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本当の南京事件

日本人が被害を受けた歴史は語られていない。

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 南京事件といえば支那事変が始まった昭和12年(1937年)12月の南京虐殺のことが頭に浮かぶ人が多いと思いますが、この南京事件は戦後のでっちあげであり、本来の南京事件は昭和2年(1927年)3月に発生しました。

 大正15年(1926年)7月からソ連の莫大な援助をもとに中華民国国民政府の蒋介石は北京軍閥政権張作霖の打倒を目指した北伐を開始します。翌年2月には漢口、3月には南京に達します。蒋介石は4月に反共クーデターを起こし、南京に国民政府を樹立し、共産党と敵対的立場をとりました。

 3月の南京占領の際、南京の日本領事館の森岡領事は在留婦女子全部を領事館内に避難させました。軍艦桧(ひのき)から荒木亀雄海軍大尉引率の下に兵員9名、通信兵1名が派遣されました。さらに領事は男子も領事館へ避難させ、夜は門を閉ざし、内に土嚢を積み機関銃を備えつけ、兵員は小銃を武装して警戒にあたっていました。
 3月24日午前五時半頃、国民党革命軍が続々と入城します。掠奪は敗残兵によって行われるのが常なので、国民党革命軍の入城により掠奪の危険は薄らいだと判断し、少数で武装するよりも国民党革命軍や一般民衆を刺激しないほうがよいと判断し、土嚢や機関銃は撤去し、警備兵の武装を解除しました。

 ところが国民党革命軍の正規兵が日本領事館に乱入してきたのです。金庫はハンマーで叩き壊され、領事夫妻に向かって鉄砲が撃たれました。女性は服を剥ぎ取られ裸にされ金目のものを持っていないか確認され、子供たちは泣き叫び、地獄絵図となりました。国民党革命軍の兵士らは自動車、馬車、人力車等の運搬具を用意して徹底的に掠奪しました。

 森岡領事報告
「避難者は虎狼に襲はれたる群羊の如く四方八方に追い回され、婦人は幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け叫喚悲鳴聞くに忍びず」

 荒木大尉一行は武器を持っていなかったため、茫然と見ているしかなく、銃剣で刺されました。後に荒木大尉はそれを恥じ「申し訳ない」として自決することになります。木村警察署長も小銃で狙撃され、前腕部貫通傷を受け、銃剣で刺されました。駐在武官の根本少佐は銃床で腰部を殴打され、銃剣で刺されました。
 掠奪は150人から200人に達し、彼らは「日英帝国主義打倒」「華俄一家(中国とソ連は一家である)」などの標語を呼号していました。そのうち一般支那民衆も掠奪に加わり、3時間に及びました。床板、便器、空き瓶に至るまで一物も残さず持ち去られました。夕方になってようやく官民一同、領事館を引き揚げ、揚子江の軍艦に収容されました。

 日本領事館では死者が出なかったので幸いでしたが、イギリス、フランス、アメリカの領事館、民間人には死者が出ていました。そのため、揚子江のイギリスの軍艦は南京城内へ砲撃しています。しかし日本の軍艦もいたのに何もしませんでした。なぜなら幣原外交は弱腰で「支那を刺激しないように」という訓令があったためです。幣原外交は「日支友好」「不干渉主義」です。こうした外交は支那の対日政策を増長させていき「ちょっと暴れれば日本は逃げていく」と思われエスカレートしていったのです。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『もうひとつの南京事件の真実』田中秀雄
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

添付画像
 北伐に向かう蒋介石。1926年(PD)

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