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弱腰外交が招いた漢口事件

弱腰外交の行く末は・・・

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 昭和2年(1927年)3月に南京事件が発生し、日本領事館ほか各国の領事館は支那兵によって破壊、暴力、略奪の対象となり、各国は軍艦による砲撃を行いましたが、幣原外相による弱腰外交の日本は何もしませんでした。

 昭和2年(1927年)4月、漢口日本租界内の浪速食堂という兵士の酒保のような食堂近くで、日本の水兵が散歩していると子供が石を投げてきました。水兵が叱責して追っ払う、そんなことをしている内に支那人が多く集まってきて日本水兵に言いがかりをつけはじめ、日本水兵を取り囲み殴り始めます。他の日本兵が顔を出すと彼らも殴られます。支那人の一人が日本兵に突き飛ばされると、支那人は気絶の演技をし、他の支那人が
「殺された」と叫び始め、暴徒と化します。一般の邦人も暴行の対象となり、暴徒は凶器を持って邦人商店、同仁病院、平願寺などが破壊、掠奪しました。現場にかけつけた田中副領事も殴打され、租界は無秩序状態と化しました。

 漢口には2,200人の日本居留民がいたため、海軍陸戦隊200名が上陸し、機関銃を地面に向けて数十発発射させ、群集を四散させました。陸戦隊は最終的には500名に増員され、租界は鉄条網と土嚢で防備されました。

 この暴動の中で日本人が拉致されました。支那当局は暴徒に対して
「日本側に有利な条件を容れしむる人質なれば、そのまま返さば承知せず」と安易に解放するな、と言っているのです。弱腰外交の日本につけ込んでいるわけです。

 拉致された日本人は救出されましたが、対日世論悪化によって揚子江一帯に住む約3,000人の日本人の大部分は長年苦労して作り上げてきた財産、資産、家宅を手放し命からがら日本へ帰ってきました。南京事件も漢口事件も背後には共産派がいますが、南京事件の日本の弱腰外交を見て、日本くみ易しと考え、また群集も日本は反撃してこないのでやり易いという心理が動いたものと思われます。

 南京事件、漢口事件によって幣原外相による弱腰外交を非難する世論が急速に高まりました。幣原外交の本質的欠陥は支那国民革命軍の本質が共産化したことを考慮せず、相変わらず「同情」と「寛容」の精神をもって臨んだことが挙げられます。

 朝日新聞 4月5日
「吾人は支那にたいして反省を警告すると共に、なすべきをなさず、尽くすべきを尽くさずして、尚かつ『時局を慎重に注視する』幣原外相に対してもその反省を警告せんとするものである」

 そして弱腰外交がもとで若槻内閣は総辞職し、田中義一内閣に代わり、ようやく自衛のための武力行使は辞さないことになりました。しかし、同じように支那の租界問題を抱えていた英国は対中融和に大転換し、支那のナショナリズムの矛先が日本へ行くように仕向けられました。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『漢口事件 反日・侮日の嵐』江藤剛
   『もうひとつの南京事件の真実』田中秀雄
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

添付画像
 『タイム』1931年10月12日号の表紙に掲載された幣原(PD)

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