもいうべきものでした。米の無線監視局の局長ジョセフ・ロシュフォートは以下のように述べています。
 
「われわれは彼らの資金も燃料も貿易も断ち、日本をどんどん締め上げている。彼らには、この苦境から抜け出すには、もう戦争しか道は残されていないのが、わかるだろう」

 日本軍は攻撃するしかない、やってくるとしたら「真珠湾」と誰もが見ていたわけです。11月になるとジョセフ・ロシュフォートは太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将に日本艦隊の東へ向かう動きを報告し、キンメル大将は演習第191号を発し11月23日より日本機動部隊を捜索しています。

 ただ、アメリカ政府としてはアメリカ市民が戦争を嫌がったので、最初の一発は日本に撃たせてある程度の軍事的損害は覚悟しなければなりませんでした。そこで空母だけは逃がした・・・という説があります。たしかに11月26日に米本国からハワイ宛に陸軍の追撃機を航空母艦を使用してウエーク島、ミッドウェー島に運ぶように指示が出ています。11月28日に空母エンタープライズが真珠湾を出向し、12月5日に空母レキシントンが出航しています。このとき、最新鋭の軍艦が護衛しています。これらを見ると確かに空母と最新鋭艦を真珠湾から逃したといえます。あるいは真珠湾目指してやってきた日本軍を背後側面から攻撃する意図もあったのかもしれません。
 
 そして12月8日、日本軍はやってきました。米は最初の一発を撃たせるのが目的でしたが、その一発は大きな一撃となりました。この頃の米国人の日本人に対する認識は「出っ歯で近眼」でした。

「日本人は首がすわる前からおぶられ揺すられるから、バランスをつかさどる内耳に異常をきたし、急降下飛行ができない」
「近眼で鳥目だから夜間飛行はできない」
「日本人には独創力と想像力に欠けている。わずかな能力は単なる模倣性にしかすぎない」


 真珠湾が攻撃されても日本はたいしたことは出来ないだろう、と思っていたのが大打撃になったわけです。



参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ローバト・B・スティネット著/妹尾作田男=監訳/荒井稔・丸田知美=共訳
 ワック出版「歴史通」2009/10『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二著

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 真珠湾攻撃開始直後の写真と思われる(PD)

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Attack on Pearl Harbor 真珠湾攻撃
http://www.youtube.com/watch?v=D3QHdlmh7D8

異国の地で涙し、恐怖を知った日清戦争

支那の残虐さを知った日清戦争

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 朝鮮半島で東学党の乱がおこり、清国は「属邦保護」のため出兵。日本は清国に強行に抗議し済物浦条約(さいもっぽじょうやく)に従い出兵します。朝鮮の李朝、閔氏一族は逃亡しました。そして閔氏一族の反対勢力であった大院君が李朝に復権します。大院君は清韓宗属関係(清国が宗主国で韓国が従う国)の破棄を宣言し、駐屯の清国軍の排除を日本に依頼します。明治27年(1894年)8月1日、日清両国は宣戦布告を交わします。

「朝鮮は帝国(日本)が始めに誘って列国と交際を始めた独立国である。清国は常に朝鮮を属邦としてしか扱わない」(布告文)

 日本は朝鮮の独立をかけて戦うことになります。本来、独立国家となるなら朝鮮が戦うべきですが、李朝には戦う力はなく、日本が戦うことになります。もちろんこれは日本の国益にもかなっており、半島の安定と日本との友好関係は日本の安全保障の基礎です。

 7月25日の朝鮮西岸の豊島沖の遭遇海戦以来、陸戦、海戦ともに日本軍の連戦連勝でした。後の支那事変でも同様ですが、支那では前線で戦う兵士は各地から拉致したり、募集した若い男子を兵士にしています。要するに烏合の兵士です。ですから士気が低く、まともに戦えば勝負になりませんでした。日本軍は愛国心を持った天皇の軍隊でであり、使命感、練度が全く違います。

 戦闘で頑強に抵抗する清軍の陣地を攻略した日本の兵士は鎖で足を縛られた清国兵士を見て驚き、憐れなその姿に涙を流したと言います。逃げられないよう死ぬまでここで戦うように鎖で縛られていたのです。清軍は督戦隊というのがいて、前線の兵士を監視し、逃げると撃ち殺していました。
 また、清軍の捕虜になった日本兵の無残な姿を見て捕虜の運命を知ります。虐殺され食われていたのです。大陸、半島では食人の習慣があったのです。また支那軍は日本軍の首を取ったものには懸賞金までかけており、200名が首を取られ、銃殺者は計り知れなかったといいます。

「敵はわが軍の屍に向かって実にいうべからざる恥辱を与へたり。死者の首を斬り、面皮を剥ぎ取り、或いは男根を切り取り、胸部を割きて入るるに石を以ってす。この様を見て誰か驚かざらん」(秋山好古騎兵大隊の稲垣副官の手紙)

 清軍は日本兵だけでなく朝鮮住民に対しても掠奪、強姦、虐殺をほしいままにし、清軍のいくところ、人民は悉く町や村を捨てて逃避する有様で、さすがの清の指揮官も「髪、天を指す」と打電するほど激怒しました。

 この清軍のあまりの残虐ぶりに山県有朋第一軍司令官は次のように布告します。
「(敵に対しては)軍人といえども降るものは殺すべからず、然れどもその策術にかかる勿れ。かつ敵国は古(いにしえ)よりきわめて残忍の性を有せり。誤って生け捕りに遇はば、必ず残虐にして死にまさる苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為を以って身命を殺害せらるるは必然なり。故に決して敵の生捕りする所となるべからず。むしろ潔く一死を遂げ、以って日本男児の名誉を全うすべし」

 日清戦争は大陸の生死の過酷さを日本人に教え、負けて捕虜になったときの脅迫観念を植え付けました。これは後の大東亜戦争時の戦陣訓「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」につながっています。

 清軍の蛮行の一方、日本軍は終始、国際法を忠実に守りました。フランスの国際法学者フォーシーユ。
「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘らず、自らはこれを遵守した」


参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著

添付画像
 平壌の戦い(PD)

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明治27-28年(1894-95) 日清戦争
http://www.youtube.com/watch?v=vifS8jWKs9M

東京裁判で全員無罪を主張したパール博士

法の下に全員無罪。

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 パール博士は東京裁判(極東国際軍事裁判)の判事をしていた人です。東京裁判というのは昭和21年(1946年)4月29日から昭和23年(1948年)11月12日まで行われた戦争犯罪を追及する裁判です。この裁判は第二次世界大戦で戦勝国が敗戦国を裁くという一方的な裁判でした。

 この東京裁判で11人の裁判官がいましたが、国際法の専門だったのはパール判事だけでした。裁判長のウェップはオーストラリア人で政治的な人物でした。アメリカの判事も当初は政治的な人で、途中で交代しましたが、法律行政関係の人でした。その他各国の判事も裁判官をしていた人もいますが、ソ連からは軍事裁判所の少将をしている人が判事になっています。アジアからはパール博士のほか、フィリピンから判事が選ばれていますが、アメリカに協力した支配階級の人でした。
 
 オランダのレーリンク判事の回想によるとパール判事が「私は他の10人の裁判官の判決に縛られるつもりはない」と言ったので「反対意見」を許容しない判事らの構想は崩れてしまったと述べています。そして、多数はに組しない裁判官は自分が多数派に同意していると思われないために、自分たち自身の意見を表明せざるを得なくなったと言っています。パール判事の態度が一部の裁判官に法律家としての自尊心を目覚めさせたといえます。
 
 パール判事は”「裁判憲章」の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”とし、日本人被告全員無罪を主張しました。「平和に対する罪」「人道に対する罪」というのはドイツを裁いたニュルンベルク裁判で創られたものです。法は不遡及という原則があり、後で決めた法律で過去を裁くということはできません。パール判事は法に従い、全員無罪を主張したわけです。パール博士は次のように述べています。
 
「私が日本に同情ある判決を行ったと考えられるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したのではなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したに過ぎないそれ以上のものでもそれ以下のものでもない」

 パール博士は東京裁判の後、国連の国際法委員会の委員長として活躍され、日本にもたびたび来日しました。そして日本国民が東京裁判史観にまどわされて、自虐、卑屈にならないよう日本全国を遊説(ゆうぜい)しました。
 
 昭和27年(1952年)11月6日、広島高裁における歓迎レセプションにて
「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。誤れた歴史は書きかえられねばならない」
 
 パール博士は平和公園にある「過ちは繰り返しませぬ」に代わる詩を執筆しています。

 広島市中区 本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」

   激動し変転する歴史の流れの中に
    道一筋につらなる幾多の人達が
    万斛の思いを抱いて 死んでいった
    しかし
    大地深く打ち込まれた
    悲願は消えない

    抑圧されたアジアの
    解放のため その厳粛なる
    誓いにいのち捧げた
    魂の上に幸あれ
    ああ 真理よ
    あなたは我が心の
    中に在る その啓示
    に従って 我は進む

    一九五二年一一月五日
    ラダビノード・パール



参考文献
 小学館文庫「パール判事の東京裁判日本無罪論」田中正明著
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ編/序 小菅信子訳

参考サイト
 浅岡指圧室
  『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著 
    http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html
 WikiPedia「ラダ・ビノード・パール」
 
添付画像
 パール判事の顕彰碑(東京九段・靖国神社内・遊就館前)2007年12月9日、Lover of Romance撮影
 

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東京裁判 パール判事【Tokyo Trial】
http://www.youtube.com/watch?v=-oBfWS6BEPs

一部の日本人しか知らない「戦犯」の真実

戦犯というのはいません。

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 多くの人は大東亜戦争は日本の侵略だったと教えられているでしょう。東條英機が日米戦争を起こしてA級戦犯だったと信じているでしょう。東條英機のお孫さん、東条由布子さんは「真実の歴史を明確に国内外に伝えて欲しい」と主張しています。

 随分前ですが「プライド-運命の瞬間(トキ)」という、東條英機を描いた映画がありました。この映画では東條英機元首相の家族の様子も描かれていました。印象的なのは東京裁判が行われているとき、東条英機元首相のお孫さんが学校を転向して先生に紹介されるとき
「東條くんのおじいさんは日本で一番悪いことをした人です」と紹介したシーンです。映画では夫人が東條姓を名乗るのをやめたといっていました。しかし、その後また東條姓に戻したと記憶しています。

 東条由布子さんの主張の中から

■昭和27年 超党派の決議で、全ての所謂戦争犯罪者を「法務死」という呼称に変え、日本には戦争犯罪者は一人も居ないと閣議決定したこと。

 昭和27年(1952年)4月28日に日本はGHQの占領を解かれて主権を回復し、5月1日に法務総裁が「東京裁判での戦犯は国内法的には戦犯ではない」という通達を出しています。東京裁判というのは事後法で裁くというデタラメな裁判であり、多くの法律家が否定的に見ています。そして日本国内の法律では戦争犯罪に該当しません。昭和28年から昭和29年にかけて、遺族援護法や恩給法の改正がなされました。これは一時期戦犯とされ、援護や恩給の対象からはずされていた人たちも対象にするというものです。国会で十分審議されて、与野党共に賛成しています。何より日本国民はすべての戦犯の釈放を求めて4000万という署名が集まっています。
 
 なのに靖国神社にA級戦犯が合祀されているから、総理大臣は参拝しないというのはおかしな話です。中共が文句を言ってもそれは内政干渉です。アメリカのアーミテージ元国務副長官は次のような意見を述べています。


「主権国家である日本の総理大臣が、中共に限らず、他の国から靖国神社に参拝してはいけないと指摘されるようなことがあれば、逆に参拝すべきです。なぜならば内政干渉を許してはいけないからです。もう一つは、すべての国が戦死者を祀りますが、それぞれのやり方でいいのだと思います」

 そもそも大東亜戦争とはどのようなものだったのでしょう。米・連合国最高司令官だったマッカーサーは昭和26年(1951年)5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の答弁で次のように述べています。


「日本は、絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い、その他実意に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

 
 靖国参拝についてはマスコミはよく問題視報道しますが、A級戦犯はいないことが決定されていることは一切言いません。マッカーサーの発言も一切言いません。私たちは真実を隠されたまま
「日本が侵略戦争をした」と教えられているのです。



参考文献
 扶桑社新書「日本よ、永遠なれ」山谷えり子著
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明著

参考サイト
 東条由布子さんの公式ページ http://www.tojo-yuko.net/
 
添付画像
 東条英機と、妻の勝子、孫の由布子(PD)

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靖国神社を参拝した世界各国の要人
http://www.youtube.com/watch?v=iyWN_Tfsf9E

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