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2011年12月

難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍

奇跡を起こした将軍。

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 明治37年(1904年)~明治38年の日露戦争の旅順攻防は有名な話で司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木将軍を戦下手に描いていましたが、本当はそうではありません。

 旅順はロシアがコンクリートを用いて徹底的に要塞化しており、諸国はこのことを知っていたので永久要塞とみていました。しかし、日本は情報不足によりこのことを知りませんでした。日本軍は日清戦争の旅順攻略戦旅団長だった乃木希典を司令官として第三軍として送り込みますが、攻撃してみると要害堅固さにすぐに気付きます。

 明治37年8月19日、第一次総攻撃開始。旅順要塞が強固なのに気づいた乃木将軍は9月1日には塹壕を掘って接近する「築城攻撃」に切り替えました。これは要塞戦では極めて有効であることを世界に先駆けて示すものでした。
 海軍はこの前の8月10日、黄海海戦で旅順艦隊の一部を取り逃がしてしまい、同艦隊は旅順港に篭ってしまいます。バルチック艦隊を迎え撃つには旅順艦隊と挟み撃ちになる危険があります。海軍は陸から山越えに旅順港にいる旅順艦隊を砲撃しなければならないと考え、陸軍に旅順攻略を早めるように矢の催促をしたのです。それで乃木将軍は無理な作戦でもやらなければならなくなったのです。

 乃木将軍は海軍の要請により旅順港を見下ろし砲撃可能な203高地をターゲットに切り替えていますが、既に第一次総攻撃後に攻撃目標にしており、大損害を強いられています。評論家の福田恆存(ふくだつねあり)氏は昭和17年(1942年)に203高地に訪れ、斜面の急峻さに衝撃を受けており、昭和45年(1970年)に乃木愚将論は間違いと指摘しています。
 10月15日、バルチック艦隊がバルト海リバウ軍港を出発。10月26日、乃木将軍は第二次総攻撃開始の命令を発します。塹壕作戦と砲撃により損害は最小限に止めることができました。大本営が主攻撃目標を203高地に切り替えるよう決定したのは11月14日のことで、11月26日から第三次総攻撃を開始し、白襷隊ほか各師団は苦戦を強いられ、11月27日、乃木将軍は主攻撃目標を203高地に切り替えました。203高地への攻撃は203高地後方の堡塁を砲撃するとともに、ロシア軍の逆襲を阻止すべく、味方撃ちも辞さず砲撃を加える非情なものでした。この第三次総攻撃の死傷者は1万7千でしたが、うち1万は203高地においてでした。

 12月5日、203高地を占領します。ここに海軍は観測地を儲け、旅順艦隊を砲撃しますが、実は既に旅順艦隊は廃艦となっていたのでした。海軍はこの情報をつかめていなかったのです。
 203高地を落としても旅順要塞は健在です。乃木将軍は坑道を掘って堡塁を爆破する正攻法で各堡塁を次々に占領し、明治38年1月1日に最高所の望台を奪い、ロシア軍司令官ステッセルはついに降伏しました。

 旅順攻防は1万5千の死者、4万4千の戦傷者を出しましたが、日本軍の士気は衰えることなかったため、ロシア兵は恐怖を抱いたといいます。兵士が乃木将軍を有能な司令官として信頼し、敬愛していたということでしょう。また、乃木将軍の息子二人は危地の部署においたため戦死しています。この点でも日本兵士は乃木将軍の心を知り奮闘したのだと思います。「坂の上の雲」ではそう書いていません。
「ひどい作戦指導」「将官級のなかの一、ニの中にはわざと病気になり後方に送られる者すらでてきた」などと書き、一部の将官の旅順戦後の講義から引用し、「(乃木将軍は)まさに死を決っせんとしているとの風説が前線に伝わったことがある。しかしその風説は、少しも第一線部隊の督励にもならなかった」「将軍の子供が二人戦死したごときも・・・第一師団方面は知らぬこと、第十一師団方面では当然ぐらいに考えたに過ぎなかった」と乃木将軍をこき下ろしています。

 難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍は世界中から賞賛されました。「水師営の会見」で見せた武士道精神に対するだけでなく、近代的大要塞を過小な兵力でしかも短期間に陥落させた「奇跡を起こした将軍」として讃えられたのです。

 現在、歴史教科書で乃木将軍がどのように書かれているか自由社の教科書(H21年版)を見てみましたが・・・乃木将軍の名前はありません。東郷平八郎は1ページカラー使ってます。東京裁判史観の延長上にある「坂の上の雲」の呪縛から逃れられないのでしょうか。極めて困難な条件下で目的を達し、人間的にも優れていた人ですから載せてもらいたいものです。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『私を"転向”させた坂の上の雲』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11
  『世界に先駆ける合理的な戦法と敢闘が永久要塞を攻略した』原剛
  『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る”日本人の真価”とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「日露戦争」
添付画像
 1列目左から4人目東郷平八郎、5人目乃木希典、2列目左から6人目秋山真之 アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm

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明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編 http://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o

南京大虐殺インチキ話を作る人たち

マスコミが報道することは正しいとは限らない。

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 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺が行われたというホラ話が作られました。

 金陵大学社会学科スマイス博士が南京の被害状況を調査しており、日本兵の暴行による死者を2,400人としています。(これも実は捏造された節がある) 南京虐殺を捏造する人たちはスマイス調査のこの数字を無視し、周辺6県の死者の数をあげて「一般市民の死者があまりに多い」として「上海・南京間の人民の殺された数30万は妥当」などと書き上げてしまいます。大量殺害に使えるところだけ使ってあとは切り捨てるという手法です。(決定版・南京大虐殺 洞富雄氏 ~ 「南京事件の総括」より)

 昭和59年(1984年)8月7日。毎日新聞は「元陸軍伍長、スケッチで証言、南京捕虜1万余人虐殺」という大見出しで65連隊の伍長であった栗原利一氏の証言を紹介しました。さらに本多勝一氏が栗原氏を訪問して「朝日ジャーナル」に連載して1万3500人の虐殺の模様、軍司令部からの命令と報道しました。栗原氏は30万40万という虐殺というウソに腹を立てて、これに反論するために記者に話しをしたのに都合のよい部分だけをつまみ食いされ、意思とは全く逆の報道をされ、匿名の中傷や悪罵を浴びて困っていると抗議します。

「毎日にも本多氏にも言いもしないことを書かれた。自分の本当に言いたいことは書かないで、結果的には逆なことになってしまった。悔やんでいる」としきりに嘆き、取材を受け付けなくなりました。同隊にいた平林貞治氏の話だと、捕虜を解放(あるいは移動)しようとしたところ、暴動がおき、自衛のため機関銃で1000から3000人は射殺したのだといいます。日本兵も9名が死亡しました。これを歪曲して大虐殺にしたてあげられたわけです。

 第16師団(京都)歩兵第20連隊(福知山)中隊長 森王 琢(もりおう みがく)氏の公演記録があります。マスコミの取材について激怒しています。


「まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
 場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。また、証言者が、『中隊の軍紀は非常に厳正でありました。』などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております
 宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮で買ったものであると、読者が抗議しています。
 また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
 そのような記事について、"そんなことはあり得ないことである"と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです」


 テレビ報道などひどいものです。2008年4月の「NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺」がユーチューブにあります。何の気なしに見ていると気づきませんが、注意してみているとやけに証言がぶつ切りにされて、編集されているのがわかります。例えば歩兵六十五連隊 元兵士証言「1万人ぐらいあつめる広場」ここで切って「有刺鉄線を張って」で終わりにしており、これだけだと何のことだかわかりませんが、前後関係から捕虜を集めて大量虐殺したように視聴者にイメージさせているのです。上記の栗原利一氏の証言もあります。捕虜を船に乗せて解放しようとしたところ捕虜が反乱を起こしたのが証言内容のはずですが、まったく違う編集にされてしまっています。マスコミの捏造手口がよくわかります。この番組報道は虐殺は12/16と12/17と述べています。「朝日グラフの写真」1938年1月5日を出しておいてナレーションでは「ここにはおびただしい数の捕虜が収容されています。」「既に虐殺への序章が始まっていました」というところなど見ていてズッコケました。




参考文献
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
参考サイト
 三ヶ根通信ブログ版 「南京大虐殺」はなかった森王琢さん講演 http://blogs.yahoo.co.jp/sanganehp/14294402.html

添付写真
 「南京の雪景色」(昭和13年1月25日)食料品を運ぶ支那人を警護する日本兵 日新報道「南京の真相」より ・・・このような写真も日本軍に強制連行されている、などと書けば簡単に騙されてしまう。

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マスコミの南京大虐殺捏造手法
 南京大虐殺の真実 http://www.youtube.com/watch?v=c7CYCen8HX0(栗原さんのスケッチ 4:50あたり)
(NNNの動画のショット)

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 ナレーション
「栗原利一さんが書いた虐殺現場のスケッチです」「揚子江と幕府山の間の岸辺に捕虜が集められています」「機関銃を持った日本兵が取り囲んでいます」「捕虜たちには全く逃げ場がありません」「栗原さんは捕虜の人数を13,500人としています」

 栗原利一さんのスケッチには揚子江に船が見える。栗林氏はマスコミ不信になり証言しなくなったが、同隊の平林氏の証言だと、「捕虜は揚子江を船で鎮江の師団に送り返す」という命令がきていた。

平林氏「・・・船がなかなか来ない・・・捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声があがった。日本軍の方から威嚇射撃をした者がいる。それを後はもう大混乱です。一挙に、われわれに向かってワッと押し寄せて来た感じでした。殺されたもの、逃げたもの、水に飛び込んだ者、船で漕ぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真っ暗闇です。機銃はキチガイのようにウナリ続けました」

 マスコミは捕虜を船で運ぼうとしたこと、捕虜が暴動を起こしたこと、日本兵にも死傷者が出たことを隠し、大虐殺にしたてあげたわけです。

便衣兵、敗残兵の処刑は虐殺ではない ~ 南京虐殺はウソ

虐殺肯定派は苦しくなり敗残兵の処断を大虐殺といい始めた。

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 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦は南京城内で民間人も含めて大量殺戮されたなどと主張している人は少なくなってきていますが、便衣兵、敗残兵の処断を”南京大虐殺”としてホラ吹きまくる人はいるようです。もうこの時点でホロコースト並みの世界を震撼させた大虐殺とは次元の違う話になっています。”大虐殺”という表現は単なるプロパガンダです。便衣兵、敗残兵の処断に行き過ぎはなかったか、国際法上どうであるか、というどこの戦場にでもある話です。「民間人含めた大虐殺」と「戦場での行為の適正さ」という点は区別しなければなりません。

 16師団(中島師団)の記録では12月15日に数千の敵が投降してきて南京刑務所を収容所にしています。その世話をした兵士の証言ではメシを食わせなければならないので、寝る間も無かった、と語っています。食糧は秋の取り入れの後だったので何とかなったと述べています。

 城外の幕府山でも支那兵が大量に投降しており、だいたい8,000人と見られています。このとき長参謀が「始末しろ」と述べたことを”大虐殺の指示”と騒ぐ人もいるようですが、長参謀の下にいた上海派遣軍参謀・大西一大尉は
「見たことも聞いたこともない」「上海派遣軍が第十軍の師団に命令することはありえない。」と述べています。十軍・谷田勇参謀も「成文として軍命令を下達するには軍司令官の決済が必要。独断では出せない。」と言っています。しかし、65連隊の山田旅団長は「始末せよ」と受け取っています。この話は松井軍司令官付・岡田尚氏も聞いており「長参謀が暴言を吐いたということ。命令ではない。情報参謀ですから命令できない」と述べています。いずれにしろ困った山田旅団長は敗残兵を揚子江で船に乗せて対岸に逃がすことにします。ところが、船がなかなか来ずに不安になった支那敗残兵が暴動を起してしまい、日本兵が襲われます。(死亡9名)そこで正当防衛のため機銃掃射となり1、000から3,000の支那兵が死亡してしまいます。

 このほかにも敗残兵の殺害目撃証言はあります。
 「銀行の裏で100人以上が殺されるのを見た」読売新聞 波岡氏。
 「数十人のシナ人を撃っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で撃った。場所ははっきりしない」東京朝日新聞 足立和雄氏
 「八十八師の司令部で日本兵が銃剣でシナ兵を殺していた。敗残兵の整理」東京日々新聞 佐藤振寿カメラマン
 「夜捕虜が連れて行かれるのをみた。中尉と下関埠頭に一緒にいきシナ兵が銃剣で刺されるのをみた。翌朝数えて800だった」海軍従軍絵画通信員 住谷磐根氏
 「300~500メートル先で首切りやっている。見に来ないか。と兵隊に言われた」外務省情報部特派カメラマン 渡辺義雄氏
 「小さい河があり支那人200人はいた。機関銃でやられていた。入城式の2日前だった」従軍カメラマン 真柄カメラマン

 これらの敗残兵の処断を語る上ではまずは国際法と照らし合わせてどうか、という観点があります。青山学院大学の国際法専門の佐藤博士は偕行社が編集した「偕行南京戦史」に記載されている敗残兵・捕虜の処断を検証し、戦時国際法違反ではない、と断定しています。そして、南京問題研究者が素人判断で敗残兵の処断を「虐殺」とする研究に苦言を呈しています。このほか、支那事変は宣戦布告していないので、戦時国際法の適用にならなという見方もあります。支那国民党の何応欽(か おうきん)軍政部長の報告書にも「戦時国際法違反」としての虐殺は一行も報告されていません。欧米人観察者にも「国際法違反」という認識は見当たらず、逆にドイツのビジネスマンやオーストリアの技師が「合法的な死刑執行」という認識を示しています。

 また支那兵というのはどんな兵か、戦場心理としてどうか、という観点もあるでしょう。支那兵は便衣兵となったり捕虜になっても武器を隠し持って襲ってきます。卑怯な手を使って攻撃するけど不利になるとすぐ投降する、それを日本軍は情を持って接することができるかです。南京戦を取材した記者たちの証言は便衣兵、敗残兵の処断をさほど問題視していないところからすると、戦場という狂気の場所で支那兵とは何であるか、上海戦から通してみてきて特に違和感を感じなかったのだと思います。支那軍に国際法は通じない。掃討戦、便衣兵の摘発、処刑は戦闘状態の継続に他なりません。



参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 文春新書「『南京事件』の探求」北村稔(著)
添付画像
 南京避難民区域も大勢の人通り(昭和12年12月27日)(PD)

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南京虐殺の証拠写真としてよくあげられる写真。
これは上海のもの。南京ではない。宣伝のために演出された写真。

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天長節(天皇誕生日)の一般参賀

一度は行っておきたい一般参賀。

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 12月23日は天長節(天皇誕生日)で、皇居の長和殿前で一般参賀が行われます。一般参賀が行われるのは正月の1月2日があります。天長節では午前中の3回で午前10時20分頃,同11時頃及び同11時40分頃の3回が予定です。お出ましするのは天皇皇后両陛下,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下です。午後は宮内庁庁舎前特設記帳所で記帳ができます。天皇皇后両陛下は午後はさまざまな祝賀行事のスケジュールが入っています。

 1月2日の参賀は7回ありましたが天皇陛下がご高齢のため5回になりました。新年の行事が元旦に行われるため、1日フルに使えるので天皇誕生日よりも多くお出ましになります。参賀の1回目と2回目は天皇皇后両陛下,皇太子同妃両殿下はじめ成年のご皇族方がお出ましになります。

 一般参賀では日の丸の旗を振る国民の姿が見えます。旗は皇室を敬愛している民間団体が自主的にくばっているようで、ボーイスカウトなどが配るのを手伝っているようです。
 天皇陛下をはじめ皇族方がお出ましになると、国民は日の丸を振り、万歳三唱の声が上がります。そして天皇陛下からお言葉があります。

 この一般参賀は昭和20年(1945年)に62名の男女が自主的に皇居の草刈をさせてくれと申し出て3日間奉仕したことから始まっています。これを喜ばれた昭和天皇が勤労奉仕団の前に姿を見せられ、これが口コミで全国に広がって翌年は1万となり、昭和26年には4万人に達しました。これを見て宮内庁が昭和23年より「一般参賀」を認めるようにすると元旦に7万人、翌2日に14万人が皇居につめかけました。昭和天皇は
「どこからか、その様子を見ることはできないものだろうか」とおっしゃり、宮内庁府の屋根にお登りになりご覧になりました。当初国民は気づいていませんでしたが、天長節の一般参賀のとき気づいて「天皇陛下万歳!」の大合唱になりました。そして屋根は危ないということで今のようなバルコニーが作られました。それからずっと今日まで続いているのです。

 私は平成21年の天長節の一般参賀に行ったことがあります。民間の方が日の丸の旗を配られており、私もそれを受け取りました。現在でも記念に保存しています。途中で金属類などの検査が行われます。財布や携帯、カメラ類はカバンやポケットから出して係員に見せます。長和殿に行くまでの道中は目つきが鋭く、イヤホンをした私服警官が道の端で行く人々を目でチェックしていました。参賀に行く人々は日本人だけでなく、白人、南米系の人や団体の支那人もみかけ、長和殿前広場では私の近くに韓国人もいました。それと、おばさんが多くいました。
 天皇皇后両陛下がお出ましになると歓声があがり、一斉に日の丸が振られます。そしてところどころで
「天皇陛下万歳!」と声があがりました。私も一緒に「天皇陛下万歳!」と叫びました。なんと気持ちの良かったことか。

 地方の方はなかなか機会はないと思いますが、関東圏に御住まいの方は生涯に一度は是非、一般参賀にお出かけください。とても気持ちがいいですよ。




参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
参考サイト
 宮内庁「天皇誕生日一般参賀要領」 http://www.kunaicho.go.jp/event/sanga/sanga02.html
添付画像
 平成21年天長節の一般参賀(JJ太郎撮影 PD)

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【奉祝】天皇誕生日 皇居一般参賀[桜H21/12/24] http://www.youtube.com/watch?v=d1twP6REe18

日露戦争の戦費調達秘話

世界が日本の負けとみていた。

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 明治33年(1900年)、清国北京でおきた義和団事件をきっかけにロシアは満州を制圧しました。火事場泥棒です。ロシアは更に朝鮮半島へ南下をしかけます。義和団事件以前の明治29年(1896年)にロシアと清は攻守同盟密約を行っており、大韓帝国(朝鮮)は一進会は日本支持ですが、高宗らの支配階級はロシア寄りでした。日本は日英同盟を結び大国ロシアに対抗します。

 ロシアと日本では国力が違い、戦力もまるで違います。陸軍兵力で約5倍、軍艦の排水量で約2.5倍も違ったのです。そしてロシアと戦うにはお金が必要です。日本銀行の副総裁だった高橋是清は海外に日本の国債を売り込む使命を帯びてまず、太平洋を渡りアメリカへ乗り込みます。ですが、世界は日本とロシアが戦っても日本が勝つことは万に一つもありえないと判断しており、誰も引き受けてくれません。そして今度はイギリスへ向かいます。
 高橋はロンドンに一ヶ月以上滞在し、銀行から銀行へ精力的にまわります。日本と英国は同盟を結んでいましたから好意的ではありましたが、投資するとなると誰もが尻ごみします。それでも英国の銀行団から500万ポンドの日本の国債を引き受けてもらいます。しかし、それでは足りず、第一回の戦時国債として1000万ポンドは必要でした。高橋は途方にくれました。

 高橋是清が英国の銀行家の友人が自邸で催してくれた晩餐会に招かれて出席したときのこと。隣に座ったアメリカ人から
「日本兵の士気はどのくらい高いか」といったことをはじめとして多くの質問を受けます。高橋は一つ一つ丁寧に答えます。すると翌朝、イギリスの銀行家が突然、高橋をホテルに訪ねてきて「前夜の宴会であなたの隣に座ったアメリカ人の銀行家が、『日本の国債を引き受けよう』と言っている」と言います。高橋は驚きます。その銀行家はヤコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人でした。

 シフは500万ポンドの日本国債を引き受けてくれたのです。ときは1904年(明治37年)5月。日露戦争は始まったばかりで、まだ日本軍は大きな勝利を収めていないときです。実はユダヤ人は帝政ロシアに甚だしい虐待を受けており、圧政はその極に達していたのでした。

シフの述懐
「ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する"神の杖”であるに違いないと、考えた」

 シフの戦費に支えられた日本は陸戦は辛勝ながらも連続勝利。難攻不落といわれたロシアの旅順要塞を乃木将軍が陥落させます。そして日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を相手に日本連合艦隊がワンサイドゲームで大勝利し、小国日本が大国ロシアに勝利しました。

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 日露戦争から50年後の昭和41年(1966年)、イスラエル駐日大使、モシュ・バリュトウール大使が着任した時の話しです。着任早々大使は他の外国大使がそうするように、皇居にて信任状を昭和天皇に奉呈します。このとき昭和天皇より次のような言葉を賜ったといいます。

「日本人はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れません。かつて我国はヤコブ・シフ氏に大変お世話になりました。日本人はこの恩を決して忘れることはありません」


 昭和天皇は知っていたのです。逆にモシュ・バリュトウール大使のほうがシフを知らずに後で調べたそうです。



参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『日本を助けたユダヤ人 ユダヤ人を助けた日本人』岩田温
参考サイト
 WikiPedia「日露戦争」
添付画像
 ヤコブ・ヘンリー・シフ(PD)

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義和団事件と柴五郎

世界が称賛した柴五郎。

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 明治33年(1900年)、清国で義和団事件が起こります。義和団は排外運動を行う宗教的秘密結社で外国人宣教師等を殺害し、ドイツ公使と日本公使を殺害します。この頃、清朝は改革を推進する光緒帝が失脚し、改革派は粛清され、西太后が実権を握っていました。政治力の落ちていた清朝は袁世凱の進言に耳を貸さず、義和団の呪術的なものを信じて味方してしまいます。各国に宣戦布告してしまったのです。

 このとき活躍した日本人で柴五郎は有名です。柴五郎は会津藩の出身で10歳のとき戊辰戦争があり、敗れた会津藩士は青森県陸奥の不毛の地で極貧生活を強いられます。柴五郎はそれでも生き延びて東京へ出て陸軍幼年学校へ入学します。そして義和団事件を通じてその名を世界に轟かせることになります。
 明治33年6月、北京で義和団と清国兵によって外国人への攻撃がはじまります。公使館付武官として赴任していた柴五郎中佐は状況を冷静に分析し、部下を叱咤激励しながら北京篭城戦を指揮します。当初白人らは日本人などあてにしていませんでしたが、やがて柴五郎の抜きん出た能力が評価されるようになります。

英国義勇兵のシンプソンという青年
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付のリュウトナン・コロネル・シバである。(中略) この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下達を組織化し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼のなすべきことをすべてやった」

英国公使館書記生ランスロット・ジャイルズ
「日本兵がもっとも優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これにつづく。しかし、日本兵はずば抜けて一番だと思う」

英国公使マクドナルド
「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

アメリカ女性 ポリー・C・スミス
「柴中佐は、小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷(こうみんこう)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。(中略) 柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をるふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」

 北京篭城は55日間持ちこたえ、8月14日にはイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと日本の連合軍が北京を攻略し、翌日陥落。事態は収束し、清朝の西太后は西安に逃げてしまいます。

 この後、英国のマクドナルドは駐日大使になります。日英同盟の締結を推進していきます。脳裏には柴五郎中佐の活躍があったことでしょう。この当時、英国は「光栄ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいませんでした。日英同盟は世界に冠たる大国イギリスが小国日本と同盟を結んだということで、世界中が驚愕したのでした。
 この義和団事件でロシアも派兵していますが、北京の救援には行っていません。何をしていたかというと満州を制圧したのでした。そしてロシアは朝鮮半島をうかがい、日露戦争へと発展するのでした。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R.F.ジョンストン(著) 中山理(訳) 渡部昇一(監修)
 オークラ出版「世界から愛された日本」『世界に轟いた会津武士道』岩田温
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「歴史街道」2010.06柴五郎と北京籠城
参考サイト
 WikiPedia「義和団の乱」「光緒帝」
添付画像
 明治35年(1902年)7月、ロシア・ペテルブルクを訪れ、歓待を受けたときの写真。中央が柴五郎。「歴史街道」2010.06より

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東京裁判が南京虐殺をデッチあげた

東京裁判で20万虐殺がデッチあげられた。

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 昭和12年(1937年)12月、支那事変は南京戦に突入し、「国民党中央宣伝部」が日本軍の残忍な所業として宣伝本や新聞記者を使って宣伝しましたが、そのようなトンデモ話など信じられてはいませんでした。ところが戦後になって突然、東京裁判でとりあげられます。そしてGHQの宣伝番組「真相箱」の放送によって日本国民に知らされます。昭和12年当時に南京にいた新聞記者や兵士はこれを聞いてびっくり仰天することになります。

「陥落前の南京」真相箱
「わが軍が南京城壁に攻撃を集中したのは昭和12年12月7日でありました。これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、その一週間後にその恨みを一時に破裂させ、怒涛のごとく南京市内に殺到したのであります。
 この南京の大虐殺こそ、近代史上まれに見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります。
 南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体が覆われたのであります。この間、血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕らえてあたり次第に殺戮、掠奪を逞しくし、また語ることも憚る(はばかる)暴行を敢えていたしました。・・・」


 南京戦時に南京を取材していた東京日々新聞、佐藤振寿カメラマン
「たまたま聞いていましてね。テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲(ベートーベンの誤り)が流れた後、機関銃の音やキャーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、と言うのですよ。これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、と周りの人に言った記憶があります」

 真相箱の語るような南京の光景を見た人は一人もいません。この真相箱の巧妙なところは事実の中にウソを混ぜてあたかも本当のことのように見せたり、大本営がウソの報道したことなどを取り上げて、真相箱が言っていることは真実だ、と見せてしまうことです。(戦争当時どの国も軍事的報道はコントロールするもの)

 東京裁判では南京事件は12万7000人の犠牲者がでたとして判定しています。
「後日の見積によれば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積が誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている・・・」

 この埋葬死体というのは

 紅卍字会 43,071
 崇善堂 112,366

 上海派遣軍参謀大西一大尉は南京の特務機関として支那のさまざまな問題に対応する日本側窓口として南京市民の実態を把握していましたが、大西氏は
「紅卍字会が中心に埋葬していた。崇善堂(すうぜんどう)は知らない」と証言しています。
 昭和60年に支那の資料によって崇善堂の埋葬活動がほとんどなかったことがはっきりしています。でっちあげだったのです。紅卍字会の埋葬記録にも捏造の跡があります。歴史学者の北村稔氏の調査でも満鉄特務班の報告と5000体余り差が出ていると指摘しています。埋葬死体には当然、戦闘による死者も含まれているでしょう。支那の何應欽軍政部長の軍事報告資料では南京戦死者は約33,000です。紅卍字会の捏造したと見られる埋葬数は6,468です。

 でっちあげのウソによって東京裁判で上海派遣軍司令官・松井石根大将は死刑となり、処刑されたのでした。



参考文献
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 小学館文庫「『真相箱』の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 文春新書「『南京事件』の探求」北村稔(著)

添付写真
 昭和60年8月10日産経新聞が報道した阿羅健一氏のスクープ記事 日新報道「南京の実相」より

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紅卍字会の不自然な数字。下段右の6,468。場所と備考が空白。日付は12月28日となっているが、この日は雪が降っていた。

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南京からトンズラした支那の大将

支那軍の大将は無責任にもトンズラした。

S19371213

 昭和12年(1937年)8月に勃発した第二次上海事変は12月に支那の首都、南京戦へと移ります。南京は地理的にみると包囲されやすく殲滅されるおそれがあり、支那軍は南京防衛は無理と判断しました。支那軍のドイツ軍事顧問団も南京の放棄を主張しました。
 12月7日、蒋介石主席、何應欽軍政部長ら政府首脳は市民と南京防衛軍をおきざりにして早くもトンズラします。ここでもう南京市内はパニック状態になります。公務員、警察官、郵便局員、電話、電信、水道の工員にいたるまで大脱出がはじまります。防衛司令官の唐生智が南京に残り抗戦することになっていましたが、治安もくそもなく、放火、掠奪の街となり暗黒の都市となります。
 日本軍は12月9日に降伏勧告文を空からまき、10日に回答を待ちます。しかし、唐生智将軍は無視。日本軍は攻撃を開始します。ところがびっくり、唐生智将軍も12月12日にトンズラしたのです。南京防衛軍兵士たちも大混乱となります。

 支那びいきだった日本軍の総司令官松井大将は「がっかりした」と松井軍司令官付岡田尚氏に述べています。岡田氏は支那側の軍使を中山門に行って出てくるのを待っていた人です。岡田氏は南京戦を以下のように回想しています。

「私は正直言って中国びいきです。満州国を作ったのも賛成じゃない。日支事変も日本がやりすぎたところがあると思っています。しかし、南京の降伏拒否は中国が悪い。しかも結局、最高司令官の唐生智は逃げていますからね。あれは中国の悪いところで義和団のときも同じで、清の責任者は最後になると逃げています。会社がつぶれるときと同じで、責任者がいなければ会社は混乱して、社員は物を持って逃げますよ。
 降伏拒否がなければ捕虜の問題も起きなかったと思います。国際法上、とよく言いますが、国際法上からいえば中国のやり方はまずいと思います」

NYタイムズ・ダーディン記者(南京城内にいた)
「確かに蒋将軍はあのような大混乱の起こるのを許すべきではなかった。確かに唐将軍も自分が最後までやり通すことができず、とどのつまりは不首尾に終わった。犠牲の道を踏み出したことは強く批難されるべきである。唐は、その日いくつかの小部隊の援護で、日本軍が市内深く侵入するのを支えながら、総退却の配置をすることによって、状況を救うなんらかの努力をしてもよかった。そんなことが行われた様子もなく、いずれにせよ状況は改善されなかった。唐は自分の幕僚の多くのメンバーにも知らせず、指揮者なしに軍を置き去りにしたことは全面的破壊の合図となった」

 南京事件を語る上で、このトンズラ大将らのことがどれだけ語られているでしょうか。南京で日本軍は反抗的な支那敗残兵の一部を処刑しています。これを摘まんで”大虐殺”とステレオタイプに叫ぶインチキ日本人や外国人がいますが、責任ある立場の人がいて正規の降伏手続きを行っていれば、停戦、武装解除となり国際法上「捕虜」として認められていたはずです。日露戦争の旅順戦や大東亜戦争のシンガポール戦を見ればそうしています。南京戦では支那の大将が市民も兵士も見捨てたのです。敗残兵の処刑を批難するなら支那のトンズラ大将を批難すべきでしょう。




参考文献
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)

添付写真
 句容に入る大野部隊(昭和12年12月5日) 
 中華門より入城せんとする千葉部隊(昭和12年12月13日)
    ~ 日新報道「南京の真相」

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これが真実、南京入城だ!
http://www.youtube.com/watch?v=Z3L3eVE1kQA


ダーディン記者は南京虐殺を見たのか?

ダーディン記者はウソつきだった。彼は何故ウソをついたのか。

S50m19371212


 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦により日本軍が南京市を占領しました。このときニューヨーク・タイムズのダーディン記者は南京城内の日本軍の暴行を記事にしました。似たような記事はシカゴ・デイリー・ニューズにも見られますが、ロイターのスミス記者は「非戦闘員」の殺害など書いておらず、AP通信のアーサー・メンケンカメラマンの報告でも「非戦闘員」の殺害は書いていません。実はダーディン記者は南京大学、国際委員会のベイツ教授(裏の顔は国民党政府顧問)のレポートをもとにして記事を書いたようです。

 このダーディン氏を都新聞の小池秋羊記者が南京城内で目撃しています。
「中央ロータリーから少し離れた中正路の奥のほうから火事が起こり、誰一人いない空き家街は黒煙に包まれ、消化する人もいないままに、燃え募って、いっそう凄まじさを拡大していました。そこへ二台の自動車に分乗した外人たちがやってきて、街を縦横に疾駆して、パチパチとカメラのシャッターを切っていました。そして、彼らは一応の取材をすると疾風のように現場を去っていきました。
 後になってこの一行は、南京における日本軍の蛮行、というスクープを打電した『ニューヨークタイムズ』のティルマン・ダーディン記者であったらしいことがわかりました。それにしても敵地に等しい戦場へ、一分のスキも与えず乗り込んできた報道記者の勇敢な行動に、私たちは頭が下がる気持ちでした」


 ダーディン記者は12月15日まで南京におり
「日本軍は遠慮会釈の無い暴虐行為」「民間人、とくに消防士、警官もしばしば日本軍の犠牲となった」「中国人女性もまた日本兵のなぶりものになった」「2万人の中国軍人が処刑された」と翌年の1月9日に書いています。しかし、同じ頃、南京にいた日本人記者や日本兵にはダーディン氏のいうようなことを見たものはいません。12月13日~15日の間、外国人からなる国際委員会が報告した被害では殺人は5件あり目撃者が判明している殺人はゼロです。(支那敗残兵の処刑は一部の日本人も見ている)
 
 古森義久氏(ジャーナリスト)が昭和64年(1989年)にダーディン記者にインタビューした記事(文藝春秋89.10)があります。

 - 日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。

「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。銃剣を使う場合もあった。とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」「南京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような印象を、私は受けました。『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺してもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした」

 - どうしてですか。

「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」

 - 日本軍はなぜとくに南京だけでそうした虐殺のような行動をとったのでしょうか

「日本軍の上層部がそういう残虐行為を首都で誇示すれば、中国側を恐怖におののかせ、おびえさせ、蒋介石総統を降伏へと追い込めるのではないかと考えていた」


 ダーディン氏は日本軍は上海戦から虐殺などしてこなかったのに南京戦だけ特別だった、と述べています。「推測」と断って「日本軍の上層部~虐殺行為を首都で誇示」と述べていますが、日本軍司令部が虐殺を指示した事実はなく、逆に軍紀を厳しくし、支那人を大切にするように指示が出ています。

 ダーディン氏はいったい何をみたのか。そしてベイツ教授の宣伝レポートがいかほど影響を与えたのか。ダーディン氏は12月18日のニューヨーク・タイムズの記事で「日本軍の下関(シャーカン)の占領は防衛軍兵士の集団殺戮をともなった。死体は高さ6フィートの小山を築いた」と書いていますが、後に回想で下関の大量死体は日本軍の殺戮ではなく、支那の督戦隊のものだったとウソを認めています

 ダーディン記者の記事は支那防衛軍司令の唐将軍が部下たちを残して逃げたことを非難しています。ベイツ教授の宣伝レポートはスクープ記事にできるし、兵士をほっぽらかしてトンズラした蒋介石と唐将軍の無責任さを浮き立たせる効果もある。こうしたシナリオをもとにダーディン記者はウソを挿入してきたと思われます。



参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)

参考サイト
 南京事件を世界に知らせた男 http://www.history.gr.jp/~nanking/dathin.html

添付画像
 中華門へ50mに迫って攻撃する野砲陣、手前は一番乗りに待機する部隊(1937年12月12日撮影 PD)

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南京虐殺の証拠写真としてよくあげられる写真。
小さいので確認しずらいが、刀を持つ男はチャンチャンコのようなものを着ている。元陸軍将校の話だと将校、下士官、兵を問わず、このような服装をした軍人は日本軍に存在しないという。

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南京虐殺を最初にデッチあげたのは誰か

誰が南京虐殺をデッチあげたのか。

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 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で、南京大虐殺が行われたというのは全くのウソです。こうしたウソを最初にでっちあげたのは誰でどのような目的だったのでしょうか。

 これは支那の蒋介石国民党が「宣伝戦」によって世界が日本を敵視するようにするための戦略から始まっています。蒋介石国民党は「国民党中央宣伝部」というのを創設しました。国民党極秘文書には以下のことが書かれています。

「成都の華西や金陵などの外国人教授を特約として多数招聘(しょうへい)し、教務のほかに当処(国際宣伝処)において英文パンフレットの資料選択と編集や、最終的な審査工作を担当してもらう。編集委員会を設立し、アメリカ人のプライス博士を主事とする。プライス博士はわれらの良き友であり、協力してもらえるので実に助かる」

 外国人に宣伝してもらおう、というものです。第三者である外国人に宣伝してもらったほうが信じられやすいからです。そこで、イギリスのマンチェスター・ガーディアンの記者のティンパーリーという人を使い「外国人の見た日本軍の暴行」(戦争とは何か)を編集させ、ヨーロッパにホラを撒き散らしました。ティンパーリーは金陵大学社会学科のスマイス博士に南京の被害調査を依頼していますが、調査結果、南京市内の日本軍の暴行による死者は2,400人となっています(これも実はトリックがあり過大)。ティンパーリーは表の顔はマンチェスター・ガーディアンの記者、裏の顔は国民党中央宣伝部の顧問であり、「外国人の見た日本軍の暴行」(戦争とは何か)というプロパガンダ本の内容はのベイツ教授(裏の顔、国民党政府顧問)とフィッチ師が執筆したものでした。フィッチ師の妻は蒋介石夫人と親友です。

 国民党極秘文書より
「われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、もっとも直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。この工作は実に難しいが、決しておろそかにしてはならない」

 国民党中央宣伝部は南京戦前からティーパーティーと記者会見を開いて一般の外国人記者と親交を深めていきます。そして南京陥落(12月13日)後に国民党政府顧問のベイツ教授(表の顔は南京大学教授、国際委員会)は自らのレポートを外国人記者にわたします(12月15日)。このレポートをもとに日本軍の暴行記事を書いたのが「シカゴ・デイリー・ニューズ」のスティール記者と「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者です。

 シカゴ・デイリー・ニューズ(12月15日)
「南京の包囲と攻略をもっともふさわしい言葉で表現するなら<地獄の四日間>ということになろう。・・・南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言葉に絶する混乱とパニックと、その後の征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪の無い人たちであった。・・・それは羊を殺すようであった。・・・以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や外国人の観察にもとづくものである」

 ニューヨーク・タイムズのダーディン記者も「非戦闘員」の殺害と書いています(12月17日)。ところがロイターのスミス記者は「非戦闘員」の殺害など書いていません(12月18日)。AP通信より発せられたパラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケンカメラマン(※1)の報告では支那便衣兵(服装を変えて市民の中に紛れ込んだ兵)の処刑については書いてあっても「非戦闘員」の殺害など書いていません(12月17日)。ここが宣伝工作の難しいところで、足並みがそろわないと信じてもらえない。

 支那国民党政府はシカゴ・デイリー・ニューズ、ニューヨーク・タイムズの「非戦闘員」虐殺報道とは裏腹に、その後の300回に及ぶ記者会見を行いましたが虐殺には一切触れていませんし、世界に訴えたり、外交ルートを通じて日本政府に抗議することはなく、唯一、これらの新聞記事をもとに国際連盟に訴えたのみです。国際連盟はこれを無視しました。

※1 コメントにより「AP通信のメンケンカメラマン」と書いていたのを訂正。(H24.9.28)


参考文献
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 文春新書「『南京事件』の探究」北村稔(著)
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
添付画像
 南京外交部跡の野戦病院で日本の衛生隊に看護される負傷した中国兵(昭和12年12月20日)(PD)

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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?

http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0

南京虐殺はデッチあげだった

南京虐殺は世紀の捏造だった。

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 私は中学校だったか、高校だったか忘れましたが、教科書に「世界三大虐殺」というのが記載されており、「アウシュビッツ」「広島・長崎」「南京」の三つが書かれていたのを覚えています。被害者が日本人である「広島」が書いてあるものの、加害者が日本人である「南京」が同時に書いてあり、原爆を落とした米を憎む一方で、日本も悪いことをしたのか、という感情がありました。これがアメリカの狙いだったのは言うまでもありません。東京裁判で南京虐殺をでっち上げ南京30万=広島20万+長崎10万の数合わせで日本人に罪の意識を植え込んでアメリカへの恨みを和らげることをやったのです。

 南京30万の虐殺といえば、組織的に行わなければ不可能であり、そしてその犠牲はしっかり刻まれるものでしょう。広島と比較すればよくわかります。

■命令書あるいは声明はあるか?
 広島:あり
 南京:なし

■犠牲者名簿はあるか?
 広島:あり
 南京:なし

■当時の政府の事件認識
 広島:日本あり、米国あり、世界中あり
 南京:日本なし、国民党なし、共産党なし、国際連盟なし


 広島の広島平和記念資料館は昭和30年(1955年)に開館しています。昭和20年(1945年)の原爆投下から10年後です。終戦7年間は占領軍の検閲によって原爆を語ることはタブーになっていましたから、日本の主権回復後に即建てたといえます。

 南京の南京虐殺記念館はどうでしょう。
 支那事変南京戦 昭和12年(1937年) -> 記念館オープン昭和60年(1985年)

 50年近い月日が経ってから記念館が建てられています。広島の市民感覚からすればウソでしょ、という感じです。南京市民に記憶があり、市民が望んで建てたものではなく、中共の愛国思想教育によって建てられたものなのです。
 
 東京の世田谷区ほどの広さの南京城内に30万の死体があれば死体だらけですが、誰もそのような死体を見たものはいません。広島は原子爆弾投下後、死体だらけで見たい人は大勢います。広島はその日に写真が撮られています。当時、南京には多くの報道陣がおり、戦闘による死体の写真はありますが、大虐殺といわれる写真はありません。

 南京戦から8年後の昭和20年の12月13日に上海の「大広報」は南京で死者に供物を捧げ故人を追慕する人がほとんど居ないことに対し不思議がって
「蒋介石集団は日寇の罪行を調査した時、(虐殺は)50万という見積もり数字を提出したではないか。それがわずか『数件』の供養とはどうしたことか」と報じました。広島大虐殺にあてはめると原爆投下後8年といえば昭和28年です。この頃、私は生まれていませんし、両親も広島の人ではないので犠牲者の供養をどうしていたか聞くことはできませんが、昭和30年に広島平和記念資料館がオープンしたことを考えると知る人に聞くまでもないでしょう。

 ちょっと考えただけで南京虐殺というのがホラ話であることがわかります。

 南京虐殺というのは中華民国(蒋介石政府)の宣伝部顧問だったティンパーリーがでっち上げで書いた本をもとに戦後、東京裁判で取り上げて更に誇張し、真相箱で日本国民に宣伝したものだったのです。後に朝日新聞の本多勝一記者が『中国の旅』で蒸し返し、中共が愛国教育と外交に利用しているのです。中共で南京虐殺が登場したのは昭和56年(1981年)になってからです。『中国の旅』の中国語版を読んで知ったという中共人がほとんどで、それまでは教科書で国民党が30万殺した、と教えていたのです。

 南京虐殺というのは大ホラ話です。歴史を捏造して原爆投下を正当化させようとする者の意図、歴史攻撃して利を得ようとする者の意図を読み取りましょう。今こそ日本人は立ち上がり、歴史を捏造して利益を得る輩へ「真実」を持って反撃です。



参考文献
 文藝春秋「日本よ、『歴史力』を磨け」櫻井よし子(編)
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『チベット問題と北京オリンピック』若杉大
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
参考サイト
 WikiPedia「南京大虐殺紀念館」「広島市への原子爆弾投下」「広島平和記念資料館」

添付写真
 南京市民と親しむ様子を報じた当時の新聞「きのうの敵に温情」朝日新聞・昭和12年12月22日 「南京は微笑む」朝日新聞・昭和12年12月25日  日新報道「南京の真相」より

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南京虐殺の証拠写真としてよくあげられる写真。
本多勝一「中国の日本軍」で「自分が切り落とした首を持って記念写真を撮る」兵士と説明。
しかし、写真は白襟だが、海軍陸戦隊の襟は白線である。捏造写真。初出は国民党中央宣伝部の顧問ティンパーリー「外人目撃中の日軍暴行」というプロパガンダ本。

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アメリカ人が見た真珠湾攻撃

有色人種は白人に劣っていないことを見せつけた先人の血と汗の結晶、真珠湾攻撃。

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 昭和16年(1941年)12月8日午前0時30分(日本時間)、日本連合艦隊機動部隊はオアフ島の来た二百五十カイリに到達します。空母の飛行甲板には飛行機があげられ、時々試運転の青白い光や、ブースターを吹かす大きな音が鳴り響きました。
 1時30分(日本時間)、東の空が明るくなりかける頃、6隻の空母は一斉に風上に進路を向けて速力を上げ、第一次攻撃隊183機が各艦から次々と飛び立ちました。攻撃隊は艦隊の上空を旋回しながら集合し、隊形を整えて真珠湾へ向かいました。
 ホノルルのラジオ放送には変化はなく、アメリカ軍は全く気づいていません。2時45分、第二次攻撃隊167機が発進しました。

 3時22分(日本時間)、機動部隊指揮官宛電文「トラ・トラ・トラ」(奇襲成功)が発信されました。

 ブレーク・クラーク著「真珠湾」昭和18年4月翻訳出版(GHQ焚書図書開封より)
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 ふいに、ヤマトという日本人が駆け込んできた。
「飛行機が、えらく沢山やってきましたよ!」
と彼は大きな声で叫んだ。
「早く来て御覧なさい!さあ、早く来て!」
その日本人が走っていった裏口の方へ、私たちも走った。飛行機の大編隊が、青空高く、飛んでいた。真珠湾の上空に、高射砲の黒煙が、点々と重苦しく引っかかっていた。
「おお、やっとる、やっとる!」
とフリーア氏が感嘆詞を発した。
「防空演習大いに結構、なにしろ常日頃の用意が肝心じゃて」
 ところで、私どもの隣人に、クレーアと呼ぶ婦人がいる。かつてプナフ学校で老若男女のために教鞭をとっていたことのある人だが、この時、クレーアさんが、とつぜん部屋を突っ切って走りこんできた。
「空襲よ!空襲よ!日本の飛行機がオアフ島を爆撃しているんです!」

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 ブレーク・クラーク著「真珠湾」は戦時中に日本で翻訳出版されています。少し驚きです。著者は綿密に取材したと思われ、民間の様子のほか軍基地の様子も書かれています。
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 (カネオエ海軍航空基地の司令官が朝食のコーヒーを息子と飲んでいるとき)
 ふと司令官は、クーラウ山の方向に、爆音を聞いた。窓から外をのぞくと、三機編隊の飛行機が三群、海軍飛行基地のある湾の入り口へ向かって、低く、まっしぐらに入って行くのが見えた。
「なんという馬鹿者だ。基地へまっすぐ入ってきてはいかんと、あれほど厳重に警告しておいたのに-」
 と司令官は、びっくりして、飛び上がりながら叫んだ。
 すると十五歳になる息子が、ふいに、こんなことを言った。
「お父さん、あの飛行機には、日の丸の標識がついているよ」
 その息子の言葉を聞くか聞かぬかに、はじめて事の真相をさとった司令官は、あわてふためき、ただちに自動車を駆って司令部へと急行した。

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 この著者は日本の高高度からの爆撃など日本の掃射と爆撃の様子を主観を加えず淡々と記載しています。また米軍の対空砲火の様子も細かく書いています。艦が爆撃された様子も乗組員から取材したと思われる記載を残しています。アリゾナ轟沈の様子も書いています。日本軍は市街地は攻撃していません。

 そしてこの著者は意外なことを述べ、そしてやはり「だまし討ち」と言っています。
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 真珠湾に対する日本軍の大胆不敵なる攻撃は、まさしく世界的な意義を有するものである。まず第一に、それは、枢軸国の実力について、われわれに新しい概念を与えてくれた。われわれは、日本人は独創力と想像力に欠けている - わずかに能力がありとすれば、それは単に模倣性にしかすぎぬといったような根も葉もない話ばかり、今までに聞かされてきた。
 もしそれが真実であるとするならば、日本海軍の軍艦は、荒天に乗り出すや否や、直ちに一隻残らず転覆していなければならぬはずである。
 いまや、われわれは、かかる楽観主義的な見解を一擲(いってき)しなければならぬことを学んだのである。かつて、いかなる国家に与えられたこともないような、攻撃作戦を計画し実行した日本海軍軍令部を、いかにわれわれが憎むにしても、われわれは、このお返しを、そっくりそのまま、かれらに返上してやらなければならぬ。日本軍のこのだまし討ちは、平和な国家に対するヒトラーの電撃作戦をすらも、しりへに瞠若(どうじゃく)たらしめるものである。ヒットラーと同様、緒戦の一撃だけは、確かに彼等も成功した。もし、その論理性さえ問題にしないならば、日本軍の攻撃ぶりの想像を絶した勇敢さだけは - 敢えて称賛するとは言わざるまでも - われわれといえども認めざるを得ない。わずか○時間と○○分という短時間の間に、日本海軍と其の航空部隊は、一挙に不可能を可能としたのである。

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 「だまし討ち」という宣伝は効いているようです。しかし、「日本は物まねザルという認識を改めなければならない、不可能を可能にしたことは認めざるを得ない」といっています。当時、アメリカ人は日本人は猿に毛が生えたようなものという認識で、
「日本の飛行機を操縦しているのはドイツ人」「日本人には飛行機は作れない」とか言われていたのです。軍事評論家でさえ「日本人は首が座る前から負ぶわれ揺すられるから、バランスを司る内耳に異常をきたし、急降下飛行ができない」「近眼で鳥目だから夜間飛行はできない」と言っていたのです。アメリカ人の認識を変えたのがこの真珠湾攻撃でした。有色人種に対する偏見や差別というのは先人の血と汗によって解消されてきた歴史があるのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 新人物ブックス「真珠湾奇襲攻撃70年目の真実」市來俊男(著)
 ワック出版「歴史通」2009.10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之

添付画像
 炎上する真珠湾の米艦隊(PD)

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真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)
http://www.youtube.com/watch?v=MbV5WMO1vYc

真珠湾攻撃前夜

真珠湾攻撃から70年。

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 昭和16年(1941年)11月26日、戦争回避のための8ヶ月にわたる日米交渉の末、アメリカより「ハル・ノート」が突きつけられました。これは事実上の最後通告であり、開戦が決定づけられました。22日には日本側は「ハル・ノート」の内容を暗号解読によって掴んでおり、25日、連合艦隊機動部隊はヒトカップ湾を出撃し、真珠湾へ向かいました。

 この年の1月24日の時点ですでに米海軍長官のノックスは陸軍長官のスティムソンに「日米開戦は必至」と伝えており、
「そのとき日本側は必ず真珠湾を攻撃してくる」「それは夜明けの奇襲となるであろうから警戒措置をとるように」と手紙を出しています。

 11月27日(米時間)スターク海軍作戦部長は大統領の戦争警告を海軍の全指揮系統に流します。(インガソル次長が最初に流す)ハワイでも電報を受け取ります。

「陸軍は次の電報を西部防衛司令官に送った。『日本との交渉は合意に達することなく中断した模様で、日本政府が交渉の継続を提案している可能性はわずかとなった。日本の今後の動きは予測不可能だが、いつ何時武力行使に出るかもしれない。戦闘行動を避けることが出来ない。くり返す。
できないのであれば、米国は日本が最初に明白な行為をとることを希望する。この政策は貴隊の防衛力を危険に陥れるかもしれない行動方針をとるよう制限していると解釈されるべきではない。くり返す。解釈されるべきではない。日本の武力行使に先立って貴官が必要と思う偵察及びその他の手段をとるよう貴官は指示されているが、しかしこれらの手段は市民に警戒心を与えたり、もしくは意図を明かさないよう。くり返す。警戒心を与えたり、もしくは意図を明かさないよう実施されるべきである。』・・・」

 ハワイでは既に11月19日に無線傍受により日本の艦隊が北方にいるのをキャッチしており、日本軍が北からやってくることを想定していました。太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は23日から24日には演習を行い、日本機動部隊を捜索しています。しかし、作戦部のインガソル次長が
「日本を挑発するな」と指示があり、演習を中止しています。この後、キンメル大将は日本の機動部隊を捜索するようハワイ無線監視局HYPOに指示しています。

 陸軍ではショート大将が「市民に警戒させない」命令を考慮し、レーダ監視を強化し、日曜日も絶えず監視することを指示し、日本軍来襲に備えます

 11月28日、ハルゼー中将は空母エンタープライズでウェーク島へ航空機を運びます。12月5日は空母レキシントンでミッドウェー島へ航空機を運搬します。キンメル大将は48時間以内に戦争が勃発した場合を想定して作戦参謀のマックモリス大佐に艦隊の秘密行動計画を作成させ、週末を迎えることになります。アメリカ太平洋艦隊無線傍受通信解析主任ホーマー・キスナーは日本海軍が戦時体制に入ったことを警告する報告書を作成しましたが、週末のため、キンメル大将には届きませんでした。

 12月5日、シカゴ・デイリー・トリビューン紙がルーズベルト大統領の戦争計画を暴露し、大統領を
「ウォー・モンガー(戦争屋)」と罵りました。ルーズベルト大統領一派は青くなりました。しかし、日本政府はこの情報を利用することなく、日本連合艦隊機動部隊はアメリカ軍が待ち受ける真珠湾へ吸い込まれ、ルーズベルト大統領の危機を救ったのです。



参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)/妹尾作太男(監訳)/荒井稔・丸田知美(共訳)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史 戦後篇」若狭和朋(著)

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 出撃する日本連合艦隊機動部隊(PD)

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真珠湾-12月8日を記憶せよ http://www.youtube.com/watch?v=xKj08mdnySs

アメリカの乱暴狼藉、日本の弱腰外交の果て

弱腰外交の果てが日米戦争だった。

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 思想家、大川周明が昭和16年(1941年)12月に行ったラジオ演説「米英東亜侵略史」は若干の修正を加え、出版され、ベストセラーになりました。その中で一歩も譲歩しないアメリカの対日外交を「乱暴狼藉」と批判し、ロンドン軍縮会議をはじめとする日本の弱腰外交を問題視し、つづいてアメリカ・カリフォルニア州の排日問題についても述べています。

「加州(カリフォルニア)における排日問題の時でも、大統領ルーズベルト(セオドア・ルーズベルト)は、日本人はかくの如き侮辱を甘受する国民ではないと信じていたので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦いえるよう準備せよという命令を発し、しかも万一日米戦争になればフィリピンは日本のものとなるであろうと甚だ憂鬱であったのであります。そして心配に堪えかね、フィリピン派遣という名目で陸軍長官タフトを東京によこしたのでありますが、タフトは東京から『日本政府は戦争回避のために最も苦心を払いつつあり』と打電して、ルーズベルトの愁眉(しゅうび)を開かせております」

 カリフォルニアの日本人移民迫害はひどいもので、エスカレートしていった結果、1924年移民法では「合衆国市民となることを得ざる外国人は・・・合衆国に入国することを得ず」と規定し、大審院により「帰化不能国民」と判決された日本人は、各国に割り当てられた移民割り当ての対象外とされました。実質、日本人をターゲットにした法律でした。この法律が「排日移民法」といわれる所以です。東京の新聞社15社は「排日移民法」の不正不義を断じ、全国各地で排米国民大会が開かれ、日本の世論は沸騰したのです。昭和天皇は「黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである」と大東亜戦争の遠因として回想しているほどで、日本政府は侮辱を受けても弱腰だったのです。

 日露戦争以降の数々のアメリカの横暴に対して日本政府は弱腰をずっと続け国民は怒り続けたわけです。支那事変が勃発し、アメリカは支那を支援し、日本への嫌がらせをどんどんエスカレートさせ、日米交渉をぶち壊してハル・ノートを突きつけるに至ります。既にこの時点で国民感情としては日米開戦に傾倒していました。詩人の高村光太郎氏が日米開戦のときに次のような詩を作っています。


 黒舟以来の総決算の時が来た。民族の育ちがそれを可能にした。

 長い間 こづきまはされながら、なめられながら、しぼられながら、

 仮装舞踏会まで敢えてしながら、彼等に学び得る限りを学び、

 彼らの力を隅から隅まで測量し、彼らのえげつなさを満喫したのだ。

 いまこそ、古しへにかへり 源にさかのぼり 一瀉(いっしゃ)千里の 奔流となり得る時が来た。



 大川周明は「米英東亜侵略史」の「米国東亜侵略史」の項の次のように締めくくりました。
「弘安四年、蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲(ようちょう こらしめること)を決意し、緒戦において開戦史上振古(しんこ おおむかしのこと)未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条、東より来たれば東條、天意か偶然か、めでたきまわりあわせと存じます・・・国家の根本動向に向かって進ませていくこの偉大なる力は、私の魂に深き敬虔(けいけん)の念を呼び起こします。私はこの偉大なる力を畏れ敬いまするがゆえに、聖戦必勝を信じて疑わぬものであります」



参考文献:
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 小学館文庫「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
参考サイト:
 Wikipedia「高村光太郎」
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 真珠湾へ向け出撃する機動部隊(PD)

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国民が怒った弱腰外交「ロンドン軍縮会議」

日本国民が怒った「弱腰外交」

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 昭和5年(1930年)、ロンドン軍縮会議が行われました。前のワシントン軍縮会議に続いて今度は巡洋艦以下の補助艦艇についても制限が設けられ、日本は譲歩させられます。よくここで、「統帥権」が持ち出され、怒った軍部が暴走していったかのように言われますがそうでしょうか。

 アメリカ代表スティムソンは日本を褒めちぎり、こう言っています。

「日本は本国に於いて海軍拡張論者の猛烈な運動あり、海軍当局は国民の支持後援を得ていた。それ故に私は日本代表はロンドン会議に於いて非常に困難なる仕事を成し遂げたと断言する。我々は日本が勇敢にもその敵手(米国のこと)が自国(日本のこと)を凌駕するまでのその手を縛るが如き条約を承認せることに対し、その代表及び政府に最大の敬意を払いつつ、会議から引き上げてきた。我々は故意に潜水艦を日本と同等にした。之は潜水艦の総トン数を縮小すれば、それだけ我国に有利に導くからである。しかして日本は一万六千トンの縮小に同意した」

 この条約は日本を縛っておき、その間にアメリカが太平洋の覇権を握るための条約だったと言っています。日本海軍には条約賛成、反対派がいましたが日本国民の支持を集めていたのは反対派(拡張論)と言っています。そして、交渉した政府は辛かっただろうといっています。つまり国民の支持をよそに日本は「弱腰外交」をやっているということを言っており、スティムソンは同情しているのです。

 こういうことでは軍部よりも日本国民のほうが怒ります。第一次世界大戦、シベリア出兵、ワシントン会議、そしてロンドン会議と米国の横暴に対して弱腰外交を続けてきたのです。この頃、思想家の大川周明氏は以下のように機関紙に投稿して述べています。


「ロンドン会議は、もしそれが単独に海軍協定のためのものであるならば多少の譲歩はこれを忍び難しとせぬ。ただそれ四半世紀にわたる米国東洋政策遂行の歴史を観る時、すでにワシントンにおいて譲り、いままたロンドンにおいて譲るならば、やがていっそう大なる譲歩を強要せらるべきこと、火をみるよりもあきらかである」


「繰り返して述べたる如く、米国の志すところは、いかなる手段を以ってしても太平洋の覇権を握り、絶対的優越せる地歩を東亜に確立するにある。そのため日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、然るに後にシナ満蒙より日本を駆逐せんとするのである。日本をしても若し適当なる時期において、かの如き野心の遂げらるべくもなきことを米国に反省せしむるにあらずば、米国の我国に対する傍若無人は、年と共に激甚を加え来たり、遂に我国をしてアメリカの属国と成り果てるか、しからずば国運を賭して戦わねばならぬ破目に陥らしむるであろう。ロンドン会議は日本の覚悟を知らしむる絶好の機会なりしに拘らず、ついに之を逸し去った」

 ズバリ言い当てていますね。弱腰外交を続けていくとそのうち属国になるか戦争するかに迫られますよ、と。ロンドン会議で日本は毅然とした態度をとり、野心を持つアメリカを反省させる絶好の機会であったのに逃してしまった、と述べています。そして実際、日本は弱腰外交を続けて行った結果、最後に「ハル・ノート」が来て日本は追い詰められ、属国になるのを拒否し、戦争になったわけです。「ハル・ノート」をのんでいれば、「弱腰継続」であり、さらに譲歩を強要されていたでしょう。結果、同様に戦争になったはずです。

 軍部が「統帥権」を持ち出して暴走して戦争になった、というようなGHQ製偏向歴史観を持っていたのでは何も見えてきません。「弱腰外交」に国民は怒っていたのであり、それを続けていった結果、追い詰められてしまったのです。こうしてまっすぐ歴史を見ると学ぶものがあり、現代に生かせるものがあると気づくはずです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 小学館文庫「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優(著)
参考サイト
 Wikipedia「ロンドン海軍軍縮会議」「大川周明」
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 夕霧 (吹雪型駆逐艦)
 ロンドン条約の結果、新造艦艇を条約の制限内に納めるための無理な設計を行い、日米では重心があがったトップヘビー構造の艦が建造され、日本では友鶴事件・第四艦隊事件を引き起こす原因となった。夕霧は第四艦隊事件で昭和10年、艦橋付近で艦体が切断される。

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