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コミンテルンの策謀、盧溝橋事件

盧溝橋事件は支那が仕掛けた。背後にはコミンテルンがいた。

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 盧溝橋事件は昭和12年(1937年)7月7日に北京西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件です。我々は盧溝橋事件から日本の支那侵略が始まったと教わりましたが、それは真っ赤なウソでした。

 前年の12月に西安事件が起こりました。支那では国民党と共産党が抗争を繰り広げており、国民党の蒋介石総司令が張学良に逮捕、監禁され、共産党に引き渡されたのです。コミンテルン(モスクワで結成された共産主義の国際組織)は蒋介石を生かして利用する方針としました。そして蒋介石は解放されました。ここで密約があったとされています。以降、国民党は矛先を日本軍へ向け、共産党は高見の見物となったのです。

 二十九軍という支那軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は義和団事件以来、条約にもとづいて北京周辺に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。盧溝橋事件はその計画の一部です。これは支那側の資料でも明らかになっています。東京裁判の最中に劉小奇(共産党員)が「仕掛け人は中国共産党で自分は現地指揮者」と西側の記者に話しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は「劉小奇の指揮を受けた一隊が決して機に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書に記しています。

 盧溝橋で衝突が起こった4日後、近衛内閣は不拡大方針を閣議決定。その日の夜には現地停戦協定が成立します。ところが、7月13日、大紅門事件といわれる北平(北京)大紅門で日本軍トラックが支那兵に爆破され日本兵4人死亡します。この日には国民党・蒋介石から二十九軍の長、宋哲元に「解決はありえない。政府は戦争を決断した」との電報が入りました。
 14日には日本軍天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台(北京)に向かう途中、落鉄のために遅れた近藤二等兵が、支那兵に襲撃され、惨殺される事件が発生しました。19日には停戦協定中の第三項排日取り締まりに関する細目協定が成立しました。ところが7月20日に支那軍が再び日本軍へ向けて発砲。7月25日廊坊駅で日本軍が襲撃されます。広安門でも通過中の日本軍が城壁上の支那軍より「乱射を浴びる事件が発生。

 日本側は善意と忍耐は支那を助長するだけだと悟り、27日、内地3個師団の派兵を決定。28日には日本軍は二十九軍宋哲元に戦闘を通告します。そして北京南4キロの南苑を攻撃し、支那軍を敗走させます。退却にあたり、宋哲元は通州の保安隊に日本攻撃命令を出していました。このことが7月29日、あの通州事件を誘発し、日本人二百数十名が虐殺される事件となりました。

 まさにこれでもか、これでもか、という支那の挑発行為が続き、日本はやむなく応戦せざるを得なくなったのです。通州事件に至っては殺され方が極めて残虐であり、日本の対支那感情は大きく悪化しました。この頃、尾崎秀実(後にゾルゲスパイ事件で逮捕)が「昭和研究会」を通じて近衛内閣に接近していきます。

 戦後の東京裁判では盧溝橋事件を裁こうとしたら、連合国側にとってやばくなってきたようで支那の判事(共産党員)は審理を中断させました。東京裁判においては盧溝橋事件の犯人はいません。



参考文献
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)
参考サイト
 WikiPedia「盧溝橋事件」「日中戦争」

添付画像
 盧溝橋の国民革命軍部隊(PD)

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