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2011年11月

第一次世界大戦からのアメリカの乱暴狼藉

アメリカの乱暴狼藉に日本国民は怒っていた。

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 大川周明(おおかわ しゅうめい)という人は東京裁判のときに東條英機の頭をはたいたことで知っている人が多いと思います。大川周明は大東亜戦争日米開戦直後の昭和16年(1941年)に「米英東亜侵略史」というラジオ演説を行っています。そしてそれは本になり、ベストセラーとなりました。佐藤優著「日米開戦の真実」に内容が掲載されており、ペリー来航から大東亜戦争日米開戦まで述べており、なかなかの名文です。

 第一次世界大戦のとき、日本がドイツに宣戦布告すると米国は
「日本はシナにおいて領土拡張を求めないと約束せよ」「コウ州湾はシナに返すことを約束せよ」「今後、シナ国内に重大な動乱が発した結果として日本軍がコウ州湾の外へ出て攻撃を拡大する場合には必ずアメリカと相談し、アメリカと共同して行動するように」とムチャクチャな要求をしてきたことがあり、大川周明は次のように述べています。

「誠に無礼極まる申し分でありますから、日頃アメリカに対して妥協的態度に出ることを習慣としている日本政府も、この乱暴なる申分には取り合わなかったのであります。
 そうしているうちに、絶対に中立を維持すると声明し、戦争は我々の自尊心許さぬところだ、We are too proud to fightなどと嘯いて(うそぶいて)おりながら、アメリカは参戦したのであります」


「当初戦争に加わらなかったのは、勝敗の数が逆賭(ぎゃくと)し難かったからでありましたが、戦局が段々と進んで連合国側の勝算がほぼ明らかになりますと、存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかのように大戦に参加したのであります」
 
 「日頃アメリカに対して妥協的態度」と述べていますが、当時の日本も現在と同じように弱腰外交で、アメリカには妥協的態度でした。第一次世界大戦末期の1917年にロシア革命が起こり、日本はシベリアに出兵しますが、このときもアメリカは東支鉄道とシベリア鉄道の管理権を握るという強硬な主張をしたり、日本軍がすぐにシベリアから撤退しないのをガンガン騒いでいます。こうしたアメリカの態度について大川周明は次のように締めくくっています。

「日露戦争以後におけるアメリカの東亜進出政策は、その無遠慮にして無鉄砲なること、近世外交史において断じて類例を見ざる所のものであります。それは藪医者が注射もせずに切開手術を行うような乱暴ぶりであります。而も数々の計画がその都度失敗に終わったにも拘らず、いささかも恥じることなく、些かも怯むことなく、矢継ぎ早に横車を押し来るに至っては、言語道断と申すほかありませぬ。我々はアメリカのかくの如き気性と流儀とをはっきりと呑み込んでおく必要があります」

 アメリカの乱暴狼藉、執拗な嫌がらせがずっと続けられてきていると怒っているのです。これは当時の国民を代表するような感覚だったのだと思います。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 小学館文庫「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優(著)
参考サイト
 Wikipedia「大川周明」

添付画像
 1918年、シベリア出兵。ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍。(PD)

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ロシアから支那、朝鮮の領土を守ったのは日本

ロシアの侵略を阻止した日本。

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 大川周明(おおかわ しゅうめい)という人をご存知でしょうか。東京裁判のときに東條英機の頭をはたいたことで有名な人でしょう。法廷で「It's a comedy!」と叫んだりしています。この人は政治家でも軍人でもなく民間人で思想家です。本屋へ行くとこの人について書かれた本を見かけます。見直されてきているようです。

 大川周明は昭和16年(1941年)12月に「米英東亜侵略史」をラジオ演説し、その内容が出版されベストセラーとなりました。内容はペリー来航から大東亜戦争日米開戦にいたるまでを述べており、なかなか見事なものです。その中で満州に触れアメリカがどういう態度を繰り返してきたかを述べています。

「1928年、父張作霖の後を継いで満州の支配者となれる張学良は、南京政府及び多年にわたるアメリカの好意を背景として、東北地帯(満州)に於ける政治的、経済的勢力の奪回を開始したので、満州に於ける日本の権益に対する支那側の攻撃は年とともに激化し、排日の空気は全満に漲らんとするに至りました。もと満州に於ける日本の権益はポーツマス条約に基づくものであります。もし当時日本が起ってロシアの野心を砕かなかったならば、満州・朝鮮は必ずロシアの領土となったであろうし、支那本部もやがて欧米列強のまな板の上で料理されてしまったことと存じます」

「日露戦争に於ける日本の勝利はロシアの東洋侵略の歩みを阻止したのみならず、白人世界征服の歩みに、最初の打撃を加えた点に於いて、深甚なる世界史的意義を有して居ります。此の時以来日本は、朝鮮・満州・支那を含む東亜全般の治安と保全とに対する重大なる責任を荷い、且つその重任を見事に果たして来たのであります。其の間に如何にアメリカが日本の意図を理解せず、日本の理想を認識せず、間断なく乱暴狼藉を働きかけてきたかは、三日にわたって述べてきた通りであります」

 満州は日露戦争によって日本が権益を得ていました。もし、ロシアの侵略に対して日本が戦わなかったら満州も朝鮮半島もロシアのものになっていたし、弱体化していた清に攻め込みどこまでロシアの領土が伸張したかわかりません。清朝最後の皇帝・溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士は
「もし日本が、1904年から1905年にかけての日露戦争で、ロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったら遼東半島のみならず、満州全土も、そしてその名前までも今日のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地のない事実である」と述べています。

 そして日本は大陸の安定に大きな責任を果たしてきたのですが、アメリカはワシントン会議ロンドン会議での嫌がらせや、日系移民の排斥、南米を閉鎖しておいてアジアに対して門戸開放を要求するなど、乱暴狼藉を働いてきたと大川周明は言っているわけです。

 今は日本が満州、支那を侵略した、と悪いように言う人が多いですが、歴史を少し長いスパンの流れで整理して見れば大川周明の言っている通りになりますし、大川の本がベストセラーになっているように当時、日本人は”大川の言うとおりだ”という認識だったはずです。日本が支那から満州を奪ったのか?満州は支那ではありません。満州は満州民族の聖地であり漢民族のものではなかったのです。国際連盟が派遣した調査団のリットン卿も日本の権益の正当性を述べていますし、日本の功績も認めています。しかし、アメリカは日本を認めず、大陸の権益を狙い、第二次世界大戦が始まるとナチス・ドイツを早期に叩き潰すために日本に更に嫌がらせ加え、戦争にもって行ったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 小学館文庫「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優(著)
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/ 中山理(訳)/ 渡部昇一(監修)
参考サイト
 Wikipedia「満州国」「満州事変」「塘沽協定」
添付画像
 日露戦争 旅順要塞への28サンチ砲の砲撃(PD)

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日本人は生存に値せず ~ ハル・ノート

日本人の生存は否定された。

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 日米戦争回避に向けて昭和16年(1941年)2月から続いた日米交渉は11月26日、突然提示されたのはハル・ノートによって終焉を迎えました。このノートを書いたのはハリー・D・ホワイトという財務長官補佐でソ連NKVD(後のKGB)の展開した「雪工作」の対象者です。昭和23年(1948年)7月末に下院の非米活動委員会で「共産党エリート」として告発を受けています。

 ハル・ノートにはそのまま読むと耳障りの良い文面がちらほらします。「多国籍間の不可侵条約」などそうでしょう。それまでの日米交渉にはなかった課題を新たに出して混乱を計っています。
 日本軍の支那、仏印からの撤退を迫っていますが、それをどこの範囲でいつおこうかを譲歩して交渉してきたのです。満州国についてはそれまでの交渉で米国は触れていなかったもの重慶政府以外支持するなと満州国の放棄ともとれる要求してきています。大陸の治外法権、租借の放棄の要求も含めて数百万の日本人の財産を否定するような要求です。「日本人は生存に値せず」と言っているようなものです。東郷外相は次のように語りました。

「目もくらむばかりの失望に撃たれた」「日本がかくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートのごとき最後通牒を送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した」

 後日、米国でも非難があり、セオボルト海軍少将は以下のように述べています。
「まさしくハル・ノートは日本を鉄棒で殴りつけた挑発だった」

 グルー駐日大使も
「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と述べています。

 東京裁判で日本無罪を主張したパール判事は以下のように述べています。
「真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器を取って立ち上がったであろう」

 日本はハル・ノートをのんで戦争を回避すべきだった、無謀な戦争に突入したという考え方の人もいると思いますが、ハル・ノートをのんで、海外の数百万の日本人が財産をすて本土に帰ったらどうなるでしょう。そして第二、第三のハルノートが突きつけられた可能性は高いのです。開戦しなくても大変なことになっていたでしょう。戦争犠牲者数を超える犠牲者が出る事態となった可能性は大いにあります。

 戦後、GHQの宣伝番組「真相箱」ではルーズベルト大統領が天皇陛下宛に親書を送ったのに東郷外相の不手際によって間に合わず、そのため戦争をとめることができなかったなどと宣伝しています。以前「トラ・トラ・トラ」とう映画でもそんなシーンがあったのを覚えています。大統領の親書の内容はそれまでの日米交渉の話をつづっているだけで何も目新しいものはなかったのです。昭和天皇は「親書は事務的なものだった」と述べています。

 ハル・ノートは26日に野村駐米大使に手交されましたが、日本側は22日には暗号を解読し、内容を知っていました。日本連合艦隊機動部隊は25日、密かにヒトカップ湾を出港し、真珠湾へ向かいました。



参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭朋和(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭朋和(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 小学館文庫「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」

添付画像
 コーデル・ハル(PD)

ハル・ノート全文
 http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20101127/1290830485

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新嘗祭

天皇陛下は祭司王。

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 本日は「勤労感謝の日」と言われていますが、いったい誰が誰に感謝するのでしょう。WikiPediaを見ると

「国民の祝日に関する法律(祝日法)では『勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう』ことを趣旨としている。1948年(昭和23年)公布・施行の祝日法で制定された」

「農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。また、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)の日が第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが『勤労感謝の日』である」

 日本古来の伝統がGHQによって歪められたようです。天皇を中心に日本人が結集し、再び白人の敵になることをおそれ、祭日の名称を変更し、天皇と国民に距離ができるように仕向けたのです。現在のマスコミもGHQ製であり、天皇の祭祀を報道しないでしょう。

 新嘗祭は天皇陛下がおでましになる30を超える祭祀の中でもっとも重要であるとされ、民間の稲の収穫祭を起源とし、宮中でも古くから行われています。天皇陛下はその年に取れた米などの新穀を祖先神をはじめとする神々に供え、感謝した後、自らも食されます。お供えものを人がいただくというのは神が召し上がったとみなされるものを人が頂くということで、その神霊を人の体内に取り入れることができるということです。神社などでお供え物、お神酒を参列者で頂くというのはこういうことです。

 新嘗祭の儀式は宮中の神嘉殿と呼ばれるところで、「夕の儀」(午後六時)と「暁の儀」(午後11時)と同じことが二階繰り返されます。天皇陛下は固い板の上に座布団もしかず、2時間づつ正座しなければなりません。ですから天皇陛下は11月になると長時間正座の練習をなされます。

 新嘗の祭り始まりぬ神嘉殿ひちりきの音静かに流る

 これは今上天皇が皇太子時代に詠まれた歌です。新嘗祭のとき皇太子殿下は神嘉殿の隔室にご着席になります。そして儀式がはじまると楽師が奉する神楽歌が流れていきます。「ひちりき」というのは神楽などで使う管楽器の1つです。

 歌う声静まりて聞こゆこの時に告文読ますおほどかなる御声


 これも今上天皇が皇太子時代に詠まれた歌です。天皇陛下は儀式の終わりに御告文を奉せられます。それには今年一年の穀物の奉謝と国家、国民の幸福を御自らお告げになって祈られるのです。

 大半の日本国民はこの新嘗祭を知らないでしょう。2600年の伝統をもつ天皇陛下の祈りを国民が知らないなんてよいのでしょうか。「勤労感謝の日」のままでよいのでしょうか。

 このほかの祭日について触れますと2月11日は「紀元節祭」で初代天皇が即位されたと伝えられている日です。これはGHQが廃止しましたが、昭和27年に講和条約が発効されると建国記念日としてなんとか復活しました。11月3日は明治節祭も文化の日となりました。この両日の祭祀は中止されたものの昭和天皇は「臨時御拝」という形でご親拝を続けられ、今上天皇に引き継がれています。「春分の日」「秋分の日」はそれぞれ「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」であり一般の先祖供養にあたる祭儀です。
 
 こうした祝祭日までもがGHQによる日本人のアイデンティティ破壊に使われて現在に至っており、いまだにマスコミは同調しています。われわれ日本人はそこから脱して、天皇陛下は国民の安寧のために祈られる祭司王であることを知りましょう。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 展転社「宮中祭祀」中澤伸弘(著)

参考サイト
 WikiPedia「勤労感謝の日」

添付画像
 今上天皇(動画より)

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世界最強の天皇陛下
http://www.youtube.com/watch?v=lsOFxj9To-o

和平へ最後の努力 ~ 東條内閣誕生

東條内閣は最後まで和平へ努力したというのが歴史の真実。

S18_october_1941


 昭和16年(1941年)10月18日に東條英機は第四十代内閣総理大臣に就任しました。

 東條英機はこの前の近衛内閣のときには陸軍大臣でした。日米関係は絶望的なときであり、日米交渉にかける近衛首相は支那からの撤兵の譲歩が必要だと東條英機を説得しますが、東條英機は受け付けません。なぜなら9月6日の御前会議で交渉期限は10月中旬までで、打開できない場合は10月下旬には戦争準備を完成するという決定がなされていたからです。御前会議で決まったことを勝手に変えてはならないというのが東條英機の主張です。また支那からの撤兵は無理です。撤兵すると大陸が不安定になり、親日的南京政府は粛清されるかもしれません。支那が国共抗争の地に逆戻りします。満州にも影響が出るかもしれません。そしてとうとう近衛首相は総辞職という手段をとってしまったのです。政権を放り出したのです。

 東條英機が首相に選ばれたのは忠臣であるがゆえに責任ある立場となれば和平への努力も怠らないという点と言われていますが、もとより東條英機が好戦的であったわけではなく、9月6日の御前会議の決定を今更変えれないという主張をしただけです。正論です。また日米開戦となれば海軍の領域になります。東条英機は海軍が戦争をする気があるかどうかということが不確実と見ており、御前会議の決定通り実行できないとすれば新たな政権をたちあげ、御前会議の決定をやり直し、日米交渉も新たな努力をすべきと考え、近衛首相にもその旨伝えています。
 このほか、東條英機が首相に選ばれたのは、皇族の東久邇宮(ひがしくにのみや)殿下も首相候補として挙がっており、もはや日米開戦は避けられないので皇族方を首相にすることができなかったとも言われています。また陸軍を抑えられるのは東條英機以外はいないという点もあります。木戸内大臣の東條総理決定の上奏に対し昭和天皇は「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と述べられました。

 こうして9月6日の御前会議で決定した「開戦やむなし」を白紙に戻し、東條英機は日米交渉に臨むことになります。戦後言われている「東條英機が開戦に向けて突っ走った」なんてことはありません。近衛文麿が政権を投げ出し、海軍も開戦は首相に一任するというなど無意見、無責任なことを言って逃げてしまい、そして御前会議の決定を白紙に戻すという条件で東條英機が首相を引き受けたのです。

 東條内閣は11月5日に日米交渉のリミットを12月1日と定め、甲案、乙案、をワシントンの野村大使宛に送りました。野村大使を補佐するために来栖三郎をワシントンへ派遣します。しかし、日本の譲歩案は無線傍受され暗号解読され、しかも歪曲翻訳というおまけ付でした。その一部をあげてみます。

原文 
「本案は修正せる最終的譲歩案にして左記の通り緩和せるものなり」
傍受 
「本案は修正せる最後通牒なり。左記の通りわが方の要求を加減した」

原文 
「甲案にて妥結不可能なる際は、最後の局面打開策として乙案を提示する意向なるにより・・・」
傍受 
「もし交渉妥結不可能なること明白となりたる際は、わが方は絶対的な最後の提案として乙案を提出せんとする」

 ほかにも読んでみると非常に悪印象、かつ高圧的印象を持つような訳され方になっています。ハル国務長官は栗栖三郎とは反りがあわなかったことを
「彼の顔つきにも態度にも信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。私は始めからこの男は嘘吐きだと感じた。彼の役目は日本の攻撃準備ができるまで、会談でわれわれを引き摺っておくことだった」と述べています。譲歩案の悪意に満ちたような訳を予め読んでいたため、このような印象を持った可能性が大いにあります。グルー駐日大使は日本側の誠意を立証するよう米国務省に進言しますが、ハル長官は頭から”誠意なし”と決め付けていました。そして米国から日本へ「ハル・ノート」が突きつけられることになります。



参考文献
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「東條英機」

添付画像
 東条内閣 昭和16年10月18日(PD)

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よもの海 ~ 日米開戦避けられず

アメリカは何が何でも戦争をやるつもりだった。

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 昭和16年(1941年)7月31日、永野修身軍令部総長(海軍)は昭和天皇に主戦論を言上します。石油の備蓄は約2年であり、ジリ貧になるくらいなら機先を制して抗戦する論が有力になってきたのです。これに先立つ6月17日、オランダから石油を輸入しようとしていましたが、交渉が決裂しています。そして8月1日、アメリカは日本に対して石油の全面禁輸措置をとりました。上智大学名誉教授、渡部昇一氏によると氏は小学校5年生でしたが、子供心に「目の前が真暗になった」と感じ、「いよいよ、これで戦争だな」と思ったそうです。子供でさえそう思ったのですから、当時の日本中の雰囲気がどんなものであったか想像がつきます。

 近衛首相は状況打開のため、ホノルルでの日米首脳会談に打って出ます。及川海相、東條陸相も異存なし、となります。ちょうどこの頃ルーズベルトは英チャーチル首相と会談するため洋上にいました。(大西洋憲章)帰国したルーズベルトは乗り気だったよう(に見せかけた)ですが、ハル国務長官は予備交渉を主張し、ルーズベルトもトーンダウンします。
 こうした状況下、陸海軍首脳部は協議を重ね、「帝国国策遂行要領」をまとめ、閣議決定します。

1.帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す

2.帝国は右に
並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し

3.前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む

 近衛首相は事前に昭和天皇へ内奏しますが、1が戦争準備、2が外交となっていることに対し、懸念を示され、参謀総長、軍令部総長を呼びいくつかの質問をします。

 9月6日御前会議。原枢密院議長
「この案を見るに、外交よりむしろ戦争に重点がおかるる感があり。政府統帥部の趣旨を明瞭に承りたし」。これに対して統帥部は答えず、政府を代表して海軍大臣が答弁します。ここで昭和天皇は突然発言されます。

「只今の原枢相の質問はまことにもっともと思う。これに対して統帥部が何ら答えないのは甚だ遺憾である」といわれ、ふところから紙片を取り出し、明治天皇の御製をゆっくり詠みます。

 「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」

 一般的に軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味と解釈されています。天皇陛下が御前会議で発言すること自体は極めて異例なことでした。明治憲法下では天皇は内閣の決定事項を承認することしかできません。満座が粛然となり、しばらくは誰も発することができませんでした。

 近衛首相はその後、日米首脳会談に命をかける思いで駐日大使のグルーと密会し、グルーは本国に会談を受諾するように電報をうちます。しかし、10月2日ハル国務長官からの回答は日米両国の意見不一致のままでは会談の効果なし、として突き放したのです。近衛内閣は立ち往生し、東條内閣が誕生することになります。

 このとき、アメリカ参謀本部は大量の爆撃機を支那に送り、日本軍がまだいないところを基地として、そこから九州の八幡製鉄所を爆撃するという案があり、ルーズベルト大統領は既にOKのサインをしていたのです。アメリカは何が何でも開戦に持っていくつもりでした。



参考文献
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「大西洋憲章」「帝国国策遂行要領」

添付画像
 「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)

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アメリカの挑戦、日本を締め上げ挑発せよ!

何が何でも日本を戦争に引きずり込め!

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 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争日米戦が始まりました。アメリカは日本が開戦に踏み切るよう、先に手を出させるように挑発していました。それらの行為にハル・ノートや禁輸措置がよく挙げられるでしょう。その前年、昭和15年(1940年)10月にはマッカラム・メモランダムという日本を戦争に引きずり込むための計画が作成されており、その中にはオランダが日本資源を提供しないよう働きかけるというのがあります。昭和15年秋から昭和16年はじめにかけてこれが実行されます。
 
 マッカラム・メモランダム作成以前の昭和15年7月からアメリカの対日貿易に制限が加えられており、日本は資源確保のため商工大臣小林一三がオランダと交渉しますが、既に裏で米と蘭はつながっていました。日本代表団はオランダ代表にワシントンの傀儡か!といって攻めます。そして昭和16年6月に交渉は遂に打ち切りになりました。

 マッカラム・メモランダムの実にえげつない挑発行為にポップアップ巡洋艦があります。昭和16年7月、豊後水道に米巡洋艦三隻を出撃させました。わかるでしょうか、今で言えば中共の軍艦が瀬戸内海入り口に入り込んで来たのと同じです。

 日本から米グルー大使宛の抗議
「7月31日の夜、宿毛湾に錨泊中の日本艦艇は、東方から豊後水道に接近するプロペラ音を捕らえた。日本海軍の当直駆逐艦が探索して、船体を黒く塗装した二隻の巡洋艦を発見した。二隻の巡洋艦は日本海軍の当直駆逐艦が向かっていくと、煙幕に隠れて南方よりの方向に見えなくなった」「日本海軍将校は、それらの船がアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」

 ルーズベルト大統領はこのポップアップ巡洋艦について以下のように語ったといわれています。
「自分はそれらの巡洋艦があそこやここで飛び出し行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を一隻か二隻失っても気にしないが、五隻か六隻も失う羽目には陥りたくない」

 昭和16年7月と言えば米国はパナマ運河を封鎖し、対日全面禁輸、日本の資産凍結を行っていますから、この軍事的挑発は
「さあ、もう日本は戦争するしかないよ、受けて立つよ。どうする?」と言っているようなものでしょう。日米関係は絶望的状況であり、すでにこの時点で開戦か、隷属かの二択しかなくなり、最後の切り札として日米首脳会談が計画されました。しかし、ルーズベルト大統領は乗り気(のように見せかけた)でしたが、アメリカ側は事前に基本合意なくして首脳会談に応ずることはできないと強硬な態度に出てきたため、暗礁に乗り上げてしまいました。そして日本は民族の生存と誇りをかけて開戦の道を選ぶことになります。



参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)/妹尾作太男(監訳)/荒井稔・丸田知美(共訳)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)

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 米空軍CATFに編入後の飛虎隊所属機(フライングタイガース P-40K)と、それを護衛する中華民国の兵士(PD)
 日米開戦前は中国空軍起動部隊(CATF)所属となっていた。

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日本を戦争に引きずり込め!マッカラム・メモランダム

既に戦争は仕組まれていた。

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 アメリカ海軍情報部極東課長のアーサー・H・マッカラム海軍少佐は明治21年(1898年)長崎に生まれました。少年時代は日本の諸都市で過ごし、日本文化を理解し、18歳のときにアメリカ海軍兵学校に入学し、卒業後、駐日アメリカ大使館付海軍武官を命ぜられて来日します。アメリカ大使館で当時皇太子であった昭和天皇にジャズのリズムをとるため、膝のたたき方を教えたといいます。

 大正12年(1923年)の関東大震災時、マッカラムは米海軍からの救援活動の調整にあたりますが、彼は日本人は尊大で自負心が強く、「異人」の救援活動を快く思わなかったと受け止めます。そしてそれから17年後、日本を戦争に引きずり込むためのマッカラム・メモランダムを作成します。昭和15年(1940年)10月のことです。この頃欧州では第二次世界大戦の最中でした。

A.太平洋の海軍基地他、特にシンガポールの使用について英国との協議締結。
B.蘭領東インド(インドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
C.支那の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供。
D.遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個船体を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。
E.潜水船隊二隊の東洋派遣。
F.現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
G.日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するように主張すること。
H.英帝国が日本に対して押し付ける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。

 当時、日本は貿易の90%がアメリカ依存で輸入品の2位に石油、4位にくず鉄でした。これらで日本を締め上げオランダ領インドネシアに石油を求めていったらオランダに拒否させようと画策したのです。そして蒋介石政府を支援し、自らも軍事的な挑発行為を行うというものです。マッカラム・メモランダムはルーズベルト大統領が信頼していたウォルター・S・アンダーソン大佐(後、ハワイ就任)とノックス海軍大佐に承認され、ルーズベルト大統領が目を通しています。リチャードソン合衆国艦隊司令長官はF項に反対し、後に更迭されています。

 よくアメリカが日本に対して全面禁輸を行ったのは日本が南部仏印(ベトナム南部)に軍を進駐させたからその報復と言われていましたが、マッカラム・メモランダムに従っていただけです。日本軍の南部仏印進駐以前に石油全面禁輸は決まっていました。

 この戦争挑発マッカラム・メモランダムの背景には昭和15年(1940年)9月27日の日独伊三国軍事同盟があります。アメリカ国民は欧州戦線への参戦を嫌っていましたから、日本を挑発し、開戦にもって行き、欧州戦線に参加する意図があったのは明らかでしょう。

 昭和16年(1941年)7月9日、ルーズベルトは大統領はチャーチルとの会談で
「3ヶ月は日本を赤ん坊のようにあやしてやるよ」と言い、裏口からの参戦を約束しました。



参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)/妹尾作太男(監訳)/荒井稔・丸田知美(共訳)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史 戦後篇」若狭和朋(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
 
参考サイト
 Wikipedia「日独伊三国軍事同盟」

添付画像
 米ルーズベルト大統領 1941年(PD)

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日露戦争後のアメリカの日本打倒計画

アメリカは日露戦争後から日本打倒を目指していた。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争中にアメリカは陸海軍合同で米(アメリカ)英(イギリス)日(日本)連合軍と露(ロシア)仏(フランス)独(ドイツ)の連合軍が極東で戦う想定で図上演習を反復し、結果、米海軍は極東では極めて非力の結論に達します。しかもロシア海軍を欠いた海戦では日本海軍は単独でも独仏海軍に勝利できるという結論がでて衝撃をうけます。これは日英同盟を破棄させるための動機のひとつになったといわれています。

 日露戦争後、アメリカはオレンジ計画と呼ばれる対日戦争計画の策定を開始しました。アメリカは日本を凌駕する大海軍建造に着手。明治41年(1908年)から明治42年(1909年)にかけて建造した戦艦16隻からなるホワイトフリートと呼ばれる大艦隊を日本に寄港させ威嚇します。パナマ運河は大正3年(1914年)に完成。第一次世界大戦でドイツが敗北するとさらに日本を意識し始めます。

 第一次世界大戦後はオーストラリア・ニュージーランドに接近し、軍港を借ります。これは対日戦が始まったとき、日本がハワイ・グアム・マニラのルートを封鎖してしまう可能性が大きく、南からのルートを確保したものでした。ハワイ-サモア-オークランド-ポート・ダーウィン-シンガポールのルートです。こうした軍事的圧力を加えつつ日本に対して昭和12年(1937年)7月からは経済的な圧力を加え始めます。ABCD包囲網と呼ばれるものです。このABCD包囲陣について東京裁判で日本無罪を主張したのパール博士は以下のように述べています。

「禁輸が有効になったときの品目表ならびにその日付を一瞥しただけでも、この措置が、民間人の生活にもどれほどまでの影響を及ぼしたかが明らかになるだろう。疑いも無く、これらの品目の多くは、日本の民間人の生活にとって、絶対必要なものであった」

 昭和15年(1940年)6月ハル国務長官は以下の通り述べています。

「合衆国は過去1年間、日本に対して経済的圧迫を加えてきた。その効果は表れてきた。合衆国艦隊を太平洋に配備し、そして日米問題を安定させるために、実際の軍事的敵対行為の非常な危険を冒さない範囲で、できるだけ、あらゆる措置を講じている。この方策は、将来における合衆国の意図を最もよくあらわしている」

 昭和13年(1938年)アーネスト・J・キング中将は旗艦の空母サラトガから航空機を発進させ、真珠湾が北太平洋から空襲されることを想定した演習を実施しています。日本軍が真珠湾を奇襲することを想定した演習です。軍事的なものだけでなく、米国は大正9年(1920年)より諜報無線局を設置していき、米、英、加(カナダ)、蘭(オランダ)を加えた情報無線局によって日本を包囲し、日本の無線を傍受します。対日戦万全の態勢を作り上げていきます。

 一方の日本は昭和5年(1930年)のロンドン軍縮会議に見られるように軟弱外交によって米の意のままに追い詰めらてしまうのです。



参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭朋和(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)/妹尾作太男(監訳)/荒井稔・丸田知美(共訳)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)

添付画像
 『独ソ国境の松岡外相』昭和16年4月19日付(経葉社提供)
  国立公文書館 日米交渉~開戦への経緯より http://www.jacar.go.jp/nichibei/negotiation/index5.html

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昭和天皇は三度退位を覚悟された

戦後秘話、昭和天皇は退位を考えておられた。

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 昭和天皇は立憲君主制の下「神聖不可侵」であったため、敗戦については政治的責任はありませんでしたが、国家元首としての道義的責任はあるというのが大方の見方ではないでしょうか。これは終戦当時も近衛文麿、皇族の東久邇宮、首相の鈴木貫太郎が言及してます。私の祖父の記録にも「退位すべき」と書いてあり、当時、そのような論調が結構あったことをうかがわせます。実際、昭和天皇は三度退位の意を表されています。

 一回目は昭和20年(1945年)8月29日、昭和天皇は木戸幸一内大臣に
「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍びがたきところとなるが、自分一人引き受けて、退位でもして収める訳には行かないだろうか」と述べられています。当時、言われていたのは天皇は皇太子に譲位して高松宮を摂政とするものでした。しかし、木戸内大臣は退位を言い出せば共和制論議がおこったり、戦争犯罪者と認めたとして訴追される可能性があるとして反対し、鈴木貫太郎も「今、退位すれば日本は混乱する。在位のまま戦争責任(道義的責任)を負っていかねばならぬ」と考え、結局思いとどまることになります。

 二回目は東京裁判の判決のときで、このときはGHQ総司令のマッカーサーの反対にあいます。これは朝鮮半島情勢や東ヨーロッパの情勢で共産勢力が台頭しており、マッカーサーは日本をアジアの反共の砦にしたかったため、この時期の退位は共産勢力を助長することになると考えたためと言われています。
 昭和天皇はそれでも国民に対して謝罪の意を伝えようとし、側近等で文案を作りますが、うまくいかず、側近たち出さないことに決めます。しかし昭和天皇から苦情を言われ、宮廷記者に「天皇陛下現在のご心境」の記事を書いてもらうことになります。

「国民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことは責任を果たす一つの方法と思うがむしろ留位して国民と慰めあい、励ましあって日本再建のためにつくす」
朝日新聞

 三回目はサンフランシスコ講和条約のときで、「皇室だけなんら責任をとらないのは割り切れぬ空気を残すことになる」という論調のもとによるものです。しかしこのときは吉田茂首相の反対にあってかないませんでした。国会で中曽根康弘が天皇退位について吉田茂首相に質問したところ、吉田首相は中曽根を"非国民”呼ばわりしたそうです。
 昭和34年(1959年)の皇太子殿下御成婚の際も退位の噂が流れており、岸首相は公然と否定しています。皇太子殿下の新宮殿が建設中であったことからただの噂と見られていますが、もしかしたらとも思えます。

 昭和天皇は道義的な敗戦責任という十字架を背負われたまま、国民のために祈り続け、そして昭和64年崩御されました。

 今上天皇はその十字架を引き継がれていると言われています。このままでよいのでしょうか。我々国民は十字架をおろして差し上げなければならないのではないでしょうか。そのために我々国民が何をすればよいか考えていかなければならないと思うのです。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 文春新書「父が子に教える昭和史」『天皇退位~三度の決断の機会は?』高橋紘
 週刊新潮09.4.16「英国『機密ファイル』に刻まれた天皇陛下『御成婚秘話』」徳本栄一郎
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)

添付画像
 正装姿の昭和天皇(燕尾服・大勲位菊花大綬章・同副章)と香淳皇后(ローブデコルテ・勳一等宝冠章・同副章)昭和31年(PD)

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支那敗残兵の蛮行 ~ 第二次上海事変

支那軍の蛮行が日本軍の仕業としてすりかえて語られているのは要注意。

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 昭和12年(1937年)、8月13日支那便衣隊が日本海軍陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃射撃を浴びせていきました。第二次上海事変の勃発です。支那は対日全面戦争を仕掛けてきたのです。

 支那は十分な装備と弾薬を準備しており、トーチカと呼ばれるコンクリートで固めた陣地を構築し日本軍を誘引しました。そのため日本軍は大苦戦となります。11月5日、上海南方60キロメートルの杭州湾に面した金山衛に日本の第十軍が上陸。上海の街に「日本百万上陸杭州北岸」と縫い上げたアドバルーンがあげられました。これには支那軍が大きく動揺。9日には一気に崩れ、退却を開始します。退却といっても本来は途中に防衛線がいくつかあり、ドイツ軍事顧問団の苦心策「ヒンデンブルク・ライン」で態勢を立て直し、日本軍を迎え撃つことができます。しかし、支那軍は誰もそうすることはありませんでした。3ヶ月にわたる上海の戦いは終結しました。

 支那の兵たちは退却時にはそこらの民家に押し入り、めぼしいものを略奪した上で火を放ちました。日本軍に雨露しのぐ屋根と糧秣を残さないための作戦です。

 支那軍大元帥・蒋介石の日記には以下のように記されています。


「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(11月30日月間総括)

 この支那軍の行為は日本軍にすりかえられて述べられていることが多いので注意が必要です。三光作戦といい、日本軍が「焼き尽くす、殺しつくす、奪いつくす」という三光の作戦を展開したというものです。日本語の「光」に焼く、殺す、奪うという意味はなく、支那語にその付帯意味があります。辞書を引けばすぐわかります。日本軍が作戦名を支那語でつけることはありません。

 犬飼総一郎(第十六師団通信班長・陸軍中尉)

「自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫も29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も支那兵による略奪の跡歴然たるものをこの目で見た。いかにそれが物凄いか、すざまじいものか、全く想像外であった」

 一等兵戦死 松村益ニ(著)昭和13年10月

「『我々は常に第一線にあって進撃した。そして残虐の場面をみた。支那兵はわれとわが同胞をたたきのめすのです』
 僕たちは敵を撃退せしめた。彼等の部隊の宿舎になっていた民家を掃蕩したとき、家の中に支那の婦人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼らはどうして自分のきょうだいを虐殺しなければならないのか。僕たちには解くことのできない謎である。
 家の中は掠奪の嵐に足の踏み場も無い。
 支那の農民が殺されている。素裸に引き剥かれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ。
 小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけているのに泣いて抵抗した故なのであろう。
『おれたちの子供がこんな目にあわされたら・・・』」


 シナ軍の蛮行は南京へ続きました。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 小学館「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)

添付写真
 敗走後に首都南京を焦土とする支那の狂気を伝える当時の新聞 日新報道「南京の実相」より

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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00

陸軍上陸部隊の大苦戦 ~ 第二次上海事変

支那が仕掛けた大戦争。日本の侵略ではない。

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 昭和12年(1937年)、8月13日、午前9時半ごろ、支那便衣隊が日本海軍陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃射撃を浴びせていきました。第二次上海事変の勃発です。支那事変の始まりです。
 
 コミンテルンのスパイだった国民党の張治中は対日戦に備えて、上海の陣地構築を行い、軍事輸送のための車両と船舶を支配下におき、食料を作戦予定地に蓄えておくよう政府に要請しました。衝突が起これば、4,5師を上海正面に投入し、日本の陸戦隊を一気に殲滅し、揚子江岸に日本軍の上陸に備えて2個師を配備する計画を練ります。
 揚子江を160キロメートル遡った江陰に要塞を気づき、小山のふもとから幾重もの鉄条網、幾段ものトーチカ群を築き、頂上には32センチ巨砲を4門すえつけます。ドイツ軍事顧問団によって設計された最新式のものです。さらに遡った南京付近の要塞も改造し、ドイツから輸入した電動照準装置のついた高射砲が設けられます。こうして日本軍を上海におびき寄せ大戦争を行う準備ができあがり昭和12年(1937年)8月13日に本格実行されました。

 上海では7万の支那軍に4千の海軍陸戦隊が包囲されます。日本は名古屋第三師団と四国善通寺第十一師団を派遣しました。上陸した陸軍部隊は要塞化された部落を目の前にし足踏みします。それどころか夜になると支那軍が夜襲をかけてくるのです。
 支那軍はチェコ製の軽機関銃を持ち、日本軍が近づくと弾のカーテンを作るぐらい惜しみなく弾を使いまくり、各自十数発の手榴弾を持ち、日本軍へ突撃して手榴弾投げまくります。日本軍は攻めあぐね死傷者が増大していきます。支那には一般民のゲリラもおり、これも日本の作成遂行を困難にしました。また支那軍には督戦隊というのがおり、前線の兵士が命令無く後退すると射殺するのです。このため、死に物狂いになって攻撃してきました。

 さらに敵は支那兵だけでなくアメーバ赤痢というのもいました。生水を飲むことは禁止されていましたが、乾きに耐え切れず飲んだものはアメーバ赤痢にかかり、簡単には治りません。コレラも発生し、嘔吐と下痢でついていけなくなる兵が続出しました。トーチカと病気に阻まれて上陸軍は身動きが取れない状態となります。

 9月に入り、日本軍は三個師団の追加を決定。その後、更に三個師団、そして一個師団を追加増援して合計九個師団の大軍となります。何が起こっているかよく飲み込めていない軍首脳部は不拡大方針にこだわり、兵を逐次投入してしまうという愚行を犯してしまいます。そして戦死者9,115、負傷者31,257という日露戦争の奉天戦に匹敵する損害を出すことになってしまいました。この後の南京戦をあわせると戦死者21,300、戦傷者5万余にも上ります。

 名古屋駅、岐阜駅、静岡駅、豊橋駅に白木の箱を首からつるした兵士が大勢降り立つようになります。何百ものおびただしい数です。この光景に国民もようやく上海戦の苦戦を知ることになりました。
 


参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」

添付写真
 上海事件で出動した日本海軍陸戦隊(PD)

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日本人居留民を守り抜いた海軍陸戦隊 ~ 第二次上海事変

第二次上海事変勃発。支那事変は支那が仕掛けたもの。

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 昭和12年(1937年)8月9日、支那国民党の張治中(共産党工作員)によって、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が殺害されました。7月7日から勃発した盧溝橋事件からの日支衝突の和平交渉の最中の出来事でした。明らかな支那の挑発でした。支那軍は3万の軍で上海の日本租界を包囲。対する日本は陸戦隊わずか4千。 日本領事館は在留日本人を小学校や歌舞伎座、旅館、東西本願寺に避難させます。

 8月13日午前10時30分、商務印書館付近の支那保安隊が日本の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせてきました。日本軍はできるだけ交戦を避けようとします。午後5時54分、八字橋から支那軍が急襲してきます。これは爆破を伴う本格的なもので、陸戦隊は遂に反撃を開始しました。

 この第二次上海事変はコミンテルンの策謀であり、国民党に潜伏した張治中が指揮しています。日本人居留民を包囲し、日本軍をおびき寄せ、大戦争をおっぱじめようとするものです。蒋介石としては日本を叩いて屈服させ、条約を全部無効にしたいという意思が働いていました。日本はこうした意図を読み取れず、不拡大論、戦線拡大論が交錯することになります。

 上海ではドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った支那軍に対して寡兵の陸戦隊が大奮戦します。八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退しています。
 一般日本人居留民はどんどん引き揚げさせましたが、通州の大虐殺が再現されるかもしれないとの恐れから、残っているひとりひとりの日本人に警備がつけられ、汽船やブロードウエイマンションに避難させます。それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の吹き出しに従事し、残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作ります。

 16日には支那軍が大挙して陸戦隊本部へ押し寄せますが、日本軍は戦車と装甲車を使って防戦。その後も支那軍は攻撃を続け、当初の2個師から3個師を加え、7万の大部隊まで増強します。寡兵の日本陸戦隊は常に守備について休むことも睡眠をとることもできません。日がたつうちに損耗と疲労はたまってきます。
 ようやく18日と19日に横須賀と呉の特別陸戦隊が上海へ到着。これでもまだ合計6千3百名で、支那軍の1/10の戦力です。
 22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破されます。しかし、日本軍は必死に応戦し、夜明けとともに支那軍の攻勢もやみます。更にその夜からも支那軍が各戦線で攻撃を行い、23日にわたり激戦となりますが、陸戦隊はかろうじて防衛します。

 23日に待ちに望んだ日本陸軍部隊が上陸を開始します。陸戦隊は守り切ったのです。25日以降は支那軍は日本陸軍の部隊を攻撃目標にせざるを得ず、それまでのように陸戦隊に積極攻撃に出てくることはなくなりました。第二の通州の惨劇を免れることができたのです。

「緒戦の一週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」後日、蒋介石はこう悔やんだといいます。

ニューヨーク・タイムズ8月30日
「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」

ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙9月16日
「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」

 日本の侵略などどこにもありません。


参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄(共著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」

添付画像
 「大山中尉射殺事件」(昭和12年8月9日)<上海で支那保安隊に、大山勇夫中尉と斉藤一等水兵が惨殺された> 日新報道「南京の実相」より

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Battle of Shanghai 1937 1of 4 Background of Battle
http://www.youtube.com/watch?v=K4qfH8tf4cQ

Battle of Shanghai 1937 2of4 Beginning of Battle
http://www.youtube.com/watch?v=PObxULJSOVg

Battle of Shanghai 1937 3of4 Air Operation of IJNAF
http://www.youtube.com/watch?v=ucaZM0-5IN0

Battle of Shanghai 1937 4/4 Landing Operation of IJA
http://www.youtube.com/watch?v=dGmeFA55e98

抹殺された歴史「通州事件」

日本人が被害を受けた歴史は抹殺されている。

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 昭和12年(1937年)7月29日、北京郊外の通州で日本人約230名が虐殺されました。「冀東防共自治政府」保安隊(支那人部隊)約3,000人が110人の日本軍部隊・特務機関を襲撃し、続いて日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)虐殺した事件です。

 7月7日に盧溝橋事件が勃発し、冀察(きさつ)政務委員会の宋哲元は蒋介石の命令によって北京を死守するように言われていましたが、持ちこたえれず北京を脱出。そのとき、天津の第三十八師、通州の保安隊に攻撃命令を出していました。通州の保安隊は冀東政府の軍隊でしたが、裏で冀察政府の宋哲元とつながっており、盧溝橋事件が勃発すると宋哲元の第二十九軍に編入されていたのです。はやい話、保安隊は表面は親日を装いながら日本軍撃滅の機会を狙っていたということです。天津の日本軍は寡兵ながら防戦し、日本軍機が支那軍の本拠地を爆撃し防ぐことができましたが、通州は間に合わず、大惨劇となりました。

 日本人救出のため現場に急行した日本軍人の証言の一部
「場内は実に凄愴なもので至る所に無残な日本居留民の死体が横たわっておりまして殆ど全部の死体には首に縄がつけられておりました。頑是なき子供の死体や夫人の虐殺死体は見るに耐えませんでした」
「旭軒という飲食店をみました。そこでは四十から十七、八歳までの女、七、八名は皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されておりました。その中、四、五名は陰部を銃剣で突き刺されておりました。家の入り口には十二、三歳ぐらいの男子が通学姿で射殺されていました。家の中は家具、布団、衣類など何もなく略奪されていました。」


「市中のカフェーにおいて(中略)ひとつのボックスの中に真っ裸の女の死体がありました。これは縄で絞殺せられておりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されておりました。子供は手の指をそろえて切断されておりました」


 これは後の東京裁判で証言された一部です。東京裁判では他の証拠資料あわせて受理されることはありませんでした。あくまで日本は加害者でなければならず、連合国の都合の悪いものは却下です。

 私は通州事件を学校で教わったことはありません。現在でも年表など見ても載っているもののほうが少ないのではないかとおもいます。自由社の歴史教科書を見てみましたが、記載されていませんでした。山川の高校教科書も見てみましたが、記載されていませんでした。以前、新宿の平和祈念展示資料館の年表をチェックしましたが、載っていませんでした。

 通州事件は東京裁判でかき消され、日本の歴史から抹殺されました。当時、日本は条約に基づいて北京に軍をおいてました。盧溝橋事件は支那の挑発であり、背後にはコミンテルンがいます。支那は通州で日本人大虐殺をやりました。上海でも支那から戦争をしかけています。日本の侵略などありません。日本は被害者なのです。しかし、東京裁判で被害者であるはずの日本の姿は消去され、侵略者である、加害者であると捏造され、南京大虐殺などという大嘘がばら撒かれて今日に至っているのです。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『酸鼻極めた通州事件』田中秀雄
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「通州事件」

添付写真
 日本軍により安寧を取り戻す通州(PD)

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通州事件の真実 01 Sさんの体験談 1-5
http://www.youtube.com/watch?v=U7vJtEzXo_g

通州事件の真実02 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=8lFoaBcKAPY

通州事件の真実03 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=lVkRoG8NAn0

通州事件の真実04 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=xpv2a9s_mfU

通州事件の真実05 Sさんの体験談
http://www.youtube.com/watch?v=WcINl5PCAMA

支那が仕掛けた盧溝橋事件

戦争を仕掛けたのは支那だった。日本が侵略したというのはウソ。

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 明治33年(1900年)の義和団事件以来、北京から天津一帯に、日本や欧米の軍隊が条約に基づいて駐屯していました。支那は外国人居留民を保護できる能力がなかったからです。

 昭和12年(1937年)7月7日、日本の一個大隊が間近に迫った司令官の検閲に備え北京郊外で夜間演習をしていました。近くに永定河が流れ、そこに架かる盧溝橋から数百メートルのところに宛平という町があり、その北の龍王廟付近で演習していたところ、堤防あたりから、突然、数発の銃弾が打ち込まれました。日本軍が集合ラッパを吹くと、再び弾が飛んできました。(死傷者なし)
 日本側は東京の参謀本部に連絡し、支那へ軍使を派遣して直接謝罪要求をすることになりました。北京を含む二省は冀察(きさつ)政務委員会が行政権を持っており、二つの省を支配する第二十九軍は宋哲元が兼ねており、蒋介石の南京政府からは半分独立していました。
 第二十九軍の軍事顧問を務めていた桜井徳太郎少佐が支那側に向かい、秦徳純北京市長にあって説明すると、秦市長は軍使を歓迎し、支那側からも現地に使者を派遣すると述べます。
 そうしているうちに、またも龍王廟から銃声が聞こえてきて、報告を受けた牟田口廉也連隊長は「撃たれたら撃て」と命令。一木清直大隊長は中隊を展開させ、歩兵砲隊は龍王廟を目標に展開します。明け方5時30分、再び龍王廟とそばの堤防上から攻撃を受けたので砲撃を開始。支那側トーチカを吹き飛ばします。すると今度は宛平県城、盧溝橋上、川中島などから日本軍に銃砲撃が集中してきます。

 第二十九軍の副参謀長、
張克侠(ちょう こっきょう 共産党員は北京周辺に駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定しており、盧溝橋事件はその一部であり、その作戦計画案が日本軍によって後に没収されています。張克侠は第二十九軍10万の兵力をいくつかの集団軍に編成し、北京、天津、チャハルの三戦区に分け、この地区に分散配置している日本軍を撃滅した後、機を見て山海関に出撃し、関外の領土を奪おうとしていました。この計画を共産党の劉少奇書記が承認していました。戦後の東京裁判のとき、この劉少奇が西側の記者に盧溝橋事件について「仕掛け人は中国共産党であり、自分が現地指揮官である」と証言しています。ですから東京裁判では盧溝橋事件の審議はヤバくなり、支那側判事は審理を中断してしまいました。

 この頃、日本国内では近衛内閣が誕生したばかりでした。近衛首相はただちに不拡大方針を徹底することで現地へ通達。杉山陸相は増派案を進言しましたが退けられます。しかし、支那側の攻撃が続いたため、11日には杉山陸相から再び増派案を提言します。これには近衛首相も同意せざるを得ない状況を悟り、不拡大の努力を行う条件付で同意します。
 現地では解決に向かって動き始めます。宋哲元は撤退に向けて動きます。しかし、17日蒋介石がラジオで
「盧溝橋が占領されるなら、北京は第二の奉天になり、北京が第二の奉天になれば、南京が北京にならないと誰が保障できるであろうか、いよいよ最後の時がやってきた」と述べたのです。さらに蒋介石から宋哲元へ使者がきて「蒋介石は対日戦を決意している」と告げられ宋は「蒋介石の指示に従う」の述べます。これで支那軍の撤退は取りやめとなり、桜井少将が襲撃された事件を機に作戦本部の石原莞爾部長は内地の三個師団の動員を決断し、全面的な闘いになります。このとき宋哲元は冀東保安隊に日本軍攻撃を命令したためあの無残な「通州事件」につながることとなります。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「日本は侵略国家ではない」渡辺昇一・田母神俊雄(共著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)

添付画像
 北平周辺駐屯日本軍撃破第29軍特別演習計画要図 「大東亜戦争への道」より

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