昭和天皇・マッカーサー会談
戦後間もなく昭和天皇独自の外交が行われた。
昭和20年(1945年)9月27日敗戦直後、第一回目の昭和天皇とGHQマッカーサー司令官の会見が行われました。場所は赤坂の米大使館。藤田侍従長、石渡宮相、フェラーズ准将らは隣室で控え、会見に立ち会ったのは通訳をつとめた奥村勝蔵外務参事官だけで37分つづきました。
マッカーサーは当初、昭和天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう自分の立場を訴え始めるのではないかと予想していましたが、昭和天皇の口からは全く想像していなかった言葉が飛び出してきました。
侍従長の回想
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
マッカーサー回想記
「(天皇は)『すべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたに代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねした』と述べた。明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」
奥村通訳の会見録には上記の責任発言が記載されていないようで東京裁判を控えて発言の重要性から削除したようです。
昭和天皇は別の会見で皇室財産を差し出すので食糧を緊急輸入して国民を飢餓から救ってくれと申し出て「私は初めて神のごとき帝王を見た」とマッカーサーは感動しています。誇張した美談ともとれる話しですが、欧米の価値観から考えると王などは国民と対極にあり、私服を肥やすものと相場が決まっていますから事実感動したでしょう。第一回目の会談で昭和天皇が大使館に到着したとき、迎えにもいかなかったマッカーサーは、会談が終わると昭和天皇をお見送りしました。その時のマッカーサーの様子を側近のフォービアン・バワーズは「我々が玄関のホールに戻った時、元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた」と証言しています。マッカーサーはこうして皇室が日本人にとっていかなるものか、欧米のそれとは全く違うことを学習していったのだと思います。
天皇マッカーサー会談は11回に及んでいます。ストライキなどの労働運動による治安悪化の懸念や憲法九条についても語られています。昭和天皇は国際情勢の実情から考えて九条には難色を示されています。マッカーサーは九条を強く訴えており、日本の安全保障問題が米軍による沖縄の長期貸与、沖縄基地のほうへ流れていきました。このほか講和条約や共産主義台頭の懸念が話し合われています。明治憲法下でも天皇に政治的権限はありませんが、GHQ憲法制定後も会見は行われており、敗戦と混乱という国家の危機に際して2600年の伝統が昭和天皇を動かしたと言えます。
昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結。翌27年4月28日、効力発生。昭和天皇はようやく政治から解放されました。翌28年に東京裁判の首席検事だったキーナン検事から「今度の選挙で吉田氏、重光氏らのなかから誰を指名すればよいと思いますか」と尋ねられた時、昭和天皇は「いまは政治のことから全く離れているので」と答えられました。
参考文献
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
文春新書「父が子に教える昭和史」『マッカーサー会見』秦郁彦
新潮45 2009/9 『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』河西秀哉
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
添付画像
第一回目の会談で撮影されたもの(PD)
マッカーサーは国際儀礼上ありえないラフな服装で傲慢不遜な態度をとって撮影にのぞみ、天皇の尊厳を傷つけようとしたと思われる。
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