仏印進駐、フランス人が見た日本軍の印象
世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族。
昭和15年(1940年)欧州大戦真っ只中の6月にフランスがドイツに降伏しました。日本は支那事変の泥沼に入っていました。フランスはベトナムを植民地としていました。ベトナムではアメリカやイギリスがフランスの商人を使って、支那の国民党政府に軍事物資を送っていました。中立義務違反をしていたのです。
日本はアンリ駐日フランス大使と交渉し、8月30日「松岡-アンリ協定」を結び、9月23日に日本軍の仏印進駐を開始します。軍事物資を送るルート(援蒋ルート)を遮断するためです。
日本軍の仏印進駐当時のサイゴンのフランス人向けの新聞に書かれている内容には日本軍に関する記事があります。(GHQ焚書図書開封2より)
「(フランス人が)日本との協力の場合はどうなるのか。今日の事態は既にそれを説明しつつある。すなわち日本の兵隊が仏印に入ってきた。しかしそれは一時的な、そして純粋に軍事的なものでしかない。彼等は手薄になった仏印の防備力を補うためにやってきたのだ」
「仏印の防備力を補うため」というのは「松岡-アンリ協定」のことを言っています。協定では仏印(ベトナム)の領土保全とフランスの主権を尊重しています。
「もっとも日本が仏印の軍事的利便供与を要求した真意が、単にここにのみあったと考えるならば、それは余りにも幼稚な考えであろう。むろん日本には、ほかになんらかの目的があってのことに違いないのだが、それは我々の関知しないことである。(解説:援蒋ルートの遮断のことです)
我々にとって最も大切なことは、日本は厳粛に印度支那の領土と主権の尊重を約束したことで、我々は、世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族の名に於いて、伝えられたこれらの言葉を、深く信用すべきである」
「世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族」と言っていますね。日本は義和団事件や日露戦争などで「道義的、公明」という評判だったのです。悪口ばかり言っていたのは支那です。このあたりは現代もそうですね。英国BBCの調査「世界に良い影響を与えている国」の常に上位にランクインされる日本ですが、支那の日本評価は全く逆です。
ベトナムにやってきた日本兵は規律正しく、音楽隊が音楽会を開いたりしていました。規律が正しいから夜、町に出歩くようなこともしないし、現地はみな歓迎ムードであったようです。フランス人は日本民族は聞いていた通り、道義的で公明だと言っています。支那は「残虐極まりない日本兵」というプロパガンダを流していました。しかし、いざ、日本軍が入ってきてみると聞くと見るとで大違いだったという記録もあります
参考文献
オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『私の人生と思想』西尾幹二
徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
添付画像
1910年のサイゴンの通り(PD)
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