三光作戦という南京虐殺つくり話
三光作戦はプロパガンダでした。
昭和12年(1937年)支那事変で南京攻略戦が行われました。司令官の松井石根大将は南京攻略に際して、注意書を定め兵士に徹底させています。以下特に注意した点の要約です。
・中立地帯には立ち入りを禁じ歩哨を置く。
・中山陵(孫文の墓)、革命志士の墓、明孝陵には立ち入りを禁ずる。
・外国権益には絶対に接近してはならない。
・入城部隊は特に師団長が選抜し、そのものには注意事項、とくに外国権益の位置等徹底させる。
・掠奪行為、又不注意といえども火を失するものは厳罰に処する。
ところが中共では日本軍は野蛮にも殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす「三光作戦」を展開したといい、南京で大虐殺があったなどと言っています。おかしいですね。三光の「光」って殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす意味があったでしょうか。日本語に「光」は明るい意味しかありませんが、支那語では以下の意味があります。
デイリーコンサイス中日辞典 (三省堂)
━ 『形』
(1) 《多く結果補語として》何もない,少しも残らない:
*輛~|焼き尽くす.
(2) 滑らかな,すべすべした:
[油~]つやつやした.
三光作戦というのは支那語であり、日本軍が支那語の作戦名などつけませんね。これは支那軍が撤退するときに行った焦土作戦のことですね。日本軍に施設などを使わせないために行った作戦です。これを日本軍の行為にすりかえたわけです。ニューヨークタイムスの当時の記事にも朝日新聞の記事にも記載があります。「日本に渡す”廃墟南京” 狂気・支那の焦土政策」(昭和12年12月10日朝日新聞)
このときの模様を外国人記者のダーディン氏はこう述べています。
「中国軍の焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間もおこなわれた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう」
さらにダーディン記者は日本軍が南京城を攻撃する直前の12月11日には支那軍による市内の掠奪行為が広がって12日夕方には暴徒と化したと述べています。これは中華民国の唐生智将軍が南京からトンズラしてしまったからです。南京の治安は一気に悪化したのです。
このダーディン記者は国民党宣伝部ベイツ教授のプロパガンダレポートを真に受けて南京で日本軍が残虐行為をしたと誤報を出してしまいますが、それ以外は不自然な証言は見当たりません。
以上のように「三光作戦」というのはプロパガンダなのですが、こうして注意してみれば、ウソにはほころびがあるものです。戦後言われている歴史には多くそういうものが含まれていますので、不自然だと思ったら調べてみたほうがいいでしょう。特に日本軍は残虐だったと宣伝されてきていますが、日本の軍規は非常に厳しかったのです。例えば強姦すると無期懲役または7年以上の懲役です。戦争が人を変えるという人もいますが、だとすれば敵も同じなわけで、差が現れるとすれば「民度」の差であり、日本人ほど法を守り、道徳観念を持った民族はなく、相対的にみても日本軍が残虐だったということはないのです。
参考文献
WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明著
小学館文庫「南京事件の総括」田中正明著
日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会監修
添付画像
昭和12年12月10日朝日新聞 日新報道「南京の実相」より
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