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2012年1月

すばらしかった日本の教育 ~ 台湾

教師が教育に情熱を傾けていた。

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 台湾は日清戦争後の明治28年(1895年)の下関条約によって日本領土となりました。植民地ではなく、内地延長型として統治されました。したがって、教育についても近代的国民教育の導入が行われました。それまで台湾は「書房」と呼ばれる庶民階級の子弟教育の場がありましたが、内容は明治維新前の寺子屋レベルにとどまり、設備も貧弱なものでした。日本統治になると「公学校令」が公布され最初に55校が作られ、中等教育、高等教育の学校が作られていき、台北帝国大学が設立されました。昭和18年(1943年)には義務教育制度が敷かれています。

 台湾の日本統治時代を知る人の著書にはいずれも日本教育のすばらしさを書いています。これは制度だけでなく、教師の教育にかける情熱、教育の質の高さを称賛しています。
 台湾で行われた科目を拾ってみますと算数、理科、会話、音楽、体育、国語、地理、歴史、薙刀、裁縫。台湾中部の人口2,3万程度の町の清水公学校では昭和10年(1935年)には校内有線放送学習という授業科目が用意され各教室にはスピーカーが備え付けられ、校長室から様々な童謡、詩吟、筑前琵琶、薩摩琵琶、浪速節、ラジオドラマ、神話、日本の歴史などの教育プログラムが放送され、耳で学習することもできるようになっていたというから驚きます。ニュースの聞き取りといのもあり、聞き取り能力や時事の理解力も育成しています。台湾の子供たちの作文を子供たち自らラジオを通じて日本全国に放送したこともあったようです。そして、修身を通して「正直」「勤勉」「責任」「勇気」を教えるという教育があり、これが戦後、「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉につながっていったのでしょう。

 教育勅語も称賛されています。現在でも私立学校で教育勅語の精神を取り入れているところもあるそうです。

<日本人はとても素敵だった>楊 素秋著より教育勅語について
「これは本当にすばらしい教えです。人の歩むべき道が全部その中に入っています。まず、国を大切にしなさいと。親に孝行しなさいというのは修身の時間でも昔から教えられていました。親孝行をし、勉学に励んだから、昔の偉人は立派な人になったのだ、と。「教育勅語」を今の子供達の教えたら、曲がった精神の持ち主も、少し真っ直ぐになるのではないかと思います。この中に含まれている奥深い意義は何一つとして悪いことは無いからです。本当によいお手本、これほどのすばらしい教えはありません。私はバイブルより素晴らしいと思っています。
(中略)
 それなのに、もともとは日本から来たこのすばらしい教本を、日本人の皆さんが蔑ろにしているのはおかしな話です。台湾にいる私たちがそういうのは、皮肉な話ですね。
 日本人は、教育勅語の意味を一句一句細かく砕いて伝えるべきです。もっとも、それには日教組が反対するでしょうが、そんな日教組を置く必要があるのか疑ってしまいます。是非、再考していただきたいと思います」


 教育勅語は軍国の象徴のようなことをいう風潮がありますが、実際読むと
「何で?おかしなこと書いている?」と思うでしょう。私は家族崩壊や学級崩壊、少年の非行などは子供の頃から教育勅語をしっかり教えれば激減すると思っています。私の子供の机には教育勅語を貼り出しています。母子喧嘩、兄弟喧嘩があるたび、「教育勅語を読め」と叱っています。



参考文献
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)

添付画像
 蕃童教育所 原住民児童への教育機関(PD)

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戦前、天皇は神だったのか

神とGODの混同。

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 戦前は天皇は神とされ、みんな騙され、洗脳され、狂わされて戦争へ向かっていった・・・これが私が受けてきた教育です。でもよく考えると、戦前の日本人の教養ってそんな程度?文明人じゃなかったの?というレベルの話で、私の祖父母ってそんなバカだったのか?と考えるとそれはなさそうです。
 祖父母から天皇は神だったと聞いたこともありませんし、祖父の記録にもそんなことは書いていません。祖父の記録に昭和天皇の皇太子時代の松山行幸が書かれており、天皇陛下が宿泊された久松別邸に見学に行き、使ったとされるトイレが水洗トイレだったので驚いた話しを書いています。神が大小便なんかしません。

 小林よしのり著「天皇論」を読みますと取材によって年配者であればあるほど神と言わなくなるそうです。沖縄でも皇民化されたといいながら70歳以上の人は天皇は神そのものだと思っていたという人はいないとのことです。ではどういう人が神だと思わされていたかというと、「小国民世代」だと氏は述べています。「小国民」とは昭和16年(1941年)に小学校を国民学校に改称したのと同時に「学童」を改称した名称です。つまり大東亜戦争時に国民学校に行っていた世代です。

 田原総一郎、筑紫哲也、本多勝一、大島渚、井上ひさし、野坂昭如、半藤一利、石原慎太郎、西尾幹二

 天皇を神と仰ぎ奉る記述は昭和14年(1939年)からの6年余で小国民は天皇は神と教えられ、戦後の価値観の変化で国家や天皇というものに懐疑的になったと氏は分析し、石原慎太郎や西尾幹二は珍しいほうと述べています。先日母(昭和15年生)に聞くと、
「天皇陛下が本当に神なんてそんなこと信じていたわけないでしょ」と言っていました。父(昭和10年生まれ小国民)に直接聞いていませんが、「同じよ」と母は言っていました。小国民の中の一部のインテリ系が神と信じたのかもしれません。

 小林氏の論によると天皇陛下が神格化されたのは共産イデオロギーへの対抗から日本イデオロギーが発生し、昭和10年(1935年)の天皇機関説をあげています。政府は天皇機関説を否定しました。そして支那事変に入ると天皇の神格化が強化されていきます。ようするに「苦しいときの神頼み」ということと「旗印」ということで、例えば米国が戦争のとき、
「民主主義とキリスト教の名のもとに」とするのと同じものと述べています。ちなみに昭和天皇は機関説論争のとき「機関説でいいじゃないか」(岡田啓介回想録)と述べており、戦後の回想でも「私を神だというから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことを言われては迷惑だと言ったことがある」(昭和天皇独白録)と述べています。

 大方の人は「天皇は神」というのは松下幸之助が経営の神様、手塚オサムがマンガの神様というのと同程度の「徳の高い人」として捉えていたのに対し、小国民世代は神秘的な神様として捉え、外国ではGOD(全能の神)として誤って捉えたようです。昭和21年(1946年)の「新日本建設に関する勅書」にGHQは天皇神格化を否定するような一文を入れますが、昭和天皇は自分は神だと思っていないし、小国民以外の日本人は神(GOD)だと思っていませんから何のことはなかったわけです。国内で騒ぎになった様子はありません。外国では取り上げられたようです。「人間宣言」というのは日本を賤しめたい歴史家が勝手にネーミングしたもののようです。戦前の人が軍に騙され、狂わされたのではなく、戦後の我々が学校教育や知識人、メディアに騙されて教えられてきたようです。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)

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 皇居(JJ太郎撮影 PD)

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明石元二郎と台湾

台湾の地に眠る明石元二郎。

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 明石元二郎(あかし もとじろう)1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)は日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名です。ドイツ皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた」と称賛したといいます。

 明石は大正7年(1918年)から第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです。
 明石は急死するまで一年余の総督でしたが、大正8年(1919年)に「台湾教育令」を発令します。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ多くの学校が開校されていきます。8代総督・田健二郎になってからの大正10年(1921年)には日本人と台湾人の共学が可能になります。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元総統は京都帝国大学出身です。昭和3年(1928年)には台北帝国大学が設立されます。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話ですが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありません。

 明石元二郎は大正8年(1919年)7月、原因不明の発熱で倒れ、一時回復するも内地で開かれる陸軍大演習の視察のために帰国しますが、帰国途中に容態が悪化し、郷里の福岡で帰らぬ人となりました。明石は生前より
「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」と遺していました。つまり、台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着いていたということです。台湾総督の仕事に命をかけていたのです。
 そして明石元二郎の遺骸は台湾の日本人墓地に埋葬されることになりましたが、明石総督を尊敬してやまない台湾人から多額の寄付金が寄せられ
「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど立派な墓が建てられました。

 その後、大東亜戦争後の国共内戦に敗れて台湾にやってきた国民党の兵士や難民が日本人墓地にバラックを建てて住みはじめましたが、平成6年(1994年)になって陳水扁台北市長(後、総統)は彼らを立ち退きさせます。平成9年(1997年)に明石総督の墓は掘り起こされることになり、明石総督の遺族らが見守る中で発掘されました。墓の移転先は多くの台湾人が名乗りをあげ、その中には高砂族の方もいらっしゃいました。多くの意見が寄せられ交流協会(日本大使館のようなもの)の後藤大使は頭を抱えてしまいますが、台湾北部の三芝郷というキリスト教墓地に決まりました。

 明石総督のお墓があった元の場所は整備され、三ヶ国語で書かれた碑文が建てられ明石元二郎の統治があったことを紹介しています。

 「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」



参考文献
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
 WikiPedia「明石元二郎」
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 明石元二郎(PD)

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朝鮮の差別社会と中朝国境の朝鮮族

朝鮮人社会は差別の社会。

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 明治43年(1910年)の日韓併合前の朝鮮は国王を権力の頂点として、王族、両班、中人、常民、賤民の順の階級差別社会であり、賤民は更に奴婢、俳優、医者、巫女、白丁などに分かれていました。両班がいわゆる貴族のようなもので、国王の名をかりて暴政をしいていました。常民はいわゆる平民ですが、租税、労役、兵役、貢物の義務を負い、職業選択の自由はありませんでした。
 差別は階級だけでなく地域差別もあり、流刑の地であった東北、西北地方は差別されており、両班はその地方の民との婚姻の禁止はもちろん付き合うことさえ避けていました。ですので現在の南北分断は有史以来抱えている差別が解決されているという見方もあるようです。
 
 朝鮮民族は現在の北朝鮮と韓国に存在するだけでなく、旧満州にも多く存在しており、中華人民共和国の少数民族となっています。吉林省の東部の延辺(えんぺん)には朝鮮族の自治州という区域もあり、総人口の40%、80万人近くの朝鮮人が居ます。ここには北朝鮮の脱北者も多くいると言われています。
 ここの朝鮮族はやけに親日と言われています。日本語教育が盛んで日本人が旅行しても不自由なく、極めて旅行しやすいというのです。

 時事問題、国際問題を漫画で描いていく製作集団「曙機関」のレポートによると現地の大学の老教授は
「国民党のやり方に比べれば満州国時代の日本の統治ははるかにマシだった」「共産党の政治は国民党よりも腐りきっている」と語ったといいます。
 8月15日は敬老の日で人民公園に集まることを「サンポ」と呼び、持参する料理は「ベントウ」と呼んでいるそうです。日本人だとわかると日本の歌を歌ってくれと言われ、曙機関の人が流行歌を知らなかったため軍歌を歌いました。

「勝ってくるぞと勇ましくー」

すると周りにいた老人たちの表情に衝撃が走り、みんないっせいに
「誓って国をでたからわー」と大合唱になり、続いて「露営の歌」「歩兵の本領」「愛国行進曲」と次々に歌うと老人たちがどんどん集まり、公園の一角は日本軍歌の大合唱になったといいます。前出の老教授によると「彼らにとって、正規の音楽教育を受けたのは、おそらく日本の統治時代だけのことだったのでしょう。それだけに、子供の頃の楽しい思い出だったのでしょうね」とのことでした。

 1992年中韓国交樹立以来、この地に韓国人の投資家やビジネスマンが現われるようになります。同じ民族だからです。しかし地域差別意識の強い韓国人は中共朝鮮族を差別していました。地元の方言をあざ笑い、工場の労働者が怠けていると殴ったそうです。中共朝鮮族は韓国に出稼ぎに行きますが、賃金の不払いなどは当たり前、狭い寮に押し込められてパスポートまで取り上げられる生活で少しでも不満を漏らせば殴るけるの乱暴を受けることもあったといいます。これらのことは延辺のニュースでも度々取り上げられ、中共朝鮮族は憤慨しました。

「韓国の奴等め、口を開けば『経済力がある、経済力がある』って自慢するが、日本ほど経済力がある訳でもないじゃないか。それをなんだってあんな偉そうに!!」

と自然に日本社会への郷愁が高まったといいます。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『中朝国境・朝鮮族の地を歩く』曙機関
参考サイト
 WikiPedia「李氏朝鮮」「延辺朝鮮族自治州」
 中国朝鮮族の対日観(曙機関) http://akebono.iza.ne.jp/blog/entry/979704/
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 建設中の水豊ダム 鴨緑江(国境)にあるダム(PD)

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台湾近代化の父「後藤新平」

人を残して死ぬ者は上だ。

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 明治27年(1984年)~明治28年(1985年)の日清戦争の講和である下関条約締結時、清国の全権・李鴻章(り こうしょう)は伊藤博文首相に「台湾には四害あり、統治は不可能だ」として、日本に台湾割譲を諦めさせようとしました。この「四害」とはすなわち、アヘン、土匪、生蕃(原住民)、そして瘴癘(しょうれい 風土病のこと)です。

 明治7年(1874年)に日本は台湾出兵を行っていますが、日本軍3600人のうち、2800人が「台湾熱」マラリアにかかり525人が死亡しています。下関条約後の明治28年(1895年)の台湾平定でも4000人を超える病死者を出しています。台湾ではペスト、コレラ、赤痢、発疹、チフス、腸チフス、ジフテリアなど伝染病が何でもそろっており、特にマラリアは大問題でした。漢人移民の生存率は30%ほどであり平均寿命が30歳前後でした。台湾統治にまずやらなければならないのが、衛生事業でした。

 明治31年(1898年)3月、陸軍次官・児玉源太郎が第4代台湾総督として着任し、総督の右腕として民政長官に赴任したのが医学博士の後藤新平でした。後藤新平は大規模な人口調査を実施した上で道路、鉄道、水道、湾港などのインフラ整備のほか、衛生環境と医療の大改善を行います。台湾の上下水道はこのころ整備されあらゆる伝染病が消えていくことになります。内地から100人を超える医師を連れてきて全島各地に配置し、近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、病院、予防消毒事業団の設立など次々と衛生改善策を講じました。

 後藤新平は「生物学の原理」に従って台湾統治を行うべきと主張し、有名な言葉に
「ヒラメの目を鯛の目に付け替えることはできない」というのがあります。アヘン中毒者に対してはすぐアヘンをやめさせるのではなく、アヘンを専売制にして中毒、常習者にだけ少しずつ減らして販売していく方法をとりました。明治33年(1900年)に16万人だったアヘン吸引者は昭和10年(1935年)ごろには1万6千になり、昭和14年(1939年)には5千人を割るとの成果となっています。強行に禁止していたら暴動が起こっていただろうといわれています。

 こうして風土病による死者は激減し、明治38年(1905年)の年間死亡者数は1000人あたり341人だったのが、大正元年(1912年)には25.3人となり、昭和元年(1925年)には20人以下になっています。

 このように後藤新平は偉大な功績を残し、台湾では語り継がれていますが、平成11年(1999年)に行われた後藤新平と新渡戸稲造の業績を讃える国際シンポジウムで日本側代表は
「日本による戦前の台湾統治で日本は良いこともしたが、悪いこともしたであろう。そのことについて謝罪したい。我々はただお詫びするしかありません」などと的外れなことを言っています。これを聴いた台湾人から「日本が台湾に謝罪する必要はない」「日本人よ胸を張りなさい!」と激がとんだのは言うまでもありません。


後藤新平最期の言葉
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」




参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「後藤新平」
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 後藤 新平(PD)

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朝鮮の労働蔑視社会を変えた日本

日本統治がもたらした勤勉さ。

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 14世紀末から20世紀初まで続いた李朝時代の朝鮮は両班(ヤンバンあるいはリャンバン)と言われる貴族階級があり、儒教が説く成人君主たる条件である
「働かず身を動かさない」という教えを守り、極端に労働蔑視していました。

グレゴリー・ヘンダンーソン 『朝鮮の政治社会』
「国家と民衆を食い物にして私腹を肥やすことしか考えていなかった」

イザベラ・ルーシー・ビショップ(英作家)
「両班はキセルですら自分で持たず、徹底して何もしないのが慣わしだった」

 高宗(李氏朝鮮王朝の第26代君主)が米公使館を訪れたとき、公使館員が庭でテニスをしているのを見て
、「あのようなことをどうして奴婢(ノビと言われる賤民)にやらせないのか」と言ったといいます。運動まで蔑視していたのです。

 明治37年(1904年)からの日露戦争で朝鮮半島の民衆は日本軍に協力しており、その中には両班も居ましたが、従軍した兵士によると
「両班は生意気で、怠け者ばかり。なんべんか両班のやつをくらした(殴った)ことがある。働かんからだ。日本の村にあげなもんはおらん。威張ったゴミたい」(博多弁です)と述べています。「労働」に対する考え方が異なるのですから日本人にとっては驚きだったでしょう。ちなみに日本人は「労働は美徳である」と神話から来る伝統で考えており、西洋人は労働は「神が与えた罰」とキリスト教の教えで考えています。

 この労働蔑視の考え方を変えたのが明治43年(1910年)からの日本統治でした。日本は半島に朝鮮総督府を設置し、両班の問題および農民自身にも積極的な労働意欲が無いことに着目し「勤労愛好、自主自立、報恩感謝」のスローガンを掲げ、農民を覚醒させ「自ら開き、自ら律し、自ら治め、自ら励み、自ら働く」という「独立自尊」の精神に基づいて農業を展開していきます。
 宇垣総督は農民生活の実態を把握するため地方巡視の際には村落に入り、自ら更生計画農家を視察しています。また郡守や村長の説明を聞き、農民を訪ね激励しています。農村振興のため、中堅人物、中堅青年の育成、婦人講習会、ハングル講習会、家計簿の普及などの指導が行われます。善意と愛情に満ちた農村振興運動は官民各層の共鳴を呼びました。
 朝鮮農民たちに日本式の集約的、多角的な農業経営、改良農法、新農法、品種改良をみせ、日本農民が老若男女の差無く家族ぐるみで農事に従事し、厳冬の室内作業やその他の副業に励む堅実さ、計画性を見せて朝鮮農民に新風を吹き込んでいきます。こうして朝鮮農民に大きな変化をもたらし、総督府のインフラ整備とあいまって生産性が向上し、近代市民社会へ向かったのです。

 現在、韓国では日帝によって文化が破壊されたとしてしています。たしかに「労働蔑視」という大切な韓国の儒教文化を日本が破壊し、「勤労の精神」に変えたわけです。しかし、それは韓国人の生存のために必要な条件であり、朝鮮戦争後の復興にも、その後の先進国化にも「勤労の精神」は役だってきたのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
参考サイト
 WikiPedia「両班」「高宗 (朝鮮王)」
添付画像
 大邱市街 国書刊行会「望郷 朝鮮」より(PD)

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黄禍論を吹き飛ばした「金子堅太郎」

アメリカ世論を味方にした金子堅太郎。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争当時は黄禍論(おうかろん/こうかろん)と呼ばれる主に日本人並びに支那人を蔑視する思想がありました。こういった国際情勢でロシアと戦うのは不利であり、これを打破する任を負ったのが金子堅太郎(かねこ けんたろう)です。

 金子はハーバード大学に留学した経験があり、その同窓にアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルトがいました。金子はボストンの上流階級WASPと呼ばれるイギリス系白人プロテスタント社会で人脈を築きあげた実績がありました。そこで金子にアメリカの世論を親日に変えさせる任が下りたのです。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると伊藤博文からその任を言い渡された金子は
「ロシア相手に戦うなどとても無理です。そういう役目は御免こうむりたい」といったん断っています。伊藤が「万一の場合、自分も銃をとって一兵として戦うつもりだが、君もその気になってくれぬか」と言われ引き受けています。

 日本は当時も今と変わらず宣伝下手で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」では外国観戦武官や記者に対して秘密主義をとったため、
「われわれは豚のように扱われた」と憤慨した観戦武官がおり、遼陽会戦で「日本軍は負けている」と思われ「日本軍は遼陽において勝ったのではない。ロシア軍の作戦に乗っかってしまっただけだ。ロシア軍は堂々と撤退した」という内容の記事が世界にばら撒かれてしまったことが書かれています。これによって日本の戦費にあてる公債の応募が激減してしまったのです。

 その一方、金子は主要なマスメディアの本社があるニューヨークを活動拠点に選びます。ここでマスコミを味方に付けようと考えたのです。あるパーティのスピーチで金子は日露戦争の目的を以下のように語ります。

「日本はペリー提督によって開国の道を歩み始めて以来、アメリカにはさまざまなことを教えていただきました。その恩を忘れることなく、アメリカが教えてくれたすばらしい文化を今度は支那や韓国へ紹介するのが私たちにほんの役割だと思っています。
 ところが残念なことに、その使命を果たそうとしただけなのにヨーロッパ最強国と敵対することになってしまいました。日本がロシアと戦うのは領土拡大の野心があるからではなく、アメリカに教えられた文化をアジアのほかの地域にも広めたいと願っているからです」


 アメリカは支那大陸への門戸開放を狙っていましたから、日本に野心はない、アメリカをよいしょして同調するスピーチをしています。また金子は旅順港で戦死したロシアのマカロフ提督へ追悼の言葉を述べており、これもアメリカ人の心を揺さぶりました。翌日の新聞で金子を絶賛する記事が掲載されたといいます。金子は母校ハーバード大学でも日本の正当性を詳細なデータを用いて熱弁します。こうしてアメリカの黄禍論からおこる反日感情を抑制し、徐々にアメリカ世論は日本に同情的になっていきました。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「黄禍論」

添付写真
 金子堅太郎(PD)

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20万の兵に匹敵する戦果をあげた明石元二郎

明石元二郎のスパイ大作戦。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において明石元二郎(あかしもとじろう)大佐のスパイ活動は有名です。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、
「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えました。

 明石元二郎は運動神経が鈍かったといいます。また外見に無頓着だったといいます。しかし語学力はずば抜けており、あるパーティで外国人から
「何語なら話せるか?」とフランス語で問いかけられて「フランス語が少し話せる程度です」と答えて、風采の上がらぬ明石を見て安心したのか、その外国人は隣の人間とドイツ語で密談を始め、明石はそしらぬ顔で彼らの会話を聞き貴重な情報を収集したといいます。

 明石元二郎は100万円(現在の40-50億円)の工作資金を持たされ、大国ロシアの不満分子、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどをたきつけて内乱を起させ、ロシアを内部から揺さぶる使命を帯びます。
 日露開戦によってロシアのペテルブルグ日本公使館はひきあげとなり、明石を含む公使館員はスウェーデンのストックホルムへ移動しました。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると、ストックホルム駅に着くと、ホームには多数の紳士や軍人が集まっていました。明石らは
「これは何か?」と怪訝に思っていましたが、自分たちを歓迎する人たちだと知り驚嘆します。スウェーデンにとってロシアの侵略は脅威であり、隣国のフィンランドは既にロシアに占領されていました。スウェーデンの人々は小国日本がロシアに対して開戦した勇気に驚き、讃え、ひそかに支持し、集まってきていたのでした。明石はストックホルムを拠点に活動を開始しました。明石の活動は「坂の上の雲」(六)『大諜報』に詳しく描かれています。

 明治38年(1905年)1月におきた「血の日曜日」(民衆のデモに対して軍が発砲した事件。ロシア革命の幕開けともいわれる)のデモを指揮したゲオロギー・ガポン神父やフィンランドの独立運動活動家のコンニ・シリアスク、さらにはレーニンとも面識があったといいます。(最近はレーニンとは面識がなかったという論が強いようです)
 明石は100万円を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことにより、帝政ロシアの根幹を揺るがします。ロシアが日露戦争継続可能であったにもかかわらず、日本と不本意な講和をせざるを得なかったのは国内の反体制勢力の跳梁が無視できないほどに激しくなったことが大きく関係しており明石の活躍が大きいと評価されています。
 
 明石は100万円すべてを使い切れず27万円を残して帰国し返納しました。使ったお金の受領書や使途の書付はきちんと残しておいたそうです。
 明石は後に第7代台湾総督に就任し、大正8年(1919年)、公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しました。孫にあたる明石元紹は画家で日本李登輝友の会理事を務めています。ちなみにご先祖は関が原、大阪の陣で奮戦した明石掃部頭全登(あかしかもんのすけたけのり)といわれています。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「明石 元二郎」
添付画像
 明石 元二郎(PD)

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皇国民を目指した朝鮮人

朝鮮人が皇国民を目指したのは自然な流れであった。

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 明治43年(1910年)、「韓国併合ニ関スル条約」により日韓合邦が実現します。その後の朝鮮半島は莫大な投資が行われ近代化がすすめられました。餓死寸前だった朝鮮人は救われ、日本国民として日本人と同等の義務と権利が与えられました。

 朝鮮半島では兵役の義務化は行われませんでしたが、昭和13年(1938年)、初の志願兵が募集され志願者2946名中406名が合格します。

 昭和14年(1939年)  12,348名志願   613名合格
 昭和15年(1940年)  84,403名志願 3,060名合格
 昭和16年(1941年) 144,743名志願 3,208名合格
 昭和17年(1942年) 254,273名志願 4,077名合格
 昭和18年(1943年) 303,394名志願 6,300名合格

 凄い競争率です。この中には職を求めて志願した人もいるでしょうが、この頃にはちゃんとした学問が普及してきており、近代的国民意識が朝鮮人にも目覚めており、それには一等国日本国民として名実ともに認めてもらうというという熱烈な意識が芽生えていたのです。

 近代朝鮮文学の父と言われる李 光洙(イ・グァンス 日本名:香山光郎)は
「朝鮮人男子も兵役の義務を終えてから初めて完全な国民になる」とし、納税、教育、兵役の義務が近代国家の国民としての義務であり、選挙と被選挙権の参政権は当然なる権利であると考えていました。兵役は男子国民にとって当たり前だった時代ですから、今のように日本は兵役がないので良かったという感覚とは全く違います。兵役が無いほうが普通の状態ではないのです。そして熱烈な朝鮮人の皇国民意識におされて志願兵制度がスタートしたのです。これには台湾人は羨ましい限りであったようです。ちなみに台湾は昭和17年(1942年)からでこの年は定員1210人に対し42万人が応募しています。翌年1008人の定員に対して60万人が応募しており、たまげますね。

「反響呼ぶ志願兵制度 忽ち(たちまち)志願兵殺到 応接に転手古舞(てんてこまい)の憲兵さん 微笑ましい朗景展開」昭和13年(1938年)1月18日大阪朝日 南鮮版
「志願兵制度に感謝の電報欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の在満同胞」昭和13年(1938年)1月22日大阪朝日 南鮮版
「志願兵制度に内地在住同胞も大感激 各地で我先に志願」昭和13年(1938年)1月24日大阪朝日 南鮮版

 この熱気は男性だけでなく女性からもありました。
「聴け!この愛国の純情 ”私たちも男ならば率先軍人を志願”乙女の胸に映った志願兵制度 大邸女高普の興味ある調査」・・・本当にこれで半島人も国家の義務を持つ一人前になったのです・私も男ならば志願兵になるのにと思いました。(昭和13年(1938年)1月27日大阪朝日 北西鮮版)

 中には不合格になり失望し自殺した人までいました。
 血書を持参する志願者も居ました。
「鮮血『皇民の誓い』一家を代表して志願」昭和13年(1938年)2月9日大阪朝日 南鮮版

 こうした歴史は語られていないか、捻じ曲げられ日本の悪行のように言われていますが、この時代は帝国主義の時代であり、日本は欧米列強の脅威にさらされていました。朝鮮半島と台湾に近代化の息を吹き込み強固な国家を建設しなければなりませんでした。その中で朝鮮人が強烈な国家意識を持ち、名実とも皇国民として認めてもらえるように志願に殺到したのは自然な流れと言えるでしょう。




参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館「SAPIO」2009 9/9 『朝日新聞<南鮮版>の研究』水間政憲
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
 WikiPedia「李光洙」
添付画像
 朝鮮人志願兵による市街演習(日本人として戦った朝鮮兵より http://nandakorea.sakura.ne.jp/frame.html)

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台湾は日本の植民地ではなかった

植民地というご認識を払拭すべき。

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 日本が台湾を統治することになったのは明治28年(1895年)4月17日に締結された下関条約によるものです。
 台湾は1626年、スペインが台北北部および北東部一帯を占領し、植民地にしていました。1642年、オランダがスペインを攻撃し勝利し、今度はオランダの植民地となります。一方、大陸では明国が清国に滅ぼされて、鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン)軍が台湾に逃れてきて、オランダ軍を撃破し、大陸反攻基地として経営を開始しました。
 鄭 成功が死去すると息子の郭経が跡を継ぎますが、1683年、清国に滅ぼされてしまいます。清国は郭王朝を滅ぼすと台湾を一度放棄しますが、オランダの脅威に備えて、消極的支配を行いました。

 消極的支配なので、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐらい悪辣な略奪統治でした。その後、明治7年(1874年)の日本の台湾出兵、明治17年(1884年)のフランス軍上陸があり、清国は台湾の重要性に気がつき、積極的建設政策に転換しましたが、日清戦争によって下関条約が結ばれ、日本の領土となったのです。

 台湾の日本統治が決まると台湾の有力者らは「台湾民主国」を立上げ日本に抵抗します。台北城はは二万の守備。清国兵は5万。日本軍は台湾内の不穏な動きをキャッチし、近衛師団は上陸地点を変更し、陸路で港制圧に向かい、民主国軍と交戦になります。数は劣勢の日本軍ですが、民主国軍は烏合の衆であり、訓練された近衛師団とでは勝負にならず、民主国軍は交戦して敗れると、総統も将軍もさっさと本国へ逃亡してしまいます。そして残された兵士達は台北城内で略奪や放火、婦女暴行を繰り広げることになります。
 早い話「台湾民主国」は支那人が築いた財産を守ろうとしていたというだけで民衆のためのものではなく、民衆は清国兵士たちの暴行を食い止めるべく日本軍へ使者を出し、台北へ手引きします。日本軍は清国兵を掃討し、降伏した兵は大陸へ送還しました。

 こうして日本の台湾統治がスタートするわけですが、日本国内では台湾を「植民地」として扱うか「内地延長」として扱うか議論が活発に行われており、「内地延長型」が統一見解となり、その後の政策、医療制度、国土改造、産業開発、治水、交通整備、教育制度、等々にきちんと表れています。したがって台湾は植民地ではありません。

 
「台湾人と日本精神」の著者、蔡焜燦(さい こんさん)氏(台湾人)によると「公学校(小学校)で習ったことは、台湾は樺太と朝鮮と同様に日本の領土であり、台湾が植民地であるなどという話しを耳にした記憶がない」「”植民地”という言葉は戦後になって出てきたものだと私は理解している」と著書で述べています。おそらくは戦後になって占領軍が日本人に罪の意識を持たせ、白人の植民地支配を非難できないようにする目的があり、「植民地」と言い出したと思われます。朝鮮半島も「植民地だった」という人がいますが、日台韓を分離させ、白人に刃向わないようにさせるデバイド・アンド・ルールも適用したと言えます。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「日本統治時代(台湾)」

添付画像
 高雄州庁(PD)

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H24.10.9 コメント指摘により「鄭 成功」の字の誤りを修正。

日露戦争は日本の心を世界に知らしめた

世界が称賛した武士道精神。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争は小さな黄色人種が大きな白人をやっつけたことにより、有色人種に希望と勇気をもたらしました。それと同時に日本の心も世界に知らしめたといえます。

 旅順攻防戦終結後の明治38年1月5日、水師営で行われた乃木希典とステッセルの会見は、日本の武士道精神の精髄を世界に知らしめ、日本の精神文化に世界が驚倒した事件でした。勝者と敗者の会見でしたが、
「武人の名誉を保たしむべし」という明治天皇の希望によって敗軍の将・ステッセルに帯剣が許されたのです。また、外国の記者から写真撮影の申し出がありましたが、「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道精神が許さない」として断り、「会見が終わり、友人として同列に並んだところならよい」として両軍の幕僚が並ぶ写真だけが撮影されました。
 旅順戦には観戦武官といって外国の武官も数多く参加していましたが、乃木将軍と接するとことごとくその魅力の虜になったといいます。イギリスのハミルトン将軍などは退役後、エジンバラ大学の総長になってからも
「自分がもしも日本人だったならば、乃木将軍を神として仰ぐだろう」と学生たちに語り続けたといいます。
 ダグラス・マッカーサーも父のとともに観戦武官として乃木将軍とともに過ごしており、大東亜戦争の日本空襲で乃木神社は爆撃対象からはずさせたといいます。

 米海軍のニミッツ提督は東郷平八郎を敬愛し、大東亜戦争後、戦艦三笠の復元を訴えました。沖縄戦のときに慶良間諸島の日本軍に医薬品を届けたというエピソードもあります。

 日露戦争後のロシア革命においてシベリアにポーランド人の孤児が取り残される事態がおきます。ポーランド系移民協会は欧米諸国に保護を求めますが反応は冷淡でした。このとき委員のひとりがこう述べます。


「私の叔父は10年前の日露戦争に召集されて日本軍の捕虜になり、日本に連れて行かれた。でも叔父は数ヶ月の捕虜生活の間、周囲の見知らぬ日本人にとても親切にされたことをよく私に話して聞かせてくれた。」


 日露戦争時、ポーランドはロシアの属領となっており、ポーランド人は満州の前線に出されていました。日本は捕虜をとても大事に扱いましたから、そのことが伝わっていたのです。そして白人の国ではない見知らぬ日本に援助を求めることになりました。これが日本とポーランドを結ぶ友好の第一歩となりました。

 イスラエル建国の志士とあがめられているトランペルドールはユダヤ人地位向上のためロシア軍に志願し、日露戦争を戦います。旅順守備軍にいました。しかし、明治38年(1905年)1月1日に日本軍に降伏したため、大連から日本の大阪浜寺へ移送され捕虜生活を送ります。ここで彼は日本を学び、日本人の規律の正しさ、勤勉さ、私欲をすてて公のために協力し合うとか、愛国心などを知り、日本人の精神に心酔します。
 トランペルドールは後にイスラエルに戻り、ユダヤ人自衛組織をつくり、ユダヤ人集落をアラブ人の襲撃から守ります。しかし、大正9年(1920年)10月29日にアラブ人の武装集団の弾にあたり致命傷になります。彼はこう述べて息をひきとりました。


「アイン・ダバル!トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」(俺にかまうな。国のために死ぬほど名誉はない)

これは捕虜時代に大阪の浜寺で日本兵士に教えられた言葉でした。彼の遺品は記念館に展示されており「新生ユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と手記が残されています。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」
    『世界に愛された乃木将軍』福井雄三
    『ニミッツ提督と東郷元帥』皆本義博
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」

添付画像
 水師営での会見に際し、乃木、ステッセル両将軍が幕僚たちと撮った写真 ~ 国立公文書図書館より

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ユダヤ人も狂喜した日露戦争の日本の勝利

世界が熱狂した日本の勝利。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争ではユダヤ人ロスチャイルド、ジェイコブ・シフをはじめとする世界のユダヤ人が日本を金銭的に支援しました。他方、ロシアの外債は暴落を続けます。ユダヤ人の妨害によるものです。

 明治37年8月、9月の遼陽会戦、10月の沙河会戦の後の11月10日には第二回外債1200万ポンドが売り切れます。(第一回は1000万ポンド) 明治38年(1905年)3月10日、奉天海戦で日本軍が勝利を収めます。3月25日の第三回外債3000万ポンドが売り切れます。5月28日、日本海海戦で連合艦隊が圧勝。7月8日第四回外債3000万ポンドが売り切れます。これらの外債の半分はユダヤ人の引き受けによるものでした。この四回に及ぶ外債で日本は日露戦争を戦い抜くことができました。

 日露戦争の日本人勝利の報にアジア民族は狂喜しました。
「新京では支那人が日本人と中心街を練り歩き、花火がいつ果てるとのなく夜空をまった。」(ニューヨーク・タイムズ)
 親日国トルコでも熱狂し、トルコ共和国国歌(独立行進曲)の作詞者であるメフメト、アーキフは賞賛を込めて日本の勝利を描写し、女性作家で英文学のハーリデ・エディーブ・アドバルは日本海海戦の年に誕生した息子を
「トーゴー」と名づけました。「ノギ」「ジャポンヤ」も付けたといいます。
 支那革命の父と呼ばれる孫文はヨーロッパから支那へ帰る途中、スエズ運河でアラビア人が嬉しそうに
「お前は日本人か?」と問いかけてくるので「違う支那人だ。何があったのか、なぜそんなに嬉しいのか」と尋ねるとロシアのバルチック艦隊を日本が全滅させたというのを「自分が勝ったようなものだ」と言って喜んでいたといいます。
 インド建国の父、ジャワハルラル・ネルーは16歳の少年で、
「日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍をたくさん買い込んで読もうと努めた」と自伝に書いています。

 日本を支援したユダヤ人も子供に「トーゴー」と名づけることが流行します。トーゴー・ミッズラヒというユダヤ人の中では有名な俳優、作家、映画監督がおり明治38年(1905年)の生まれなのだそうです。イスラエルの国歌「ハティクバ」(希望)の歌詞を書いた詩人のナフタリ・インベルは明治天皇と日本国民を称える詩を発表しました。
悪い「ロシアのおばさん」善い「ニッポンのおじさん」の喜劇なんてものもあったそうです。
 ロシアでは明治14年(1881年)と日露戦争の前年明治36年(1903年)に、ロシア政府の黙認の下で全国規模でユダヤ人街や、ユダヤ人部落の襲撃が行われ、「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)が行われていました。そこでユダヤ人は日本および、レーニンを始めとする過激派革命組織を支援し、日本勝利に熱狂したのです。

 ユダヤ人最大の功労者ジェイコブ・シフは民間の外国人では初めて明治天皇に招待され、謁見し、旭日大綬章を授けられました。午餐会では明治天皇の健康のために乾杯することをこっそり提唱すると明治天皇は破顔一笑され、快諾され、シフの乾杯が終わると明治天皇からシフの健康を祝って親しく乾杯の音頭を取られました。シフは大山巌元帥、東郷平八郎元帥にも招待され、日光、箱根、京都、瀬戸内を案内され、韓国の仁川に行き、そこでも日韓あげての歓迎をうけたといいます。




参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 「歴史通」WILL10月『乃木神話はなぜ生き続けるのか』中山彰彦・山内昌之
添付画像
 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦三笠 ~ 国立公文書図書館より

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弱小日本を救った科学の力 ~ 下瀬火薬

今も日本を支える科学の力。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において、日本海海戦で連合艦隊に勝利をもたらした大きな要因のひとつとして下瀬火薬があげられます。結構有名な話でしょう。
 発明者の下瀬雅允は広島藩の出身で海軍の技師です。兵器製造所に勤務しました。その時の製造科の長が原田宗助という人で、東郷平八郎らとともに英国に留学した人でした。ニューカッスルのアームストロング会社で造兵技術実習しました。

 原田は下瀬に対し
「わが日本は弱国である。弱国にしてなおこの帝国主義の世界に生きうる道は兵器の発明あるのみ。君は砲弾の炸薬を専門とせよ。改良よりも世界の炸薬の観念を一変させるような発明をせよ」と訓示します。
 下瀬は火薬の研究中に爆発事故で手を負傷し、不自由となりましたが、研究を続け、明治26年(1883年)下瀬火薬を完成させます。日清戦争のときはまだ使われませんでしたが、海軍少尉の伊集院五郎が鋭敏な「伊集院信管」を開発したことにより、日露戦争で威力を発揮します。

 下瀬火薬は金属に触れると激しく反応して大量の熱を発するピクリン酸を主原料としています。炸裂威力が圧倒的で、炸裂した砲弾のかけらはすさまじい勢いで飛散し、三千度もの高熱ガスを発生させます。ひとたび命中すれば爆風と熱によって、艦上の人間の動きを封殺してしまいます。ロシアの艦隊は下瀬火薬の砲弾に悩まされ、隊列を乱し、魚雷や艦砲射撃によって撃沈されました。

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると日本海海戦に先立つ黄海海戦で、ロシア水兵は口々に
「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言うものもいたそうです。下瀬火薬の砲弾を受けた艦船は沈まなくても完全な廃艦になってしまいました。諸外国の新聞はこの火薬について報道します。「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよくわからないが、とにかく火薬における革命的なものである。」(1904年7 月31日ニューヨーク・タイムズ)

 明治38年(1905年)5月27日、延々と航海して日本海にたどり着いたバルチック艦隊はこの下瀬火薬の洗礼を浴びます。

「坂の上の雲」よりバルチック艦隊旗艦スワロフの様子

「最初の鞄(下瀬火薬の砲弾のこと)は、スワロフを飛び越えて海中に落ちた。こういう場合、ロシアの砲弾なら長大な水煙をあげるだけだが、日本の砲弾はその鋭敏な伊集院信管によって海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発するのである。このため艦隊には命中しなくても弾体は無数の破片になって艦上を襲った」・・・「ついで第四弾が、艦尾左舷の6インチ砲塔に命中し、相次いで大火災がおこった・・・前部煙突のあたりに巨大な火柱が立っており、艦尾も燃え始めた」
「戦艦アリョール上の艦上で、日本の戦艦がぶっ放してくる砲弾をみていたノビコフ・プリボイは『まるで飛んでくる水雷のようだ』と言い、また巡洋艦オレーグの艦上にいたS・ポソコフという士官は、『これは砲弾というより機雷である。炸裂すると不消散質の煙をぱっと撒き、海中に落ちてさえ破片がとんでわれわれに被害をあたえた』」


 日本海海戦は下瀬火薬の強力な火力が大いに貢献し、ロシアの艦船は早い段階で猛火に包まれて戦闘力を失いました。戦闘力を奪えば艦が沈んでいなくてもあとは追いかけて艦砲射撃、魚雷攻撃すればいいだけです。海戦は連合艦隊のワンサイドゲームとなり、世界のマスコミがバルチック艦隊有利と予想したことと反対の結果となり、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させることになりました。弱小日本を科学の力が救い、弱小国でも科学の力で勝てることを世界に証明した瞬間でもあったわけです。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「歴史街道」2011.12『世界を震撼させた下瀬火薬と伊集院信管』
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「下瀬雅允」「下瀬火薬」「日露戦争」
 常勝ニッポン 日本海海戦 http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
添付画像
 降伏旗を掲げるニコライ一世 
  国立公文書館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/russian_ship_nikolai_1_01.htm

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辛勝の連続だった陸上戦 ~ 日露戦争

日本を守ってくれた先人に感謝。

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 明治37年(1904年)2月8日 ~ 明治38年(1905年)9月5日の日露戦争での陸上戦の経過を追っていると奇跡に近いような勝ち方をしています。日本海海戦は奇跡ではなく勝つべくして勝った、ですが、陸上戦の南山から奉天に至るまでの戦闘は奇跡と言えます。

 旅順戦は別にして、だいたい南から北へ日本軍はロシア軍と戦っています。

 鴨緑江 -> 南山 -> 特利寺 -> 大石橋 -> 遼陽 -> 沙河 -> 黒溝台 -> 奉天

 鴨緑江は朝鮮と満州の国境でここでは日本軍は圧勝。南山は要塞化されており、苦戦しましたが、海上からの艦砲射撃により撃破。

 明治37年8月24日からの遼陽会戦で日本軍は既に弾薬不足(旅順を優先した)の状態で兵力もロシア22万5千に対し、日本軍は13万5千。火砲はロシア653門に対して日本は474門。これは勝てない。しかし第一軍・黒木為楨司令官は迂回作戦を展開し、少数でロシア軍を包囲しはじめます。この黒木軍の活躍は外国観戦武官も驚愕しています。日本軍は大損害を出しながらもロシア軍を撤退させることに成功します。

 10月8日からの沙河会戦もロシア圧倒的有利の状態で、日本軍は弾がない。そこで夜襲をかけます。そして右翼で閑院宮戴仁親王率いる騎兵第二旅団が機関銃で攻撃。左翼では秋山旅団がコサック騎兵に機関銃と騎砲を浴びせかけます。ここでロシアのクロパトキン総司令官の状況判断ミスがあり、ロシア軍が撤退。これには日本軍が一番驚きます。
 翌年、1月25日からの黒溝台会戦では日本軍左翼が手薄と気づいたロシア軍は大挙して殺到し、黒溝台を占領します。日本軍は増援部隊を派遣しました。そのため中央が手薄になりますが、ロシア軍中央の攻勢は行われず、29日には日本軍第8師団が黒溝台を奪回し、ピンチを脱しました。このあたりはロシア軍内の抗争があり、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しく描かれています。

 明治37年(1905年)2月末、ロシア軍は奉天から南方へ向けて総攻撃を企画します。ロシアの総兵力37万に対して日本軍は旅順から第三軍を呼び寄せますが、それでも24万5千。2月27日、第三軍がまず動き、鴨緑江とともに東西包囲作戦を展開します。第三軍は乃木将軍率いる部隊です。ロシアのクロパトキン司令は西部に現れた乃木軍の出現に恐怖におののき、東部に回した部隊を戻すよう指示を出しています。乃木第三軍に従軍したアメリカ人記者スタンレー・ウォシュバンによると乃木軍の兵士たちが覚えたてのロシア語で「われらは旅順の乃木軍ぞ」と叫ぶと、ロシア兵は狼狽して抵抗を諦め、退却したといいます。
 奉天会戦は大激戦となりますが、時間がたてばたつほど兵力、火力とも少ない日本軍は不利となります。総司令部は秋山支隊わずか3千を大きく迂回させ敵側面をつかせます。猛烈な砂嵐で視界が不良の中、ロシアのクロパトキン司令は日本軍の主力に包囲されたと勘違いし、またまた撤退。日本軍は追撃を行い、ロシア軍捕虜2万を得ます。3月10日のことです。(後の陸軍記念日)日本軍の死傷者7万5千、ロシア軍9万。余談ですが、日本軍は脚気患者が多く、戦死者より多かったのではないかと言われています。

 奉天占領後、児玉源太郎満州派遣軍参謀長は東京に帰り停戦の段取りを依頼しています。もう弾がないのです。あとは連合艦隊の勝利を祈るだけとなります。

 これら陸上戦はほとんど奇跡に近い勝利の連続で、「坂の上の雲」に書かれている通り、秋山騎兵隊の活躍は見逃せないところでありますが、やはり国の存亡をかけての日本軍首脳、兵士の肝の入り方が勝敗を分けたと思います。不利な状況、そして大陸の過酷な環境下で黙々と国家の存亡をかけてわれわれの先人は戦ってくれたのです。今日、日本があるのは戦ってくれた先人のお陰です。唯唯、感謝です。


参考文献
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『日露戦争 陸上戦闘の研究』三野正洋
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る"日本人の真価"とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「黒木為楨」

添付画像
 日露戦争の経過(PD)

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日露戦争_壱 http://www.youtube.com/watch?v=6gY4lHXoHTE

日露戦争_弐 http://www.youtube.com/watch?v=3jJnWlSWTHE

日露戦争_参 http://www.youtube.com/watch?v=3EcMGWAf1JU

四方拝と元始祭

三が日もお忙しい天皇皇后両陛下。

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 天皇陛下は毎年一月一日(元旦)の午前五時半、皇居内の南西部にある「宮中三殿」と呼ばれる神社のような建物が並ぶ一帯の構内にある、神嘉殿という建物前の庭に出御します。まだあたりは暗い時間です。
 陛下は平安時代から伝わる古式の装束のお姿で庭の中央にある屋根だけの東屋のような場所へ移動され、そこに敷かれた畳の上で、まず伊勢神宮(祖先神)、そして四方の神々に向かって、国の安泰や農作物の豊作を祈って礼拝を行います。これが「四方拝」と呼ばれる皇室祭祀です。

 この後、陛下は年始を祝う「歳旦祭」を行われ、拝礼されます。皇太子殿下も続いて拝礼されます。こうして2700年の歴史と伝統をもつ日ノ本の国の一年が始まります。

 こうした天皇陛下の祭祀については国民の意識が薄く、あまり知られていないと思います。新聞では元旦にカラーで天皇陛下と皇族方の写真が載りますが、ファミリーをイメージさせているものばかりです。祭祀王としての天皇陛下という本来の姿、本質を載せてほしものです。

 天皇陛下は続いて「晴の御膳」という儀式を行います。実際には箸をつけるだけで口には入れないそうです。こちらのほうはたまにニュースで見ると思います。

 午前10時になると「松の間」で各皇族からの祝賀を受けます。11時になると「梅の間」で首相、大臣、官房副長官、副大臣・・・の各夫妻から祝賀の挨拶を受けます。再び「松の間」に移動して衆参両議長、副議長、議員・・・夫妻から祝賀を受けられます。次に「竹の間」で最高裁判官、同判事、・・・司法関係の各夫妻からの祝賀を受けられます。次は中央官庁の事務次官、各都道府県の知事・・・そしてお昼です。午後は各国大使の祝賀を受けられます。

 二日は一般参賀があり、天皇皇后両陛下は五回長和殿ベランダにお出ましになります。一回目は午前10時10分ごろ、最終回の五回目は午後2時20分ごろになります。

 三日は元始祭(げんしさい)という大祭が三殿で行われます。年初に皇位の元始を祝い、国家の安泰を祈るもので、こちらのほうは歴史は浅く、明治5年(1872年)に行われて以来の祭儀になります。天皇陛下のご拝礼の後、皇后陛下、皇太子殿下、同妃殿下のご拝礼があります。そして天皇陛下ご自身がお告げ文を奉せられます。

 我々は正月三が日お休みして新年をお祝いしておりますが、天皇皇后両陛下は大変な激務をこなされているわけです。諸行事こなされ「国平らかに、民安かれ」と祈られる天皇皇后両陛下に感謝です。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 転展社「宮中祭祀」中澤伸弘(著)
参考サイト
  宮内庁 新年一般参賀要領 http://www.kunaicho.go.jp/event/sanga/sanga01.html
 WikiPedia「歳旦祭」

添付写真
 皇居を大手町付近より撮影(JJ太郎撮影 PD)

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祈る君主

謹賀新年。

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 天皇陛下のお仕事に皇室祭祀というのがあります。大祭、小祭、旬祭とあります。大祭は天皇陛下自らが祭典を行う祭祀です。これだけでも元始祭(1月3日)、先帝祭(1月7日)、春季皇霊祭(春分の日)、神武天皇祭(4月3日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、神嘗祭(かんなめさい)(10月17日)、新嘗祭(にいなめさい)(11月23日)とあります。

 小祭も多くあり、本日行われている小祭は歳旦祭になります。祭儀は年間で全部あわせて30になり、紀元節(2月11日)には臨時御拝を別途行われます。一年中お祭りといってもよいと思います。お祭りと言っても庶民のみこしを担いで酒を飲むようなものではなく、非常に神聖なもので冷暖房設備の無い宮中で何十分も平伏しなければならないものもあります。天皇陛下のメインのお仕事は「祈り」であり、天皇陛下は国民の安寧、五穀豊穣を祈り続ける祭司王だったのです。私は以前は天皇陛下というのは憲法に定められた国事行為と福祉施設の訪問や文化振興などのことを普段行われていると思っていましたが大間違いでした。祭祀が天皇陛下の本質です。

 本日、元旦は四方拝の儀があります。神宮をはじめ四方の神々や御陵を遥拝され、この年の平和と国民の幸福を祈念されます。平安時代の中期には確立していた祭儀です。歳旦祭は全国の神社でも行われている通り、一年の平和を祈念する祭儀で、天皇陛下は御剣(三種の神器のひとつ)とともに宮中の賢所(かしこどころ)、皇霊殿、神殿の順に玉串を持って御拝礼されます。

 宮中祭祀で重要なものは神嘗祭(かんなめさい 10月17日)と新嘗祭(にいなめさい 11月23日)があげられます。神嘗祭は古代から行われてきた祭祀で、新穀を供える大祭です。戦国時代以来中断していましたが、江戸時代に復興し、18世紀末の光格天皇が本格的に復興させています。新嘗祭は宮中祭祀の中で最も古く、重要な祭典であり、天照大御神をの御霊をお迎えし、米、粟をはじめとする穀物の今年の出来を奉告、感謝し、新穀で作ったご飯やお酒を陛下がご自身で天照大御神にお供えになり、且つご自身でもお召し上がりになります。そして「国平らかに、民安かれ」と祈られます。

 天皇陛下は神話の時代より民の安寧のために祈ってこられたのです。これは西洋の王などとは全く異質なもので、西洋の王様は権力と財力を持って民衆を従わせたため、対立構造になり勝ちで、民衆の反乱のために途絶えたりしていますが、日本の天皇は民衆のために祈る祭司王であり、歴史上、民と対立したことはなく、君民一体であり、この日本のお国柄は2600年続いてきました。

 お正月を迎えて、新聞やテレビでは一般参賀や皇室の家族的な写真や映像がよくとりあげられますが、マスコミが報じないところで、天皇陛下は国民のために祈られており、この先一年、ずっと祈り続けられるわけです。私はそのことに感謝し、今年一年、仕事に励み、微力ながら日本という国をさらに立派な国にしていくために尽力していきたいと思う次第です。



万葉集より(言霊信仰による祈りの歌)
 大和には 群山あれど とりよろふ
 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立つ立つ
 海原は 鴎立つ立つ
 うまし国そ あきづ島 大和の国は 



参考文献
 転展社「宮中祭祀 連綿と続く天皇の祈り」中澤伸弘(著)
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)

添付画像
 結婚の儀に臨む、皇太子明仁親王と正田美智子 昭和34年4月10日(PD)

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