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台湾近代化の父「後藤新平」

人を残して死ぬ者は上だ。

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 明治27年(1984年)~明治28年(1985年)の日清戦争の講和である下関条約締結時、清国の全権・李鴻章(り こうしょう)は伊藤博文首相に「台湾には四害あり、統治は不可能だ」として、日本に台湾割譲を諦めさせようとしました。この「四害」とはすなわち、アヘン、土匪、生蕃(原住民)、そして瘴癘(しょうれい 風土病のこと)です。

 明治7年(1874年)に日本は台湾出兵を行っていますが、日本軍3600人のうち、2800人が「台湾熱」マラリアにかかり525人が死亡しています。下関条約後の明治28年(1895年)の台湾平定でも4000人を超える病死者を出しています。台湾ではペスト、コレラ、赤痢、発疹、チフス、腸チフス、ジフテリアなど伝染病が何でもそろっており、特にマラリアは大問題でした。漢人移民の生存率は30%ほどであり平均寿命が30歳前後でした。台湾統治にまずやらなければならないのが、衛生事業でした。

 明治31年(1898年)3月、陸軍次官・児玉源太郎が第4代台湾総督として着任し、総督の右腕として民政長官に赴任したのが医学博士の後藤新平でした。後藤新平は大規模な人口調査を実施した上で道路、鉄道、水道、湾港などのインフラ整備のほか、衛生環境と医療の大改善を行います。台湾の上下水道はこのころ整備されあらゆる伝染病が消えていくことになります。内地から100人を超える医師を連れてきて全島各地に配置し、近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、病院、予防消毒事業団の設立など次々と衛生改善策を講じました。

 後藤新平は「生物学の原理」に従って台湾統治を行うべきと主張し、有名な言葉に
「ヒラメの目を鯛の目に付け替えることはできない」というのがあります。アヘン中毒者に対してはすぐアヘンをやめさせるのではなく、アヘンを専売制にして中毒、常習者にだけ少しずつ減らして販売していく方法をとりました。明治33年(1900年)に16万人だったアヘン吸引者は昭和10年(1935年)ごろには1万6千になり、昭和14年(1939年)には5千人を割るとの成果となっています。強行に禁止していたら暴動が起こっていただろうといわれています。

 こうして風土病による死者は激減し、明治38年(1905年)の年間死亡者数は1000人あたり341人だったのが、大正元年(1912年)には25.3人となり、昭和元年(1925年)には20人以下になっています。

 このように後藤新平は偉大な功績を残し、台湾では語り継がれていますが、平成11年(1999年)に行われた後藤新平と新渡戸稲造の業績を讃える国際シンポジウムで日本側代表は
「日本による戦前の台湾統治で日本は良いこともしたが、悪いこともしたであろう。そのことについて謝罪したい。我々はただお詫びするしかありません」などと的外れなことを言っています。これを聴いた台湾人から「日本が台湾に謝罪する必要はない」「日本人よ胸を張りなさい!」と激がとんだのは言うまでもありません。


後藤新平最期の言葉
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」




参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「後藤新平」
添付画像
 後藤 新平(PD)

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