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2011年4月

昭和の日、昭和天皇をしのぶ

 国民とともにあられた先帝陛下をしのぶ。

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 本日は昭和の日です。先帝陛下をしのんで、陛下の日常のお食事のお話を書きます。

 先帝陛下は朝食はほぼ毎日、洋食をおとりになり、昼食と夕食は和食と洋食を交互にとられていました。朝食はトーストもしくはオートミールにサラダ、果物、温野菜、ミルクが定番でした。昼食や夕食の和食は丸麦入りのご飯、秋刀魚の塩焼き、オムレツ、ほうれん草のお浸し、香の物、お汁。洋食であればハンバーグに付け合せの野菜、スープ、パン、サラダといった具合です。カレーライスやチャーハン、カツ丼も食べられていました。ごく普通の家庭料理です。和食に天ぷらやお刺身がつくのはお客様がこられたときぐらいです。陛下の料理人を務めた人すべてが一般の家庭よりも質素な食事に驚いたと口をそろえます。

 食材も地方から献上品として季節の食材が届いたりすることがありましたが、高級食材を買うような余裕はありません。野菜、乳製品、肉類は御料牧場から、鮮魚は築地の市場から仕入れます。お米は東京目白の「小黒米店」と決まっていて、普通の市中のお米屋さんです。もちろん標準米。

 よく「皇室御用達」という言葉を聴くと思いますが、この制度は昭和29年には廃止されています。また、この御用達制度は高級品を仕入れるためではなく、宮中に出入りしていた商人が「宮内省御用」という名誉を宣伝に使ったり、自称して悪用するものが出始めたため、そういうことをなくすために作られた制度でした。高級なものが選ばれたわけではなく、八丁味噌とか、キッコーマンのしょうゆ、銀座千疋屋 の果物、文明堂の洋菓子とか日本盛といったお酒などなど、庶民でも手の出るものです。

 今上天皇も先帝陛下の質素な生活を引き継がれています。ごく普通の家庭料理を召し上がられています。美智子妃殿下(皇后陛下)が台所に立たれて料理されている写真をご記憶の方も多いでしょう。普通のキッチンでしたね。皇太子妃殿下が知人に招待されて三ツ星レストランに行ったことが非難されたことがありましたが、普段とても質素なのですから、非難に値しないでしょう。

 こうしたことを学校では教えないし、マスコミも触れないようにしているので、国民の中には天皇皇后両陛下は高級な食材で最高の料理をいつも食べている特権階級の人と誤解している人も多いでしょう。実際私の妻がそうでした。こうした昭和の日などをきっかけに天皇陛下、皇室の本質を国民に知ってもらいたいものです。



参考文献
 玄冬社「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 KKベストセラーズ「歴史人」DEC.2010 No.3

添付画像
  正装姿の昭和天皇(燕尾服・大勲位菊花大綬章・同副章)と香淳皇后(ローブデコルテ・勳一等宝冠章・同副章)昭和31年(PD)

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昭和天皇御真影
http://www.youtube.com/watch?v=dYSRnWGwlVg

GHQ憲法作成のために葬られた近衛公

近衛公は日本人による憲法改正を阻止するために葬られた。

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 1945年(昭和20年)9月13日、終戦直後、東條内閣の前の内閣総理大臣、近衛文麿はマッカーサーと会談します。このときは米軍の通訳の水準が低すぎ、実りのない内容でしたが、10月4日の会談で近衛公は日本の赤化懸念を強調します。そしてマッカーサーより憲法改正に関する案を作成することを大役を貰うことになります。

「公はいやゆる封建的勢力の出身であるが、コスモポリタンで世界の事情にも通じておられる、又、公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくると思う」

 会談の席ではバーンズ国務長官より派遣されたアチソン政治顧問から私案がいくつか提示されます。そして近衛公は憲法学者の佐々木惣一郎博士に憲法作成を依頼します。ところが、10月末になりマッカーサーが
「自分は近衛に憲法改正を指示した覚えはない」と否定します。そして幣原内閣のもと「憲法問題調査委員会」を設置することになります。このことを知った近衛公のことを側近は「近衛の凄いまでの表情は私の目の前にはっきりと、まだ見える」と回想しています。
 
 「マッカーサーを叱った男」で有名な終戦連絡中央事務局の白洲次郎は以下のように回想しています。

「マッカーサーのこの”前言取り消し”談話の背景には、アメリカ国内に『新憲法を敗戦国民に作らせるとは何事』という批判があったとも言われるし、またこの頃、占領国側に、やがて近衛公を戦犯として逮捕しようと言う認識が固まりつつあったとも思われる。」

 実際、白洲次郎が言うような記事が10月26日にニューヨーク・タイムズ紙に載り、10月29日に朝日新聞と毎日新聞がこの記事を紹介しました。
 この前言取り消しには9月初めに日本に入国したハーバート・ノーマンと都留重人が関わっていました。この両者は共産主義者の同志です。ノーマンは後に共産主義者として糾弾を受け、カイロで自殺しています。ノーマンは都留の情報をもとに「戦争責任に関する覚書」を作成しています。この覚書の中はほとんど近衛批判であり以下の言葉が書かれています。

「一つ確かなこのは、彼がなんらか重要な地位を占めることをゆるされるかぎり、潜在的に可能な自由主義、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。彼が憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはみな残骸と化す」

 なんと悪意に満ちた覚書でしょうか。近衛公は昭和20年2月に昭和天皇へ上奏した際に敗戦よりも赤化阻止が課題であることを述べています。反共の急先鋒だったわけです。ノーマンや都留や潜伏していたGHQのピンカーズ(共産主義者)にとっては極めて目障りな存在だったでしょう。

 昭和20年12月6日、GHQより近衛逮捕命令が出ます。出頭の最終期限の12月16日、近衛公は巣鴨出頭を拒否。青酸カリで自決しました。その後、共産主義者たちの日本破壊を目的とする憲法は白洲次郎らの抵抗むなしく成立してしまいます。



参考文献
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美智子(著)
 河出書房新書「白洲次郎」『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮75・8・21白洲次郎
 講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
 
参考サイト
 WikiPedia「都留重人」「ハーバート・ノーマン」「近衛文麿」
添付画像
 近衛文麿(PD)

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GHQ憲法「政教分離」の正体

日本弱体化が目的だった政教分離。

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 天皇陛下は国民の安寧と五穀豊穣を祈り続けられる祭祀王です。昭和天皇は崩御される数日前まで侍従に稲の実り具合や小麦の取り入れ具合のことばかり尋ねられたといいます。天皇陛下の祈りは「私」でないはずです。しかし、憲法の定める「政教分離」によって天皇陛下の祈りは「私」にされてしまっています。皇室費には内廷費、宮廷費、皇族費とあり、皇室の生活費に相当するのは「内廷費」になります。皇室祭祀はこの内廷費になっています。神官、巫女他内廷職員二十五名、祭祀に関する様々な経費は天皇の私事として内廷費になっています。なんとも妙な姿です。

 戦後日本の占領軍支配下で「国家神道」という宗教イデオロギーを破壊して日本を内面から弱体化させようとしたGHQは「神道指令」を発します。GHQ憲法の「政教分離」もその流れを汲んでいます。これはGHQが「国家神道」が日本人を優れた民族と信じさせ、神である天皇を世界に君臨させ世界征服につながっているという誇大妄想によるものでした。また、GHQは共産主義者の巣窟になっていましたから、マルクスの
「宗教は阿片である」とうい無神論も入っている思われます。しかし当時でも神道はイデオロギーでも何でもなく、「宗教ではない」とさえ言われていました。

 「神道指令」は国家神道、神社神道に対して政府の直接的な支援を廃止していましたが、GHQ憲法の「政教分離」は実は「限定的政教分離」といわれ、社会生活に不合理を生じないように限定するというものです。例えばミッション系の学校に助成金を出したり、文化財の維持、保全に補助金を支出するなどということは問題ないわけです。GHQ憲法では「国およびその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(The state and its organs shall refrain from religious education or any other religious activity.)と書かれています。「宗教的活動」(religious activity)というのは積極的に布教、伝道を行うことです。宗教行為(religious act)を禁止しているわけではありません。(注:GHQ憲法は英語で書かれ日本語に翻訳されたものです)

 そうすると天皇陛下は民のために祈っているのであって布教、伝道しているわけではありません。総理大臣の靖国神社参拝を「政教分離」に反するという人がいますが、布教、伝道しているわけではありません。宗教行為に留まります。そもそも戦没者を追悼するのは宗教行為というより昔からの日本人の習俗でしょう。例えばお正月というのも宗教ですが習俗でしょう。正月に門松やしめ縄をするのも実は宗教行為ですが習俗でしょう。総理大臣は正月をやってはいけないなんて事はないはずです。

 日本を弱体化させようとした政教分離は実はGHQ憲法下では宗教行為は問題なかったわけですが、それをあたかも行為さえも禁止されているような実態や論調があります。GHQから何者かに日本弱体化作戦が引き継がれていると認識しておくべきでしょう。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり著
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政著
 総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「神道指令」

添付画像
 GHQ憲法にサインする昭和天皇(PD)


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GHQ憲法「国民主権」の正体

国民主権は傲慢思想だった。

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 私は子供の頃、日本で誰が一番偉いか?というような冊子を読んだ覚えがあり、最終的に国民主権だから国民が一番偉い、というようなことが書いてあったと記憶しています。昭和22年に文部省が「あたらしい憲法の話」を中学一年生用に発行しています。これには「国では誰が『いちばんえらい』といえるでしょう」の問いに「民主主義の憲法ですから」「国民全体が一番えらいといわなければなりません」「主権はとうぜん日本国民にあるわけです」と書かれており、私が読んだ冊子もこの流れを汲んでのものでしょう。

Article 1.
 The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.
(第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。)

 現在、日本国憲法と呼ばれているものは戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって作成されました。一条は天皇の存在は国民の総意に基づくと書かれています。つまり国民の総意がなければ皇室は廃止できるということです。戦後まもなく、イギリス、オーストラリア、ソ連らが日本の皇室廃止を訴えていたのに対して、マッカーサーはそんなことをすれば日本が大混乱になり統治できなくなると考え、皇室を残したといわれています。(大部分は本国指示による規定路線) 玉砕覚悟で突撃した日本兵やカミカゼ特攻隊の脅威が背景にあります。しかし、ソ連が強く要望するので、
「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」を入れました。将来、皇室を廃止可能にしたわけです。また、皇室よりも国民が上であるかのような意識を持たせ、皇室を軽んじさせる効果も狙っています。マッカーサーもこの後ずっと皇室を残すつもりはなく、皇族の数を制限し、華族を廃止して「立ち枯れ作戦」をとっています。これは現在の皇位継承権を持つ皇室皇族の方の年齢を見ればボディーブローのように効いてきているのがわかると思います。

 国民主権というのはもともとは危険思想であり、国民の意思自体が法になり暴走可能な無限定な力になりえるとされています。弁護士の南出喜久治氏によると主権というのは神(主)の権利のことであり、人間が神の地位に就く傲慢な思想だといいます。国民主権を掲げて日本がどうなるか、国体がどうなるか?日本を実験台にしたのでしょう。うまくすると日本が勝手に破滅してくれて労せずアメリカの脅威でなくなると思ったのでしょう。
 ちなみに明治憲法は天皇主権だったが、戦後、国民主権になったと教えられた人が多いと思いますが、これはウソっぱちで、明治憲法では主権は明記してていません。国家に主権があったという解釈が多いようです。(緒論あり)法学部の試験で明治憲法の主権者を「天皇」と書くとペケになるそうです。このウソは天皇を特権階級のように見せかけ、国民と対立構造にしたいがためのGHQの罠でした。「天皇制」という言葉はコミンテルンが作った悪意の言葉です。天皇は「制度」ではありません。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)

添付画像
 ジャン=ジャック・ルソー.(PD)
  「国民主権」は社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念。

ルソーはそもそも以下のように述べています。
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
日本人に謝りたい http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe801.html

ルソーが理想とする国は実は存在した。日本である

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GHQ憲法の誕生

実はGHQ憲法は共産主義憲法でした。

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 5月3日の憲法記念日が近づいてきました。書店では子供のポケットに一冊、とかのキャッチフレーズで「日本国憲法」の本がおいてありました。GHQ製憲法については改憲派や自主憲法制定派、護憲派などありますが、最近では「無効論」が活発化してきています。明治憲法73条、75条に違反しているので改憲は無効であり、憲法としては無効だが、中間条約としてGHQ憲法が存在するというものです。興味のある人はネットで検索してみてください。

 さて、GHQ憲法の誕生ですが、昭和20年10月頃にマッカーサーが近衛公に会見し、マッカーサーが憲法改正の必要性を説いたので、近衛公は佐々木惣一博士(憲法学者)に要請し新しい憲法づくりを依頼しました。しかし、10月下旬にマッカーサは「指示した覚えはない」と否定。一方10月末には幣原内閣で松本国務相を責任者とする「憲法問題調査委員会」が設置され、松本草案が作成されます。しかし、GHQは拒絶。ここで出てきたのが「マッカーサー草案」です。GHQの民政局長であるホイットニー准将は後に「たった一週間で作った」と豪語したといいます。
 昭和21年2月13日、この草案を手渡されたときは吉田外相、松本国務相、終戦連絡中央事務局の白洲次郎の三名がその場にいました。草案を手渡したホイットニー准将はこの時の様子を次のように書いています。

「・・・私の言葉は、すぐに日本人代表達の表情に変化をもたらした。白洲はピョコンと跳び上がり、松本博士は息を深く吸い込んだ。吉田の顔は、黒雲のごとく曇った」


ホイットニー准将が去った後、総理に憲法案を見せたときのことです。
松本国務相「総理、じつに途方も無い文章です。こんな憲法はいまだかつて見たことも無い。こういうものを決めては、わが国は混乱するばかりです。まるで共産主義者の作文ですよ」

幣原首相「ウ・・・英語もまずいですねえ」

 マッカーサー草案はOSSというCIAの前身にあたる組織の「日本計画」がベースになっています。敗戦後の日本をどうしていくか、という研究がなされていたのです。これには知識人向けマルクス主義といわれるフランクフルト学派の学者たちが大きく関わっていました。そして憲法学者ではない複数の法律家や素人たちが共産主義者が作った憲法案を参考にしたり、他国の憲法を見よう見真似で作成したものでした。ですから共産主義者の作文になってしまったのです。
 これをすったもんだした挙句、ホイットニー准将は白洲次郎を呼び出し、直ぐに翻訳者を連れてこいとなり、一晩で翻訳させられ、若干の修正を加えて帝国議会における憲法改正手続を経て、昭和21年10月7日可決しました。

 こうしてオギャーと生まれたGHQ憲法ですが、いったい誰の子でしょうか???白洲次郎はこう言っています。

「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」




参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 文藝別冊「白洲次郎」
 総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
 講談社文庫「占領を背負った男」北康利(著)
 
参考サイト
 WikiPedia「日本国憲法」「コートニー・ホイットニー」

添付画像
 吉田茂と白洲次郎 文藝別冊「白洲次郎」より

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GHQ憲法と白洲次郎

GHQ憲法に抵抗した白洲次郎。

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 白洲次郎は終戦連絡中央事務局の参与でGHQ憲法(日本国憲法)作成に関わった人で「マッカーサーを叱った男」「従順ならざる唯一の日本人」とか「日本は戦争に負けたが奴隷になったわけではない」と言い有名です。彼の手記を見ると興味深いことが書かれています。
 マッカーサー草案づくりを担当したGHQ民政局長のホイットニー准将の言葉を記しています。

「『ミスターシラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本には来ていないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるのだよ』
 つまり”マッカーサー草案”は、すでにマ将軍が豪州の地にあって”日本本土侵攻作戦”を開始したとき、その作業に取りかかりはじめていたのである。
 GHQやアメリカ側が殊更「一週間で作り上げた」と強調するのは、彼らの草案が大したシロモノではなく、あくまで新憲法は日本人自身の手で作られたかの印象を内外に与えんがためだったのではないかと、ぼくは考える」


 実はGHQ憲法はOSSというCIAの前身にあたる組織が占領後の日本の政策を定めたものがベースとなっています。OSSには知識人向けマルクス主義といわれるフランクフルト学派がおり、二段階の革命を経て日本を共産化しようとしていました。その産物がGHQ憲法だったのです。

 また、白洲次郎はホイットニー准将を信用しがたい人物として以下のように記しています。
「だいたい、一国の憲法を一週間で作ったなどと自慢たっぷりに話すような不謹慎を、ぼくはとらないものである。また彼の細君は、うそかまことか、当時、休暇で日本に来ていた大学在学中の彼の息子が、草案の一章か一項を書いたんだと親バカ流に広言していたそうである。ぼくはそのことを、GHQのさる高官から聞かされたのではあるが、そのとき、この高官もなげかわしいといった表情で語ってくれたのを、今でもハッキリ覚えている」

 まったく日本と言う国はコケにされていたものです。
 白洲次郎と翻訳者は一夜でマッカーサー草案を翻訳しますが、外務省翻訳官の小畑氏とのエピソードを以下のように記しています。

「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」

 小畑氏はぼくに向かって、大阪弁で問いかけた。ぼくは
「井上の英和辞典を引いてみたら、どや?」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振りこう答えた。
「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」
 新憲法の「象徴」という言葉は、こうして一冊の辞書によって決まったのである。

 こんな感じでGHQ憲法は作られてしまったわけです。



参考文献:
 文藝別冊「白洲次郎」
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「白洲次郎」

添付画像
 若い頃の白洲次郎 文藝別冊「白洲次郎」より


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【伝記】 白洲次郎 ~ マッカーサーを叱った男 Part.1 http://www.youtube.com/watch?v=OSmVoM2atVk

【伝記】 白洲次郎 ~ 苦渋を舐めた憲法づくり Part.2 http://www.youtube.com/watch?v=vJdVvXv87j0

【伝記】 白洲次郎 ~ 戦後復興への挑戦 Part.3 http://www.youtube.com/watch?v=fVKW7JRk8Sg

【伝記】 白洲次郎 ~ 日本経済の礎を築く Part.4 http://www.youtube.com/watch?v=bY5qo7pz1jU

バターン半島のフィリピン兵

白人国家の軍隊や支那の軍隊には督戦隊というのがありました。

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 昭和16年(1941年)本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にフィリピンのルソン島に上陸し、昭和17年1月2日にマニラを占領します。米軍の司令官マッカーサーはオレンジプラン通りにコレヒドール島へ移動します。オレンジプランというのは米国の対日戦争プログラムです。このアメリカ軍の中にはフィリピン人兵士が多く含まれています。アメリカ軍のフィリピン人兵士を見る上で色々興味深い記録があります。火野葦平さんの著です。火野さんは芥川賞受賞者です。「麦と兵隊」「土と兵隊」などの著書で有名でしょう。バターン半島攻撃の陸軍の報道部隊に従軍しています。

 陸軍報道班員手記 昭和17年7月(GHQ焚書図書開封より)
「やがて奇妙な捕虜の一団に眼をとめられた。十人ほどの比島兵(フィリピン人兵)が一人の米将校を縛し、こづきまわしながら、近づいてくるのであった。大兵のその米将校は大尉の肩章をつけていたが、不愉快そうに渋面をつくっていた。ちょび髭生やした戦闘の比島兵は、これは米兵の督戦隊長ですといった。こいつがわれわれを前線に出して、うしろから督戦するので、われわれは仕方なく戦わねばならなかった」

 アメリカには督戦隊というのがあり、フィリピン人兵を前線に出してうしろから
「それ行け、やれ行け」と激を飛ばすのです。そして逃げて後退するのは敵前逃亡として撃ち殺すのも役目です。現地のアメリカ軍はこういう構造だったんですね。アメリカ軍が寛大だったなんてことはないのです。そこは戦場であり米軍は支配者です。

 「比島作戦」(昭和17年11月読売新聞社)にフィリピン兵士の話が記載されています。(GHQ焚書図書開封より)
「食事は日に一回、時には二回くれるが、それもミルクの空き缶に半分ぐらいのかゆと缶詰のかつお肉を混ぜたものだけで、特にご馳走だといえば僅かに一片のパンだけである。しかも比島人将校や米兵たちはたら腹食っている。米兵は何時もははるか後方でわれわれを督戦し、一歩でも後退すれば容赦なく機銃で掃射し、陣地の要所要所では機関銃射手を木にしばりつけたりしている」

 アメリカ軍はフィリピン人兵士を木に縛って後退したり逃げたりしないようにしています。これは支那軍がトーチカの中に兵士を鎖でしばって戦わせたのと同じです。フィリピン兵士の場合も使命感も戦う意義を持っておらず士気が低い。兵を集めた態勢にすると督戦はしやすいですが、砲撃の的になるため、散兵した攻撃態勢をとります。すると督戦の眼が届かなくなるので、フィリピン兵が逃げてしまうのです。だから縛るのです。これは当時でも卑劣な行為であったと思います。私は子供の頃、日本軍は人命を軽視した戦い方だった、米軍は人命を尊重した、と教えられましたが、米軍は「白人の命を尊重」し、有色人種の命などは尊重しない戦い方だったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著
参考サイト
 WikiPedia「フィリピンの戦い (1941-1942年)」

添付画像
 米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。(PD)


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陸軍報道部隊

報道部隊というのがありました。

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 日本陸軍には報道部隊というのがあり、記者やカメラマン、作家はすぐ浮かんできますが、画家や映画関係者、電気工となると、へえーとなります。部隊の中には通訳や衛生兵、運転手がいます。そういえば日本側も戦闘を撮影しておりたくさんDVDになっていますね。この報道部隊は敵に対して投降を呼びかけたりもします。フィリピン戦では敵の投降をよびかける際にアメリカのレコードをかけて流したりしています。

 バターン攻略戦の報道部隊に芥川賞作家の火野葦平さんが従軍しています。この部隊にはフィリピン兵捕虜、アメリカ兵捕虜も一緒にいて一緒に行動しているのです。フィリピン兵捕虜は同じフィリピン兵の投降を呼びかけたりして日本軍に協力しています。他、フィリピン逃亡兵も混じっています。アメリカ兵捕虜もおり、車の運転手をしています。

 コレヒドール攻略前の一風景です。
陸軍報道班員手記 昭和17年7月(GHQ焚書図書開封より)

「コレヒドル攻撃の準備が進められ、私たちも、リイル河畔の司令部の位置へ引き揚げることになった。夕方は壱岐軍曹が南国料理をこしらへた。檳榔(ヤシ科の木)の幹から葉の出る中間のところに柔らかいところがある。その皮をはいで小さくきざむと竹の子のようになる。味噌でたくと、筍よりも柔らかく、美味しかった。気の置けない私たちの仲間に入って、サドラー(アメリカ兵捕虜)は安心したように、よく働いた。彼は私たちに交じって、冗談口をたたくようになった。

(中略)
 しかし、いづれは自分も捕虜収容所に入らなければならぬ身である。収容所に入ればがらりと生活が変わってしまうだろう。名残にウイスキーが飲みたいから、マニラでウイスキーを一本買ってきてもらいたい。そういって、サドラーは懐中から50ペソを取り出した。自分は収容所に入ればもう金はいらない。ウイスキーを買ったあまりは、小隊の方々に寄付するから、なんなりと買って食べてもらいたい、と付け加えた。自動車が出発するとサドラーは独り言のように、私にとって、戦争以来、昨夜が一番安らかな夜であった、とつぶやいた」


 戦場の中でもこんな風景があったのか、と思うと同時にアメリカ兵捕虜とも隔てない人間関係が伺えます。このほかフィリピン兵捕虜の話も本には載っています。軽い驚きを覚えますが、戦後は「日本軍は非情で残虐だった」というプロパガンダが撒き散らされたのと、こういう本をGHQが焚書したからわからなくなったのでしょう。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)

添付画像
 自転車に乗り移動する日本軍(PD)

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「アイシャルリターン」は名言なのか

マッカーサー「アイシャルリターン」。

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  昭和17年(1942年)3月12日に極東米陸軍司令官のマッカーサーはマニラ湾のコレヒドール要塞から家族と側近を連れて魚雷艇に乗って脱出します。この時「アイシャルリターン(私は戻ってくる)」と言った言葉は有名です。その2年後には戻ってきて比島の日本軍を攻撃していますので不屈の話のようにいわれていますが、それは戦後の宣伝と思われます。10万もの将兵を置いてきぼりにしたのです。また、戻ってきても日本軍を降伏させるに至っていないのです。一応、マッカーサーの名誉のために言っておくと、コレヒドールを脱出したのは大統領命令によるものですが、このとき、フィリピンのケソン大統領も伴っており、フィリピン政府から50万ドルをマッカーサーの個人口座に振り込ませました。

 4月14日のコレヒドール砲撃戦で大方決着がつき、日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施。6日正午、マッカーサーの後任の司令官に就いていたウェーンライト中将が降伏を申し入れフィリピン戦は終了します。既に米軍はこのとき食料が欠乏し、マラリア、デング熱や赤痢が蔓延している状態でした。(日本軍も同様)

「ダグアウト・タグ、隠れてないで出ておいで・・・大統領に知らせておくれ・・・兵隊たちは飢え死にしそうだよ・・・ジャップは三人・・・おれたちは十万、大将が逃げたから飢え死になのさ」米軍の捕虜が歌った歌です。”タグ”はダグラス・マッカーサーのことです。

 米軍は十万、日本軍は三万です。投降する米兵のあまりの多さに従軍作家の火野葦平さんは驚いています。
「私は捕虜の群をながめているうちに、不思議な怒りのようなものが、胸に湧いてくるのを覚えた。実はこんなに米兵が居るということは、すこし思いがけぬことであった。それだけの米兵がいながら、なぜ戦わないのか。」捕虜の世話をした日本兵も米兵の多さに閉口して、米兵が近寄ってきても「勝手にしろ」と言って相手にするのも疲れたと言っています。

 このコレヒドールをはじめバターン半島で投降した米兵は83,000人といわれ日本側の予想25,000を大きく上回ってしまいました。収容所への移送に必要なトラックが足らず鉄道駅までの60キロを徒歩で移動しました。食料も不足しており、マラリアにかかった傷病兵は途中で倒れて亡くなりました。これがバターン半島死の行進というプロパガンダとして利用されました。もし、これを非難するなら誰を非難すべきかは明らかだと思います。マッカーサーはこの屈辱と自己の責任回避の思いを戦後のマニラ法廷にぶつけました。(本間雅晴中将、河根良賢少将を処刑した)



参考文献:
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二著
 週刊新潮2009.7.30「変見自在」『マッカーサー道路』高山正之
参考サイト
 Wikipedia「フィリピンの戦い (1941-1942年)」「バターン死の行進」

添付画像
 コレヒドール島で降伏するアメリカ軍(PD)

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イランから招待された海上自衛隊 ~ ペルシャ湾の掃海部隊

イランとは友好関係にあった。

Photo

 平成2年(1990年)の湾岸戦争後、日本海上自衛隊は掃海部隊を派遣し、残された機雷を処理しています。自衛隊員たちは過酷な環境下で危険な作業を行いました。ペルシャ湾は日本では経験できない40度の高温であり、晴天で太陽が真上に来るころには50度になります。イラクは油田に火をつけましたから、その煤煙もひどいもので、鼻を突く悪臭とともに黒い雨が降ってきました。また、陸地に近いところではたちの悪い蚊やハエが大挙して船を襲ってきて、噛まれると半月は傷が直らなかったといいます。

 掃海部隊はMDA-7と呼ばれる海域で掃海を行いましたが、ヨーロッパ勢は平成3年7月終わりごろに引き揚げてしまいました。日本はアメリカと共同で引き続き過酷な環境下でMDA-10と呼ばれる海域を掃海することになります。この海域にはイランの海域が含まれており、外交上難しいものがありました。イランとアメリカは国交が正常化されていません。また、この海域にはイタリア製の沈底式感応機雷「マンタ」があり、これがやっかいでした。
 日本は外交努力をしてイランと交渉し、イランの士官2名を連絡士官として掃海母艦「はやせ」に乗せることで同意を取り付けることに成功しました。「はやせ」にはアメリカの連絡士官が乗っていましたから、「はやせ」上にアメリカとイランという敵国同士の軍人が顔をあわせることになったのです。これは随分と懸念されましたが、アメリカの連絡士官ストーフ大尉があっけらかんとした態度で積極的にイラン士官と軟らかく会話したおかげで何事もなく無事に事が進みました。

 そしてイランは日本掃海部隊をバンダル・アッバーズ港へ寄港要請してくれたのです。

「イラン国民とイラン海軍は、日本海軍掃海部隊のイラン訪問を国を挙げて歓迎する」

 ホルムズ海峡ではイラン海軍がエスコートの艦を派遣し、港に近づくともう1隻が加わるという厚遇ぶりでした。8月22日には大勢のイラン海軍関係者、イラン日本大使館公使、在留日本人会代表、駐在武官、バーレーンの防衛庁部員に迎えられました。

 イランでは海軍の各施設見学や交歓会が行われ、古都シラーズの史跡観光が実施されました。シラーズで飛行機から降りた掃海隊員は赤い絨毯が敷かれ州知事が出迎えるという国賓並の待遇でした。イラン人は日本人にかなり好意を持っていました。日本で昭和58年(1983年)に「おしん」というテレビドラマがヒットしましたが、これがイランで大人気となり、上陸した隊員たちが街を歩いていると「おしん」「おしん」と指差さされました。また、イラン・イラク戦争のときイランはペルシャ湾を航行する外国船舶に攻撃を仕掛けましたが、日本の船には攻撃しなかったといいます。

 イランの教科書に日本について次のように書かれているといいます。
「日本は大国ロシアと戦い、東郷元帥の率いる日本艦隊はロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。また、第二次世界大戦では連合国に負けて焦土と化した国土を立派に復興させ、世界第二位の経済大国に発展させた。イランも日本人を見習い、国土の発展に尽くさなければならない」

 イラン海軍への答礼パーティに出席したイラン人僧侶は次のように語りました。
「今回の日本海軍の招待は、イランはこれからも日本と協力し合って両国が発展することを望んでいる証であり、日本の発展に必要な石油、天然ガス、ウラン、ボーキサイトなどは日本が必要なだけイランから供給できる。ついては、イランの子供達が国家の発展に尽くすために必要な日本の技術を提供して頂きたく、ペルシャ湾での作業を終えて帰国されたら、一人でも多くの日本の皆さんにこのことを伝えて欲しいのです」

 イランはイスラム原理主義の国です。イスラム原理主義の国は総じてアメリカなどキリスト教徒の国とは仲が悪い。日本はキリスト教徒の国ではなく、神道の国で、宗教に関しては寛大な国です。欧米などの白人国家には出来ない世界貢献が日本にはできるような気がします。この後に起こったイラク戦争でもアメリカに追随するのではなく、違うことが出来なかったか。パレスチナ問題の「平和と繁栄の回廊」のように日本がリードしてもっと何かできるかもしれません。



参考文献
 光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
参考サイト
  「湾岸の夜明け作戦」 落合畯 http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/yoakenosakusen.pdf
  「湾岸の夜明け」作戦に掃海部隊派遣(「海上自衛隊50年史」から抜粋) http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/wanngann.pdf

添付画像
 機雷に爆薬を爆薬を仕掛けるEOD員(水中処分員)
  海上自衛隊ホームページ 海上自衛隊掃海部隊の歴史より http://www.mod.go.jp/msdf/mf/rekisi.html

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ジパング @海上自衛隊&大日本帝国海軍
http://www.youtube.com/watch?v=51rIaskPAfM

日本海軍のモラールはスカイハイ ~ ペルシャ湾の掃海部隊

日本の民度は世界最高。

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 平成2年(1990年)の湾岸戦争後、日本海上自衛隊は掃海部隊を派遣し、残された機雷を処理しています。当初の日本の国際的評価は「カネだけ出す国」と評価は低いものでした。

 日本の掃海部隊の司令官、落合一佐は各国指揮官の懇親会にたびたび出席していましたが、慣れてくると国際貢献について遠慮ない意見が交わされるようになります。イラン・イラク戦争でペルシャ湾を航行する日本のタンカーをアメリカやNATOの海軍艦艇が護衛したことについて批判が寄せられました。

「自国のエネルギー源の70%を中東に依存している日本のタンカーを守るため、何故アメリカやその他の国の若者が危険に身を晒さなければならないのか」

 アメリカがGHQ憲法を押し付けておいて腹の立つ話です。さらに湾岸戦争での日本の対応も批判され、さすがに落合一佐は、「日本人だってこれまでに130億ドル、つまり日本国民一人当たり1万円ずつ払って立派に国際貢献しているではないか」と反論しますが、相手は「国民一人当たり1万円か。つまりニアリーイコール100ドルだな。100ドル払えばペルシャ湾にこなくていいのだったら、俺は今ここで100ドル払ってやるよ」と切り返され、二の句がつげなくなったといいます。

 そんな日本批判も掃海部隊の活躍と規律正しさ、礼儀正しさ、節度ある行動によって吹き飛ばされていきます。各国の軍隊が湾岸地域に上陸するとトラブルがよく起こりました。ある外国の軍隊4人がタクシーに乗ろうとしたら定員は3人までと断られたので、乗せろ、乗せないのすったもんだの末にタクシー運転手を車から引きずりおおろし、叩きのめしてしまったのです。それを見ていた他のタクシー運転手たちが怒り、今度は逆に4人を袋叩きにしました。さらに4人は船に戻って仲間を呼んできたので大きな騒ぎになりました。各国の司令官は港に入るとまた上陸員が何かしないかと心配で休養どころかストレスでいっぱいになったといいます。ところが日本海上自衛隊は一切トラブルがない。
 この日本人のモラルの高さはアラブ人の共感を呼び、日本部隊の接岸位置を上陸の都合のいい場所に移してくれたり、門の出入りチェックも自国の官憲ではなく、日本の部隊から人を出してやれるよう便宜をはかってくれました。
 上陸後はバスをチャーターして港からダウンタウンまで送ってもらい、帰りもそこで拾ってくれるのですが、たまにバスに乗り遅れている日本の隊員を見かけると
「おい、ジャパン、乗っていけ」と言って止まってくれたといいます。逆に日本のチャーターしたバスが他国の乗り遅れた隊員を見つけて、日本の隊員が運転手に「乗せてやってくれ」というと、現地の運転手は「ノー」と言いました。日本の隊員は行儀がいいが、あの連中は何をし出すかわからないというのが理由です。

 海幕の連絡士官としてバーレーンに駐在していた河村雅美ニ佐が、アメリカ中央海軍司令官のテーラー少将を訪れたときのことです。対座したテーラー少将は開口一番こういいました。

「日本の海上自衛隊掃海部隊のモラールは、スカイハイだ」



参考文献
 光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
参考サイト
  「湾岸の夜明け作戦」 落合畯 http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/yoakenosakusen.pdf
  「湾岸の夜明け」作戦に掃海部隊派遣(「海上自衛隊50年史」から抜粋) http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/wanngann.pdf

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 海上自衛隊ホームページ 掃海隊群 EOD訓練 より http://www.mod.go.jp/msdf/mf/eod.html
 水中処分員(EOD員)とは?
  爆弾、機雷等火工武器の海中捜索、識別、安全化及び処分作業(爆破作業を含む。)を行う。

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海上自衛隊 平成21年度観艦式公式CM JMSDF Fleet review official CM
http://www.youtube.com/watch?v=f1kuunRYLeY


日本海軍がやってきた ~ ペルシャ湾の掃海部隊

自衛隊は日本の誇り。

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 平成2年(1990年)の湾岸戦争後、日本海上自衛隊は511名の掃海部隊を派遣し、残された機雷を処理しています。日本海軍がインド洋に行ったのは第一次世界大戦の地中海派遣と大東亜戦争のインド洋作戦以来となります。

 ペルシャ湾に面した国でクウェートに近い国を順にあげると、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦があり、アラブ首長国連邦のドバイには当時日本の大手企業70社ほど進出しており、約350名の日本人が駐在していました。ドバイは安全で週末のゴルフコースはプレーを楽しむ欧米人の男女があふれ、レストランやパブは家族連れやカップルで賑わっていました。ところが、日本人は続々と引き揚げてしまったのです。

 ドバイ在住日本人会の赤井豪太氏は大手大手家電メーカーの所長と
「ドバイは全然、問題じないじゃないか。これなら避難する必要はないのでここに残ることにするよ。ゴルフでもやりながらゆっくりしましょう」「OK!そうしよう」と会話を交わしますが、その所長が突然「やっぱりここを離れることにしたよ」と電話をかけてきました。理由を尋ねると「本社から自分だけいい格好するなと言われた」というのです。

 イラク軍のクウェート侵攻後、半年たった平成3年(1991年)1月17日、多国籍軍による「砂漠の嵐」作戦が開始され、空爆後、地上戦に移行し、2月28日に多国籍軍の圧倒的勝利をもって戦闘は終了しました。この戦争の貢献度によって復興の機器資材の調達先は優先的に割り当てられ、日本は130億ドル(当時1兆5000億円ほど)を出しましたが、小さな船1隻を出したノルウェーよりも評価が低かったのです。人的貢献がないからです。
 ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られましたが、そこに日本の国旗はありませんでした。湾岸の日本人はどれほど肩身の狭い思いをしたことか。

 その年の5月の終わりにドバイの現地新聞の見出し。

「日本海軍来たる」

 日本人会の赤井豪太氏は
「すごいぞ!来たぞ!やったぞ!」とやたら興奮する自分を抑えきれなかったといいます。正確には海上自衛隊なのですが、外国で「自衛隊」という言葉は通用しません。軍隊です。赤井氏は周囲のイギリス人やインド人から次のように言われ、一緒に喜んでくれたそうです。

「アカイ、良かったな。日本海軍が来るんだってな」


 海上自衛隊の掃海部隊はカフジ沖の機雷処分も行っており、この海域ではそれ以前からイラン・イラク戦争による機雷が漂流しており、問題になっていました。日本は原油を採掘していた関係で重要な航路になっていましたが、サウジアラビアにはノウハウがなく、現地サウジアラビア人の作業員も船に乗るのを嫌がっていました。そこへ海上自衛隊の掃海部隊が登場したのです。サウジアラビア石油の社員(日本人)はヘリコプターから旭日旗を確認すると
「日本の掃海部隊を発見したぞ!」と基地に打電し、感極まり大音量のスピーカーを使って掃海艇に呼びかけました。

「海上自衛隊の皆さん。ご苦労様です。今、上空にいるのはアラビア石油のヘリコプターです。ありがとうございます!ありがとうございます!」

 以前からアラブの人たちから「日本の海軍はなぜ来ないのか?」とよく聞かれていたといいますから、思いのほどが伝わってくる話です。



参考文献
 光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
参考サイト
  「湾岸の夜明け作戦」 落合畯 http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/yoakenosakusen.pdf
  「湾岸の夜明け」作戦に掃海部隊派遣(「海上自衛隊50年史」から抜粋) http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/wanngann.pdf

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 海上自衛隊 掃海隊群ホームページより http://www.mod.go.jp/msdf/mf/index.html

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海上自衛隊 JMSDF
http://www.youtube.com/watch?v=7WdcDH6J1Uo

ペルシャ湾に翻った旭日旗

日本はカネだけ出していたわけではありません。

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 私は以前ゴルフをやっており、現在はやっていませんが、「湾岸戦争ゲーム」といういわゆるニギリというのがあるのを知りました。1、アメリカ 2、フセイン、3、イギリス、4、日本、というもので、どうやら日本は「カネだけ出す」という位置づけのルールのようです。

 平成2年(1990年)の湾岸戦争(イラクのクウェート侵攻)では日本は自衛隊を憲法の制約で出せないため、金だけ出すとということになり、批判が内外にありました。クウェート政府は日本に感謝しませんでした。クウェート政府というより、国際社会は人的貢献がないと評価しないものなのです。湾岸戦争後、クウェート政府は「ワシントン・ポスト」紙の全面を使って協力各国に謝意を表しましたが、その中に日本の国旗はありませんでした。
 湾岸戦争の復興の機器資材は貢献度に応じて調達先など優先的に割り振りましたが、130億ドル(当時、約1兆5000億円)を支払った日本に対する評価は惨めなもので、小さな船1隻を出したノルウェーやわずか数人の看護兵を出したアジアの某国よりも低いものでした。「日本はGHQ憲法九条があるので云々」・・・世界はそんなこと知りません。そんなこと言ったらアホと思われます。

 しかし、その後、平成3年、日本は英、仏、独、伊とともに海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣し、機雷を取り除き、さらにエジプト政府の要請を得て日本単独でカフジ沖も掃海しています。機雷はラジコンで爆破できないものが多数あり、自衛隊員の水中処分隊員が手作業爆破準備したとのことで、これは命がけの作業です。この後、クウェート政府は日本国旗の入った記念切手を発行し、読売新聞に「心からありがとう クウェートから日本の皆様へ」と題する全ページ広告を掲載して日本に謝意を表しています。

 ペルシャ湾に派遣した海上自衛隊の司令官、落合元海将補(当時、一佐)はあの沖縄戦の海軍司令官、大田実少将の三男です。「沖縄県民斯く戦へり」で有名でしょう。掃海部隊が現地入りしたとき、ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られ、約30カ国に及ぶ派遣艦隊の乗員たちは、自国の国旗が描かれたTシャツを着て、繁華街を大きな顔で歩き回っていましたが、130億ドルの巨費を支払っていた日本の日の丸はその中にありませんでした。落合一佐は苦い思いを味わいましたが、日本の掃海部隊の活躍が知られるようになってくると、Tシャツに日の丸が見られるようになりました。

落合一佐
「資金提供のみの協力と、実際に現地にやってきて作業に参加する協力との差を、つくづく思い知らされた」

 当初はカネだけでしたが、海上自衛隊の命をかけた活躍により、日本は復権しました。それなのに、ゴルフの湾岸戦争ゲームはいったいどうして、カネだけ出したことになっているのか。ひとつはマスコミが報道したがらなかったというのがあるでしょう。マスコミは戦後ずっとGHQのプレスコードに縛られています。軍を称賛してはダメなんです。もうひとつは日本人が自虐に親しむ国民性になってしまったことがあげられます。これもGHQによる自虐史観の植え付けというマインドコントロールの影響がずっと残っているからでしょう。それでも掃海部隊が日本を離れて2ヶ月余りもするとさすがにマスコミは取材しにやってきて、日本テレビは「追跡」という番組で報道しました。掃海部隊が凱旋したとき、その様子を朝日、読売、毎日がヘリコプターで取材しました。出発時には派遣反対派の運動が大きかったものの、帰還時には様子が随分違ったといいます。広島の呉に掃海部隊艦艇6隻が姿を現すと、出迎えのフェリーには「歓迎、尊い任務に心から感謝します」という横断幕が張られ、船上から400人が日の丸を振って迎えました。呉のFバースに近づくと騒がしいので、また何か反対を叫んでいるのかと思ったら
「ご苦労様でした。お疲れ様でした」と迎えてくれたといいます。



参考文献
 光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
参考サイト
 WikiPedia「自衛隊ペルシャ湾派遣」

添付画像
 機雷の爆破処分と見守る掃海艇
  海上自衛隊掃海隊群ホームページ 掃海部隊の歴史より http://www.mod.go.jp/msdf/mf/rekisi.html
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軍艦行進曲【海上自衛隊】
http://www.youtube.com/watch?v=oZNnEiVxGUs

軍部主導政治が戦争に向かわせたのか

戦後教えられた歴史は一旦忘れたほうがいいかもしれません。

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 私が学校で学んだ戦前の歴史のターニングポイントは2・26事件、5・15事件であり、武力によって政党政治を壊滅し、軍部主導の政治になって戦争への道を歩んだ、というものでした。しかしながら、大人になって自分で歴史を調べてみると、軍部主導の政治になっても日本から戦争を仕掛けたり侵略するような能動的計画も行動も存在しません。すべて受身で後手後手に回り、止むえず戦争になっています。学校で教わったのはGHQが仕込んだ日本軍悪玉論だったようです。ターニングポイントはもっと前の日露戦争後の小村外交に端を発した日本とアメリカ、イギリスとの関係でしょう。

 日露戦争終盤、日本側は弾切れの状況になり、米国も日本の勝ちすぎを警戒し仲介。ポーツマス条約を結ぶことになります。日露戦争において日本のバックには莫大な資金援助をする米国の鉄道王ハリマンらのユダヤ資本がありました。セオドア・ルーズベルト米大統領はユダヤ人です。(諸説あり) ユダヤ人はロシアから迫害されていたので日本に資金援助をしたのです。そして戦後、ルーズベルト大統領は鉄道王ハリマンを日本に派遣し、桂・ハリマン協定を結びます。奉天以南の東清鉄道の日米共同経営する仮規定です。これはニューヨーク~アメリカ大陸横断鉄道~南満州鉄道~シベリア鉄道~大西洋航路~ニューヨークという「地球交通」という大規模プロジェクトの一貫です。ところが小村寿太郎外相は来日したハリマンの帰国(1905年10月13日)の3日後、入れ違いに米国から帰国し、協定に驚き、小村は既にハリマンの商売敵モルガンを推していたので強行に反対し、この協定を破棄させてしまいました。モルガンとの提携は機関車やレールを買ってくれというだけのものでした。日露戦争をあれだけ支援したルーズベルト&ユダヤ資本を袖にしたわけです。

 この頃見逃せないのが日露戦争の日本勝利にアジア諸国が喚起したことです。支那からは一万人超える支那人留学生が東京へ押し寄せています。この姿は白人達にとって脅威だったでしょう。ドイツのフォン・グレイル前駐北京大使はベルリンで会議を開き
「中国の日本化が進むと欧州の権益が失われる」と主張し、「米、英と協力し、日本を押さえ込まねばならない」(ニューヨークタイムズ)と政府に警告を発しています。

 憤慨した米国は大陸の権益を得るためにはは目の上のこぶである日英同盟をつぶしにかかり、米国は日英同盟の対象から米国をはずすようなど働きかけ、大正10年(1921年)ワシントン会議で四カ国条約により日英同盟廃止にこぎつけます。

 ワシントン会議ではワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の比率は英米日5:5:3となります。日英同盟が破棄された上では米英10に対して日本は3になったわけです。日本を孤立化させ、米国は日本を仮想的国として大陸への進出を着々と狙っていったのです。
 アメリカはその後も日本を敵視し続け、支那事変が起こると支那に肩入れをし、中立を破ります。そして欧州で第二次世界大戦が始まると日本を戦争に引きずり込む計画をたて(マッカラムメモランダムといわれるもの)、空軍(フラインングタイガース)を支那に送り込み、石油や屑鉄の輸出をストップさせ、日本の対外資産を凍結し、昭和16年(1941年)9月には日本爆撃(陸海軍合同委員会計画JB-355)を大統領が許可しました。爆撃計画は中止となりましたが、「ハル・ノート」と呼ばれる要求を日本に突きつけ、日本に真珠湾を攻撃させたのです。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「国家への目覚め」櫻井よし子・田久保忠衛(共著)
 詳伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「日英同盟」「ワシントン軍縮会議」

添付画像
 2・26事件で永田町を占拠した決起軍(PD)

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