昭和天皇の広島行幸
広島復興の起点。
昭和21年2月より昭和天皇は全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任だとお考えになり、全国巡幸を始められました。
そして、昭和22年12月5日~8日、昭和天皇は広島へ行幸されました。
広島市長浜井信三氏
「市中を展望していただくために、屋上へとご案内申し上げた。」
「陛下は市中のあちこちを眺めておられた。」
「『家が建ったね』。とポツンと一言おっしゃった。そして感慨深げに街の方へ目をやっておられた」
護国神社跡で昭和天皇は巡幸の奉迎場では初めてお言葉を述べられるという被爆地・広島に対する特別の配慮がありました。
「広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う。皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」
原爆ドームを背景に集まった7万の広島市民は「天皇陛下万歳!」を繰り返します。原爆と敗戦によって打ちひしがれた広島市民はどれだけ勇気づけられたでしょうか。広島復興の起点はここにあるような気がします。私は広島で生まれ育ちましたがこの話は一度も聞いたことがありませんでした。「天皇は人間宣言をした」というのは学校では教わりました。
昭和21年1月1日昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発布しています。これはよく人間宣言と言われており、GHQの要望により神格化否定の一文をいれていますが、昭和天皇は自分が神だと一度も言ったことはなく、後の記者会見で昭和天皇は日本国民が日本の誇りを忘れないように、立派な明治大帝の考えがあり、日本には独自の民主主義の伝統があることを思い出して道を示すことが目的だったと語られています。昭和21年当時の国内報道でも人間宣言のことが報じられた形跡はなく、当たり前のこととして受け止められたようです。おそらく後になってGHQなり反日思想を持つ団体などが皇室を賤しめ、日本人を賤しめるため「人間宣言」と言い始めたのでしょう。
昭和天皇の全国巡幸をGHQが許したのは「神」である昭和天皇が国民の前に姿を現すことにより、「人間」として認識させ、権威を失墜させようとする意図があったと思われます。ところがどっこい万歳三唱の雨あられであり、GHQは驚いたことでしょう。日本では「神」というのは徳のあるものを「カミ」といいますが、GHQは「GOD」と誤解釈していたわけです。また天皇陛下は神話の時代から民のために祈り、民とともにあり、欧州のように権力と財力を持って民を従わせるという威張った皇帝ではないですから、感覚の違いがあったのでしょう。この国民の反応に驚いたGHQは広島行幸後、全国巡幸を中断させました。
「朕は、茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾(なんじ)臣民と共に在(あ)り」終戦の詔書の一文より。(「赤誠」とは偽りや飾りのない心 「信倚」は信じるという意味)
「朕は爾(なんじ)等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき)を分たんと欲す」新日本建設に関する詔書の一文より。(「休戚」とは喜びも悲しみも、という意味)
天皇陛下は国民とともにあられました。
参考文献
PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
参考サイト
Wikipedia「昭和天皇」「人間宣言」
添付画像
昭和天皇の全国巡幸(1947年・広島)(PD)
昭和のカラー画像 http://www.youtube.com/watch?v=EcJN4MNFAhM
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