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2011年7月

闘将・角田覚冶、テニアンで戦う

一機の飛行機もなくなったテニアン基地。

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 昭和19年(1944年)6月15日、アメリカ軍はサイパン島に上陸。テニアン島はサイパン島からわずか5キロのところにあります。海岸には水面が見えないほどのアメリカ艦隊で埋まり、全島に砲撃の黒鉛が立ち上がり、無数の米軍将兵が上陸用舟艇から海岸へ飛び降りるさまがよく見えました。

 第一航空艦隊司令長官の角田覚治中将は参謀長の三和義勇大佐を呼んでこういいます。
角田中将
「参謀長、一航艦の各基地に電命を打とう。全機発進、敵機動部隊を攻撃せよ、だ」
三和大佐
「長官、それは・・・」

 第一航空艦隊は連合艦隊の指揮下にあるので、連合艦隊の指令にないことを命令することはできません。すれば違反として軍法会議にかけられます。連合艦隊はマリアナ基地の全航空兵力を投入してアメリカ艦隊と最後の決戦をする予定でした(19日にマリアナ沖海戦)。しかし、連合艦隊はまだ後方にいます。連合艦隊が来るのを待っていたのでは、テニアン基地が攻撃を受けて戦わずして航空兵力が壊滅する可能性があります。

「かまわん、命令違反だろうと抗命の罪はこの角田が負う。いずれテニアンもサイパンと同じ運命を迎えるだろう。このまま待機して戦闘もせず敵の餌食になれというのか」


 そしてテニアン飛行場から戦爆部隊の百余機が残らず敵艦目指して飛び立っていき、ほとんどは未帰還となり、第一航空艦隊は壊滅しました。

 7月7日、サイパン玉砕。7月11日からテニアン島は空襲を受けます。そして艦砲射撃も激しくなります。そして7月24日、アメリカ軍の上陸用舟艇がテニアン港に百隻以上接近してきて、日本軍が砲撃して一旦撃退。ハゴイ港からもアメリカ軍が上陸してきて、守備隊が応戦します。そして夜になると夜襲を敢行しました。

 米軍はゆっくりとしたスピードで北から南へ進んできました。日本側は軍民、南へ南へ追い詰められていきました。第一航空艦隊はもはや戦力にはなりません。角田中将も幕僚も南へと歩いて移動していきました。

 第一航空艦隊飛行士の横森直行少尉はこのときのことを次のように書いています。
「この間に見た数々の様相は、地獄の一丁目とも思われるもので、何十年たっても忘れない。
 暗闇に黙々と歩く列があった。荷物を持ったもの、持たぬもの、車をひくもの、いろいろいるが、目的もなく歩いているようだ。ときどき米軍の撃った照明弾が上がる。パラシュートがついていて、ゆっくり降りるが、青白がかっていて実に明るい」


「行列はこのとき、だれいうともなく停止する。何か悪いことでもしているように、お互いの視線をさけている。なぜか皆の目が海軍の軍服を着ている私にきびしいようである。
 誰も一言もしゃべらない。止まっているときは目をつぶって溜息をつくだけである」


 人々は黙々と島の最南端「カロリナス山地」へ向かっていきました。



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
   『抗命の罪はこの角田が負う テニアン島で最後まで闘志を失わず』野村敏雄
添付画像
 破壊されたテニアンの集落(PD)

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H23.08.01 サイパン・テニアン戦の日付の誤りを修正。

通州事件

教科書が書かない通州大虐殺。

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 昭和12年7月30日東京日日新聞(現在の毎日新聞)号外
 「通州で邦人避難民三百名殆ど虐殺さる」
 「半島同胞二百名も気遣はる」


 当時の人は号外を見て驚いたでしょう。通州事件は昭和12年(1937年)7月29日冀東防共自治政府保安隊(支那人)が日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。新聞見出しの「半島同胞」というのは朝鮮人(当時は日本国籍)のことです。虐殺の行われ方は極めて残酷であり、鬼畜の仕業です。

 昭和12年8月4日東京日日新聞 夕刊
 「通州保安隊反乱の全貌」
 「近水楼に弾丸集中」
 「比類なき鬼畜行動」
 「我居留民に暴虐の限り」


 支那保安隊は日本居留民の家を一件残らず襲撃し、無辜の居留民に対して掠奪、暴行、陵辱、殺戮など残虐のかぎりをつくしました。支那人特有の猟奇的な殺害方法です。お決まりの虐殺方式は「頭部を切り落とし」「眼球を抉り取り」「今日腹部を断ち割り」「内臓引き出し」「陰部突刺」というものです。

 通州へ救援に赴いた支那駐屯歩兵第二連隊小隊長の証言
「守備門の東側を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極に達した。『日本人はいないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切り取られた老婆、腹部を銃剣で突き刺された妊婦の死体がそこここの埃箱の中や壕の中などから続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され、惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってあるもの等、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を突き通し、一家六名数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
 
 この残酷な虐殺手口は昭和3年(1928年)の済南事件と全く一緒で、支那の虐殺文化です。
 
 この通州大虐殺の3週間前に盧溝橋事件が勃発しており、停戦しても支那軍が執拗に挑発、攻撃を繰り返していました。デマを流すので有名な南京放送が「盧溝橋で日本軍は支那二十九軍に惨敗」「蒋委員長は二十九軍を以って大挙冀東を攻撃し、偽都・通州をほおむり・・・」と事実と正反対の報道を流すと冀東保安隊は動揺しました。そして機先を制して自治政府の要人を生捕りにし、日本人を殺戮すれば恩賞にあずかれると考えてこの事件に至ったようです。

 この通州の虐殺事件を戦後のGHQの情報操作「真相箱」ではそのまま日本軍の南京虐殺という"でっちあげ"に流用したと思われます。「真相箱」の南京事件の項では
「集団的な掠奪、テロ行為、暴行等人道上許すべからず(日本軍の)行為」「日本軍の捕虜となった中国兵を集め、これを4,5人ずつロープで縛り、束にして惨殺」「日本軍兵士は街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で刺殺し・・・」と報道しています。通州の支那兵の行いと酷似しています。

 この事件はこの年の12月に冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い解決しています。しかし、歴史の観点では事件当時、日本人は激昂し、「恨みは深し通州城」という歌まで作られたほどで、猟奇的大虐殺事件として刻まれなければなりません。ところが戦後、GHQの焚書と検閲により事件は歴史から抹殺されました。教科書には記載されていません。歴史の年表にも記載されていないものがほとんどのようです。



参考文献
 日新報道「南京の真相」
 小学館「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『酸鼻極めた通州事件』田中秀雄
参考サイト
 WikiPedia「通州事件」

添付画像
 通州事件を報じた新聞(PD)

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通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造.mpg
http://www.youtube.com/watch?v=JZl9wUDt5U4

沈黙の角田覚冶

海軍絶好のチャンスだった。

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 昭和19年(1944年)2月17日、千葉県の海軍香取基地では近く基地から戦地へつぎつぎと向かう予定であったので壮行会を行う予定でした。横森予備少尉らは銚子の「大進」の店へ先発で行き、準備を進めていました。ところが壮行会は急遽中止。横森予備少尉ら翌明け方には魚雷運搬を命じられ、テニアンに向かいます。

 2月17、18日にトラック島の基地が米軍に空襲され、マリアナ海域も風雲急を告げたのでした。2月21日角田覚冶中将がテニアンに赴任。角田中将は島を視察しましたが、そのあまりにも貧弱な防備施設に顔は不機嫌に歪みました。

「いったい大本営は、この一年間何をしてきたんだ!」

 テニアンの飛行場には引込線はないし、掩体壕(えんたいごう 航空機を敵の攻撃から守るための格納庫)もない。地下燃料庫も、弾薬庫の施設も貧弱で、第二、第三の飛行場をつくろうにもブルドーザー類の土木機械もない。そこへ米軍の空襲がはじまり、飛行機125機を損失してしまいました。

 そんな中、5月30、31日、新鋭の彩雲偵察機と彗星を使った偵察でトラック島から約2000キロ東のメジェロ環礁、クエゼリン環礁、に米軍機動部隊、上陸用の輸送船がゴッソリいることがわかります。既にマーシャルに敵機動部隊がいた場合、撃滅する「雄作戦」が練られており、千載一遇のチャンスがやってきたわけです。

 「見敵必戦」の闘将・角田覚冶がこれを見逃すはずがありません。テニアン基地は久々の殴りこみ攻撃の機会到来に沸きに沸きます。みな角田長官の命令を今か今かと待ちます。横森飛行士や偵察した後藤飛曹長は催促します。

「長官、攻撃命令を早く出してください」「準備はできてますよ」

 しかし、角田中将は沈黙したままです。現地の払暁には攻撃をしかけないと効果が少なく味方の損害が大きくなります。出撃時刻には制限があります。

 再び横森飛行士と偵察した後藤飛曹長が長官室に入り、催促します。

「長官、早く命令を出してください」

 それでも角田中将は沈黙したまま、バルコニーに出て、行ったり来たりするだけです。飛行場では催促の試運転の爆音が鳴り響いています。

 そして遂にタイムアップ。後藤飛曹長は
「飛行士、戦争は負けたよ」とつぶやき去っていきました。飛行場の爆音は全部止まり、テニアン基地は静かな夜となりました。

 実は角田中将率いる第一航空艦隊は連合艦隊の麾下(きか)に移っていたので指揮権がありませんでした。連合艦隊は「雄作戦」に航空部隊の練度が不十分なことを理由に消極的でした。「見敵必戦」の闘将・角田覚冶の心中は「沈黙」がすべてを物語っているでしょう。

 確かに、この後のマリアナ海戦を見てみれば航空部隊の練度が低いことは明らかで、米軍の対空兵器は進歩していたし、海軍の暗号は解読されており、実行しても奇襲にはならないでしょうし、日本軍の損害も大きかったでしょう。しかし、マリアナ、トラック、第三艦隊と戦力を分散しているいずれかに敵大艦隊が押し寄せて応戦するよりも、総計800機の戦力を集中して先制攻撃をかけたほうがはるかにマシだったと考えれます。たとえ1ヶ月でも2ヶ月でも敵のマリアナ上陸を遅らせれば、その分、マリアナの防御陣地構築は進みますし、陸戦も長く持ちこたえることができ、敵の戦力もそれだけ消耗します。そうすれば沖縄戦は無かったかもしれません。※1



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
   『抗命の罪はこの角田が負う テニアン島で最後まで闘志を失わず』野村敏雄

添付画像
 クェゼリン島の戦い(PD)
 第7師団の兵士が火炎放射器を使い日本兵を陣地からいぶり出そうとしている。ほかの兵士は小銃を構え日本兵が出てくる場合に備えている。日本守備隊は秋山司令官以下玉砕。

※1 連合艦隊はこの後、ビアク作戦を展開し、テニアンから航空戦力を異動させた。しかし、マリアナに米艦隊が現れたため中止。テニアンの航空隊は米軍のサイパン上陸時に全機出撃。マリアナ海戦はその後の6月19日。結局、戦力を分散し、各個撃破された。

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ポツダム宣言受諾は日本の無条件降伏ではない

戦後、日本は無条件降伏したと教えられた。

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 昭和20年(1945年)7月26日、連合国よりポツダム宣言が発せられました。ポツダム宣言はアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、第二次世界大戦に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた、全13か条から成る宣言です。8月10日に日本側は受け入れの旨を連合国側へ通告。最終的には8月14日、駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告しました。翌8月15日に国民に発表されました(玉音放送)。これにおいて大東亜戦争の戦闘は終結。9月2日降伏文書に調印しました。

 降伏文書調印の四日後の米国統合参謀本部からマッカーサー宛の通達文書
「・・・われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、その範囲に関しては日本側からの如何なる異論も受け付けない」

 とんでもない話です。ポツダム宣言は契約文書でない、日本は無条件降伏したのだから何やってもいいよ、というものです。ポツダム宣言は「日本軍の無条件降伏」を規定しており、日本政府のそれではありません。第五項で述べているように「条件は左の如し」と書かれている通り条件付降伏なのです。これはアメリカ側も認識しており、米国務省がポツダム宣言と占領政策の比較検討を行っており、その文書に「この宣言は日本国及び日本国政府に対し、降伏条件を提示した文書であって、受諾されれば国際法の一般規範により国際協定をなすものであろう」「国務省の政策は、これまで無条件降伏とは何らの契約的要素も存しない一方的な降伏のことだと考えていた」と、条件付降伏であることを認め、政策の矛盾を指摘しています。

 条件付降伏であるにも関わらず、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)はポツダム宣言をたてに憲法の改正を要求しました。ポツダム宣言には憲法改正に相当するようなことは書かれていません。ハーグ陸戦法規では占領軍は占領地の現行法を尊重しなければならず、国際法違反になります。しかも憲法の内容も彼等が作っています。
 ポツダム宣言では「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確定されるべし」と言っておりますが、検閲、焚書によって徹底的に言論弾圧、思想の自由を侵害したのはGHQであったのは言うまでもありません。
 9月15日、GHQ民間検閲支隊長ドナルド・フーバー大佐が同盟通信社社長、古野伊之助や日本放送協会会長、大橋八郎ほか日本のマスコミを呼び声明を読み上げました。

「・・・同盟通信社は15日正午を期して日本の国家通信社たるの地位を回復する。同社の通信は日本国内に限られ、同社内に常駐する米陸軍代表者によって100%の検閲を受け、電話、ラジオおよび電報によって国内に頒布(はんぷ)される・・・」

 シベリア抑留も九項の「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復員し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」に反しています。

 言論空間を押さえたGHQは日本人にポツダム宣言受諾を「日本の無条件降伏」であったように信じ込ませ、GHQの政策を正当化し、マスコミや教育界に日本弱体化、国家解体のイデオロギーを注入していったのです。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編集)
 小学館「『真相箱』の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
参考サイト
 Wikipedia「ポツダム宣言」

添付画像
 降伏文書に調印する梅津美治郎(PD)

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ポツダム宣言の骨子

1. 吾等(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与える。
2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。
3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ドイツとドイツ軍が完全に破壊されたと同様、日本と日本軍が完全に破壊される事を意味する。
4. 日本が軍国主義者の指導を引き続き受けるかそれとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5. 吾等の条件は以下のとおりであり、これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない。
6. 日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。
7. 第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
8. カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。
9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
10. 日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人の処罰。民主主義的傾向の復活強化。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段のみを保有出来る。戦争と再軍備のためのそれは認められない。
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立。これが確認されたら占領は解かれる
13. 全日本軍の無条件降伏。以上の行動に於ける日本国政府の誠意について、同政府による保障が提供されること。これ以外の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅のみ。

「加藤中尉は飛んでいるか?」 ~ 南太平洋海戦の角田覚冶

声泣き声を聞く。名将の条件。

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 昭和17年(1942年)10月。大東亜戦争日米戦はガダルカナルの戦闘が激化し、見敵必戦の闘将・角田覚治中将はトラック島進出の命令が下りました。角田少将率いる第二航空隊の「隼鷹(じゅんよう)」「飛鷹」「瑞鳳」は10月4日、日本内地を出発。

 10月26日、日本海軍南雲部隊と米ハルゼー部隊が激突。南太平洋海戦と呼ばれる戦いがはじまります。南雲部隊は第一次、第二次攻撃隊を発進させます。角田少将はこのとき「隼鷹」と4席の駆逐艦を指揮しており、南雲部隊とは離れていました。そのため艦載機を発進できず、「全速前進」を命じます。

 南雲機動部隊は敵機動部隊を発見して約3時間後、米空母ホーネット攻撃隊の来襲を受け、旗艦空母「翔鶴」が飛行甲板後部に3発、右舷に1発の爆弾を受け、南雲中将は指揮権を角田少将に渡しました。

角田少将
「本艦の位置は、敵機動部隊より330海里(カイリ 約600キロメートル)。まだ飛行隊の行動範囲外である。だが、本艦は全速力で飛行隊を向かえにいく。諸子の健闘を祈る」

 つまり飛行機の航続距離から考えて、まだ攻撃圏外にいるわけですが、空母を敵機動部隊に近づけるから今発艦しても帰艦可能だというものです。

 「隼鷹」の攻撃隊は米空母エンタープライズに至近弾、戦艦サウスダコタに1発、防空巡洋艦サンファンに1発命中させました。南雲部隊の攻撃隊も一部「隼鷹」に収容し、第二次攻撃隊15機を編成し発艦させます。今度はホーネットに魚雷をぶちあてました。

 さらに角田中将は第三次攻撃隊の編成を命じます。既に使えそうな機は艦爆4、戦闘機9しかなくなっていました。艦爆の飛行隊長・山口大尉と分隊長・三浦大尉は戦死してしまい、先任将校は加藤舜孝(かとうしゅんこう)中尉でした。加藤中尉はこの年の7月に「隼鷹」に乗艦したばかりで最若年の偵察将校でした。度肝を抜く敵の防御砲火にさらされ、飛行隊長、分隊長を失ったショックは大きかったでしょう。加藤中尉の艦爆隊攻撃報告はおろおろしてろくに舌が回っていないほどでした。それから数十分しかたっていないところへ、奥宮航空参謀がきて、「加藤中尉、もう一回願います」と言います。

「また行くんですか」

 なんとひどい司令官(角田)だと思ったことでしょう。せめて奥宮航空参謀にはわかってほしかったのにと恨んでいると思える返事の仕方です。そこへ戦闘機隊長の志賀大尉が割り込み、
「トンちゃん(加藤中尉のあだ名)、戦争だぞ。敵にトドメを刺さなきゃ」と言います。加藤中尉は「行きます」と率直に答えました。

 第三次攻撃隊、艦爆隊4機はゼロ戦に守られながら、空母ホーネットに突撃し、「全弾命中」の報告が入りました。奥宮航空参謀は電信室の伝声管にかじりついており報告を聞いていました。すると角田少将が突然こういいます。

「加藤は飛んでいるか?・・・それはよかった」

 どうやら角田少将は加藤中尉の心中を察しており、気にかけていたようです。声なき声を聞く、これは名将の条件でありましょう。
 第三次攻撃隊は全機帰還。南太平洋海戦は日本海軍史上でも偉大なる光彩を放ち、角田覚冶の不朽の名声が刻まれることになりました。



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
  PHP研究所「歴史街道」2008年8月
    『只今より航空戦の指揮をとる 最後の勝利を呼んだ南太平洋海戦』松田十刻
    『この人が起動艦隊を率いていれば 航空参謀が見た艦橋の司令官』奥宮正武
添付画像
 日本軍の空襲下にある空母 エンタープライズ(PD)

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「各艦、探照灯つけ」闘将・角田覚治、ダッチハーバーへ

角田覚治のこころ。

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 昭和17年(1942年)6月。ミッドウエー作戦の陽動として角田覚治少将率いる第二機動部隊はダッチハーバーを攻撃します。5月3日に竣工したばかり商船の改造空母「隼鷹」を使っての攻撃です。商船のエンジンは速度変換する空母には不便であるばかりでなく、空母の発着関係の諸装置をマスターするには時間がありませんでしたが、1ヶ月でそれをやってのけました。当時の海軍では常識やぶりだったといいます。

 6月4日、この日は悪天候でしたが角田覚治少将は艦載機を発進させます。翌5日、この日も攻撃機を発進させ、やがて薄暮を迎えるころ、艦載機が1機、また1機と帰ってきました。この日も天候が悪く、搭乗員は機を操縦するだけで精一杯でした。角田少将は危険を承知で電波を発信しました。ところが一機の艦上爆撃機が被弾しており、無線の送信はできるものの受信ができない状態に陥っていました。艦上爆撃機が緊急電を打ってきます。

「我、機位を失す。探照灯つけられたし」

 暗い海上で探照灯をつけると敵哨戒機や潜水艦に空母が発見される可能性があり、発信電波だけでも危険であるのに、さらに大変危険な行為になります。一機のために大勢の命を危険にさらすことはできません。

「我、燃料、後五分」

 悲痛な叫びが艦橋に届けられてきます。艦橋は沈黙に閉ざされました。その時、

「各艦、探照灯つけ!」

と角田覚治少将から決然とした命令が発せられます。周りに居た参謀たちは驚いて角田覚治少将を見ます。この時、後に大本営参謀となった奥宮正武少佐は「搭乗員二名の命を救うために母艦を犠牲にされるおつもりですか」と言いたいのをぐっとこらえ、(いいや、これが提督の戦い方であり生き方なのだ)と思い直したそうです。

「唯今より着水自爆す」

 残念なことにこの機はこの打電を最後に消息を絶ちました。角田覚治少将は無言のまま海を見つめていましたが、やがて
 
「搭乗員は若かったのだろうなあ」

奥宮正武少佐
「はい・・・搭乗員は若かったと・・・」

 角田覚治は見敵必戦の闘将だっただけでなく、日本海軍の誰しもが出来なかった航空と艦砲を両立させて戦法を編み出した戦術家でもあり、兵士をとことん愛しかつ慕われた人望の将だったと言えるでしょう。誠の武士です。


参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
  『各艦、探照灯つけ 荒天のダッチハーバーで示した部下への思い』秋月達郎
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
参考サイト
 WikiPedia「角田覚治」「アリューシャン方面の戦い」

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見敵必戦の闘将・角田覚治

海軍では少なくなった闘将派。

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 「見敵必戦」・・・敵を発見すれば徹底して戦う。これを貫いたのが角田覚治中将です。

 大東亜戦争当時の海軍は慎重派が主流でしたが、山口多聞少将と角田覚治中将は闘将派でした。このほかスリガオ海峡を突進した西村中将、大和特攻の伊藤中将も闘将派と言われています。
 角田覚治中将は砲術畑で航空畑の源田実大佐が「石頭」「古臭い鉄砲屋」と称したといわれていますが、実際には空母を任されたとき、大変な勉強、研究をしており実戦において航空畑出身者を唸らせたと言います。

 昭和17年(1942年)ミッドウエーの悪夢から4ヶ月後の10月26日、南太平洋において南雲機動部隊は米機動部隊と決戦となります。しかし、二空母が被弾。南雲中将は指揮権を角田覚治少将に譲ります。そして角田覚治少将は空母隼鷹を敵空母に向けて驀進させます。通常、空母は航空機を発進させたあと敵艦載機の攻撃を回避する動きをするものですが、この角田覚治は敵に向け空母を突進させたのです。他艦の乗員は、
「槍を抱え敵陣に突っ込んで行く騎馬武将の様だった」と回想しています。

 一見無謀にも見えるこの行為ですが、航空機の航続距離を考えると敵に突進させるほうがアウトレンジからの先制攻撃が可能になるのと、反復攻撃が可能になるというメリットがあります。またこのときは被弾した二空母の艦載機を収容することができ、その艦載機を攻撃に使用することができました。角田覚治は
「本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という壮烈な命令を出したといいます。この角田覚治の奇抜な作戦と闘志によって日本軍は勝利。米軍は南太平洋における稼動空母が一時的に皆無となり「史上最悪の海軍記念日」と嘆かせました。

 角田中将は空母の高角砲で敵基地を砲撃したり、空母から商船を攻撃撃沈させるなど奇想天外のことを行い戦果をあげています。空母の大砲は破壊力は小さく、対艦攻撃用に使われることはありませんでした。しかし、いつも訓練ばかりで出番の無い砲員に実践での機会を与えたのです。もちろんきちんと戦術的にも計算されていたでしょう。それに加えて砲員の士気が落ちないような配慮があったわけです。

 角田中将はこうした闘将としての面でだけでなく、部下にも思いやりを持った人でした。大東亜戦争の緒戦から、航空作戦行動中、戦死または行方不明になった兵から士官まで、全員の身上調査と写真を残していました。戦争でもし生き残ったら全国を回って、戦死した部下の家を訪ね、供養したいと夫人に語っていたといいますから、このような書類を残していたのだと思われます。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
参考サイト
 WikiPedia「角田覚治」

添付画像
 角田覚冶(PD)



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沖田総司と菊一文字

天下に名を轟かせた天才剣士。

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 新選組の沖田総司は土方歳三と並んで現代でも人気があります。イケメンだったといいますが、そういう史実はなく、後世の創作と思われます。

 天才剣士と呼ばれた沖田総司は通称「菊一文字」という刀を持っていたと伝えられています。正式には「則宗」(のりむね)と言い、福岡一文字派の祖で備前国の刀工の作です。後鳥羽上皇が定めた皇位の紋である16弁の菊紋の銘が入っていたため菊一文字と称するようになったようです。

 さて沖田総司はどうやってこの刀を入手したのか。本当に菊一文字を持っていたのか。沖田総司は奥州白河藩の下級武士の子で貧乏口減らしのため近藤周助のもとに預けられています。金はありません。

<松田十刻著「沖田総司」>
上洛の際に姉ミツより沖田家先祖代々に伝わる加州金沢長兵衛藤原清光を持たされる。・・・菊一文字じゃない。

<三好徹著「沖田総司」>
京都で病で余命いくばくもない恋人「おあい」の両親が持っていたもので両親はどこかの大藩の武士だったらしい。その「おあい」から貰う。

<司馬遼太郎著「新選組血風録」>
懇意の刀屋、播磨屋道伯が沖田総司にほれ込み「貸す」と言って総司にそのまま持たせた。


 バラバラですね。話は大方創作というところですが、菊一文字逸話というのはほかにも医者の娘から貰ったとか聞いたことがあり、結構数あるんですよね。沖田総司は江戸で病のため死去したのですから実家の関係者に刀が残っているはずですが、菊一文字は残っていません。 WikiPediaを見ると子母澤寛の伝記から「沖田の刀は“菊一文字細身のつくり”」というのを司馬遼太郎氏の創作で広まったとしています。加州清光(上記松田氏の小説)、大和守安定の記録が残っているようです。とはいってもいくつも刀を変えますので完全には否定できないようですが。

 京の都にその名をとどろかせた天才剣士、志半ばで二十五の若さでこの世をさった沖田総司。その京の風景と若き剣士の姿を思い浮かべると「菊」と「一文字」の言葉が合っており、維新の時代ということもあり後鳥羽上皇ゆかりの名刀はピッタリはまります。日本人がそう思いそう創り、後世の日本人の心にも染み入って今現在も語られているのでしょう。



参考文献
 PHP文庫「沖田総司」松田十刻(著)
 学陽書房「沖田総司」三好徹(著)
 角川文庫「新選組血風録」司馬遼太郎(著)
 実業之日本社「新選組」松浦玲(監修)
参考サイト
 WikiPedia「則宗」「沖田総司」

添付画像
 沖田総司終焉の地 AUTH:koichiwb氏

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新選組始末記 池田屋事変
http://www.youtube.com/watch?v=R2CtjndCOcE

仏印進駐、ベトナム人が見た日本軍の印象

日本軍は規律正しかった。

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 昭和15年(1940年)9月23日、日本軍は「松岡-アンリ協定」に基づいて仏印(ベトナム)へ進駐しました。ベトナム人は日本軍についてについてどう思ったでしょうか。

 『仏印進駐記』(日本の記者の著、昭和16年10月 GHQ焚書図書開封2より)
「市民たち、殊にフランス人たちは、案外な気持ちをありありと顔にも口にも現した。それは長い間の悪意ある宣伝にのって、野蛮な日本軍、乱暴者の日本人、を信じきっていた人々であった。
 彼等は"日本軍が来る"という一言を聞いたその瞬間から、あらゆる最悪の事態を想像していたのである。上を下へ、まるで戦場のように無秩序になり、荒涼と荒み果てるであろうサイゴンの街頭風景を妄想して、ひそかに恐れ戦いて(おののいて)いたのである。
 あるフランス人は聞くほうで赤面したくなるような露骨な言葉で彼等が想像していた『日本軍の野蛮さ』について語った。それらはすべて過去四年間の支那事変途上蒋介石の宣伝機構及び敵意ある二、三の外国によって合作された『物語』だったのだが、仏印の中だけしか知らぬ単純な人々は、何の躊躇もなしに、今日までそれを信じてきたのである」


 国民党宣伝部のプロパガンダが広まっていたことがわかります。

「その人々は、現実に日本軍の進駐を見、そして日を経るに従って段々驚きの念を増していった。
 それではあれほどしばしば尤もらしく語られ、そして自分達もまた何の気も無く頭から信じていた『悪魔のような日本兵』に関する物語は全くのウソだったのか。
 現に見る日本兵は、大人しく店の飾り窓などを眺めながら三々五々街を歩いている。彼等はまるで子供のようなあどけない笑顔をしているではないか。ブス(三輪タクシー)のクーリーにまといつかれて困惑しきっているではないか。仏印でも、支那などでも同じように土人たちは、人の顔さえ見れば乞食になって手を出すのが習慣になっているが、子供など抱いた女に手を出されると彼ら日本兵は何か日本語で言いながら小銭をやっているではないか。
 これが話に聞いていた『悪魔のような日本兵』なのだろうか。案外である。実に案外である。
 夜になるとごく少数の将校以外は、日本兵の姿など街中の何処にも見られない。それも十時、十一時になると、憲兵の一隊が自動車で街中を巡視して歩くほどの秩序である。案外である。実に案外である」


 戦後、我々は支那のプロパガンダと同じように、日本軍は大陸で残虐なことをやっていた、と教え込まれましたが、全くのウソです。日本軍の規律はとても厳しいもので陸軍刑法では強姦罪は「無期または7年以上」の懲役です。住民の財物を略奪したら1年以上の懲役、戦死者や戦傷者から物を取り上げても1年以上の懲役になるのです。

 以降、日本軍とベトナム人の関係は良好だったようです。昭和20年3月、日本軍がクーデターを起こし、フランス植民地政権を打倒しました。ベトナムの人々は日本を信頼し、日本人の「礼節をわきまえた態度」やその軍事行動に見る「的確で迅速な動き」、「規律ある行動」、あるいは日本軍人たちが住民に示す「温和でやさしい態度」「さすがニッポン!」と賞賛したといいます。



参考文献:
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 明成社「日越ドンズーの華」田中孜(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)

添付画像
 ホイアンの日本橋。鎖国前、交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ、今でも現地の人に大切に使われている。提灯にフェホォと書いてあるが、これは当時のこの町の呼称である。世界遺産。Auth:Y.Shishido氏2002年5月

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仏印進駐、フランス人が見た日本軍の印象

世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族。

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 昭和15年(1940年)欧州大戦真っ只中の6月にフランスがドイツに降伏しました。日本は支那事変の泥沼に入っていました。フランスはベトナムを植民地としていました。ベトナムではアメリカやイギリスがフランスの商人を使って、支那の国民党政府に軍事物資を送っていました。中立義務違反をしていたのです。
 日本はアンリ駐日フランス大使と交渉し、8月30日「松岡-アンリ協定」を結び、9月23日に日本軍の仏印進駐を開始します。軍事物資を送るルート(援蒋ルート)を遮断するためです。

 日本軍の仏印進駐当時のサイゴンのフランス人向けの新聞に書かれている内容には日本軍に関する記事があります。(GHQ焚書図書開封2より)
「(フランス人が)日本との協力の場合はどうなるのか。今日の事態は既にそれを説明しつつある。すなわち日本の兵隊が仏印に入ってきた。しかしそれは一時的な、そして純粋に軍事的なものでしかない。彼等は手薄になった仏印の防備力を補うためにやってきたのだ」

 「仏印の防備力を補うため」というのは「松岡-アンリ協定」のことを言っています。協定では仏印(ベトナム)の領土保全とフランスの主権を尊重しています。
 
「もっとも日本が仏印の軍事的利便供与を要求した真意が、単にここにのみあったと考えるならば、それは余りにも幼稚な考えであろう。むろん日本には、ほかになんらかの目的があってのことに違いないのだが、それは我々の関知しないことである。(解説:援蒋ルートの遮断のことです)
 我々にとって最も大切なことは、日本は厳粛に印度支那の領土と主権の尊重を約束したことで、我々は、世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族の名に於いて、伝えられたこれらの言葉を、深く信用すべきである」


 「世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族」と言っていますね。日本は義和団事件や日露戦争などで「道義的、公明」という評判だったのです。悪口ばかり言っていたのは支那です。このあたりは現代もそうですね。英国BBCの調査「世界に良い影響を与えている国」の常に上位にランクインされる日本ですが、支那の日本評価は全く逆です。

 ベトナムにやってきた日本兵は規律正しく、音楽隊が音楽会を開いたりしていました。規律が正しいから夜、町に出歩くようなこともしないし、現地はみな歓迎ムードであったようです。フランス人は日本民族は聞いていた通り、道義的で公明だと言っています。支那は「残虐極まりない日本兵」というプロパガンダを流していました。しかし、いざ、日本軍が入ってきてみると聞くと見るとで大違いだったという記録もあります



参考文献
 オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『私の人生と思想』西尾幹二
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
添付画像
 1910年のサイゴンの通り(PD)

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支那軍は残虐で非道

支那の非道をマスコミはひたかくしにします。

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 昭和12年8月13日、支那軍3万が上海の日本海軍陸戦隊6千を包囲攻撃。第二次上海事変の勃発とともに、支那事変が始まりました。

 日本軍は支那の大軍とドイツ式近代装備、トーチカ(コンクリートで固めた陣地)に手を焼きますが、10月26日には要所である大場鎮を陥落させました。11月5日、日本軍第十軍が杭州湾に上陸し、決定的な転機となります。支那軍は大慌てで南京めがけて敗走しました。これ以降日本軍は追撃戦に移ります。

歩兵上等兵従軍記「征野千里」谷口勝(著) 昭和13年12月(GHQ焚書図書開封より)
「私たちは食事もなにも忘れて一斉に進撃した。道の両側の民家は全部火が放たれて燃え上がっていた。燃え上がる民家は中に弾薬が隠していたものか、轟然たる大音響をあげて空に噴きあがったり、あるいは焔の中で幾万と言う小銃が次々に炸裂して花火のような綺麗さだった。私たちはこの中を走って進軍する。
『おい、さっきの山のトーチカ見たか』
『そんなもの見とれるかい』
『いやわしは見たがな、どれだけわしらがトーチカ抜いて後ろへ回っていても射ちつづけていやがったろ。その筈だ。奴らァ三人足を鎖で結へられていたぞ。弾薬をトーチカ一杯につめられてなァ』
 憮然たるものがあった。
『射つよりほかに仕方なしさァ』
 大軍は南京へ、南京へ!と驀進する」


 上海から南京へ向かうときに兵士が書いた記録です。トーチカでは銃口が開いていて、そこから銃を撃ちます。支那軍が退却時に民家に隠していた武器を燃やして、トーチカに兵士を鎖で縛って残して退却したのがわかります。日清戦争でも「拉夫」と言って支那では各地から無理やり拉致したりして成人男子を連れてきて兵士にしています。そのため士気が低く、散兵させると逃げるので、このようなことをやっていました。日本軍兵士は日清戦争の話を聞いていると思いますが、実際に見て憮然としたようです。
 このやり方は支那だけでなく、イギリス軍もインド軍の兵士に機関銃を持たせて木に縛ったり、アメリカ軍もフィリピン人兵士に対して同じことをしています。支那の場合は、同胞に対してそのようなことをするのが特徴です。

「一等兵戦死」松村益二(著) 昭和13年10月(GHQ焚書図書開封3より)
「僕たちは敵を撃退せしめた。彼ら(敵)の部隊の宿舎になっていた民家を掃討したとき、家の中に支那の夫人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼ら(敵)はどうして自分の兄弟を虐殺しなければならないのか。僕たちには解く事ができない謎である」

 まったく日本人には理解できないですね。

「支那の農民が殺されている。素はだかにひきむかれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ」

 これは支那軍兵士は常識的にやっていたことです。戦闘前に掠奪して民間の着物を隠し持って用意したり、軍服の下に着ておいたりもします。用意していなかった兵士は敗残兵になったとき民家に押し入り民間人の服を掠奪するわけです。服だけでなく何もかも。

「小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけてるのに泣いて抵抗した故なのであろう」

 よく支那側から日本軍が大陸で残虐非道なことをしたという話を聞きます。南京虐殺もその一つです。でもこれは全部、支那が自分達のしたことを日本がしたことにすりかえているだけなのです。プロパガンダなんですね。ときどきプロパガンダもヘマがあったりしてバレバレのウソがあったりします。例えば支那は日本が三光作戦という作戦をやったといい、「三光」というのは「焼き尽くす、殺しつくす、奪いつくす」のことなのですが、日本語の「光」には「明るい」という意味しかなく、「焼き尽くす、殺しつくす、奪いつくす」という意味は支那語にしかないのです。辞書を引けば誰でもわかります。日本軍が支那語の作戦名などつけませんね。




参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
添付画像
 上海事変、上海郊外を移動する支那兵(PD)

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第二次上海事変は大戦争だった

日本の侵略などどこにもない。

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 昭和12年(1937年)8月の第二次上海事変はなるべく教えないよう、報道しないようされているといわれています。日本軍の陸戦隊の兵力と支那軍の兵力が知られると「日本の侵略」が成り立たなくなるからだそうです。山川の高校用教科書を見てみると・・・ズバリ!盧溝橋事件は書いてありますが、第二次上海事変はスルーしていました。第二次上海事変は4万の死傷者で、内1万余の戦死者です。支那事変の緒戦であり、最大の戦闘だったにも関わらず教科書が無視しているのですから明らかに意図的でありましょう。

 7月7日の盧溝橋事件から続くたび重なる挑発に8月9日、大山中尉殺害事件が発生。上海市長や6カ国からなる停戦協定共同委員会は支那側に謝罪と停戦協定を守るように勧告しますが、支那は戦争を始めるつもりであり、謝罪するつもりはありませんでした。このとき上海には海軍の陸戦隊が2,200名。日本人居留民は2万数千いました。危険を感じた日本軍は呉と佐世保から応援部隊を送り、あわせて4,000.そして支那軍は上海を3万で包囲しました。4,000の日本海軍陸戦隊が3万の支那軍相手に侵略戦争を始めるなど笑止千万。戦後いかにウソがばら撒かれてきたかわかろうものです。

 8月13日には支那軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始し、上海大戦争が始まります。この上海での策略は蒋介石配下の張治中が作成したもので、ドイツのファルケンハウゼンら五百数十人のドイツ軍事顧問らとともに実行されました。日本人居留民は2万人あまり、それを守る海軍陸戦隊は4,000人、これらを殲滅する行為にでれば日本軍は増援部隊をよこすので、それらをトーチカでかためた内地に誘引し、日本軍十数万程度を殲滅する作戦です。
 8月15日に蒋介石は全国総動員令を発し、大本営を設置し、蒋介石は総司令に就任します。15日には増派し、7万の大軍で日本海軍陸戦隊を攻撃。日本軍も横須賀と佐世保の陸戦隊を追加派兵しましたが、それでも合計6,300名。最終的に日本軍は陸軍計九個師団を投入しますが、日本は大戦争を想定しておらず兵を逐次投入したため日本軍は大苦戦を強いられます。
 10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功します。10月26日に上海近郊の要衝大場が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入りました。日本側死者1万あまり、負傷者3万あまり。

 第二次上海事変は宣戦布告していないので「戦争」と言っておらず、「事変」と言っています。しかし、内容は大戦争だったのです。これにはわけがあり、宣戦布告するとアメリカが中立法にしたがって石油などを禁輸してくるとおもったからです。これは支那側も同じ条件です。前線では松井石根大将が内閣へ宣戦布告要求しますが、近衛内閣は「ノー」という回答でした。内閣は現場とは別の構想を考えていたのです。(後の蒋介石政府は相手にせず)

 盧溝橋事件、上海事変、南京事変など日本が侵略目的で戦争を始めて拡大していったのではないことがよくわかります。昭和12年(1937年)8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが・・・」と報じています。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じてます。

 日本の侵略などどこにもありません。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)
 山川出版社「もう一度読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」「日中戦争」
添付画像
 上海事変に出動した日本海軍陸戦隊(1937年7-8月):3000名程度の兵力では中国軍に正面から対抗できないので,華北に続いて,華中へも日本軍は増援部隊を派遣する。(PD)

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実録 支那事変1/4
http://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc

実録 支那事変 2/4
http://www.youtube.com/watch?v=9laa8URy9ow

実録 支那事変 3/4
http://www.youtube.com/watch?v=ysHdQ4vPk0I

実録 支那事変4/4
http://www.youtube.com/watch?v=iCO7JkhTQbo

コミンテルンの策謀、盧溝橋事件

盧溝橋事件は支那が仕掛けた。背後にはコミンテルンがいた。

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 盧溝橋事件は昭和12年(1937年)7月7日に北京西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件です。我々は盧溝橋事件から日本の支那侵略が始まったと教わりましたが、それは真っ赤なウソでした。

 前年の12月に西安事件が起こりました。支那では国民党と共産党が抗争を繰り広げており、国民党の蒋介石総司令が張学良に逮捕、監禁され、共産党に引き渡されたのです。コミンテルン(モスクワで結成された共産主義の国際組織)は蒋介石を生かして利用する方針としました。そして蒋介石は解放されました。ここで密約があったとされています。以降、国民党は矛先を日本軍へ向け、共産党は高見の見物となったのです。

 二十九軍という支那軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は義和団事件以来、条約にもとづいて北京周辺に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。盧溝橋事件はその計画の一部です。これは支那側の資料でも明らかになっています。東京裁判の最中に劉小奇(共産党員)が「仕掛け人は中国共産党で自分は現地指揮者」と西側の記者に話しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は「劉小奇の指揮を受けた一隊が決して機に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書に記しています。

 盧溝橋で衝突が起こった4日後、近衛内閣は不拡大方針を閣議決定。その日の夜には現地停戦協定が成立します。ところが、7月13日、大紅門事件といわれる北平(北京)大紅門で日本軍トラックが支那兵に爆破され日本兵4人死亡します。この日には国民党・蒋介石から二十九軍の長、宋哲元に「解決はありえない。政府は戦争を決断した」との電報が入りました。
 14日には日本軍天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台(北京)に向かう途中、落鉄のために遅れた近藤二等兵が、支那兵に襲撃され、惨殺される事件が発生しました。19日には停戦協定中の第三項排日取り締まりに関する細目協定が成立しました。ところが7月20日に支那軍が再び日本軍へ向けて発砲。7月25日廊坊駅で日本軍が襲撃されます。広安門でも通過中の日本軍が城壁上の支那軍より「乱射を浴びる事件が発生。

 日本側は善意と忍耐は支那を助長するだけだと悟り、27日、内地3個師団の派兵を決定。28日には日本軍は二十九軍宋哲元に戦闘を通告します。そして北京南4キロの南苑を攻撃し、支那軍を敗走させます。退却にあたり、宋哲元は通州の保安隊に日本攻撃命令を出していました。このことが7月29日、あの通州事件を誘発し、日本人二百数十名が虐殺される事件となりました。

 まさにこれでもか、これでもか、という支那の挑発行為が続き、日本はやむなく応戦せざるを得なくなったのです。通州事件に至っては殺され方が極めて残虐であり、日本の対支那感情は大きく悪化しました。この頃、尾崎秀実(後にゾルゲスパイ事件で逮捕)が「昭和研究会」を通じて近衛内閣に接近していきます。

 戦後の東京裁判では盧溝橋事件を裁こうとしたら、連合国側にとってやばくなってきたようで支那の判事(共産党員)は審理を中断させました。東京裁判においては盧溝橋事件の犯人はいません。



参考文献
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)
参考サイト
 WikiPedia「盧溝橋事件」「日中戦争」

添付画像
 盧溝橋の国民革命軍部隊(PD)

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仏印(ベトナム)の援蒋ルート

弱腰外交は昔から。

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 援蒋ルート(えんしょうるーと)とは大東亜戦争時に主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路のことでビルマルートが有名だと思いますが、仏印ルート(ベトナム)もあり、英米が金を出してフランスの物資を買い、雲南省へ輸送させていました。日本は仏印に監視団を送り、昭和15年(1940年)8月30日「松岡-アンリ協定」を結び、9月23日に日本軍の仏印進駐を開始します。一方的に軍を進めたということはありません。
 これで仏印ルートを遮断できるわけですが、フランス商人は援蒋物資でボロ儲けしており、日本軍が海南島に上陸すると大慌てとなります。

仏印縦走記 昭和16年7月(GHQ焚書図書開封2より)
港の倉庫の援蒋物資をみて

「私の貧しい筆はともあれ、おそらくこの量感は実際に見たものでなければ、納得できまいと思われるほど凄いものだ。現に私などもあの倉庫に一杯ですよと指さされていながら、実際にその倉庫に入ってみるまで、その物量感がピンとこなかった。ところが入ってみて、あっと声をあげんばかりに圧倒されてしまったのである。
 海防監視委員事務所の後藤少佐の部屋に援蒋物資の見本が並んでいる。薬品、電話機、鉱石、顕微鏡、ラジオ、防毒マスク、ワイヤ、電池、水枕、飛行帽、電信機、測量計などなど数えきれない。これはまだほんの一部でボイラーや鉄道のレールは並べきれませんからね、と後藤少佐は説明する。そればかりではない。この海防附近にはまだどのくらい隠匿されているかわからない。例えば海防上流60キロ地点に百五十メートル平方の平地を掘り、周囲に土民窟を設けて援蒋物資を隠していたのが発見されたという事実もあるのだ」


 凄い物量だったことがわかります。

 日本軍はフランスに蒋介石軍に送るのはやめろ、といいますがフランス人は言う事をきかない。「売りものですから」とのらりくらり逃げます。本来、フランスはドイツに敗北してドイツ配下になっており、ヴィシー政権も日本に味方しろと言っているのですが、商売根性の強いフランス人はなかなか引き下がらない。やめないので日本の同盟特派員が日本本国へ
「援蒋物資が流れている」と電報を打つとフランス側から悪意ある電報を打電しては困る、と抗議されます。仏印縦走記では日本の総領事、日本軍、外務省の役人は「そろいにそろってへっぴり腰外交、弱気外交と述べています。このあたりは昔も今も変わりませんね。

 アメリカは「松岡-アンリ協定」を敵視し、すでに実施されていた屑鉄の輸出許可制を一歩進め、日本とイギリスのビルマルート停止の協定にも「通商の自由を侵害」などと非難しました。「弱腰ニッポン」はこの後、どんどん追い詰められていくのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「援蒋ルート」「ベトナム」「ヴィシー政権」

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 1881年12月27日、サイゴンでの電車の開通(PD)

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日本軍仏印進駐、フランス人の感情

ベトナムはフランスの植民地だったこと知っていました?

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 昭和15年(1940年)9月23日、日本軍は北部仏印進駐を行い、翌年には南部にも進駐しました。仏印というのはベトナム、ラオス、カンボジアのことで、当時はフランスの植民地でした。ヨーロッパは大戦の真っ只中で、フランスはドイツに降伏し、ヴィシー政権が誕生していました。日本政府はフランスのヴィシー政権との外交協議により進駐しました。
 なぜベトナムに軍を進駐させる必要があったかというと、日本は支那事変以降、支那の国民党と事実上の戦争状態でした。この国民党に武器弾薬食糧を援助していたのがイギリス、フランス、アメリカであり、ベトナムのハイフォン、ハノイあたりから支那の雲南省へ援助物資を送っていました。「援蒋ルート」と言います。このルートを遮断するために軍を進駐させたのです。

 大東亜戦争中、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していました。その後、日本軍は昭和20年(1945年3月)にクーデターでフランスの植民地政府・軍を追っ払い、ベトナムを独立(ベトナム帝国)させますが、間もなく敗戦となります。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用したといわれています。こういった歴史は現在は抹殺されています。

 この日本軍進駐に対して現地のフランス人はどのように思っていたのでしょう。

 日本軍の仏印進駐当時のサイゴンのフランス人向けの新聞に書かれている内容(GHQ焚書図書開封2より)

「我々(フランス人)は余りに長い間、英国の番犬の役割を務めてきた。しかしもはや我々はそんな役割を務めるのは真っ平である。フランス人はロンドンという巨大な口を有する怪物のいけにえに供されてはならない。八十年と言う長い年月の間、我々フランス人は英国の思うがままに操られ続けてきた。
 ウソだと思うものは歴史を見ればよい。それもさして昔の例を問う必要は無い。前大戦(第一次世界大戦)がいい例である。独逸(ドイツ)の脅迫の前に、英国はフランスとの共同戦線結成を逡巡(しゅんじゅん:ためらう)した。そのためベルギーはいち早く蹂躙されてしまった。英国が参戦した時はもはや既に遅かったのである。前大戦ではフランス170万、ドイツ240万の戦死者に対して英国はわずか15万に過ぎなかったではないか
 1938年のミュンヘン会議はどうであったか。
 1938年、ポーランドが危機に瀕すると、またも英国の戦争商人どもは、『フランスよ、急げ、急げ、でないと民主主義が危い』とわめき続け、フランスの尻をひっぱたいたのである。そして英国は何をしたか」


 フランス人の積年の英国への恨みが読み取れます。この論文のタイトルは「偉大なる諦め」というタイトルです。

「シンガポールの英国放送によると、我々フランス人は日本との協力によって許すべからざる罪悪を起こしたことになると言うが、しからば、英国人は過去に於いてあれ程、英国と協力してきた我々に果たして一体何をもたらしたと言うのか」

 日本を肯定しているわけではないが、何を言うか英国人!という当時のフランス人の感情が伝わってきます。フランスといえば現在は連合国側で戦勝国のように言われていますが、全然勝っていないんです。ドイツに敗れ、日本にも敗れたのが歴史の真実なのです。



※引用は現代かなに直して有ります。

参考文献:
 オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『私の人生と思想』西尾幹二
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「ベトナム」

添付画像
 1902 ~ 1907年頃のベトナムのハノイ(PD)

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