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2011年8月

ロシアに侵略された満州

アムール河の流血。

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 日本は大東亜戦争に敗れて以降、「侵略国家」のレッテルを貼られましたが、これはとんでもないインチキな話で白人国家こそが「侵略国家」でした。代表格はイギリスとロシアです。

 ロシアのアジア侵略のルートの一つにシベリアから満州へ侵略するルートがあり、シベリアでは毛皮を求めて、カムチャッカ及び黒龍江へ到達します。当然、日本も侵略のターゲットで18世紀半ばにはカムチャッカから千島列島に入り、北海道を脅かしました。

 20世紀に入るとロシアは黒龍江を侵略し、村々を襲い虐殺、略奪、焼き尽くします。白人の侵略の仕方はまずは条約など結んで近寄って、侵略の準備を裏で進めて一気に武力行使するとういものです。「アジア侵略秘史」(昭和16年4月)にはすさまじいロシアによる清国人の虐殺が書かれており、GHQによって焚書される以前は「アムール川の流血や」という歌が作られていることから日本国内では常識として知られていたと思われます。

「時、6月18日午前11時、平和なりし六十四村はたちまちの間に阿鼻の巷と化しむこの住民一万数千は、奪掠されつつある財宝、焼かれつつある我が家を捨てて、命からがら江畔にまでのがれたが、勿論、褐色に濁る大河黒龍江は渡るすべもなく、ただ対岸の同胞に向かって、口々に救助の言葉を絶叫するばかりであった」

 明治33年(1900年)の義和団事件時の頃です。これは「アムール河の流血事件」と呼ばれており、たまたま語学留学中だった日本軍人の石光真清が手記に詳しく残しています。

「そのうちにこれを追って背後に迫ったロシア兵は、その老幼と男女を問わず、刀斧を振るって虐殺した。ここに(中略)生きながらの地獄絵図が展開せられ、生き残れる、傷重きものは岸に斃れ、傷浅きものは濁流に呑まれ、傷つかざるものは江水に飛び込んで溺死し、辛うじて濁流を泳ぎきったものはわづかに八十余名に過ぎなかった。又これと同時に同じ江東にある海蘭(ブラゴヴェシチェンスク)の住民六千余名も、ロシア兵の銃剣と斧槍と馬蹄のために鏖殺(おうさつ 皆殺しのこと)されてしまった」

 ロシア軍は義和団事件勃発を満州侵略の願ってもない好機としてとらえ、満州侵略を開始し、清国人を虐殺し、アムール河に投げ込みました。さらに8月にはチチハル、9月には長春、吉林(きつりん)、遼陽(りょうよう)、10月には瀋陽(しんよう)を占領し、各地でロシア軍による凄まじい殺戮が行われました。アムール河では清国人総計約25,000がロシア兵に虐殺されて投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったといいます。

 ロシアは日本侵略も推し進めており、1861年には対馬を占領します。これはイギリスの勧告によって退去しています。南からイギリスが北上し、イギリスとロシアがぶつかったのが満州、朝鮮半島、日本だったわけです。ロシアは満州を侵略し、朝鮮半島を侵略し、日本侵略に向けて突き進みます。イギリスは日本を侵略するより味方につけ、ロシアと戦わせたほうが得策と考え、日英同盟に至りました。清国も朝鮮もロシアと戦う力はなく、明治37年(1904年)日本が国運をかけてロシアと戦うことになり、日露戦争となりました。日本にとっては自衛戦争ですが、イギリス、ロシアにとっては植民地争奪戦であったわけです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 PHP新書「世界史からみた満州帝国」宮脇淳子(著)
参考サイト
 WikiPedia「松前藩」「対馬」「ブラゴヴェシチェンスク」「江東六十四屯」

添付画像
 中国東北部とロシア極東部の国境地図。(PD)
 ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南にある赤い色の地域がアムール河の流血がおきた「江東六十四屯」。

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満州は支那の領土ではない

満州と支那は別。チベット、ウイグル、内蒙古も支那とは別。

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 現在、多くの日本人の認識は満州は支那の領地であり過去戦争で日本が侵略したと思っているでしょう。現在の中共(中華人民共和国)は満州史を「東北史」と位置づけて、支那の一部の歴史のように装っていますが、満州が支那に領有されたのは戦後で、それ以前はありません。

 満州は満州民族がいました。清国は満州は満州民族の土地であり侵すべからずとしていました。万里の長城を越えて漢民族が流入しないようにしていました。しかし、北からロシアがやってきて19世紀後半には満州の半分を侵略してしまいます。(ウラジオストックやハバロフスク、アムール川、ゼーヤ川あたりは満州だった)日清戦争以降、清国は満州への漢民族の移民を解禁します。日本は清国と条約によって満州に租借地を得ます。1911年の辛亥革命によって、清国が崩壊したあと満州も支那も軍閥が群雄割拠する内乱状態になりますが、このときも中華民国国民政府の蒋介石などは満州は別の国という立場をとっています。1926年7月から蒋介石は北洋軍閥打倒戦争、いわゆる「北伐」を開始しますが、最終地点は万里の長城です。満洲は張作霖(漢民族)の軍閥が大きな力を持つようになりました。

 言ってみれば日本は清国と条約に基づいて満州に租借地を得ていたのに対し、張作霖ら漢民族の軍閥らは満州民族から見れば外国人であり満州を侵略していたということになります。満州事変は張作霖の息子、張学良軍閥や馬占山軍閥と関東軍の抗争でしたが、満州民族から言えばどれも外国人になります。

 満州と一口に言ってもモンゴルも絡んできます。昭和10年(1935年)、チンギスハーン第30代にあたる徳王(デムチュクドンロブ)は対日連携を正式に決定し、11月末に満州国の首都新京(現・長春)を訪れ、満州国が東部内モンゴルを編入していると抗議しつつ、蒙古建国への軍事・経済援助の約束を関東軍首脳からとりつけています。「満蒙」と呼んでいるのは内蒙古の一部を含んでいるためです。

 この満州の誤解については現在の誤解だけでなく、昭和6年(1931年)の満州事変の頃でも欧米諸国は誤解しており、昭和7年(1932年)の米国務省発表のスチムソンドクトリンでも満州事変を
「以前には存在していたところの南満州における中華民国政府の行政的権威・・・」と述べています。

 アメリカ人ジャーナリストのジョージ・ブロンソン・レーは著書「満州国出現の合理性」の中で
「張作霖の支配する政府は、民衆にたいして苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治をおこなってきたが、搾取のための名目と種類が多く、130以上もの税金を課していたうえに、通貨も奉天省のみならず、吉林省や黒竜江省など各地の軍閥が発行する官銀以外に、実力者の恣意によって乱発されていた」と指摘しています。日本は満州の歴史的背景に加え、こうした満州の民衆の苦しみを国際連盟リットン調査団、そして世界に訴えればよかったのですが失敗し、国際連盟は満州を支那、漢民族のものと誤認してしまいました。

 満州国は昭和7年(1932年)に誕生し、昭和20年、大東亜戦争の日本敗戦とともに消滅しました。その後は国民党政府と共産党政府が満州の土地と遺産を奪い合い、最終的に共産党が勝利しました。満州民族は完全に漢民族の支配下になり、少数民族として生きながらえることになります。平成19年(2007年)には満州語が話せる人は100名ほどの高齢者になってしまったといいます。満州人は次のように言って今でも涙を流すそうです。

「われわれにも自分たちの国があったんだ」



参考文献
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 PHP「世界史の中の満州帝国」宮脇淳子(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
参考サイト
 Wikipedia「満州事変」「ムチュクドンロブ」

添付画像
 清王朝の西太后(PD)

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赤化洗脳された日本人

赤い旋風が吹き荒れた。

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 昭和20年(1945年)の終戦後、日本軍人、民間人約60万人がソ連のシベリア、モスクワ近郊、北極近く、中央ロシアなど約2000箇所に抑留されました。抑留者には強制労働だけではなく、赤化洗脳の嵐が待っていました。昭和21年(1946年)から「民主運動」の名目で実施されました。「スターリンを選ぶか天皇を選ぶか」と問われ、天皇と答えたものは「帰国させない」「反動は白樺の肥料だ」と脅迫を受けました。食事、睡眠、用便の時間を与えないなどの拷問も行われています。洗脳されてしまった人は内地に引き揚げた後、東京代々木の日本共産党本部に大挙して挨拶に行きました。

 静岡市の大木幸雄さんはシベリア抑留中、「友の会」という共産主義の勉強会がはじまり、「友の会」の指導で「青年行動隊」が組織され入隊していたそうです。しかし、「一緒に祖国の土を踏もう」と誓い合った戦友が「桜劇団」(資本主義の産物と言われた)を組織しました。「友の会」の幹部は戦友に対して「反動分子」のレッテルを貼り、圧力・嫌がらせが陰に陽に露骨になっていきました。大木さんは悩み、そして自決を決意し、まさに実行に移そうとしたそのとき、戦友が「彼らの圧力に屈するな」「民主運動は要領よくやればよい。日本へ生きて帰ることを考えよう」と励まされ、思いとどまったといいます。大木さんの手記では収容所内は「革命だ!祖国日本を救え!」で埋め尽くされ、まさに革命の坩堝(るつぼ)と化したと述べています。

 この洗脳はシベリアに抑留された兵士だけでなく、中共でも行われています。山西省の日本軍は敗戦後も国府軍として居残り共産党ゲリラと戦い、これが滅法強かったため、毛沢東は恨みに思い、ソ連に抑留されていた日本軍精鋭の残存兵を強引に引き取ります。そして撫順(ぶじゅん)に洗脳学校を作り徹底的に洗脳します。共産党を礼賛し、毛沢東革命をたたえ、日本を貶める。改竄された歴史を教え込みます。日本人将校の中には自尊心が許さないとして自決するものも何人か出ました。こうして洗脳された日本人は帰国して731部隊、万人杭、三光作戦など組織的に流布されるようになります。ちなみに三光作戦の「光」に殲滅、皆殺しの意味を持つのは支那語であり、日本語には明るい意味しかありません。中日辞典をひけばわかります。日本軍は支那語の作戦名などつけません。

 こうして洗脳された日本人はやがて引き揚げて日本の地を踏むと「赤旗の歌」や「インターナショナル」を歌い、排除しようとすると「天皇島上陸」などと叫んで、肩を組んで歌う者や、ソ連仕込みの怪しげなコザック踊りを始めたといいます。迎えにきた共産党員や労働組合員たちが一緒に騒いで全く手がつけられなかったといいます。
 もっとも皆が皆、洗脳されたというわけではなく、ノーボイリンスカヤに抑留されていた上田宗雄さんの手記によると洗脳は「壁新聞」からはじまり、「ソビエト人民の歩んだ道」という本を回し読みさせられ、ちょっとでも批判すると吊るし上げられるので、理解したフリをしたと述べています。誰も「民主運動」家たちのいうことは信用せず、引き揚げ船にのる前のナホトカの収容所でも「民主運動」の波はひどいものでしたが、一応、かみしめたように見せかけガマンしていたそうです。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編集)
 産経新聞社 別冊正論「遥かなる昭和」
参考サイト
 平和祈念展示資料館 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編) http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/index.html
 WikiPedia 「中国山西省日本軍残留問題」
添付画像
 ヨシフ・スターリン(PD)

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4分45秒でわかるシベリア抑留
http://www.youtube.com/watch?v=q14SnCvn9Vg


日本兵士を讃えるインドの人たち

日本軍がやってくるのを待っていた。

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 ジャーナリストの高山正之氏がバングラディシュのチッタゴンを訪れたとき、地元有力紙「アザディ」の主幹モハマド・ハレドさんがこういいました。

「日本軍が来るのをみんなが待っていた」

 大東亜戦争当時、バングラディシュ(当時はインド)のあたりに日本陸軍一式戦闘機「隼」が空からビラをまきます。それには「日本は起てり!アジアの同胞として白人との戦いに決起せよ」と書かれていました。ハマド・ハレドさんはそのビラを大事に持っていました。そして日本軍がやってくるのをいつかいつかと待ち続けます。ところがやってきたのはインパールやコヒマで敗れた日本軍傷病兵ばかりでした。治療しても助からず現地の人は日本兵を埋葬し墓を建てました。墓碑には日本兵が持っていた遺留品に書かれているカタカナやひらがなが刻まれているそうです。

モハマド・ハレドさん
「6万にのぼる日本兵戦死者は決して犬死ではなかった」

 昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動。険しいアラカン山脈を越えてインパールへ向かいました。佐藤幸徳中将率いる第31師団はインパール北のコヒマを攻略しました。しかし、山脈越えなので補給がままならず、時間が経てば経つほど不利になり遂に撤退します。その後、コヒマに紫の花がいっせいに咲きました。この花は生命力が強くて繁殖力があり、少々のことでは枯れず、群生して仲良くいっせいに花をつける花でした。現地のナガ人はこの花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。武器弾薬の補給が途切れ、素手に近いような装備で敵の戦車を鹵獲(ろかく)する日本兵の敢闘精神、敵の圧倒的優位な武力にも屈することなく、最後まで組織的に戦った日本兵と二重写しになったのです。

 コヒマでは日本軍が擱座(かくざ)させたイギリス軍のM3グランド戦車が保存されています。アラカン山脈を越えてきた日本軍部隊は対戦車火器を持っていなかったため、布団に黄色火薬を詰めた即席対戦車地雷をキャタピラのしたにほうりこみ、敵戦車を破壊していました。現地の住民は来訪者があるたびに、「これは昔、日本のマスターがやったんだ」と我がことのように自慢しているそうです。

 インパールの北16キロにあるマパオ村では毎年インド独立のために散った日本兵士を慰霊する祭りが行われ、「日本兵士を讃える歌」が歌われています。



日本兵士を讃える歌

作詞作曲  マパオ村村民

日本語訳  古田中 勝彦

一、

父祖の時代より

今日の日まで

美しきマパオの村よ

いい知れぬ喜びと平和

永遠に忘れまじ

*合唱(繰り返し)

美しきマパオの丘に

日本兵来り戦えり

インパールの街目指して

願い果たせず

空しく去れり

二、

日本兵

マパオの丘に来る

それは四日の火曜日

一九四四年のことなりき

我は忘れじ四月のあの日

三、

罪なき民も散り散りに

西に東に追いやられ

再び神の恵を受け

集まり住まん

この地マパオに

四、

広島の悲報

勇者の胸をつらぬき

涙して去れる

日本の兵士よ

なべて無事なる帰国を

われ祈りてやまず



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人 高山正之(共著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)

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今もインドで歌われる日本兵を讃える歌
http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk

朝鮮進駐軍の非道横暴

消された歴史「朝鮮進駐軍」

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 昭和20年(1945年)の敗戦後に「朝鮮進駐軍」と称する朝鮮人が治外法権的な特権を有するがごとく振舞ったことがあります。買出し列車を占拠し、座席に座っている日本人は女性年寄りでも構わず蹴散らされ、文句を言うと集団で袋叩きにしていました。鳩山一郎(後の総理大臣、鳩山前首相の祖父)も車中で朝鮮人に襲われ瀕死の重傷を負っています。

「お前等四等国民の日本人が我々二等国民である朝鮮進駐軍に指図するとは生意気な」

 台湾出身の蔡焜燦(さい こんさん)は昭和20年(1945年)12月に台湾へ帰還することになりました。引き揚げ列車に乗ると朝鮮人が威張り散らしていたといいます。蔡焜燦氏は日本の軍服を着ていました。座席の下に置いていた新品の飯盒が朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い」と、たちまち数人に取り囲まれてしまいます。勝ち目はないので、「すみません、私の記憶違いでした」と謝り、難を逃れるしかありませんでした。佐世保にいくまでの30時間、朝鮮人たちは蔡焜燦氏を含め、日本人乗客をいびり続け、若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなどの横暴を続けていました。同氏は、はらわたが煮えくり返る思いで眺めていたといいます。

 朝鮮人の横暴はエスカレートし、闇市に進出し、旧軍の倉庫から奪った自動小銃で武装し始めます。こうなってくると警察もお手上げで軍隊は解散しており、阻止できる武力はなく、強盗、放火、土地の不法占拠、強姦とやりたい放題です。GHQはある程度黙認しています。民族間を争わせてその上に君臨するという白人のデバイドアンドルール手法です。

 昭和21年10月に組織された在日朝鮮人連盟は極左暴力組織へと変貌していきます。そして日本共産党の指導により労働争議への介入、交番焼き討ちなどのテロ行為を行っていきます。昭和23年にはGHQの指示により文部省が在日朝鮮人にも教育基本法に基づく教育を指導したところ民族弾圧として大阪府庁、兵庫県庁に突入し、破壊行為を行い、翌年、暴力主義団体の指定をうけて解散となります。しかし、この残党は日本共産党に利用され、朝鮮戦争勃発後、昭和27年にに皇居前にデモ隊を突入させます。(約半数が朝鮮人) 朝鮮半島への軍事輸送拠点をデモ隊が襲う事件もおこっています。朝鮮戦争勃発により国内の米軍を補完する目的で誕生した昭和25年の警察予備隊(昭和27年保安隊、後自衛隊)はこれらの共産党、および朝鮮人の動きとは無関係ではないでしょう。そして、これらの朝鮮人組織は現在、民団(在日本大韓民国民団)と総連(在日本朝鮮人総聯合会)に至っています。

 陸だけでなく海でも日本の漁船は韓国の警備艦艇によって拿捕され抑留されています。233隻2,791人に及びます。抑留生活は奴隷的扱いであり長い人で3年に及びました。

 現在ではこれらの事実は封印され、朝鮮人とそれを利用する者たちにより、「従軍慰安婦」「強制連行」が捏造され、被害者ビジネス、差別ビジネスが展開され、これらの利権に政治家が巣食っています。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
  『朝鮮進駐軍と三国人』詠清作
  『ヤミ市を支配した朝鮮ヤクザ』野村旗守
 小学館文庫「台湾人と日本精神」蔡焜燦(著)
参考サイト
 Wikipedia「警察予備隊」「阪神教育事件」
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 朝鮮人連盟本部を包囲した武装警官(PD)

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在日タブー『朝鮮進駐軍』 「Taboo of Koreans resident in Japan」
http://www.youtube.com/watch?v=6qR1k05L6VU


日本を侵略せよ!キリスト教の挑戦

3度にわたるキリスト教の挑戦。

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 1549年、フランシスコ・ザビエルが来日しました。表向きはキリスト教の伝道でした。裏では「黄金の国ジパング」掠奪が狙いでした。ザビエルはローマ法王の僧兵であり、同時にポルトガルの東方植民地における軍隊と官吏とに対する命令の全権を持っていたのです。そう、キリスト教による日本侵略の挑戦であったわけです。

 豊臣秀吉は1586年から九州征伐に向かいました。このとき長崎村、山里村、浦上村、淵村が小ローマ化されているのを知ります。藩主の大村純忠が9年前に合戦に必要な軍資金に窮し、銀百貫文をキリシタン・バテレンから借用し、その担保として、四つの村の年貢を提供したのですが、まんまと侵略されてしまっていたのです。秀吉は四つ村を没収して直轄領としました。そしてバテレン追放令を出しました。
 長崎の領土を失ったキリシタンたちはスペインの軍事力を駆使して日本を攻撃し、征服、あるいは一部占領をして日本人を改宗させるべきであると具体的戦略と地図とをローマ法王に送っています。

 キリシタン「迫害」などとはとんでもない。侵略者に懲罰を与えただけです。

 キリスト教学者の論述の一部。
「1549年のカトリックによる第一次挑戦に対する日本の民族的応答は、38年目の1587年、秀吉のキリシタン宣教師追放令であった」

 ザビエル来日がキリスト教の日本に対する第一次挑戦でした。日本は徳川政権でもキリスト教を禁止し、鎖国を行い、外国の脅威を海によって守ることに成功しました。

 そして1853年、黒船来襲。明治維新となり、再び日本にキリスト教が入り込んできます。

 同キリスト教学者の論述の続き。
「1859年の第二次挑戦に対する民族的応答は31年目の1890年(明治23年)、教育勅語の渙発であった。日本民族は本質上まったく同じ立場から、キリスト教の信受を拒んだ」

 明治政府は当初キリスト教を禁止していましたが、諸外国の激しい抗議と反発を引き起こし、後に岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の禁止が条約改正の最大の障害になっていることに気づいたため、明治5年(1873年)にキリスト教禁止令は解かれました。開国により日本人は思想も欧化傾向でしたが、明治天皇が「教育勅語」を発し、日本の伝統的な道徳観を見直し国民精神とすることで、キリスト教の内面侵略を退けたのです。

 同キリスト教学者の論述の続き。
「第三次挑戦に対する民族的応答は今なお与えられていない」

 第三次挑戦とは大東亜戦争後のGHQ支配による挑戦をいっています。教育勅語を廃止し、神道指令とGHQ憲法「政教分離」によって、キリスト教の侵入を容易にしました。GHQ総司令マッカーサーは
5年の間に2500人の聖職者を来日させ、1000万部の日本語版聖書を配布しました。昭和天皇はキリスト教の講義を受けました。皇太子殿下(今上天皇)の家庭教師にはクエーカー教徒(キリスト教プロテスタントの一種)のアメリカ人女性エリザベス・バイニングをつけました。

 キリスト教学者は、この民族的応答がまだない、と言っています。

 私はすでに日本民族は応答していると思います。宮中では昭和27年(1952年)に占領が解除されるや、聖書講義は一切中止しました。天皇も皇太子もキリスト教に改宗することはありませんでした。昭和天皇は美智子妃殿下がキリスト教の布教をしていると誤解したことがあり、激しく叱責されたこともあったといいます。
 国民の間ではおもしろい現象が起こりました。12月24日、25日のクリスマスだけ日本人はクリスチャンになってしまうのです。もう誰の誕生日か知る人も少ないかもしれません。カップルや家族のためのお祭り、クリスマス。なぜか日本だけクリスマスにチキンを食べる不思議。既に日本の文化に吸収し、娯楽性を入れて宗教感を無にしてしまったのです。キリスト教徒の国から見れば不思議な光景です。
 これではキリスト教も精神侵略できません。日本ではごく一部に敬虔なクリスチャンがいるだけです。これが日本民族の応答です。2600年の伝統力による応答です。



参考文献
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
参考サイト
 47ニュース 伊誌、日本のクリスマスを特集 「愛の祭」「教徒わずか」 http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122501000102.html
 WikiPedia「日本キリスト教史」

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 キリストの降誕のお祝いに東方の三博士が来訪した様子を描いたカード(PD)

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日本を侵略から守れ!豊臣秀吉 VS スペイン大帝国

スペインの侵略に対抗した豊臣秀吉。

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 豊臣秀吉の朝鮮出兵は文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)といい1592年から1598年の間2度にわたって出兵が行われました。この歴史は秀吉の征服欲で語られることが多く、そのほかの説では武士の雇用救済とか、弟の秀長が死去したため狂ったとか、そんなことが言われていたと思います。

 1549年、フランシスコ・ザビエルが来日しました。表向きはキリスト教の伝道でした。裏では「黄金の国ジパング」掠奪が狙いでした。ザビエルはローマ法王の僧兵であり、同時にポルトガルの東方植民地における軍隊と官吏とに対する命令の全権を持っていたのです。スペイン・ポルトガルはキリスト教宣教師たちが尖兵となって潜入し、工作を行い、軍隊を引き入れ、人民殺戮、財宝収奪を行い、植民地占領を行っていました。日本にもその魔の手が伸びてきたわけです。

 豊臣秀吉は当初はキリスト教を禁止しておらず、交流を深めていました。日本に潜入した宣教師は対日諜報員、対日工作員として、日本の内情を探り、日本は武勇の国なので武力による侵略は無理だと判断します。

イエズス会、ドン・ロドリゴとフランシスコ会、フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書
「殿下(スペイン国王)を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」

 そして今度は日本と手をとって明国を攻めようという動きになります。しかし、日本とスペインの同盟は不調となり、スペインが明を侵略するとそれは日本にとっての脅威となるため、先に日本が占領してしまおうと秀吉は考えました。それで朝鮮半島経由で明を攻めることになったわけです。

 1594年4月マニラ総督宛に秀吉が書状を送っており、その書状は残っています。内容はほとんど恫喝であり、既に朝鮮を占領したぞ、マニラに攻めることもできるぞ、スペイン国王に日本と友好関係を結ぶように進言しろ、というものです。
 1596年、貨物を満載したサン・フェリーペ号という船が、逆風を受けて土佐の浦戸に漂着するという事件が起きており、このときにスペイン大帝国が宣教師を送り込んで侵略を行う手口が秀吉に報告されています。サン・フェリーペ号の水先案内人が秀吉の五奉行の一人増田長盛に世界地図を見せて、
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と述べています。

 同年、秀吉はキリシタンら26人を逮捕し、長崎に送致しました。長崎のイエズス会は好機到来と悦び、イエスの十字架になぞらえて見せ物にしようと企み、奉行に願い出て、長崎で処刑するよう画策しました。間違いなく天国往きできるという磔刑にして栄光に輝く姿を印象づけようとしたのです。

 そして1598年に秀吉が死去。スペイン大帝国も1588年に無敵艦隊の敗北という大事件がおきた後であり、イギリスやオランダに押されてきている頃ですので、日本とスペイン大帝国が抗争に至ることはありませんでした。

 このように朝鮮出兵が秀吉個人の野心とか発狂、耄碌だというのは世界史視点がスッポリ抜け落ちた突飛な話しであり、キリシタン「迫害」などとんでもない話であり、侵略者から日本を守るための行為だったのです。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
参考サイト
 【はじめて書かれる地球日本史】
   (43)秀吉はなぜ朝鮮に出兵を(2) http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2443.html
   (44)秀吉はなぜ朝鮮に出兵を(3) http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2444.html
   (45)秀吉はなぜ朝鮮に出兵を(4) http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2445.html
   (48)フィリップ2世と秀吉(1) http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2583.html
   (49)フィリップ2世と秀吉(2) http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2584.html
 WikiPedia「豊臣秀吉」「スペイン」「文禄・慶長の役」

添付画像
 豊臣秀吉(PD)

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スペイン大帝国が没落した理由

スペイン大帝国の没落は「自虐」が原因。

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 スペイン帝国、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金の世紀(Siglo de Oro)と呼ばれています。スペイン君主のカルロス1世が1519年に神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つにいたります。フェリペ2世の在位中が最盛期で、1580年から1640年にかけてスペイン王がポルトガル王も兼ねるようになり、中南米やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの海外植民地を獲得しました。その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容されました。

 スペイン帝国の侵略はまずキリスト教宣教師を送り込み、布教し、現地の状況を探ります。そして軍隊を送り、キリスト教に改宗しない土民を殺戮し、財産を奪い、焚刑に処し、寺院を焼き払うという暴虐の限りを尽くします。

 日本にもこの侵略の魔の手はやってきました。1549年、フランシスコ・ザビエルが来日しました(ポルトガル王から派遣)。ザビエルは僧兵であり、キリスト教伝道のために来日したのではなく、日本侵略の尖兵だったのであり、続々と来日するキリシタン・バテレンたちは対日諜報員であり、対日工作員でした。

 1588年5月28日、スペインは22隻のガレオン船(大型帆船)、108隻の商船に3万人以上を乗船させたメディナ・シドニア率いる無敵艦隊がリスボンを出発し、イギリスへ向かいます。イギリスに上陸する作戦で陸戦隊を乗せていました。しかし、アルマダの海戦で敗北しスペインへ帰還します。これよりスペイン大帝国は凋落することになります。しかし、1回の海戦に敗れただけでは国家は衰退しません。この裏にはイギリスとオランダの徹底したプロパガンダ攻撃がありました。

「彼ら(スペイン人)は村々に押し入り、老いも若きも身重の女もことごとく捕らえ引き裂きずたずたにした」
「彼らは誰か一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、誰が一撃のもとで首を斬り落とせるかとか賭けをした」
「ようやく足が地に着く程度の絞首台をつくり、十三人づつ吊るし、生きたまま火をつけた」
「殺さずにインディオの両手に斬りつけ、辛うじて両手が腕にくっついている状態で、山へ逃げ込んでいるインディオたちのところへ手紙を持って行けと命じた」


 こうしたプロパガンダによってスペイン人は自分の国の歴史に誇りがもてなくなり、衰弱、凋落していきます。自信を喪失し、自己嫌悪に苦しみ、自虐に親しみ、淋しく自国を嘲笑する国民に成り下がっていったのです。

 「人が喋っているのを聞けば、どこの国でおぎゃあと言ったか、すぐ分かる。
  イギリスを賞め賛えていたら、そいつはイギリス人だろう。
  プロシャの悪口を言っていたら、そいつはフランス人だろう。
  スペインの悪口を言っている奴、そいつはスペイン人だ」


 徳川幕府がオランダと通商を行う際にもオランダ側の反スペイン宣伝は相当なものがあったといわれており、世界各国にスペインの悪口を吹いてまわったと思われます。スペイン人の残虐性を表す「銅版画つきの想像絵」やインディオ虐殺話が世界に配られました。私の手元にある書にも人間を火あぶりにしている絵があります。世界史の授業でも見たような記憶があります。

 さて、これは歴史ですが全く同じことが今現在、日本で起きているのは誰の眼にも明らかでしょう。第二次世界大戦で「日本が大陸を侵略した」「アジアの人を苦しめた」「日本兵は残虐なことをした」「南京大虐殺」「バターン死の行進」という捏造・・・「日本の悪口を言っている奴、そいつは日本人だ」



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
参考サイト
 【はじめて書かれる地球日本史(41)西欧の野望・地球分割計画(6) 西尾幹二
   http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2441.html
 WikiPedia「無敵艦隊」「スペイン帝国」

添付画像
 カルロス1世 / カール5世(PD)

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終戦当初の日本人の意識

日本人は洗脳された。

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 昭和20年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、大東亜戦争の戦闘は終結しました。終戦当初、GHQは日本占領に乗り込みますが、静かな日本人に驚きをもったといいます。イラク戦争を見るとわかりますが、戦後もテロがかなり抵抗しています。「カミカゼ特攻隊」ほどの抵抗を見せた日本ですから占領軍もかなりの抵抗を予想していたようです。

 やってきた占領軍は新聞やラジオだけでなく、民間の手紙も検閲を行いました。検閲にひかかった手紙を評論家の江藤淳さんが米国のメリーランド大学で調べて本にしています。その中に以下のような手紙があります。

「突然のこと(敗戦)なので驚いています。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」

「昨日伊勢佐木町に行って、はじめて彼等(米兵)を見ました。彼等は得意げに自動車を乗り回したり、散歩したりしていました。
 橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰をおろして、肩にかけた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしない軍隊に負けたのかと思うと、口惜しくてたまりません」


 日本国民は口惜しさを持ち、米国を憎んでいたということです。日本人を無差別に殺戮した米国、日本を破壊した米国に対して憎しみをもつのは順当な感情です。また日本が悪いことしたとも思っていないでしょう。
 評論家の西尾幹二氏によると昭和23年ごろから変化があったが、終戦当時は「日本は負けていない。科学の力に負けた」(原子爆弾を指す)不服従の意志があった、そんな雰囲気があったと述べています。

昭和20年8月29日読売新聞
「もとより大詔を拝して謹まざる国民は一人としてないが、そんな筈はないという気持ちでこの敗戦の事実を受け取る態度は、今日に至るもなお跡を絶っていないのである」

 昭和20年9月5日、東久邇宮首相(ひがしくにのみや)首相は
「戦争終結の決断はひとえに天皇陛下の大御心によるものであって国民は戦争努力の足りなかったことを陛下にお詫びしなければならない。」という趣旨の演説をしています。日本人が静かだったのは天皇陛下が戦争終結を述べたことと、日清戦争後の三国干渉による「臥薪嘗胆」の経験があったからでしょう。

 GHQは日本の静けさを不気味に思い、日本人の不服従を感じ取り、ここから7年間の追撃線をしかけ、日本人に罪悪意識を植え込み、プライドを破壊し、精神をズタズタにしていきます。「焚書」による歴史・文化の抹殺、個人の手紙にまで及んだ「検閲」「真相箱」「太平洋戦争史」による歴史の捏造歪曲、日本解体イデオロギーを注入した「日本国憲法」「公職追放」クエーカー教徒を皇太子の教育係にし、「家族制度」を破壊、「土地改革」「財閥の解体」による日本弱体化、「神道指令」そして「東京裁判」・・・

 昭和21年(1946年)3月20日ダイク代将が報告した「日本人の洗脳」に関する指令
「現在なお、いくさなのです。平時の戦争ではないのです。戦争中は相手のバランスを崩そうとします。右のジャブをうまく出し、相手が立ちなおる前に左のジャブを出すということです。日本人の教育のため、一つの指令を日本人が十分理解してからさらに他の指令を出すという意志は私共にはありません」

 そして日本人は洗脳され、自虐に親しむようになり、国家意識は希薄になり、3S(スクリーン、スポーツ、セックス)といった快楽におぼれ、「今だけ自分だけ金だけ」を求める国民に成り下がっていきました。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)

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 終戦の日の皇居(PD)

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昭和天皇の広島行幸

広島復興の起点。

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 昭和21年2月より昭和天皇は全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任だとお考えになり、全国巡幸を始められました。

 そして、昭和22年12月5日~8日、昭和天皇は広島へ行幸されました。

広島市長浜井信三氏
「市中を展望していただくために、屋上へとご案内申し上げた。」
「陛下は市中のあちこちを眺めておられた。」
「『家が建ったね』。とポツンと一言おっしゃった。そして感慨深げに街の方へ目をやっておられた」


 護国神社跡で昭和天皇は巡幸の奉迎場では初めてお言葉を述べられるという被爆地・広島に対する特別の配慮がありました。
「広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う。皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」

 原爆ドームを背景に集まった7万の広島市民は「天皇陛下万歳!」を繰り返します。原爆と敗戦によって打ちひしがれた広島市民はどれだけ勇気づけられたでしょうか。広島復興の起点はここにあるような気がします。私は広島で生まれ育ちましたがこの話は一度も聞いたことがありませんでした。「天皇は人間宣言をした」というのは学校では教わりました。

 昭和21年1月1日昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発布しています。これはよく人間宣言と言われており、GHQの要望により神格化否定の一文をいれていますが、昭和天皇は自分が神だと一度も言ったことはなく、後の記者会見で昭和天皇は日本国民が日本の誇りを忘れないように、立派な明治大帝の考えがあり、日本には独自の民主主義の伝統があることを思い出して道を示すことが目的だったと語られています。昭和21年当時の国内報道でも人間宣言のことが報じられた形跡はなく、当たり前のこととして受け止められたようです。おそらく後になってGHQなり反日思想を持つ団体などが皇室を賤しめ、日本人を賤しめるため「人間宣言」と言い始めたのでしょう。

 昭和天皇の全国巡幸をGHQが許したのは「神」である昭和天皇が国民の前に姿を現すことにより、「人間」として認識させ、権威を失墜させようとする意図があったと思われます。ところがどっこい万歳三唱の雨あられであり、GHQは驚いたことでしょう。日本では「神」というのは徳のあるものを「カミ」といいますが、GHQは「GOD」と誤解釈していたわけです。また天皇陛下は神話の時代から民のために祈り、民とともにあり、欧州のように権力と財力を持って民を従わせるという威張った皇帝ではないですから、感覚の違いがあったのでしょう。この国民の反応に驚いたGHQは広島行幸後、全国巡幸を中断させました。

「朕は、茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾(なんじ)臣民と共に在(あ)り」終戦の詔書の一文より。(「赤誠」とは偽りや飾りのない心 「信倚」は信じるという意味)

「朕は爾(なんじ)等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき)を分たんと欲す」新日本建設に関する詔書の一文より。(「休戚」とは喜びも悲しみも、という意味)

 天皇陛下は国民とともにあられました。




参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
参考サイト
 Wikipedia「昭和天皇」「人間宣言」
添付画像
 昭和天皇の全国巡幸(1947年・広島)(PD)

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昭和のカラー画像 http://www.youtube.com/watch?v=EcJN4MNFAhM

ビルマの夜明け

ビルマ独立。

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 昭和15年(1940年)11月23日タイとフランス植民地軍との国境紛争が勃発。当初攻勢だったタイ軍でしたが、フランスが重火器を導入し、一転劣勢となり押し捲られます。ここで日本が仲介し、昭和16年(1941年)5月8日に東京条約を結びタイはラオスメコン川右岸及びカンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州を獲得します。このとき日本はタイでの無害通行権を得ています。
 昭和16年(1941年)12月8日、日本は連合国へ宣戦布告(タイは翌年1月25日に連合国へ宣戦布告)。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第15軍はタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手します。12月15日ビクトリアポイント(現在のコートーン)を占領。12月28日タイのバンコクでビルマ人を集め「ビルマ独立義勇軍」を結成。年明けに日本軍はタイから国境を越えタボイ、トングーへ入りラングーンへ向けて進撃します。翌昭和17年3月8日には首都ラングーンを占領しました。そして政治犯として刑務所に収監されていたバー・モウを解放し、彼を行政府の長官に就任させます。

 ビルマ初代首相タキン・ヌー氏
「ビルマの民は日本軍を信頼していた。日本の爆撃機が飛んできても避難しないで着ていたシャツを破り、それを振って歓迎した。」

 ヤンゴン大のタン・タット歴史学教授
「神のごとく振舞ってきた英国人が青ざめ、逃げ惑うのは見ていて痛快だった。彼らの手先だったインド人がご主人様の顔色に敏感に反応して、まるで沈没する船から逃げ出すネズミのように群れを成してベンガルに逃げ出していった」

 タキン派(民族解放派)コドー・マイン氏
「私の人生で今日ほど幸せだったことはない。わが国土から英国が追放され、偉大なアジア民族が馳せつけて他のアジア民族を解放してくれた。我々に古代の遺産と国土と自由、宗教、文化を取り戻してくれた。私は死ぬ前にこの幸せな日を見ることができた喜びに泣いた」

 バー・モウは昭和18年(1943年)3月に日本を初訪問し、天皇陛下に謁見し、東條首相と会談しました。7月には新憲法の最終草案を正式承認して、バー・モウを満場一致で国家代表に選出。8月1日、ビルマは独立宣言します。

「本日ビルマは50年以上にわたる英国の領有の後、世界の自由にしてかつ主権を保有する国家の間にその当然占むべき地位を回復セリ。ビルマは連綿として絶えざる長き歴史を通じ、誇りをもって当然の地位を占め来り、その間、ビルマの光栄は天における月日の如く輝きたり」

 外相に就任したウー・ヌー演説
「歴史は高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」

 ビルマ婦人連盟会長キンママ・モウ女史(バー・モウ夫人)
「私たちはこれまでビルマの女性としてやってきた。これからはアジアの女性たらねばならぬ」

 ビルマの独立はタイのピブン首相、フィリピンのラウレル大統領など、東南アジアの各国の首脳がこぞって慶祝したのをはじめ、ドイツが日本の堂々たる態度に敬意を表したほか、スペイン、アルゼンチンが共に慶賀を表し、フランスの新聞がアジアにおける日本の軍事的存在感が拡大するだろうと伝えました。

 こうした歴史は今の日本国内では意図的に抹殺されてしまっています。イギリスはビルマを戦後の1948年に独立させたなどと言っています。そうではありません。

バー・モウ「ビルマの夜明け」
「真実のビルマの独立宣言は1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国であった」

 これが歴史の真実です。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
参考サイト
 Wikipedia「東京条約」「タイ・フランス領インドシナ紛争」「ビルマの戦い」
添付画像
 昭和18年の大東亜会議に出席した各国首脳。前列左端がビルマ軍の軍装姿のバー・モウ。続いて、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース(PD)

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ビルマの独立への思い

イギリスの侵略を受けたビルマは日本とともに立ち上がった。

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 19世紀に入ってからビルマはイギリスの侵略を受け、1886年にはイギリス領であったインドに併合されてその1州となってしまっいました。ビルマ人は次第に「白人には勝てない」と、無気力になっていきましたが、日露戦争で日本が史上初めて白人を倒したのを契機に独立の気運が高まります。独立運動家のオッタマ僧正が2回も日本に来日し、「日本」という著書を書き、ビルマ国民の奮起を促しました。そして青年仏教徒連盟を結成、改組して仏教徒団体総評議会を結成して、不服従抵抗を展開しました。オッタマ僧正はビルマ独立を見ることなく昭和14年(1939年)に死去しました。しかし、その思いは有志に受け継がれます。

 ヤンゴン大のタン・タット歴史学教授が大東亜戦争の頃のビルマを語って
「ビルマ人はとっくに日本人を知っていた、なぜなら日露戦争の実写映画を見ていた。英国が日英同盟の誼(よしみ)から上映したのだろうが、ビルマ人の受け止め方は違った。小さな日本人が大きな白人をやっつけていた」

「日本でパイロットを目指すビルマ青年が飛行機を操縦してラングーンの空を飛ぶ。あのシュエダゴンパコダの空を」(昭和10年日本の映画「にほんむすめ」東映)
「飛行機は特別の意味があった。白人の力の象徴だった。それをビルマ人が操縦する。それだけで驚きだった。日本人が喜んで教える姿も驚きだった」


 昭和16年(1941年)10月、ビルマ首相のウー・ソウはロンドンにチャーチル首相を訪ねて独立交渉をしますが、チャーチルに冷たくあしらわれます。今度は米国へ行き、F・ルーズベルト大統領に会いに行きます。しかしそこでも失望させられます。イギリスもアメリカも民族自決、国民の望む政府という理想に満ちた大西洋憲章に有色人種を適用する考えはありませんでした。
 ウー・ソウはラングーンに帰る途中、偶然にも乗り継ぎのハワイで日本軍の真珠湾攻撃に出くわすことになります。日本の力をその目で確認したウー・ソウはとって返し、ポルトガルのリスボンに入ります。(ポルトガルは中立国)ここから彼の行動は日本の外務省の記録に残っています。

「12月31日午前、ビルマ首相ウー・ソウが密かに大使を来訪せり。ハワイより引き返して大西洋を経て当地着。帰国のための飛行機待ち合わせの間を利用して苦心来訪せる趣なり。その申し出は左の如し。

 今やシンガポールの命運旦夕に迫りビルマ独立のための挙兵には絶好の機会と認められる。日本がビルマの独立尊重を確約せらるるにおいてはビルマは満州国のごとく日本の指導下に立つ国として日本とともに英国勢の駆逐にあたり、また、日本の必要とする資源は悉く提供するの用意あり


 これは真珠湾攻撃を見て思い立ったというだけでなく、それまでオッタマ僧正の教え「長年のイギリスの桎梏(しっこく)からのがれるには、日本に頼るしかない」を聞き、日本をずっと見てきておりどのような国かどのような国民性かを知っていたからでしょう。

 残念ながら日本の外交暗号電文は連合国に解読されウー・ソウはナイロビに着いたところで英国に逮捕され監禁されます。この事件を知ったF・ルーズベルトはチャーチルへ手紙を送っています。

「私はビルマ人が好きではありません。あなた方もこの五十年間、彼等には随分手を焼かれたでしょう。幸い、ウー・ソウとかいう彼らの首相はいまやあなた方の厳重な監視下にあります。どうか、一味を一人残らず捕らえて処刑台に送り、自らのまいた種を自ら刈り取らせてやるよう、願っています。」

 ウー・ソウは逮捕されましたが、その願いは実現することになります。昭和17年1月末より日本軍第15軍とボーモージョー(鈴木大佐のビルマ名)率いるB・I・A(ビルマ独立義勇軍)がタイより国境を越え、ビルマへ進攻。ビルマ人は
「ドウバマー(我々のビルマ)!」と歓声をあげ、日本軍とビルマ独立義勇軍を迎え入れました。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 徳間文庫「ビルマ独立秘史」泉谷達郎(著)

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 ビルマ国境へ向かう日本軍第15軍(PD)

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イギリスの侵略をうけたビルマ

白人こそが侵略者。

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 19世紀当初、ビルマ(現ミャンマー)は清国を宗主国としていました。しかし、その後イギリスの侵略を受けます。1824年にビルマ戦争の火蓋が切って落とされます。清国は援軍を出し、ビルマ軍と共にイギリスと戦いますが、敗れ領土の一部をとられてしまいます。
 1852年、さらにイギリスは侵略を開始し、ビルマは再び清国に援軍を要請しますが、イギリスはフランスを味方にして天津攻略などを行い、清国をかく乱しており援軍どころではない状況にしてしまっています。実に狡猾なイギリスのアジア侵略が見えてきますね。そしてビルマは無残な結果となります。1885年にはビルマ国王シーボウは降伏し、幽閉されることになります。英清条約によって清国とビルマの関係は切り離されてしまいます。1886年、ビルマはイギリス領であったインドに併合されてその1州となってしまったのです。

 これよりビルマでは暗黒の時代に入ります。公用語は英語になり、ビルマの民族衣装ロンジーは侮蔑され、ビルマの伝統的教育を解体されます。ごく一部のビルマ人のみ教育を受けることができ、あとのビルマ人は白人のよき下僕となることが良いこととされ扱われるようになります。日本は明治時代の頃です。
 イギリスの植民地支配は巧みで、インド人労働者を大量にビルマに送り、資本を投入し、ビルマ人労働者を圧迫しました。インド人は労働以外にも農業開発資金を貸し付ける金融業者として、あるいはあらゆる商業経済に属する者としてもビルマ人の経済を圧迫しました。インド人とビルマ人を反目させ、その上にイギリス人が君臨する。デバイド・アンド・ルールです。さらにビルマは支那人の移住にも悩まされ、イギリス、インド、支那から二重三重に搾取されるようになりました。

 イギリスに支配されたビルマ人はどんどん無気力で無自覚になっていきました。1900年頃よりビルマ独立運動を展開していたオッタマ僧正は、当時のビルマ人の多くは港にイギリスの巨大なタンカーが停泊し、本来ビルマ人のものであるべき石油がどんどん収奪されていくのを見ても、自分達の血が吸い取られていくに等しい痛みを感じることもなく、イギリスはあんな立派な船が作れるすばらしい国なんだと、むしろ憧憬の念をもってタンカーを眺めていたといいます。

 無気力、無自覚になったビルマ人に転機が訪れたのはボーア戦争(1899年~1902年)と日露戦争(1904年~1905年)でした。ボーア戦争は南アフリカに移住したオランダ系農民が、原住民とともに、イギリスの統治に反抗して戦った戦争です。結果、イギリスの勝利となりましたが、ビルマ人に大きな影響を与えました。日露戦争は言うまでもありませんね。我々日本人の先人が有色人種として初めて白人を倒した戦いです。

 ビルマの歴史家ティン・アウン博士
「この頃にビルマの最初の映画館が出現したが、上映されたのはボーア戦争と日露戦争の記録映画であった。観客はスクリーンに写し出されたマフェキン(イギリス軍に包囲されたボーア人の町)のボーア人救出に安堵のため息をつき、日本軍の兵士が鉄道で輸送されるロシアの軍隊を襲撃する場面に拍手を送った。
 その頃は映画の検閲などもちろん無かったうえに、イギリスの役人たちは、ボーア人に対するイギリスの勝利を印象づける映画や、どっちみちイギリスの同盟国(日英同盟)である日本がロシアに勝つ映画は、ビルマ人に見せても害はないと考えていた」


 オッタマ僧正は日露戦争の日本勝利に感激し、日本に2回行き、その感激を「日本」という著書に表し、ビルマ国民の奮起を促しました。

「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結、奮起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」「長年のイギリスの桎梏(しっこく)からのがれるには、日本を頼る以外に道はない」

 オッタマ僧正は1939年(昭和14年)に死去しました。しかし、僧正のビルマ独立の悲願はその約4年後に訪れます。その契機となったのは大東亜戦争でした。日本がアメリカ、イギリス、オランダの横暴に対して立ち上がったからです。




参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
参考サイト
 Wikipedia「ミャンマー」
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 1895年のラングーン(PD)

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デバイド・アンド・ルール

白人の常套手段、分割統治。

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 デバイド・アンド・ルールは民族間を分断し、民族同士が力を結集しないように、あるいは民族間を争わせて宗主国が統治しやすいように、宗主国への抵抗を和らげる植民地支配政策のひとつです。職業や宗教による民族分断の手法もあり、例えばヒンズー教徒と回教徒を仲たがいさせるなどあります。

 第二次世界大戦以前、イギリスはアジア植民地支配の覇者でした。インドでは一定のインド知識層を優遇して懐柔し、民族内で差別化したり、インド独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織をつくり、宗教間で対立するよう仕向けました。
 ビルマ(現ミャンマー)ではインド人を使ってビルマ人を支配させ、ビルマ人の怒りの矛先がインド人へ向くよう仕向けました。終戦後、ビルマに抑留になった日本兵の記録を見ていると、ビルマ人が日本兵相手に商売していたのがバレてしまい、イギリスの司令官がインド人を使って禁止令を出しました。ビルマ人の怒りの矛先がインド兵に向かい、インド兵が非番で休養しているときにビルマ人が集団で襲うのです。そしてそのインド兵は抑留されている日本兵のところに逃げてきました。インド人とビルマ人のいざこざは絶えず、集団で睨みあう場面にも遭遇し、
「マスター(日本兵のこと)はこっちに味方してくれ」といわれ、困ったと書いてあります。

 インド、ビルマ統治の成功に味をしめたイギリスはマレーにデバイド・アンド・ルールを持ち込みます。マレー半島は3つに分割され、シンガポール周辺はイギリスの直轄地とし、残りを2つに分けていました。マレー人は農業に従事させ、鉱山の開発や天然ゴムの生産にはインド人や支那人連れてきて使いました。土地を分割し、そして職業による民族分断をはかったのです。戦後、マレー人と支那人の対立が起こり、そのためシンガポールが独立国として誕生したのは多くの方がご存知でしょう。デバイド・アンド・ルールは多くの後遺症を残し、インドやミャンマーでも現在、後遺症に悩んでいるといわれています。

 これらは白人の植民地支配地域だけの話ではなく、日本でも存在します。戦後、GHQは朝鮮人と台湾人を「三国人」とし日本人と区別しました。台湾は中華民国が統治することになったので、台湾人は戦勝国民とされました。朝鮮人は威張りまくり朝鮮進駐軍を名乗り、暴虐の限りを尽くしましたが、GHQは積極的に取り締まろうとせず、日本人と朝鮮人が対立するよう仕向けたのです。台湾人の当時の記録を見てみると朝鮮人が物を盗んだので、取り返そうとしたら
「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!」と、たちまち数人に取り囲まれたと述べています。汽車の中で朝鮮人は執拗に日本人乗客をいびり続け、若い女性がトイレへ行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で降りるよう指示するなど、この台湾人ははらわたが煮えくり返る思いで眺めていたと書いています。
 日本民族、朝鮮民族、台湾民族の三民族が力を結集し、白人に牙を向いたのが大東亜戦争ですから、連合国としてはこの三民族を分断せねばならなかったのです。韓国を独立国としてたちあげ、反日政権を据えたのもデバイド・アンド・ルールです。

 連合国は沖縄にもデバイド・アンド・ルールを適用しました。「琉球」という言葉を戦後、米軍が復活させます。琉球政府、琉球大学、琉球銀行など「琉球」の文字を使わせます。琉球人(ウチナンチュ)であり、大和人(ヤマトンチュ)ではないという意識を植え付けるのです。米軍には心理作戦部隊というのがあり、沖縄県民の日本復帰願望を削ぐため
「琉球はもともと独立国だった。それを廃藩置県で日本に侵略された。戦前、沖縄人は日本国民から差別されていた」という歴史観を流布していました。マッカーサーは「琉球人は日本人に非ず」と発言しています。

 我々はこういったカラクリを良く理解しておかなければなりません。韓国人が反日感情を持つ、日本人が嫌韓感情を持つというのはデバイド・アンド・ルールがもとになっています。さすがに沖縄では琉球独立云々といったり、植民地支配されたなどという人はほとんどいないでしょうけど、本土から沖縄へ行った人が沖縄の人が流暢な日本語を話すのに驚いた、と言うのとか、沖縄の人が本土人へわだかまりを持つというのはいくらか残っていると思われます。またメディアが軍の強制によって集団自決したと大騒ぎするとか、「日本は単一民族」と言ったらヤイヤイ騒ぐというのもあり、白人にしてみればデバイド・アンド・ルールにまんまとひかかってくれているな、と思うわけで「沖縄にしろ本土にしろ日本人を大量虐殺したのは自分たちなのに、バカなイエローモンキーどもだ」というのが白人の本音でありましょう。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人 高山正之(共著)
 日本教育新聞社「日本人よありがとう」土生良樹(著)
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神」蔡 焜燦(著)
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
参考サイト
 WikiPedia「インド」


添付画像
 琉球政府庁舎1953年(PD)

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闘将・角田覚冶、テニアンに死す

闘将の最期。

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 昭和19年(1944年)2月。角田覚治中将はテニアン島へ着任。第一航空艦隊司令長官に就任し、マリアナ沖海戦(あ号作戦)を支援することになります。

 テニアンに着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧弱さに激怒します。
「いったい大本営はこの一年間何をしてきたんだ!」。この頃、クエゼリン、ルオット島(マーシャル諸島)の日本軍守備隊は玉砕。トラック島が奇襲攻撃を受けています。

 見敵必戦・角田覚治中将を部下はこう語っています。
「長官は一口で言えば上杉謙信のような人だ。黙っているが、いざとなると大将自ら単騎、敵の本陣に斬り込むといった猛将だよ」

 見敵必戦、索敵機が3群に分かれる敵機動部隊を捉え、参謀たちが航空機温存を唱えるなか、125機全機を発信させ、2群の敵を攻撃しますが、敵1群がテニアンを攻撃。日本軍の攻撃隊は損害を受け、島の施設は破壊されます。この後、連合艦隊からの要請によりパラオ支援で航空機の損失をおい、南方へ航空隊を送り込みながらもグアム、テニアンは米軍の攻撃を受けます。

 6月15日米軍はサイパンへ上陸。テニアンからサイパンは目と鼻の先であり米艦隊を見ながら見敵必戦の角田覚治中将は独断で全航空機の発進を命じます。しかし、グラマンの大編隊とVT信管などの新兵器によりことごとく撃墜され、テニアンの航空戦力は灰燼に帰します。

 一機の航空戦力もなくなってしまった総軍8,500は敵の上陸に備え防御作りに追われます。日本人民間人は1万3500人ほどおり、ほとんどは南洋興発の社員でした。民間人は昼夜をわかず、野戦陣地の構築に協力しました。角田覚治中将は
「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人のように玉砕しなくともいいのですよ」と笑顔で最後の挨拶をして回ります。

 昭和19年7月24日。圧倒的大戦力で米軍がテニアンに上陸してきます。その兵力は海兵隊2個師団。54,000.対する日本軍は緒方敬志大佐の第29師団第50連隊と第43師団第135連隊第1大隊と海軍部隊の約8,500。日本軍は斬りこみ隊を組織し、夜間、壮烈な攻撃を行います。しかし、多勢に無勢。27日には司令部を放棄し、南部のカロリナス洞窟に後退。31日に最後の電報を打ちます。

「今より全軍を率いて突撃せんとす。機密書類の処置完了。是にて連絡を止む」

 このとき大本営から電報が入ります。

清水中佐
「長官、大本営からテニアンを脱出せよとの電報が届いています」

 カロリナス沖に迎えの潜水艦を用意するという。この頃、優秀な人材が皆戦死してしまうので軍部では非常に困っていたようです。また、グアムやテニアンにいたパイロットや技術を持った工兵をなんとか脱出させようとしていました。

角田中将
「もう間に合わんよ」

 8月2日朝、最後の突撃命令が出ました。飛行士の横森直行少尉が出発しようとすると、司令部に呼ばれました。このとき角田中将は階級章をつけていませんでした。

横森少尉
「お先に出発します」

角田中将
「横森、ご苦労だった」

 そして角田中将は2つに割った「オニギリ」の一つを差し出します。最後のお別れに酒でもない、水でもない、「オニギリ」でした。

 そしてその後、角田覚治中将は手榴弾二つをもち「じゃあな」と言って笑顔を残して洞窟から姿を消したと戦史は伝えています。



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
   『抗命の罪はこの角田が負う テニアン島で最後まで闘志を失わず』野村敏雄
参考サイト
 WikiPedia「角田覚治」「テニアンの戦い」「マリアナ沖海戦」

添付画像
 テニアンで破壊された日本軍機(昭和19年7月30日 PD)

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