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2011年3月

敵兵を救助せよ

有名な日本武士道精神「敵兵を救助せよ」

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 テレビで放映されたことがあるのでご存知の方も多いと思います。

 昭和17年(1942年)2月27日から3月1日の間、日本軍はジャワ上陸作戦を展開し、インドネシアのスラバヤ沖、バタビア沖でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアのABDA艦隊と海戦が勃発しました。海戦は日本軍の圧勝で、3月1日にはセイロン島に脱出しようとしたイギリス艦、アメリカ艦を撃沈しました。このときイギリスの「エンカウンター」という駆逐艦の乗組員の救助劇が「敵兵を救助せよ」のタイトルで語られているものです。(巡洋艦エクゼターの乗組員も含まれる)

 沈没した「エンカウンター」の乗組員は約21時間漂流し、重油の海に使って多くの者が一次的に眼が見えなくなりました。兵の中には耐え切れなくなり、自殺のための劇薬を軍医に要求し始める者もいました。

 英海軍中尉フォール卿の話(平成15年に来日)
「救命浮舟に5,6人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もない有様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な状況に置かれていました」

 そこに日本海軍駆逐艦の「雷(いかずち)」が現れます。雷の艦長は工藤俊作中佐で、「救助!」「取り舵いっぱい」と下令しました。連合軍艦隊を破ったとはいえ、敵潜水艦がいるかもしれず、まだ危険な海域でした。

 フォール卿
「当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」

 工藤艦長は「一番砲だけ遺し、総員敵溺者救助用意」と異例の命令を出し、縄梯子や竹竿を両弦に出しました。ところがイギリス兵の中には体力が限界に達しているものがおり、竹竿に触れると安堵したのか、力尽きて水面下に静かに沈んでいくのでした「がんばれ!」「がんばれ!」と日本兵は連呼し、この光景を見かねた二番砲塔の斉藤光一等水兵が、独断で海中に飛び込み立ち泳ぎしながら重傷のイギリス兵の身体や腕にロープを巻き始めたのです。

 フォール卿
「私は、当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見したとき、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるかとさえ思っていました。ところが『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」

 「雷」は終日、海上に浮遊する生存者を探し続け、422人を救助し、イギリス兵の体についた油をふき取り、熱いミルクやビール、ビスケットを提供しました。そして工藤艦長はイギリス兵士官を集めて流暢な英語で次のように述べます。

 You had fought bravely.(諸官は勇敢に戦われた)
 Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.(今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである)

 フォール卿
「日本の武士道とは、勝者は奢ることなく敗者を労わり、その健闘を称えることだと思います」

 これがどれくらいのことなのかといえば、昭和18年11月に日本の病院船「ぶえのすあいれす丸」がアメリカの爆撃機B24に爆撃され沈没し、救命ボートと発動機16隻に患者、看護婦、乗組員が漂流していたところをまたB24が容赦なく機銃掃射したことや、戦艦大和が沖縄へ向かう途中に撃沈され、乗組員は漂流しているところをアメリカ軍機の機銃掃射を受けたことと比較すればわかるでしょう。また、平成10年(1998年)、天皇陛下訪英の際、イギリスの退役軍人らが反対運動をおこし、タイムズ紙に日本批判の投書しましたが、フォール卿も「タイムズ紙」に工藤艦長の行為を投書したため、日本批判の投書は精彩を欠いてしまったといいます。


参考文献
 Gakken歴史群像アーカイブ「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
 草紙社「敵兵を救助せよ」恵隆之介(著)

添付画像
 工藤俊作中佐

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1-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives
http://www.youtube.com/watch?v=UtXFvljYBM0


2-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives
http://www.youtube.com/watch?v=iMWy8wW1VSg

3-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives
http://www.youtube.com/watch?v=qhxMP9RrLwk



朝鮮、悲劇のヒーロー「金玉均」

金玉均こそ評価されなければなりません。

Kim_okgyun


 明治12年(1879年)頃の朝鮮半島は閔氏一族の政権があり、清国の従属して開化を進めていこうとする事大派と独立・近代化を主張する独立党がありました。独立党のモデルは日本の明治維新であり、日本の支援を期待していました。このリーダーが金玉均(キム・オッキュン)です。

 明治15年(1882年)金玉均は日本にきて福澤諭吉の支援を受けています。福沢諭吉の影響を受けたことでしょう。「独立の気力」(学問のススメ第三章)に感銘を受けたかもしれません。金は日本の議会や裁判所、学校、電信施設、練兵場、印刷所、建設会社などなどを見学し、福沢諭吉の邸宅を拠点にさまざまな人物と会い、意見交換をし、日本から多くのものを吸収しようとしていました。明治維新以降、日本は朝鮮を侵食していったかのごとく言う人が多々いますが、それは大ウソで、日本は朝鮮の「独立」を支持していたのです。

 明治17年(1884年)、清仏戦争で清国が敗退したとき、好機とみて金玉均は日本の竹添公使の協力を得てクーデーターを起こし、新政権を樹立します。甲申事変と言われるものです。彼は改革要領を発表し、清国を排除し、真の独立国家建設へ向けて始動します。国王・高宗(こうそう/コジュン)は暗黙のうちに金のクーデター計画を承諾していました。

 ところが、高宗は裏切り清国の出兵に同意し、清国の袁世凱が1,300人の軍勢で王宮を攻撃します。もともとこのクーデターは清国とフランスが交戦中に実施する予定でしたが、清国が敗退してしまい、かえって清国は威信をかけて朝鮮半島を平定しに来たのです。金玉均は運がなかったといえます。日本軍の守備隊はわずか150人。数の上では1/10でも日本兵の練度は高く、激しく反撃し、互角以上に戦っていましたが、日本の竹添公使が弱気で、撤収を決め、仁川港から撤退しました。金玉均と朴泳孝(ぼく えいこう/パク・ヨンヒョ)たち独立党の指導者たちは一緒に日本に亡命。日本公使館は焼き討ちされ、夫人を含む多数の日本人が惨殺されました。

 日本に逃れた金玉均は明治27年(1894年)、同志の裏切りに会い、上海に連れ出され閔氏が差し向けた刺客によって暗殺されます。死体は朝鮮に送られ、六支の刑(頭、手足をバラバラにする極刑)に処せられ、朝鮮各地にさらされました。父は処刑、母は自殺、弟は獄死。妻子は行方不明になり日本は探偵を送ってその捜索を行い、同年12月偶然発見して保護しました。
 金玉均の葬儀は日本の浅草本願寺で盛大に営まれました。日本人が持ち帰った遺髪があったのです。お墓は本郷の真浄寺にあります。青山の外人墓地にも墓があります。墓碑にはこう刻まれています。

 嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)
(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)

 金玉均は独立の気力を持ち、清国属国政府と戦い、たった3日と言えど新政権を立ち上げています。千年にわたる支那の支配に終止符打った近代朝鮮のヒーローであり、韓国の歴史に燦然と光を放っています。しかし、今の大韓民国という国は”連合国から与えられた独立”であり、金玉均の光はまぶしすぎます。それで光を抹殺してきましたが、近年は韓国だけでなく、北朝鮮でも高く評価されるようになってきているといいます。




参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 文春新書「韓国併合への道」呉善花(著)
参考サイト
 WikiPedia「金玉均」

添付写真
 金玉均(1882年長崎での写真 PD)

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朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun
http://www.youtube.com/watch?v=OKiawHiNuWA

スラバヤ沖海戦で見られた不思議な光景

敵兵を救助する不思議な光景。

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 昭和17年(1942年)2月27日から3月1日の間、インドネシアのスラバヤ沖、バタビア沖で海戦が勃発しました。日本海軍とABDA艦隊との間の戦闘です。ABDAはアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合軍です。日本軍はジャワ上陸作戦を展開中で、これを察知したABDA艦隊は阻止しようとし、日本海軍第五戦隊、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊が迎え撃ちました。
 日本海軍は輸送船団の護衛が主任務だったせいか消極的な動きでしたが、秘密兵器である酸素魚雷(雷跡がつきにくいので発見しにくい)が決め手となり圧勝。ABDA艦隊の残存艦はジャワ島南部、あるいはセイロン島へ逃れようとしました。

 3月1日、アメリカの巡洋艦「ヒューストン」とオーストラリアの巡洋艦「パース」はバタビア沖で日本の輸送船団に遭遇し、攻撃しますが、日本の第五水雷戦隊、第七戦隊と交戦となり、二隻とも沈没しました。

 イギリスの巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」、アメリカの「ポープ」はセイロン島へ向かいますが、日本の巡洋艦に挟撃をうけ、戦闘不能となります。「エクゼター」の艦長は「わが艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げ、僚艦に自艦を見捨てるように指令しました。ここで不思議なことが起こります。「エクゼター」の乗組員は次々海中に飛び込み、日本艦隊に向かって泳ぎ始めたのです。「エクゼター」では士官が兵に対し
、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していたといいます。
 「エクゼター」が沈み行くとき、日本の駆逐艦「電(いなづま)」では
「沈み行く敵艦に対し敬礼」の号令が下されました。そして、残りの敵艦の攻撃に向かわず、「海上に浮遊する敵兵を救助すべし」との命令が下ります。そして「エクゼター」376名が救助されました。

 一番砲砲手で「電」に乗艦していた岡田正明氏
「立派な浮き舟に乗っているもの、救命用具をみにつけている者等、多くの敵兵が近くの海面で助けを求めている。直ちに縄梯子、ロープ、救命浮標等で救助にあたった」

「『サンキュウ』と、蒼白な顔の中にも救助された喜びの笑みをたたえ、敬礼して甲板にあがってくる敵兵、激しい戦闘によって大怪我をしている者、シャツは着ていてもパンツのない者等服装もまちまちだ。ズボン、靴下等彼らが身に着けているのは純毛だった。『持てる国イギリス』の感を強くした」

 この後、駆逐艦「エンカウンター」も撃沈します。この乗組員の救助が「敵兵を救助せよ」のタイトルで有名な話となります。「ポープ」も撃沈され、救助されていますが、「ポープ」の場合はアメリカ兵が傲慢で戦後
「長時間艦上に放置された」などと日本海軍を悪く証言するものもいます。いずれも戦争をしているのに不思議な光景ですが、日本には武士道精神があるのと、日本海軍はイギリス海軍を範としてきており、親近感があったことが理由としてあげられるでしょう。イギリス側もマレー沖で戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本海軍航空隊によって撃沈されたとき、乗員の救助を妨げなかったし、生存者のシンガポールまでの寄港を許したことが頭にあり、救助される抵抗は少なかったものと思われます。



参考文献
 Gakken歴史群像アーカイブ「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
 草紙社「敵兵を救助せよ」恵隆之介(著)

添付画像
 攻撃を受ける英重巡洋艦エクセター(PD)

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ジョヨボヨの予言

予言は的中した。

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「わが王国はどこからか現れる白い人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。白い人の支配は長く続くが、やがて北方の白い衣をつけた黄色い人が白い人を追い出し、ジャゴン(とうもろこし)の寿命の間、この地を支配した後に“ラトゥ・アディル=正義の神”の支配する祝福される治世がくる」

 これはマレー・インドネシアに伝わる伝説です。昭和17年(1942年)1月11日、日本軍はボルネオ島タカラン、セレベス島メナドを攻撃。ジャワ島を目指します。3月1日、今村均中将率いる陸軍主力16軍はジャワ島上陸。わずか9日間でオランダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア連合軍を降伏させます。350年にわたって支配した白人(オランダ)を北方の黄色い人(日本人)が予言通り追い出したのです。インドネシア人はオランダ軍が作ったバリケードを取り除き日本軍を歓迎しました。
 マレーでもクアンタンに上陸し進撃する日本軍を見てマレーシアの上院議員となったノンチック氏は
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました」「日本軍は永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」と述べています。

 ジョヨボヨの予言は12世紀前半、東ジャワのクディリ王国の王「ジョヨボヨ」が命じて古代インドの民族叙事詩をジャワ風にアレンジしたもので、伝承によって色々バージョンがあるようです。日露戦争で日本が勝利し、マレーもインドネシアもこの予言に日本をだぶらせ期待を込めて待ち続けていたのではないでしょうか。

 マレーにはこのほか次のような伝説もあります。
「マレーの神は、二人の兄弟を生みたもうた。兄は暴れん坊で弟は大人しかった。兄は国を捨てて海原遠く乗り出し、いまではますます強く、性格は激しさを加えている。弟はいよいよ大人しく、やがてその国は他人から奪われる。そして、弟はますますおとなしさを加えた。弟がほんとうに困ってしまえば、いつかは強い兄が助けに来てくれると弟は思っているのだ。その弟がマレー人なのだ」

 この伝説の「強い兄」が日本軍とダブったのです。

 興味深いことにスリランカに「ジャヤ・セーナ(勝利の戦士)」という言い伝えがあり、「ジャヤ・セーナが東のほうから来て仏教を助ける」というもので、日本軍がコロンボを空襲し、イギリス軍を叩いたときには歓迎したといいます。


参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(偏)
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
  光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 桜の花出版「アジアが今あるのは日本のお陰です」

参考サイト
 愛国心を育てる名言 インドネシア親日の神話 ~ジョヨボヨの予言
   http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=212
 ジョヨボヨ王の予言
   http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/column/ramalan_joyoboyo.html

添付画像
 スラバヤでインドネシア軍が使用した日本の軽戦車を調べる英軍(PD)

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軍艦マーチ(ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ)

ミャンマーは親日国。

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 ミャンマー(旧ビルマ)では1942年(昭和17年)のビルマ独立義勇軍の創設を建軍としています。国軍記念日の軍事パレードでは軍艦マーチ、歩兵の本領、愛馬進軍曲が流れるといいます。国軍記念日は対日蜂起の日でもあるのですが、なぜ日本の軍歌が流れるのでしょうか。

 昭和17年(1942年)タイのバンコクで「ビルマ独立義勇軍」が結成されます。これは日本の南機関という特務機関が日米開戦前からビルマ国内工作としてビルマ独立党を支援しており、日米開戦にともない敵となったイギリスを打倒するために結成したものです。司令官は鈴木大佐。ロンジー(ビルマ民族衣装)で白馬にまたがりビルマ人の前に登場したと言います。この演出の提案をしたのがアウンサンで、アウンサンスーチー女史の父です。ビルマでは
「王朝最後の王子よみがえって東方から白馬に乗ってやってきて白人支配から開放する」という伝説があったのです。

 イギリスとの戦いの前、アウンサンは日本に亡命し、独立運動指導者らをビルマから呼び寄せ、海南島で南機関によって厳しい軍事訓練が行われました。訓練の厳しさに脱落しそうな者が現れると
「こんなことでイギリス軍をビルマから追い出せるか!」「そんな意志薄弱で独立が獲得できるか!」と怒声が飛び交ったといいます。

 昭和17年(1942年)日本軍とビルマ独立義勇軍(B・I・A)がタイからビルマとの国境に近づくと、ビルマの青年たちが国境を越えてやってきて、
「ドウバマー」(万歳)と叫び、日本軍の物資輸送を手伝いました。日本軍が国境を越えてビルマの村に入ると村の人たちが「ドウバマー」「ドウバマー」大歓声が沸きあがり、日本兵はあまりの感動に涙を流したといいます。

 ビルマに入った日本軍は進撃を続け3月には首都ラングーンを占拠。イギリス軍に逮捕されていた独立指導者らを解放しました。その後、ビルマ北方方面を制圧し、ビルマをイギリスから解放しました。

 昭和18年(1943年)バー・モウを元首とするビルマ国が建国しました。その後、大東亜戦争は日本の旗色が悪くなり、アウンサンは日本を裏切りましたが、それは独立を維持するため仕方がない行為で、日本を恨んでいたわけではありません。戦後、ビルマ独立に尽力した7人の日本人がアウンサン勲章が授与しています。南機関の鈴木大佐のことはミャンマーの学校教科書でも大きく取り上げられているそうです。こうした親日的なところが、日本の軍歌をずっと残していることにつながっているのでしょう。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 徳間文庫「ビルマ独立秘史」泉谷達郎(著)

添付画像
 ビルマの日本軍(PD)
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軍艦行進曲の系譜 ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ/Myanmar Tot Ya Tatmadaw
http://www.youtube.com/watch?v=ZSmqdf6N4n8



「日本人は12歳」と言ったマッカーサー

日本人は12歳の真意は?

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 大東亜戦争後、占領軍の最高司令官であったのはダグラス・マッカーサーが「日本人は12歳」と言った話はは良く聞きます。戦後占領期のGHQの政策は日本の将来的な弱体化、破壊でしたが、絶対的権力と物資が不足している中、日本人はだんだんアメリカかぶれになっていきました。日本人はマッカーサーを称賛し、マッカーサーの離日後、マッカーサーを「永久国賓にしよう」「マッカーサー神社を建てよう」「マッカーサー記念館を作ろう」という声まであがりました。しかし、この「日本人は12歳」発言によりマッカーサーの差別意識に気がつき、マッカーサー熱は急速に冷え、人々から忘れ去られていったのです。

 この「日本人は12歳」という発言はマッカーサーが帰米直後、日本人のことを「like a boy of twelve」と米上院公聴会で証言したときのものです。教育学博士の若狭和朋氏は著書「続・日本人が知ってはならない歴史」では「たぶんに誤解です。ドイツは成人の悪党だったが、日本人はそうでなかったという反省の弁」と書いています。

 WEB「正論」で東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行氏は東京・永田町の国立国会図書館へいき、公聴記録を調べて述べています。これによると日本は自由主義陣営の一員として留まりソ連側になびくようなことはない、ドイツは悪党だが、日本はそうでない、という日本擁護論の文脈の中で出てきていると書いており、記録を見ますと確かにその通りです。

^^^^^^^^[引用開始]
「そうですね、ドイツの問題は、完全に、そして全面的に、日本の問題とは違っています。ドイツは成熟した人種でした。もしアングロ・サクソンが人間の年齢で、科学や芸術や宗教や文化の面でみて、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人も同じくらい成熟していました。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状況にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳という成熟した年齢であるのに比べると、日本人は言ってみれば 12歳の少年と言ったところでしょう。

 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかったのです。日本では、基本的な考えを植え付けることができます。日本人は、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができるほどに、白紙の状態に近かったのです。

 ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の道徳を怠けてないがしろにしたり、国際的規範を破ったりしたとき、それは彼らが意図的にやったことでした。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたことをしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、うっかり、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずからの軍事力を用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮の上での政策として、それを行使したのです」

「ドイツは言うなれば確信犯で、冷徹に国益の損得勘定を考えてああいう悪いことをやった。日本はそうではない。まだ国際社会に出て間がなくて、ちょっと道を踏み外してしまった。でも、自分が占領統治をして良い国になったのだから、大丈夫だ」「日本はまだ12歳の少年で、まだ教育可能で、覚えが早くて優等生だ」
^^^^^^^^[引用終わり]

 日本擁護論の中での「例え」として使われており、多賀敏行氏は日本擁護が真意と言っています。確かに主旨はそうですが、12歳に例えるというところがマッカーサーの心の底にある「日本人差別」意識を物語っているでしょう。
 昭和天皇はマッカーサーが離日するとき、GHQが見送りを要請したにもかかわらず、侍従長を派遣しただけでした。昭和天皇訪米のとき、マッカーサー夫人の再三の案内にもかかわらずマッカーサー記念館に行くことも、マッカーサーの墓参をすることも行いませんでした。



参考文献
 幻冬社「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
参考サイト
 Web正論:<特別企画 遥かなり大東亜戦争>
 若き日本人に伝えたい「日本人は12歳」、マッカーサー発言の真意は侮蔑にあらず
  東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行
  http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0701/ronbun2-1.html

添付画像
 ダグラス・マッカーサー(PD)

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日本兵がマッカーサーに敬意を表して背を向けて立っていた
http://www.youtube.com/watch?v=vuB1n6JcTgI

インドに散った日本兵士を讃える

インドに散った日本兵。

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 昭和19年(1944年)3月、大東亜戦争ビルマ戦線で日本軍は「インパール作戦」を開始しました。インパールはインドにあり、インドはイギリスの植民地でした。インド解放へ日本軍とINA(インド国民軍)が共同でこの作戦を遂行しました。戦後はこの作戦は最初から無謀とか言われ、インド国民軍が加わっていたことを隠して語られていますが、無謀な作戦ではなく、最初の一撃の成否如何でアッサム地方のディマプールへ進撃する作戦であり、十分根拠のあるものでした。しかし、軍司令官と師団との意思疎通が悪く、結果的に補給が続かないため武器も弾薬も食糧も尽きて、悲惨な戦いとなりました。

 インパールへ行くにはビルマ側から険しいアラカン山脈を越えていかなければなりません。日本軍は山脈を越えて、インパールに近い、コヒマやビシェンプールでイギリス軍と戦いました。険しい山脈越えで、制空権もありませんから、武器や弾薬、食糧を補給していくのは大変困難なことでした。次第に弾薬や食糧が尽きてきて素手に近いような装備となり、それでも日本兵は必死になって戦いました。

 やがてインパール作戦は中止となり日本軍は引き揚げていきました。その頃、コヒマの野に紫色の花がいっせいに咲きはました。この花は群生で非常に生命力が強く、繁殖力があり、少々のことでは枯れない花でした。現地の人たちは敵の圧倒的優位な武力に屈することなく、最後まで組織的に立ち向かった日本兵の姿と二重写しになり、この花を「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。

 ビルマのアキャブから飛び立った日本陸軍一式戦闘機「隼」は空から宣伝ビラを撒いたことがあります。それには「日本は起てり!アジアの同胞として白人との戦いに決起せよ」と書かれていました。インドの人たちは「日本軍が来るのをみんな待っていた」といいます。しかしやってきた日本軍はインパールやコヒマで敗れた日本軍傷病兵ばかりでした。現地の人たちは日本兵を治療しますが、日本兵は次々に亡くなっていきました。そして死んだ日本兵を墓場の一番いいところに埋葬しました。インパールの北にあるマパオ村では毎年インド独立のために散った日本兵を慰霊する祭りが行われ「日本兵士を讃える歌」が歌われています。

 インパール周辺現地の人たちは日本軍が軍規厳粛で特に婦人暴行が全くなかったことを常に称賛するといいます。イギリス軍は略奪や婦女暴行が相当ひどかったようです。また日本軍の勇敢さは印象的だったようでコヒマには日本軍が擱座(かくざ)させたイギリス軍のM3グランド戦車が保存されています。この方面は山脈越えの軽装部隊だったため対戦車兵器がなく、布団に黄色火薬を詰めた即席対戦車地雷をキャタピラのしたにほうり込み、戦車を破壊していたのです。現地の住民は来訪者があるたび
「これは昔、日本のマスターがやったんだ」と我がことのように自慢しているそうです。

 レッドヒルというところでは日本軍第33師団の214連隊500人が全滅しました。その霊を弔うために地元のロトパチン村人が慰霊塔を立てました。村人は戦いの中で傷ついた日本兵のために食べ物を届けていたのです。
「私たちのために戦ってくれた」と。



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(偏)
 WAC「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人 高山正之(共著)
 ワック出版「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之

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参考映像
http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk




【日本兵士を讃える歌】

作詞作曲  マパオ村村民

日本語訳  古田中 勝彦



一、

 父祖の時代より

 今日の日まで

 美しきマパオの村よ

 いい知れぬ喜びと平和

 永遠に忘れまじ



 美しきマパオの丘に

 日本兵来り戦えり

 インパールの街目指して

 願い果たせず

 空しく去れり



二、

 日本兵

 マパオの丘に来る

 それは四日の火曜日

 一九四四年のことなりき

 我は忘れじ四月のあの日



三、

 罪なき民も散り散りに

 西に東に追いやられ

 再び神の恵を受け

 集まり住まん

 この地マパオに



四、

 広島の悲報

 勇者の胸をつらぬき

 涙して去れる

 日本の兵士よ

 なべて無事なる帰国を

 われ祈りてやまず

日本精神(リップンチェンシン)

台湾に日本の心が残っていた。

S

 金美齢さん著「戦後日本人の忘れもの」で日本精神(リップンチェンシン)について書かれています。日本人が持っていた「清潔さ」「公正さ」「勤勉さ」「責任感」「規律遵守」「信頼」「滅私奉公」を指すそうで、戦前の「日本精神」とは異なり台湾で生まれた「日本精神」(リップンチェンシン)だと書いています。「大和魂」「武士道の精神」は良く聞きますが、多くの人は台湾でいう「日本精神」という言葉は聞いたことがないでしょう。

 台湾は戦前は日本領でしたが、昭和20年(1945年)、日本の敗戦後、中華民国国民党(外省人という)が入り込んできました。その所業は酷いもので、公的資産の私的占有、窃盗、恣意的な朝令暮改、賄賂政治、縁者登用、終身議員、一党独裁などなど挙げられます。
 例えば、日本時代はタバコは専売制でしたが、大陸ではそのような制度がありません。それで大陸産のタバコが露天販売されるようになりましたが、それは"密輸品”とみなされ、違法行為とされました。それで没収されるのですが、その没収タバコを外省人がまた販売するのです。お酒も同じで販売していると没収され、外省人によってさばかれたといいます。彼等には罪悪感はありません。

 本省人(もとから台湾にいた元日本人)は日本時代を懐かしみ「犬(日本人)が去って豚(支那人)来たり」と吐きました。犬はうるさいが守ってくれる。しかし豚は働かずにただむさぼるだけという例えです。
 そんな中で生まれたのが「日本精神」(リップンチェンシン)という言葉なのだそうです。
 台湾では「あの人はリップンチェンシンだから」というと真面目で勤勉で堅物の人を指し、「あの店はリップンチェンシンだから」というと信用を重んじて約束を守る人という意味になるそうです。この対語として「中国式」という言葉があり、これは「ルーズ」「無責任」「欺瞞的」「金が万事」という意味になります。

 平成11年(1999年)、金美齢さんは東京大手町での講演で次のように訴えています。
「・・・戦後、台湾では、”日本精神”なるものが薄れてゆき、自分さえよければ良いという”中国式”に染まりつつ現状を憂いています。ぜひ、皆さんも歴史的に、伝統的に持っていた日本人の徳目、日本人のすばらしさを再評価して、それをなんとか次の世代に伝えてゆくという仕事に、日本人一人一人が参加してほしいのです。それが、台湾のためなのです。日本がちゃんとしていなければ、台湾は、存在できない。日本と台湾は運命共同体だと考えています。
 (中略)
 日本は、責任を持ってこの地域のリーダーであるという使命を果たしてほしい。日本以外にはないのです。覇権主義国家の中国にこの地域のリーダーシップをとってもらっては、皆が迷惑するのです。
 ですから皆さん、”覚悟”を決めて、この地域のリーダーを担えるような国をつくりあげていってください」


 今の日本はどうでしょう。政治は腐敗し、官僚も民間も自分さえよければいいという個人主義、利己主義、権利主義に陥っています。われわれは「戦前真っ暗」という自虐史観を刷り込まれてきましたが、本当の歴史を取り返し、再評価し、日本人が本来持っていた徳目である「日本精神」を復活させるべく目覚めるときではないでしょうか。それは日本のためだけでなく、アジアのためでもあり、そして我々の子孫のためでありましょう。



参考文献
 ワック「戦後日本人の忘れもの」金 美齢(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい」蔡 焜燦 (著)

添付画像
 台湾にあった高雄州庁(PD)


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日本と台湾は一心同体:Japanese and Taiwanese like each other
http://www.youtube.com/watch?v=gwPwOrmdlMs



ナレーションで「台湾は日本の植民地となった」と言っているが、植民地ではなく内地延長だった。「植民地」と言い出したのは戦後になってであり、悪意ある思想によるもの。

日本人は猿と同じだった

差別を克服した歴史があった。

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 評論家の日下公人氏(昭和5年生まれ)の少年時代の話です。日下氏の母はクリスチャンで日下氏自身も教会へ行っていました。

「大きな教会で、イギリス人牧師の下で働く家政婦がいました。真面目で、賢くて、信仰心も厚い。聖書もしっかり読んでいた。少年だった私も母に連れられて教会に行っていましたから、いつしかその女性と打ち解けて話すようになりました。
 ある時、彼女は、「ビショップ(司教)は、どんなにありがたいお話をしてくださろうとも、内心では日本人のことを猿だと思っている。同じ人間だとは思っていない。猿を人間にしてやる、救済の道を与えてやると考えているのよ」と確信に満ちた表情で私に話しました。牧師の日常の振る舞いを知る女性の観察は、そうだったのです」


 欧米人というのは有色人種を差別していました。ですから、こういう感覚だったのです。

「日本人は首が座る前から負ぶわれゆすられるから、バランスをつかさどる内耳に異常をきたし、急降下飛行ができない」

「近眼で鳥目だから夜間飛行はできない」

「個人主義が発達していないから一人で乗る戦闘機が被弾や故障に遭うと、何をしていいか分からない。ただ腕を組んで地上に激突するのを待つ」


 アメリカの軍事評論家がまじめにこんなことを言っていたのです。それを信じていた米軍パイロットが昭和7年(1932年)の第一次上海事変のとき、単機で日本海軍の編隊に攻撃をしかけて、火の玉となって墜落死しました。

 アメリカは日露戦争後、日本移民の排斥を続けてきました。よく、大東亜戦争中に日系人が強制的に収容所に入れられる話を聞くでしょう。映画やドラマにもなっています。そういう人種差別というのは戦時中だけの話ではなく、ずっと前から続いていたのです。この人種差別が大東亜戦争の遠因となっているため、戦後、我々は知らされていません。GHQが都合の悪い歴史を隠し、そのままになっているのです。

 欧米人の差別意識を変えたのが大東亜戦争でした。

 ブレーククラーク著「真珠湾」
「われわれは日本人は独創力と想像力に欠けている - わずかに能力がありとすれば、それは単に模倣性に過ぎぬといったような根も葉もない話ばかり、今までに聞かされてきた」
「もしそれが真実であるとするならば、日本海軍の軍艦は、荒天に乗り出すやいなや、ただちに一隻残らず転覆していなければならないはずである」


 そして最近映画にもなりましたが、日系人による442連隊の欧州戦線での活躍です。ボージュの森でドイツ軍に包囲されたテキサス大隊を救出するため、機関銃弾が降り注ぐ中、442部隊が「バンザイ・アタック」でドイツ軍を打ち破ったのが代表的な話としてあります。この442部隊はアメリカ陸軍でも最も多くの勲章をもらいました。

 それでも戦後、
「日本人にはテレビは作れない」「自動車を作れるはずがない」などと言われましたが、もはやそのようなことを言う外国人などいないでしょう。我々は人種差別というのが先人の血と汗によって解消されていったことを忘れてはならないでしょう。



参考文献
 PHP研究所「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 ワック出版「歴史通」2009.10月『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 ワック出版「歴史通」2010.11月『死闘!442日系人部隊の真実』

添付画像
 第二次世界大戦中のアメリカの排日プロパガンダポスター(PD)

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弱腰、迎合では理解は生まれない

毅然とした態度が国際社会で受け入れられる。

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 昭和7年(1932年)、支那(シナ)は非常に治安が悪く福州で収奪目的の学生秘密結社がいくつも存在していて日本人教師夫妻が標的にされ「殺す」と脅されていました。脅されていた教師は何の咎(とが)もなく、家が支那人の近くにあり、警備が十分ではなかったのでカモにされていたのです。日本の総領事は主権国家に対する礼儀を重んじて福州当局に警備をお願いしました。
 要請を受けた当局は支那兵を配備し、数日間は交代で24時間の警備に当たったのですが、ある夜、何の前触れもなく、消えました。そして策を講じるまもなく、夫妻は襲われ殺されました。日本人の怒りは頂点に達し、田村総領事は
「警備に落ち度があったから今回の事件がおきた。重大な過失に対しご遺族に5万ドル賠償願いたい」と申し出ました。しかし、言を左右にしてまともに返事をしません。そこで田村領事はこういいます。

「よろしい。これ以上申し上げることはない。後はそちらのご判断次第である。一言申し添えるが、当方はすでにことの詳細を海軍に打電し、軍艦数隻がこちらに向かっている。おわかりかな。熟慮のほど、重ねて願い申し上げる」

 すると支那側は翌朝には5万ドルを現金で持ってきたという。そして福州では日本人に対する態度が一変し、日本人殺害はもちろん、あらゆる反日行動がぴたっとやみ、日本人は最高の扱いを受け、最も尊敬される外国人になりました。アメリカやイギリスは軟弱外交だったため、反米、反英運動に忙殺されたままでした。

 国際社会というのはこういうもので、軍事力が背景であるのは当然で、かつ毅然とこちらの言い分を主張しなければなりません。そうすることにより相手は敬意を払い、初めて対等に話が出来るのです。現在でも本質は変わりません。

 平成16年(2004年)、自衛隊の田母神俊雄元空
長が統合幕僚学校長時代に中共で研修を行ったときの話です。参加した学生たちとともに総参謀部ナンバー2の範長龍参謀長と面談しました。面談で範中将は歴史認識について語り始め、彼は満州の瀋陽軍管区の生まれで子供の頃から、両親や親族から日本軍の残虐行為を繰り返し聞かされたと話始めました。範中将の話が終わる様子がないので、田母神氏は手を挙げて話を遮って次の様に発言しました。
 
「私の歴史認識は範中将とまったく異なる。私は端的に言って、日本軍が中国に対して悪いことをしたとは思っていない。日本は諸外国との比較で言えば、極めて穏健な中国統治をしたと思っている。日本人の中には範中将と同じ見解を持つものもいるが少数派である。平和な時代にも暴行はあるし殺人はある。それだけを取り上げて残虐行為が頻繁に行われたという中国側の歴史認識にはまったく同意できない。日本軍が実質満州を統治するようになってから満州の人口はどんどん増加している。それは満州が豊かで治安が良かった証拠である。残虐行為が行われる場所に人が集まるわけがない。
 私は中国が日本に謝れというならば、イギリスにたいしてはその五倍、十倍謝れと言ってやっとバランスが取れると思っている。それでも中国が日本に対してだけ残虐行為を吹聴するのは何か目的があるからに違いない。日本はアメリカから原子爆弾を投下され、東京大空襲も受けた。今日の言うところでの民間人に対する無差別テロである。しかし、日本はもはや日米会談のたびにアメリカに謝罪要求することはしない。そんなことを言っていては日米関係が未来志向の関係にならないからである」


 田母神氏が話し終えたあと範中将はややびっくりしたような表情をし、「歴史認識の違いが日中軍事交流の妨げにならないようにしたい」との趣旨を語りました。そうすると中共側のリアクションがありました。田母神氏らが出国する前の晩に日本側が開いた答礼の宴に、中共側からはだれも将官が出席しなかったのです。中共側の対応は国際儀礼上あり得ないことでした。そして更に中国国防大学が日本の統幕学校訪問を取りやめると連絡してきたのです。しかし、どういう風の吹き回しか訪問予定の直前になって再び訪問を申し入れてきたので日本側は歓迎する、と答えて研修団を受け入れることになりました。
 一年たったときのこと、統合学校の副校長で海上自衛隊の高橋海将補という人が、中共に引率して行ったとき、田母神氏が行ったときに会ったリー・デンシェンという陸軍中将政治局員がまだ国防大学にいたそうです。
 彼は第一声、
「田母神空将はどうしていますか?」と言い、高橋海将補が「彼は今、航空自衛隊の最高指揮官です」というと、「そうですか、じゃあよろしく言っておいてください」と言ったそうです。また、中共の国防大学には、田母神氏が訪問したときの写真が大きく飾ってあったといいます。国際社会はこういうものです。いたずらに相手に迎合したりペコペコしたりしてはダメで、言うべきは言う毅然とした態度によって相手に認められ、そこから友好が生まれてくると言えます。



参考文献
 芙蓉書房出版「暗黒大陸 中国の真実」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 WAC「自らの身は顧みず」田母神俊雄(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)

添付画像
 日本人将校による日本語の授業 (中国江蘇省鎮江、昭和13年1月20日)(PD)

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