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2011年5月

ひめゆり隊の本当の姿

ひめゆり隊は地獄の中で戦った。

S

 昭和20年(1945年)4月、アメリカ軍が沖縄本島へ上陸しました。この沖縄戦では学生が動員されました。「ひけゆり学徒隊」「鉄血勤皇隊」がよく知られています。ひめゆり隊の本当の姿を知るには角川文庫から出ている「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)が良いと思います。

 ひめゆり隊の一部は陸軍病院の第一外科壕で正規看護婦1名、学徒三名で70名の患者を担当していました。一晩に80人の手足の切断手術を手伝った学徒もいたそうです。脳症患者はうわごとをしゃべりまくり、傷病兵は「水ー水ー」「しっこー」とうめき声がたちこめ、患者の傷口には蛆虫がたまり、汗と血と尿と死臭がただよう地獄のような光景だったことでしょう。

 師範本科二年、第二外科勤務 金城久子さん
「小説や映画で、ひめゆりは美化されていきました。映画にしても半分見てもうイヤだと思ったのです。川で水遊びするシーンなど、少なくとも私の記憶にはありません。あんなにキレイなものではありませんでしたよ」

 6月18日、軍は最後の攻撃に出ることになり、学徒隊に解散命令が出ます。壕を出ようとしない女生徒に「早く出ないと叩き切るぞ」と軍医が怒鳴ります。

 第一外科勤務 仲村とみさん
「この『叩き切るぞ』と言う言葉は、よく軍人さんが言っていました。でも、その場の雰囲気がわからない人は、悪意にとってしまうのです。あの当時は、私達に対する叱咤激励の言葉でした。同級生を置いていくことに迷っている私たちへ、『患者は自分たちが看取る。ここにいたら全滅だぞ』と言い渡したんです」

 戦後は何かと悪意に歪曲して伝えられていますね。
 
 師範予科三年、第一外科勤務 上地百子さん (米軍が迫ってきて投降勧告が行われる中で)
「私たち八人の(自決か国頭突破かの)議論をじっと黙って聞いていた将校か下士官らしい人がいました。(日本兵の)四人の中の上官だったのでしょう。その人が突然立ち上がって八人をにらんでどなりつけました。
『貴様ら、出て行け!出て行かんとたたき切るぞ!』
『一緒に殺してくれるといったのに、おかしいな』などとブツブツいいながらも剣幕に押されて八人は岩穴の入り口から一人ずつ出て行ったのです。
 全員出終わったとき、後ろの岩穴の中で、バーンと手榴弾の爆発する音が聞こえました。それが四人の日本兵の最後でした」


 金城久子さん
「私たちが隠れていた岩陰に、顔見知りの患者さんがいたんです。彼はこれから敵中突破するつもりだといいました。『一緒に連れて行ってください』とお願いしたら、『悪いことは言わない。皆と一緒に出て行きなさい。生きるんです』といわれたんです」

 喜舎場敏子さん
「27日早朝、壕の要り湯地に足音がしたかと思うと、流暢な日本語で『デテコイ。モシデテコナケレバ、カエンホウシャキブッパナスゾ』としきりにせきたてている。
『君ら女だけ3名は出てゆけ』
『兵隊さん、どうぞいっしょに死なしてください。』
 がんとして聞き入れない私たち3名をかえりみて、班長はしばらくだまっていた。班長はつかつかと入り口に進み、『いま裸で出るから弾はうつな』と大声でいいながら一人で出て行った。捕虜などなるものか。それより死んだほうがよい。学校の不名誉だ。古見さんと二人は手を握り合って震えていた。
『オーイ、出て来い』
班長の声にますますおびえた」


 これらひめゆり隊の話から見えてくるのは地獄のような光景、絶望の淵にありながら健気な少女たちの姿と励ましている軍人の姿です。




参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
 角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
 WikiPedia「ひめゆり学徒隊」

添付画像
 映画「ひめゆりの塔」のスティール写真(PD)

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夏川里美 島歌
 http://www.youtube.com/watch?v=MTl9YuhuDYk

ひめゆり学徒隊

ひめゆり隊とは?

S1930


 昭和20年(1945年)3月23日、沖縄県立第一高等女学校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は沖縄陸軍病院の看護要員として動員されました。(志願による) これが後に言う「ひめゆり学徒隊」です。

 昭和19年(1944年)7月、沖縄県では在郷軍人会による「防衛隊」が編成されます。これは軍人ではなく、義勇隊になります。第二国民兵役によって行われた防衛召集は軍人となり、二等兵の階級となります。この防衛召集は二万人余りとなり、沖縄防衛軍の1/4に相当します。
 昭和19年(1944年)12月に軍と県は学徒の戦力化について協議を行い、男子下級生に通信訓練、女子上級生に看護訓練を実施しています。身分は軍人、軍属として取り扱うと決定しています。当然給与が支給されます。男子学徒1780人、女子学徒581人です。
 

 女子学生は友達とは一緒になりたいけど、親とは離れたくない、苦衷(くちゅう)があったといいます。ひめゆり隊が南風原(はえばら)陸軍病院の勤務についたことを伝え聞いた生徒は、アメリカ軍機の爆音が去り、夕闇の迫るのを待って、南風原にはせ参じました。勇みたつ娘にひかれて、別れを惜しみつつわざわざ病院まで送り届けた父兄もいました。当初は患者数が少なく、生徒の数も多くは必要としなかったし、生徒壕は超満員になったので、その後にやってくる生徒に対して引率教師は「あなたがたが国難に馳せ参じる気持ちはよくわかる。しかし壕はこの通り超満員だ。帰ってはどうか」と追い返したりしています。生徒はなかなか去ろうとはしませんでしたが、やがてあきらめてすごすごと帰っていきました。

 「ひめゆりの塔」という小説、映画がありますが、これらはフィクションです。昔読んだ(読まされた?)はずですが、すっかり忘れてしまっています。恋愛感情がつづられているようですが、実際には負傷兵の看護で恋愛感情なんてどころではなく、ひめゆり生き残りの人は「当時は恋愛どころじゃなかった。戦争ってそんなのんきなものだったのかと思われるのは心外です。」と語っています。あくまで小説は小説、歴史は歴史としてみたほうが良さそうです。

 沖縄大学教授の宮城能彦氏によると沖縄で沖縄戦を少しでも美談にすると「また同じ戦争がおきるということで、とにかく前の戦争を全面否定し、美化するヤツは戦争をしたい人間だといわれるのだそうです。「いや国のために戦ったのは事実じゃないか」というと「殉国美談にするつもりか」と返されるそうです。だから「ひめゆり隊」は国のために戦おうと思った感覚を全否定され、「当時の皇民化教育に染まってしまい、騙されて連れていかれた哀れな被害者。悪いのは騙した人たち」にされ、ひめゆりの遺書も記念館で読めるようになっていたのを隠してしまったといいます。


参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」
     『沖縄戦における軍民関係』原剛
     『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
 小学館「誇りある沖縄へ」小林よしのり(企画/編集)
 角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
 WikiPedia「ひめゆり学徒隊」

添付画像
 昭和5年(1930年)頃の沖縄の女性(PD)

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日本海海戦の勝利は奇跡ではなかった

圧倒的優位だった連合艦隊。

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 1905年の日露戦争の日本海海戦は日本の連合艦隊よりも3倍の戦力を誇るバルチック艦隊に奇跡的に勝利したように言われています。東郷司令官と秋山参謀の丁字戦法を絶妙な東郷ターンによって完成させたことや下瀬火薬、風上をとった戦術による勝利であると。
 ところが実際は勝つべくして勝ったというのが実態のようです。日本の連合艦隊はバルチック艦隊の実効射撃量は約4.5倍だったとのことです。

 バルチック艦隊が3倍の戦力を誇るというのは戦艦の数や砲門の数、長距離砲の数などの総合的な火力、破壊力を言っています。世界はこの計算から導き出された数値からバルチック艦隊絶対有利とし、バルチック艦隊が壊滅した報を聞き、驚愕したのです。
 しかし、この計算の中には発射間隔や命中精度が含まれていません。実は連合艦隊は3倍の発射間隔と3倍の命中精度を持っていました。つまり、バルチック艦隊が1発撃つ間に連合艦隊は3発撃てるし、バルチック艦隊が1発命中させたときには連合艦隊は3発命中させれるのです。更に連合艦隊は水雷艇を備えていました。(あまり戦果はなかったが) もちろん新兵器の下瀬火薬を採用していたことも見逃せません。

 なぜ、連合艦隊が3倍の発射間隔と3倍の命中精度を持っていたか。それはロシアの艦隊とまともに戦っても勝ち目がないため、猛訓練したのだそうです。つまり東郷司令官も秋山参謀も海戦時には勝算を持っていたということで、実は絶対有利の状況下にあったということです。

 ここで疑問となるのが、絶対有利が把握できている状況下でなぜ「東郷ターン」という危険行為をしなければならなかったのか、ということです。東郷ターンは縦列で進んで敵前でターンし、艦隊を横列にしてより多くの砲門を縦列の敵先頭艦に集中させる戦法です。ターンしている間が弱点でここで敵の砲弾多く浴びることになりますし、射程距離外でターンすれば戦法を見破られて回避されます。

 日本側にはバルチック艦隊を全滅させなければならない理由がありました。バルチック艦隊はウラジオストックに入港し、日本近海の制海権を握り日本列島と大陸間を分断することが戦略的な目的です。日本はそうなれば大陸の軍は孤立し壊滅するのでそうはさせじと決戦を挑みますがバルチック艦隊との海戦に勝利してもバルチック艦隊が何十パーセントでも残ってしまば、今後、ゲリラ的に出没されてしまい、輸送に支障をきたしてしまいます。つまり日本の勝利の条件はウラジオストックに入港する前にバルチック艦隊を全滅させることだったのです。東郷ターンに加え、第二戦隊「出雲」の上村司令長官の機転と秋山真之の七段構えの戦法によりバルチック艦隊は全滅。ウラジオストックに入港できたのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけでした。

 このように日本海海戦の勝利は奇跡ではなく、東郷司令官と秋山参謀、猛訓練を行った兵士たちの人事を尽くした結果だったといえます。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 武田邦彦「常勝ニッポン」
  第一話 決戦の前夜 http://takedanet.com/2007/04/post_de6a.html
  第二話 決戦 http://takedanet.com/2007/04/post_7f37.html
  第三話 海戦次第 http://takedanet.com/2007/04/post_27e9.html
  第四話 日本はなぜ勝ったか http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
 
 日本海海戦「本日天気晴朗ナレ共浪高シ」 (東郷ターンアニメーションあり)
  http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html
  
  実際には丁字というよりイ字に近い。アニメは併走に到るまで見れるが、この後、連合艦隊がバルチック艦隊の進路を塞ぐ。旗艦スワロフが火を噴き、北へ転進したのを第一戦隊は逃走と判断し、回頭したのに対し、第二戦隊は舵の故障と正確な判断を下し、回頭せずに攻撃を続行したのが功を奏した。

添付画像
 戦艦三笠(JJ太郎撮影 PD)

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日露戦争 日本海海戦報道
http://www.youtube.com/watch?v=QIfGddn2XnY


 バルチック艦隊の第一発見者は沖縄の青年猟師だった。宮古島沖でバルチック艦隊を発見し、宮古島の役場に報告したが、宮古島には電信局がなかった。このため、若者3人が荒れる海を15時間もかけて八重山島まで知らせた。しかし、そのときにはもう海戦が始まっていた。

沖縄の言論封鎖社会

沖縄では言論空間が閉ざされている。

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 沖縄で生まれ沖縄で育った作家の上原正稔氏は『鉄の暴風』の歴史観を持ち続けていましたが、渡嘉敷島に渡って取材することがあり、沖縄戦当時の事を知る金城武徳さん、大城良平さんから「軍命なんてなかった」と聞き、心底驚いたそうです。

「大城良平さんは自分の奥さんが自決しているんです。赤松大尉を問い詰めた大城さんは、住民を死なせるので機関銃を貸してくれと村の指導者が行ってきたが、赤松大尉が断ったことを知ったそうです。僕の先入観は真っ向から否定され、崩れていきました」

 上原氏はこの取材結果を平成8年(1996年)、琉球新報で報じています。この時何の批判も受けなかったそうです。ところが平成19年(2007年)琉球新報に連載した「パンドラの箱を開ける時」でこの渡嘉敷のことを書こうとしてストップがかかります。そして連載中断となります。

 上原氏が連載中断となった一ヵ月後、星雅彦氏も集団自決軍命説を否定する記事を書いたところ琉球新報に掲載を断られたそうです。星氏の場合は40年前から疑問を持っており、昭和35年(1960年)に沖縄戦の実地調査を行ったとき、『鉄の暴風』の多くの間違いを発見し、「極めつけは集団自決を命じたとされる梅澤隊長が朝鮮人の慰安婦と一緒に死んだと書いてあったこと」と述べています。氏は座間味で梅澤隊長が集団自決命令を下したと証言した宮城初枝さんに会ったとき、様子がおかしく、軍命を疑いはじめ、『鉄の暴風』の取材者である太田良博氏にも会い
「梅澤さんは死んだと書いてあるが、まだ生きている。おかしいぞ」と問い詰めたら「まあ、そんなところもあるねえ」と苦笑いし、口をつぐんだそうです。

 沖縄タイムスと琉球新報は昭和35年(1960年)まで「琉米親善」をうたっています。もちろん米国の報道規制があり、日本離反政策に従っているわけです。しかし、1960年代後半はベトナム戦争で米国が消耗していくと「復帰すれば生活はもっと良くなる」と労働組合や沖教組が中心となり運動し、ニクソンショックにビジネス界も復帰賛同となり、1972年に日本に復帰します。こうしてメデャアに反米論調が根付きます。そして現在に至るまで反日反米を叫ぶと莫大な補助金が沖縄に流れる仕組みが出来上がっています。沖縄メディアはこの仕組みがある限り、反日反米言論を作り上げ、異論を封殺していくでしょう。そしてそれは中共に利用されるのです。



参考文献
 週刊新潮09.7.16「日本ルネッサンス」櫻井よし子
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
参考サイト
 世界日報 「集団自決の軍命はなかった」作家の星雅彦、上原正稔氏が会見 沖縄県庁
  http://www.worldtimes.co.jp/special2/oki_kentei/main.html

添付画像
 沖縄戦時の米軍戦車(PD)

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「パンドラの箱掲載拒否訴訟」 記者会見 6-1
http://www.youtube.com/watch?v=PRqiuvt6Mxo

沖縄よ何処へ

沖縄は何を目指し何処へ行くのか。

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 沖縄学の父といわれる伊波普猷(いは ふゆう)氏は沖縄人の欠点として「恩」を忘れやすいということをあげています。

「沖縄人の最大欠点は恩を忘れやすいということである。(中略)思うにこれは数百年来の境遇が然らしめたのであろう。沖縄においては古来主権者の更迭が頻繁であったために、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌する(しょうする 褒め称えること)のが気がきいているという事になったのである。しかのみならず、久しく日支両帝国の間に介在していたので、自然二股膏薬主義(ふたまたこうやくしゅぎ)を採らなければならないようになったのである。
(中略)
『食う与ふる者は我が主也』という俚諺(りげん ことわざのこと)もこういう所から来たのであろう。沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。このご都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる。これは沖縄人の欠点中の最大なるものではあるまいか。世にこういおう種類の人ほど悲しいものはない、彼らは自分等の利益のためには友も売る、師も売る、場合によっては国も売る、こういう所に志士の出ないのは無理もない。沖縄の近代史に赤穂義士的な記事の一頁だに見えない理由もこれでよくわかる」


 ようするに事大主義、ご都合主義ということです。この話は明治42年に沖縄新聞に掲載されたものですから、そこまでの歴史をたどってみると、15世紀に琉球王国ができ、その王統もクーデターで代わりました。このとき『食う与ふる者は我が主也』(むぬくゆしどうわあうしゅう)という言葉が生まれました。やがて薩摩の世になり、そして大日本帝国の世になったという流れがあります。今はそんなことないよー、という沖縄県人は言うかもしれません。その後、大東亜戦争で日本が敗戦し、沖縄はアメリカが軍政をしき、そして本土復帰となりました。沖縄出身のジャーナリスト、恵隆之介さんの記事を引用してみます。

「1957年、日本本土に展開していた米海兵隊が沖縄に移駐してきたと時、地元紙二紙(琉球新報と沖縄タイムス)は今とは逆に歓迎の論調を展開していたのである。まさに解放軍がやってきたかのような論調であった」

 現在ではあれだけ米軍基地反対の運動をやって沖縄メディアはそろって同調しているのですから、信じられない話ですね。

「ところが1960年代後半からベトナム戦争が激化し、米国は国力を消耗し、日米の経済力が逆転する。
 ここで沖縄の新米ムードは減退し、日本復帰モードに転換していった。ただその動機が不純であった。
 『復帰すれば、生活はもっと良くなる』がこの時のキャッチフレーズであったのだ。この運動の中心になったのが労働組合や沖教祖である」


 実は公務員の給料はアメリカ並に低く抑えられていて、本土復帰になればベースアップがあるという狙いがあったようです。ビジネス界もニクソンショックがあると雪崩をうって本土復帰運動に合流していきました。

「ところが平成8年、米海兵隊兵士による沖縄小学女児童暴行事件が発生したとき、政府は沖縄への補助金を倍加し、とりわけ労働組合対策費として基地所在市町村に資金使途自由な資金訳70億円を設定したのである。
 この時、バブル経済下で尾羽打ちからし(みすぼらしい姿になることのたとえ)ていた沖縄財界は渡りに船と、沖縄左翼に同調したのである。
 県を始め、各市町村は、予算獲得陳情するよりも、「基地反対」を叫んだほうが予算を一気に増やせることを体感し、もはやブレーキは利かなくなってきたのである」


 どうやら、伊波氏の懸念はその後もずっと続いたといえます。ですが、次のご主人様が中共になるのは勘弁して欲しいものです。ただ流れはその方向のようです。喉から手がでるほど沖縄が欲しい中共にとって米軍基地ほど目障りなものはない。日本が自主防衛できるようにすればいいのですが、それを沖縄では叫んでいません。



参考文献
 平凡社「沖縄歴史物語」伊波普猷(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『占領軍を解放軍と呼んだ沖縄メディア』恵隆之介
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)

添付画像
 沖縄 万座毛(まんざもう PD)

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日琉同祖論を唱えた伊波普猷

日琉は同祖だった。

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 17世紀の半ば、琉球王国の摂政だった羽地朝秀が、王命により書いた琉球王国最初の歴史書『中山世鑑』では日本と琉球は同じ祖先から生まれてきているといいます。「日琉同祖論」です。1650年成立と記されています。
 沖縄の人々は九州から移住してきたのち、三山の内乱が有り、日本では吉野時代の戦乱に突入したことなどの事情で、交流が途絶えてしまったというものです。そうした論拠から、羽地は1609年に琉球が薩摩の侵略を受けたことについても、琉球王が薩摩に無礼をはたらいたから攻略されたとして、むしろ薩摩に正義があったという視点で論文を書いています。

 もちろんこうした論点は既に沖縄が薩摩の支配下にあったので、薩摩に遠慮したものと考えることができますが、沖縄出身の「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いは ふゆう)氏は「日琉同祖論」を学問的に説明し、維新の廃藩置県以前の沖縄がいかなる状況にあったか、沖縄人は本当に事実を知っているのかを説いています。

「とにかく、今日の沖縄人は紀元前沖縄人は紀元前に九州の一部から南東に植民した者の子孫であるということだけを、沖縄の人たちには承知してもらいたい。さてこの上古の植民地人は、久しく本国との連絡を保っていたが、14世紀に至って、本国のほうでは吉野時代の戦乱があり、自分のほうでは三山の紛争があったので、本国との連絡はまったく途絶してしまったのです」

 伊波氏によると紀元前に北九州の筑紫に海部(あまべ)とう氏族がおり、この海部が南下して沖縄諸島に住み着いたというもので、沖縄の最高神「アマミキヨ」はこの海部だといいます。沖縄の七大方言、沖縄、宮古、沖水良部、徳之島、大島、鬼界の単語、音韻、語法など比較研究すると、それらは別々に原始日本語から分岐したのではなく、古代日本語から分岐したものであると主張しています。現在では遺伝子の研究でも大和民族と同祖であることがわかっています。

 伊波氏は沖縄の万葉集と呼ばれる「おもろさうし」にも古事記と類似点があり、アマミキヨは奄美大島を経て琉球に来たことを証明する手がかりになると述べています。また、沖縄の信仰が神道と非常に似ており、神はキリスト教のようなGODではなく、自分等の上にいて、自分等を支配する民族的な神であり、山の神、海の神、火の神、水の神、風の神というように多くの神を信じている点も指摘しています。

 伊波氏は日琉同祖を証明しようとして沖縄を研究したわけではなく、沖縄を識るために「おもろさうし」に学び、歴史を探っていった結果、日琉同祖に行き着いたようです。そして、同じ日本人でありながら内地人と言葉が不通になりがちで、歴史的に被支配者という沖縄人のコンプレックスを除くため、講演などを行い、沖縄人と内地人の源は同じであるとわかりやすく説明し、沖縄人自らのアイデンティティーを確かめることにつとめました。



参考文献
 海竜社「国家への目覚め」櫻井よし子 田久保忠衛(共著)
 平凡社「沖縄歴史物語」伊波普猷(著)
参考サイト
 WikiPedia「沖縄県の歴史」「琉球民族」

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 勝連城(グスク PD)

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おもろさうし 十の巻

 昔初まりや

 日子大ぬしや

 美らや照り給れ

 せのみ(昔)初まりに

 日神いちろくが

 日神はちろくが

 胡散しちへ見給れば

 坐よくしちへ見おれば

 あまみきよは寄せ給ちへ

 しねりきよは寄せわちへ

 島造れでて宣ちへ

 国造れでてわちへ

 ここらきの島々

 ここらきの国々

 島造ら迄も

 日神心切れて

 せのみ(日神)うらきれて

 「あまみや首陀生すな

 しねりやすぢや生すな

 しやりはすぢや生し給れ」

松下幸之助に見る武士道

武士道は受け継がれていた。

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 今の平和な時代は死を傍らに意識して生活したり、命をもって事にあたるような必要はないし、そのようなことは存在しないようにも見えます。面白い話があります。
 松下電器(現パナソニック)を創設した松下幸之助さんのエピソードで松下電器の洗濯機が他社に大きく差をあけられてしまったときのこと。会議上でのやりとりです。

幸之助
「他メーカーに劣るような洗濯機をつくっとったのでは、後れをとるのは当然や。将来のことを考えても大問題だと思う。なぜ、そんなものができたのか。きみ自身が本当に命をかけて洗濯機というものをつくっていないのと違うか!」
製造責任者
「いや、まことに申し訳ありません。しかし、あと3カ月だけ待って下さい。3カ月のうちに必ず営業や社長の期待に添うような洗濯機をつくってみせます」

 製造の責任者がその意気込みのほどを見せたので、これで会議が終わるとその場にいた全員が思った。しかし、幸之助は、厳しい調子でさらに続けた。

幸之助「
わかった。3カ月待とう。3カ月待つけど、3カ月たって優れた製品ができなかった場合は、きみ、どうするか。そのときはきみの首をもらうがいいか。その血の出る首だよ! きみ! 首をくれるな!」。そう言って、手をぬっと差し出したのである。

 この話は、物つくりは命をかけるほどの思いで取り組まなければならない厳しいものだという幸之助さんの考えを伝えています。松下幸之助さんは著書「指導者の条件」の中でも閔妃事件の後始末を行うとき、小村寿太郎が勝海舟に教えを請いに行った時のことを取り上げています。

勝海舟
「自分も江戸開城などの大きな交渉で苦労してきたが、結局いえるのは、死生を意にとめたら仕事はできないということだ。身命なげうち、真心を込めてやるという腹さえ決まっていれば、あとはその場合その場合で考えたらいい」

幸之助さんは「命をかけるほどの思いがあって、はじめていかなる困難にも対処していく力が湧いてくるのだと思う。」と述べています。

 この幸之助さんのエピソードは「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」に通じるものがあります。「葉隠」というのは江戸時代中期に肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得を記録したものです。「死」を常に意識し、生か死かの選択のときには「死」を選べば「恥」にはならない。これが武士道の本質であり、この武士道の本質を得たなら生涯誤りなく奉公ができる、というもので、「生」を輝かせるためのものです。また、「葉隠」では「武士道は死に狂ひなり」とも言っており、これは正気でいては、大仕事も達成することができない、ということを言っています。松下幸之助さんは、武家の末裔ではありませんが、日本人として「武士道」をなんらか感じ取っていたのでしょう。

 こうしてみると現代でも「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は通用するし、実は日本人の中に生きている、あるいは日本人が必要としているもののように思います。



参考文献
 PHP文庫「指導者の条件」松下幸之助(著)
 「商人道」佐藤悌次郎
 新潮文庫「葉隠入門」三島由紀夫(著)

添付画像
 松下電器歴史館の松下幸之助像 Auther:Rsa氏

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新選組に見る武士道

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり

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「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」


 昔よく新選組の本を読んだもので、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのが出てきます。「葉隠」という江戸時代中期に記録されたものからきていますが、私が子供の頃はこういうのは命を粗末にする考えであって、戦前の悪い考え方だと教わったような記憶があります。
 この「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは「死ぬ」のが目的ではなく、いつも「死」を意識することにより「生」が燦然と輝くということを言っています。今日か明日死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとして光を放つでしょう、ということです。また、生か死かの選択のとき、「死」を選べば「恥」にならない、これが武士道の本質と言っています。

 新選組の話には西洋医学者の松本良順が登場します。良順は攘夷派に命を狙われているとき、新選組局長近藤勇のところへ
訪ねていきました。
 
良順
「近藤君、見苦しくねえように斬られてやるには、どうしたらいいのだえ」

 「死」の覚悟、そして「恥」にならないようにするにはどうしたらいいか、相談にきたのですね。「葉隠」からするとこれは「生」を輝かせることにつながります。

近藤
「こちらが大剣をふりかざしたまま、両眼を閉じます」
良順
「なに目を閉じる。それでは相手が見えなくなっちまうではねえかよ」
近藤
「一向にお気になさることはありません。やがてからだの何処かが冷やりといたしましょう。その瞬間に大剣を真っ向に振り落とします。自分も斬られましょうが相手も斬ることができます。」

 新選組の剣法は天然理心流と言い、相打ちを極意とする剣法であり、これは死を覚悟する、死を選択する武士道の本質を持っています。

良順
「確かに侍がやりあう斬りあいでの心得はわかったが、近藤君、俺等は無腰だよ。それで狙われた時は、いったいどうするね。」
近藤
「相手の目から、自分の目をそらさずにすたすたと前に進まれたがよろしい。具合よく斬られること間違いございません」
良順
「やれやれ」

 この話はある程度創作が入っていると思われますが、松本良順の息子が語ったところから作られています。以下のほうが実話に近いと思われます。

良順
「近藤君、敵に囲まれたときはどうすれば活路を開くことができるか」
近藤
「まあ死ぬのですな。生きることが念頭にあってはだめです。一方をうかがって、猛然と捨て身に斬り込むのです。そこにだけ命を救うところがあります」。

 とにかく死ぬこと、そこに「生」があるということですね。

 現代は戦争もないし、長寿になったので「死」というものを意識して生きることは稀ですし、「死」のイメージとして西洋の「死神」という恐ろしいイメージを持つ人が多く、「考えたくない」というところではないでしょうか。また、学校では「命を大切に」としか教わらないので、「死」というものを忌み嫌う傾向にあるでしょう。しかし、「死」というのは誰にでもやってきます。ならば、日本の伝統である「武士道」を見直して、「死」を有効に使い「生」を輝かせる努力をしたほうが大変意義のあることのように思います。



参考文献
 実業之日本社「新撰組」松浦玲(監修)
 文春文庫「新撰組風雲録」広瀬仁紀(著)
 新潮文庫「葉隠入門」三島由紀夫(著)
参考サイト
 WikiPedia「武士道」「葉隠」

添付画像
 近藤勇(PD)

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新選組始末記 池田屋事変 http://www.youtube.com/watch?v=R2CtjndCOcE

1919年人種平等に猛反発したオーストラリア

オーストラリアは元気のない国。

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 オーストラリア(豪)というと治安が良く、豊かでフレンドリーな国という印象を持ちます。もう随分昔になりますが、観光で2回ほどいきました。いずれも東海岸のほうです。
 しかし、歴史を見てみるとイギリスの植民地であった時代があり、犯罪者の流刑の地であり、現地住民を虐殺した歴史があります。また、戦って独立したような歴史はありません。そのため「元気がない国」とも言われています。同じような国にカナダがあります。アメリカもそもそも流刑の地でしたが独立戦争で独立を勝ち取った歴史があります。戦った歴史は国家の誇りになっているのです。オーストラリアでは政治家とか著名人のスピーチのときに
「自分は19世紀になってやってきた移民の子孫である」と前置きをするのだそうです。19世紀以前は囚人と思われるので、19世紀以後の移民という尊厳を前置きするのです。こう考えると日本の国家の起源と戦った歴史はありがたいものです。

 日本とオーストラリアの関係に関する歴史は実はあまり友好的なものではありません。オーストラリアはイギリスの連邦(植民地)だったので、日英同盟の頃は友好だったのではないかと思い勝ちですが、そうではなかったようです。その理由の一つにオーストラリアの「白豪主義」があります。

 1901年には既に3,000人の日本人がさとうきび畑で働いていましたが、入国を禁止されます。1904年に日英同盟が結ばれたので、特定労働者、たとえば真珠貝の栽培などだけにビザが下りるようになります。 1914年に第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟に準じて連合国側について参戦します。オーストラリアとは仲間のはずですが、オーストラリアは日本とドイツが組んでビスマルク諸島あたりから攻めてくるというような妄想を持っており、イギリスの植民大臣が
「日本はシナ海から出ませんよ」と安心させています。日本はオーストラリアの商船をインド洋でドイツの潜水艦から護衛していたにもかかわらずです。そして、北太平洋のドイツ領である島を占領しようと計画し、英国本国から「そこは日本に任せているから赤道より北へ言ってはいかん」と通告されています。

 1919年のベルサイユ会議で日本は人種平等案を提示します。アメリカの黒人の熱狂的な支持がありました。しかし、これに強行に反発したのがオーストラリアです。さらに旧ドイツ領の領有にいちゃもんつけています。日本は連盟規約の前文に「各国平等の主義」の一文を入れるという譲歩をし、17票中11票を獲得しましたが、委員長ウィルソン(米)が全会一致を主張し、潰されてしまいました。賛成多数なのに無理やりつぶしたのです。なんということでしょう。ただし、オーストラリアは日英同盟継続には賛成しています。
 
 ここから日豪関係は明確に悪化しますが、これらがその後の大東亜戦争にも影響します。前々から日本を警戒し、憎んでいたオーストラリアから東京裁判の裁判長を選んだ理由もわかるでしょう。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 展転社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 Wikipedia「第一次世界大戦」
添付画像
 第一次世界大戦時のオーストラリア軍(1914年) エジプトにカンガルーを連れてきている。(PD)

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プロパガンダ戦は続いている

ナショナル・アイデンティティ・ウォー。

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 16世紀に「太陽の沈まない国」といわれ隆盛を誇ったスペイン大帝国は無敵艦隊がイギリスに敗れたことによ凋落したと言われています。ところがこの凋落の裏にはイギリスと、オランダのプロパガンダ攻撃があり、スペイン大帝国は自虐史観に悩まされました。

 スペインの植民地ではとんでもない酷いことが行われたと宣伝するのです。
「彼ら(スペイン人)は村々に押し入り・・・老いも若きも身重の恩納も悉く捕らえ・・・引き裂きずたずたにした」
「彼らは誰が一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、誰が一撃のもとで首を切り落とせるかとか賭けをした」


 これがうまくいったせいでしょうか。イギリスは第一次世界大戦でもドイツに対してプロパガンダ攻撃を行います。

「英国を撃つ」武藤貞一 昭和12年12月 (GHQ焚書図書開封より)
「例えば老人子供を木の枝に吊るして、銃剣の先で突き殺している光景や、寺院におけるドイツ兵蛮行といったような写真がまことしやかに戦場から送られてきたのであるが、これらは何れもロンドンの新聞社写真部屋で大掛かりに製作したものばかりで一つも本物はなかったのだが雷同性に富んだアメリカ人は真偽の分別もつかず、無暗とそれを見て騒ぎたった。殊にどこの国にもある特有の変質的インテリより成る平和団体、婦人団体、宗教家、大学教授などによって最も騒がれ出してきた。この頃からイギリスの宣伝戦はぼつぼつ奏効し始めたのだ」

 昭和12年の本ですから、英国とは戦争をしていない頃です。この本はベストセラーになったそうですから、この頃日本人は英国に脅威を持っていたことがわかります。こういう本は戦後焚書されましたから、現在、日本人はイギリスは紳士の国でこんな宣伝などしない国だと思っているでしょう。
 このほか、
「ドイツでは食糧難のため、死者から油を絞ってバターを作る」というのもあります。米国にまきちらされたプロパガンダは米国民に信じられ、人気商売である大統領もぐらつかされたようです。そしてルシタニア撃沈事件が起こり、米国は参戦へ向かいます。

 こうしたプロパガンダ攻撃は内外への常套手段としてその後の第二次世界大戦期にもよく使われています。支那国民党など同じような手法を用いています。「南京虐殺」など国民党宣部がデタラメを書いて欧州などにばら撒いた話です。内へのプロパガンダとしてはアメリカが真珠湾攻撃を「だまし討ち」としたことや、「バターン死の行進」という話をでっち上げて戦意を高めるということをしています。日本もインドネシア攻略の際にラジオ放送で「インドネシア・ラヤ」(後の国歌)を繰り返し流し、インドネシア人のナショナリズムを刺激することをしています。

 さて、これらは戦時中の話ですが、現在でもかの国は「南京虐殺」とか、「日本の侵略」とか攻撃をしかけているでしょう。平時でもプロパガンダ戦は行われているのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
参考サイト
 Wikipedia「プロパガンダ」「太陽の沈まない国」
添付画像
 第一次世界大戦のイギリスのプロパガンダポスター(1915年)(PD)
  78人の女性と子供が殺され228人の女性と子供がドイツ人の侵略者によって傷つけられたと書いてある。

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イギリスの超差別意識と残虐性

イギリスは紳士の国だった?

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 日本は明治維新後、イギリスから学び、イギリスと同盟を結んだ時期もあり、日本は英国を模範としていましたが、同時にイギリスの残虐性も認識しており、脅威を持っていました。

「英国の世界統治策」(昭和15年3月)の中でラジバド・ライというインドの国民主義者の人の本を紹介しています。

GHQ焚書図書開封より
 インド人女性がイギリス人の知事を狙撃した事件
「同族婦女子(イギリスの暴虐を悲憤慷慨したインド人の女性)が、トラックに積み込まれて人里離れた所に連れ去って放置せられたり、暴力を加えると脅かされたり、手を加えて殴打される事情が聞かされ、陵辱その他の侮辱が加えられ、或いは男子監獄に投ぜられらる悲惨な状況を知っては、インドの夫人の中にこのような意見を持ち、かような直接行為に訴えるものの出現するのも必ずしも不思議ではあるまい」

 これはひどいですね。人間扱いされていません。警察の横暴を取り上げてみます。
「医者や付添のものは『今日の殴打、拷問は実にひどかった』と言った。私は病院の各室を廻り、負傷程度を視察した。中には腹を打たれた上、睾丸を締め付けられたものもあった。ついで二階へ上がってみるともの凄い呻き声が聞こえた。一人の青年は睾丸を締めつけられたばかりでなく、脳を打たれ、狂人の様になっていた。他の棟に行って見たが、同様の負傷者ばかりであった。そして何れも口々に警官の言語に絶する横暴を憤慨していた。(中略)人事不省になるまで睾丸をしめつける。足と手を持ってひきづり廻し、且つ殴打する。負傷者を草叢又は塩水の中に入れる」

 紳士の国というイメージのイギリスですが、当時はこんなものです。本には英国が教育機関を占拠したり、書籍の禁止、没収を行ったり、インド人の平均年収、一千万人の餓死者、インド人の教育レベルの低さ、インド人への陵辱、暴力、拷問の様子などが述べられています。一応、英国の名誉のために書いておくとイギリスの提督の令嬢は
「自分はガンジーのほうが正しいと思う。」といってインド名でもってイギリスを告発する事件も起こっています。

 白人にとって白人以外は人間ではなく家畜程度にしか思っていませんから、平気でこんな残虐なことができるのです。当然インド人に対してだけでなく、日本人に対しても差別意識は当てはまります。ビルマ(現ミャンマー)で戦後、抑留された日本兵はビルマの下等米に泥と砂が混じったものを食べさせられました。これでは歯を壊すし、下痢はするわで散々なので、抗議したらイギリス側の返事は
「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」と大真面目に答えたといいます。

 大東亜戦争時に日本には「鬼畜米英」というスローガンがあり、戦後、そういうのは戦意を煽っただけのもので、事実に反するように教えられました。しかし、当時、出版されていた本から考えると日本人はイギリス人の有色人種への超差別意識、残虐性をよく知っており、いい当てている言葉でしょう。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)

添付画像
 ペシャワル市(当時インド)のエドワード門、1870年(PD)

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シンガポール陥落、他国の反応

世界が驚いたシンガポール陥落。

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 大東亜戦争英米との開戦緒戦、昭和17年(1942年)2月7日から15日かけてシンガポール攻略戦が行われました。難航不落の要塞とされたイギリス軍が守備するシンガポールも日本軍の猛攻の前に2月15日の朝、最終防衛線を突破され降伏します。

ベルリンとマドリードの朝日新聞の特派員の交信(朝日新聞記事)
ベルリン支局
「シンガポールの英軍が降伏しました。おめでとうございます」
マドリード公使
「いやおめでたいともなんとも--僕には今日ほど喜ばしい日はないのだ、今日丁度スペインの某大臣のところで独伊両公使と一緒に招かれていた。その席でこのニュースが飛び込んだ途端にワッと歓声が挙がり僕に杯が殺到して大変な目に遭ったよ。何しろ英軍が手を挙げ文句なしに頭を下げたのだからね。ヨーロッパではそこまで考えていなかったからビックリしたのも当然だ」

ソフィア(ブルガリア)とベルリンの朝日新聞の特派員の対話(朝日新聞記事)

「最近こんな話があるよ。ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差し出し、これをシンガポール一番乗りの兵隊と二番乗りの兵隊に送ってくれと言うんだ。山路公使は面食らってお志だけはありがたく受け取るが、シンガポール戦線は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと丁重に礼を述べて帰らせた。また北ブルガリアのオレチヨの町長は一万五百レワの金を集めてこれをシンガポール一番乗りの勇士に送ることにしたなどというふうにブルガリアの心からの喜びは聴いていてまったく気持ちが良い」

 シンガポール陥落は大変衝撃だったことが伺えます。何しろ世界を席巻した大英帝国が誇る難攻不落の砦が陥落したのですから。

 フランスのドゴール将軍(戦後のフランス大統領、戦中はロンドンに亡命)

「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」

 ブラジルなど南米諸国はアメリカの圧迫が大きかったので当初は反日ムードだったそうですが、シンガポール陥落によって一気にムードが変わったそうです。アルゼンチンなどは同盟国寄りの姿勢でした。

 たぶん、意外と思われるのはスペインとブルガリアが同盟国(枢軸国)側だったということでしょう(スペインは表面的には中立国)。私も昔は同盟国は日独伊だけかと思っていましたが、いつだったか多くの国があったのを知りました。文字通り世界大戦だったのですね。

 どういう関係で同盟国、連合国に分かれていたのか?持てる国(植民地)が連合国、と持たざる国と被支配国が同盟国、と見ることができます。




[同盟国](枢軸国)※1

ドイツ国
(1939年-1945年)

大日本帝国
(1940年-1945年)

イタリア王国
(1940年-1943年)

ハンガリー王国
(1941年-1944年)

ルーマニア王国
(1941年-1944年)

フィンランド共和国
(1941年-1944年)

ブルガリア王国
(1941年-1944年)

タイ王国
(1942年-1945年)

独立スロバキア
(1939年-1945年)

アルバニア王国(イタリア支配下)
(1940年-1943年)

イタリア社会共和国
(1943年-1945年)

アルバニア王国(ドイツ支配下)
(1943年-1944年)

クロアチア独立国
(1941年-1945年)

自由インド仮政府
(1943年-1945年)

ビルマ国
(1943年-1945年)

ハンガリー国
(1944年-1945年)

--------
[同盟国の影響国]

蒙古聯合自治政府

中華民国南京国民政府

満州国

フィリピン第二共和国

ベトナム帝国

カンボジア王国

ラオス王国

ギリシャ国

ピンドス公国・マケドニア公国

セルビア救国政府

モンテネグロ王国(イタリア支配下)

フランス国

ロシア諸民族解放委員会

デンマーク王国
(1940年~1945年ドイツの占領下)

ノルウェー王国[1]
(1940年~1945年ドイツの占領下)


※1[枢軸国] 1936年、ムッソリーニがローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回すると演説したところから由来。


参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 日本教育新聞社「日本人よ ありがとう」土生良樹(著)

添付画像
 シンガポールを行進する日本軍1942年(PD)

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日本軍を歓迎したマレー人

アジア解放第一弾、マレー上陸。

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 大東亜戦争マレー作戦で日本軍は昭和16年(1941年)12月8日にマレー半島コタバル、バタニに上陸しました。マレー半島はイギリスの植民地でした。日本軍は上陸後、シンガポールへ向けて進撃し、シンガポール手前のジョホール・パールまで進みます。この頃にはマレー人と日本軍は一体感が生まれていたようです。壊れている橋や道路、空港を直さなければならないのを住民が我先にと集まって手伝ってくれたというのです。彼等は一様に「早くシンガポールを陥してくれ」と言ったといいます。ただ、華僑はイギリス側について金儲けしていたので、反日抗日でした。
 
 星港攻略記 「GHQ焚書図書開封より」

「避難民は日本軍の幕舎の傍らを通ると、腰をおろして動こうともしない。兵隊は攻撃準備のために目がまわるくらい忙しいのであるが、可愛い子供など見ると、つい手をとってあやしたりする。開戦当初は日本兵を見ると逃げ回っていた住民たちも、今では規律正しい日本軍にすっかり慣れて、日本兵の傍らにおれば一番安心だと考えるようになっていた。そして何やかやと、兵隊の手伝いさへ自分からするようにまでなっていた」

 日本軍を敵視していない様子が伺えます。

 サムライ戦車隊長(島田豊作著)

「私がマレー人を見る目は、いつか同胞にたいするような親しさを覚えるのだった」

 日本軍人もマレー人に親しみを持っていったようです。そしてマレー人は日本軍の戦車が通るとバナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを車上に投げ、歓声をあげたといいます。このため更に日本軍人はマレー人のためにもイギリス人をこの土地から一日も早く追放しなければならないと考え、士気があがっていきました。

 島田戦車隊が、ある村の寺に宿営したとき、ある兵隊が椰子の実を採ろうと木に登りかけると、和尚が現れ、兵隊を制止しました。兵隊は
「このクソ坊主め、引っ込んでいろ」というと、和尚はなにやら一心に祈りはじめ「いま登った人の足が曲がり、降りられなくなるように祈ったのだ、いまに見てなさい」という。兵隊は一生懸命登ろうとしましたが、すべすべするし、木が細くて丈も高いので結局登れず降りてきました。すると和尚が「それでいいのだ。足が曲がっている、ごらんなさい」という。なるほど、足が”く”の字に曲がっていました。この兵隊、実はもともとガニ股だったんです。それでみなドっと笑ったといいます。マレー人と日本人の親近感が伝わってくる話です。

 戦後にマレーで日本軍の虐殺があったという宣伝がまかれましたが、マレーのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は
「日本軍はマレー人は殺していない」と言っています。華僑がゲリラとなって日本軍を攻撃しているのでそれを掃討したのを虐殺と言っています。ゲリラですから戦闘員です。また、戦後直後はGHQ作成の情報操作「真相箱」によって「秘密警察を作って残忍なことをしたから住民から憎まれた」とか「保安隊を作って日常生活のあらゆる面において住民を監視した」というようなマレーへの圧政が宣伝され、前述した「星港攻略記」といった本は没収され、日本国民は日本軍は悪いことをしていたので恐れられ嫌われていた、と思い込まされてしまったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 小学館文庫「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
参考サイト
 WikiPedia「マレー作戦」
添付画像
 クアラルンプールに突入する日本軍(PD)

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GHQ憲法九条の欺瞞

戦後日本人は自らを騙し続けた。戦前全否定、戦後全肯定。思い上がったジャパン・アズ・ナンバーワン。GHQ憲法が平和をもたらしたというウソ。

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 1990年以降、ワシントンの国立公文書館でCIAの前身にあたるOSSの機密文書が再調査されています。これによると「日本計画」といわれる対外基本戦略が作成されていることがわかっています。このOSSが知識人向けのマルクス主義と言われる「フランクフルト学派」の巣窟になっていました。OSS計画のもとGHQは占領政策を行っていきます。

 GHQピンカーズ(赤い奴)たちは「二段階革命理論」で日本共産化を目指しました。「社会主義は軍国主義の破壊を通して、ブルジョア民主革命を達した後に得られる」というものです。象徴天皇を通して日本を統治し、他の改革を待って廃絶に追い込むというものです。これらはそもそも天皇を「KING」と誤解しており、日本の伝統的民主主義を理解していなかったことから出発しています。
 GHQ憲法はこの理論に基づいて作成され、第九条の軍隊を持たない、というのも第二段階の革命を行いやすくするためのものでした。軍隊が革命を阻止するかもしれないからです。九条は国防に関することが目的ではなく、内政の問題だったのです。

 マッカーサーは憲法第九条を強く推し進めています。憲法が国会で成立した後、昭和21年(1946年)10月と昭和22年(1947年)5月の天皇・マッカーサ会談で国際情勢に対して憲法九条を懸念する昭和天皇に対してマッカーサーが憲法九条の必要性を力説していることから伺えます。マッカーサーはOSSの計画通り進めていたのです。ちなみにマッカーサー側の通訳は共産主義者ハーバート・ノーマンです。(後、赤狩りのため自殺)

 マッカーサーがどの時点でGHQ内にピンカーズ(赤い奴)が占めていることに気がついたのでしょうか。昭和23年(1948年)に米国務省政策企画部長のジョージ・ケナンが来日し、GHQ民政局のピンカーズの危険性を警告しています。1948年(昭和23年)米国で出版された「アメリカの鏡・日本」の著者ヘレン・ミアーズ女史とマッカーサーは激しく論争しています。おそらくこの頃から「失敗」を意識したでしょう。

 そして日本は吉田茂らにより戦後レジームを決めていきます。「軍備はやらん・経済再建一本で行く。米国は日本を守れ・それが米国の義務だ」

 その後、日本人はこんなウソをつき始めます。

「憲法九条があったから日本は平和を維持できた」

「軍備にお金を使わなかったから経済が発展して豊かになった」

 
 日本の九条のようなものをもっていなくてもほとんどの国が第二次世界大戦後は世界全体が平和への努力をし、局地的に戦争はあったものの世界大戦を回避しています。平和とGHQ憲法九条は因果関係はありません。軍事バランスや核の抑止力がもたらした平和でしょう。核兵器を持った大国同士はもう戦争はできません。日本は安保によって核の傘下で平和が守られてきたに過ぎません。
 昭和初期から日本は軍事大国でしたが、GNPはどんどん上がり豊かになっています。現在の中共も軍事力を拡大しても経済成長し、豊かになっています。軍備と経済の因果関係はありません。

 豊かになった日本、戦後の成功が日本人を思い上がらせ
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1980年ごろ)の声に高揚し、戦後を全肯定し、ウソを撒き散らしたのです。フランクフルト学派が日本を破壊し、その後の革命のために憲法九条を作ったことを考えるとなんと悲しいウソであることでしょうか。



参考文献
 ワック出版「歴史通」WILL10月号別冊
   『野坂参三共産政権の誕生』田中英道
 新潮45・9「二重外交展開、占領下も『君主』でありつづけた昭和天皇」河西秀哉
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)

添付画像
  GHQ憲法マッカーサー案 国立公文書館 http://www.archives.go.jp/exhibition/popup_haruaki_19_haru/02.html

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GHQ憲法は日本を共産化する目的でつくられた

GHQ憲法はフランクフルト学派による日本共産化のためのものだった。

S_malmond1950915

 1990年以降、ワシントンの国立公文書館でCIAの前身にあたるOSSの機密文書が再調査されています。まだ全部は公開されていないようです。これによると「日本計画」といわれる対外基本戦略が作成されていることがわかっています。このOSSが知識人向けのマルクス主義と言われる「フランクフルト学派」の巣窟になっており、マルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムなどがいます。このOSSはコミンテルンの方針に従っていたわけでもないこともわかっています。

 この日本計画は1941年12月の日米開戦直後から準備され、日本の敗北を見越し、日本をいかに軍事的に壊滅させ、以下に戦後の日本社会を攪乱させるかを目的化したものです。天皇を象徴とする方針もこのとき立てられ、伝統の力を利用して、国内を対立させ、軍事力の膨張を抑える方向へと誘導するというものです。これらはマッカーサーにも伝えられています。この話しは終戦連絡中央事務局の白洲次郎の回想と符合するところがあり、憲法改正にあたって白洲次郎は以下の回想をしています。

 ホイットニー(GHQ民政局)氏はつい、口を滑らせた。
「『ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本には来ていないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるのだよ』
 
つまり、”マッカーサー草案”は、既にマ将軍が豪州の地にあって、”日本本土侵攻作戦”を開始した時、その作業に取り掛かり始めていたのである」。

 OSSの日本計画がマッカーサーに伝えられ、豪州で憲法作成の準備が行われていたということでしょう。白洲次郎がこの事実を知ったら「やっぱりそうか!」というに違いありません。
 OSSの計画は「社会主義は軍国主義の破壊を通して、ブルジョア民主革命を達した後に得られる」という2段階革命論であり、一気に天皇打倒するのではなく、他の改革を待って廃絶させる段階を待つというものです。以前書きましたが、憲法の「国民主権」「天皇は国民の総意に基づく」というのはまず第一段階のことなのです。ソ連が強行に皇室の廃止を求めたのに対してGHQは計画通り遂行していたのです。皇室の数を制限して立ち枯れ作戦も第二段階を意識してのことでしょう。憲法九条も次の革命のときに軍隊がなければ革命を起こしやすいという目的で作成されました。

 こうして日本共産化のための日本国憲法はGHQピンカーズ(共産主義者)によって着々と進められます。GHQ民政局のケーディス大佐(九条はこの人が書いた)が直接指揮します。よく日本国憲法は7日間で作成されたといわれていますが、実際には準備周到だったわけです。ただ、7日間と言われるのは実際にGHQの民政局の局員を動員して作成していますから、骨子から条文を作るのはその期間で行ったと思われます。ナチス・ドイツの迫害からの逃れて日本にやってきたユダヤ人のベアテ・シロタさんは民政局に配属され、この作業を行っています。民政局のホイットニー准将はこういったと言います。

「紳士淑女諸君!君たちは今日から、憲法制定会議のメンバーとなった。マッカーサー元帥が日本国民に与える、新しい憲法をつくる歴史的任務を、我々に与えた」


 22歳だったペアテさんは驚いてあわてました。回想録には以下のように記してあります。
「憲法の専門家といったら、畏怖する対象でしかなかった。とにかく、私が憲法について知っていることといったら、高校の社会科で学んだだけのことだった」

 民政局の25人が全くのど素人で、その中の一人、ミルトン・エスマンというユダヤ人の青年が「日本の専門家を招いて、相談するべきだ」と提案したところクビになってしまいました。

 GHQピンカーズが日本を破壊する目的で作成した日本国憲法はすばらしい憲法だと信じている日本人が哀れでなりません・・・



参考文献
 ワック出版「歴史通」WILL10月号別冊
   『野坂参三共産政権の誕生』田中英道
 河出書房新書「白洲次郎」『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮75・8・21白洲次郎
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
添付画像
 コートニー・ホイットニー、 ダグラス・マッカーサー、エドワードM.Almond少将1950年9月15日(PD)

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絶対正義GHQ

http://www.youtube.com/watch?v=sXIAWMZkoPA

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