ひめゆり隊の本当の姿
ひめゆり隊は地獄の中で戦った。
昭和20年(1945年)4月、アメリカ軍が沖縄本島へ上陸しました。この沖縄戦では学生が動員されました。「ひけゆり学徒隊」「鉄血勤皇隊」がよく知られています。ひめゆり隊の本当の姿を知るには角川文庫から出ている「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)が良いと思います。
ひめゆり隊の一部は陸軍病院の第一外科壕で正規看護婦1名、学徒三名で70名の患者を担当していました。一晩に80人の手足の切断手術を手伝った学徒もいたそうです。脳症患者はうわごとをしゃべりまくり、傷病兵は「水ー水ー」「しっこー」とうめき声がたちこめ、患者の傷口には蛆虫がたまり、汗と血と尿と死臭がただよう地獄のような光景だったことでしょう。
師範本科二年、第二外科勤務 金城久子さん
「小説や映画で、ひめゆりは美化されていきました。映画にしても半分見てもうイヤだと思ったのです。川で水遊びするシーンなど、少なくとも私の記憶にはありません。あんなにキレイなものではありませんでしたよ」
6月18日、軍は最後の攻撃に出ることになり、学徒隊に解散命令が出ます。壕を出ようとしない女生徒に「早く出ないと叩き切るぞ」と軍医が怒鳴ります。
第一外科勤務 仲村とみさん
「この『叩き切るぞ』と言う言葉は、よく軍人さんが言っていました。でも、その場の雰囲気がわからない人は、悪意にとってしまうのです。あの当時は、私達に対する叱咤激励の言葉でした。同級生を置いていくことに迷っている私たちへ、『患者は自分たちが看取る。ここにいたら全滅だぞ』と言い渡したんです」
戦後は何かと悪意に歪曲して伝えられていますね。
師範予科三年、第一外科勤務 上地百子さん (米軍が迫ってきて投降勧告が行われる中で)
「私たち八人の(自決か国頭突破かの)議論をじっと黙って聞いていた将校か下士官らしい人がいました。(日本兵の)四人の中の上官だったのでしょう。その人が突然立ち上がって八人をにらんでどなりつけました。
『貴様ら、出て行け!出て行かんとたたき切るぞ!』
『一緒に殺してくれるといったのに、おかしいな』などとブツブツいいながらも剣幕に押されて八人は岩穴の入り口から一人ずつ出て行ったのです。
全員出終わったとき、後ろの岩穴の中で、バーンと手榴弾の爆発する音が聞こえました。それが四人の日本兵の最後でした」
金城久子さん
「私たちが隠れていた岩陰に、顔見知りの患者さんがいたんです。彼はこれから敵中突破するつもりだといいました。『一緒に連れて行ってください』とお願いしたら、『悪いことは言わない。皆と一緒に出て行きなさい。生きるんです』といわれたんです」
喜舎場敏子さん
「27日早朝、壕の要り湯地に足音がしたかと思うと、流暢な日本語で『デテコイ。モシデテコナケレバ、カエンホウシャキブッパナスゾ』としきりにせきたてている。
『君ら女だけ3名は出てゆけ』
『兵隊さん、どうぞいっしょに死なしてください。』
がんとして聞き入れない私たち3名をかえりみて、班長はしばらくだまっていた。班長はつかつかと入り口に進み、『いま裸で出るから弾はうつな』と大声でいいながら一人で出て行った。捕虜などなるものか。それより死んだほうがよい。学校の不名誉だ。古見さんと二人は手を握り合って震えていた。
『オーイ、出て来い』
班長の声にますますおびえた」
これらひめゆり隊の話から見えてくるのは地獄のような光景、絶望の淵にありながら健気な少女たちの姿と励ましている軍人の姿です。
参考文献
PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
WikiPedia「ひめゆり学徒隊」
添付画像
映画「ひめゆりの塔」のスティール写真(PD)
夏川里美 島歌
http://www.youtube.com/watch?v=MTl9YuhuDYk
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