無料ブログはココログ

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011年2月

自分の国を悪く言うのは、世界中で日本人だけ

おそろしきジパノフォビア。

S16


 台湾出身の評論家、金 美齢(きん びれい)さんは著書「戦後日本人の忘れもの」の中で『自分の国を悪く言うのは、世界中で日本人だけ』と述べています。

「日本人が日本の悪口を言う場合、それは、日本をよくしたいがために言っているとは思えないことが多い。彼らは自分の国のことを悪く言う事がすなわち、自分を貶めているのだということに気がつかない。
 そのあげく、自分だけは別だと思っているのだ。以前もテレビで、戦争のとき、日本兵が如何に残虐だったかと言う事を延々と述べているジャーナリストがいた。彼の父親が軍人だったことを知っている人が、『あなたのお父さんだって軍人だったんでしょ』と突っ込んだ。すると、彼は、『うちの父親はそんなことをしませんでした』と答えたのである。私は思わず吹き出してしまった。日本人の悪口を言っていながら、自分と自分の家族は別だと主張していたからである。
 それはたとえば、渋滞に遭ったときに、『なんでこんなに車が多いんだ。だいたい日本は、狭い国に車がありすぎだよ』などと言って、自分もその渋滞の原因を作っていることに気がつかないのと同じなのである」。


 日本人が日本のことを悪くいうのは「ジパノフォビア」といいます。これは教育学博士の若狭和朋さんの造語で「イスパノフォビア」を日本版にしたものです。「イスパノ」はスペイン、「フォビア」は嫌悪という意味です。スペインはかつてスペイン大帝国を築きましたが、これを倒そうとしたイギリスやオランダはスペインにプロパガンダ戦(宣伝戦)を仕掛けました。スペインが植民地で残虐なことをしたというパンフレットを作って世界中に撒き散らしました。


「・・・彼ら(スペイン人)は村々に押し入り・・・老いも若きも身重の女もことごとく捕らえ・・・引き裂きズタズタにした」
「彼等は誰が一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、誰が一撃のもとで首を切り落とせるかとか賭けをした」
「ようやく足が地に着く程度の絞首台を作り、13人ずつ吊るし・・・生きたまま火をつけた・・・」


 このプロパガンダによってスペイン人は自国の歴史に自信が持てなくなり、自己嫌悪に陥り、自虐に親しみ、寂しく自国を嘲笑する国民になり没落していったのです。国民国家の発展・衰滅の土台は国民精神の盛衰が基礎なのです。

 日本人が日本を悪く言うようになったのは戦後のGHQの政策によるものです。戦後、「真相はかうだ」というラジオ番組を通じて「日本国民は軍に騙されていた」「日本軍は大陸で残虐なことをした」と刷り込み、新聞紙上でも日本軍の”蛮行”という捏造記事が連載されました。仕上げはあのインチキな東京裁判です。こうしてスペインと同じように日本の国民精神を衰退させようとしたのです。日本が主権回復後も、革命思想を持った人たちが教育界やマスコミに入り込み、日本を破壊して共産主義革命を起こすために続けて洗脳していったのです。そして近年は中共などの日本崩壊を目論む国がそれを利用して日本をプロパガンダ攻撃しているわけです。

 私が子供の頃、小学生の頃が特にですが、学校でとにかく戦中戦前の軍の悪口ばっかり聞かされたものです。マスコミでも戦中戦前の誇らしい日本の歴史というのは言わないでしょう。15年戦争などと平気で大嘘を言い暗黒の時代だったかのように伝えます。ですから、私の世代では「戦前真っ暗」という歴史観を持っている人が多いはずです。歴史だけでなく何かと外国はこんなにすごいのに日本はダメ、ダメだ、とこんな調子でしょう。普通の国は誇らしい自国の歴史、自国の良いところを学校で教え、マスコミも流すものです。

 上智大学名誉教授の渡部昇一さんの娘さんはジュネーブの日本人学校で教えているのですが、ある日子供達の作文を読んでいたら
「日本がアメリカから原子爆弾を落とされたのは自業自得だと思います」と書いてあったそうです。日本人教師からそう教え込まれているからわざわざスイスに行ってまでそんなことを書いているわけです。世代を超えて延々と続く恐ろしいジパノフォビアです。



参考文献
 ワック「戦後日本人の忘れもの」金美齢(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 小学館文庫「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 徳間書店「日本を賤しめる日本嫌いの日本人」渡部昇一(著)

添付画像
 16世紀のスペインのガレオン船(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

武士の時代と聞いて

武士が搾取したなどというのはウソ。

S

 江戸時代の武士の時代と聞きますと、子供の頃から士農工商として差別があった、武士は切捨て御免の特権があり威張っていた、とか教えられたと記憶しています。なにやら武士は裕福で特権階級で庶民から搾取していたような印象を持ちます。
 ところが実際の武士は質素な生活をしており、権力をひけらかすようなことはせず、家来や下僕下女を大切にし、町人を大切にし、非常に尊敬されていたのです。

 最近、「武士の家計簿」という映画があったでしょう。原作は磯田道史著の「武士の家計簿」です。これは加賀百万石の会計係の猪山家の36年にわたる家計簿が発見され、その分析を行った本です。これによると猪山家の年収は銀換算で4356匁(もんめ)あまりで一匁4000円換算だと1742万円ですから高給取りといえます。しかし、武士は武士身分として格式を保つための支出が多く、召使を雇う費用、親類や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を行う費用が多くあり、これをや支出しないと武家社会から確実にはじきだされ、生きていけなくなります。そしてなんと借金が年収の2倍ありました。これは当時では珍しくないものだそうです。

 当主の直之の一年間の小遣いがわずか19匁=72,000円です。彼よりも草履取りのほうが懐具合が良いことがわかっています。草履取りは衣食住が保障されていますから、年に給銀83匁(約332,000円)もらえ、月々に小遣いが50文(約2,300円)プラス、年3回のご祝儀、お使いに出るたびに15文(約750円)をもらっていたのです。

 この武士の時代は「圧倒的な勝ち組」を作らないような構造となり、武士は身分は高いけれども貧乏。商人は金持ちだけれども卑しい身分とうい感じです。西洋の価値観では貴族たちがうなるような財力や権力で平民を従えさせたのとは全くことなります。

 「切捨て御免」というのは俗説であり、幕府の農民統制令では「百姓をむさと殺候事ご停止たり」と農民を理由も無く斬り殺すことを禁じています。「農民は生かさぬよう、殺さぬよう」についても同様です。
 また、士農工商といわれていますが、実際には商と工の間には身分さは無く「町人」というくくりでした。血統による身分ではなく、職業による身分でしたので、町人は金を積んで武士になったり、武士が農民になることも可能でした。教科書の中にはこのことを指摘し始めた教科書もあります。

 山川高校教科書 日本史
「このような身分さを設けたのは、農工商の人々に、武士の支配への不満をまぎらわせようとしたものと考えられる。身分差別が動かせないものであるように人々に思い込ませていった」

「・・・統制の厳しい農民の生活はまずしく、衣服は麻や木綿にかぎられ、食事も麦・粟などの雑穀が多く、家屋はかや葺きやわら葺きが普通で、居間にむしろをしくぐらいであった。人々はそのような生活のなかで、古くからの風習に根強く支配されていた」


 まるで教科書は金持ちの特権階級の支配者が被支配者を搾取しているかのようにイメージさせて書いているでしょう。これはマルクス階級闘争史観とうフィルターを通して語っているのです。我々はこうしてマルクス思想を刷り込まされていたのです。



参考文献
 新潮新書「武士の家計簿」磯田道史(著)
 講談社現代新書「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎(共著)
 自由者「日本人の歴史教科書」
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)

添付画像
 江戸図屏風(PD)
広島ブログ クリックで応援お願いします。



『武士の家計簿』 予告
http://www.youtube.com/watch?v=2W_K0z-IHAI

驚きの韓国の捏造歴史

 韓国の捏造歴史は世界でも知られている。

Namdaemun_in_the_joseon_period

 「韓国は日本と独立戦争を戦って勝利して独立した」

 これが韓国の公式の歴史観になっているというのですから驚きます。
 
 第二次世界大戦中に支那の重慶に「大韓民国臨時政府」があり、これが対日宣戦布告していたことが根拠のようですが、これは単なるテロ活動しかしておらず、講和条約にも参加できていません。

 韓国小学校の国定教科書
「(大韓民国)臨時政府は日本に宣戦布告して、連合軍と連絡を取りながら独立戦争を展開していった。わが民族の独立の意志が広く知られると、世界の強大国もわが国の独立を約束せずにはいられなくなった」

 天安には独立記念館というのがあり、ここにはジオラマで独立戦争の戦闘場面が再現されているといいます。いったいどこでどんな戦闘があったというのか?

 つまり、戦って苦労して勝ち取った独立ということにして、民族の誇り持とうということなのです。そのため、日韓合邦時代は過酷だったということにもしたいわけです。韓国の「独立運動の血史」というのには三一独立運動についてこんなことが書いてあるといいます。

「女子高等普通科の盧永烈は、裸体で十字架の上に仰臥(ぎょうが)させられた。日本人は、後列の十字架の傍らに炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて盧永烈の乳頭を3、4回刺してからその縄を解き、刀で四股を断ち落とし、まるでまこも(菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。・・・が質問して、『お前はこれでもなお”万歳”を叫ぶつもりか。』と言った。彼女はこれに答えて『独立が達成できなければたとえ死んでもやめない』と言った・・・数日間も食事を与えないで、3日目に再び拷問を加えた。・・・やむをえず、衣服を抛(ほ)りかえしてよこし、きびしく警責を加えた後に釈放された・・・」

 四股を切断されて3日も生きれるはずがなく、衣服も自分では切れないし、自分で帰れないのですが・・・

 このような捏造歴史を教えられた韓国人学生の話が金完燮(キム・ワンソプ)著「親日派のための弁明」に記載されています。韓国人学生はアメリカの大学に留学したのですが、そのときアジア史の講義で白人の教授にこういわれます。

「私は、韓国政府が韓国と日本との歴史的関係について学生に誇張した歴史を教えていると考えるが、きみはどう思うか」

 韓国人学生は次のように答えました。

「私たちは歴史を誇張して教育されていない。第二次大戦の例をみてわかるよに、戦争の被害を受けた韓国と中国、東南アジアの国々の公式の歴史が誇張されたものだというのか。韓国で教えられている歴史は事実であり、誇張して教育する必要がわれわれにあるのか」

 すると教授はこういいます。
「それでも私は韓国政府が歴史を誇張していると考える」

 韓国学生は
「被害妄想的な発言をする劣等感にとらわれた韓国人」という烙印を押されたと思い、怒りと恥ずかしさで、2週間は夜眠れなかったといいます。

 国家求心力を保つため歴史を捏造してもこういうところでほころびが出ます。この学生は不幸な目に遭いました。それにしても韓国はいつまでこうした捏造歴史を続けていくのでしょうか。



参考文献
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
 草思社「親日派のための弁明」金完燮(著)/荒木和弘+荒木信子(訳)
 ワック出版「歴史通」2009.7月号「韓国の偽史倭人伝」八木秀次

添付画像
 李朝時代の南大門1890年(PD)
広島ブログ クリックで応援お願いします。


True History of South Korea 韓国の真の歴史
http://www.youtube.com/watch?v=Um0SWpssrMo

竹島の日を迎えて・・・韓国のウソの歴史

歴史を捏造し、竹島を不法占拠する韓国。

286

 韓国は日本領の「竹島」を「独島」と呼んで、不法占拠しています。韓国では学校で以下のように教えています。

「独島は鬱陵島に付属する島で、早くからわが国の領土として連綿として伝えられてきた」
「東菜に住む漁民安龍福がここに住来する日本漁夫を追っ払い、日本に渡って独島をわが国の領土であることを確認させた」

 韓国で「独島」という二文字が最初に現れた文献は日本に遅れること340年、1906年3月で鬱陵島郡主が道庁に報告した文書の中の「鬱陵島付属独島」というものがそれだといいます。日本にはそれよりも数百年前から竹島を記載した確かな文書があります。 竹島が島根県の官有地になったのは1905年2月のことで、告示しています。このとき韓国は主権国家でしたが、何の抗議もありませんでした。関心がなかったのです。

 安龍福が竹島を韓国領と認めさせたというのも真っ赤なウソで、安龍福が鬱陵島にいたところを日本の大谷家が拉致して日本に連れて帰り、後に釜山に帰しています。その後、安龍福は隠岐島に不法に入国していますが、ここで竹島について外交交渉したとはバカげた話で、日朝の外交交渉は釜山か長崎で行うのですが、安龍福は長崎に行っていません。安龍福は隠岐の代官にあっていますが、代官に外交交渉権はありません。安龍福は朝鮮に帰った後、国禁を犯したとして流刑になっています。このときに刑を恐れて大ボラ話をした記録が残っており、韓国ではこれをさらに歪曲して教科書に載せていたわけです。

 韓国が竹島を不法占拠したのはGHQが「マッカーサーライン」という「日本の漁業及び捕鯨許可区域に関する覚書」にてうっかり、竹島を韓国側に入れてしまったことからはじまります。米国側はこのミスに気付いて日本の主権回復を持って竹島を日本領と認めてデモンストレーションとして日米安全保障条約に基づく行政協定に従い、米軍専用の海上演習場に指定しました。しかし、韓国は講和条約によって日本が国際社会に復帰すると日本の発言力が強くなるので、外交カードとして講和条約前の昭和27年1月18日に「李承晩ライン」をひき、竹島は韓国領と主張したのでした。さらに日本漁船を拿捕し、漁船員を抑留しました。

 竹島の国際法上の地位について、梅田博士の説明を記しておきます。
「竹島は・・・元来無人島でありまた無主の島であったが、韓国よりも早くから日本はこれを自己の領土と心得ていた土地である。したがって、日本が竹島に対して領土権を確立したか否かは、先占の法理によって判断しなければならない。すなわち、国際法における先占とは、一国が無主の地に対し、領土編入の意思表示を明確にするとともに事実上、効果的な支配を拡張した場合、この事実に国際法上の効果を与え、右の国家に領土権を付与することを意味する」

 韓国は国際司法裁判所で解決することも拒否し、竹島の不法占拠を続けています。




参考文献
 徳間書店「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『横暴 李承晩ライン』下條正男

添付画像
 昭和28年6月島根県と海上保安庁が合同で建てた領土制札 
  WEB竹島問題研究所より 
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima_photo/

広島ブログ クリックで応援お願いします。

竹島、韓国の大嘘
http://www.youtube.com/watch?v=F1dWZk_b8i0


干山島というのは鬱陵島の別名の一つ。

和夫一家殺害事件

閉ざされた言論空間。

S

 ネットではある程度知られている事件です。5年ほど前ですが、韓国のジャーナリスト金完燮(キム・ワンソプ)氏宛にキム・ソンスという人がメールで自分の体験を告白したものが「親日派のための弁明2」という著に記され出版されています。

 戦前のこと、和夫という日本人公務員が政府の命令で朝鮮半島に渡り、地主になりました。この和夫は非常に人情に厚く、貧しい小作人がいると食べ物をわけてあげたり、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意は勿論、自ら慟哭して悲しみを分け合うような人でした。さらに和夫は孤児がいると連れて帰って面倒をみたため昭和20年(1945年)には孤児院の規模まで増えました。

 昭和20年8月15日の日本敗戦にともない悲劇が起きました。

---著書より引用

「その日から、マンセー(万歳)とともに大極旗が翻り、ついに朝鮮人の世がやってきた。神は自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのだろうか。和夫が実の子のように育て、東京帝国大学にまで留学させたAを中心に、和夫の家で教育を受け成人するまで育ててもらった青年たちが、鎌とツルハシ、シャベルをもって、和夫のもとに押しかけた。当時、現場にいたキム・ソンス君は、このときのことを次のように証言している。」

和夫:(優しい目で)なぜこんなことを、お前たち。

A:チョッパリ!日本へ失せろ。失せろってんだ。

和夫:(わざと怒り声で)私がお前たちに何か間違ったことをしたのかい?お前たちはみんな私の子供たちだし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。お前たちの祖国が独立することは、私も日ごろから強く望んできたことだ。踊りたくなるようなうれしい日に、なんだって凶器をもって私のところに詰めかけてきたんだい(中略)お前たちが望むんなら、帰ってやろう。

A:意味深長な目配せをBに送る。(財産を全部処分して帰ったら、俺たちはどうやって食っていくんだ?」

B:死ね、チョッパリ、このくそ野郎!

 次々にツルハシが和夫の後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルと鎌が身体をずたずたに引き裂き始めた。和夫の妻は耐えられずに飛び出してきた。それまでじっとしていたCは和夫の妻を見ると、彼女の神をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。そして、なんと13人は、一週間前までお母さんと呼んでいた彼女を強姦しはじめた。(キム・ソンス君はこの場で自分が止めたなら、自分も殺されていただろうなと語る)。彼女はひどい集団強姦の途中で死亡した。Dは普段お母さんと呼んでいた彼女の全身をめった刺しにし、それでも足りずに内蔵を掻き出して撒き散らした」

---引用終わり

 和夫夫婦には小学校6年生になる娘がいましたが、学校から家に戻ったとき、この惨状を見て気が触れ9日後に村の橋のしたでやせ衰えた死体となって発見されました。

 金完燮氏は命がけでこういった発信をしています。氏は殺人犯を含むテロリストの攻撃を受け、負傷もしています。韓国では親日派は売国奴の扱いになり、命が危険にさらされることもあるのです。
 さて、こういった話は日本のマスコミは絶対取り上げません。金完燮氏の「親日派のための弁明」は(1)(2)と日本で無事に出版できることになりましたが、出版できないような例もあります。
 川嶋擁子ワトキンス氏が敗戦直後に朝鮮半島から日本に引き揚げたときの体験を「竹の森遠く」というタイトルで出版し、全米で大反響を呼び、推薦図書になり、社会科の教科書にも採用されました。この本の中には朝鮮人が日本人女性を強姦したり、多くの日本人が朝鮮人に虐殺されたことが記されていました。このため韓国人の反発にあい、一部の地域、学校では推薦図書からはずされたと言います。そして、日本でも訳了直後に日本での出版翻訳権契約が解約され、出版できなくなりました。これが日本の言論空間の実態なのです。



参考文献
 扶桑社「親日派のための弁明2」金完燮(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『全米で起きたヨーコ物語弾圧の真相』加藤久哉

添付画像
 戦前の釜山の三中井百貨店(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

学校では近代史を教えない?

教えなくなった近代史。

S_2

 私の勤務する会社の二十代若手の社員に「学校で近代史はどれくらい教わったか?」と聞くと「ほとんど教科書をサッと読んで終わりでした」と口をそろえて言います。びっくり、今はそうなっているんですね。詳しく教えるとトラブルになるからか、知られてはならない歴史が知られてしまうのを警戒しているのか???・・・

 山川 高校日本史
「1937年(昭和12年)12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。このとき日本軍は、非戦闘員を含む多数の中国人を殺傷して、国際的に大きな非難をうけた(南京事件)」

 一例ですが、これでは先生も説明に困りますね。ネットでは広く南京虐殺はでっち上げである事実が広まっています。「非戦闘員」って安全区にいた民衆?「国際的に大きな非難」って誰がどのような形で非難したの?と生徒に突っ込まれれば答えることができません。ホントのことを言えば教科書がウソを書いていることがバレてしまいます。

 私が小学校の頃は日教組の先生がやたら日本軍の愚かさを教えてくれたのを覚えていますが、中学校になると年配の先生の中には旧日本軍の航空隊に入隊していた先生が居て、数学の授業を割いてその時の話をしてくれたり、社会の先生は日露戦争の場面を教えるとき、模造紙に旅順攻略の図を書いてきて説明していたのを覚えています。高校のときは満州で育った先生が居て、満州の話をしていました。(しかし、英語の先生で英語で話したのでさっぱりわからなかった)

 教育学博士の若狭和朋氏の著で若狭氏が教壇で教えていたときの話が載っています。
 「『南京大虐殺』のホラを学習すると、教室は静まり返ります。面白いことには、だらしなかった姿勢まで正している。お互いが面白いらしく、笑いあっています。こうした授業の積み重ねは、次第に金髪の数を減少させていきます。生徒は、誇らしい日本を知ってうれしいのです。」
 「大学生はもっと直接的です。『俺たちは何を習ってきたのだ』、『あ!・・・だから授業は江戸時代でおわったんか・・・・!』」

 たしか、上智大名誉教授渡部昇一氏が書かれていた話だったと記憶していますが、渡部昇一氏が生徒に英語を教えるとき、ユダヤ人の命を救った「杉原ビザ」の話を英文にして教えるとそのときの生徒の英語の成績が抜群にあがったというのがありました。英語で書かれている誇らしい日本の話を一生懸命を読もうとしたのです。
 東條英機元首相といえば、日米開戦のときの首相で、戦後、悪者イメージを刷り込まれていると思います。その東條英機と樋口季一郎という日本軍人が「杉原ビザ」よりも前に数千人のユダヤ人の命を救っています。この話を会社の数人の者にしたことがありますが、みんな驚いて真剣に聞いてくれました。

 近代史は数代前の私たちの祖先がかかわった歴史であり、身近に感じるでしょう。自虐的な角度で歴史を教えれば、自分の祖先、日本という国に誇りが持てなくなります。誇らしい歴史は沢山あります。それをちゃんと教えれば、祖先を誇りに思い感謝し、日本という国が好きになり、日本人としてアイデンティティーをしっかり持った人間に育つのではないかと思います。




参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 山川出版社「もういちど読む 山川 日本史」五味文彦・鳥海靖=編
 文春新書「指揮官の決断」早坂隆(著)
添付画像
 外交官時代の杉原(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

高砂義勇隊のその後

勇敢に戦った先人に誇りを持つ。

1941428_2

 高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)というのはは大東亜戦争時に、台湾原住民により編成された日本軍の部隊のことです。フィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設されました。

 高砂義勇兵だった石井富士夫さんと上村宗一さんは昭和17年、南方派遣軍のボルネオ島俘虜収容所に勤務しました。このとき、オーストラリア、イギリス捕虜をラナウに移動したとき隊伍に入り、命令を遂行したため、日本敗戦後に戦争犯罪者とされました。一般にサンダカン死の行進と呼ばれるものです。

 二人はBC級裁判で有罪となりモロタイ島へいき、次にラバウルへいき、更にソロモン諸島のトドキナへいき、マヌスへ移動し、昭和28年(1953年)7月まで服役し、日本へ引き揚げとなりました。日本に引き揚げたものの台湾人なので、家族の迎えは居らず、市川の中山競馬場主中村勝五郎さんのところにお世話になります。

 戦後、戦犯生活をした石井さん、上村さんは帰国した時、引揚援護庁より帰還手当て1000円、帰還後雑費3000円を受け取ります。ところが、日本人には外地引揚者に対して過去幾年分の棒給と家族数による家族扶養手当が支給されたのに対し、石井さんと上村さんは台湾人であったため、「台湾、朝鮮人は、第三国人にしてこの項を適用せず」との規定により、支払われませんでした。「一視同仁」、日本人、台湾人、といった差別をせず、平等に見て同じように思いやりをもって待遇するのはずの日本の精神でしたから、石井さん、上村さんはショックを受けました。これは前の年の日華平和条約で台湾人は日本国籍を失っていたからであり、石井さんの記録では役所の文任官の人が「顔面真っ青」になっていたと書いていますから、請求者が来るとは予想していなかったのかもしれません。(講和条約後は個人が相手国に請求できなくなる)

 こうした問題に加え、賃金未払いと郵便貯金も個人で引き出すことができない、という問題が発生したのです。ずっと後、1990年代になり、戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円の弔慰金が支払われたが、給与は現在でも未払のままです。郵便貯金とされた給与も引き出せませんでしたが、120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け取れるようになりました。ただ、120倍でも1000円が12万円ですので、低すぎるという声もあります。(戦前はサラリーマンの給与がだいたい40円ぐらい)

 大東亜戦争で高砂族総人口15万人中約6,000名が義勇隊に志願し、その半数が戦死したと言われています。しかし、高砂族の人たちは日本の戦争責任を追及するようなことはありません。烏来というタイヤル族の村には「台湾高砂義勇隊英魂碑」があり、参道には「高砂挺身報国隊 台湾総督 海軍大将 長谷川清」と書かれた無数の日章旗が翻り、記念碑の下には、本間雅晴中将による高砂義勇隊への鎮魂の遺詠が刻まれています。

 かくありて許さるべきや 密林のかなたに消えし 戦友(とも)をおもえば

 この地を訪れた日本人は皆一様に感嘆し、あるものは言葉を失い、あるものは感動のあまり涙を流しながら合掌するといいます。
 勇敢に戦い南方の島々に果てた先人たちを、日章旗と本間中将の遺詠をもって称える・・・それが誇り高き高砂族なのです。

台湾軍の歌(本間雅晴中将 作詞)

 太平洋の空遠く

 輝く南十字星

 黒潮しぶく椰子の島

 荒波吼ゆる赤道を

 にらみて立てる南の

 護りはわれら 台湾軍

 ああ厳として 台湾軍


参考文献
 中公文庫「高砂族に捧げる」鈴木明(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神」蔡焜燦(著)

参考サイト
 WikiPedia「高砂義勇隊」

添付画像
 台湾の高雄駅 昭和16年(1941年)4月28日(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

台湾軍の歌
http://www.youtube.com/watch?v=YUOCN7PTz-E

高砂義勇隊

かつて大東亜戦争を勇敢にたたかった台湾人がいた。

Photo


 高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)というのは大東亜戦争時に、台湾原住民により編成された日本軍の部隊のことです。フィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設されました。
 この高砂義勇隊は台湾の「高砂族」という山岳民族出身で構成されていますが、「高砂族」といっても実際はタイヤル族、トロック族、タウツア族、パイワン族、などなど複数の民族がおり、さらにパイワン族はピューマ族やアミ族などなど複数に分かれます。

 1895年、日本は日清戦争の下関講和条約で台湾を領有することになりました。そこで日本は台湾実効支配のため、軍隊を派遣します。ここで戦争になったとかNHKなどが反日史観を刷り込んでいますが、実際は清国兵が掠奪、放火、婦女暴行を繰り返しており、日本軍は治安維持軍として民衆に迎えられ、台北城に無欠入城しているのです。当時の台湾民衆は「国家」「民族」という意識は低く、住民を守るものが歓迎されていました。

 台湾はそれ以前にオランダ、スペイン、鄭氏政権、清朝統治の時代がありましたが、台湾の山岳地帯、東部の広範囲には実効支配は及んでおらず、山岳民族の征伐にいくと逆に撃退されていました。日本統治になるとこの山岳民族の政策に5代総督の佐久間左馬太が打ち込みます。まず、高い3000メートル以上の高山になれることから始まり、5回の山岳探検を行っています。最後まで帰順しなかったタロコ蕃の討伐には5年にわたって探検と準備がなされ、大正3年に本格的に実施しています。また、武力による制圧だけでなく、高砂族原住民の日本内地観光など融和政策も実施しています。
 日本は高砂族の村々に警察官を配置しました。警察官はよく襲撃され、命がけだったといいます。また討伐に参加しています。大正元年には606名の警察官が殉職しています。この年以降はどんどん殉職者は減っていき、昭和4年にはゼロとなりました。しかし昭和5年、霧社事件という民間人を含む日本人134人が殺害されることも起こっています。これらのことは経済的、宗教的、または習慣上の行き違いなど複雑な原因がからまりあって起こるのであって、日本が原住民から搾取してやろうとか、そのようなことで起きたのではありません。

 日本の台湾統治は内地を延長しただけで決して台湾は植民地ではありません。台湾を日本と同じように近代化していったわけで、時間がたつと台湾人も日本人と同化していきました。大東亜戦争が始まると高砂義勇隊(高砂挺身報国隊)が募集され、第一回は約500名がフィリピン戦線に派遣されました。高砂義勇隊は兵士ではなく、軍属として運搬や道路、橋の建設が主です。

 高砂義勇隊をフィリピンに派遣するとなんと、彼らは磁石がなくても方向を見失わないし、一度見た山は忘れない、食糧を見つけるのが天才、しかも勇敢という才能を発揮します。
 ニューギニア戦線で野戦病院がオーストラリア軍のゲリラに襲撃されたとき、患者として収容されていた20名の高砂族は飛び起きて、腰刀で斬りかかり、敵の数名の首を斬って主力を退却させたといいます。このほか、メナド空挺作戦、バレンバン空挺作戦でも大活躍したと伝えられています。

 作家の鈴木明氏が昭和50年(1975年)ごろに台湾を訪ねて、高砂義勇兵だった人に「日本に対して、日本の軍隊に対して、遠慮のない意見を言ってください、本当のことを言ってください」とお願いするとその人はこう答えています。

「戦いは本当に苦しかったが、自分は特に日本を恨んでいるということはない。我々は確かに殴られたり、苦しいことに会ったが、それは日本兵も同じで、我々だけが苦しかったわけではない。日本の軍隊が、われわれだけを苦しい戦場に行かせたなどということは、絶対にない。我々の父の時代に比べれば、日本時代はずっと生活がよくなったし、現在は日本時代に比べれば、また生活がよくなっている。だから、誰を恨むということはない」

 また、他の義勇隊だった人に「義勇隊にとられた時は、どんな気持ちがしましたか?」と聞くと、

「とられたのではありません。自分で行ったのです。自分の精神で行ったのだから、誰にも文句はいいません」

 と語気を強めて言いました。高砂族、それは誇り高い民族でした。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 中公文庫「高砂族に捧げる」鈴木明(著)
 毎日ワンズ「ガダルカナル」辻政信(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神」蔡焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「高砂義勇隊」
添付画像
 高砂義勇隊(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。


台湾の高砂義勇伝 http://www.youtube.com/watch?v=9dXtCvDUWUg

ハワイを乗っ取ったアメリカ

ハワイはアメリカに侵略されたのでした。

S_2



 ご存知の方も結構いらっしゃるかもしれません。ハワイと言えば観光地の印象ですが、歴史を見るとアメリカが不当に乗っ取ったのでした。アメリカ、つまり白人の集合体はインディアンを追い落とし、メキシコから土地を奪って、アメリカ大陸を横断し遂に太平洋まできました。次は太平洋の先、アジアがありました。そのためには拠点としてハワイをぶんどる必要があったのです。日本にはペリーがやってきましたが、日本は独立を守りました。ハワイは残念ながらそうはなりませんでした。

 アメリカが急速にハワイに目を向けたのは1872年(明治5年)に米陸軍長官がホノルル港を軍事目的で調査するよう指示をしたあたりからと言われています。調査の結果、真珠湾の割譲をハワイに迫りましたがハワイは住民の反対があり拒否しました。しかし、アメリカは圧力を加え、1875年に結んだ米布相互条約によって真珠湾の使用、改築及び必要な施設建造に関する「絶対権」を獲得したのです。

 白人の侵略は巧妙で、宣教師を遣わして、移民を入れて徐々に内部から支配力を強めていき、条約を結んで支配力を強化したり経済侵略したりして、最後は武力でガツンです。ハワイも内部から白人に支配されていったのです。そこで、1893年リリオカラニ女王が高額納税者に限られていた選挙権を広く貧しい島民にも与えるとした新憲法発布に打ってでました。白人の移民たちは王朝打倒に動き、アメリカ公使のスティーブンスは「血に飢えた淫乱な女王が独裁政治を復活させた」と本国に打電しました。
 アメリカは戦艦ボストンを派遣しました。1893年1月、海兵隊を出動させ、ホノルルを制圧し、ボストンの主砲をイオラニ宮殿に照準させ、女王は遂に屈することになります。軍隊のない国の悲しさです。

 王朝が倒れた1ヵ月後、ハワイに日本の軍艦「浪速」と「金剛」という軍艦が寄港します。ハワイには2万5000人の日本人移民がおり、生命と財産を守る目的です。王朝が倒れる1月17日付で日本とハワイの間の不平等条約改定を認める公文書に女王が署名していますから、なんらかハワイを救う目的、ハワイ王朝から援助要請があったのかもしれません。「浪速」と「金剛」はボストンを挟むようにして投錨しました。「抗議」する、ということです。そして浪速の艦長、東郷平八郎が声明を発表します。

「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」

 これは痛烈な皮肉を言っており、クーデターを起こして政府転覆を謀ったのはアメリカ系市民であり、アメリカの公使です。それを承知で暴挙の巻き添えになるアメリカ市民を日本が守ってやる、と言っているのですから。

 そして浪速は3ヶ月滞在して引き揚げます。翌年、浪速は再びホノルルに寄港します。新政権1周年の祝いにハワイ新政府は浪速に21発の祝砲を撃つことを要請しますが、浪速は「その理由を認めず」として突っぱねました。このときも浪速の艦長は東郷平八郎です。それで港にいた他国の軍艦も従って祝砲を撃ちませんでした。世界の新聞は「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服すように静寂に包まれた」と報道しました。アメリカは赤っ恥をかいたわけです。

  *毅然とした日本人の姿がそこにありました。*

 ハワイでは日本の軍艦が味方したことが今でも伝えられているそうです。「ナニワ」は「ありがとう」という現地語で使われたこともあるそうです。



参考文献
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP研究所「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 歴史通2010.1月「アメリカはなぜ日露講和に乗り出したのか」高山正之

添付画像
 リリオカラニ女王 1887年(PD)
 女王は1917年11月11日、79歳で死去

広島ブログ クリックで応援お願いします。

東條英機自殺未遂の真実

東條英機、自殺未遂の真実。

S18_october_1941

 東條英機と言えば強硬に日米開戦を主張し、戦争に導いていった首相・・・と思っている人が多いでしょう。私も自分で歴史を調べてみるまでそう思っていました。また、戦後、東京裁判のとき自殺を図ったものの失敗したのもみっともない、と考えている人もいるかもしれません。

 東條英機は昭和20年9月10日、逮捕前日に時の陸軍大臣下村定氏に次のように話をしています。

「自分は皇室および国民に対して最も重大な責任がある。このおわびは死をもってするしかない。国際裁判のためには詳細な供述書を作り、目下清書中であるから、自ら法廷に立つ必要はない」

 すでに東條英機は向かいに住んでい鈴木医学博士に相談して心臓のところに墨で印をつけてもらっていました。そして娘婿ですでに自決した古賀少佐のピストルを使って自決を敢行したのです。頭を撃たなかったのは連合軍がみにくい姿を世間に示すだろうと思ったからでした。
 9月11日、東條逮捕にGHQの憲兵が向かいました。戦犯容疑者は本来は日本政府を通じて書面で呼び出すことになっていました。その急なためか、東條は利き腕が左腕であり、左で心臓を撃ちにくかったのか、結果、心臓をかすって弾は貫通し、一命をとりとめました。

 このときの東條英機の評判は非常に悪いものでした。

 笹川良一という人をご存知の方は多いと思います。日本船舶振興協会の「世界は一家、人類は兄弟」というCMを覚えている方も多いでしょう。この人は国会議員でしたが、連合国非難をして戦犯指定になりました。東條英機とは犬猿の仲だったのですが、法廷闘争の経験があり、国難にあたって東條英機に法廷闘争の極意を伝授したといいます。

「東條さん、あなたには大変お気の毒なことだが、あなたはおそらく死刑を免れることはできないだろう。近衛公(近衛文麿元首相のこと)が自殺した今となっては、開戦時の最高責任者はあなたしかいないからだ。あなたが死刑になるということを前提にした上で、あなたにお願いがある。まず第一に、このたびの戦争は日本の侵略戦争ではなかったということ、自衛のためにやむを得ず立ち上がった戦争だということを、最後までとことん主張していただきたい。第二に開戦の決定はあなた自身の責任によって行ったのだということ、開戦の責任は天皇の責任ではなかったということを、表明していただきたい」

 この笹川良一の伝授を受け、東條英機は検察側の主席検事であるキーナン検事と法廷で対決し、見事な主張を展開しました。GHQによって言論統制された国民は溜飲を下げたことでしょう。オランダの判事レーリンクはこう回想しています。

「実際、東條は裁判に対する態度によって日本人の尊敬を再び勝ち得ました。すべての被告人には自分自身で弁明する権利がありました。東條は非常に長い、非常に印象的なスピーチをして、その中で、彼は、自分の動機や日本政府の政治的到達点について説明しました。東條は自分の責任を否定しませんでしたが、『アジア人のためのアジア』という概念、日本が敵対勢力に包囲されるようになっていた事実、そして石油の供給削減のため日本の命運に関わる利権が危機に晒されたことを強調しました。あのスピーチは2日間続きましたが、日本の人々の視線の中に東條の威厳を取り戻しましたね」

 東條英機としては自殺未遂は不本意だったでしょうが、笹川良一の登場によって思わぬ展開となり、歴史的に見ても「日本の立場」をはっきりと刻むことができたのです。



参考文献
 中央文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 PHP研究所「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
 中央文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク A/カッセーゼ(編)/(序) 小菅信子(訳)

添付画像
 東條内閣 昭和16年10月18日(PD)


広島ブログ クリックで応援お願いします。

リットン調査団

リットン報告書の真実。

S_3

 昭和6年(1931年)に満州事変が起こり、日本軍は満州を占領。そして国際連盟よりリットン調査団が派遣され、その結果、日本は悪いやっちゃ、満州国など認めない、となり、日本は国際連盟を脱退した。このリットン調査団によって「日本悪」が暴かれたかのように学校で教わった人が多いのではないでしょうか。

 しかし、リットン報告書の要約を見ると
「満洲に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力を行使している限り、平和は訪れない」とあり、日本側の主張も取り入れた結論を出しています。満州は清王朝と共和国の対立や蒙古も絡んで複雑な事情があるのですが、日本の軍事行動に関して言えば、日本側の権益が侵害されたから軍事行動に移ったわけで、ちゃんと理由があるのです。ここのところは学校でもマスコミでも絶対に教えないところです。「侵略」というのは挑発されてもないのに、軍事行動によって他国の領土を占領することですから、「挑発」されたことを隠して、日本が「侵略」したように見せかけているのです。

 満州と支那は古来より別の土地で万里の長城によって区切られています。満州の権益は日露戦争によって多くの日本人が血を流した結果に得たものです。支那人は血を流していません。その支那人が軍閥となって辛亥革命に乗じて満州人の土地である満州を奪いました。そして居留する日本人に対して
条約違反、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、日本人に対する土地貸与の禁止、森林採筏の禁止、鉄道運行妨害、強盗、鉄道施設の略奪、電線の略奪、朝鮮人の迫害等など仕掛けてきた結果、日本が軍事行動を起こしたのです。

 昭和8年(1933年)国際連盟はリットン報告書を採択し、満州国を認めない票決となった結果、日本は国際連盟を脱退することになりました。リットン報告書は日本の権益は認められるのでさほど悪くない話ですが、白人国家は虎視眈々と満州を狙っているのは明らかでしょう。
 杉山徹宗著「騙しの交渉術」によるとARA密約というのがあり、日本がリットン報告書を受け入れたときに白人国家らの間で密約があったことが書かれています。満州を分割してアメリカ、ソ連、フランス、ドイツ、イタリアがそれぞれ行政を行うというものです。白人の侵略があるから日本は満州国を譲れなくなり、国際連盟を脱退しました。

 その後、満州国を承認した国は20カ国あり、第二次世界大戦が始まった頃、独立国は60カ国にも満たなかったわけですから、世界の1/3は満州国を承認していました。その中にローマ法王庁も含まれています。バチカンのことです。ローマ法王庁はこの後の支那事変、大東亜戦争においても終始、日本寄りなのです。昭和12年(1937年)に支那にあるカトリック教会およびカトリック教会関係者に
「日本軍には惜しみなく援助しろ」と指示しています。これは「反共」という大きな目的もあり、ローマ法王は世界の大局をよく見ていたと思います。日本と満州は反共の砦になっていたのです。

 白人国家らの企みを「正義」としてみるから、満州国は否定されるものであり、リットン報告書は「日本悪」を断罪したもの、という史観ができあがり、我々日本人はその自虐史を刷り込まれているのです。大東亜戦争に日本が敗戦し、満州国は消滅しました。反共の砦がなくなった結果、支那大陸が赤化され、大躍進や文化大革命、ポル・ポトにより数千万人が殺戮されているのです。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「リットン調査団」
添付画像
 中華民国の上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団一行(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

歴史で謝罪することは愚か

謝罪はバカにされるだけ。

S_2

 

 昨年は日韓併合100年を迎えて「菅談話」なるものが飛び出し、「村山談話」につづく歴史認識による謝罪外交路線を打ち出しました。このような外交は世界からバカにされるだけです。

 平成6年(1994年)東南アジアを歴訪した村山富市首相(当時)に対してマレーシアのマハティール首相はこう述べました。

「日本が50年も前に起きた戦争を謝り続けることは理解できない」
「日本に対して、今更戦後賠償を求めるようなことは、わがマレーシア国民にはさせない」


 「過去の話はもううんざりだ!」ということです。当たり前です。外交というのは将来のことを話しあうものです。村山首相は何の言葉も返せませんでした。
 歴史を外交武器にして攻撃してきているのは中華人民共和国です。昭和39年(1964年)、当時の社会党副委員長の佐々木更三氏が北京を訪れたとき毛沢東は以下のように述べています。

「友人のみなさんを歓迎します。日本の友人たちは、皇軍が中国を侵略して申し訳ないと言いました。私は、いいえ、と言いました。もし、日本の皇軍が中国の大半を占領していなかったら、中国人民は団結してこれに戦うことができなかったし、中国共産党は権力を奪取することができなかったでしょう。ですから、我々にとって、日本の皇軍は立派な教師だったのです」

 実は感謝していたのです。ですから、現在は方針転換して歴史を使って外交問題にして攻撃しているわけです。南京大虐殺というでっち上げでも、日本が謝罪してペコペコするなら、何でも使ってやれ、要求はどんどん突きつけてやれ、ということになるのです。

 チベット問題に詳しい、大井功氏はビジネスマンとして1990年代に東南アジア政府系企業、華人財閥系企業の合弁事業に携わり2001年以降にシンガポール、バンコク駐在を経験しています。シンガポールの官僚たちは他国とのビジネス交渉を進めるような人たちで、日本ほど国力があり、技術があり、カネのある国の官僚だったら他国相手にももっと有利な交渉が進められるはずだ、と思っているそうです。

「日本は、もっと前に国連の常任理事国になっているべきだ。いまだに、中国の顔色ばかり見ているのはおかしいよ」

 これに対して大井氏は
「戦争のときに迷惑をかけた、という引け目があるからだろう」と答えたところ華僑系シンガポール人がこう述べます。

「日本人に、100年たってもそう思わせておくことが、メインランド・チャイニーズ・コミュニスト(本土の中国共産党)の戦略だと思わない?」

 まったくもってズバリです。さらにこう述べます。

「僕らシンガポール人は、当然、中国に祖国意識なんかない。祖国どころか世界一怖い国だと思っている。我が家の歴史をたどると、太平洋戦争中、叔父が一人、日本軍に殺されたけど、別の伯父が二人、中国本土で共産党に殺されている」

「いい?日本軍に殺された叔父は、国民党とつながっていて武器を持ち込んだから殺された。つまり理由があって罰せられた。でも中国本土で殺された伯父たちの死に正当な理由はなかったと思う。中国とは、そういう国だよ」

 大東亜戦争時、日本軍はマレー、シンガポールで華僑ゲリラの掃討を行っていますから、この華僑系シンガポール人の叔父はその関係で殺されたのでしょう。中国本土で殺されたというのは大躍進政策か文化大革命と思われます。2000万人~3000万人が殺されました。

 そしてこのシンガポールの人たちは必ずこう付け加えるのだそうです。

「僕らは日本に期待している。アジアのリーダーとして、正しいやり方をきちんと主張してリードすべきだ。そうでなければアジアはめちゃくちゃになる」

 謝罪外交などやっても一部の政治家だけの利益になるだけであって、日本国民の利益でもないし、アジアの利益でもないのです。我々は歴史で謝罪することがいかに愚かなことであるかをよく知っておかなければなりません。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 中央文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)

添付画像
 シンガポールを行進する日本軍昭和17年(1942年)2月(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31