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2011年10月

「日本を攻撃せよ」ドイツ軍事顧問団

日本の侵略はない。支那が仕掛けた戦争の背後にドイツ軍事顧問団。

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 昭和3年(1928年)秋、支那の国民党・蒋介石はドイツのマックス・バウアー大佐を軍事顧問として受け入れます。ドイツは第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によってさまざまな制約が加えられる一方、共産主義革命の危機にあり、マックス・バウアー大佐は軍部内で力を持っていました。大正9年(1920年)、マックス・バウアー大佐中心にクーデターが起こります。しかし、軍部の足並みがそろわず、マックス・バウアー大佐は退役し、ソ連、スペイン、アルゼンチンで軍事顧問として働き、国民党の招きで支那へやってきたのでした。そして後、ヘルマン・クリーベル中佐、ゲオルク・ベッツエル中将といずれもエリートの軍人に引き継がれていきます。

 蒋介石&ドイツ軍事顧問団が日本軍と軍事衝突を最初に起こすのが第一次上海事変でシナ第19路軍3万(この時点では国民党の軍ではない)が日本海軍陸戦隊を攻撃します。これをみて国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍(指揮官・張治中)を上海作戦に加えます。第87師、第88師はドイツの軍事顧問団の調練を受けた軍隊です。この戦闘で支那側は1万を超える戦死者で、日本側は7百余りでしたが、それでもこれまでの支那軍との戦闘と比較すると予想外の損傷でした。支那軍はチェコ製機関銃とドイツ製の手榴弾など圧倒的な破壊力を持つ火器で武装し、士気も旺盛だったのです。
 満州では関東軍が熱河作戦を発動しており、蒋介石は第17軍7万人(ベッツエル中将が指揮)を張り付かせて戦わせますが、このときも日本軍は予想外の苦戦でした。

 ドイツ軍事顧問団、ゲオルク・ベッツエル中将は共産党との戦いである第5次掃共戦でトーチカ建設による包囲作戦を蒋介石に進言し、昭和9年(1934年)10月には共産党を壊滅寸前に陥れます。このころドイツのフォン・ゼークト大将が支那を訪れており、蒋介石に対して意見書を提出しています。そしてこのとき以下も薦めています。

「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策をとること」


 ゼークト大将はドイツ軍事顧問団に就任後、国軍再編成を行い、軍の各教育機関も数多く設立させます。ゼークトの後任はアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将となり、昭和10年(1935年)1月に「支那国防基本方針」を蒋介石に提出します。共産党は既に壊滅状態、次の攻撃目標は日本です。対日戦の準備が進められ、高射砲と防空組織の基礎造成、上海、南京間の陣地構築、南京城の要塞化に力が入れられます。
 ファルケンハウゼン中将は対日開戦を執拗に進言し、昭和11年(1936年)になると
「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手が塞がらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」と進言します。余談ですが、ファルケンハウゼン中将は大使館付武官として日本に居たことがあるだけあり日本語ができ、蒋介石も日本に留学していたので二人は日本語で話しをしていたといいます。
 
 こうした流れの中、西安事件がおき、昭和12年、盧溝橋事件が勃発し、そして第二次上海事変が勃発し、ドイツ軍事顧問団が日本軍殲滅のためにつくりあげられた陣地へ日本軍が誘導されるかのごとく引き込まれていったのでした。日本は条約に基づいて軍隊を駐留して、租界に暮らす日本人居留民を保護していただけです。侵略の意図も何もありません。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
参考サイト
 WikiPedia「第一次上海事変」

添付画像
 アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン 1911年名古屋滞在時代(PD)

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満蒙開拓移民

遥かなる満州。

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 東京西新宿の住友ビル48階に「平和祈念展示資料館」というのがあります。ここは大東亜戦争時の悲劇や労苦の歴史を後世に伝えるために、体験された方々の証言や関連する資料などを収集し展示している施設です。資料館には「遥かなる紅い夕陽」という森田拳次さんのお母さんの手記をもとにしたマンガ冊子がおいてあります。森田拳次さんは「丸出だめ夫」「ロボタン」で有名なマンガ家です。森田さんは昭和14年の満州生まれです。このマンガ冊子は一人一冊自由に持って帰ることができます。

 森田拳次さんのお母さんは「大陸の花嫁」として千振という新京(長春)から北東のソ連国境に近い町に嫁ぎます。マンガにはそこでの生活や敗戦時の引き揚げの壮絶さが描かれています。森田さんのお母さんはお見合い相手とは一度も会うことなく、写真と数回の文通の末に結婚を決意し、昭和10年に満州に渡りました。

 昭和6年(1931年)、満州事変が勃発し、昭和7年に満州国が建国されました。この頃より日本からの満州国への移民が本格化します。昭和7年10月に試験移民の第一陣500人弱が永豊鎮という村に入植し、第二陣500人が千振村に入植しています。森田拳次さんの父親はこのときの移民のようです。試験移民は昭和11年(1936年)まで五次にわたり、治安が悪いため、武装した在郷軍人によって行われました。同時に対ソ連、対ゲリラの情報収集の役目も担っていました。

 昭和11年、広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、昭和11年から20年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進しました。当初、利用度の低い土地を現住者から適正な価格で買い取り、移民に与えれば、満州国の国益にもなり、現住者も移民も喜ぶという発想でしたが、原住民にとって土地は唯一ともいえる財産で、関東軍が一括して強制買収すると原住民の不満が徐々に膨れていき、第二次移民団を2ヶ月にわたって包囲し、関東軍が出動する事件が起こっています。満州帝国側からも批判が出て、関東軍は改めざるを得なくなり、買収は未開墾地に限るようにし、処理は満州帝国側が行うようになりました。しかし、買収当事者が買収面積の確保に熱中し、既墾地の買収も続けられていました。「遥かなる紅い夕陽」では昭和11年に開拓者に既墾地が分け与えられています。この年に設立された満州拓殖会社によるものでしょう。
 この既墾地の買収には満州建国を牽引した石原莞爾が激怒し
「話が違う、あの土地泥棒会社(満州拓殖会社)め!」と怒鳴り、石原が参謀本部作戦課長になると「既墾地に入るな、手を出すな、分からんのか!」と一歩も譲りませんでした。

 満蒙開拓移民は厳しい北満州の自然の中で生活しました。冬は氷点下20~30度になり、大地は地下60センチまで凍土になります。そして春が近づくとタクラマカン砂漠で発生したつむじ風が大量の砂を巻き上げ嵐となって大地を覆います。春になると花々が一斉に咲き、その美しさは長い冬を越えた移民団の胸を打ちました。移民団は真っ黒に日焼けするまで農耕に従事し、家族同士で助け合って生きていきました。開拓団は27万人にまで達しています。

 昭和20年(1945年)になると内地が米軍に空襲された報が伝わりはじめ、開拓移民の中で出征している兵士の戦死の報が届くようになります。そして8月になると根こそぎ動員となり、男たちは満州防衛の任につきます。そしてソ連軍が不可侵条約を破り満州に攻め込んできました。開拓移民の悲惨な運命の始まりです。「遥かなる紅い夕陽」でも森田さんの家族が祖国の地を踏んだのは昭和21年(1946年)の7月であり、引き揚げ途中に子供3人のうち2人を亡くしています。



参考文献
 平和祈念事業特別基金「はるかなる紅い夕陽」森田拳次(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇順子(著)
 光人社NF文庫「石原莞爾 国家改造計画」早瀬利之(著)
参考サイト
 Wikipedia「満蒙開拓移民」「満州拓殖公社」

平和祈念展示資料館
 http://www.heiwakinen.jp/

添付画像
 満州国五常開拓女子訓練所での訓練風景(馬鈴薯の除草)~新人物往来社「歴史読本」2009.9より

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発展した満州経済

王道楽土の満州。

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 昭和7年(1932年)、満州国が建国されました。日本経済と満州経済の関係はそれ以前より一層密接になります。昭和10年(1935年)になると華北に親日政権が誕生します。日本が資本と技術、経営力を提供し、石炭鉄鋼を開発し、華北が資源の供給となり、重工業、軽工業、化学工業の日本と満州で消費財を供給することになります。日本、満州、北支のブロック経済が誕生します。そして経済圏の生活は向上していきます。日本が行ったのは植民地化ではなく、植民地状態の解消であったといえます。

 昭和12年(1937年)に星野直樹、岸信介が両輪となって策定した「満州産業五ヵ年計画」がスタートしました。これより満州が重化学工業化していきます。自動車、製鉄、鉱業、化学工業、その他の重化学工業が「満州重工業開発株式会社」によって進められていきます。これらは石原莞爾、日産コンツエルンの鮎川義介が推進しています。野口遵はダム建設を推進し、水豊ダム、豊満ダムをつくり、水害を抑え、発電を可能にします。豊満ダムを視察に訪れたフィリピン外相はその規模と効用の大きさに驚嘆し、
「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したといいます。

 このころの日本はGNPが増加し、豊かになり「昭和モダン」という言葉に代表されるように華やかな時代でした。満州事変から戦争になり、農村部は困窮し、2・26事件がおきた
「真っ暗な時代」というのは一面だけつまんで戦前を全否定する「戦後につくられたウソ」です。私は子供の頃、GNPか工業生産高だったか?の資料をたまたま目にし、右肩上がりになっているので、世界恐慌以降、日本は真暗と教えられたのに何故?と疑問を持ったものです。大人になって戦後のウソに気がつきました。15年戦争というのもウソだったことに気がつきました。満州事変は昭和8年(1933年)3月の塘沽協定(たんくきょうてい)で終わっていたのです。それから4年間は戦争はありませんでした。

 日本が満州に心血を注いだ理由の一つに世界恐慌後のブロック経済化があげられます。植民地を持つ欧米列強はブロック経済をしいて植民地をもたない国を締め出しています。
 満州の近代化をハーバード大学の経済学教授のエリザベス・シュンペーター女史は昭和15年(1940年)に日本と満州国の産業化という900ページの大著を発表しています。そして次のように述べています。

「(欧米諸国が)排他的利益のために植民地原料を統制し、政治的目的のために原料の輸出を禁止することは危険なことである。そして市場と原料の自由が奪われるなら(対抗的に)侵略的領土拡張(aggressive territorial expantion)が行われざるを得ない」

 彼女の夫はケインズと並ぶといわれた経済学者です。満州国を日本の侵略的領土拡張としながらも満州国建設を擁護しています。日本と満州国の経済発展は同じ恐慌をくぐったアメリカよりも回復が早く、しかもそれは軍事国家を作ろうというレベルではないと主張し、立派な国づくりが行われていることを賞賛しています。

 満州国は日本敗戦とともに消滅し、13年あまりの光芒でしたが、戦後の日本で岸信介らの経済閣僚が日本の経済発展に寄与しています。満州の「あじあ号」を構想していた島安次郎の息子、島秀雄は新幹線を東京大阪間に走らせました。それを政治経済面で推進したのは石原莞爾を信奉していた国鉄総裁、十河信二とその参謀・浅原健三でした。満州は戦後の日本で生き続けたのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『夢のパラダイス、満州帝国』田中秀雄
 「歴史通」WiLL7月号『戦前という時代 - それは、つくり話か大マチガイ』日下公人
参考サイト
 WikiPedia「冀東防共自治政府」「冀察政務委員会」

添付画像
 鞍山の昭和製鋼所(PD)

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怪文書・田中メモランダムがノモンハン事件に使われた

侮れない宣伝戦。

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 田中メモランダム(田中上奏文)というのは第26代内閣総理大臣・田中義一が昭和2年(1927年)、昭和天皇へ極秘に行ったとされる上奏文であり、支那侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されているという捏造文書です。

 昭和4年(1929年)に南京で出版されている「時事月報」に漢文で書かれた「田中メモランダム」が報じられました。そして英文パンフレットとなって全世界にばら撒かれたのです。この頃、支那では排日運動がおきており、その運動用資料として繰り返し宣伝されました。

「・・・支那を征服せんと欲せばまづ満蒙を制せざるべからず。世界を制服(誤字)せんと欲せば必ずまづ支那を征服せざるべからず。もし、支那にして完全にわが国の為に征せられんか、他の中小亜細亜、インド、南洋等の如き異服の民族は、必ず我を敬畏して我に降服すべく、世界をして我国の東洋たるべきを知らしめ、永久に我国を侵害することなからしむるに至るべし。・・・」

 漢文をそのまま日本語に翻訳したものですが、天皇に上奏する文書に誤字などありえず、文書のどぎつさからして日本人ならすぐ偽物とわかります。他の内容にはとっくに没しているはずの山県有朋が9カ国条約に登場していたり、田中首相がフィリピン訪問したのが欧米になっていたり、ズサンなものです。しかし、これが東京裁判で「共同謀議」の根拠として検察側の冒頭陳述で述べられていますから驚きです。宣伝戦を侮ってはならないということです。例えば現在でも中共は日本軍の三光作戦といって「殺しつくす、奪いつくす、焼き尽くす」などと宣伝していますが、日本軍にそんな作戦などあるはずなく、中日辞典をひけば三光というのは支那語であり、日本語ではないことがすぐわかろうものですが、中共人は信じているのでしょう。プロパガンダの恐ろしさです。

 この田中メモランダムは張学良らの排日工作(ソ連KGBの前身OGPとも)によって作られたということがわかっていますが、手が込んでおり、多くの国が信じていたようです。そしてノモンハン事件でも使われたのです。

 昭和6年(1931年)ソ連は満州事変が始まると田中メモランダムを大々的に広め、満州国が出現するとハルハ河にあった国境線を満州国側にずらし、ノモンハンを通る線で国境を引きなおします。昭和14年(1939年)のノモンハン事件でソ連側はこの田中メモランダムが実行されたとうたい、ソ連兵士に対して「日本の侵略」として、そこからモンゴルを守るという戦争目的を徹底していたのです。

 戦後になればさすがにこのような偽文書はどの国の歴史学者でも見破りそうなものです。ところがそうでもなかったのです。平成元年(1989年)にソ・モ・日の研究者を招いたハルハ河円卓会議というのがモスクワで開催されています。日本から出席したのは言語学者の田中克彦氏だけでした。そこで日本代表として何か発表して欲しいと急にいわれた田中氏は徹夜で原稿を書き、「辻政信という参謀が名誉欲しさと冒険心で最初から最後まで動かしてきた」と論じました。田中氏の論はトンデモ論ですが、予想していたより大きな反響(不評・反論)で迎えられたそうです。ソ連の研究者は田中メモランダムによって大規模な侵略計画が実行された、ということを信じていたのです。さすがにソ連崩壊後、田中メモランダムを信じているロシア研究者はいないようで、ほとんど言及されないらしいです。ようやく中共でも最近になって田中メモランダムは存在しなかったという見方がだんだん主流になってきているといいます。



参考文献
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子(編)
参考サイト
 Wikipedia「田中上奏文」

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 戦車第四連隊の九十五式軽戦車 歴史街道2011.05より

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ノモンハン事件は日本軍の惨敗だったのか

ノモンハン事件で日本軍は負けていなかった。

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 昭和14年(1939年)5月、満州と外蒙古(モンゴル)の国境で日本・満州軍とソ連・外蒙古軍が激突。ノモンハン事件が勃発しました。この戦闘はソ連の機械化部隊に対して日本軍はまったく歯がたたなかったと言われてきました。私自身も学校でそう教わった記憶があります。

 よく言われるのは損耗率です。数字については色々言われていますが、定評のある小田洋太郎・田端元「ノモンハン事件の真相と戦果」から拾ってみます。

 日本軍参戦者 30,000 戦死傷者 17,000 => 56%

 教科書などには第二十三師団の2万を母数に損耗率7割としているものもあります。この数字が一人歩きし、「惨敗」となり、ソ連が大量の戦車を投入していることから、機械化部隊に歯が立たなかった、となったようです。戦後、ソ連が崩壊後、ソ連側の被害がわかってきました。

 ソ連軍参戦者 77,000 戦死傷者 26,000 => 33%

 これを有効率で表すと日本軍30,000がソ連軍26,000を殺傷したのですから、86%。それに対してソ連軍の有効率は22%となります。日本軍は倍以上の敵と戦い4倍の強さを発揮したことになります。

 情報史研究家の柏原竜一氏は戦闘に参加した日本軍は3万、ソ連軍は23万であったとし、航空機の日本側の損害はソ連の1/10であり、ソ連の兵器は質がわるく、800台が日本軍によって破壊されたと指摘。日本軍が負けたと錯覚したのは情報不足と国際情勢認識不足と指摘し、対ソ戦略を見誤ることになったと述べています。文学博士の西尾幹二氏はソ連軍将校のマキシム・ホーソン、手記の和訳「赤軍ノモンハン戦闘記、戦車旅団全滅」の中ではソ連軍が壊滅状態になった話が書かれており、昭和16年2月に発行されているにもかかわらず、軍の認識不足、活用が行われていないことを指摘しています。

 実際、私の曾祖母の弟がノモンハン事件に従軍しており、大佐でしたから状況はよくわかっていたと思います。戦後も祖父母らと接していましたが、祖父の記録によると「ノモンハン事件で日本軍が惨敗した後始末に」と書いており、「惨敗」の認識が共有されていたと思われます。

 関東軍参謀の辻政信少佐は現地戦闘に参加し、ノモンハン戦について戦後家族宛の書信の中で次のように述べています。

「戦場に慣れない間はいつでも誰でも先ず第一に自己の周囲の惨状が目に付く。自分だけひどい目にあって敵は涼しい顔をしているように感じるものだ」「昔から戦場に双退(敵味方共に退却すること)の現象がある。どちらも負けたと思ったのだ。戦争は試合のように審判官がないから、勝負は結局相互の意思で定めるだけだ」

 そして
「現地軍は勝った、少なくとも断じて負けとらんとの気持ちであった」と書いており、日本軍が大規模攻勢をかけようとしたとき参謀本部は負けたと感じた。「負けたと思ったほうが負け」ということを言っています。また辻の著によると傍聴によってソ連側が大損害によって悲鳴をあげているのも軍は把握しており、やはり軍の情報収集・分析力の欠如ということになるでしょう。

 昭和14年(1939年)5月11日、ノモンハーニー・ブルドー・オボーの近くの砂丘で日満軍とモンゴル軍が衝突。5月22日に満軍1,600人が出動することになり、28日にはソ・モ軍の戦車部隊と激戦になり捜索隊の東中佐らは突撃して戦死します。6月20日になると日本軍は空爆を行い、ハルハ河東側120キロ地点の敵基地を27日に空爆します。7月に日本軍はハルハ河を越え攻撃。8月19日よりソ連軍が大規模な反撃を行い、日本軍第二十三師団は壊滅的な打撃を受けます。日本軍は精強な第七師団、第四師団、第二師団を加え、大規模な攻撃を加えようとしていました。そこへ突然の待機命令が下ります。

 東郷茂徳大使と陸軍駐在武官・土居昭夫大佐はソ連モトロフ外相と交渉し9月15日に停戦となりました。ところがなんと9月17日にソ連軍はポーランドへ侵攻したのです。(ドイツは9月1日にポーランドへ侵攻) ソ連は東の憂いがなくなったので、西へ行くことができるようになったのです。してやられました。土居昭夫大佐は
「こんなことならもう2,3日粘っていれば・・・まんまと騙された感が深い」と語っています。




参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
 WiLL2009.9「現代史を見直す」- 『米大統領の心情こそ研究すべきだ』西尾幹二・福井雄三・福地惇・柏原竜一
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
 歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政

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 鹵獲したソ連BT-5戦車 歴史街道2011.05より

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ノモンハーニー・ブルドー・オボーの戦い(ノモンハン事件)

ノモンハン事件はなぜ起こったのか。

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 昭和14年(1939年)、満州国とモンゴルの国境紛争でノモンハン事件が勃発しました。この舞台となったのはノモンハーニー・ブルドー・オボーという地名であり、ブルドーは水が湧き出して小さな湿地や沼ができる場所のことをいい、オボーは塚のことをいい、日本が最初のノモンハーニーだけを略してノモンハンと呼びました。

 ノモンハンでの満州国とソ連の国境線はハルハ河でしたが、昭和7年(1932年)、ソ連は突然国境変更を行い、昭和10年(1935年)にハルハ河より東に国境線を引いた地図を作り、日満側に突きつけてきました。それまでソ連は帝政ロシア時代もソ連時代になっても昭和7年(1932年)まではハルハ河を国境線としていたにも関わらずです。
 日本陸軍は再度、資料収集と現地調査を行い、清王朝時代の部族境界も確認し、「やはりハルハ河が国境」と結論付けます。明治38年(1906年)にロシアと清王朝の間でキャフタ条約が結ばれており、「山脈、連山、河川の存するときはこれを境界とする」に基ずき、ロシアのザバイカル軍測量隊はハルハ河を国境とする八万四千分の一地図を作っています。支那参謀本部は大正7年(1918年)に十万分の一地図を作成していますが、これも国境はハルハ河でした。この国境線を巡ってソ連・モンゴル軍と日本・満州軍が激突しました。これがノモンハン事件です。東京裁判史観の学者たちはソ連のそれまでの国境認識を無視して日本批判をするといいます。

 ノモンハン事件の約1年前の昭和13年7月に張鼓峰事件がおこっており、これも満州国とソ連の国境紛争です。この事件も東京裁判史観でいうと「日本の侵略」とされていますが、平成10年(1998年)、ロシアの有力日刊紙は
「これまで日本が悪玉、ソ連が善玉という解釈をしてきたが、それは誤りだった」と結論し、「ソ連側が日本を挑発するために、国境線をわざとずらしていた事実が判明した」としてソ連の侵略を認めています。

 昭和14年(1939年)のノモンハン事件勃発の頃、日本は支那事変の最中でした。ヨーロッパではドイツ・ヒトラーが台頭しており、日本とドイツは日独防共協定(共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書)を結んでいました。ソ連にとってヒトラーに対抗するためには日本の眼を南に向けさせなければ挟み撃ちに合います。「後顧の憂い」である日本徹底的に叩き、ソ連の強さを思い知らせてやり、日本が南進するように仕向ける、これがソ連・スターリンの構想でした。

 日本国内にはゾルゲを中心とするソ連のスパイ網が敷かれていました。ゾルゲはスターリンに
「日本はソ連との戦争についてウラジオストック及びチタ方面からの攻撃を予想している。しかし外蒙古(モンゴル)を通り、ハイラル、チチハル方面から奉天が脅かされる可能性はあまり信じていない」「日本軍はソ連に戦争を仕掛ける気はない。ただし春には軍事的挑発にでる企てがあるようだ」と報告します。この報告によってスターリンはノモンハンを衝くことを考えたと思われます。

 昭和12年から13年にかけて関東軍参謀副官に石原莞爾が就任しました。ハイラル方面には特設された第二十三師団と騎兵集団がいましたが、石原は四個師団の投入が必要と判断し、さらに方面軍司令部を置く方針を示しました。しかしこれは実現されず、昭和14年(1939年)5月4日、外蒙古兵が国境を越え、ノモンハン地区を襲撃。ノモンハンの戦いは切って落とされました。後世、日本軍はソ連軍の機械化部隊に歯が立たなかったと伝えられていますが、大きな間違いであり、日本軍の強さにスターリンは震え上がり、司令官のジューコフ将軍は後にドイツ戦で勝利に導いた英雄となりましたが、
ノモンハンの戦いが生涯で一番苦しかったと述べています。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
 歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
 岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
 光人社NF文庫「石原莞爾 国家改造計画」早瀬利之(著)
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

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 ノモンハンの日本軍 歴史街道2011.05より

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日韓合邦で搾取したのは日本ではなく韓国

日本が朝鮮半島を植民地化して搾取したというのは大嘘。

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 明治37年(1904年)、日本と大韓帝国の間に第一次日韓協約が結ばれました。明治39年(1906年)、統監府を設置しました。ここから明治43年(1910年)の日韓合邦まで、日本は大韓帝国の歳入不足を無利子・無期限で「立替」て交付しました。4年間で1428万円です。司法、警察など日本政府が受託した分野では日本政府が直接支出しました。4年間で9000万円です。韓国の歳入は明治39年(1906年)に748万円しかなかったのです。韓国は財政破綻、国家破産の状態でした。

 日韓合邦によって日本は本格的に大変なお荷物を背負わされることになりました。明治44年(1911年)の朝鮮半島の歳入は3565万円ですが、日本より1235万も補充しています。しかも公債・借入金は別途1000万円もあり、これは内地の日本人から調達したものでした。朝鮮人は全く参画しませんでした。そんな公債を買う朝鮮人はいませんでした。

 朝鮮半島の日本統治三十六年の朝鮮の財政は3565万円から31億円へと67倍になり、年平均15~20%が本土からの補充金によって支えられています。これには朝鮮半島の国防費は含まれていません。韓国人が言う朝鮮半島日本統治三十六年間は日本搾取の時代というのは全くのウソであり、逆であり、日本が半島に搾取されていたのです。

 台湾を見ると日本統治開始後10年で自立財政を果たしています。しかし、朝鮮半島は最後まで自立できていません。朝鮮人は歴史的に自立心、独立心が失われたいたのと、儒教からくる労働蔑視思想が障害になったものと思われます。

 韓国はこれまで「韓国が有史以来、独立を失ったのは、後にも先にも日帝三十六年の時代だけである。それ以前はずっと独立・主権国家だった」と主張していますがとんでもない嘘っぱちです。668年の統一新羅が唐の属国となって以来、モンゴルの属国となり、明の属国となりました。清の時代に入って清の力が強くなっても清に隷属しなかったため、清の皇帝ホンタイジが1637年に朝鮮に大軍を率いて侵入したため朝鮮王は降伏し、清の属国となりました。1894年の日清戦争は日本が朝鮮の独立をかけて戦っています。そして大韓帝国として独立しています。下関条約の一条には「清国は朝鮮の独立を承認する」とはっきり書かれています。

 韓国は千年もの間、大陸政権の属国だったのです。そして近代で独立したのは日本が清国と戦って与えています。現在の大韓民国も連合国が与えた独立です。自分らの力で得たものではありません。そのため韓国人には事大主義が根ざし、「自立」意識が希薄のまま、他国に依存しなければ生きていけなくなったのだと思います。それは現在でも続いており、平成9年(1997年)の通貨危機には日本からの援助を受けています。さらに現在も財政破綻の危機が起こっており、通貨スワップによって日本からの保護を受けています。しかし彼らは竹島を不法占拠し、歴史を捏造、歪曲し、反日運動を繰り返し、恩を仇で返すことしかしていません。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)

添付画像
 ソウル東門1904年(PD)

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日韓合邦を熱望したのは民衆の支持を得た「一進会」

日韓合邦は韓国民の意思だった。

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 明治43年(1910年)、日本と大韓帝国との間に「韓国併合ニ関スル条約」が結ばれました。日韓併合です。

 もういちど読む 山川日本史
「日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約をむすんだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
 韓国では、韓国軍の解散に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した・・・日本政府は1910年(明治43年)、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた」


 教科書ではまるで日本が一方的に併合したように書いています。また「植民地」などというのもまったくおかしな話です。そして日韓合邦を熱望した一進会のことが全く書かれていません。とんでもない歴史観を学校で教えられているということです。

 日韓合邦は李容九(イ・ヨング)らの一進会(イルチンフェ)とよばれる政治結社が提唱していました。一進会は東学党の流れを汲んでいます。東学党は明治27年(1894年)の東学党の乱で歴史舞台に大きく登場しています。
 1824年、没落した両班(貴族)の家に生まれた崔済愚が、万人平等、人間尊重を説き、貧しかった農民の間に浸透していきました。しかし李朝政府は1864年に民衆を惑わす邪道として彼を処刑します。しかし、二世教祖は隠れて教えの拡大を行い、三世教祖たちは首都で初代教祖の無実と不況の自由を訴えたため、李朝政府は弾圧に乗り出し、明治27年(1894年)に東学党の乱と呼ばれる武力闘争になっています。そして日清戦争勃発しました。

 日清戦争によって清国の敗北を見た東学の指導者たちは日本へ行って朝鮮開化党の志士たちと会合を重ね、清国やロシアと組むのではなく、日本と組まなければ朝鮮開化の道はないと理解し、「進歩会」と名を変え、大同団結して「一進会」を結成し100万余を号するようになりました。(当時の朝鮮の人口は900万余)

 日露戦争のとき、一進会の指導者李容九(イ・ヨング)は日本が勝利しなければならないとの確信から日本支援に踏み切り、全力をあげて鉄道建設を支援し、京城から以北の鉄道建設に協力した一進会は15万人といわれ、日本の物資を搬送した会員は10万人以上と言われています。これは一進会の強制でも日本軍の強制でも何でもなく、自弁です。

 明治38年(1905年)、日韓保護条約の方針が発表されると一進会は
「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模デモを行い、伊藤博文が朝鮮統監として赴任してきた日には南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されます。韓国の知識人が国債の償還をうたい、草の根や木の皮まで食べて生きながらえていた国民から義援金を集めようとしたとき、一進会は激しく抗議しました。

 ハーグ密使事件で高宗が退位し、韓国軍は皇宮護衛を残して解散すると京城で市街戦が始まり、各地で反日暴動が起こります。反日暴徒は日本軍とだけ戦ったのではありません。一進会とも戦ったのです。戦いの中で多くの一進会員が犠牲となりました。

 一進会は売国奴ではありません。韓国は世界から信頼を失っていただけでなく、経済的にも破綻し自立再生不能になっていたのです。一進会は朝鮮民族が滅亡から逃れるには国家を亡くしてでも日韓併合しかないことを知っていたのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)
 草思社「親日派のための弁明」金 完燮(著)荒木 和博・荒木 信子(訳)
参考サイト
 WikiPedia「李容九」「甲午農民戦争」「東学」
添付画像
 李容九(PD)

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日韓合邦は世界の意思

日韓合邦は日本の強制ではない。

S1900

 明治43年(1910年)8月22日、大日本帝国と大韓帝国の間に「韓国併合ニ関スル条約」が結ばれました。いわゆる韓国併合。日韓合邦です。この併合は日本帝国主義が武力によって行った強制だったというのは真っ赤なウソです。韓国には一進会という韓国民衆のエネルギーを結集した知識人たちの政治団体があり、熱烈に日韓合邦を望んでいたのに対し、日本は巨大なお荷物を抱えることに躊躇していました。

 当時は合邦国家というのは主流でありオーストリア・ハンガリー帝国、チェコスロバキアなどがあります。日韓合邦もなんらおかしな話ではなく、植民地の形態でもありません。
 また日韓合邦をイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどの列強がすべて賛成しています。事大主義の韓国にあっちつきこっちつきされたのでは大陸が安定しません。決定的なのはハーグ密使事件でしょう。明治40年(1907年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権保護を訴えるも国際社会から完全に拒絶されています。

 アメリカの著名な外交史家タイラー・デンネット
「韓国人は、その最近の歴史も駐米外交官達も、ルーズベルト大統領の尊厳や賞賛の念をひき起こすことができなかった。大統領にとって長い間海上に遺棄され、航海に脅威を与える船にも似た韓国が、今や綱をつけて港に引き入れられ、しっかりと固定されなければならないことは明らかだったように見える」

 アメリカは日韓合邦を肯定しており、日露戦争が終わったときさっさと韓国から在来公館を全部引き揚げてしまいました。ルーズベルト大統領は
「もはや朝鮮は国家の体をなしていない」と発言し、小村寿太郎外相に「将来の禍根を根絶させるためには保護化あるのみだ。それが韓国の安寧と東洋平和にとって最良の策である」と語っています。イギリスの外相ランズダウンも独り立ちできない韓国が日本の保護下に置かれることは当然だ、と語っています。第二次日英同盟では「グレートブリテンは日本が利益を増進するため、正当かつ必要と認める指導、監理および保護の措置を韓国において執る権利を承認する」と記されています。清もロシアも何の異議も唱えず何の抗議声明も行っていません

 韓国の国家財政は完全に破綻しており、列強からの借金は莫大な額になり返済のあては全くなく、帝国主義の時代にあって、政治、経済、社会、文化、教育、衛生、すべての分野においてどうしようもないところまで陥っていたのです。日本が韓国を植民地支配したというなら収奪の対象になる財貨、物産がなければなりません。しかし、韓国には道路はない、鉄道はない、港湾はない、橋はない、破壊されたハゲ山、堤防のない河川、野放しの農地、破壊された自然しかなく、これらを回復させるために何十年と日本国民の血税を充てなければならず、逆に日本が収奪されていったのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 展転社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 ワック出版「歴史通」2010.7『奴隷のいた国、いない国』高山正之
参考サイト
 WikiPedia「ハーグ密使事件」

添付画像
 李朝時代の西大門1900年(PD)

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支那大陸史上初の法治国家が誕生 ~ 満州国

大陸に突然出現した法治国家。

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 昭和6年(1931年)3月1日に建国宣言をした満州国は建国以来、国内の法を整備し、遵法精神の普及につとめ、その結果、支那大陸史上初の法治国家が整います。これには裁判官、警察官の増員と教育が必要で日本から識者を満州へつれてくるのと、国立新京法政大学に日本人、満州人の学生を入学させ育成します。こうした法整備は昭和12年(1937年)に完成しました。

 満州国の政府組織は議会にあたるのが立法院、内閣にあたるのが国務院、司法にあたるのが法院でした。法律により民事刑事の訴訟を審判する法院は、地方・高等・最高の三法院制をとり、日本などの先進国の司法制度と比べてまったく遜色がありませんでした。

 法整備によって満州国における日本人が享受していた治外法権は撤廃となります。さらに満州鉄道付属地の行政権も満州国へ移譲となります。満州は日本の植民地だと戦後言論空間で言われてきましたが、欧米の植民地支配でこのようなことはあったでしょうか。満州国総務長官を務めた星野直樹はこう述べています。

「満州の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚しく向上した。東亜各地から集まってくる人は数多く、三千万人であった人口は五千万人を超えるに至った」「治外法権は撤廃され、満鉄付属地は廃止された。日本人も満州在来の人々と同じように税を納め、法規に従うこととなった」

 満州は支那大陸史上初の近代的な法治国家であり文明国家だったのです。満州にはユダヤ人も多く居ました。
ラビ・M・トケイヤー著「ユダヤ製国家日本」
「今日、日本でも無知蒙昧(もうまい)な人々が、満州国は日本の傀儡国家でしかなかったというが、満州国は中国大陸にはじめて出現した近代的な法治国家であり、文明国家だった。これは、当時、満州国に在住していたユダヤ人たちが、証言することである」

 星野直樹は満州の人口が5,000万人と述べていますが、1938年は3,900万人,1941年には4,300万人のようです。毎年約100万人が満州へ渡っています。ひどい所に人が集まったりなどしません。この後、リットン調査団が満州を調査したとき、イギリスのモーニング・ポストは「
満洲の支那人は支那政府に好意を持つて居ないことは支那人の満洲移住でも知られる」と報じています。満州目指して万里の長城を越えていったのです。「日本は満州を植民地にして搾取した加害者」というのは戦後創られたウソです。

 もちろん日本が満州国に対して内面指導を行い、急進的に改革を進めたのはソ連の脅威も手伝っています。また急な改革は弊害も生みます。日系官吏が増えて他民族よりも俸給が多くなっていたり、協和会という建国の理想を護持する会を日本軍人がいつまでも陣取っていたりしています。(本来、協和会も満州国に移譲するはずだった) 満州建国の立役者である石原莞爾は昭和12年に再び満州に赴任してきました。急進的な改革から出る歪を聞き、理想主義である石原は苦言を呈します。しかし、関東軍参謀長の東條英機に疎まれ、孤軍奮闘し、そして満州を去って行きました。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 国立公文書館アジア歴史資料センター「リットン報告に対する外国新聞の論調」陸軍省新聞班

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 哈爾浜のキタイスカヤ通りにあるロシア人向けの店舗(PD)

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満州国建設への情熱

日本人は満州へ情熱を注いだ。

S1932


 1911年辛亥革命によって清朝が崩壊した後、張作霖の北洋軍閥と孫文、蒋介石の南方革命がクローズアップされますが、連省自治派というもう一つの対立軸がありました。天津の評論家・張弧(ちょう こ)は
「東亜永久のために日中露争覇の地である満蒙全域に東亜六族の大同国家を建設し中立を保たせる以外ない」と主張しています。満州では保境安民派、清朝の再建を目指す復僻(復活)派、モンゴル独立を望むモンゴル青年独立派があり、張学良軍閥の打倒を目指していました。

 連省自治派は北京政府と戦い、満州では保境安民派が張軍閥と葛藤を繰り広げます。満州事変が起こり張軍閥が一掃されると各地の実力者が結集して新国家建設に奔走し、満州国となるわけです。

 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変勃発。日本関東軍が張学良軍を駆逐すると満州の民は快哉(かいさい)を叫びました。
 奉天省商民代表は自治派と提携して袁金凱(えんきんがい)委員長、于冲漢(う ちゅうかん)副委員長を中心とする奉天自治維持会を組織し、支那と絶縁して民意に基づく新政権の樹立を目指しました。于冲漢は関東軍作戦参謀の石原莞爾を讃え、満州の自治をスイスのような永世中立国に、とを唱えていました。

 吉林省の主席は張作相(ちょう さくそう)でしたが、彼は事変のとき天津にいたため、実権を握っていたのは東北辺防軍副司令官公署参謀長の熙洽(き こう)でした。熙洽は愛新覚羅氏出身であり、東京振武学校(士官学校の予備校)、陸軍士官学校に留学した経験があります。新政権の樹立には熱心で張学良派を駆逐し、独立を宣言しました。

 奉天自治維持会は遼寧省(りょうねいしょう)地方維持委員会と改組し、熱河省(ねっか-しょう)の遼寧四民臨時維持会と共同で独立宣言を発表しました。

「我が東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、今やこれらの悪勢力を一周すべき千載一遇の機会に到達した。・・・新独立政権の建設を図らざるを得ざるに至った。これがために本会は、張学良と関係のある錦州政府並びに軍閥の禍首蒋介石らの蠢動(しゅん‐どう)を否定することを決議した」

 東省特別区のハルビン市長・張景恵(ちょう けいけい)は関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐の説得に応じ、治安維持会を組織して昭和7年1月1日、独立を宣言しました。このほか東辺道鎮守使・于シ山も地方自治派勢力につきました。関東軍に抵抗した馬占山も板垣大佐の尽力により張景恵に服従しました。

 満州建国にあたり張景恵、熙洽、馬占山らは溥儀を元首とすることで一致し、国号、年号、国旗、国体、政体についてさまざまな意見が出されます。満州の在満日本人は当初の目的「日本の権益を死守」から満州とモンゴルの独立を目指す独立国家論者へ変化し、新国家建設に情熱を燃やすようになります。そして溥儀を執政とする民主共和制が決定され、国号を満州国、国旗を五色旗、国都を新京と定めました。

 満州建国の立役者、石原莞爾は建国の年の8月の関東軍人事異動により転出します。昭和12年(1937年)に東條英機が関東軍参謀に就任すると石原莞爾は参謀副長に就任。再び満州へ渡ります。建国したばかりの満州ではうまくいかないこと、不満も多々あり、石原のもとには千客万来であったといいます。

 満州は日本の植民地や関東軍の野望のための傀儡国家などと戦後言われてきましたが、他民族の共存共栄の理想郷として多くの日本人、満州人、漢人、モンゴル人、朝鮮人が情熱を傾けた国だったのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
参考サイト
 WikiPedia「張孤」「石原莞爾」「熙洽」

添付画像
 満州国ポスター(PD)

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八田ダム

偉大な日本人がいた。

Sauthellery

 18世紀末、台湾では土地開発は飽和し、人口過剰による食糧不足となり、19世紀に入ると飢饉が深刻化し、コメを輸入に頼るようになります。流入する漢人との土地をめぐる対立も激しくなります。しかし、日本統治時代に入りコメ生産量は4倍に急増し、砂糖とあわせて農産物輸出が可能となります。
 台湾の農業を発展させたのは水利灌漑事業で八田与一(はった よいち)という日本人技師の活躍が大きく寄与しています。嘉南大しゅう(かなんたいしゅう しゅうは土ヘンに川)と呼ばれる水利設備が有名で烏山頭ダムは別名「八田ダム」と呼ばれています。

 八田与一は明治43年(1910年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職します。大正3年(1914年)、若干28歳で技師となり、30年にわたり桃園大しゅう、嘉南大しゅうを設計・建設し、全台湾の土地改良計画に加わり、技術協会を組織し、「台湾水利境界」の設立に参加します。
 台湾は冬は乾季で夏は雨季、嘉南平野は夏になると平野が氾濫してしまいます。農民がいくら耕作しても貧農から脱出することはできませんでした。これを解決するにはダムを造って灌漑を行う必要がありましたが、規模が大きすぎるので実現性は疑問視されました。しかし、可能性に挑戦すべきとして建設が決定します。
 八田与一は特殊工法によって建設すべしと提案しますが不安視され、アメリカ土木学会の権威であるジャスチンは日本の技術では独自の建設は困難であり、八田は若すぎると案じています。しかし、竣工から10年の昭和5年(1930年)に烏山頭ダムは完成します。この灌漑施設は内地でも前例がなく、アメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界を驚かせています。地元の人は喜び八田与一の銅像を製作し、ダムのほとりに建立しました。

 八田与一は昭和17年(1942年)5月5日にフィリピンの綿作灌漑の視察にいく途中、乗船した船が米国の潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈され、亡くなりました。享年56歳。その後戦争が終わり、日本人が本国へ引き揚げはじめていた頃の昭和20年(1945年)9月1日、八田夫人は烏山頭ダムに身を投げて自殺してしまいます。嘉南平野の人々は翌年の12月15日に八田与一と夫人の墓を建立しました。

 八田与一の銅像は戦争末期に金属の供出が求められた際に地元の人が忍びなく思い隠していましたが、戦後も国民党が日本時代の銅像や痕跡を抹殺するのに躍起になっていたため世に出ることができず、昭和56年(1981年)にようやく姿を現しました。

 後藤新平が「台湾近代化の父」、八田与一は「嘉南大しゅうの父」と呼ばれ、毎年八田与一の命日である5月8日には嘉南農田水利会の人々によって墓前で慰霊祭が行われています。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」蔡 焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「八田與一」

添付画像
 八田與一の銅像。八田與一と妻外代樹の墓。台湾台南市烏山頭ダム AUTH:ellery

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日本と台湾 ~ ともに歩んだ50年(1895~1945)
http://www.youtube.com/watch?v=29bdvHsQV9k

六士先生

教育に命を懸けた日本人たち。

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 台湾は明治28年(1895年)4月17日の下関条約によって日本領となりました。それ以前の台湾の教育は「書房」と呼ばれる日本の寺子屋に相当するような庶民階級の子弟教育の場がありましたが、個人的な教育の場であり、教師の自宅や寺を使っていたため、環境が不十分だったのと、教師に使命感が乏しかったようです。就学率もかなり低かったと試算されています。
 日本統治時代に移り、総督府は公学校を設立。最初に55校を開設します。これには台湾人は旧来の教育制度に固執し、反発します。総督府は義務教育とせず、生徒に給料まで払うような政策を行っています。昭和18年になって義務教育となります。台湾は日本の植民地だったという人がいますが、植民地で義務教育など考えられないでしょう。西洋の植民地支配のやり方は学問を施さず、隷属化させることです。

 明治28年、文部省学務部長心得の伊沢修二は日本全国から集めた7人の優秀な人材を連れ、台湾に渡り、台北北部の士林に「芝山巌学堂」という最初の学校を開き、日本語を教えました。生徒はわずか6名からのスタートです。この頃の台湾は多民族でそれぞれ言葉が通じませんでした。これより日本語が共通となり、民族間で会話が可能になるほか、日本語を学習することにより日本語で書かれた近代学問書が読めるようになります。

 明治28年の暮れ、近衛師団長として台南に出征していた北白川親王宮能久親王がマラリアで不帰の客となってしまい、伊沢修二は7人の先生のうち一人を連れて、親王の棺とともに一時帰国します。この伊沢修二の留守の間に悲劇が起こります。
 この頃の台湾は内地人を敵視するゲリラ、匪賊がおり、周辺住民は教師たちに再三退避を勧めましたが、
「もとより教育とは命がけなもの」として聞き入れようとしませんでした。
 明治29年(1896年)元旦、6人の教師と一人の用務員が新年の参賀会に出席するため、芝山巌を下山しようとしたとき、百人の抗日ゲリラに取り囲まれ、惨殺されてしまいます。
 台湾の教育に情熱を捧げ、教育者として殉職した六人の教師は多くの人に感銘を与え「六士先生」(六氏先生とも)呼び、その精神は「芝山巌精神」と今も讃えられているそうです。
 昭和5年(1930年)には芝山巌神社が建立され、伊藤博文揮毫(きごう)による「学務官僚遭難之碑」が建てられました。また、教育の聖地として、教育に殉じた教師330人(うち台湾人教師24人)もここに祀られました。しかし、戦後、国民党によって神社や墓はことごとく破壊されます。六士先生の遺骨は神社の隣にあった恵済宮の住職が墓跡から遺骨を密かに移したことによって難をのがれました。

 台湾民主化の動きが進み芝山巌学堂が開かれて100年経った平成7年(1995年)1月1日。芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学校の卒業生により「六士先生の墓」が再建されました。さらに平成12年(2000年)には「学務官僚遭難之碑」も復元されました。


【六人の教師の名前】
山口県、楫取道明 (38歳、久坂玄瑞の甥)
愛知県、関口長太郎 (37歳)
群馬県、中島長吉 (25歳)
東京都、桂金太郎 (27歳、東京府士族)
山口県、井原順之助 (23歳)
熊本県、平井数馬 (17歳)


【六氏先生の歌】
作歌:加部巌夫 作曲:高橋二三四

やよや子等 はげめよや
学べ子等 子供たちよ
慕へ慕へ 倒れてやみし先生を


歌へ子等 思へよや
すすめ子等 国のため
思へ思へ 遭難六氏先生を




参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『今も慕われる六士先生』若杉大
参考サイト
 Wikipedia「六氏先生」

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 六氏先生の墓(PD)

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親日国 台湾と日本
http://www.youtube.com/watch?v=9TwxScvOchM

戦前は真っ暗な時代だったのか

戦前真っ暗ってホント?

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 評論家、日下公人氏は1930年代には日本国民の生活はどんどん豊かになっていったと述べています。私は昭和4年(1929年)に世界恐慌があり、農村部は大打撃を受け、そこから日本は軍国へ歩み、どんどん暗い時代に落ちていったというような教えられ方しましたが、氏は日本の工業生産高は増え、都市が発展し、大学がたくさん誕生していき、昭和14年まで日本国民一人当たりのGNPは増加し続けたと述べています。
 一般の人でも自転車が買え、少し金持ちになると乗用車のダットサンがもう少しで買えるようになる。信州の田舎のおっさんでも一儲けしてハーレーを買って乗り回していたと言います。私の祖父はその頃、朝鮮半島にいましたが、ハーレーを持っていたと記録しています。「戦後日本は軍事費を大幅に削ったので経済発展を遂げることができた」という話を聞きますが、それは神話であることに気づきます。考えてみれば現代でも中華人民共和国は軍事費を増やして軍事大国となり、経済も発展しているではありませんか。

 昭和15年になると急に物資が不足し始め、配給制になりましたが、裏ではいくらでも出回っていたといいます。

 戦争中はプロ野球では英語の「アウト」「セーフ」「ストライク」「ボール」は使ってはいけないことになっていたと私は学校で教えられましたが、当時はプロ野球よりも大学リーグのほうが人気があり、米国生まれのスポーツである野球用具はプロ野球に回ってこないため敵性語である英語の野球用語は使わないからと申し出て用具の材料を手に入れたようです。

 宗教もキリスト教学校に査察があると「ちょっとたるんどる」と言われるぐらいで、生徒が徴兵で軍隊に行って差別されるといっても「天皇陛下とキリストとどっちが偉いか」とさんざん聞かれるぐらいで「どっちも」と答えると「まあいいや」となったそうです。明治憲法でも宗教の自由を保障しています。
 軍人は偉くて威張っているかと言えば、意外にも大学教授のほうが偉かったという話もあります。憲兵が思想犯について、いちゃもんつけても裁判所は聞き入れず、ちゃんと法律に従って裁いていました。

 ジャズなどアメリカやイギリスの音楽が演奏禁止になったのは昭和18年。雑誌に英語のタイトルをつけることが禁止されたのも昭和18年になってからです。

 どうやら日本人は戦後になって「戦前真っ暗」と洗脳されてきたようです。世界恐慌や農村部の困窮、満州事変、支那事変、大東亜戦争、治安維持法といったものばかりつまんで、「真っ暗」といい、経済発展、昭和モダンの華やかさ、共産主義の暴力的なものを伏せて語られてきたわけです。これは戦後占領期のGHQの検閲と焚書によるものが大きく関わっており、GHQの民間情報教育局という宣伝という名の日本人洗脳部門の計画では
「軍艦、軍用機、弾薬等に費やされた金と、それが平和な目的に用いられた場合、どれだけの家が建ち、電力の余裕が生じ、近代化が進んだかの比較等々・・・」というのがあり、軍備をもたなければ経済が発展するというプロパガンダを流し、「平均的市民は自分の生活の問題について真の発言権を持てなかった」と戦前を真っ暗なイメージを刷り込んでいったのです。




参考文献
 ワック出版「歴史通」WiLL7月号別冊『それは作り話か勘違い』日下公人
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)

添付画像
 昭和11年有楽町日劇前 歴史通2009.7月号より

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騙されたリットン調査団

裏には密約があった。

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 昭和6年(1931年)9月18日に発生した満州事変について、中華民国政府の提訴をうけて昭和7年(1932年)2月より、リットン調査団が調査を始めますが、それまでの国際連盟の空気は日本よりむしろ全国を統一しきれないでいる支那の弱体ぶりにたいして批判的であったといいます。

 内田満鉄総裁は
「唯一の解決方法は満州国を承認することである。満州国は日本の傀儡国家ではないし、本来、支那の不可分の領土でもなかった」と強調し、本間関東軍司令官も「満州は日本の生命線で、その防衛は日本のみならず、すべての文明社会をコミンテルンの赤化から守ることになる」と力説しています。

 しかしながら歴史的に満州は漢民族のものではなかったこと、満州の民衆を理解していないリットン調査団は日本の貢献と権益を認めましたが、満州国を認めませんでした。支那の一部としたのです。支那としては満州民族の土地を漢民族の土地として認めてもらったのですからしてやったりです。支那は自らの弱体化を憐憫の情をかけさせるごとく、民衆の軍閥に対する怨嗟巧みにそらしたのですから支那人のうそつきテクニックは昔からたいしたものだったということなのでしょう。

 1930年代に上海の米国総領事館の副領事であったラルフ・タウンゼントは米国が支那政府を盲目的に信用して日本を敵視していることに対して警告を発しています。

「支那人ほど下劣で油断のならない民族はいない。西洋人は道徳観は人類に共通するものと考えているが、それは間違いである。西洋人は人様に親切にしてもらったら何かお礼しようと考え、少なくとも迷惑をかけないように気を使う。これが支那では通用しない。恩義を感じないのである」
「支那に長く居る英米に、支那人の性格で我々と最も違うものを挙げて欲しいかと訊くと、ほぼ全員が躊躇なく”嘘つきである”と答える」
・・・現在も変わりません。

 リットン報告書の第9章では解決の原則および条件を掲げ、原状回復および満洲国の維持を共に否認し以下をあげています。
 1)日中両国の利益に合致すること
 2)ソビエト連邦の利益尊重
 3)現行の多辺的条約と調和し得ること
 4)満洲における日本の利益の承認
 5) 日中間における新たな条約関係の設定
 6)将来の紛争解決について効果的施設をなすこと
 7)中国の主権および行政的保全と調和する範囲内で満洲に自治を許す
 8)内部的秩序は能率ある地方的憲兵隊により、外部的侵略に対する安全保障はすべての軍隊の撤退および不侵略条約による
 9)日中間の経済的提携の促進
10)中国の改造に対する国際的協力等を紛争解決の条件とし

 むちゃくちゃな話しではないので日本政府も受け入れの意向だったといいます。ところがARA密約というのが白人国家同士で結ばれていたのです。ARA密約は日本がリットン報告書を受け入れた後、欧米諸国が満州の権益を分けっこするというものです。これを日本側の情報筋がキャッチしたしました。そのため日本は満州国を譲れなくなり、国際連盟を脱退することになります。



参考文献
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
参考サイト
 WikiPedia「リットン調査団」

添付画像
 中華民国の上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団(リットン調査団)一行(PD)

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満州建国

理想郷、満州国の誕生。

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 昭和7年(1932年)1月、関東軍作戦参謀石原莞爾は満州現地人の政治能力を評価し、満蒙領有論を後退させ、独立建国論への転向を表明しました。関東州も全部返納し、日本の機関は最小限に縮小し、新国家に日本人も支那人も区別無く入って行くこと、新国家で活動したい在満邦人は国籍を移すことなど語っています。

 同年2月には奉天に張景恵ら、満州の要人が集まり行政委員会が組織されました。
 3月には内モンゴルとホロンボイル(バルガ族ら遊牧民の地)の代表を加え、東北行政委員会が満州国建国を宣言し、清国の皇帝溥儀が執政に就任しました。民族協和・満州国の独立完成をめざし、満州協和党(後、満州協和会)が結成されました。石原莞爾は協和会を建国の理想を護持する団体として政府の動きを監視することを重要な役割として、近い将来、関東軍は協和会に主権を譲り、満蒙の治安維持に専念すべきと考えていました。

 これらの建国の流れをみていますと、清朝の溥儀を頂点とした各地方、民族による国家建設であることがわかります。もちろん関東軍の影響力は大きいものがあり、閣僚はすべて満州国人でしたが、国務総理の下にある総務庁の重要ポストはほぼ日本人官僚で独占されています。しかし、国家がよちよちの歩きのときは寄りすがるものは必要でしょう。寄りすがられるほうも、その分の見返りが必要なのも外交上当たり前のことです。日本の明治維新を思い出してみると近代化を進める上で多くの外国人を高給で雇ったのと同じです。戦後の論調である、日本が得たものや有利なものだけつまんで、日本の傀儡だ、搾取だ、とする考え方は偏向です。傀儡と呼ぶのであれば蒋介石の国民党はアメリカ、イギリスの傀儡であり、毛沢東の共産党はソ連の傀儡と呼ばなければなりません。

 国際連盟から派遣されたリットン調査団は満州国を認めない報告を国際連盟に提出しています。しかし、内容は満州における日本の権益と貢献を認めています。当時の世界中の新聞では日本支持の論調は多くあり、有識者の論調も満州国を支持するものもちゃんとあります。
アメリカ人ジャーナリストのジョージ・プロンソン・レーは著書でこう述べています。

「日本は凡ゆる正当なる法律並びに戦争法規に基づき、支那が日露戦争に参加したことに対し、支那から現金を持って賠償を受くるか或いは其の代わりに1895年に正式譲渡し後に至って還付を余儀なくせしめられた満州の土地を受くる権利があると確信するものである」
「然るに日本がその正当なる法律上の要求権を放棄して満州国の絶対独立および主権を承認し、その独立を擁護する事を声明したことは筆者の目から見ると侵略行為とか領土征服どころではなく、近世史上に於ける最も特筆すべき自制的および利他的行為であるのである」
「満州国の独立および主権を現に尊重する事が日本の根本的政策であると日本は世界に表明して居るのであるから其の約束の言葉を疑い日本の真意を疑いその動機を彼是(あれこれ)いうことは米国がフィリピン独立の約束を疑うのと同一であって理由のないことである」


 EUの父と呼ばれたクーデンホーフ・カレルギーは次のように述べています。

「日本は国際連盟で鄭重なる言辞を以って、而も(しかも)強硬なる行動をもって世界に対し、『満州より手を引きなさい』と叫んでいる。日本は第三国の干渉や仲裁を用いずに、直接の商議を支那との間に開かんことを要求している。すなわち日本は極東に於ける『モンロー』主義を要求しているのである。(中略) 米国及び英国の『モンロー』主義を承認している国際連盟が単り(ひとり)極東『モンロー』主義だけを拒否し、アジアを無制限に連盟の権力化に置かんとすることは困難であろう」

 われわれは満州国について日本の植民地、日本の傀儡、日本が侵略したという東京裁判史観を教え込まれましたが、そこから脱却せねばなりません。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)

添付画像
 満州国の閣僚(PD)

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国立公文書館 リットン報告に対する外国新聞の論調 昭和7年10月6日陸軍省新聞班
http://www.digital.archives.go.jp/ から検索。

フランス マタン(三日) 調査団が混乱せる支那に於いて認識した事実を報告結論との間には沢山矛盾がある委員会は支那の無政府状態よりして日本が斯かる行動に出たことは止むを得ずと認めながら結論では連盟擁護上事実に反した断案を下して居る

フランス プテイバリジヤン(三日) 日本政府が満洲国に対する承認を撤回することを得ない以上リツトン報告の結論は反古となつた

イギリス モーニング・ポスト(三日) 満洲の支那人は支那政府に好意を持つて居ないことは支那人の満洲移住でも知られる

アメリカ 紐育タイムス(三日) リツトン報告は我々の予期して居た如く最も公平且透徹せる見解である

スイス トリビューン 連盟が手を拡げ過ぐるは危険なり 連盟は先づ欧洲を改造すべし

※フランスとイギリスが比較的、日本に好意的。「英国民の大多数は日本に対し同情的」「歴史上よりみるも満州独立は当然のこと。南京政府は支那を完全に代表せず」とある。


 国立公文書館の政府がまとめた資料「「リットン」報告に対する欧洲諸国言論機関の論調」にもイギリス・テレグラフは「満州問題はその独立と共に既に解決せられたり」とある。また報告書の矛盾を指摘する論調も目立つ。フランス・マタンは「日本が自力に依り将に延びんとする共産@の魔手に対して満州国を防護せんとするは理由あり・・・」とあり、当時の国際世論がソ連共産主義の南下を脅威としてみていたことがわかる。

 いずれにしろ国際世論は一方的なものではなかった。それを一方的に「日本悪」としてみる日本の言論空間は戦後創られた東京裁判史観、自虐史観以外の何でもない。

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