済南虐殺事件
日本人が虐殺された歴史は抹殺されている。
大正15年(1926年)7月1日、支那の国民党蒋介石は北洋軍閥の討伐(北伐)を開始し、翌昭和2年には南京と上海を占領。4月1日、党内の共産党員の粛清を行いました(上海クーデター)。この北伐によって日本は日本人居留民保護のため、山東へ出兵します。このときの日本は田中義一内閣でした。それまでの弱腰外交からは一転しています。
6月1日、4個大隊が青島に到着します(第一次山東出兵)。これに対し、北京、南京、漢口の三政府から抗議がきました。同じ国から3つ別々に抗議が来るのですから、当時の支那は主権国家とはいえません。これとは対照的に山東一帯の支那人民衆は日本軍によって治安が保たれるので歓迎していました。
支那の国民党の北伐は7月から8月の北軍に対しての敗北と党内の混乱で一時中断しましたが、昭和3年(1928年)4月に再開します。国民党蒋介石は怒涛の快進撃を続け、あっと言う間に山東省の済南に達し、在留邦人が多数存在している済南が包囲されます。
4月13日、アメリカ人宣教師夫妻が国民党蒋介石軍に尋問された直後、背後から拳銃で射殺され、蒋介石軍将校が財布とカバンを奪い去った後、民衆が夫妻の死体を身ぐるみ剥ぐというショッキングな事件が発生しました。4月19日、田中義一内閣は山東へ出兵を決断します(第ニ次山東出兵)。前年の南京、漢口の経験から支那兵による暴行を警戒し、厳重な警備体制を敷きました。
国民党蒋介石軍が済南に入城すると蒋介石は治安の維持を約束し、日本側の警備体制を解くことを懇請し、日本側はそれを信じて警備体制を解除しました。ところが警備解除とともに蒋介石軍の暴徒が日本人の商店を襲撃、掠奪し、かけつけた日本人巡査に暴行を加えたのです。そして日本軍救援部隊が到着し、支那軍と交戦になりました。そして支那兵の乱射、掠奪は市中へ拡大していきます。
日本人居留民は青島か警備区域内に避難することになっていましたが、逃げ遅れたと思われるものは悲惨でした。支那兵に惨殺された死体を見た佐々木中佐は次のように記しています。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。あるものは焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかるような始末である。わが軍の激昂はその極に達した」
また外務省公電にも次のようにあります。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を押し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」
これが支那人の虐殺手口です。後の通州事件でも同様の手口です。済南事件では日本兵士の戦死9、負傷32。民間人12名が虐殺され、蒋介石軍の爆弾により負傷入院死亡したもの2、暴行侮辱を加えられたもの30余、陵辱された婦女子2、掠奪被害戸数136、被害人員約400でした。
こうして大陸の不安定は正当な権益を有する日本にとって容認できない状況になっていき、国民の怒りと不満は募っていったのです。しかしながら、この日本人が被害を受けた歴史について現在の日本の言論空間は固く口を閉ざしています。
参考文献
「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
オークラ出版「拉致と侵略の真実」
『済南事件蒋介石軍の蛮行止まず』江藤剛
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
ちくま文庫「昭和維新の朝」工藤美代子(著)
添付画像
事件の被害にあった日本人女性の検視(PD)
この写真は中共で「日本軍による人体実験の犠牲者」としてプロパガンダに使われた。アイリス・チャンの著書「レイプ・オブ・ナンキン」の写真にも使われた。
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<虐殺された日本人の検視の結果>
西条八太郎(28歳)
・……両手を縛り顔面を地上に引きずりし形跡あり。
・腰の中心より下部中央に向け貫通銃創あり。腹部射出口より約2尺ばかり小腸露出す。
西条キン(24歳)
・全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
・○○に約2糎(センチ)平方の木片深さ27糎突刺しあり。
大里重次郎(28歳)
・……死因は顔面の挫傷と脳底の骨折なり。此の状態より察するに棍棒やうの器具にて殴打されたる結果ならん。
・顔面挫傷と背部の刺傷は、周囲に出血夥しきに察するに、死者生存中に行はれたるものの如し。
多平真市(34歳)
・右前頭部に骨折伴ふ挫創あり。玄能(大型金槌)様の器物を以て打撃せるものの如く、頭蓋骨も美事に骨折を伴ふ。
・唇下部より臍に至る延長約2尺の切傷より小腸を露出す……。
井上邦太郎(30歳)
・前頭骨・両眼・左上顎骨及び鼻を欠損す。
・両眼球全く無し
・顔面は鳶口様のものにて打たれたるものの如し。死因は顔面の惨酷なる挫創なり。
藤井大次郎(40歳)
・広汎なる腹部の切創にて腹腔の内臓全部露出す。
・○○は根部より切断せらる。
・右眼球は見事に摘出せらる。
宮本猶八(55歳)
・○○は鋭利なる刃物にて根部より切断せらる。
高隈むめ(50歳)
・○○には深さ7寸の刺創あり(以下省略)
※虐殺された日本人居留民はモルヒネ、ヘロイン密売者が多く、虐殺は現地支那人の手で行われたとする説がある。
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
日本人だってやられてることをやった国に謝罪させるべき。あべのミクスとか言われて浮かれてないでちゃんとしろ。
投稿: 日本人 | 2014年12月27日 (土) 10時53分