日本のナイチンゲール・上原貴美子
沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。
大東亜戦争の終盤、昭和20年(1945年)4月1日、沖縄本島へ米軍が上陸しました。沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校(一高女)より志願した222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊、いわゆる「ひめゆり隊」は沖縄陸軍病院(通称・南風原(はえばら)陸軍病院)に看護要員として動員されました。
沖縄陸軍病院では婦長4名(うち県外から2名)、看護婦86名が学徒たちを統率しながら看護にあったっていましたが、上原貴美子婦長の話が良く知られています。テキパキとした働きぶりと優しい心遣いで尊敬を集めていました。ひめゆり隊の証言を読んでいると「気丈な人」という言葉がでてきます。
婦長の仕事は多忙で、次々倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話などいっさいが婦長の指揮でした。軍医の回診は4日に1度でしたが、上原婦長は看護婦達を激励しながら、毎日毎晩ガーゼのつけかえに回りました。各壕の見回り時に傷病兵たちは「婦長がきた」と手を叩いて喜んだそうです。
婦長は糸満の出身で、地元の招集兵の入院患者には糸満の方言で話かけたそうです。「いがーちょーが」と声をかけたといいます。「どうしているか」という意味です。
あるとき、婦長は麻酔なしの外科手術で痛みに泣く下士官に「帝国軍人がそんな弱音を吐いて、どうするんですか!」と喝をいれたといいます。
第一外科の14号に配属されていた与那覇百子さんは、連絡のため壕を出ている間に自分の壕が艦砲射撃の直撃弾を受け、戻ってみると患者や同級生の頭は吹っ飛び、手や顔も無い胴体だけが壁にくっつき、脳みそや肉片が飛び散っているのを目撃してしまいました。気持ちを落ち着かせようとして上原婦長の壕にたどります。婦長は与那覇さんの報告を聞くと、「これが戦争とうものよ。人間の命って、紙一重ね」と答え、「上地(旧姓)さん、疲れたでしょう。私の寝台に横になっていいのよ。しばらく寝ておきなさい」と勧めました。戦場の中で気を保ち、かつ心配りを忘れない、並大抵のことではないでしょう。
沖縄師範学校の教諭だった仲宗根政善氏は生き残った生徒達の手記を集め本にしていますが、上原貴美子婦長のことを「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。いや、日本の女性の中でもきわめてまれであったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護につかいはたしておられた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれた者はほかにはなかったであろう」と述べています。
沖縄戦が終わる直前の6月19日、ひめゆり学徒隊は解散。それでも上原婦長は艦砲の合間をぬって各民家をめぐり歩き、たおれふした勇士をねんごろにいたわっていました。しかし、その日、山城の丘の上で、軍医と二人の看護婦とともに直撃弾を浴び、戦死。四人の中で生き残ったのは大城静子看護婦一人でした。
大城静子さん
「私は意識を失いましたしばらくして気が付くと婦長さんが私をだきかかえるようにして、私の上に折り重なっていました。・・・即死の状態でした」
婦長がとっさに大城さんをかばったものと思われます。
数年前に上原貴美子婦長をモデルとした2時間ドラマ「最後のナイチンゲール」が放送されたようです。テレビを見ない私は知らなかったのですが、戦場ではありえないような性描写があり、史実も捻じ曲げられていたといいます。ひめゆり隊にしてもそうですが、いくらフィクションとは言え、つい数十年前に純粋な心で日本のために命を捧げた人を、現代の利己主義、フェミニズム、3S政策(スクリーン、スポーツ、セックス)におぼれた世にあわせて貶めるようなドラマはやめて欲しいものです。
参考文献
PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(編)
参考サイト
WikiPedia「ひめゆり隊」「上原貴美子」
添付画像
上原貴美子(PD)
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