ハワイを乗っ取ったアメリカ
ハワイはアメリカに侵略されたのでした。
ご存知の方も結構いらっしゃるかもしれません。ハワイと言えば観光地の印象ですが、歴史を見るとアメリカが不当に乗っ取ったのでした。アメリカ、つまり白人の集合体はインディアンを追い落とし、メキシコから土地を奪って、アメリカ大陸を横断し遂に太平洋まできました。次は太平洋の先、アジアがありました。そのためには拠点としてハワイをぶんどる必要があったのです。日本にはペリーがやってきましたが、日本は独立を守りました。ハワイは残念ながらそうはなりませんでした。
アメリカが急速にハワイに目を向けたのは1872年(明治5年)に米陸軍長官がホノルル港を軍事目的で調査するよう指示をしたあたりからと言われています。調査の結果、真珠湾の割譲をハワイに迫りましたがハワイは住民の反対があり拒否しました。しかし、アメリカは圧力を加え、1875年に結んだ米布相互条約によって真珠湾の使用、改築及び必要な施設建造に関する「絶対権」を獲得したのです。
白人の侵略は巧妙で、宣教師を遣わして、移民を入れて徐々に内部から支配力を強めていき、条約を結んで支配力を強化したり経済侵略したりして、最後は武力でガツンです。ハワイも内部から白人に支配されていったのです。そこで、1893年リリオカラニ女王が高額納税者に限られていた選挙権を広く貧しい島民にも与えるとした新憲法発布に打ってでました。白人の移民たちは王朝打倒に動き、アメリカ公使のスティーブンスは「血に飢えた淫乱な女王が独裁政治を復活させた」と本国に打電しました。
アメリカは戦艦ボストンを派遣しました。1893年1月、海兵隊を出動させ、ホノルルを制圧し、ボストンの主砲をイオラニ宮殿に照準させ、女王は遂に屈することになります。軍隊のない国の悲しさです。
王朝が倒れた1ヵ月後、ハワイに日本の軍艦「浪速」と「金剛」という軍艦が寄港します。ハワイには2万5000人の日本人移民がおり、生命と財産を守る目的です。王朝が倒れる1月17日付で日本とハワイの間の不平等条約改定を認める公文書に女王が署名していますから、なんらかハワイを救う目的、ハワイ王朝から援助要請があったのかもしれません。「浪速」と「金剛」はボストンを挟むようにして投錨しました。「抗議」する、ということです。そして浪速の艦長、東郷平八郎が声明を発表します。
「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」
これは痛烈な皮肉を言っており、クーデターを起こして政府転覆を謀ったのはアメリカ系市民であり、アメリカの公使です。それを承知で暴挙の巻き添えになるアメリカ市民を日本が守ってやる、と言っているのですから。
そして浪速は3ヶ月滞在して引き揚げます。翌年、浪速は再びホノルルに寄港します。新政権1周年の祝いにハワイ新政府は浪速に21発の祝砲を撃つことを要請しますが、浪速は「その理由を認めず」として突っぱねました。このときも浪速の艦長は東郷平八郎です。それで港にいた他国の軍艦も従って祝砲を撃ちませんでした。世界の新聞は「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服すように静寂に包まれた」と報道しました。アメリカは赤っ恥をかいたわけです。
*毅然とした日本人の姿がそこにありました。*
ハワイでは日本の軍艦が味方したことが今でも伝えられているそうです。「ナニワ」は「ありがとう」という現地語で使われたこともあるそうです。
参考文献
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
PHP研究所「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
歴史通2010.1月「アメリカはなぜ日露講和に乗り出したのか」高山正之
添付画像
リリオカラニ女王 1887年(PD)
女王は1917年11月11日、79歳で死去
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