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満州国建設への情熱

日本人は満州へ情熱を注いだ。

S1932


 1911年辛亥革命によって清朝が崩壊した後、張作霖の北洋軍閥と孫文、蒋介石の南方革命がクローズアップされますが、連省自治派というもう一つの対立軸がありました。天津の評論家・張弧(ちょう こ)は
「東亜永久のために日中露争覇の地である満蒙全域に東亜六族の大同国家を建設し中立を保たせる以外ない」と主張しています。満州では保境安民派、清朝の再建を目指す復僻(復活)派、モンゴル独立を望むモンゴル青年独立派があり、張学良軍閥の打倒を目指していました。

 連省自治派は北京政府と戦い、満州では保境安民派が張軍閥と葛藤を繰り広げます。満州事変が起こり張軍閥が一掃されると各地の実力者が結集して新国家建設に奔走し、満州国となるわけです。

 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変勃発。日本関東軍が張学良軍を駆逐すると満州の民は快哉(かいさい)を叫びました。
 奉天省商民代表は自治派と提携して袁金凱(えんきんがい)委員長、于冲漢(う ちゅうかん)副委員長を中心とする奉天自治維持会を組織し、支那と絶縁して民意に基づく新政権の樹立を目指しました。于冲漢は関東軍作戦参謀の石原莞爾を讃え、満州の自治をスイスのような永世中立国に、とを唱えていました。

 吉林省の主席は張作相(ちょう さくそう)でしたが、彼は事変のとき天津にいたため、実権を握っていたのは東北辺防軍副司令官公署参謀長の熙洽(き こう)でした。熙洽は愛新覚羅氏出身であり、東京振武学校(士官学校の予備校)、陸軍士官学校に留学した経験があります。新政権の樹立には熱心で張学良派を駆逐し、独立を宣言しました。

 奉天自治維持会は遼寧省(りょうねいしょう)地方維持委員会と改組し、熱河省(ねっか-しょう)の遼寧四民臨時維持会と共同で独立宣言を発表しました。

「我が東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、今やこれらの悪勢力を一周すべき千載一遇の機会に到達した。・・・新独立政権の建設を図らざるを得ざるに至った。これがために本会は、張学良と関係のある錦州政府並びに軍閥の禍首蒋介石らの蠢動(しゅん‐どう)を否定することを決議した」

 東省特別区のハルビン市長・張景恵(ちょう けいけい)は関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐の説得に応じ、治安維持会を組織して昭和7年1月1日、独立を宣言しました。このほか東辺道鎮守使・于シ山も地方自治派勢力につきました。関東軍に抵抗した馬占山も板垣大佐の尽力により張景恵に服従しました。

 満州建国にあたり張景恵、熙洽、馬占山らは溥儀を元首とすることで一致し、国号、年号、国旗、国体、政体についてさまざまな意見が出されます。満州の在満日本人は当初の目的「日本の権益を死守」から満州とモンゴルの独立を目指す独立国家論者へ変化し、新国家建設に情熱を燃やすようになります。そして溥儀を執政とする民主共和制が決定され、国号を満州国、国旗を五色旗、国都を新京と定めました。

 満州建国の立役者、石原莞爾は建国の年の8月の関東軍人事異動により転出します。昭和12年(1937年)に東條英機が関東軍参謀に就任すると石原莞爾は参謀副長に就任。再び満州へ渡ります。建国したばかりの満州ではうまくいかないこと、不満も多々あり、石原のもとには千客万来であったといいます。

 満州は日本の植民地や関東軍の野望のための傀儡国家などと戦後言われてきましたが、他民族の共存共栄の理想郷として多くの日本人、満州人、漢人、モンゴル人、朝鮮人が情熱を傾けた国だったのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
参考サイト
 WikiPedia「張孤」「石原莞爾」「熙洽」

添付画像
 満州国ポスター(PD)

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