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2011年6月

李方子妃殿下

語られていない昭和。

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 大正9年(1920年)皇族梨本宮守正王と伊都子妃の第一王女として生まれた方子(まさこ)女王は李氏朝鮮26代高宗の第四王子、李垠(イ・ウン)殿下とご結婚されました。日韓併合後10年、政治的な意図の結婚ですが、日本の考え方が良く表れています。日韓併合が白人等の植民地支配と同列だとすると皇族から嫁がせるなど考えられません。例えば英国が王室からインド王朝に嫁がせるなどと絶対に有り得ないわけです。でも日本は異なり、満州国の皇帝溥儀殿下の弟、溥傑殿下には流転の王妃で知られている嵯峨侯爵のご令嬢、浩様が嫁がれています。八紘一宇という同胞として見る心があったのです。

 方子女王は嫁ぎ先をなんと新聞で知ったのだそうです。
「世間では親とか家とかのために結婚することは珍しくなく、本人の意思が重んじられないのは普通のこと。皇族はさらに自由がないとはいえ、せめて新聞に出る前に知らせて覚悟を決め、『お受けします』ときっぱり申し上げたかった」
と母親の伊都子妃に申し上げたそうです。

 正式に父守正殿下から婚約を告げられたとき、
「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」
と答えられたそうです。

 この方子女王の返事には母の伊都子妃殿下は毅然として映ったものの、それがゆえ、いっそう心を痛まれたと言います。
 方子女王はこのときまだ学習院の学生で丁度夏休みのことでした。2学期が始まった初登校の日、髪は韓国式に結い昂然(こうぜん)として登校します。その姿に学友たちは覚悟を感じ、圧倒され、感心したと言います。

 お相手の李垠殿下は明治天皇がそれはそれは、おかわいがりになった方で、明治天皇からの贈り物だけでも尋常なものではありませんでした。明治天皇の愛情をふんだんに受けて育った李垠殿下は口数が少ない方でしたが、結婚後、方子妃が帰宅する李垠殿下を青いチマチョゴリで出迎えると
「よく似合いますよ」と応えたといいます。

 昭和20年(1945年)の敗戦後、方子妃殿下は皇族から除籍されます。その後、李垠殿下の死を乗り越え、韓国で福祉事業に打ち込みます。

「チョッパリ(日本人の蔑称)が寄付なんて図々しい」
「よその国で何を始めようというのだ」
「おとなしく飼い殺しされていればいいのに」


 こういった風当たりにも負けず、障害を持つ人たちの支援活動を続けます。62歳から87歳で亡くなるまで、方子様の四半世紀は福祉一色でした。知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立し、昭和56年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与されました。

 平成元年四月三十日永眠。もうひとつの昭和の終わりと言われています。韓国では準国葬の扱いで、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)が追贈されました。

 李方子妃殿下は韓国では尊敬される女性のベスト5に常に名を連ねるそうです。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 ワック出版「歴史通」2009.7月号『軍人は戦争をしたくない』中條高徳/田母神俊雄
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
参考サイト
 Wikipedia「李方子」「高宗 (朝鮮王)」「李垠」「嵯峨浩」

添付画像
 方子女王 1918年17歳の頃 (PD)

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GHQの焚書と検閲

洗脳された日本人。

1950

 戦後、GHQによって焚書が行われました。昭和5年ころから19年頃までに出版された政治、文化、歴史、経済、科学、軍事のあらゆる分野、文学者の従軍記や兵士の体験記、英語やドイツ語の翻訳文献、資源論から精神論まで日本の戦争に直接あるいは間接に関係のあった七千百点の書物を没収して日本の読書人の前から消してしまったのです。言論の自由、出版の自由を推し進めている裏で言論破壊、歴史破壊を平然と行っていたのです。しかし、さすがに図書館や個人所有のものには手をつけられなかったようで、国会図書館には約7割が残っており、評論家の西尾幹二氏らによって分析されてきています。15年もの間の歴史が焚書により抹殺され、戦勝国によって新しい歴史が造られ(※1)、国民は変だなと思いつつどちらが正しいか比較材料すらなくなってしまい、それは時がたつにつれ捏造、歪曲された歴史が本当の歴史だと思うようになっていったと思われます。戦後生まれの人など学校で教えられ、メディアでウソを垂れ流されたら疑いようもありません。

 一方、検閲のほうは原爆の談話を掲載した朝日新聞が発行停止を喰らったり、進駐軍兵士の暴行を非難すると一部残らず押収されました。公に出版されているものだけでなく、個人の手紙まで対象となる徹底的なものでした。手紙は百通に一通ぐらいの割合で開封されます。検閲に関わるのは日本人です。英語ができて翻訳ができる人を集め8,000人から10,000人にのぼったと言われています。戦後、食料がなく困っていた頃でしたから、それを餌に売国行為に走らせたわけです。
 この検閲官の上にまた検閲官がおり、100通中「これはマズい」という手紙を5通発見すると英訳して上位の検閲官に提出します。そして残りの95通から再度抽出し、別の日本人検閲官に調べさせるのです。したたかなシステムです。

 検閲の徹底は「検閲学校」を作ったことから伺えます。採用した日本人検閲官に講義を行い、講義が終わると受講者全員に「検閲テスト」を行うのです。以下一例です。


「国家神道は奨励されるべしと説いている論説は、『新聞遵則』違反である」(正)

「大東亜戦争は世界平和増進のために必要だったと述べている記事論説等は、違反である」(正)

「紙面構成に当たってある新聞が中国人が日本人を射殺した話を取り上げ、第一面の目立つ場所に掲載した。これは違反だとは考えられない」(誤)


 検閲によってマスコミと「GHQとの共犯関係」が出来上がり、記事は「GHQ製」になっていき、一般国民は手紙まで検閲され大いに不安になりました。昭和27年に日本が主権を回復しても、マスコミは「共犯」による「罪」を隠すため、知らぬ顔で「GHQ製」の記事を続け、やがて、それはマスコミの風土になっていきました。学校では「GHQ製」の歴史が教えられ、戦前を知らない世代は「自虐史観」に染まっていったのです。これらはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP 戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づいたものでした。

 昭和23年、CI&E(GHQ民間情報教育局)からCIS(GHQ参謀第二部間諜報局)にあてられて発せられた文書「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の冒頭。

「CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が、”ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム”の続行にあたり・・・」

 現代日本人はGHQの呪縛から解かれていません。未だに大東亜戦争は侵略戦争だった、南京虐殺といったGHQ製の捏造歪曲の歴史が主流を占めています。



※1 「太平洋戰爭史」が新聞に連載され、後に高山書店が製本し、発売。多くは学校に配られた。


参考文献
 「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)

<参考>
国立国会図書館では日本占領関係資料の検索が行えるようになっている。
http://opac.ndl.go.jp/

添付画像
 連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(PD)

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GHQ絶対主義

沖縄県民斯ク戦ヘリ

沖縄県民は勇敢に戦った。

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 昭和20年6月23日、大東亜戦争沖縄戦が終結しました。沖縄戦でなくなられた方々のご冥福をお祈りいたします。今ある平和は英霊の方々の犠牲の上に成り立っており、私たちはこの平和を守っていかなければならないと感じます。

 沖縄学の父と言われる伊波普猷(いは ふゆう)氏は沖縄戦時に次のような寄稿をしています。

「勇猛の気性を持った琉球人が今こそ、その愛する郷土を戦場として奮戦していることを想うと私も感慨切なるものがある」
「今や皇国民としての自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を迎撃しているであろう。勇戦する琉球人に対し、私は大きな期待を抱く」


 伊波氏が言っているのは死にいくことをを助長するとか、命を落とすことに何も感じないとか、そういうことではありません。郷土愛です。郷土がアメリカに蹂躙されようとしているとき沖縄県民が立ち上がり、戦う沖縄県民を誇りに思っているのです。戦った歴史には意義があります。

 大田実中将は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と言いました。戦った歴史には誇りがあります。誇りある沖縄の歴史なのです。

 現代では沖縄戦については悲惨さばかり語られ被害者意識ばかりが誇張され、戦った人を犬死のように言うでしょう。現代の戦後平和価値観によって当時のことが語られています。時代によって価値観は変わりますが、今の価値観がすべて優れているとは限りません。戦後価値観に染まっていない当時の人々の声にも耳を傾けるべきでしょう。

 沖縄一中・鉄血勤皇隊、武富良浩さん

「篠原先生※1をはじめ、宮城辰夫君らの多くの戦没学友は皆、自分の使命に精一杯取り組み、国に殉じた、純粋で、心の綺麗な人ばかりでした。置かれた状況の中で人間の誠意、倫理を身に賭して貫くことは容易にできることではありません。特に近年、政界、官界、財界、民間ともに信義に悖る(もとる)行為や、我利我利亡者が平気でまかり通る世の中だけに、その感をいっそう深くします。しかし、そんな綺麗な生きざまがイデオロギーによって犬死のように言われ、弄ばれるのは、人間の世の中が薄汚くなった裏返しでしょう。篠原教官のような立派な人格が、軍人だった、配属将校だった、ヤマトンチュウ(本土人)だったという理由で、これまで顕彰されなかったのは人間としてはずかしいことです」

 海軍航空少年兵合格 座間味島・郷土防衛隊 宮平秀幸さん

「沖縄県民斯く戦へり。あのお言葉どおり、座間味もそうです。沖縄本島も軍民協力して一体になって、向かってくる米軍に対して戦いをやってきたのです。民間人は命も惜しまない、食糧も惜しまない、軍のために、国のために一生懸命真心尽くして戦ってきた」

「だけど戦争が負けてしまってあとはどうなってきたかというと掌を裏返したようになって、沖縄県民、どこと戦争していたのかわからないようになった。日本軍との戦争だったのか、アメリカ軍との戦争だったのか。もっぱら日本軍を悪く言っていますけど、そうじゃない。アメリカ軍と戦うために日本軍もいたし、日本軍は沖縄県民を守るためにここまで来ているんですよ。それを沖縄県民みな全員総動員で戦っているのに、戦争に負けてから全部日本軍が悪かったと言ってます。これは私、常識不足だと思います」

「批判するのはいいですよ。物書きの方々は人が傷つかないように書くのが常識です。真実とかけ離れて、ウソを書き上げていく、面白半分に書き上げていく。これは絶対許しがたい問題です。これは日本人ではありません



※1 勤皇隊隊長・篠原保司中尉。人格者として生徒に人気があった。


参考文献
 オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」
  『激論版 ゴーマニズム宣言 沖縄とアイヌ、同化をどう考えるか?』小林よしのり
 光人社「沖縄一中 鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
参考サイト
 3/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15] http://www.youtube.com/watch?v=HgZmKMHMMBE
添付画像
 首里城(PD)

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発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

左ノ電xx次官に御通報方取計を得度

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信が無く三二軍司令部又通信の余力無しと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず之に代して緊急御通知申上ぐ

沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど(ほとんど)顧みるに暇なかりき

然れ(され)ども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ僅に(わずかに)身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃のがれx中風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり

而も(しかも)若き婦人は卒先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦(ほうすいふ)は元より砲弾運び挺身切込隊すら申出るものあり

所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍衛門に捨つる親あり

看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思はれず

更に軍に於て作戦の大転換あるや夜の中に遥に遠隔地方の住居地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり

是を要するに陸海軍部隊沖縄に進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只々日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ遂にxxxx与へ、xことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形x一木一草焦土と化せん

糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ

沖縄県民斯く戦へり(おきなわけんみんかくたたかえり)

県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを


※文中のx部分は不明

日本のナイチンゲール・上原貴美子

沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。

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 大東亜戦争の終盤、昭和20年(1945年)4月1日、沖縄本島へ米軍が上陸しました。沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校(一高女)より志願した222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊、いわゆる「ひめゆり隊」は沖縄陸軍病院(通称・南風原(はえばら)陸軍病院)に看護要員として動員されました。

 沖縄陸軍病院では婦長4名(うち県外から2名)、看護婦86名が学徒たちを統率しながら看護にあったっていましたが、上原貴美子婦長の話が良く知られています。テキパキとした働きぶりと優しい心遣いで尊敬を集めていました。ひめゆり隊の証言を読んでいると「気丈な人」という言葉がでてきます。
 婦長の仕事は多忙で、次々倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話などいっさいが婦長の指揮でした。軍医の回診は4日に1度でしたが、上原婦長は看護婦達を激励しながら、毎日毎晩ガーゼのつけかえに回りました。各壕の見回り時に傷病兵たちは「婦長がきた」と手を叩いて喜んだそうです。

 婦長は糸満の出身で、地元の招集兵の入院患者には糸満の方言で話かけたそうです。「いがーちょーが」と声をかけたといいます。「どうしているか」という意味です。
 あるとき、婦長は麻酔なしの外科手術で痛みに泣く下士官に「帝国軍人がそんな弱音を吐いて、どうするんですか!」と喝をいれたといいます。

 第一外科の14号に配属されていた与那覇百子さんは、連絡のため壕を出ている間に自分の壕が艦砲射撃の直撃弾を受け、戻ってみると患者や同級生の頭は吹っ飛び、手や顔も無い胴体だけが壁にくっつき、脳みそや肉片が飛び散っているのを目撃してしまいました。気持ちを落ち着かせようとして上原婦長の壕にたどります。婦長は与那覇さんの報告を聞くと、
「これが戦争とうものよ。人間の命って、紙一重ね」と答え、「上地(旧姓)さん、疲れたでしょう。私の寝台に横になっていいのよ。しばらく寝ておきなさい」と勧めました。戦場の中で気を保ち、かつ心配りを忘れない、並大抵のことではないでしょう。

 沖縄師範学校の教諭だった仲宗根政善氏は生き残った生徒達の手記を集め本にしていますが、上原貴美子婦長のことを
「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。いや、日本の女性の中でもきわめてまれであったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護につかいはたしておられた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれた者はほかにはなかったであろう」と述べています。

 沖縄戦が終わる直前の6月19日、ひめゆり学徒隊は解散。それでも上原婦長は艦砲の合間をぬって各民家をめぐり歩き、たおれふした勇士をねんごろにいたわっていました。しかし、その日、山城の丘の上で、軍医と二人の看護婦とともに直撃弾を浴び、戦死。四人の中で生き残ったのは大城静子看護婦一人でした。

大城静子さん
「私は意識を失いましたしばらくして気が付くと婦長さんが私をだきかかえるようにして、私の上に折り重なっていました。・・・即死の状態でした」

 婦長がとっさに大城さんをかばったものと思われます。
 
 数年前に上原貴美子婦長をモデルとした2時間ドラマ「最後のナイチンゲール」が放送されたようです。テレビを見ない私は知らなかったのですが、戦場ではありえないような性描写があり、史実も捻じ曲げられていたといいます。ひめゆり隊にしてもそうですが、いくらフィクションとは言え、つい数十年前に純粋な心で日本のために命を捧げた人を、現代の利己主義、フェミニズム、3S政策(スクリーン、スポーツ、セックス)におぼれた世にあわせて貶めるようなドラマはやめて欲しいものです。



参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
 角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(編)
参考サイト
 WikiPedia「ひめゆり隊」「上原貴美子」

添付画像

 上原貴美子(PD)

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燃えよ剣 ~ 新選組・土方歳三

鬼の副長・土方歳三。

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 新選組副長の土方歳三は沖田総司と並んで現代でも非常に人気があります。

 土方歳三は武家の生まれでなく農家の生まれです。これは局長の近藤勇も同じです。歳三は十七歳のとき松坂屋に奉公にいきますが、番頭と喧嘩して石田村(現在の東京都日野市)に戻り、再び奉公に出ますが、女癖が災いし暇を出され、その後、実家秘伝の「石田散薬」の行商をしながら各地の道場で剣の稽古をし、近藤勇と出会い、天然理心流に入門します。

 新選組の局中法度には「士道に背きまじきこと」というのがあります。これは土方歳三が考えたといわれています。土方歳三は武家の生まれではないため武士に憧れ、武士とは、「武士道」というものを強烈に意識していたと言われています。土方歳三が後世に愛された理由の一つはこの士道であり、函館での壮絶な死に方があったからと思っています。もう一つはイケメンだったからか。よく沖田総司がイケメンといわれますが、そういう史実はなく、土方歳三がイケメンでした。

 明治2年(1869年)5月11日(新暦では6月20日)、明治政府軍の箱館総攻撃によって函館は占領され友軍が取り残されました。この時の五稜郭の軍議では篭城意見と函館攻撃意見にわかれ、函館攻撃作戦が取られます。おそらく土方歳三は函館政府は降伏すると考えて死に場所を見つけたことでしょう。
 新選組、伝習士官隊、額兵隊、松平、中島隊による熾烈な攻撃で明治政府軍と大激戦となります。

「燃えよ剣より」
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 ただ一騎、歳三だけがゆく。悠々と硝煙の中を進んでいる。
 それを諸隊が追うとしたが、官軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
 みな、茫然として歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく地に伏せて射撃している官軍の将兵も自軍の中を悠然として通過してゆく敵将の姿になにかしら気圧される思いがして、誰も近づかず、銃口を向けることさえ忘れた。

 この後、行く途中で明治政府軍の士官に何者か問われます。

 「新選組副長土方歳三」

と言ったとき、官軍は白夜に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。
 士官は兵を散開させ射撃用意させた上で、なおも聞いた。
 「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使なら作法があるはず」
 「今申したはずだ。新選組副長が参謀府に用ありとすれば斬り込みに行くだけよ」
 あっ、全軍、射撃姿勢をとった。
 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。
 が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音を立てて地にころがっていた。

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 こうして土方歳三は銃撃を受けて死にますが実際は函館での土方歳三の最期には諸説あって遺体がどうなったかもはっきりしていません。通説では流れ弾に当たって死んだことになっています。死体は五稜郭に運ばれ埋葬したとも納涼寺に埋葬したとも、息があって一旦近くの民家に運ばれたとも言われています。行方が伝わらないほどの乱戦、激戦だったということで、死に場所を見つけた土方歳三が戦闘中、事態打破のため単騎突入したとしても不思議はありません。

 函館政府はこの6日後に降伏します。函館政府の閣僚八名のうち戦死したのは土方歳三ただ一人です。このことも土方歳三の名をあげています。後年、これら閣僚の榎本、大鳥ら(明治政府で働く)は函館戦争の思い出を語るとき、土方歳三の話に及ぶと一様に何かしら苦渋に満ちた表情を浮かべて声をのんだといいます。武士として恥を感じたのでしょう。


参考文献
 新潮文庫「燃えよ剣」司馬遼太郎(著)
 学陽書房「土方歳三」三好徹(著)
 実業之日本社「新選組」松浦玲(監修)
参考サイト
 WikiPedia「土方歳三」
添付画像
 土方歳三(PD)

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新選組始末記 池田屋事変 http://www.youtube.com/watch?v=R2CtjndCOcE

鬼畜米英の所業 ~ 沖縄戦

鬼畜米英というスローガンは的を射ていた。

Slifemag

 大東亜戦争終盤、昭和20年(1945年)3月26日より沖縄地上戦が始まりました。圧倒的な兵力と火力を前に日本軍は沖縄本島の南に追い詰められていきます。

 6月15日、沖縄戦も終盤。沖縄上陸米軍最高指揮官バックナー陸軍中将は日本軍に降伏を勧告します。ここでバックナー中将が戦闘観望中に真栄里(まえさと)付近で日本兵に狙撃され死亡してしまいます。(日本軍の榴弾が落下して爆発し被弾説もある) 戦闘を優位に進めている軍の最高指揮官が戦闘観望中に死亡するのですから、米軍の護衛の失態でしょう。
 勝手に憤慨した米軍は以降無差別攻撃に入ります。※1 喜屋武半島の三集落に対して砲爆弾を倍にして攻撃します。避難豪を見つければ投降勧告を行い即座に応じなければ、洞窟の頂上からドリルで穴をあけ、青酸ガスを容赦なく注入したり、豪の入り口から火炎放射器による攻撃を行います。戦闘員・非戦闘員の区別などなく片っ端から殺戮していきました。毒ガスも非戦闘員への攻撃も当然、戦時国際法違反です。空からガソリンを撒き、火をつけ焼き殺し、逃げ出す住民を機銃掃射するという残酷な殺戮方法まで行っています。この所業、まさに鬼畜です。

 米軍は嘉数で住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺しました。前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものでした。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺されたといいます。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼりました。

真栄里 玉城千代さん

「若いものは(壕)の奥に入って、老人は前に並んでいたが、アメリカの兵隊に壕が囲まれて手を挙げたんですけど、手榴弾を投げられて、老人は揃って亡くなったんです。みんなで13名でした」

 この証言の日付がわかりませんが、民間人の投降も許さない掃討戦の時期と思われます。

真栄里 島袋勝子さん

「これは聞いた話ですけれど、アメリカ兵に壕の中にいるのを撃たれて、他は死んでしまって二人は残ったのがいますけれども、この人たちは壕の入り口にいたので助かって、奥にいるのは全部銃でやられていたそうです。それでこの人たちの話を聞いて見たら、このアメリカが事務所(役所)の方から上がってきたところは全部やられたわけですね、壕を全部あさって」

 これは伝聞を証言しているので、信憑性は弱いです。沖縄戦関係資料閲覧室の証言集を読んでいても真栄里や国吉の虐殺状況ははっきりしません。生存者が少ないというのが影響しているのかもしれません。毎日新聞社の「ドキュメント沖縄」を見ますと次のように書いています。


「前線に立った米軍司令官・バックナー中将が倒れ、戦死した。真栄里付近である。戦況に影響はなかった。ただ、米軍が報復で近くの住民を殺戮したともいわれるが、今になってははっきりしない。あったとしても『勝者』は、常に自己の『暗部』に寡黙である」

 どうやら、このあたりは伏せられており、住民が大量に死亡したという事実以外ははっきりしないようです。アメリカ兵の証言が一つだけ見られます。日と場所がわかりませんが、おそらく掃討戦の頃だと思われます。

アメリカ軍兵士クリス・ドナーの証言『ネメシス 日本との戦い 一九四四―四五年』(マックス・ヘイスティングス著、ハーパース・プレス社、ロンドン)

「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに沖縄戦がそうだった。(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
『地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、『あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!』と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった」


 こうした米軍の所業は語られず、いつの間にか「日本軍悪玉論」にすりかえられて沖縄戦は語られてしまっています。



※1 バックナー中将の死亡は関係ないという説がある。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之介
 藤原書店「ドキュメント沖縄1945」毎日新聞編集局 玉木研二(著)
参考サイト
 沖縄戦関係資料閲覧室 証言集 http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony.html
 加藤秀明コラム http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi
   杜撰な沖縄集団自決論  Date:2008/02/08 (Fri)

添付画像
 アメリカ=ライフ誌1944年5月22日号に掲載された日本兵の頭蓋骨を送ってくれた海軍のボーイフレンドに礼状を書いている写真。(PD)

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アメリカ軍の戦争犯罪
http://www.youtube.com/watch?v=4nxOqeW4nCo

海上特攻、沖縄へ向かった戦艦大和の使命

大和の使命は何だったのか。

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 昭和20年(1945年)4月7日、大東亜戦争、菊水作戦において米軍機動部隊の延べ380機以上の航空機による猛攻撃を受け沈没した戦艦大和ですが、なぜこの作戦が行われたか、本当に片道燃料だったのか、諸説あるようです。一億総特攻の魁(さきがけ)として作戦が立てられた、沖縄突入はハナから無理だがムードに押し切られてで作戦が決まったとか、沖縄県民を救えという機運の高まりから発案されたとか色々聞きます。
 
 沖縄県出身のジャーナリストの恵隆之介氏は防衛大学校時代に帝国海軍将校だった教官から
「大和は犬死だったといわれているが、実は崇高な使命を帯びていたのだ。この事実を忘れてはならない。お前にだけは言っておく」と聞かされたそうです。この教官は大和に乗り込むはずだったが、直前になんらかの事情で取りやめになったそうです。
 そして恵氏は昭和58年8月の「中央公論」に掲載された市橋立彦氏の文章を見つけます。市橋氏は塩野義製薬の原料課の係長でありながら「海軍大尉待遇嘱託」として軍でも働いていました。そのとき軍の療品廠長(軍の医療品調達部門)より命令を受けます。
「本日より一週間以内に、歯磨、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド(生理用品)15万人分を調達するために、協力してほしい。理由はいえない。直ちにカカレ」
 軍需品ではなく、民生用品であることは明らかです。そして市橋は物不足の時代の中なんとか掻き集めます。

 ・・・そして大和沈没。療品廠長がこう言います。
「市橋君、われわれが共に一週間たたかったあの四品目は、大和に積んだそうだ。沖縄県民のために残念なことをした。市橋君、本当にご苦労だった」

 この話を裏付ける証言や物証が今のところ無いので歴史の観点から確かなこととはいえませんが、作り話か?と考えると、昭和58年当時このような話を作っても意味がなさそうで、作るなら民生品という発想はないでしょう。真実と考えてもいいと思っています。そうするとやはり大和は沖縄にたどり着くことを前提においた作戦だったのか。
 草鹿参謀長が伊藤司令官に作戦の説明をしたときに伊藤司令官が
「援護の飛行機も無く、しかも片道燃料程度で作戦が成功すると思うのか」とつめよったとき、三上参謀が「本作戦は陸軍の総反撃に呼応して敵の上陸地点にのし上げ、陸兵になるところまで考えております」と回答しています。

 大和出撃の4月6日、午後6時、乗組員に正式な作戦伝達が行われます。特攻作戦だということが乗組員に知らされたのです。乗組員の海軍少尉・細田久一さん。

「(命令が伝達されたそのとき)顔色が変わりましたよ。真っ青になりました。私が前にいますから、見えますから、兵隊の顔が。ボクもなったかもしれません。それがね、若干しますとね、真っ赤に変わりました。よし、やったろうと。やるんだと」

 沖縄一中、鉄血勤皇隊の証言にも大和の話が出てきます。
「大和は沖縄本島の海岸線に乗り上げ、艦そのものが友軍の大砲台となるから、形勢は一気に逆転する」
「乗り上げたとたんに発電機が止まり、砲塔には弾一つ込められず、無用の長物となる。乗組員が上陸して戦おうにも舷側が海面上だけで40メートルもあり、どうして降りるのか」

 大和特攻は軍事機密ですが、勤皇隊は陸軍兵ですから、軍関係者からなんらか聞いたのかもしれません。

 軍事機密であるため大和乗組員もごく一部の高級将校しかしらない話なので真相はなかなかわからないかもしれません。戦艦大和を引き揚げる話がありますが、もし、この民生品あるいはこれ以外の民生品が出てくれば沖縄戦の見方も結構変わるかもしれません。




参考文献
 ワック出版 歴史通 2009.7月号別冊「歴史教科書に大和が載った」藤岡信勝
 ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
参考サイト
 WikiPedia「大和 (戦艦)」
 戦艦大和 悲劇の不沈艦 3/5  http://www.youtube.com/watch?v=1awMHFpT_J8
添付画像
 戦艦大和(PD)

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大和 帰還セズ ~運命の特攻作戦~
http://www.youtube.com/watch?v=5XEnAoC7ujg

沖縄戦前の疎開状況

疎開については対馬丸しか語られていないでしょう。

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 昭和20年、大東亜戦争の沖縄戦では島民を巻き込む惨事となりました。こういった惨事の話はよく聞きますが、政府、軍部は島民をどう避難させなかったのか?という疑問がでます。硫黄島では住民を避難させています。1000人ぐらいの島民がおり、軍属として徴用された者(約230名)以外は皆疎開しています。
 私が子供の頃、学校で「対馬丸」の事件を聞いた記憶があります。沖縄から九州へ船で子供達が疎開する途中に米潜水艦に撃沈され幼い多くの命を失った事件です。沖縄の子供たちは内地では雪が見れるとはしゃいでいたと記憶しています。(対馬丸の沈没は昭和19年8月22日)

 なんだか全然疎開もできておらず、いたずらに住民が巻き添えになったような印象を持ちますが、これは言論空間が偏っているからと思われます。

 昭和19年(1944年)7月7日サイパン玉砕。政府は緊急閣議を開き、第三二軍(沖縄防衛軍)守備区域(沖縄県・奄美諸島)の住民を島外に疎開させる方針を決定しています。これにより第三二軍は沖縄への輸送船の帰り便を利用して、九州、台湾へ10万人の島民を疎開させ、島内に残った住民は沖縄本島北部に避難させることにしました。司令部は那覇(本島南部)にあり、飛行場などの施設は中央部にあります。そのため北部に避難させることにしたようです。昭和19年12月には南西諸島警備要領として県側と協議会を開き、それを受けて県側は北部の国頭地方への避難計画を作成します。

 疎開はスムーズにいったかというとそうでもないようです。2旅団を乗せた富山丸が鹿児島を出航して、沖縄へ向かう途中に米潜水艦の攻撃を受け6月29日に撃沈されます。続いて8月22日に対馬丸が撃沈されます。対馬丸も軍籍に入っていたので、軍事機密として公表されませんでしたが、どこからか情報が漏れ、疎開学童や家族の安否を気遣う県民が県や市、学校につめかけたといいます。父兄はこうした敵潜水艦攻撃を心配したのと、敵は沖縄に上陸してこないかもしれない、学校が県外に分散し、疎開者と残留者に分かれて不利になる、とう理由で渋りました。学校の職員が総動員して説得にあたり、町内会や部落会を通じて疎開を奨励し、8月ぐらいからは逐次、宮崎・熊本・大分へと疎開していきました。

 対馬丸の事件を引き合いに出して、危険な海域だとわかっていて疎開させた、というような論調も聞きますが、これも一方向の見方であり、時間が経過すればするほど海域の危険度は増しますし、疎開では延べ187隻中、犠牲となったのは対馬丸の事件だけであり、約8万人が疎開でき、学童は約7000人が疎開できました。この事実はあまり語られていないと思います。意図的に隠しているように思います。
 沖縄本島北部には約8万人が疎開できました。米軍上陸後は北部へのルートが遮断されたため、計画に無かった南部に避難させました。しかし、第三十二軍(沖縄防衛軍)が南部に撤退すると知念半島を住民の避難地として指定しました。ここに避難した住民は助かっています。知念半島への避難が徹底できなかったことが住民の被害を大きくした直接原因になっています。



参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦(編)
 光人社「沖縄一中 鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
参考サイト
 WikiPedia「硫黄島 (東京都)」「対馬丸」
添付画像
 悪石島の対馬丸慰霊碑 (PD)

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沖縄戦は持久戦を予定してなかった

沖縄は本土決戦のための時間稼ぎ「捨石」にされたというプロパガンダ。

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 昭和20年の大東亜戦争沖縄戦は本土決戦の準備のため時間稼ぎで持久戦をとったという話を聞きます。実際は最初から持久戦を考えていたわけではなく、当初は沿岸決戦を計画していました。

 沖縄の戦力は当初歩兵三個師団と一個旅団、一砲兵団でした。昭和19年(1944年)10月に米軍がレイテに現われたため、台湾に展開していた一個師団と一個旅団をフィリピン戦線へ投入。そのため手薄に成った台湾防備の補充として、第三十二軍(沖縄防衛軍)の猛反対を押し切って第9師団を沖縄から抜いて台湾へ異動してしまったのです。この異動命令が出たとき、軍司令官、参謀らは夕食の最中でしたが、みな呆然自失になったといいます。
 沖縄防衛軍は米軍の上陸は島の中部・中頭郡の西海岸か、南部島尻郡の具志頭村の港川海岸付近と予想していました。そこで嘉手納地区に第24師団。普天間に第62師団。島尻に第9師団を配置し、いずれの地点から米軍が上陸しても水際で食い止め、南西諸島各地に造った15の飛行場や、九州台湾から出撃する航空機で撃滅する決戦態勢をとっていました。第9師団を抜かれたのでは島尻が無防備になります。結局、水際撃退作戦は中止となり、敵を誘い込む持久戦を取らざるを得なくなりました。

 こうした経緯や神風特攻隊、大和特攻などの事実があるにも関わらず
、「沖縄は捨石にした」と思いたくてしかたがない人もいるようです。こういうのは戦後、GHQによって軍と国民が対立するように洗脳工作をしたところに端を発しています。

戦後のGHQプロパガンダラジオ番組「真相箱」より
「沖縄戦では、日本は非常に変な作戦を行いました。米軍は上陸第一歩から、非常な激戦を予想して上陸したのです。ところが驚いたことには、四月一日にアメリカ第十軍団が侵攻を開始したときに、日本は殆ど何らの抵抗をも示さず容易に米軍の上陸を許したのであります。これは元来敵を撃退するには上陸地点において敵が橋頭堡(きょうとうほ)に集結しているときにこれを撃つのがよい方法で、敵が突入し始める機会を得てしまってからは、容易なことではない、という戦争の根本的な法則を無視した実に乱暴な戦法でした」

 沖縄戦では戦闘員、軍属以外のものたちは、北部の国頭に避難することになっていました。しかし、避難民が殺到して統制がとれず、一時中止したのと、米軍の進撃が予想以上であったため避難が間に合わず、首里城あたりの住民を南部へ避難させてしまいました。このため南部の喜屋武半島の狭い地区に多数の住民が避難したため軍人と住民が混在することになり住民は直接砲火を浴び、多大な犠牲になってしまったのです。この大きな痛みからGHQの洗脳が浸透し、ある種のイデオロギーが加わり、「捨石にされた」「軍がいたから集団自決がおこった」というようなプロパガンダが作られたものと思われます。




参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真実」秦郁彦(編)
 光人社「沖縄一中 鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
 小学館「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
参考サイト
 WikiPedia「レイテ島の戦い」
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 昭和20年4月米軍沖縄本島上陸(PD)

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「宮平証言」は真実か ~ 座間味島

自分にとってデメリットとなる証言。

Sokinawa

 宮平秀幸氏は昭和20年の大東亜戦争沖縄戦、座間味島の集団自決時の生き残りでしたが、その時の証言することを避けていました。その理由は集団自決は軍命令ということで座間味村は援護法の適用を受けて国から累計で億単位にもなる年金・給与金を受け取っていたからです。しかし、県民大会と地元メディアの狂乱ぶりを見て偽の歴史が代々伝えられることに危機感をもち証言を決意します。ところが「証言する」と呼びかけても地元の新聞社やテレビ局は「無視」しました。公明党本部に電話しても反応がありませんでした。そんなとき教育学者の藤岡信勝氏と出会い証言を始めます。

宮平秀幸陳述書より ------


 主に発言していたのは、助役の宮里盛秀でした。盛秀は「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私達住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだほうがいい。それで忠魂碑の前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾をください。」
 すると梅澤隊長は、「何を言うか!軍も明日敵がやってくるのに、補給も無く非常に困っている。戦うための武器弾薬も乏しいのに、民間人に武器弾薬を渡すのはもってのほかだ。あなた方を自決させるような弾薬などない。帰って、集まっている民間人を解放させろ」

(中略)

「俺の言うことが聞けないのか!よく聞けよ。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。あなた方に頼まれても自決させるような命令は持っていない。あなた方は、畏れおおくも天皇陛下赤子である。何で命を粗末にするのか。」

----------------

 「大江・岩波裁判」ではこの証言は「明らかに虚言」とされ却下されました。当然、過去の記憶ですので、記憶違いや後の記憶が入り交ざったりしていると思います。梅澤隊長の手記とも違いがあり、村の幹部とともに梅澤隊長に爆弾をもらいに同行した宮城初枝さんとの証言とも違いがみられます。また、宮平氏は過去に取材をうけており、その時の証言を翻して今回の証言をしているので、そういうところや他証言との食い違いが指摘されています。ただ一つ言えることはこの証言は宮平氏にとってデメリットにはなってもメリットは無い、ということです。証言は、村民、県民に睨まれるだけです。一族にも害が及ぶかもしれません。これらを考えると宮平証言は記憶違いや後付の記憶はあろうとも宮平氏の頭の中の「記憶」そのものであるといえます。

 住民は忠魂碑の前に集合するよう言われ、宮平氏は
「忠魂碑前での村長の解散命令がでた」と証言していますが、他の人の証言にはそれがない、と裁判所は一方的に断じましたが、裁判のあとに宮平精善(親戚ではなく他人)という島の人が忠魂碑に向かう途中「村長命令による解散が出たと聞いた」と証言しました。宮平氏の記憶と一致する証言が出現したわけです。また、宮平澄江さんという人が忠魂碑前で宮平秀幸さんに会ったと証言しています。残念ながら上告は却下されたので、この証言は陽の目をみることはありません。つまり、宮平氏だけが記憶違いや後付で作られた記憶を持っているわけではないということで、一方的に宮平氏の証言を虚言と断じるのは明らかに誤りでしょう。しかも、援護法適用によって肝心なところは言えない、ごまかすしかない証言を皆がしているのですから、余計に証言あわせというのはややこしくなります。「大江・岩波裁判」の判決は異常な結果だったと言えます。



参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦(編)
      『宮平秀幸証言の画期的意義』藤岡信勝
 高文研「母の遺したもの」宮城晴美(著)(第ニ刷)
参考サイト
 自由主義史観研究会
   座間味島集団自決の証言者宮平秀幸さんとの出会い http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi152.html
 大江・岩波沖縄戦 大阪高裁判決文
   宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について(240P) http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/251_300/k_hanketu/23.htm
 沖縄戦関係資料閲覧室 証言集 http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony.html

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 米戦艦テネシー 沖縄を砲撃(PD)

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梅澤手記(戦斗記録より)

 二十三日本島に先がけザマミに空襲始まる。直ちに戦斗配置につき壕に退避厳に秘匿し応射せず。折しもザマミには沖縄船舶団長大町茂大佐一行が視察の為来島し訓示の最中であった。当日夜一行は渡嘉敷の第三戦隊へ移られた。二十四日猛爆。二十五日は戦艦級以下海峡に侵入し来り爆撃と艦砲射撃で島は鳴動した。そして舟艇秘匿壕は落盤や直撃により使用不能となった。当夜より軍司令部からは敵の輸送船の位置が知らされて出撃するのが計画であったが、数百の島を取巻く艦船が無電妨害によりガーガーと雑音ばかりで受信不能、又出撃の基地そのものが襲撃されては特攻なぞ一片の夢と化した。よしんば出撃してもすぐ沖に取巻く装甲艦により瞬時に撃滅されてしまったであろう。
 二十五日夜二十二時頃戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が来訪して来た。助役宮里盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏及び女子青年団長宮平初枝さん(現在宮城姓)の五名。
 その用件は次の通りであった。
   1. いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。
   2. 老幼婦女子は予ての決心の通り軍の足手纒いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
   3. 就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。 
 私は情然とした。今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか
 私は答えた。
   1. 決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましょう。
   2. 弾薬は渡せない。
 しかし、彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開し忠魂碑近くに落下したので彼等は急いで帰って行った。
 これで良かったとホッとしたが翌二十六日から三日位にわたり、先ず助役さんが率先自決し村民は壕に集められ次々と悲惨な最期を遂げた由である。
 この五人も宮城初枝さんだけ生存し他は皆自決された。私は戦斗間村民が数多く亡くなったと報告を受けたがこんなことが行われたとは知らなかった。昭和三十三年頃マスコミの沖縄報道が盛になり始めて知った。


 梅澤氏の手記も記憶違いや後付の記憶が入っている可能性はある。梅澤隊長にとって当時は戦闘準備に忙殺され、住民のことを考えるゆとりはなかったと思われる。また、集団自決について騒ぎ出したのは手記中では戦後13年もたってからである。そこからの記憶の掘り起こしとなる。ただ住民に構っていられない状況から「今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか」「彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った」というのは心の中の大きな印象、感情であり、頷ける話である。
 宮城初枝さんの娘、宮城晴美(著)「母の遺したもの」(第二刷 改竄される前のもの)によると初枝さんが梅澤氏に
「夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら5人で隊長の元へ伺いましたが、私はそのなかの一人です」というと梅澤氏はすぐに理解できなかった様子で、初枝さんがさらに「(玉砕)命令したのは梅澤さんではありません」というと梅澤氏が「ほんとうですか」と聞き返している。梅澤氏自身が本部壕での出来事をよく覚えていないと考えられる。
 梅澤氏が戦後座間味を訪れて忠魂碑に花を手向けているが、抵抗無く花を手向けている。また梅澤氏は部下の話には熱心だが、住民の話題には興味をあまり示さなかったという。宮城晴美は住民に「玉砕命令」を出したのは梅澤氏ではないと確信している。(後に改竄)
 宮平証言、梅澤手記、宮城初枝さんの告白、どれも相違点があるが、どれも梅澤隊長が「玉砕命令」を出したとは言っていない。


1/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15]
http://www.youtube.com/watch?v=v2cDcydrvW0



 宮平秀幸氏の証言によると忠魂碑前の出来事が述べられている。「村長の訓示」があったこと。村長がどこに立っていたかも覚えている。また、照明弾の明かりによって宮城初枝さん家族がいたことも述べている。姉弟で見間違えることはないだろう。家族同士で会話も交わしている。
 宮城初枝さんの手記によると初枝さんは役場の重要書類を持ち出して忠魂碑の前に運んでいる。このとき途中で妹と出会っている。一旦役場に戻って二回目を運ぶときに照明弾が飛んできて、艦砲射撃が始まったため、忠魂碑前に行くことを断念した、と書いている。初枝さんが持ってきたと思われる書類を秀幸氏は忠魂碑の横に置いたと証言している。この点は証言同士のつじつまが合っている。
 宮城初枝さんと行動をともにしていた宮平澄江さん(学校職員)が宮平秀幸氏に忠魂碑前で会ったと証言している。澄江さんは初枝さんと役場の書類を忠魂碑まで運んだと言っておりこれは初枝さんの証言とあっている。しかし、初枝さんの証言には弟である宮平秀幸氏と会った話は出てこない。また澄江さんの話には村長の話は出てこない。

 宮里美恵子さんの証言によると艦砲射撃の間隙をぬって忠魂碑にきてみると、校長先生とその奥さん、一家族がいたと証言している。これは艦砲射撃が始まってからだから遅い時間に忠魂碑前にいったと思われる。

 どうも忠魂碑前の出来事については証言者の口が重い印象を受ける。タブーになっていると思われる。

座間味島集団自決のタブーか

沈黙を守った山城安次郎氏。

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 1945年3月25日の夜、23日からの艦砲射撃と米軍上陸の噂でパニック状態になった村の幹部は死ぬなら皆一緒に死のうと軍命令と偽り村民を忠魂碑の前に集合させます。「自決」のための手榴弾を支給してもらおうと村の幹部が本部壕の梅澤戦隊長を訪ねますが、「自決なんかするな!」と怒鳴られ追い返され、集合していた村民は村長から解散命令が出ます。
 15歳だった宮平秀幸氏は家族と自分の壕に戻る途中に国民学校の教頭をしていた山城安次郎氏に出会います。山城氏は軍服姿に帯刀していました。

宮平秀幸証言より

山城氏
「民間人が何で今頃こんなところをうろついているのだ。みんな立派に自決しているのに、お前たちは自分で死ねないのか。意気地なしどもが。刺し殺してやるからそこへ並べ。」

宮平氏の祖父
「先生、夕べは皆で自決だといって忠魂碑の前に集めておいて、今度は軍が弾薬をくれないから自決はしない解散だという。また、先生はここで死ねという、どっちが本当なんですか」

宮平氏の母親
「整備壕や第二中隊壕の兵隊さんたちは、死なずに頑張れといっていたのに、どうして死ななければならないのですか」

宮平氏
「先生や役場の人は死ねというが隊長や兵隊さんは、生きろと言っている。玉砕命令は誰の命令ですか」

山城氏
「梅澤隊長の命令ではない。昨日(25日)の午後、村の三役が産業組合壕に集まり、そこで皆で決め、助役の宮里盛秀の命令として出させたのだ。そして各壕を回って、軍の命令だといって忠魂碑の前の広場に集合するように伝達させたのだ。」

 
 宮平氏は海軍少年兵に志願し合格しましたが、戦局の悪化により船がなく、島に待機しており、軍の伝令役をやっていました。宮平氏の回想では自分の立場の発言が決定打となり山城氏は引き下がったとしています。
 村の幹部がパニック状態だったことがわかります。狭い島ですから逃げるところはありません。島民への指揮系統は軍ではなく村の幹部にあります。恐怖と村民への責任からパニックになっていたのでしょう。

 玉砕命令は助役の宮里盛秀からであると女子青年団員をしていた宮城初枝さんが告白しており、話は一致します。村の幹部は産業組合壕で15家族、67人が自決し、助役は三八歩兵銃で自決していました。しかし、全員を殺せるほどの銃弾は村にはなく、頭部が割られた状態で死んでいた人がいました。自決が行われた壕のほとんどでは生存者や目撃者がいるのですが、ここでは一人もおらず、謎とされています。

 山城安次郎氏は後に沖縄テレビ社長となり、県文化功労者賞を受賞するまでの成功を収めています。彼は座間味で米軍保護下の中で住民より隔離されていたといいます。その後、座間味を去ります。彼は座間味での出来事は徹頭徹尾沈黙を守り1995年に八十五歳の生涯を閉じます。栄光をつかんだものの苦悩にも満ちた人生だったのかもしれません。




参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦(編)
      『沖縄タイムズと山城安次郎の神話を追う』江崎孝
      『宮平秀幸陳述書』
 高文研「母の遺したもの」(第ニ刷)宮城晴美(著)

参考サイト
 検証・沖縄集団自決高裁判決 -あなたなら、どのような審判を下しますか?-
  http://www.jiyuu-shikan.sakura.ne.jp/tokushu/tokushu10.html
 沖縄戦関係資料閲覧集 証言集 慶良間諸島
  http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony.html
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 沖縄県座間味村にある座間味島・高月山展望台からの眺望。手前が座間味港、対岸左側に阿嘉島が見える。Photo by Si-take. Sep.2005

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 座間味の宮里ナヘさんの証言に「お前達、今頃逃げてもどうしようもない。こっちに
並べ、すぐ殺してやるから」と盛んに呼びかけている老人の話が出てくる。山城氏は学校の教頭であり、島では有名人だし、当時35歳だから老人とはいえない。別人と思われるが、証言者があえて有名になった山城氏を伏せるため、ごまかしたとも考えられる。座間味の証言では不思議と山城氏の名前が出てこない。山城氏は師範学校卒で尊敬され、村の唯一生き残りの幹部であるはずだが・・・
 座間味が米軍に占領されたとき、住民は収容所に収容されたが、山城氏は村はずれの鉄条網で封じた祠の中に一人だけ隔離された。絶えず二人の米兵が厳重な警備に当たっていた。住民の殺し合いはその後タブーとされていたが、酒の席では話が飛び出したという。そして山城氏は座間味を去り本島へ行った。ほとんど座間味島に帰ることはなかった。

苦しんだ果ての照屋昇雄さん証言 ~ 渡嘉敷島

赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった。

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 大東亜戦争・沖縄戦時に渡嘉敷島で集団自決がありました。このことについて軍の強制があったかのように語られていますが、照屋昇雄さんが貴重な証言しています。戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった人です。やはり「援護法」という年金や弔慰金の支給が絡んでいました。同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上し、村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得、照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出しました。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったといいます。
 平成18年(2006年)の証言映像では照屋さんは
「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話しています。

「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」曽野綾子著より
-----------
 昭和四十五年三月二十六日午後五時過ぎ、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺族十数名は大阪から、二十八日に渡嘉敷島で行われる「二十五周年慰霊祭」に出席のためやって来た。
 午後五時、赤松元大尉は、黒のレインコートにショルダーバッグをかけ、清酒一本を下げて軽々と日航機から降り立つ。彼が入域手続所でカメラマンに囲まれながら歩いている間に、空港エプロンに集まっていた抗議団は「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕をエプロンにはりつけた。
 やがて赤松元大尉の耳にも、シュプレヒコールが聞こえる。
「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」
 聞こえてくるのはシュプレヒコールばかりではない。
「今頃沖縄に来て何になる」
「県民に謝罪しろ」
「おまえは沖縄人を何人殺したんだ!」

------------

 このようなことをされては本当に照屋さんは胸が張り裂けそうだったでしょう。

 照屋昇雄さんの話だと赤松隊長は島民から神様のような人といわれており、照屋昇雄さんもそう感じたと言っています。昭和45年3月、赤松隊長は
「この問題はいろんなことを含んでいるのでソっとしておいてほしいと言ったはずだ」と那覇で述べています。おそらくこれは「援護法」のことを言っているのでしょう。



参考文献
 WAC「沖縄戦・渡嘉敷村『集団自決』の真実」曽野綾子(著)
 PHP「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
参考サイト
 WEB「正論」渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言 元琉球政府の照屋昇雄さん
  http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0608/web-news0827-1.html
添付画像
 渡嘉敷島(PD)

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【反戦平和の島・沖縄の真実】照屋昇雄氏 証言[桜H21/9/28]
http://www.youtube.com/watch?v=IR12z1Fm4-4




 照屋さん手記

 この問題は援護近の恩恵を受けるために赤松隊長(赤松隊長は神様のような良い方であった)の同意を得て(援護金を取るため)当時の村長玉井氏と二人で(極秘密で)当時暗謝市場小附近にあった渡嘉敷屋宿小で赤松隊長の身になって自決命令状を書いた。
 玉井村長はこの作文嘘の命令書に隊長自宅に行き印鑑押印して日本政府厚生省援護課に提出、島民を援護法の恩恵に属せしめ極貧から救ったのである。真実である。ところが新聞人の耳に真実のことが入ると大変なことになる。偽造文書違反、偽造援護金横領等大きく悪口書報道される時代であったので村民官民あげて極秘密主義を徹底いたしました。真実実態です。
 昭和35年後世に真実は照る。

<考察>
 沖縄集団自決冤罪訴訟は上告が棄却され確定しました。判決ではこの照屋昇雄氏証言は赤松隊長の生前の言動にはまったく出てこないため「信用できない」としている。しかしながら、本文中にある赤松隊長の「この問題はいろんなことを含んでいるのでソっとしておいてほしいと言ったはずだ」という言と、部下の連下氏が「本当のことを言ったらどうなるのか、大変なことになるんですよ」と述べていることから、援護法のことは認識されていたと思われる。照屋さんは「口外すると沖縄では生きていけない」と語っており、自己にデメリットしかない証言である。裁判所の「信用できない」という結論は「言えなかった」照屋さん、「言えない」赤松隊長という人情を考慮しないひどい結論である。

沖縄戦では日本軍がいたところで集団自決が発生したのか

阿嘉島のことは隠されている。

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 大東亜戦争沖縄戦で「日本軍がいたところは集団死が発生した」というのを聞いたことがあります。座間味と渡嘉敷、その他ガマ(自然洞窟)、壕で日本軍と一緒だったところで集団自決が起こったと。
 座間味と渡嘉敷の集団自決は有名ですが、実は阿嘉島(あかしま)にも日本軍が居て、米軍が上陸しており、ここでは集団自決は発生していません。このことはおそらく意図的に隠されています。

 阿嘉島の青年義勇隊だった中村仁勇さん

「(3月)26日の斬り込みの晩、防衛隊(現地召集兵あるいは民間組織部隊)の人たちが戦隊長のところへ来て、『部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』と聞いたわけです。『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです」

 そして380名ほどの住民は自決するつもりで杉山に集まりました。

「翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が3名ついているのが見えました。後で聞いたのですが、糸林軍医が2名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分達を一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったのです」

 中村仁勇さんによると、この後、
「生きられる間は生きようじゃないか」と誰かがいいだし、逃げれるだけ逃げようということになったと述べています。機関銃というと渡嘉敷島の集団自決が頭に浮かびます。警察官だった安里喜順氏の話だと「友軍の機関銃でも借りて、死のうということになって残って歩ける人たちは(軍の本部へ)行ったのです」。これを赤松隊長が断り、敵の追撃砲が飛んできて住民はパニックになっています。
 阿嘉では軍医がいざというとき、住民を銃殺するつもりであったのかどうかはわかりませんが、住民は殺してくれると安心し、パニックにならずにいたわけです。軍人が居たから助かったということです。

 ひめゆり隊の証言でも隊が解散後、壕に軍人と一緒におり、8人で自決か国頭突破かの議論をしていると、日本兵の上官らしい人が
「貴様ら、出て行け!出て行かないと叩き切るぞ!」と軍刀を抜いたため、8人は驚いて「一緒に殺してくれるといったのにおかしいな」などと、ブツブツ言いながら壕を出ると、壕でバーンと手榴弾が爆発する音がしました。自決したのです。これも軍人がいたから助かっています。
 そもそも「日本軍がいたところで集団自決が起こった」というのは日本軍が居たから投降できなかった、自決せざるを得なくなった、ということを言っており、これは前提として、米軍に投降すれば助かる、米軍は親切、自決というのは酷いこと、とういうのがあります。しかしながら、米軍は掃討戦で、軍民構わず殺戮しており、十十空襲でも無差別爆撃しています。当時、米軍に投降すれば助かるという意識は持ちにくいでしょうし、助けてくれたのは掃討戦後がほとんどでしょう。また米軍は親切というのもとんでもなく、住民の収容所内ではマラリアが発生し、粗末に扱われ、戦後直後など強姦事件、住民射殺事件などが多発しています。「自決」というのは当時、尊厳ある死という価値観です。沖縄はニライカナイ信仰で、祖先崇拝だから、先人の尊厳ある死を大切にするはず。既に前提からおかしいでしょう。こういうのは何らかの目的のプロパガンダに過ぎないということです。



参考文献
 WAC「集団自決の真実」曽野綾子(著)
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真実」秦郁彦(編)
参考サイト
 沖縄戦関係資料閲覧室 証言集 http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony.html
 沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
   阿嘉島・慶留間島の戦闘(海上挺進第2戦隊) http://www.okinawa-senshi.com/aka-geruma.htm

添付画像
 阿嘉島ニシバマ(北浜)ビーチ Author:TomazVajngerl
  米軍の一個大隊がここから上陸した。

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渡嘉敷島・死線を越えた人たちの再会

「集団自決」問題で騒いでいるのは関係ない人たち。

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 大東亜戦争沖縄戦の集団自決問題でクローズアップされた渡嘉敷島。昭和45年(1970年)、日本軍の責任者であった赤松元大尉は渡嘉敷村から慰霊祭のスケジュールを受け取ります。そして赤松元大尉は出席の意向を伝え、3月26日に那覇に到着しました。そこで大ブーイングを浴びます。

「赤松帰れ!」

「人殺し帰れ!」

 そして赤松元大尉は村の人々とともにその場を後にします。つまり、赤松元大尉を非難しているのは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たちなのです。

 赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができませんでした。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席します。

 同行した皆本元少尉の話。

「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」

 慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが書いています。

琉球新報(三月二十九日付)

「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」

沖縄タイムス(三月三十日付)

「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」

 慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊ったそうです。私の手元の本にそのときの写真が一枚載っています。「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのでしょう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけないでしょう。

 島に渡れなかった赤松元大尉はモーターボートをチャージし、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図します。誰に向けたのかはわかりませんが、おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのでしょう。あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情、戦後生まれの私などにはわからないものがあるのだと思います。

 平成19年(2007年)、沖縄で集団自決軍命令の教科書記述削除に抗議する、いわゆる11万人集会(実際は2万人弱)に参加した渡嘉敷村の人はゼロです。



参考文献
 WAC「沖縄戦・渡嘉敷村『集団自決』の真実」曽野綾子(著)
 オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『渡嘉敷島集団自決軍命令はなかった』皆本義博/但馬オサム

添付画像
 渡嘉敷島(PD)

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米軍に投降すれば沖縄県民は助かったのか

米軍は助けてくれたという神話。

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 米軍が撮影した沖縄戦の映像などをみると民間人が助け出された映像が良くあります。「アメリカ軍は民間人を助けてくれたのだ」という印象さえ持ちます。子供の頃、この映像をみたことがあり、学校の先生から散々叩き込まれた「日本軍悪玉論」とあいまって米軍は善玉だったと思わされていました。また、「鬼畜米英」という宣伝もウソだった、といって軍に対して批判調だったのも「はだしのゲン」というマンガで読んだ記憶があります。

 実際には戦争ですから、投降して助かった人がいたというのは一面に過ぎません。沖縄の地上戦は昭和20年(1945年)3月26日から始まっています。6月中旬はアメリカ軍は掃討戦として無差別攻撃を行い、喜屋武(きゃん)半島に砲爆撃を倍加して軍民構わず全滅状態に陥らせました。これはもう投降どころではないですね。国吉で捕虜になった住民がいましたが、うち男子は全員銃殺されました。
 さらにアメリカ軍は避難壕を発見すると投降勧告を行い、即座に応じなければ、洞窟の頂上にドリルで穴を開け、青酸ガスを容赦なく注入し、あるいは壕の入り口から火炎放射器による攻撃を行って軍民の区別なく片っ端から殺戮したのです(毒ガスも非戦闘員への攻撃は戦時国際法違反)。ひめゆり学徒隊の証言を読むと投降勧告から2,3分でガス弾を投げ込まれたという証言があります。まさに
鬼畜米英ではありませんか。投降して助かった多くはこうした掃討戦が一段落してからです。

 それからアメリカ軍はインディアンを殺戮ハワイを乗っ取った白人の集合体というのは沖縄県民も知っていることでしょう。フィリピンでも原住民を数十万大虐殺しました。また昭和19年(1944年)10月10日の沖縄空襲は民間人が標的にされています。これでは投降して助けてもらうという発想などおきにくいでしょう。
 
 「鬼畜米英」「米兵に捕まると婦女子はもてあそばれた上、刺殺される。男は道に並べられてローラーで下敷きにされてしまう」「自決することが美しい」などと軍が宣伝したように言われていますが、政府や軍部が公式にこの種の残酷物語で国民の恐怖心を煽った例は無いようです。これらはマスコミによるものが主と思われます。有名なのはライフ誌の転載でボーイフレンドが送ってきた日本兵の頭蓋骨を机の上において手紙を書くアメリカ人少女の写真があります。日本の新聞は
「奇怪なるこの写真、これこそ肉を食い骨をしゃぶる米鬼の正体・・・」と書いています。

沖縄新報
「敵米獣にたいする憎しみ、憤りは日本一であるはずだ」
「県民の戦闘はナタでも鍬でも竹槍でも・・・」
「鉄砲がないなら竹槍でいこう、竹槍が折れたら唐手でいこう」


県議会
「われら一同協心、特攻精神を以て敵米英を撃滅」

 軍部の認識を見てみますと、八原博通大佐の回想では、
 
「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿らせるべきではない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手まといになる」

とあります。これは疎開していない県民を島北部に住民を避難させる計画をたてるときの話で、避難民が日本軍と遮断されたとき、アメリカ軍の手に落ちます。しかし、文明国の軍隊だから住民にひどいことはしないでしょうと言っています。

 アメリカ軍に投降すれば助かっていた、とか、軍あるいは政府が恐怖を煽り、戦闘意欲を高めたような話は戦後の後付であり、実際には結果助かった人がいるという一面を述べているに過ぎずアメリカ軍は殺戮者であり、恐怖を煽り戦意高揚していたのはマスコミでした。



参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦(編)
 光人社NF文庫「沖縄に死す」小松茂朗(著)
 角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之介
参考サイト
 WikiPedia「沖縄戦」

添付画像
 壕を爆破する米軍(説明では壕に隠れた日本人と書かれている PD)

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