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ペリリュー島玉砕にある心

戦争の中にも心がありました。

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 昭和19年9月15日からパラオ諸島のペリリュー島にアメリカ軍が上陸。11月27日まで激戦が展開され、日本守備隊9,800名は玉砕しました。

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を!」

 
 これは太平洋司令官長官ニミッツ元帥が作った詩と言われています。ニミッツ元帥は日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎を尊敬しており、武士道精神を持っていました。戦後、戦艦三笠(日本海海戦のときの旗艦)を保存するよう尽力したのはニミッツ元帥です。
 ニミッツ元帥の武士道精神を思わせるエピソードに昭和20年(1945年)5月中旬のある日の沖縄戦でのことがあげられます。米海軍の駆逐艦が慶良間海峡に入り、流暢な日本語で
「日本の皆さん、薬品も衛生材料も尽きたことでしょう。太平洋戦域最高司令官の命により、海岸に揚げます。重砲撃破いたしません」と伝え、薬品類を渡したのです。「敵に塩を送る」という言葉がありますが、まさに武士道精神です。皮肉なことに日本海軍は武士道精神に敗れたのでした。
 
 もう一つペリリューには次のような詩があるので紹介しておきます。ネット上あちこちで掲載されています。以前調べたときは毎日新聞のコラムがソースだったように思います。今は毎日新聞はこのようなことを書かないでしょうね。ちなみにパラオは旧日本領であり、とても親日の国です。
 
 
 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 

 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

 その瞬間、彼は悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。




参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 光人社「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也著
 オークラ出版「世界に愛された日本」『ニミッツ提督と東郷元帥』皆本義博

添付画像
 ペリリューで日本軍の塹壕を爆破して前進する米軍兵士(PD)


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激戦のペリリュー島!
http://www.youtube.com/watch?v=XnwvIhsGhmY




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