無料ブログはココログ

« 沖田総司と菊一文字 | トップページ | 「各艦、探照灯つけ」闘将・角田覚治、ダッチハーバーへ »

見敵必戦の闘将・角田覚治

海軍では少なくなった闘将派。

S


 「見敵必戦」・・・敵を発見すれば徹底して戦う。これを貫いたのが角田覚治中将です。

 大東亜戦争当時の海軍は慎重派が主流でしたが、山口多聞少将と角田覚治中将は闘将派でした。このほかスリガオ海峡を突進した西村中将、大和特攻の伊藤中将も闘将派と言われています。
 角田覚治中将は砲術畑で航空畑の源田実大佐が「石頭」「古臭い鉄砲屋」と称したといわれていますが、実際には空母を任されたとき、大変な勉強、研究をしており実戦において航空畑出身者を唸らせたと言います。

 昭和17年(1942年)ミッドウエーの悪夢から4ヶ月後の10月26日、南太平洋において南雲機動部隊は米機動部隊と決戦となります。しかし、二空母が被弾。南雲中将は指揮権を角田覚治少将に譲ります。そして角田覚治少将は空母隼鷹を敵空母に向けて驀進させます。通常、空母は航空機を発進させたあと敵艦載機の攻撃を回避する動きをするものですが、この角田覚治は敵に向け空母を突進させたのです。他艦の乗員は、
「槍を抱え敵陣に突っ込んで行く騎馬武将の様だった」と回想しています。

 一見無謀にも見えるこの行為ですが、航空機の航続距離を考えると敵に突進させるほうがアウトレンジからの先制攻撃が可能になるのと、反復攻撃が可能になるというメリットがあります。またこのときは被弾した二空母の艦載機を収容することができ、その艦載機を攻撃に使用することができました。角田覚治は
「本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という壮烈な命令を出したといいます。この角田覚治の奇抜な作戦と闘志によって日本軍は勝利。米軍は南太平洋における稼動空母が一時的に皆無となり「史上最悪の海軍記念日」と嘆かせました。

 角田中将は空母の高角砲で敵基地を砲撃したり、空母から商船を攻撃撃沈させるなど奇想天外のことを行い戦果をあげています。空母の大砲は破壊力は小さく、対艦攻撃用に使われることはありませんでした。しかし、いつも訓練ばかりで出番の無い砲員に実践での機会を与えたのです。もちろんきちんと戦術的にも計算されていたでしょう。それに加えて砲員の士気が落ちないような配慮があったわけです。

 角田中将はこうした闘将としての面でだけでなく、部下にも思いやりを持った人でした。大東亜戦争の緒戦から、航空作戦行動中、戦死または行方不明になった兵から士官まで、全員の身上調査と写真を残していました。戦争でもし生き残ったら全国を回って、戦死した部下の家を訪ね、供養したいと夫人に語っていたといいますから、このような書類を残していたのだと思われます。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
参考サイト
 WikiPedia「角田覚治」

添付画像
 角田覚冶(PD)



広島ブログ クリックで応援お願いします。

« 沖田総司と菊一文字 | トップページ | 「各艦、探照灯つけ」闘将・角田覚治、ダッチハーバーへ »

01.大東亜戦争」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 見敵必戦の闘将・角田覚治:

« 沖田総司と菊一文字 | トップページ | 「各艦、探照灯つけ」闘将・角田覚治、ダッチハーバーへ »

2022年2月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28