陸軍上陸部隊の大苦戦 ~ 第二次上海事変
支那が仕掛けた大戦争。日本の侵略ではない。
昭和12年(1937年)、8月13日、午前9時半ごろ、支那便衣隊が日本海軍陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃射撃を浴びせていきました。第二次上海事変の勃発です。支那事変の始まりです。
コミンテルンのスパイだった国民党の張治中は対日戦に備えて、上海の陣地構築を行い、軍事輸送のための車両と船舶を支配下におき、食料を作戦予定地に蓄えておくよう政府に要請しました。衝突が起これば、4,5師を上海正面に投入し、日本の陸戦隊を一気に殲滅し、揚子江岸に日本軍の上陸に備えて2個師を配備する計画を練ります。
揚子江を160キロメートル遡った江陰に要塞を気づき、小山のふもとから幾重もの鉄条網、幾段ものトーチカ群を築き、頂上には32センチ巨砲を4門すえつけます。ドイツ軍事顧問団によって設計された最新式のものです。さらに遡った南京付近の要塞も改造し、ドイツから輸入した電動照準装置のついた高射砲が設けられます。こうして日本軍を上海におびき寄せ大戦争を行う準備ができあがり昭和12年(1937年)8月13日に本格実行されました。
上海では7万の支那軍に4千の海軍陸戦隊が包囲されます。日本は名古屋第三師団と四国善通寺第十一師団を派遣しました。上陸した陸軍部隊は要塞化された部落を目の前にし足踏みします。それどころか夜になると支那軍が夜襲をかけてくるのです。
支那軍はチェコ製の軽機関銃を持ち、日本軍が近づくと弾のカーテンを作るぐらい惜しみなく弾を使いまくり、各自十数発の手榴弾を持ち、日本軍へ突撃して手榴弾投げまくります。日本軍は攻めあぐね死傷者が増大していきます。支那には一般民のゲリラもおり、これも日本の作成遂行を困難にしました。また支那軍には督戦隊というのがおり、前線の兵士が命令無く後退すると射殺するのです。このため、死に物狂いになって攻撃してきました。
さらに敵は支那兵だけでなくアメーバ赤痢というのもいました。生水を飲むことは禁止されていましたが、乾きに耐え切れず飲んだものはアメーバ赤痢にかかり、簡単には治りません。コレラも発生し、嘔吐と下痢でついていけなくなる兵が続出しました。トーチカと病気に阻まれて上陸軍は身動きが取れない状態となります。
9月に入り、日本軍は三個師団の追加を決定。その後、更に三個師団、そして一個師団を追加増援して合計九個師団の大軍となります。何が起こっているかよく飲み込めていない軍首脳部は不拡大方針にこだわり、兵を逐次投入してしまうという愚行を犯してしまいます。そして戦死者9,115、負傷者31,257という日露戦争の奉天戦に匹敵する損害を出すことになってしまいました。この後の南京戦をあわせると戦死者21,300、戦傷者5万余にも上ります。
名古屋駅、岐阜駅、静岡駅、豊橋駅に白木の箱を首からつるした兵士が大勢降り立つようになります。何百ものおびただしい数です。この光景に国民もようやく上海戦の苦戦を知ることになりました。
参考文献
小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
転展社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
WikiPedia「第二次上海事変」
添付写真
上海事件で出動した日本海軍陸戦隊(PD)
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