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よもの海 ~ 日米開戦避けられず

アメリカは何が何でも戦争をやるつもりだった。

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 昭和16年(1941年)7月31日、永野修身軍令部総長(海軍)は昭和天皇に主戦論を言上します。石油の備蓄は約2年であり、ジリ貧になるくらいなら機先を制して抗戦する論が有力になってきたのです。これに先立つ6月17日、オランダから石油を輸入しようとしていましたが、交渉が決裂しています。そして8月1日、アメリカは日本に対して石油の全面禁輸措置をとりました。上智大学名誉教授、渡部昇一氏によると氏は小学校5年生でしたが、子供心に「目の前が真暗になった」と感じ、「いよいよ、これで戦争だな」と思ったそうです。子供でさえそう思ったのですから、当時の日本中の雰囲気がどんなものであったか想像がつきます。

 近衛首相は状況打開のため、ホノルルでの日米首脳会談に打って出ます。及川海相、東條陸相も異存なし、となります。ちょうどこの頃ルーズベルトは英チャーチル首相と会談するため洋上にいました。(大西洋憲章)帰国したルーズベルトは乗り気だったよう(に見せかけた)ですが、ハル国務長官は予備交渉を主張し、ルーズベルトもトーンダウンします。
 こうした状況下、陸海軍首脳部は協議を重ね、「帝国国策遂行要領」をまとめ、閣議決定します。

1.帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す

2.帝国は右に
並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し

3.前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む

 近衛首相は事前に昭和天皇へ内奏しますが、1が戦争準備、2が外交となっていることに対し、懸念を示され、参謀総長、軍令部総長を呼びいくつかの質問をします。

 9月6日御前会議。原枢密院議長
「この案を見るに、外交よりむしろ戦争に重点がおかるる感があり。政府統帥部の趣旨を明瞭に承りたし」。これに対して統帥部は答えず、政府を代表して海軍大臣が答弁します。ここで昭和天皇は突然発言されます。

「只今の原枢相の質問はまことにもっともと思う。これに対して統帥部が何ら答えないのは甚だ遺憾である」といわれ、ふところから紙片を取り出し、明治天皇の御製をゆっくり詠みます。

 「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」

 一般的に軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味と解釈されています。天皇陛下が御前会議で発言すること自体は極めて異例なことでした。明治憲法下では天皇は内閣の決定事項を承認することしかできません。満座が粛然となり、しばらくは誰も発することができませんでした。

 近衛首相はその後、日米首脳会談に命をかける思いで駐日大使のグルーと密会し、グルーは本国に会談を受諾するように電報をうちます。しかし、10月2日ハル国務長官からの回答は日米両国の意見不一致のままでは会談の効果なし、として突き放したのです。近衛内閣は立ち往生し、東條内閣が誕生することになります。

 このとき、アメリカ参謀本部は大量の爆撃機を支那に送り、日本軍がまだいないところを基地として、そこから九州の八幡製鉄所を爆撃するという案があり、ルーズベルト大統領は既にOKのサインをしていたのです。アメリカは何が何でも開戦に持っていくつもりでした。



参考文献
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「大西洋憲章」「帝国国策遂行要領」

添付画像
 「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)

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