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2011年1月

歴史で謝罪することはアジアへの侮辱だった

アジア解放に命を捧げた先人の思いを無にしてはなりません。

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 「村山談話」というのをご存知でしょうか。平成7年(1995年)8月15日に村山首相(当時)が発表した談話です。以下、その一部です。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」

 こう言って謝罪しているのです。「遠くない過去」というのは大東亜戦争のことを指しています。大東亜戦争は自存自衛、アジア解放の戦争でした。特ア3国以外は日本の功績を高く評価しています。それなのに謝罪するとは「アジア解放」が間違いだった、と言っているのです。

 実は村山談話より前、平成3年に海部俊樹首相(当時)がASEAN諸国を訪問し、シンガポールで同様の演説を行っています。

「今年は太平洋戦争の開始から50年の節目に当たり、私はあらためて今世紀前半の歴史を振り返り、多くのアジア・太平洋地域の人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたわが国の行為を厳しく反省する」

 もちろん戦争には苦しみ悲しみがあり、それを直視することは必要ですが、戦争というものはさまざまな原因があり、さまざまな結果があります。大東亜戦争によってアジア解放が実現したのは誰の目にも明らかであり、全否定するようなことを言えば当然、反発もあります。この海部演説に対してASEAN諸国で幻滅した声を中島慎三郎という人が現地レポート「海部首相の人気がASEANで失墜」を書いています。


「日本はあれだけの大戦争を勇敢に戦いながら、その国の首相が、先輩の業績を否定するような発言するのは無責任だ」

 ASEANの人たちは日本人はサムライ精神を持っている、と思っており、お詫びする日本人は歴史を否定するものとして軽蔑するのです。威張るのもダメだし、ペコペコするのもダメなんです。


「ヨーロッパは500年にわたってアジア・アフリカを搾取した。しかし彼らは決して謝罪しないし、賠償金も払わない。もしこれがイギリスや中国だったら『海部首相は利敵行為をした。彼は売国奴である』と罵倒されるに決まっている。英・蘭・仏等はなぜ謝罪も賠償金も払わないのか、研究しなさい」(オランダ系混血児、元新聞記者。ヤン・ビルダ夫人)

「私と同じ早大出身の海部首相が、大東亜戦争を理解しないのは遺憾である。あれでは戦死者は犬死になってしまう。アジアの大部分は親日なのに、なぜ少数派の反日派に迎合するのか」(早稲田出身のインドネシアのオマール・トシン博士)

 こうしたアジアの声を象徴しているのが昭和30年(1955年)のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)での出来事がわかりやすいでしょう。日本の初代国連大使となった加瀬俊一氏がこの会議に参加して、このときの様子を語っています。以下一部を記します。日本人はしっかり記憶すべきです。


「アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれど、ご承知のように悪いことをしなかったわけじゃない。それでね、『(会議に)行ったら白い目でみられるんじゃないか』と思ってあまり気が進まなかった。
 しかし、その会議に行くとね、あちらこちらから、アフリカの代表、アジアの代表が出てきてね、『よく来たね』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。それは『日本が、大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。
 この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。(中略)
 こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やあ、こっちへ来て下さい』『いやあ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなあ』とそう思いました」




参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 桜の花出版「アジアが今あるのは 日本のお陰です」桜の花出版編集部

参考サイト
 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html

添付画像
 バンドンの風景(PD)

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大東亜戦争の真実 http://www.youtube.com/watch?v=UdpaTT5EYI0

バターン死の行進というウソ

プロパガンダを信じ込まされていました。

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 私は子供の頃、とにかく大東亜戦争中、日本は「悪」として教え込まれました。その中でフィリピンでバターン死の行進という日本軍がアメリカ軍に対して残虐行為をしたと教えられました。実はこれはデタラメでアメリカのプロパガンダでした。

 アメリカの司令官はマッカーサーです。アメリカ軍はコレヒドール要塞に立て篭もっていましたが、状況は不利になり、マッカーサーは部下を置いてトンズラしています。残った部下たちは餓死するかマラリアなどの病気で死ぬしかありません。そして日本軍に投降しました。日本側はアメリカ軍捕虜2万5千と見積もっていましたが、7万5千が投降してきたのです。捕虜に与える食糧も不足しており、捕虜収容所へ輸送するトラックも不足しており、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、捕虜の半数以上が徒歩で行進することになりました。これが死の行進というプロパガンダに使われたのです。この距離なら、だいたい3日もあれば歩けます。しかし、衰弱していた人やマラリアにかかった捕虜が途中で亡くなりました。

 当時を知るフィリピンの画家、ダニエル・H・ディソンさんはサンフェルナンドから鉄道に乗せられて移動してくる捕虜にアンヘレスというところで現地住民が食糧を与えている様子を著書に記しています。
「それぞれの車両の屋根には銃剣を構えた日本兵が見張りに立っていたのですが、兵隊たちは食べ物が捕虜たちに与えられているのをただ見ているだけでした。
 列車の周りにいる人々は、大声を上げ、あるいは悲鳴を上げながら、水の入ったビンやビスケット、玉子、サトウキビ、バナナの葉でくるんだライスなどを次々に投げ入れていました。
 それを兵隊たちは何もせずに見ており、笑ってさえいたのです」


 捕虜を意図的に虐殺しようとしていたのであれば、このような光景はあり得ないでしょう。

 このバターン半島死の行進をジャーナリストの笹幸恵さんが実際に歩いて検証しており、ウソが暴かれています。西村知美だって24時間テレビで100Kmマラソンやっているのですよ。これには死の行進を強制されたという元アメリカ軍のレスター・テニーと言う人が抗議してきました。このテニー氏の著書「我が地獄からの兵役」を引用してジャーナリストの高山正之氏が面白い記事を書いています。

日本軍の拷問
「板に大の字に寝かせ足を十インチ高くする。それで塩水を飲ませる」

 これはアメリカがフィリピン占領のときにアギナルド軍に対してもやった拷問で「水治療」というものだそうです。アメリカ軍がやったことを日本軍にすり替えたわけです。私が読んだフィリピン人の証言にも日本軍がこの「水治療」をやったことが書かれていますが、おそらく拷問の現場を見ていないのでアメリカがやったことを想像して証言しているのでしょう。

「竹をひも状にして親指を縛られぶら下げられた」

 これはゲーリー・クーパー主演の「海の魂」で海賊の拷問なのだそうです。日本人は知りません。

「指の爪の間に竹ひごを突っ込まれ、そこに火をつけられた。指が焼けた」

 これもクーパーの映画「ベンガルの槍騎兵」か「ボージェスト」なのだそうです。

 笑うのはテニー氏は水牛狩りを手伝わされ、日本兵が銃を貸してくれて狩をした、というものです。失敗して銃の台尻で殴られたのだそうです。捕虜に銃など渡しますかいな。それに日本軍は銃は天皇陛下からの頂き物という意識があったので平時にそのような使い方はしないのだそうです。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
 桜の花出版「フィリピン少年が見た カミカゼ」ダニエル・H・ディソン(著)
 歴史通2010.9「『バターン死の行進』はクサイぞ」高山正之
参考サイト
 WikiPedia「バターン死の行進」

添付写真
 バターン死の行進の証拠写真とされてきたが、2010年3月19日、AP通信は「バターン死の行進を撮影したものでなかった」として訂正するとともに検証記事を配信した。同通信によると、この写真は行進から数週間後に収容所にて撮られた、米兵の遺体を埋葬のため運ぶ様子を写したものであるという。(PD)

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韓国問題(慰安婦)は朝日新聞の捏造だった

従軍慰安婦は朝日新聞の捏造だった。

Photo

 韓国問題(慰安婦)は平成3年(1991年)、朝日新聞の記事が発端となり、元慰安婦と名乗る女性が補償を求めて日本政府を提訴したものです。平成4年(1992年)から平成5年(1993年)まで日韓両政府の調査で日本政府あるいは日本軍が強制連行した事実はないことが判明しています。

 宮沢談話、河野談話という強制連行があったかのような曖昧な談話が出たのは韓国側からの「名乗り出た慰安婦の名誉を守って欲しい」という韓国側の要請によるもので、そのような発言をすれば今後は「従軍慰安婦」について言及しないし、賠償も求めないという密約外交によるものです。このことは当時の官房副長官である石原信雄氏が平成9年(1997年)に暴露しています。宮沢談話、河野談話のおかげで今なお日本国民はゆすられ、たかられているのです。
 
 吉田清治という人が昭和18年5月に済州島で「慰安婦狩命令」があったと述べていますが、大嘘であることが複数の専門家の指摘によりわかっています。また、韓国のマスコミが済州島に調査にいった結果、吉田氏の言っている村から強制連行された事実はなく、済州島の郷土史家が追跡調査した結果も吉田氏の主張はウソであることがわかりました。これらは「カネ」目当ての話なんです。名乗り出た慰安婦も、それを利用する吉田氏のような輩や、そしてこれに政治家が絡んでいるのです。吉田氏は戦後、下関の市会議員に共産党から立候補しており、赤旗新聞に登場したこともあり、共産党の「従軍慰安婦強制連行」キャンペーンに符号しています。

 若狭和朋著「続・日本人が知ってはならない歴史」を読みますと若狭氏は歴史の教師を長年務めており、突然歴史教科書に現れた「従軍慰安婦」を不審に思い、若狭氏の母に見せたそうです。若狭氏の母は南支那派遣軍広東第一陸軍病院の総婦長だった人で、彼女は歴史教科書を読み
「馬鹿なことを」と吐き捨てるように言い、「従軍記者、カメラマン、など従軍と言えば身分は軍属であり、戦死なら靖国神社よ。従軍慰安婦などと、こんなばかな言葉はなかった」と書いています。若狭氏の母は捏造と歪められた歴史に驚き、悔しく思い、この先の日本を憂いたことでしょう。

 昭和40年(1965年)日韓基本条約で日本政府は韓国と交戦していたわけではないので賠償金は払えないが、損害をこうむった個人に対して補償しています。韓国は個人への分配および北朝鮮分までも一括して受け取っています。これで両国間の請求権は終了しています。それでも歴史を捏造し、ゆすりたかりが行われているのです。本当は日本政府がきちんと対応しないのがいけないのですが、その政府がおかしな談話を出しているのですからどうしようもありません。村山政権の「村山談話」、菅政権の「菅談話」も同じです。政府がこうしたバカの行進を続けるのは我々国民が無知であるというのも大きな要因です。国民は韓国問題は捏造であることをちゃんと知り、裏にカネ儲けや政治家の票集め、戦後の革命思想があることを知っておかなければならないでしょう。



参考文献:
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子編
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 徳間書店「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫・著 / 永島 広紀・訳

添付画像
 「朝日が作った歴史」より

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添付映像から年表を抜粋

1991年 「朝日」植村記者「従軍慰安婦強制連行」記事
 ↓
 同年 元慰安婦3人が補償を求めて日本政府を提訴
 ↓
1992年 宮沢首相、日韓首脳会談で植民地支配と「慰安婦」につき謝罪
 ↓
 同年 政府の調査で強制連行を裏付ける資料がないことが判明
 ↓
1993年 河野談話(根拠資料なきまま強制認める)
 ↓
1996年 中学歴史教科書に「慰安婦」記事(これ以前、韓国では取り上げていない)

 1.政府・軍の指示文書 => ゼロ
 2.加害者の証言 => 吉田清治氏のウソ以外ゼロ(吉田清治氏ウソ認める)
 3.目撃者の証言 => ゼロ
 4.被害者の証言 => 裏づけのあるものはゼロ
 5.日韓基本条約締結(1965年) => 韓国側主張ゼロ


朝日が作った歴史
http://www.youtube.com/watch?v=EoAmItpLGuE



靖国に参拝してなぜ悪い ~ 日本人はとても素敵だった

靖国に参拝してはいけないのですか?

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 台湾の楊 素秋(よう そしゅう)さんは、台湾の日本統治時代の自身の体験をもとに桜の花出版「日本人はとても素敵だった」を書いており、靖国参拝について元日本人より現日本人へ次のように意見しています。

「なぜ靖國神社に参拝してはいけないのでしょうか?
 靖國神社に首相が参拝すると、中国や韓国から非難され、日本国内ですら反対論が声高に叫ばれますが、自国の先祖の霊を鎮めるために行くんだと、自国民の霊を弔うのがどうしていけないのかと、それと君たちの国と何の関係があるかと、内政にまで口をはさむなと、なぜ言えないのでしょうか? 不思議で仕方ありません。
 靖國神社に祀られている人たちは、日本の国のために散って行った桜の花です。同じ死ぬのだったら、国のためとか誰かのために命を捨てる方が、犬死にをするよりもましだと思いませんか。

 命を捨てる精神には一体何があるのか。そこにはまさに「大和魂」というものが作用しているのだと思うのです。
 昔、日本人は東洋のために命を擲ったのです。戦争に行く時は皆、東洋のため、東洋平和のためにと言って行ったのです。その人たちの霊に対して、『霊が浮かばれますように、そしてとにかく安らかに眠って下さい』と祈ることのどこが悪いのでしょうか。そのことと政治とは何の関係もありません。
 今の日本の対応を見ていると、私は、もどかしくて仕方ありません。イライラしてきます。本来の日本人を知っている台湾人の勝手な想いではありますが…」。


 靖国神社というのは明治2年(1869年)、明治天皇が「わが国のために尽くした人々のみたまは国自ら永久に御祀りするべきである」との聖勅により建造されました。戊辰戦争によってなくなった人は公に殉じたとして地域民間で「村の守護神」と祀られていたのを、国家が引き継いだものです。靖国は政治的なものとしてつくられたというのはまったくのウソです。日本人古来の先祖崇拝の信仰に基づいたものです。

 A級戦犯が祀られているのが良くないという意見もありますが、そもそも日本には戦犯はいません。昭和28年、日本主権回復後、法務総裁が「東京裁判での戦犯は、国内法的には戦犯ではない」という通達を出して、遺族援護法や恩給法も改正され、一時期戦犯となり、対象から外れた人も対象にされました。A級戦犯とされた人たちが昭和53年(1978年)に合祀されていますが、その後も首相が20回も参拝しており、中韓は全く騒いでいません。昭和60年になって朝日新聞が無理やり騒ぎ出して、社会党が呼応して強引に外交問題にしたのです。

 昨年はとうとう8月15日に閣僚の参拝はありませんでした。日本は多神教であり神といえば八百万の神です。森羅万象すべてに神が宿り、人は死ねばみな神様仏様です。支那はまったく異なる文化で「敵」に対しては「絶対不寛容」であり、死者に唾を吐く文化です。日本の政治家は日本人の魂を売り、支那にあわせたのです。このままでは日本が何回謝罪しようとODAと世界銀行などを通して6兆円出そうと全然関係なく未来永劫、日本国民の財産はむしりとられていくでしょう。



参考文献
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋 (著)
 扶桑社新書「日本よ、永遠なれ」山谷えり子(著)
 幻冬舎「靖国論」小林よしのり(著)

添付画像
 靖国神社(JJ太郎撮影 PD)

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靖国神社を参拝した世界各国の要人
http://www.youtube.com/watch?v=iyWN_Tfsf9E


日本人はとても素敵だった

台湾に日本の心が残っていた。

1931

 台湾の楊 素秋(よう そしゅう)さんは、台湾の日本統治時代の自身の体験をもとに桜の花出版「日本人はとても素敵だった」を書いています。
 台湾は明治27年(1894年)から明治28年の日清戦後後の下関条約によって清国から日本へ割譲された島で、これより50年の間、日本による統治が行われます。戦後、我々は「台湾は日本の植民地だった」と学校教育やマスコミによって刷り込みが行われてきましたが、実際は内地延長主義であり、同化主義でした。同化主義といっても強硬なものではなく、その土地の民族の文化や性格を研究を基礎とした合理的なものであり、寛容性を持って接したものでした。

 楊さんの著は女学校受験のために台南へ向かう汽車での出来事のことが最初に書かれています。汽車はぎゅうぎゅう詰めの状態で楊さんは戸口のステップにかろうじて乗れました。鉄棒につかまったまま汽車が出発します。楊さんは次第に腕が痺れてきて、鉄橋に差し掛かったときの轟音に動じてステップから足を踏み外してしまいます。ここで日本軍人が楊さんを咄嗟に掴んでひっぱりあげてくれました。その軍人は台南に着くと名も告げずに去っていったそうです。

 楊さんは日本統治時代の古きよき日本、すばらしかった日本の教育、優しい日本の兵隊さんのこと、戦後、支那人が台湾にやってきて酷かったことなどを書いています。そして現代、日本人に数々の提言をしています。その中から一部を記したいと思います。

「日の丸は、いつでも私の心の中にあります。今の台湾の国旗よりも翩翻と翻る日の丸の旗が、私の脳裏にはいつも浮かんで来るのです。色々な旗の中で一番初めに目に付くのは、やっぱり日の丸です。旭日といったらこれから昇る太陽のこと。素晴らしい、綺麗だ、と単純にそう思えるのです。本当に素晴らしい。日本人にももっと愛してもらいたいと思います」

 このことだけでも現代日本と大きく乖離しているでしょう。祝祭日に国旗を掲げる家はどれほどあるでしょうか。

「昔、『八紘一宇』という、世界を一つの美しい家にするという言葉がありました。私はその発想が素晴らしいと思っていました。
 今でも兄とよく話すのですが、もし、大東亜戦争がなかったらどうなっていただろうか、と。恐らく今の東洋の発展はなかったのではないかと思います。西洋の文化に侵略されて東洋の文化は失われていたでしょう。このように、大東亜戦争は白人の侵略を防ぐことが出来たという素晴らしい功績を残したことも、また事実なのです。それなのに、日本は四十年も五十年もお前だけが悪いと言われ続けています」


 この元日本人の認識は重要だと思います。台湾ですから戦後日本の自虐史観を押し付けられていないわけです。

「大東亜戦争の原因は、聞く所によると、アメリカが石油、石炭をはじめ全ての燃料や物資を日本に売るなと言ったことです。資源を輸入にたよっている日本にとって、それは大変な痛手だったのです。そこで、自活の道を求めた日本は、東南アジアに進出し大東亜共栄圏を形成しようと試みたのです。その大東亜共栄圏を保護するためとアメリカの東亜侵略を覆すために矛をとったのが、大東亜戦争だったのです。
 ですから、日本人が戦争好きと思われるのは、私は不本意なのです。決して日本人は戦争好きではありません。先の大戦は、争いを好まぬ日本人がやむにやまれぬ思いで立ち上がったのだと信じています。
 一握りの心無い人の言葉に振り回されて、一億の日本国民が日本人であることに誇りを持てなくなるのは、悲しいことです。昔の日本精神はどこにいったのですか! 私はそう叫びたいです。しっかりして欲しいのです。
 だから、外国からのゆすりやたかり、自国の中の歪んだ考えの人たちによる国を崩壊させようという企みに揺らいで、『ごめんなさい』と謝り続けるのは、どうかしています。日本の首相も謝りすぎで、一体どうなっているのでしょうか。
 日本人は、日本人であることを大いに誇っていいのです」


 我々は日本という国が悪意をもって侵略戦争したと教え込まされましたが、そんなバカな史実はどこにもありません。楊さんの言うように日本人は日本人であること、先人の功績に誇りを持てばよいのです。



参考文献
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋 (著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)

桜の花出版「日本人はとても素敵だった」 紹介サイト http://www.sakuranohana.jp/book_suteki.html

添付写真
 日本国旗を振る台湾原住民(PD)

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日本の台湾統治の真実
http://www.youtube.com/watch?v=1BlD0xgEEY8

人種差別と戦った日本

大東亜戦争の遠因は人種差別。

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 第一次世界大戦が終わった後、大正8年(1919年)にパリで講和会議が開かれました。この会議は講和会議と並行して、世界恒久平和のために「国際連盟」の設立が大きな議題でした。日本はこの国際連盟の規約に人種差別の撤廃条項を入れることを強く主張しました。この頃、アメリカで日系移民が差別されており、日本にとって大きな課題でした。そしてこの日本に全米1200万人の黒人が大きく期待していました。
 日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時には、「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、
「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、と嘆願書を出しました。自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのです。

全米黒人新聞協会が発表したコメント
「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」

 しかし、日本の主張は否決されます。この報が日本国内に伝わるや、世論は「白人の暴挙」に憤慨、一致して「国際連盟不参加」に変わりました。この主張の中心は大隈重信であり、猛烈な運動を展開しました。
 日本は今度は「諸国民平等の原則」という言葉を規約本文ではなく前文に挿入するという提案を行います。当初の案からは大きな後退でした。この提案は国際連盟委員会17票中11票の賛成を得ましたが、委員長のウィルソン(アメリカ)は全会一致を主張し、遂に日本の提案は不採択となりました。アメリカの黒人は自国の政府の措置に怒り、全米で数万の負傷者を出すほどの暴動に発展しました。

 日本は江戸時代は鎖国していましたが、オランダとは交易があり、黒人が奴隷として売買されていることを知っており、オランダ人を軽蔑していました。18世紀にスウェーデンの植物学者ツンベリーが来日し、「さざんか」をヨーロッパに紹介していますが、彼は日本にきてオランダ人の格好をしていたため、日本人から受ける視線が冷たいのに気付き困惑したといいます。
 幕末の頃も「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生」というのが書にあるそうです。明治5年にペルー船籍の奴隷船マリア・ルス号が日本に寄港したとき、支那人奴隷が脱走し、助けを求めてきたため日本政府は保護し、支那人らを救助し、国際仲裁裁判で争い、勝訴しています。日本には有史以来、制度としての奴隷制度はありませんから、伝統的に人種差別を嫌っていたわけです。

 パリ講和会議で日本の人種平等の提案は退けられ、時の首相、原敬は国際連盟の参加・不参加の決断を求められました。日本の世論は不参加でした。しかし、原首相は米英に屈し、世論を押さえて参加の調印に踏み切りました。このとき日本の主張は通りませんでしたが、第二次世界大戦後、昭和23年、国際連合で「世界人権宣言」が採択され、人種差別は撤廃されています。日本の主張は正しかったのです。


参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之共著
 PHP「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人・高山正之共著
参考サイト
 国際派日本人養成講座 地球史探訪:人種平等への旗手~米国黒人社会の日本観
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog132.html
添付画像
 奴隷船1869年(PD)

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シベリアのポーランド人孤児の救出

日本とポーランドに驚くべき歴史のつながりがあった。

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 平成5年(1993年)から4年間、ポーランドの大使を勤めた兵藤長雄氏はポーランドに住むようになると「なぜ日本人に親切なのだろう」「どうしてこんなに親日的なのか」と思うことが多かったといいます。初対面でも、こちらが日本人だとわかったとたんに親近感を表し、好意的になるという体験を何度もしました。これには日本人が忘れていてポーランド人が覚えていた歴史的出来事があったからでした。

 大正6年(1917年)ロシアに共産革命が起こりました。その混乱に乗じてドイツ・ロシアに支配されていたポーランドは大正8年(1919年)に念願の独立を勝ち取りました。このときシベリアには祖国に帰りたくても帰れない10数万人ものポーランド人が取り残されていたのです。混乱の中、シベリアのポーランド人を救出するのは困難で、特に親を失った孤児たちは行き場所もなく、生きる場所も見つかりません。この窮状にポーランド救済委員会が発足し、委員会は各国に支援を要請しましたが、これに応じたのは日本だけでした。
 このときの日本の対応はすばやく、ポーランド救済委員会のアンナ・ビエルキエビッチ会長が大正9年(1920年)6月に来日してから17日後に外務省は救済を決定し赤十字に依頼しています。日本はちょうど、ロシアの赤化による影響防止とチェコスロバキア軍救出のためイギリス、アメリカ、フランスとともにシベリアに出兵しており、ポーランド人孤児を救出したのです。7月下旬には第一陣の孤児たちがウラジオストックから敦賀に到着しています。手間も暇もお金もかかる事業であり、まだ国交のないポーランドからの依頼ですから、驚く話です。第一陣375人。その後も390人の孤児を救出しています。シベリア出兵に従事し孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は大正14年(1925年)にVirtuti Militari勲章を授与して、その功績に報いています。

 救出されたポーランド人孤児は一旦日本に送られました。このとき孤児たちはひどい栄養失調でしたが、日本赤十字社で治療をうけ回復していきました。日本国民から寄付やおもちゃや人形、お菓子など子供が喜びそうな品々を贈る人が後を立たず、歯の治療や理髪、音楽団の演奏などボランティアを申し出る人が相次いだといいます。そして皇后陛下(貞明皇后・ていめいこうごう)が行啓されています。皇后陛下は孤児たちに優しく語りかけ、親のぬくもりを忘れて久しい孤児たちを優しく抱きしめました。孤児のひとりの少女は後にこう述べています。

「どんなに優しくされても心細くてたまらなかった時、孤児収容所を訪問された貞明皇后に抱きしめてもらったことが今でも忘れない」。

 この後、孤児たちは祖国ポーランドに無事、送り届けられました。

 この話には続きがあり、この孤児たちはポーランドに帰国後、「極東青年会」を結成します。ドイツのポーランド進攻が始まるとこの青年団はイエジキ部隊として多くの同胞が集まりレジスタンス活動を行います。彼らは孤児院を隠れ家としていましたが、ナチスドイツの強制捜査の手が入ります。しかし、日本大使館から書記官が駆けつけ「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院である。同盟国のドイツ軍といえども勝手な捜査は認められない」として突っぱね、孤児院の皆に「君が代」「愛国行進曲」を合唱させ、ドイツ兵を追っ払いました。まったく奇跡のような歴史のつながりです。さらにこの連鎖は数十年のときを超えても続き、平成7年の阪神大震災のとき、ポーランドは日本の被災児を自国に招くなどして傷ついた子供の心を癒す助けを行ってくれています。
 そして平成14年には今上天皇・皇后陛下がポーランドに訪れ、シベリア孤児にお会いになられています。孤児の生存者のひとり、アントニーナ・リロさんは既に85歳になっており、自分ひとりでは、とても孤児たち全員の感謝の思いを伝えきれないと恐縮しつつも
「それが私に出来る唯一のことだから」と天皇皇后両陛下に謁見しました。リロさんは平成18年に「日本は天国のようなところだった」という言葉を遺して90歳の生涯を閉じています。現在では生存しているポーランドの孤児の方はおりませんが、ポーランドは親日の国であり両国の善意の連鎖はこの後も続くことでしょう。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子著
 SAPIO 2009.7.8「世界から感謝される『人情の日本史』」四條たか子
参考サイト
 WikiPedia「シベリア出兵」
 国際派日本人養成講座 地球史探訪: 大和心とポーランド魂
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html
添付画像
 ヴロツワフ市の日本庭園の太鼓橋 Japanese Garden in WrocBaw, Poland. Taken by Seval (Magdelena Skrabut), May 2005.

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大和心とポーランド魂
http://www.youtube.com/watch?v=WOlbMFIZha4

消された言葉「八紘一宇」

 日本のこころ、八紘一宇。

260010

 「八紘一宇」というのは平たく言うと「世界は一家、人類は皆兄弟」という意味です。昭和15年(1940年)第二次近衛内閣の基本国策要綱、大東亜共栄圏の建設の精神として掲げられています。

「皇国ノ国是ハ八紘一宇トスル嚢国ノ大精神ニ基キ、世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ基本トナシ、先ツ皇国ヲ核心トシ、日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」

 この「八紘一宇」は神武天皇(初代天皇)が橿原宮(かしはらのみや)に即位されたときに、「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と言われたのに由来します。「八紘」(はっこう/あめのした)は八角、四方八方のことで、当時の日本において、一つの家のようにやっていこうではないか、ということです。神武天皇は九州から東上してきて、奈良の近くで即位されましたが、周囲は全部土着の豪族たちです。ですからそれらを統一し、全部を一つの家として仲良くやっていきましょう、といった道徳的な意味です。

 この「八紘一宇」が東京裁判のときに侵略思想だと検事側がしきりに指摘してきました。そこで弁護人は日本の古典、明治当初の文献などを翻訳して提出し、学者を証人として出廷させて十分な説明を行いました。これによって「八紘一宇」ほか皇道は日本道徳上の目標であることが認められています。

 この日本の八紘一宇の精神は明治維新のときに神武天皇の教えられた精神でいかなければならない、というところからきていますので、日本人の精神に浸透していたものでしょう。この精神があったからこそ、エルテュールル号遭難の救助、シベリアのポーランド孤児救出、オトポール事件(ユダヤ難民救済)、杉原ビザ(ユダヤ難民救済)、駆逐艦「雷(いかずち)」の英兵救出などが行えたのです。

 しかしながら「八紘一宇」はGHQにより公文書記載が禁止されました。昭和32年9月、衆議院文教委員会で、松永文部大臣は、「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と説明しています。なんという悪意を持った解釈でしょう。

 まだ「八紘一宇」と言う言葉は消されたままです。政治家が使えばマスコミが大バッシングするでしょう。「日本は神国」と言えば大バッシングするのと同じです。まだGHQの呪縛が解けていないのです。こうして日本の伝統的なよいものはどんどん失われてきており、日本人の心は劣化していっているのです


参考文献

 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一著
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎著

参考サイト
 WikiPedia「八紘一宇」

添付画像

 日本紀元2600年記念切手のうち、日本の建国神話を題材とした10銭切手(PD)

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愛国行進曲
http://www.youtube.com/watch?v=2CpcztEOSrs

愛国行進曲の二番に「往け、八紘を一宇となし」という歌詞がある。

狙いはカネ ~ 従軍慰安婦という捏造

カネ目当ての捏造。

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 韓国などがよく言う「従軍慰安婦」は創られた言葉であり、狙いはカネです。 昭和49年(1974年)にフィリピンのジャングルで遂に投降した元陸軍兵士だった小野田寛郎さんが後のために捏造の目的を解説してくれています。

 ◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い ----------------
 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。
「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。
 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。
 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。
(中略)
 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 ----------------------------------

 慰安所とは民間の置屋のことす。軍は衛生面、軍事機密保護面、ゲリラなどの襲撃の危険などから業者を指定し管理するのが都合がよかったわけです。また、これは現地女性を保護する目的もありました。シンガポール首相となったリー・クアンユーは慰安所の設置によりシンガポール女性の貞操を守ることができ、現実的で効率的な選択といっています。
 軍が強制したという事実は存在しません。そして悪徳業者は処罰されました。昭和19年(1944年)インドネシアでオランダ人抑留者を慰安所に強制連行したことがありました。2ヵ月後に軍司令部の知るところとなり、同事件に関与した将校らは処罰されています。そして慰安所は閉鎖となり、女性たちは解放されました。日本の軍規は非常に厳しかったのです。
 
 小野田寛郎さんは最後にこう書き結んでいます。
「”兵隊さん”と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。
”従軍慰安婦”なるものは存在せず、ただ戦場で”春を売る女性とそれを仕切る業者”が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか」




参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫・著 / 永島 広紀・訳
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子編

小野田証言引用元
 小野田寛郎 「私が見た従軍慰安婦の正体」 
   http://www13.ocn.ne.jp/~autofilm/onoda.html

添付画像
 元慰安婦女性らの「水曜デモ」に参加した日本の岡崎トミ子議員


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5秒でわかる「従軍慰安婦の正体」
http://www.youtube.com/watch?v=wpT6mXqIDPk



性的奴隷などいなかった ~ 従軍慰安婦という捏造

従軍慰安婦というのは捏造。

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 韓国などがよく言う「従軍慰安婦」は創られた言葉であり、「性的奴隷」というのも全く捏造されたものです。 昭和49年(1974年)にフィリピンのジャングルで遂に投降した元陸軍兵士だった小野田寛郎さんが後のために真実を書いてくれています。

 「私が見た従軍慰安婦の正体」『 正論 』平成十九年一月号より  ------
 ◆性的奴隷などいなかった
 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。
(中略)
 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。」

「当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。
 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。
 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。
 「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

--------------------------------------

 慰安婦は商行為であって「性的奴隷」ではありません。お金も稼いでいます。
 南支派遣軍福山部隊・看護婦婦長だった若狭ももえさんの話だと「博多のさる料亭の女将さんは大陸で稼いで料亭を買い、妹と二人の弟を上の学校にやったのです。上のほうの弟は、某県の知事になりました」と述べています。こうした話は稀ではく、朝鮮人女性でも貯金が5万円になったらソウルに戻って小料理屋をするという夢を持った人がおり、日本の軍人がそれを聞いて感動し表彰した話や、ビルマ戦線にいた文玉珠という女性は5千円もの大金を故郷の実家に送金してもまだ2万5千円が残っている貯金通帳を持っていたといいます。ラバウルで朝鮮人慰安婦が本国へ帰還する日本兵に200円預けて、実家への送金を依頼したとき、その日本兵は”山梨にある自分の家の価格より高いな”と思ったそうです。

 中には失敗したり、悪徳業者にひっかかってひどい目にあった女性もいるでしょう。そういう人には同情を禁じえませんが、それはどんな仕事でもある話です。こうした当時通常ある商行為を「性的奴隷」と捏造し、当時を知る人が少なくなったのを幸いにプロパガンダを流し、ゆすりたかってカネをむしりとろうとする人たちがいるということなのです。


参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫・著 / 永島 広紀・訳
 ワック出版「歴史通」2010.1月号「”従軍看護婦が語る”戦地の実相」若狭ももえ

小野田証言引用元
 小野田寛郎 「私が見た従軍慰安婦の正体」 
   http://www13.ocn.ne.jp/~autofilm/onoda.html

添付画像
  妓生(きしょう、キーセン)と呼ばれる女性。日韓合邦直後ぐらいの写真と思われる。(PD)
  朝鮮宮中内の宴会などで楽技を披露するための女性であるが実質は娼婦。

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従軍慰安婦と言う名前の売春婦
http://www.youtube.com/watch?v=NpaROhBMwYs

従軍慰安婦などいなかった

従軍慰安婦というのは大嘘。

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 政治関係に詳しい人なら「従軍慰安婦問題」というのが創られた話だというのはご存知でしょう。しかしながら、政治家にはウソをホントのことのように話しつづける人がいます。そしてマスコミが同調して報道するものですから政治に疎い人は簡単に信じてしまいます。そして知らない間に国民の血税がむしりとられていくのです。政治家はそのカネからキックバックをもらうわけです。ウソでカネを取られたくないという人はこういうことをしっかり知っておかなければなりません。
 
 昭和49年(1974年)にフィリピンのジャングルで遂に投降した元陸軍兵士だった小野田寛郎(おのだ ひろお)さんが後のためにわかりやすく書き残してくれています。

 「私が見た従軍慰安婦の正体」『 正論 』平成十九年一月号より -----------
 首相の靖国神社参拝や従軍?慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。
南京大虐殺?と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。
 戦後六十年、大東亜[ 共栄圏 ]戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は、完全な『 商行為 』であったことを書き残そうと考えた。
 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。
 大東亜[ 共栄圏 ]戦争時、戦場には「慰安婦[ =売春婦 ]」という言葉は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。
 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも『 従軍 看護婦 』と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍?慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。
 それは日本国を貶[おとし]める為に後日作った造語であることは確かだ。

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 戦前は公娼(公に営業を許された娼婦)というのがいました。今は売春防止法で認められていません。(ただ、今もほとんど建前同然)ここで日本国民からカネをむしりとる目的で狙われているのは「軍命令」「軍による強制」あるいは「政府による強制」があったかどうかです。そこでカネをむしりとりたい人たちは「従軍慰安婦」という言葉を捏造しました。「従軍」というのは軍属のことです。軍命令によって軍隊についていく人のことで「従軍記者」「従軍カメラマン」「従軍作家」「従軍看護婦」「従軍画家」・・・色々あります。「従軍慰安婦」というのは居ません。あたかもそういう軍属がいたかのように見せかける。

 教育学博士の若狭和朋氏は高校で歴史の講義をしていましたが、突然、教科書に「従軍慰安婦」の記述が登場してきたといいます。即、これはヘンだ、と思って戦時中、従軍看護婦をしていた母に見せたところ「馬鹿なことを」と吐き捨てるようにいい、「従軍記者・・・カメラマン・・・など従軍と言えば、身分は軍属であり、戦死なら靖国よ・・・従軍慰安婦などと、こんな馬鹿な言葉はなかった」と述べたといいます。ここはポイントであり、若狭氏は歴史を教えていたので突然でてきて気がついた。戦時中を知っている母に確かめることができた。しかし、戦後生まれの人は何の疑問もなく、教科書に書いてあること、マスコミが流すことは「真実」として受け取ってしまうことです。

 慰安婦というのは前述したように公娼として認められており、民間の業者が慰安婦を集めて、軍隊の移動とともにくっついていったのです。置屋といいました。ソープランドが移動したというとわかりやすいでしょう。当時は軍にとっても衛生の問題、軍事機密漏洩の問題、ゲリラ襲撃の危険があるので、置屋を調査して安全なら軍指定にして憲兵(軍の警察)が取り締まるのが都合が良かったのです。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 徳間書店「歴史を捏造する韓国」中川八洋著

小野田証言引用元
 小野田寛郎 「私が見た従軍慰安婦の正体」 
   
http://www13.ocn.ne.jp/~autofilm/onoda.html


添付画像
 陸軍見習士官だった頃の小野田寛郎(PD)

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従軍慰安婦問題について語る、櫻井よしこ氏
http://www.youtube.com/watch?v=my4IibNkF1s

カミカゼ・パイロットはヒーローだった

カミカゼとは何だったのか。

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 平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が行われています。そのときの様子をジャーナリスト井上和彦氏が取材したものがネット上で公開されています。

 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった
 http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/kamikaze_philipine.html

 カミカゼ記念館建設に尽力した画家のダニエル・H・ディソンさんは大東亜戦争中、フィリピンのアンヘレスの街で鉢巻をした日本軍の飛行兵士を見かけるようになりました。これは神風特別攻撃隊の兵士なのですが、作戦上極秘にしていたので、このときは知りません。神風の兵士はディソンさんの前の家に宿泊しており、ディソンさんも紹介されたことがありました。神風の兵士は出撃の前の晩は歌を歌い、ディソンさんは「海ゆかば」のメロディーを覚えてしまった、と述べています。
 昭和19年の終わりごろから神風の兵士はマバラカットとアンヘレスから飛び立ちました。ディソンさんは彼らがどういうことをしているかは分かりませんでしたが、出発した兵士は二度と帰ってこないということは気づいていたといいます。
 
 1965年(昭和40年)、ディソンさんは「ディバイン・ウインド」というアメリカで出版された神風特攻隊の本を読んで衝撃を受けます。それは内容がディソンさんが戦争中に経験したことと一致したからです。そして涙が浮かんできたといいます。
 それからのディソンさんは日本を研究史、武士道精神を知りました。そしてカミカゼ記念碑建設に情熱を燃やします。
 
「カミカゼこそが”大和”魂そのものなのです。ですから、ここにこそ記念碑はあるべきなのです」

 そして1974年(昭和49年)マバラカット東飛行場の跡地にカミカゼ記念碑が完成しました。この除幕式では「君が代」が斉唱されました。記念碑には「関行雄大尉は人間爆弾第一号として、世界の戦史に記録されるであろう」と結ばれています。

 
 私が子供の頃は神風特攻隊は騙され洗脳されて死んでいった悲劇の人のようないわれ方をされていたと思います。「はだしのゲン」というマンガで特攻に志願しないと「女の腐ったような奴」と嘲笑されるシーンがあったと記憶しています。でもカミカゼ発祥の地、フィリピンでは捉え方が異なることがわかります。井上和彦氏のタルラック州バンバン村の取材によるとカミカゼ・パイロットはヒーローです。
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 子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)
 その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
 引率の男性教師は、
「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
 私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
 屈託のない笑顔で皆は答えた。
「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」
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 カミカゼ・パイロット第一号となった関行雄大尉は愛媛県西条市の出身です。私の母の故郷です。西条では楢本神社の石川宮司が関大尉の慰霊碑を建立すべく奔走していましたがなかなか実現しませんでした。そこに突然、フィリピンに巨大な特攻記念碑が建立されたと聞き、一挙に盛り上がり、昭和50年(1975年)に源田実参議院議員(真珠湾攻撃に参加)の手によって除幕されました。
 
 

参考文献
 桜の花出版「フィリピン少年が見たカミカゼ」ダニエル・H・ディソン著
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 オークラ出版「世界に愛された日本」『カミカゼはフィリピン人の英雄だった』井上和彦
添付画像
 1995年にフィリピン、マニラ市内に張られたフィリピン共和国独立記念日のポスター。上部に英語で「大東亜共栄圏」と記され、日本がアジアを西欧支配から解放したことが描かれている。(共栄の教え http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/message015.htm より)


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親日国 『真実はどこに』 特攻隊 ノチノ日本二栄光アレ
http://www.youtube.com/watch?v=cSZaA4WtcqQ

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

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 本日、早朝より、天皇陛下は四方拝の儀を執り行われています。神宮をはじめ四方の神々や御陵を遥拝され、この年の平和と国民の幸福を祈念されます。天皇陛下は四方拝に続いて宮中三殿の歳旦祭にお出ましになります。これは年の初めをお祝いして、その年の平安を祈念される祭儀であり、全国の神社でも行われています。

 
年ごとに 月の在りどを 確かむる 歳旦祭に 君を送りて

 これは平成19年(2007年)1月の歌会始に皇后陛下が詠まれた歌です。四方拝、歳旦祭を行うためお住まいの御所を出られる陛下を見送られたときの光景を歌にして披露されました。毎年、まだ真っ暗の中、月がどこにあるか空を見上げ、陛下をお見送りなるお気持ちであり、元旦早朝の厳粛な冷たい張り詰めた空気さえ伝わってきそうです。

 新年にあたり、天皇陛下が「国平らかに、民安かれ」と祈られることに感謝し、ご先祖の霊、歳神様をお迎えし、家族の無病息災と、日本国の発展と国民の幸福、世界の平和を祈念いたします。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

広島ブログ 

写真は昨日、箱根へ行ったとき撮影しました。

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