仏印(ベトナム)の援蒋ルート
弱腰外交は昔から。
援蒋ルート(えんしょうるーと)とは大東亜戦争時に主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路のことでビルマルートが有名だと思いますが、仏印ルート(ベトナム)もあり、英米が金を出してフランスの物資を買い、雲南省へ輸送させていました。日本は仏印に監視団を送り、昭和15年(1940年)8月30日「松岡-アンリ協定」を結び、9月23日に日本軍の仏印進駐を開始します。一方的に軍を進めたということはありません。
これで仏印ルートを遮断できるわけですが、フランス商人は援蒋物資でボロ儲けしており、日本軍が海南島に上陸すると大慌てとなります。
仏印縦走記 昭和16年7月(GHQ焚書図書開封2より)
港の倉庫の援蒋物資をみて
「私の貧しい筆はともあれ、おそらくこの量感は実際に見たものでなければ、納得できまいと思われるほど凄いものだ。現に私などもあの倉庫に一杯ですよと指さされていながら、実際にその倉庫に入ってみるまで、その物量感がピンとこなかった。ところが入ってみて、あっと声をあげんばかりに圧倒されてしまったのである。
海防監視委員事務所の後藤少佐の部屋に援蒋物資の見本が並んでいる。薬品、電話機、鉱石、顕微鏡、ラジオ、防毒マスク、ワイヤ、電池、水枕、飛行帽、電信機、測量計などなど数えきれない。これはまだほんの一部でボイラーや鉄道のレールは並べきれませんからね、と後藤少佐は説明する。そればかりではない。この海防附近にはまだどのくらい隠匿されているかわからない。例えば海防上流60キロ地点に百五十メートル平方の平地を掘り、周囲に土民窟を設けて援蒋物資を隠していたのが発見されたという事実もあるのだ」
凄い物量だったことがわかります。
日本軍はフランスに蒋介石軍に送るのはやめろ、といいますがフランス人は言う事をきかない。「売りものですから」とのらりくらり逃げます。本来、フランスはドイツに敗北してドイツ配下になっており、ヴィシー政権も日本に味方しろと言っているのですが、商売根性の強いフランス人はなかなか引き下がらない。やめないので日本の同盟特派員が日本本国へ「援蒋物資が流れている」と電報を打つとフランス側から悪意ある電報を打電しては困る、と抗議されます。仏印縦走記では日本の総領事、日本軍、外務省の役人は「そろいにそろってへっぴり腰外交、弱気外交」と述べています。このあたりは昔も今も変わりませんね。
アメリカは「松岡-アンリ協定」を敵視し、すでに実施されていた屑鉄の輸出許可制を一歩進め、日本とイギリスのビルマルート停止の協定にも「通商の自由を侵害」などと非難しました。「弱腰ニッポン」はこの後、どんどん追い詰められていくのです。
参考文献
徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
WikiPedia「援蒋ルート」「ベトナム」「ヴィシー政権」
添付画像
1881年12月27日、サイゴンでの電車の開通(PD)
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