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2011年9月

マッカーサーを激怒させた男

マッカーサーを激怒させたパケナム記者。

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 ニューズウィーク東京支局長で英国人のコンプトン・パケナム記者は米軍占領時代に日本を取材し、昭和天皇の信頼が厚かった松平康昌や鳩山一郎、吉田茂、樺山愛輔、白洲次郎、野村吉三郎らと交流がありました。この人の肉筆の日記が発見され、ジャーナリストの青木冨貴子さんが平成21年(2009年)新潮45の8月号よりパケナムの日記をもとに戦後の日米秘史を連載しました。平成23年には本も発売されています。

 昭和23年(1948年)、グルー元駐日大使を名誉会長とし、ドーマンなどの知日派を集めた対日協議会が発足します。活動の中心となったのは、ニューズウィークの外交問題編集局長ハリー・カーンです。カーンは戦前からの日本の指導層と親しいコンプトン・パケナムを東京顧問としました。パケナムは昭和21年夏には日本に入国しており、公職追放された元駐米大使の野村吉三郎に会いにいき、銀行口座も凍結され、収入もなく、病身の妻の薬すら手に入れることができないのを目にし、野村に缶詰やタバコを差し入れするようになります。そして早速「占領は失敗の連続」とニューヨーク本社へ打電。

昭和22年(1947年)1月27日記事
「産業界、金融界、商業界のリーダー25,000から30,000人が職を奪われることになった。・・・要するに日本の経済構造全体を支えている人々が仕事から締め出されようとしている」

「日本でもっとも活動的で能率がよく、経験豊かで教養もあり、国際感覚をあわせもつ層、まさにアメリカに最も協力的な層が切り捨てられることになった」

「日本経済の主導権が新円長者や、ヤミ投機家の手に移り、極左グループに利用されて、隙を狙っているソ連に好都合になる」


 そしてこの追放抗争については占領軍将校のなかにも困惑する勢力があり、実態調査のためにワシントンから日本に調査団を送るべき、と主張しました。

「自分の指揮下にある民政局の行動がどのようなイデオロギー的意味をもっているのかについて、果たしてマッカーサーは気づいているのだろうか」

 ハリー・カーンも来日し、取材してまわり、
「日本で起きている驚くべき危機的状況をはじめて包括的にリポートする」と発表します。

「真に抜本的な対策がとられないかぎり、・・・アメリカの世界再建と共産主義封じ込め政策の一環として日本を『極東の工場』にする機会は消えうせるだろう」

「公職追放があれほど大規模に行われたのは、ひとつには民政局のホイットニーの性格ではないか」

「民政局内でもホイットニーは人気のある人物とはいえない。日本人は”キツネが憑いているのではないか”とさえ言っているいるのだ」

「マッカーサーの孤高を保つ姿勢によって日本人の目には彼が一種の神のように見えていた・・・しかし、その姿勢がかえってその後に起こった多くの出来事からマッカーサーを切り離すことにもなったのだ」


 マッカーサーは激怒し、パケナムを「ファシスト」、カーンを「反動」とののしり、パケナムの記者証再発行を拒否するという異例な事態にまで発展しました。

 この頃のGHQは民政局(GS)と参謀第二部(G2)の対立があり、民政局がアカ系を支持して、公職追放を推し進めていました。参謀第二部はこのやり方に困惑し、反対し、吉田茂の日本自由党に肩入れしていました。ホイットニーは民政局のドンで影の実力者は配下のケーディス大佐です。ケーディスといえばGHQ憲法の仕掛け人です。パケナム記者が「イデオロギー」と言っているのは民政局内のアカ系思想のことで、GHQ内でホイットニー一派を嫌う者たちは彼らのことを「ピンカ-ズ(赤いやつ)」と呼んでいました。GHQ憲法はピンカーズが作ったわけです。

 パケナム記者のバックにはトルーマン大統領がおり、陸軍長官からの命令により、パケナムは日本再入国を果たすことができました。これがマッカーサーとトルーマンの亀裂第一歩となりました。
 昭和23年ごろから民政局の影響力は次第に低下していき、影の実力者ケーディス大佐は失脚し、昭和24年、吉田長期政権が本格的スタートすると占領政策は「反共」へ大転換していくことになります。



参考文献
 新潮45・2009.8「昭和天皇に密かに通じ、マッカーサーを激怒させた男」青木冨貴子
 新潮社「昭和天皇とワシントンを結んだ男」青木冨貴子(著)
 講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
参考サイト
 岡崎久彦 「百年の遺産-日本近代外交史(71)」【「逆コース」を歩む】 占領政策転換、足早に成果
   http://www.okazaki-inst.jp/hyakuisan71.html
添付画像
 「バターン号」で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー(PD)
 

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昭和天皇・マッカーサー会談

戦後間もなく昭和天皇独自の外交が行われた。

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 昭和20年(1945年)9月27日敗戦直後、第一回目の昭和天皇とGHQマッカーサー司令官の会見が行われました。場所は赤坂の米大使館。藤田侍従長、石渡宮相、フェラーズ准将らは隣室で控え、会見に立ち会ったのは通訳をつとめた奥村勝蔵外務参事官だけで37分つづきました。

 マッカーサーは当初、昭和天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう自分の立場を訴え始めるのではないかと予想していましたが、昭和天皇の口からは全く想像していなかった言葉が飛び出してきました。

侍従長の回想
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

マッカーサー回想記
「(天皇は)『すべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたに代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねした』と述べた。明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」

 奥村通訳の会見録には上記の責任発言が記載されていないようで東京裁判を控えて発言の重要性から削除したようです。

 昭和天皇は別の会見で皇室財産を差し出すので食糧を緊急輸入して国民を飢餓から救ってくれと申し出て
「私は初めて神のごとき帝王を見た」とマッカーサーは感動しています。誇張した美談ともとれる話しですが、欧米の価値観から考えると王などは国民と対極にあり、私服を肥やすものと相場が決まっていますから事実感動したでしょう。第一回目の会談で昭和天皇が大使館に到着したとき、迎えにもいかなかったマッカーサーは、会談が終わると昭和天皇をお見送りしました。その時のマッカーサーの様子を側近のフォービアン・バワーズは「我々が玄関のホールに戻った時、元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた」と証言しています。マッカーサーはこうして皇室が日本人にとっていかなるものか、欧米のそれとは全く違うことを学習していったのだと思います。

 天皇マッカーサー会談は11回に及んでいます。ストライキなどの労働運動による治安悪化の懸念や憲法九条についても語られています。昭和天皇は国際情勢の実情から考えて九条には難色を示されています。マッカーサーは九条を強く訴えており、日本の安全保障問題が米軍による沖縄の長期貸与、沖縄基地のほうへ流れていきました。このほか講和条約や共産主義台頭の懸念が話し合われています。明治憲法下でも天皇に政治的権限はありませんが、GHQ憲法制定後も会見は行われており、敗戦と混乱という国家の危機に際して2600年の伝統が昭和天皇を動かしたと言えます。

 昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結。翌27年4月28日、効力発生。昭和天皇はようやく政治から解放されました。翌28年に東京裁判の首席検事だったキーナン検事から
「今度の選挙で吉田氏、重光氏らのなかから誰を指名すればよいと思いますか」と尋ねられた時、昭和天皇は「いまは政治のことから全く離れているので」と答えられました。



参考文献
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 文春新書「父が子に教える昭和史」『マッカーサー会見』秦郁彦
 新潮45 2009/9 『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』河西秀哉
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)

添付画像
 第一回目の会談で撮影されたもの(PD)
 マッカーサーは国際儀礼上ありえないラフな服装で傲慢不遜な態度をとって撮影にのぞみ、天皇の尊厳を傷つけようとしたと思われる。

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霧社事件

霧社事件から高砂義勇兵へ。

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 清国統治時代の台湾では中央山脈や東部の広範囲を支配することができませんでした。後に高砂族と称される生蕃(せいばん)が清の侵略に抵抗し、軍隊が来襲しても撃退するほどの戦闘能力を持った集団だったからです。
 明治27年(1894年)から明治28年(1895年)の日清戦争後、台湾は日本領となりました。日本の統治に入ってからも日本軍は3,000メートル級の高山での行動は経験がなく、5回に渡って探検し、準備し、大正3年(1914年)に入って本格的に帰順していない蕃の討伐に向かっています。最後まで抵抗したのがタイヤル族です。

 昭和5年(1930年)10月26日夜半から翌朝にかけ、武装した霧社のタイヤル族1,200名あまりが、各地駐在所を襲い、宿直員を殺害し、銃器、弾薬を強奪。27日朝、暴徒は地元の公学校(小学校)へなだれ込み、ちょうど本島人(台湾人)と内地人の児童による合同運動会が開かれていましたが、修羅場と化してしまいます。児童父兄含む約140人の内地人が惨殺されます。(浴衣を着ていた現地人1名が内地人と見られて殺害されている)この事件は原住民の帰順は完了したと思っていた総督府に衝撃を与えました。

 この事件の首謀者はモーナ・ルダオといいます。事件の数日前、部族のある家で結婚式が行われていました。たまたま通りがかった巡査にも酒を振舞おうと子供が巡査の手を引っ張ったところ、巡査はその手を振りほどき、なおかつステッキで殴打しました。誇り高き部族への侮辱と感じ取ったルダオたちは、日ごろの圧政への義憤を爆発、巡査を袋叩きするとともに、全社(村)に駐在所襲撃を呼びかけたというのが発端と言われています。また、ルダオの妹が日本人巡査の妻となったものの離縁され、自殺したための私怨という説もあり、そのほか、彼らの誇りだった武器を取り上げたことや、彼らのテリトリーを固定化してしまったこと、男たちを屈辱的な労役に駆り出したことなども原因として言われています。総じていうと文明と文明の接触時に起こる摩擦でありましょう。

 総督府はこの事件の鎮圧に軍、警察を動員し、親日派タイヤル族とともに討伐を行います。首謀者モーナ・ルダオは山中で自決、蜂起側は644人の死者を出して事件は収束しました。この事件で台湾総督石塚英蔵、総務長官人見次郎、警務局長石井保、台中州知事水越幸一が引責辞任しています。
 翌昭和6年にタウツア社が蜂起に与した後に投降した霧社タイヤル族生存者を襲撃するという事件がおき、結果216人が死亡しました(第二霧社事件)。そして、タイヤル族は平地の川中島に強制移住され、稲作を営むようになります。

 大東亜戦争に入るとこの霧社のタイヤル族からも志願が出たようです。一説によると霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われています。高砂義勇隊は大東亜戦争中、最も皇軍に忠誠をつくし勇敢に戦いました。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『霧社事件に秘められた悲劇』若杉大
 中公文庫「高砂族に捧げる」鈴木明(著)
参考サイト
 Wikipedia「霧社事件」「台湾原住民」「タイヤル族」「高砂義勇隊」
添付画像
 事件の舞台となった霧社公学校(PD)

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牡丹社事件

恩讐を越えて。

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 明治4年(1871年)、琉球の宮古島の朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部に漂着しました。乗組員69人のうち、3人は水死、残りはパイワン族の部落、牡丹社(ぼたんしゃ)に救援を求めましたが、仇敵の漢人と間違えて54人が首を切られて殺されてしまいます。生き残った12人は漢人部落に保護され、翌年6月、福建省を経由して那覇に帰還しました。牡丹社事件と呼ばれています。(「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」「琉球漂流民殺害事件」ともいう)

 明治政府では台湾征伐論と非戦論が出ましたが、明治天皇は副島種臣に全権を委ね、柳原前光を副使とし、清国との交渉へ向かわせます。このとき、清国側から同治帝への国書奉呈の謁見の際に、「跪拝の礼」(ひざまずいて礼する)を要求されましたが、日本は清国の属国ではないとして拒否し、「三揖」(立礼三回)を行いました。対等な立場での謁見です。
 日本の使節に対して清国政府は
「台湾東南部の正番は、化外の地(統治の及ばない場所)の民であるため、その所業の責任を負う事はできない」と回答してきました。そこで柳原公使は「彼らの凶悪を懲罰し、文明の征伐を図ることは、開化政府の当然の義務である」との捨て台詞を残して引き揚げました。実際にこの頃、清国は台湾に対しては福建省に属していましたが、消極的支配で東部には実効支配が及んでいませんでした。
 
 明治7年(1874年)4月、近代日本初の海外派兵が行われます。軍艦五隻、舟艇十三隻、兵員3,600名を率いていて台湾へ発進。一月足らずで事件発生地域を制圧します。しかし日本軍の死者は538人も発生。このうち、戦死者はわずか12人、ほとんどがマラリアなどの風土病で死亡しました。2,800人がマラリアを患ったといいます。日本軍は被害にあった日本人の遺骨を集め、現地人で救助にあたった人たちの協力を得て現地に墓を造りました。

 その後、イギリス公使ウェードのとりなしで清国との間に和議がもたれ、清国は「化外の地」発言を翻し、台湾の領有を主張、日本軍の即時撤退を要求してきました。交渉の末、日本は台湾全土の清国領有を容認し、代わりに清は日本の台湾出兵を「住民を守るための義戦」と認め、賠償金50万両を支払うことになり、琉球が日本に帰属することを確認しました。

 日本と台湾の間にはこのような歴史がありますが、平成17年(2005年)6月、台湾原住民パイワン族の使節18人が沖縄県那覇と宮古島を表敬訪問しています。一行はいずれも牡丹社事件の当事者の子孫で、事件の和解と被害者の追悼を目的としていました。このお返しに平成20年(2008年)1月、宮古島関係者が訪台し、牡丹郷の古戦場で地元住民らと「愛興和平」の記念儀式を行っています。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編集)
参考サイト
 Wikipedia「台湾出兵」「宮古島島民遭難事件」
添付画像
 台湾出兵時の日本人兵士(PD)

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清朝皇帝溥儀、満州へ

満州の正当な持ち主。

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 1911年、支那大陸では辛亥革命が勃発し、清国の18省のうち、14省が独立宣言し、孫文は中華民国臨時政府を樹立します。清朝の第12代皇帝宣統帝(溥儀)はラストエンペラーの映画で有名でしょう。彼は政治取引によって退位を余儀なくされ、清朝が滅亡します。溥儀は皇帝の座を追われても北京の紫禁城(しきんじょう)に住むことが許されていましたが、1924年、クーデターが勃発し、北京に危険が迫ってきたため家庭教師のジョンストン博士とともに逃げ出し、日本大使館へ助けを求めました。日本の芳沢公使は剛毅な人だったそうで溥儀を匿います。溥儀はその後、天津の日本租界へ移ります。

 昭和3年(1928年)夏、国民党蒋介石が北伐で北京を制圧したときのこと。蒋介石配下の孫殿英が清朝の王墓「東陵」を爆破して乾皇帝から西太后の墓を荒らすという暴挙を行います。副葬の金銀財宝は奪いつくされ、とくに西太后墓は石棺がひっくりかえされて遺体は屍姦されます。天津の溥儀はこれを聞いて激怒します。溥儀の祖父は漢族を「不逞の家奴」と呼びました(家奴・・・奴隷のこと)。溥儀はここでその言葉が真実と知り、清朝の再興を誓い日本に協力を求めます。その後、昭和6年(1931年)の満州事変によって満州国が建国され、溥儀は満州へ移ります。

 溥儀は日本関東軍が無理やり連れ出して利用したわけではありません。溥儀が自分の意思で日本大使館へ助けをもとめ、保護を受けたのです。そして先祖の土地、満州に戻りたいと考え、自分の意思で満州へ行ったのです。溥儀の家庭教師のジョンストン博士は以下のように記しています。


「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満州に向かったことを知った。
 支那人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったようにみせかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。また最近、皇帝と皇后が南京の蒋介石と北京の張学良に電報を打ち、『当然彼ら(蒋と張)に忠誠心があると仮定して、避難所を要求した』という旨の途方も無い所見が発表されたが、これも同じく嘘である。
(中略)
 皇帝が誘拐され満州に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話しである。皇帝に忠実で献身的な臣下の鄭は皇帝の自由を束縛する牢番ではないことを強調しておきたい。皇帝は本人の自由意思で天津を去り、満州へ向かったのであり、・・・」


 ジョンストン博士は溥儀に密着した日々のことを「紫禁城の黄昏」に書いており、第一級の史料と言われています。東京裁判でも証拠として提出されていますが、もともとインチキ裁判なので却下されています。連合国の都合の悪いものは却下です。日本の侵略など無いことがバレては裁判自体が成立しないからです。
 「紫禁城の黄昏」は岩波書店から出版されています。上智大名誉教授の渡部昇一氏によると全体の三分の一がカットされているのだそうです。しかも中共にとって都合の悪いところばかりカットしてあるそうです。渡部氏は岩波書店にたいして「文化的犯罪」「インチキ出版物」として厳しく非難しています。我々はこうやって歴史を歪められ伝えられてきたのです。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 徳間書店「日本を賤しめる『日本嫌い』の日本人」渡部昇一(著)
 週刊新朝09・8・13「変見自在」高山正之
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/中山理(訳)/渡部昇一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「愛新覚羅溥儀」

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 溥儀の「執政」就任式典(PD)

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満州事変

満州事変は侵略ではない。

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 昭和6年(1931年)9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄路線を爆破。満州事変が勃発します。

 このとき、関東軍の兵力は仙台第二師団を基幹とする14,500人でした。これは条約によって満州在留邦人23万の生命と財産を守るために決められた数が駐屯していました。一方、満州の張学良がひきいる軍閥は満州鉄道沿線に約5万人、その他の地域に21万5千人、合計26万5千人の勢力を持っていました。さらに軍閥の予算の80%を軍事費として使い(行政には20%だけ)、近代的装備を保有していました。

 張学良軍は匪賊と同じで昼間でも訓練のないときは民間住宅に押し入り、ゆすり、たかり、強姦などを行って住民から憎悪と反感を買っていました。夜間になると武器を持って営外にでて悪行を行っていたため、張学良は昼間の演習が済むと夜間は兵士から銃器一切をとりあげて、武器庫に収めてしまうことが多くありました。関東軍作戦参謀・石原莞爾らはこれに目をつけ、9月18日夜間に柳条湖で満鉄路線を爆破し、犯人は張学良軍の反日行動であるとして、3600の兵力で張学良と部下6700名が居る北大営に24センチ重砲をぶっ放します。張学良らは武器を倉庫にしまっていたため、十分に反撃できず、大半はほうほうの態で逃げ出しました。

 張学良軍は表面上は無抵抗を装っていましたが、錦州に拠点を移します。関東軍は幣原弱腰外交の不拡大方針を無視し、錦州を爆撃。またたくまに南満州の主要都市を占領。事前に石原莞爾は朝鮮軍の参謀と連絡を重ねており、朝鮮軍も出動させ、北満州へ進出。11月には馬占山軍と激しい戦闘の結果、黒龍江省のチチハルを占領、翌年2月ハルビンを占領します。

 この満州事変のところだけつまんでみてしまうと政府の抑止を聞かずに関東軍が暴走したという話になります。多くの人はそう聞かされ日本の侵略行為として自虐史観を持っているのではないでしょうか。しかし、軍閥と国民党の不法行為、執拗な嫌がらせの流れを見てみれば、日本人居留民の生命と財産を守るためには武力に訴えるしかないことがわかります。直に被害をうけてきた民衆、満州青年連盟は関東軍を支持しています。また満州は支那のものではありませんでした。満州族のものです。ですから支那から奪ったのではありません。満州の民衆は関東軍を敵視していません。日露戦争以降、民衆は日本軍の規律の正しさを見てきており、ロシアや軍閥などの横暴を見てきています。満州では張学良が民衆に過酷な税を課し、怨嗟の声が満ち満ちていました。民衆にとって日本軍は解放軍として迎え入れられたのです。そして昭和7年、五族協和の理想国家、満州国が建国されました。

 ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)「暗黒大陸中国」より
「あそこ(満州)に暮らす約三千万の中国人には満州国は天国である。(中略) 中国人はただ働けて束縛されずに生きられれば、どんな旗がはためこうと全く気にしない。懐具合がよくて家族が無事でいれば後はどうでもよいのである。台湾、朝鮮、大連統治を見れば、日本は満州国を立派な国にしてくれるであろう。万が一、不具合があったとしても、追い出した連中、常軌を逸した暴君どもよりははるかにましである(中略) 大きな目え見て、何色の旗が翻るかなどという感傷的なことは抜きにして、数百万の人間が幸せに暮らしているのに、損をする人がいるだろうか」

 ジャーナリスト フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ
「満州とは日本人が出かけて行って貪り食った、罪を犯した国だとごく普通の人たちは信じているだろう。日本がそこに行ったのは確かだ。しかしもし諸君が満州に行けば - 満州国 - 日本はサンタクロースの役をこれまで演じていること、満州人が断然幸福であることを発見するだろう。彼らの古いご主人、ロシアと中国はまあ残酷な親方で、ひどく苦しめられていたのだ。平和と安全、政府とビジネスの安定、鉄道の建設、都市の建設、病院や学校をもたらしたのは日本だった」



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリク・ビンセント・ウイリアムズ(著)/田中秀雄(訳)

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 柳条湖の鉄道爆破現場を調査している様子(PD)
 実行者は河本中尉らとされている。これは河本中尉の所属する川島中隊の2,3の将校からの聞き取り、関東軍参謀花谷正の手記によるもの。しかし、石原莞爾は「永遠の謎」と言うだけでそれ以上は語らなかった。

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エルトゥールル号の遭難

トルコとの友好の歴史。

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 明治23年(1890年)9月16日深夜、紀伊半島の先端の港町・串本や、その東に浮かぶ大島付近には午後4時半に暴風警報が出され、風雨は暗闇が迫ると共に強さを増していきました。大島の東の端に立つ樫野埼灯台の宿直室に突然、全身ずぶ濡れの大男が倒れこむように入ってきました。全裸で血を流し、明らかに日本人ではないその大男を見て、宿直員は、これは海難事故だと直感しました。

「おい、どうした?どこの国の船だ?仲間はいるのか?何人いるんだ?」

 主任の瀧澤正浄が日本語でいくら問いかけても通じません。万国信号ブックを取り出して見せると、男は震える指先で赤地に三日月と星を染め抜いた旗を指差した。

「この国旗は・・・トルコか!」

 この時、樫野の村民もがけからよじ登ったトルコ人に出会い、遭難現場を確認し、村へ知らせ、大騒ぎとなり生存者の救助を行います。
 遭難した船はトルコの軍艦エルトゥールル号。横浜から神戸に向かう途中に台風に遭い、岩礁にぶつかり船は沈没しました。乗員650名。生存者69名のうち58名が負傷、うち38名は重傷という大惨事でした。
 大島島民あげての看護と治療がはじまります。この事件は9月19日には新聞の号外で報じられ、20日にはドイツの軍艦ウォルフ号が支援に大島に駆けつけます。生存者はウォルフ号に乗せられ、神戸へ移送されます。翌日、天皇陛下の意向をうけて日本の軍艦八重山が大島に到着しますが、一日違いでウォルフ号が出ていっていました。しかし、八重山乗組員と島民とで埋葬式を行いました。

 エルトゥールル号の乗組員は神戸で順調に回復し、10月11日、軍艦比叡と金剛に分譲し、イスタンプールへ向かいます。12月17日にはエジプトのポートサイドに到着。しかし、ダーダネルス海峡はオスマントルコ帝国の船しか通過できないため海峡手前のユクリで乗組員を下船します。
 ところがその直後にトルコ皇帝からダーダネルス海峡の通過許可がおり、イスタンプールへの上陸の許可がおります。比叡と金剛はイスタンプールへ入港、皇帝に謁見し、天皇陛下の親書を贈呈します。イスタンプールの滞在は40日滞在し、明治24年5月10日に日本に帰港します。このとき比叡に「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之が乗船しています。

 このエルトゥールル号の遭難は日本全国で義援金が集められ、遺族に送られています。そして民間レベルでの交流が活発になります。日露戦争のとき、トルコはロシア黒海艦隊の邪魔をして日本を助け、日本連合艦隊がバルチック艦隊を破ったときには熱狂し、この年に生まれた子供に「トーゴー」「ノギ」という名前をつける人が多くいました。

 昭和60年(1985年)3月のフセインの無差別撃墜予告にイランに取り残された日本人をトルコ政府がトルコ航空を使って救出してくれたのは良く知られています。決死のフライトに駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と述べています。ちなみにこのとき、テヘランに取り残されたトルコ人がいます。日本人を優先させたのです。それについて非難するトルコ人は一人もいませんでした。(トルコ人は車でなんとか脱出)

 平成20年(2008年)、「エルトゥールル号が結んだ日本とトルコの友情」をテーマにシンポジウムが開催されました。トルコのセルメット・アタジャンル大使は、日本でエルトゥールル号のエピソードを教科書で紹介するという試みに対し「非常に誇りに思い、嬉しく思っている」とスピーチしています。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『エルトゥールル号遭難とイラン・イラク戦争』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲(一)」司馬遼太郎(著)

添付画像
 和歌山県串本町(紀伊大島)にある「エルトゥールル号遭難慰霊碑」 撮影:Photo by Si-take.

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友好国トルコ http://www.youtube.com/watch?v=WOY2BcsmdpQ

万宝山事件と中村大尉殺害事件

満州事変の直接の引き金。この歴史は語られていない。

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 現在、中華人民共和国の東北地方と呼ばれているところは以前は「満州」と呼ばれており、朝鮮と国境を接しています。朝鮮が李朝の末期の頃、干ばつなどの自然災害と大飢饉が発生し、多くの朝鮮人は満州の間島(かんとう)移住しました。日韓併合(1905年)以降も朝鮮人は満州に多く移住し、間島では60万人に膨れ上がりました。しかし、朝鮮人は満州人、支那人から差別されていました。

 昭和3年(1928年)から昭和5年(1930年)にわたり在満朝鮮人と支那人との対立紛争は100件を超え、支那の国民党は「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追い出そうとします。行き場を失った朝鮮人は長春の西北約20キロの万宝山に入植しようとしました。ところが吉林省政府の警官隊は朝鮮人農民の退去を求め、昭和6年(1931年)7月に遂に支那人農民が大挙して朝鮮人農民を襲撃しました。そこで日本は朝鮮人(日本国籍を持つ日本人)保護のため武装警官を出動させます。

 直接の紛争の原因は朝鮮人農民が作った灌漑水路が支那人の所有地を横切ったというものですが、背景を見ますと朝鮮人迫害と排日、侮日があります。支那人は警察に訴え、朝鮮人は日本領事館に応援を求め、両者睨みあいとなり、支那人が水路を破壊しはじめ日本の武装警官と衝突し、発砲する騒ぎとなったのです。このとき死者はでませんでしたが、朝鮮の新聞が大々的に報じたため、朝鮮半島で反支暴動が起こり、華僑の店舗やお家屋が襲われ100人以上の支那人が殺害されました。

 この暴動とほぼ同時期に起きたのが中村大尉殺害事件で、中村大尉は対ソ戦に備えた兵要地誌作成のため、井杉延太郎(予備曹長)とともに変装して興安嶺方面を偵察中だったとき現地の屯墾軍につかまり、殺害されます。事件は6月ですが、7月になって発覚し、日本側は抗議しますが、支那側は「でっちあげだ」と事実を隠蔽します。この頃の日本の外務大臣は幣原喜重郎外交で、「軟弱外交」と言われ、9月になっても「日支友好」を持論にたいして動こうとせず、これまで積もり積もった反日、侮日よる日本人の怒りは頂点に達していきます。かねてから支那人には国家統治する力が欠落していると考えていた関東軍作戦参謀・石原莞爾らによって満州問題を一挙に解決すべく満州事変へと突入していきます。

 満州事変に至る経緯をみていますと日本が条約によって正当な権益を持っていたにも関わらず、それを無視して軍閥の張学良や国民党が不当な行為を繰り返していること、日本の外交が「日支友好」を掲げて弱腰で対応していることがポイントとして挙げられます。日本はたいして何もできないと軽くみて嫌がらせがどんどんエスカレートしていき限界点に達してしまっています。南満州鉄道だけみても昭和3年(1928年)から3年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件もあります。当時は日支懸案370件と言われていました。そして万宝山事件と中村大尉殺害事件がおきています。

 日支懸案
  昭和2年 31件
  昭和3年 37件
  昭和4年 77年
  昭和5年 95件

 ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)「暗黒大陸中国」より
「(張学良は)日本との条約を勝ってに破棄しだした。日本は、いわゆる軟弱外交と非難された男爵幣原が外務大臣であった。幣原は『中国政府との交渉は寛容と忍耐が求められている』と発言している。
 この間、中国人は何をしていたか。例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。そこで『軟弱幣原外交は全く通じない中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか』と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。何も今に始まったことではない。いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである」


 支那の本質は現代と変わっていません。軟弱外交の行く末、それは戦争か自滅かということです。我々は失われた歴史を取り戻し、本当の歴史に学ばねばなりません。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『万宝山事件』戸部良一
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)

添付画像
 万宝山事件の衝突現場写真(PD)

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満州の日本の権益を否定する支那

日露戦争の犠牲を無視した弱腰外交。

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 昭和4年(1929年)、世界恐慌が起こり、支那大陸の満州で経営を営む日本の南満州鉄道株式会社(満鉄)は創業以来の赤字に転落します。満州は張学良軍閥が勢力を持っており、昭和3年12月、支那の蒋介石国民党に帰順し、これに乗じて国民党は日本が条約に基づいて得た正当な権益を否定する法令を次々に発布します。張学良はこの年、北満州鉄道をソ連から強行回収し、ソ連が国交を断絶し、満州里に攻め込むという事態が起こっています。

 「土地盗売厳禁条例」・・・満州で日本人に土地を売ってはならない、日本人に土地を売ればそれは盗人だという条例です。

 「鉱業法」・・・日本人の土地利用を禁止して、鉱山経営も厳禁にする」

 このほか、60に及ぶ法令を発し、さらに朝鮮人を満州から追い出すという暴挙まででます。日本企業が営業できないような不当な課税など国際法違反の政策がとられました。張学良軍閥は日清協定(満洲善後条約)を破り、南満州鉄道に並行した鉄道を作り、運賃値引き競争で南満州鉄道を追い込んでいきます。このほか日本が敷設権をもっている鉄道の建設は許可せず、張学良軍閥の鉄道建設のために満鉄が与えた一億円の借款に対しては、元利ともその支払いを拒否しました。このため、昭和5年の満鉄の利益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を発表しなければならない、という窮地に陥りました。

 昭和6年(1931年)に入ると共産党が主導する排日、侮日運動が起こり、日本人の子供たちに石を投げるといった陰湿なイジメが日常化し、日系企業に勤務する支那人や満州人に脅迫行為が及び、鉱山が爆弾で破壊されたり日本人が殺されるというニュースがしょっちゅう日本に流れるようになります。昭和4年には以前、支那の日本人迫害を招いてしまった幣原外交に逆戻りしており弱腰外交が再開されてしまっています。
「被害に遭うのがイヤだったら引き揚げてきなさい」というような態度です。ですから被害にあった日本人は領事館に訴えでても日本政府は「厳重抗議」する以上の行動はなにも起こさず、「日支懸案370件」と言われるほど張学良が無視する懸案が積み上げられていきます。

 朝鮮人農民は圧迫を受け
「日本人は朝鮮人を保護してくれない」と不信感を強めていき、「日本政府=幣原外交恃むにたらず」となり、「全満日本人連合会」「満州青年連盟」が結成され、交渉相手を関東軍に切り替え日夜押しかけ「なぜ立たないのだ!」と談判を繰り返していきます。もう限界まできていたのです。ロシアの満州侵略に対して日露戦争では日本が戦い血を流したのです。そして得た権益です。そのとき支那人は何をしていたのでしょうか。感謝もせず排日、侮日を繰り返しているのです。そして遂に満州事変の直接的引き金となる「中村大尉殺害事件」「万宝山事件」が勃発し、満州事変へ移ることになります。

 支那の本質は過去から少しも変わっておらず、現代でも中共は天安門事件で世界から孤立してしまったとき日本が手を差し伸べても、ODAで支援しても、感謝もせず、歴史問題、領土問題を捏造し、反日・侮日を繰り返しています。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「満州事変」「南満州鉄道」

添付画像
 大連の満鉄本社(PD)

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満州某重大事件

見えてきた陰謀。

S2008615

 昭和3年(1928年)6月、蒋介石の北伐によって満州の軍閥である張作霖は北京を退き、列車で奉天へ向かいました。その途中、何者かにより列車が爆破され張作霖は死亡しました。張作霖爆殺事件と言われるもので、当時日本国内では「満州某重大事件」と呼ばれていました。
 このころの支那大陸は1911年に辛亥革命がおこり、清国が崩壊し、共和政府が作られましたが、内情は不安定で軍閥といわれる軍事力を背景とする集団の群雄割拠状態となっていました。日本は日露戦争以降、満州に権益を持っており、支那大陸の安定は国益に関わる重大関心事でした。

 この張作霖爆殺事件は満州での日本の権益を無視する張作霖を見限ろうとする排張論の河本大作大佐の仕業とされてきました。しかしながら最近ではコミンテルン陰謀説がかなり有力です。またこの頃、張作霖の息子の張学良は国民党に秘密入党していたことが分かっており、爆殺に関与していた可能性もあります。

 ユン・チアン著「マオ」

「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」

 モスクワで張作霖を処分する決定がされ、エイティンゴン経由で工作員サルヌインに指令が出されました。サルヌインはグリーシカという暗号名で活動し、張作霖の爆殺に成功したというものです。爆殺は日本に疑いが向けられるように仕組まれ、河本大佐がその役割を果たしたということになります。

 河本大佐の手記では「私が張作霖を殺した」となっていますが、手記は河本大佐の義弟が書いたものであり、この義弟は戦後、中共の強制収用所に長くいたのでマインドコントロールされていた可能性があり、信憑性は薄いとされています。張作霖は北京でソ連大使館に踏み込んで、国民党とソ連が組んでいる証拠を押収して支那語に翻訳して公表していたのでソ連にかなり恨まれていました。満州に権益を持つソ連には十分な動機がありました。

 河本大佐の周囲で事件に関係した東宮哲夫大尉らの証言からは爆薬を仕掛けたのは線路脇の土嚢であるとされてきましたが、列車は脱線しておらず、車台も残っており、屋根が吹き飛んだ状態でしたので、爆薬は列車内の屋根付近に仕掛けられていたものであり、河本大佐の犯行とするには明らかに矛盾があります。

 後に、国際連盟より満州問題を調査しにやってきたリットン報告書では
「この殺害の責任は今日まで確定されていない。惨事は神秘のベールで覆われている」と記しており、イギリス情報部はソ連の仕業ではないかという報告をし、日本政府が関東軍の仕業と思い込んで混乱していることを知り、更に四ヶ月にわたって調査し、ソ連が事件の当事者であるという結論に達しています。

 いずれにしろ日本は関東軍の仕業と思い込み、田中義一首相は昭和天皇に事の顛末を上奏すると、昭和天皇は「この前の言葉とは違うではないか」(関係者処罰をうやむやにしようとしたため)と激怒し、田中内閣は総辞職することになります。張学良は全満州に中華民国の国旗をかかげ、国民党に帰順し、国民党は日本の権益を全面的に否定する法令を次々制定し、日本を追い込んでいきます。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子(編)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)
 徳間書店「日本を賤しめる『日本嫌い』の日本人」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP新書「謎解き 張作霖爆殺事件」加藤康男(著)
参考サイト
 WikiPedia「張作霖爆殺事件」

添付画像
 張作霖乗車の列車が爆破された直後の写真。朝日新聞2008年6月15日の紙面によれば撮影者は朝日新聞社カメラマンであった宮内霊勝。(PD)

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済南虐殺事件

日本人が虐殺された歴史は抹殺されている。

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 大正15年(1926年)7月1日、支那の国民党蒋介石は北洋軍閥の討伐(北伐)を開始し、翌昭和2年には南京と上海を占領。4月1日、党内の共産党員の粛清を行いました(上海クーデター)。この北伐によって日本は日本人居留民保護のため、山東へ出兵します。このときの日本は田中義一内閣でした。それまでの弱腰外交からは一転しています。
 6月1日、4個大隊が青島に到着します(第一次山東出兵)。これに対し、北京、南京、漢口の三政府から抗議がきました。同じ国から3つ別々に抗議が来るのですから、当時の支那は主権国家とはいえません。これとは対照的に山東一帯の支那人民衆は日本軍によって治安が保たれるので歓迎していました。

 支那の国民党の北伐は7月から8月の北軍に対しての敗北と党内の混乱で一時中断しましたが、昭和3年(1928年)4月に再開します。国民党蒋介石は怒涛の快進撃を続け、あっと言う間に山東省の済南に達し、在留邦人が多数存在している済南が包囲されます。
 4月13日、アメリカ人宣教師夫妻が国民党蒋介石軍に尋問された直後、背後から拳銃で射殺され、蒋介石軍将校が財布とカバンを奪い去った後、民衆が夫妻の死体を身ぐるみ剥ぐというショッキングな事件が発生しました。4月19日、田中義一内閣は山東へ出兵を決断します(第ニ次山東出兵)。前年の南京、漢口の経験から支那兵による暴行を警戒し、厳重な警備体制を敷きました。

 国民党蒋介石軍が済南に入城すると蒋介石は治安の維持を約束し、日本側の警備体制を解くことを懇請し、日本側はそれを信じて警備体制を解除しました。ところが警備解除とともに蒋介石軍の暴徒が日本人の商店を襲撃、掠奪し、かけつけた日本人巡査に暴行を加えたのです。そして日本軍救援部隊が到着し、支那軍と交戦になりました。そして支那兵の乱射、掠奪は市中へ拡大していきます。

 日本人居留民は青島か警備区域内に避難することになっていましたが、逃げ遅れたと思われるものは悲惨でした。支那兵に惨殺された死体を見た佐々木中佐は次のように記しています。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。あるものは焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかるような始末である。わが軍の激昂はその極に達した」

 また外務省公電にも次のようにあります。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を押し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」
 
 これが支那人の虐殺手口です。後の通州事件でも同様の手口です。済南事件では日本兵士の戦死9、負傷32。民間人12名が虐殺され、蒋介石軍の爆弾により負傷入院死亡したもの2、暴行侮辱を加えられたもの30余、陵辱された婦女子2、掠奪被害戸数136、被害人員約400でした。

 こうして大陸の不安定は正当な権益を有する日本にとって容認できない状況になっていき、国民の怒りと不満は募っていったのです。しかしながら、この日本人が被害を受けた歴史について現在の日本の言論空間は固く口を閉ざしています。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『済南事件蒋介石軍の蛮行止まず』江藤剛
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 ちくま文庫「昭和維新の朝」工藤美代子(著)

添付画像
 事件の被害にあった日本人女性の検視(PD)
 この写真は中共で「日本軍による人体実験の犠牲者」としてプロパガンダに使われた。アイリス・チャンの著書「レイプ・オブ・ナンキン」の写真にも使われた。

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<虐殺された日本人の検視の結果>

西条八太郎(28歳)
・……両手を縛り顔面を地上に引きずりし形跡あり。
・腰の中心より下部中央に向け貫通銃創あり。腹部射出口より約2尺ばかり小腸露出す。

西条キン(24歳)
・全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
・○○に約2糎(センチ)平方の木片深さ27糎突刺しあり。

大里重次郎(28歳)
・……死因は顔面の挫傷と脳底の骨折なり。此の状態より察するに棍棒やうの器具にて殴打されたる結果ならん。
・顔面挫傷と背部の刺傷は、周囲に出血夥しきに察するに、死者生存中に行はれたるものの如し。

多平真市(34歳)
・右前頭部に骨折伴ふ挫創あり。玄能(大型金槌)様の器物を以て打撃せるものの如く、頭蓋骨も美事に骨折を伴ふ。
・唇下部より臍に至る延長約2尺の切傷より小腸を露出す……。

井上邦太郎(30歳)
・前頭骨・両眼・左上顎骨及び鼻を欠損す。
・両眼球全く無し
・顔面は鳶口様のものにて打たれたるものの如し。死因は顔面の惨酷なる挫創なり。

藤井大次郎(40歳)
・広汎なる腹部の切創にて腹腔の内臓全部露出す。
・○○は根部より切断せらる。
・右眼球は見事に摘出せらる。

宮本猶八(55歳)
・○○は鋭利なる刃物にて根部より切断せらる。

高隈むめ(50歳)
・○○には深さ7寸の刺創あり(以下省略)

※虐殺された日本人居留民はモルヒネ、ヘロイン密売者が多く、虐殺は現地支那人の手で行われたとする説がある。

弱腰外交が招いた漢口事件

弱腰外交の行く末は・・・

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 昭和2年(1927年)3月に南京事件が発生し、日本領事館ほか各国の領事館は支那兵によって破壊、暴力、略奪の対象となり、各国は軍艦による砲撃を行いましたが、幣原外相による弱腰外交の日本は何もしませんでした。

 昭和2年(1927年)4月、漢口日本租界内の浪速食堂という兵士の酒保のような食堂近くで、日本の水兵が散歩していると子供が石を投げてきました。水兵が叱責して追っ払う、そんなことをしている内に支那人が多く集まってきて日本水兵に言いがかりをつけはじめ、日本水兵を取り囲み殴り始めます。他の日本兵が顔を出すと彼らも殴られます。支那人の一人が日本兵に突き飛ばされると、支那人は気絶の演技をし、他の支那人が
「殺された」と叫び始め、暴徒と化します。一般の邦人も暴行の対象となり、暴徒は凶器を持って邦人商店、同仁病院、平願寺などが破壊、掠奪しました。現場にかけつけた田中副領事も殴打され、租界は無秩序状態と化しました。

 漢口には2,200人の日本居留民がいたため、海軍陸戦隊200名が上陸し、機関銃を地面に向けて数十発発射させ、群集を四散させました。陸戦隊は最終的には500名に増員され、租界は鉄条網と土嚢で防備されました。

 この暴動の中で日本人が拉致されました。支那当局は暴徒に対して
「日本側に有利な条件を容れしむる人質なれば、そのまま返さば承知せず」と安易に解放するな、と言っているのです。弱腰外交の日本につけ込んでいるわけです。

 拉致された日本人は救出されましたが、対日世論悪化によって揚子江一帯に住む約3,000人の日本人の大部分は長年苦労して作り上げてきた財産、資産、家宅を手放し命からがら日本へ帰ってきました。南京事件も漢口事件も背後には共産派がいますが、南京事件の日本の弱腰外交を見て、日本くみ易しと考え、また群集も日本は反撃してこないのでやり易いという心理が動いたものと思われます。

 南京事件、漢口事件によって幣原外相による弱腰外交を非難する世論が急速に高まりました。幣原外交の本質的欠陥は支那国民革命軍の本質が共産化したことを考慮せず、相変わらず「同情」と「寛容」の精神をもって臨んだことが挙げられます。

 朝日新聞 4月5日
「吾人は支那にたいして反省を警告すると共に、なすべきをなさず、尽くすべきを尽くさずして、尚かつ『時局を慎重に注視する』幣原外相に対してもその反省を警告せんとするものである」

 そして弱腰外交がもとで若槻内閣は総辞職し、田中義一内閣に代わり、ようやく自衛のための武力行使は辞さないことになりました。しかし、同じように支那の租界問題を抱えていた英国は対中融和に大転換し、支那のナショナリズムの矛先が日本へ行くように仕向けられました。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『漢口事件 反日・侮日の嵐』江藤剛
   『もうひとつの南京事件の真実』田中秀雄
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

添付画像
 『タイム』1931年10月12日号の表紙に掲載された幣原(PD)

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本当の南京事件

日本人が被害を受けた歴史は語られていない。

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 南京事件といえば支那事変が始まった昭和12年(1937年)12月の南京虐殺のことが頭に浮かぶ人が多いと思いますが、この南京事件は戦後のでっちあげであり、本来の南京事件は昭和2年(1927年)3月に発生しました。

 大正15年(1926年)7月からソ連の莫大な援助をもとに中華民国国民政府の蒋介石は北京軍閥政権張作霖の打倒を目指した北伐を開始します。翌年2月には漢口、3月には南京に達します。蒋介石は4月に反共クーデターを起こし、南京に国民政府を樹立し、共産党と敵対的立場をとりました。

 3月の南京占領の際、南京の日本領事館の森岡領事は在留婦女子全部を領事館内に避難させました。軍艦桧(ひのき)から荒木亀雄海軍大尉引率の下に兵員9名、通信兵1名が派遣されました。さらに領事は男子も領事館へ避難させ、夜は門を閉ざし、内に土嚢を積み機関銃を備えつけ、兵員は小銃を武装して警戒にあたっていました。
 3月24日午前五時半頃、国民党革命軍が続々と入城します。掠奪は敗残兵によって行われるのが常なので、国民党革命軍の入城により掠奪の危険は薄らいだと判断し、少数で武装するよりも国民党革命軍や一般民衆を刺激しないほうがよいと判断し、土嚢や機関銃は撤去し、警備兵の武装を解除しました。

 ところが国民党革命軍の正規兵が日本領事館に乱入してきたのです。金庫はハンマーで叩き壊され、領事夫妻に向かって鉄砲が撃たれました。女性は服を剥ぎ取られ裸にされ金目のものを持っていないか確認され、子供たちは泣き叫び、地獄絵図となりました。国民党革命軍の兵士らは自動車、馬車、人力車等の運搬具を用意して徹底的に掠奪しました。

 森岡領事報告
「避難者は虎狼に襲はれたる群羊の如く四方八方に追い回され、婦人は幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け叫喚悲鳴聞くに忍びず」

 荒木大尉一行は武器を持っていなかったため、茫然と見ているしかなく、銃剣で刺されました。後に荒木大尉はそれを恥じ「申し訳ない」として自決することになります。木村警察署長も小銃で狙撃され、前腕部貫通傷を受け、銃剣で刺されました。駐在武官の根本少佐は銃床で腰部を殴打され、銃剣で刺されました。
 掠奪は150人から200人に達し、彼らは「日英帝国主義打倒」「華俄一家(中国とソ連は一家である)」などの標語を呼号していました。そのうち一般支那民衆も掠奪に加わり、3時間に及びました。床板、便器、空き瓶に至るまで一物も残さず持ち去られました。夕方になってようやく官民一同、領事館を引き揚げ、揚子江の軍艦に収容されました。

 日本領事館では死者が出なかったので幸いでしたが、イギリス、フランス、アメリカの領事館、民間人には死者が出ていました。そのため、揚子江のイギリスの軍艦は南京城内へ砲撃しています。しかし日本の軍艦もいたのに何もしませんでした。なぜなら幣原外交は弱腰で「支那を刺激しないように」という訓令があったためです。幣原外交は「日支友好」「不干渉主義」です。こうした外交は支那の対日政策を増長させていき「ちょっと暴れれば日本は逃げていく」と思われエスカレートしていったのです。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『もうひとつの南京事件の真実』田中秀雄
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

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 北伐に向かう蒋介石。1926年(PD)

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大正九年五月24日を忘れるな ~ 尼港事件

日本の言論空間は固く口を閉ざしている。

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 大正6年(1917年)、ロシア革命がおこり、大正8年に日本は各国と歩調をあわせ、シベリアへ出兵しました。大正9年初頭にはチェコ軍を救出し、シベリア出兵の目的が達成されつつある頃、思わぬ惨劇が発生しました。尼港事件(にこうじけん)と呼ばれるものです。この事件は済南事件、南京事件(1926年)、通州事件、通化事件らと並んで戦後の日本の言論空間が固く口を閉ざしている事件の一つです(ソ連崩壊後、やや言及されるようになった感がある)。
 尼港事件は大正9年(1920年)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人4,000名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)という革命派によっておこされました。共産パルチザンは黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民を無差別に虐殺しました。

 大正9年1月、日本軍守備隊は共産パルチザンの討伐を行い、2月には講和しました。しかし、尼港に入ってきた共産パルチザンは協約をごとごとく無視し、革命裁判を行い、虐殺、投獄を行い、日本軍殲滅の準備を行います。3月には日本軍と交戦し、日本兵の大半は戦死し、140名が捕虜となりました。そして資本主義階級の資産家は虐殺され、官吏、市民、そして日本人居留民が虐殺されたのです。

 一命を取り留めた日本軍人の手記
「公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞夫人を極端に辱めて獣欲満たし、なほ飽くところを知らず、指を切り、腕を放ち、足を断ち、かくて五体をバラバラに切り刻むなど言外の屈辱を与へ、残酷なる弄り殺しをなせり」

「またはなはだしきに至っては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞭を与うるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最期を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至っては、野獣にもあるまじき凶悪の蛮行にして言語に絶す」


 日本人たちは死なばもろとも、散らば桜と領事館に避難します。共産パルチザンは日本人に属する全財産を掠奪し、遂に領事館へ向けて砲撃を加えました。領事館は炎に包まれ、もはやこれまでとなると男女問わず決起し、奮戦しましたが、衆寡敵せず、味方は減少していき、力尽き、弾が尽き、婦人や戦傷者は猛火の中に身を投じ、壮絶な最期を遂げました。

 共産パルチザンは日本救援軍が近づくと監獄に収容していた日本兵捕虜をすべてを惨殺しました。監獄には落書きが多く書かれており、「大正九年五月二十四日午後十二時を忘れるな」「曙や物思ふ身にほとどぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」「昨日は人と思へども、今日は我が身にかかる」「武士道」といった文字が書かれていました。日本人以外も6,000人が虐殺されたといいます。日本人被害者は石田副領事夫妻以下居留民384名(内女子184名)、軍人351名、計七百数十名が陵辱暴行された上、虐殺されました。

 日本はソ連にたいしてトリャピーチンの処刑と領土の割譲をもとめます。トリャピーチンは死刑になりましたが、領土割譲に応じなかったため北樺太を一時保障占領しています。

 この事件は日本からみれば想像を絶する虐殺事件ですが、ロシアから見れば日本のシベリア出兵の延長線上のことであり容認する見方が多いようで、トリャピーチンの処刑は日露戦争に続いて屈辱的なものであったようです。昭和20年(1945年)、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦し、シベリア抑留を行ったのも復讐という感覚であり、ロシア人は罪悪感は持っていないようです。もっとも彼らが虐殺の手口を知らされているとは思えません。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『尼港事件 血に染まったシベリアの港町』江藤剛
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「尼港事件」

添付画像
 監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書(PD)
 「大正九年五月24日午後12時忘ルナ」

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