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日韓合邦を熱望したのは民衆の支持を得た「一進会」

日韓合邦は韓国民の意思だった。

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 明治43年(1910年)、日本と大韓帝国との間に「韓国併合ニ関スル条約」が結ばれました。日韓併合です。

 もういちど読む 山川日本史
「日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約をむすんだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
 韓国では、韓国軍の解散に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した・・・日本政府は1910年(明治43年)、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた」


 教科書ではまるで日本が一方的に併合したように書いています。また「植民地」などというのもまったくおかしな話です。そして日韓合邦を熱望した一進会のことが全く書かれていません。とんでもない歴史観を学校で教えられているということです。

 日韓合邦は李容九(イ・ヨング)らの一進会(イルチンフェ)とよばれる政治結社が提唱していました。一進会は東学党の流れを汲んでいます。東学党は明治27年(1894年)の東学党の乱で歴史舞台に大きく登場しています。
 1824年、没落した両班(貴族)の家に生まれた崔済愚が、万人平等、人間尊重を説き、貧しかった農民の間に浸透していきました。しかし李朝政府は1864年に民衆を惑わす邪道として彼を処刑します。しかし、二世教祖は隠れて教えの拡大を行い、三世教祖たちは首都で初代教祖の無実と不況の自由を訴えたため、李朝政府は弾圧に乗り出し、明治27年(1894年)に東学党の乱と呼ばれる武力闘争になっています。そして日清戦争勃発しました。

 日清戦争によって清国の敗北を見た東学の指導者たちは日本へ行って朝鮮開化党の志士たちと会合を重ね、清国やロシアと組むのではなく、日本と組まなければ朝鮮開化の道はないと理解し、「進歩会」と名を変え、大同団結して「一進会」を結成し100万余を号するようになりました。(当時の朝鮮の人口は900万余)

 日露戦争のとき、一進会の指導者李容九(イ・ヨング)は日本が勝利しなければならないとの確信から日本支援に踏み切り、全力をあげて鉄道建設を支援し、京城から以北の鉄道建設に協力した一進会は15万人といわれ、日本の物資を搬送した会員は10万人以上と言われています。これは一進会の強制でも日本軍の強制でも何でもなく、自弁です。

 明治38年(1905年)、日韓保護条約の方針が発表されると一進会は
「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模デモを行い、伊藤博文が朝鮮統監として赴任してきた日には南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されます。韓国の知識人が国債の償還をうたい、草の根や木の皮まで食べて生きながらえていた国民から義援金を集めようとしたとき、一進会は激しく抗議しました。

 ハーグ密使事件で高宗が退位し、韓国軍は皇宮護衛を残して解散すると京城で市街戦が始まり、各地で反日暴動が起こります。反日暴徒は日本軍とだけ戦ったのではありません。一進会とも戦ったのです。戦いの中で多くの一進会員が犠牲となりました。

 一進会は売国奴ではありません。韓国は世界から信頼を失っていただけでなく、経済的にも破綻し自立再生不能になっていたのです。一進会は朝鮮民族が滅亡から逃れるには国家を亡くしてでも日韓併合しかないことを知っていたのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)
 草思社「親日派のための弁明」金 完燮(著)荒木 和博・荒木 信子(訳)
参考サイト
 WikiPedia「李容九」「甲午農民戦争」「東学」
添付画像
 李容九(PD)

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