八田ダム
偉大な日本人がいた。
18世紀末、台湾では土地開発は飽和し、人口過剰による食糧不足となり、19世紀に入ると飢饉が深刻化し、コメを輸入に頼るようになります。流入する漢人との土地をめぐる対立も激しくなります。しかし、日本統治時代に入りコメ生産量は4倍に急増し、砂糖とあわせて農産物輸出が可能となります。
台湾の農業を発展させたのは水利灌漑事業で八田与一(はった よいち)という日本人技師の活躍が大きく寄与しています。嘉南大しゅう(かなんたいしゅう しゅうは土ヘンに川)と呼ばれる水利設備が有名で烏山頭ダムは別名「八田ダム」と呼ばれています。
八田与一は明治43年(1910年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職します。大正3年(1914年)、若干28歳で技師となり、30年にわたり桃園大しゅう、嘉南大しゅうを設計・建設し、全台湾の土地改良計画に加わり、技術協会を組織し、「台湾水利境界」の設立に参加します。
台湾は冬は乾季で夏は雨季、嘉南平野は夏になると平野が氾濫してしまいます。農民がいくら耕作しても貧農から脱出することはできませんでした。これを解決するにはダムを造って灌漑を行う必要がありましたが、規模が大きすぎるので実現性は疑問視されました。しかし、可能性に挑戦すべきとして建設が決定します。
八田与一は特殊工法によって建設すべしと提案しますが不安視され、アメリカ土木学会の権威であるジャスチンは日本の技術では独自の建設は困難であり、八田は若すぎると案じています。しかし、竣工から10年の昭和5年(1930年)に烏山頭ダムは完成します。この灌漑施設は内地でも前例がなく、アメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界を驚かせています。地元の人は喜び八田与一の銅像を製作し、ダムのほとりに建立しました。
八田与一は昭和17年(1942年)5月5日にフィリピンの綿作灌漑の視察にいく途中、乗船した船が米国の潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈され、亡くなりました。享年56歳。その後戦争が終わり、日本人が本国へ引き揚げはじめていた頃の昭和20年(1945年)9月1日、八田夫人は烏山頭ダムに身を投げて自殺してしまいます。嘉南平野の人々は翌年の12月15日に八田与一と夫人の墓を建立しました。
八田与一の銅像は戦争末期に金属の供出が求められた際に地元の人が忍びなく思い隠していましたが、戦後も国民党が日本時代の銅像や痕跡を抹殺するのに躍起になっていたため世に出ることができず、昭和56年(1981年)にようやく姿を現しました。
後藤新平が「台湾近代化の父」、八田与一は「嘉南大しゅうの父」と呼ばれ、毎年八田与一の命日である5月8日には嘉南農田水利会の人々によって墓前で慰霊祭が行われています。
参考文献
扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」蔡 焜燦(著)
参考サイト
WikiPedia「八田與一」
添付画像
八田與一の銅像。八田與一と妻外代樹の墓。台湾台南市烏山頭ダム AUTH:ellery
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日本と台湾 ~ ともに歩んだ50年(1895~1945)
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