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2012年2月

台湾にやってきた支那人

犬が去って豚が来たり。

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 昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。その後、在日の台湾人は朝鮮人とともにGHQより「三国人」(the third nation)と言われていました。台湾人の場合は台湾は中華民国になるので「戦勝国民」とされ、在日台湾人は台湾へ帰ることになります。ところが台湾に帰った台湾人は恐ろしい光景を目にすることになります。
  蔡 焜燦(さい こんさん)著「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」で蔡さんは日本軍人として内地におり、台湾へ帰ってきましたが、出迎えた音楽隊の後ろにいた敗残兵のような支那兵に驚きます。

「ある者はぼろぼろの綿入り服に唐傘を背負ってわらじを履き、またある者は、天秤棒に竹かごを下げ、その籠の中には鍋釜をのぞかせている。そして全員が胸ポケットに歯ブラシをさして、水筒の紐にもホーロー・カップを引っ掛け、醤油で煮詰めたような汚いタオルを腰にぶら下げていた。彼らは軍隊行進にあるまじき乱れた歩調で、ミシッミシッと軍楽隊に後続してきたのである。その光景は異様としかいいようがなかった」


 蔡さんは頭の中が真っ白になったと述べています。そして一緒に帰還した戦友のうち二人が
「俺はこんな連中と一緒になるのはいやだ」と言って、引き揚げる日本兵に紛れて台湾を去ったそうです。
 台湾でも支那兵のイメージを「キング」「少年クラブ」「幼年クラブ」などの雑誌で知っていたようですが、さすがに目の当たりにすると驚いたようです。台湾で支那から国軍を出迎えに行った人たちは、支那兵を見た途端「うわー」と言ったり、口をあんぐり開けて見ていたそうです。沿道では青天白日旗を振る波は止まり、歓声は静寂に変わりました。

 支那兵は半ば拉致され召集されたものや食えないので兵士になったものがほとんどで、教育も満足に受けておらず、規律も何もあったものではないので、戦場では督戦隊に監視され、退却されると撃たれます。支那兵はいつも脱走のことを考え普段着を隠し持っています。(便衣) 脱走すると匪賊になり民間を襲い強姦、略奪、虐殺します。時には自国の軍営を襲い、食料を奪い、兵士を殺害します。そのような軍隊が台湾にやってきたわけです。

 支那人は水道や電気がある文化的生活をしたことがない者がほとんどで、荒物屋で蛇口を買っていき、家の壁に穴をあけて水がでないとか、電球を買って同じように壁に穴を開けて電気がつかないなど文句を言ったそうです。
 そして台湾の治安はどんどん悪くなり、支那人が威張りだし、警察や役人の地位を占めて不正や賄賂が横行していく世の中に変貌していきました。台湾の人々は日本時代を懐かしみ、台湾版「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉が生まれました。同時に支那人への不信、不満が蓄積していき、2・28の悲劇が訪れました。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『朝鮮進駐軍と三国人』詠清作
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)

添付画像
 台湾を統治する中華民国の総統府。旧台湾総督府の建物を流用。(PD)

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社会主義者による二・二六事件

軍部は国家社会主義思想だった。

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 昭和11年(1936年)2月26日、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて武力をもって蹶起(けっき)しました。これらの陸軍将校らの思想は国家社会主義思想で、北一輝の思想に強く影響されていました。戦後言論空間では、こういったものは国家主義、軍国主義と称してごまかしていますが、社会主義です。
 北一輝は大正12年(1923年)に「日本改造法案大綱」を発表しました。これには天皇大権の発動によって憲法を停止し、両院を解散し、戒厳令を敷き、経済的特権階級を切り捨てて、私有財産を制限し、企業の資本を制限し、労働法を定めるという国家を支える国民が自由に生きられる国家への改造を主張しました。

 昭和6年(1931年)3月、こうした社会主義思想を背景に「全日本愛国者共同闘争協議会」が結成され、次のように決議されています。

一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す。

一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。

一、われらは国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。


 昭和大恐慌で農村部は打撃を受け、一家を救うために農家の娘は身売りせざるを得ないようなことがおき、農家出身の兵士たちは昭和モダンの繁栄を横目に義憤にかられていました。そして兵士たちは巨利を得ている財閥や目先しか見ない政治家に向けられ「階級対立」という概念が用いられました。この頃、世界では米国の保護貿易(ホーリー・ストーム法)やブロック経済といった統制経済による社会主義に流れていました。日本も例外なく流れていったといえます。皇道派と対立していた統制派も社会主義であり、ニ・ニ六事件後、合法的に社会主義体制を推進していったわけです。

 さて、ニ・ニ六事件は内閣の機能が麻痺し、内大臣と侍従長が襲撃されたため、昭和天皇がご自身で情報を集め判断しなければならないという立憲君主制の枠をはみ出る異例の事態となりました。昭和天皇は事件を知り
、「とうとうやったか」「全く私の不徳のいたすところだ」とおっしゃり、翌27日には「自分はこれから鎮撫に出かけるから直ちに乗馬の用意をせよ」と仰せになり、側近は驚愕し、大慌てでとめています。

「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しい行為なり」

 蹶起軍は逆賊となり有名な「兵ニ告グ」というビラが撒かれます。29日には下士官兵(大多数は命令で動いていただけ)は原隊に戻り、首謀者は自決するものが出て、残りの将校は逮捕されまました。北一輝も逮捕されました。

 この後、内閣改造において軍部は統制経済強化を打ち出します。昭和天皇は軍部が国家経済、富の配分にまでクチを挟むことに難色を示しました。そして次の首相として近衛文麿に白羽の矢が立ちますが、彼は皇道派寄りだったため辞退します。国民の間には失望感が漂い、元老(西園寺)の衰えが感じられるようになりました。そして誕生したのは広田弘毅内閣でした。翌年、支那事変が勃発し、社会主義化はより強化されていきました。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
 ちくま文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」田原総一朗(著)
添付写真
 二・二六事件のときの山王ホテル前の兵士(PD)

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青年日本の歌(ニ・ニ六決起 自決・刑死の憂國烈士 鎮魂)
http://www.youtube.com/watch?v=aOxBzEoW0Dg

華やかな馬車が通る「信任状捧呈式」

知られていない信任状捧呈式のこと。

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 新任の外国の特命全権大使はその国の元首が発する「信任状」を持参し、日本の元首に捧呈します。日本の元首は言うまでもなく、天皇陛下です。憲法(GHQ製)に明文化されていなくても国際常識なのです。日本の外交官も海外へ大使などとして派遣される場合は、天皇陛下の認証した信任状を持参します。

 着任する駐日大使らの信任状は大体こんなことが書かれています。
「天皇陛下に対し、友好関係増進のために○○を大使として派遣し、その○○は人格も能力も優れた人物であり、全幅の信頼を置いていただきたい」

 各国の大使は着任時、信任状を天皇陛下へ捧呈するため、皇居「松の間」で行われる信任状捧呈式に出席します。

 JR東京駅丸の内中央口から西にある皇居に向かってまっすぐ伸びる道は「御行幸通り」と呼ばれ、普段通行止めされている中央部分の4車線くらいのスペースがとかれ、交通規制されます。その中を東京駅から二頭立てのえんじ色の菊の門の入った儀装馬車がゆっくりと走り抜けます。馬車を操るのは宮内庁の職員でその周りを皇居警察と警視庁の騎馬隊が護衛します。沿道にいる丸の内のサラリーマンや観光客はこの光景に驚き、携帯電話で撮影する人も多いといいます。駐日大使館に着任したばかりの外国の大使(夫妻)はこの馬車に乗り、皇居へ向かうのです。沿道の人が手を振れば手を振り返してくれるそうです。

 皇居へ向かうのには車にするか馬車にするか選択できるそうですが、ほとんど大使が馬車を選ぶそうです。当初は馬車が大使館まで迎えにいっていたそうですが、交通事情で不可能になり、廃止の声がでました。しかし、各国の大使の要望が強いため、コースを短縮して残すことになりました。現在は明治生命館から皇居間を送迎しています。各国大使は明治生命館まできて、馬車に乗り換えます。面倒なことのように思えますが、それでも馬車を選ぶのだそうです。

 皇居「松の間」で、着任した大使はモーニング姿の天皇陛下に、自国の仕方で挨拶を行った後、
「私はこのたび、国の元首から選ばれて大使として参りまして、ここに天皇陛下に信任状を捧呈する光栄に浴しました。前任者の解任状と私の信任状をお渡しします」と言ったことを述べ、信任状を手渡します。そして天皇陛下からお言葉があり、随行員等が紹介され、大使は天皇陛下と握手して式は終わります。この間、約10分です。式が終わると大使ら一行は馬車でもときた道を戻ります。

 皇室は世界最古にして最後の王朝。天皇陛下の権威はローマ法王とならんで世界のツートップです。これは世界常識です。伝統的な馬車に乗って天皇陛下のもとへいき、信任状を捧呈する。これがどれほど栄誉なことか、知らぬは日本人ばかりかもしれません。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)


添付画像
 信任状捧呈式に向かう馬車(動画より)

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皇居での信任状捧呈式に向う駐日ドイツ大使馬車列 2009.Dec.21
http://www.youtube.com/watch?v=NhuGkRBjG2k


馬車に乗り信任状捧呈式に向う駐日スイス大使 2010.Oct.19
http://www.youtube.com/watch?v=-3NFV2_no0c

駐日アメリカ大使信任状捧呈式の馬車列 Japanese emperor's carriages 
http://www.youtube.com/watch?v=g7WMJAAP9j8
http://www.youtube.com/watch?v=jcAOqtbpYcs

駐日ザンビア大使信任状捧呈式の馬車列 Japanese emperor's carriages
http://www.youtube.com/watch?v=cPF2wQDG8Lo

馬車に乗り信任状捧呈式に向う駐日アイルランド大使 2010.Nov.30
http://www.youtube.com/watch?v=E0kGc_pcmws

信任状捧呈式の馬車列 出発風景 Imperial state carriages Tokyo
http://www.youtube.com/watch?v=Y1Xntm6sur0

信任状捧呈式の馬車列 Imperial state carrige Jan. 15. 2010
http://www.youtube.com/watch?v=IbQfmUswU5Q

竹島の日

竹島は日本固有の領土。

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 昭和27年(1952年)1月18日、韓国は公海上に「李承晩ライン」を宣言し、昭和28年2月27日には竹島の領有に関する声明を発表。昭和29年9月に竹島を不法占拠しました。
 昭和28年(1953年)には「漁業資源保護法」を制定して、日本漁船を拿捕しまくりました。第一大邦丸という船が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺される悲劇もおきました。拿捕抑留された日本人は2,791人、拿捕された日本漁船は233隻、被害総額90億円。抑留された人は長い人で3年に及び、抑留生活は奴隷的状況にありました。

 竹島は明治38年(1905年)1月28日に内閣決議によって「竹島」と命名し、2月22日に島根県の隠岐島司の所管に付されました。このときの決定は秘密でもなんでもなく、「告示」しています。これに対して韓国からは何一つとして抗議はありませんでした。まったくが興味なかったのです。

 ところが戦後、GHQによって船舶の移動が禁止され、昭和20年(1945年)9月27日の覚書で一定区域内の漁業は認可されます。このとき朝鮮半島との間に引かれたのがマッカーサー・ラインといわれるものですが、竹島は日本に入っていませんでした。マッカーサー・ラインは一時的なもので、講和条約で消滅します。韓国政府が日本の竹島放棄を求めたのに対し、米政府は
「竹島は韓国の領土として扱われたことは無く、1905年以降日本領である」(ラスク書簡)と回答し、講和条約の「第二条A項」では朝鮮領となる地域が明記され、竹島は朝鮮領から除外されました。それにも関わらず韓国は竹島を不法占拠したのです。

 この韓国の竹島不法占拠に対して日本政府は昭和29年(1954年)、国際司法裁判所で解決することを提案しましたが、韓国側は拒否しました。裁判になれば国際的に注目され、不法占拠であることが露呈してしまうことを恐れているのです。そして韓国では歴史を捏造して竹島を韓国領だと言い張り、韓国民を洗脳しています。

韓国の教科書
「独島(竹島のこと)は鬱陵島(うつりょうとう、ウルルンド)から眺められ距離にある島で、鬱陵島に属している」「鬱陵島へわたった安龍福(アン・ヨンボック)が不法侵犯したした日本の漁夫を発見し、彼らを追い出し日本にまで行って島が我が領土であることを再確認している」

 竹島と鬱陵島は90キロ離れており、竹島の一番高い男島の高さが157メートルであり、本当に見えるのでしょうか。安龍福は鬱陵島から隠岐島に密入国して、強制送還した漁民です。両班(朝鮮の貴族階級)出身ではないため漢文もできない漁民が日本政府と交渉できようはずがないのは明らかです。また、韓国は「新増東国興地勝覧」(1531年)の「于山島(うざんとう」を独島(竹島)と主張していますが、于山島は鬱陵島の西に位置されており、東にある竹島とは逆方向です。このため韓国はこの地図を改竄しています。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『横暴 李承晩ライン』下條正男
   『今も続く竹島不法占拠』下條正男
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)
参考サイト
 WikiPedia「竹島の日」「日本国との平和条約」
 WEB竹島問題研究所 http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g28.html

添付画像
 島根県「竹島問題啓発冊子」の表紙 http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima06/index.data/panf2008.6.5.pdf

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竹島、韓国の大嘘 http://www.youtube.com/watch?v=F1dWZk_b8i0

日本人に助けられたユダヤ人たち

ユダヤ人は恩を忘れなかった。

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 昭和15年(1940年)、リトアニアでナチス・ドイツに追われたユダヤ人に対し、領事代理だった杉原千畝(すぎはら ちうね)は日本通過のビザを発給しました。その数は6000にのぼったといわれています。杉原千畝は日本のシンドラーと言われています。

 杉原千畝に助けられたユダヤ人は戦後、杉原を捜し、日本の外務省に照会しますが、「該当なし」を返されます。これは杉原がユダヤ人に
「センポ・スギハラ」と教えていたためと言われています。しかし「リトアニアの領事代理のスギハラ」で照会しても「該当なし」だったといいます。私にはどうもおかしな話に思えてきます。戦前の功績を隠そうとしたのでしょうか。ちょっと話しは違いますが、ジャパンタイムズの川口ユディさんが2003年に「南京大虐殺」の取材をしてアイリス・チャンの矛盾点を指摘した記事を書いたところ、なんと日本の外務省から苦情がきたそうです。おそらく外務省には日本の光を消し、GHQ製の捏造歴史を容認するような風潮が続いているのでしょう。

 昭和35年(1960年)、杉原はリトアニア・カウナス領事館でビザ発給について協議したユダヤ難民の代表のひとり、ジュホシュア・ニシュリ氏と日本のイスラエル大使館で再会しました。そして杉原は昭和44年(1969年)にイスラエルを訪問し、宗教大臣のゾラフ・バルファフティクと再会します。ゾラフはこのとき杉原千畝のビザ発行が独断であったことを知り、「ヤド・バシュム賞」を贈ることになります。賞が贈られたのは昭和60年(1985年)のことです。

 杉原千畝に助けられたユダヤ人の中にベンジャミン・フィッショフという人がいます。この人は日本への恩を忘れず大戦後に米国でソニーと松下電器の北米、南米地域の輸入総代理業者となります。やがてトランジスターの時代がやってくることになるのですが、この特許は米国のRCAが所有していました。しかしRCAはトランジスターにあまり関心がなかったので、フィッショフはソニーにその特許を買うように勧めます。その結果はいうまでもありません。

 ショウネル・アイゼンバーグは杉原千畝のビザで助けられた人ではありませんが、昭和15年(1940年)難民として日本にやってきています。日本は敗戦後、米国の占領下では海外から原料を直接調達できませんでした。(渡航が禁止されている) そこでアイゼンバーグは日本企業に代わり、海外へ鉄鉱石の買い付けを行い、八幡製鉄所と富士製鉄に供給します。後に、三菱、日立、古河電工の海外における代理権を手にいれ世界にビジネス展開するようになります。

 戦後、日本製品は品質が悪いというイメージが残っていましたが、アメリカ市場に日本製品を輸入したのは半数はユダヤ人といいます。ニコンもユダヤ人ジョセフ・エーレンライヒが35ミリカメラを作るよう進言して、大当たりしたものです。ブラザーもユダヤ人と手を組んで成功しました。ユダヤ人は商才に長けているので日本製品に目をつけたというのはあるでしょうが、ユダヤ人は日本への恩を感じており、日本人は信用を重んじる民族であるということを見抜いていたものと思われます。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
 オークラ出版「世界に愛された日本」
    『日本ほど素晴らしい国はない』田母神俊雄・川口ユディ・西村幸祐

添付画像
 杉原領事代理による手書きのビザ(PD)

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東條英機も日本のシンドラーだった

軍人の光は抹殺されている。

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 昭和13年(1938年)2月、ナチス・ドイツの迫害から逃れた大量のユダヤ人難民の第一陣がシベリア鉄道に揺られて満州国の最北端の満州里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着しました。その数は2万人にまで膨れ上がります。(※1) ソ連は難民の受け入れを拒否。難民は満州国へ入国することを強く望みます。しかし、満州国も拒否。極東ハルビン・ユダヤ人協会の幹部らは関東軍の特務機関長の樋口季一郎少将と会い、ユダヤ難民を救うように懇請します。樋口少将はハルビン特務機関長となってから満州のユダヤ人を助けて第一回極東ユダヤ人大会を開く支援を行っていました。このときの同志に陸軍士官学校の同期である安江大佐がおり、陸軍きってのユダヤ専門家でした。樋口はユダヤ人難民を救う決断をします。そして満州国外交部に働きかけ、満鉄総裁の松岡洋右とも折衝し、難民を特別列車でハルビンまで受け入れることを認めさせました。樋口は関東軍の参謀長だった東條英機中将に
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思われますか」といって説得しました。東條英機は筋さえ通れば、話のわかる人でした。

 ドイツ外務省は日本政府に対して大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行います。この抗議は東京から新京の関東軍司令部にすぐ伝えられます。すると東條英機は
「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として一蹴しています。

 「ゴールデン・ブック」というユダヤ民族に貢献した人々の名前が記されているものがあります。樋口季一郎、安江仙弘の名は刻まれていますが、東條英機の名は刻まれていません。これはゴールデン・ブックに名前を載せるにあたっては複数のユダヤ人かユダヤ人団体が推薦する必要があり、かなりの金額をユダヤ民族基金に寄付しなければならず、東條英機はユダヤ人に満州国の門扉を開いたものの、ユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかったためと言われています。もし、東條英機がゴールデン・ブックに名前が載っていれば東京裁判で世界中のユダヤ人から助命嘆願書が届いただろうといわれています。

 安江仙弘大佐は「河豚計画」でも有名でヨーロッパから逃れてきたユダヤ難民の安住の地を満州に築く計画をたてています。(実現に至らず)また安江大佐はユダヤ人を公正に遇する「ユダヤ人対策要綱」の制定に際して板垣征四郎陸軍大臣に働きかけ、板垣陸相は
「我国は八紘一宇の国である。ユダヤ人だからといって、特定の民族を差別することはできない」と述べ決議に持っていきました。

 現在、杉原千畝はテレビなどで良く話しがでますが、東條英機も樋口季一郎も安江仙弘も同じはずですが語られません。なぜ語られないかは軍人だからです。樋口季一郎が昭和45年(1975年)に死去したとき、朝日新聞が追悼記事でオトポール事件に触れています。しかしこれは日中国交回復前の話になります。

 日本の言論空間は軍人の功績を抹消してきましたが、それもそろそろ終わりに近づいてきています。自由社の教科書には次のように記載されました。

「迫害されたユダヤ人を助けた日本人   樋口季一郎と杉原千畝」
「・・・知らせを受けたハルビン特務機関長の樋口季一郎少将は、満州国建国の『五族協和』の理念からこれを人道問題として扱い、満鉄に依頼して救援列車を次々と出し、上海などに逃げる手助けをした」
「ドイツは外務省を通じて抗議してきたが、関東軍参謀長の東條英機は『日本はドイツの属国ではない』として部下の処置を認め、ドイツからの抗議もうやむやになった。」


 いい仕事をしています。GHQ製言論空間が演出し続ける日本の歪んだ自画像に「おかしい」と疑念を抱く若者が育ってくれることを期待しています。


※1 2万人と伝えられているが、この数は根拠がなく、また多すぎる。第一陣は100~200人、その後、増え続け昭和16年ごろまでに累計5000~6000人になったと思われる。


参考文献
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『日本を助けたユダヤ人 ユダヤ人を助けた日本人』岩田温
 新人物往来社「歴史読本」2009・9『謎の河豚作戦の真相』白石仁章
 自由社「日本人の歴史教科書」
 徳間書店「日本を賤しめる『日本嫌い』の日本人」渡部昇一(著)
 文春新書「指揮官の決断」早坂隆(著)
参考サイト
 WikiPedia「猶太人対策要綱」「河豚計画」「水晶の夜」
添付画像
 東條英機(PD)

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オポトール事件 ユダヤ人を救った日本陸軍軍人 注)「オトポール事件」が正しい
http://www.youtube.com/watch?v=xOLtUtHePAg

日本のシンドラー、杉原千畝

杉原千畝と複数の日本人の合わせ技だった。

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 「6,000人を救った命のビザ」で杉原千畝(すぎはら ちうね)は大変有名だと思います。

 昭和15年(1940年)7月、ナチスドイツに追われたユダヤ人たちはリトアニアに逃れ、日本の領事代理だった杉原千畝に日本通過ビザを求めて殺到します。しかし、日本外務省は行き先国の入国手続きを完了したものしか発給できないと通告。杉原千畝は悩みに悩むことになります。そして発給することに決断します。このとき杉原千畝の決断を支えた一つには「ユダヤ人対策要綱」があったと思われます。迫害されるユダヤ人に対して日本国政府は公正に遇することにしていたのです。ドイツに遠慮する外務省の通告と「ユダヤ人対策要綱」の狭間で悩んだのでしょう。

 ユダヤ人難民は日本通過ビザによってソ連を通過します。(杉原千畝がソ連領事館に事前確認済み)シベリア鉄道経由でウラジオストックから敦賀、神戸へ向かうユダヤ人一団はウラジオストックで「待った」がかかります。外務省から「杉原ビザを容認するな」との電報が届いていたからです。ウラジオストック駐在総領事代理の根井三郎は対応に腐心し、一律に検印を拒否するのは在外公使館のビザの威信を保つためにもよくないと主張し、杉原ビザを認めます。実は根井三郎は外務省留学生として杉原の2期後輩でハルビン学院の同窓生でもありました。

 日本に入国したユダヤ人一団は神戸のユダヤ人協会の保護を受けます。ここでユダヤ人を支援したのは小辻節三という神道とユダヤ教の研究者です。日本通過ビザでの日本滞在期間はわずか14日です。この間では行き先を決めるのは至難で小辻節三は外務省に延長を嘆願を繰り返しますが外務省の反応は鈍いものでした。既に10月に入っており、このときは日独伊三国同盟が結ばれていたのでした。小辻節三は過去、満州で松岡洋右にスカウトされ、大連でユダヤ人との友好を深める役をやっていたため直接、外務大臣の松岡洋右に連絡を入れます。すると松岡はこんなことを教えます。
「難民は入国するまでは外務省の管轄だが、入国後は内務省警保局外事部の管轄となり、滞在期間の延長は各地方長官の権限に委ねられる」。外務省は知らん、と言ってくれたのです。こうして滞在期間は1ヶ月に延長され、ユダヤ人たちは世界へ旅立っていきました。

 6,000人のユダヤ人の命を救ったのは杉原千畝の個人技ではなく、根井三郎、小辻節三、松岡洋右のあわせ技だったのです。そして日本が一貫して掲げていた人種平等の精神による「ユダヤ人対策要綱」が彼等を支えており、さらにこの2年前のオトポール事件で東條英機、樋口季一郎、安江仙弘らによってもユダヤ人救済が行われていたことも大きく影響していたことでしょう。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『日本を助けたユダヤ人 ユダヤ人を助けた日本人』岩田温
 文春新書「指揮官の決断」早坂隆(著)
参考サイト
 WikiPedia「猶太人対策要綱」「日独伊三国同盟」「日独防共協定」
添付画像
 外交官時代の杉原千畝(PD)

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長谷川清総督と愛国乙女サヨン

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 昭和15年(1940年)、長谷川清海軍大将が台湾総督に着任しました。日露戦争のときに戦艦三笠に乗船しており、『三笠艦橋の図』で東郷平八郎海軍大将の背後に描かれた測距儀の上から軍帽だけ見えているのが長谷川清です。顔は見えませんが・・・

 長谷川総督は総督の着任式後の歓迎レセプションで上機嫌になり、給仕の少女を抱き上げて膝の上に座らせ、歓迎に対する謝辞を述べています。現代の言葉で言うとセクハラで、取材班が唖然としたそうです。台湾行政に暗雲が立ち込めたと思った人もいたことでしょう。しかし、この長谷川提督は仁政だったと伝えられており、公務員の給料が内地人と台湾人で差別があったのをまったくの平等にしたり、日本人が通う学校と台湾人が通う学校をひとつにして国民学校と改めています。「内台一如」を実行しており、戦後二十五年たった昭和45年(1970年)、長谷川総督の米寿の宴で台湾から続々とお祝いの人が訪れています。

 長谷川大将が台湾総督に着任する前の昭和13年(1938年)に高砂族のリヨヘン村の駐在を務めていた田北警手のもとに海軍からの応召の通知が届きます。この頃の台湾の警察官は蕃社と呼ばれる村の日本語教師も兼任しており、田北警手は高砂族の人に愛情を持って接したことで尊敬を集め、慕われていました。
 応召の日、台風が吹き荒れており、山道を下山しなければなりませんでしたが、当時17歳だった高砂族のサヨン・ハヨンがわかれを惜しみ、嵐の中でも彼の荷物運搬を申し出ます。多くの志願者から6名が選ばれ、嵐の中を下山します。そして丸木橋をわたろうとした時、鉄砲水がサヨンを襲います。激流に飲み込まれたサヨンは一行に手を振り(サヨウナラの意)流されてしまいました。こうした献身ぶりが後に長谷川総督の耳に入り、総督は「愛国乙女サヨンの鐘」と刻印された真鍮(しんちゅう)の釣鐘をつくり、遭難場所には「愛国乙女サヨン遭難の地」という石碑を建立したのです。

 田北警手は実際は滝田という巡査のことで、同じリヨヘン村に駐在していた山口巡査は総督から「鐘」が贈られると聞いてびっくりしたと述べています。その後、歌手の渡辺はま子が長谷川総督に「サヨンの鐘」をレコード化したいと申し出て、昭和16年に発売されると大ヒットしました。そして映画も作られました。

 戦後は支那からきた国民党により鐘は撤去され、碑も碑銘を削った上で捨てられてしまいました。しかしその後、台湾の民主化とともに鐘は復元され、碑も、新しい碑と並んで再び建てらました。また、サヨンの住んだ村の付近に架けられた橋には「サヨン橋」という名もつけらています。



<沙蓉鐘歌>

嵐吹き巻く峰ふもと

流れ危うき丸木橋

渡るは誰ぞうるわし乙女

紅き唇 ああサヨン



晴れの戦に出でたもう

雄々し師の君懐かしや

担う荷物に歌さえ朗ら

雨は降る降る ああサヨン




参考文献
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
 中公文庫「高砂族に捧げる」鈴木明(著)
参考サイト
 WikiPedia「長谷川清」「サヨンの鐘」

添付画像
 映画サヨンの鐘(PD)

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《莎韻之鐘》主題曲 - 渡邊濱子
www.youtube.com/watch?v=iO7kpuQYXfE

紀元節

二月十一日は紀元節。

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 二月十一日は建国記念日です。これは紀元節といい、初代神武天皇が大和の橿原(かしはら)の地で御即位したとされる日(紀元前660年2月11日)です。即位したのが酉年で、その年の元日を明治維新後に換算し、さらに太陽暦に直して二月十一日に定めました。

 神武天皇(カムヤマトイハレビコ)は天下を治めるためにふさわしい地を探して兄のイツセと東への東征を行いました。九州の高千穂の宮を出発、海路、宇佐、筑紫、安芸、吉備、と滞在しながら、河内に上陸します。ここで土豪ナガスネヒコの攻撃を受け、兄のイツセが負傷し、海路南へ回る途中に息絶えてしまいます。
 イハレビコ(神武天皇)は熊野(三重県)に上陸し、荒ぶる神々と討伐し、吉野にたどり着きます。さらに宇陀、大室と進み、宿敵ナガスネヒコを倒し、大和で天下を治めることになりました。

 さて、この紀元節ですが、戦後、GHQによって廃止されました。宮中の紀元節祭も中止を余儀なくされました。しかし、昭和天皇は臨時御拝という形で御親拝を続けられたのです。

 昭和27年(1952年)に講和条約が発効すると「紀元節」を復活させようという国民運動がおこりましたが、共産主義者などの反対にあい、なんとか「建国記念の日」として復活しました。しかし、紀元節祭は復活せず、臨時御拝という形で昭和天皇から今上天皇へ引き継がれています。

 国家の日というのはどの国にもあり、お祝いしたりして国家を意識するものですが、日本は希薄です。GHQの紀元節や明治節の廃止や日本国憲法、公職追放、神道指令などの様々な日本破壊政策が効いているということでしょう。そして学校では日本の紀元、神話など教えないでしょう。

 もう「戦後」はいいでしょう。私たちは国家に多大な恩恵を受けています。国家の紀元を知り、今ある日本という国に感謝し、国民のために祈られる天皇陛下、国家を保ってきた先人へ感謝する素直な日本人としての気持ちを持ちたいものです。



参考文献
 PHP文庫「日本の神話と古代史がよくわかる本」日本博学倶楽部(著)島崎晋(監修)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 転展社「宮中祭祀」中澤伸弘(著)
添付画像
 月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」(PD)
 ナガスネヒコとの戦いの様子。金色の鳶(とび)がイハレビコの弓の先に止まり、閃光を放った。そのため、ナガスネヒコらは目が眩み、敗退したと伝えられている。

参考サイト
 WikiPedia「建国記念日」「紀元節」

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紀元節 平成の録音 http://www.youtube.com/watch?v=OdM4dK5wrm8

テロリストを英雄にする韓国

不思議な韓国の歴史観。

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 韓国では日本支配に抵抗した安重根(アン・ジュングン)が英雄になっています。明治42年(1909年)10月26日、ロシア蔵相と会談するためにハルビンを訪れていた初代韓国総監伊藤博文を暗殺したということからです。韓国には安重根義士記念館があり、彼の遺品や書き残したものなどを展示しています。しかし伊藤博文暗殺によって日韓併合が加速してしまっています。伊藤博文は破綻した韓国を立て直すのには莫大なお金が必要として併合には慎重でした。
 実をいうと安重根はブローニング拳銃を五発発射しています。しかし、伊藤博文はフランス騎兵銃の弾丸二発で死亡しています。つまり安重根は犯人ではないということです。彼はなんの成果もあげていないのです。

 金九(キム・グ)も大韓民国臨時政府の主席で英雄とされていますが、この人も乙未事変(いつびじへん)に日本人が関わっていたと憤慨して何の関係もない日本人を殺害しています。偶然出会った日本人、土田譲亮を撲殺したうえに所持品を奪い逃走したのです。正義でもなんでもありません。乙未事変で閔妃を殺害したのは禹範善(ウ・ボムソン)です。金九は大韓民国臨時政府で日本人要人の暗殺を指導しています。無関係の日本人を殺害し金品を奪った強盗殺人犯、そしてテロリストであり、政治的な成果はありません。そして金九は昭和24年(1949年)に大韓民国初代大統領となった李承晩(イ・スンマン)の放った刺客に暗殺されました。

 李奉昌(イ ボンチャン)も韓国で英雄とされていますが、金九から天皇暗殺の指令を受け、桜田門外において陸軍観兵式を終えて還幸(かんこう 天皇がお帰りになること)途中の天皇の馬車に向かって手榴弾2個を投げつけています。(昭和7年(1932年)1月8日桜田門事件) 爆弾は宮内大臣の乗っていたニ両目の馬車を傷つけただけでした。これも何の成果もあがっていません。韓国の民族独立記念館にはこのとき「満州国皇帝が同道していた」と書かれているそうですが、皇帝溥儀の来日は昭和10年(1935年)であり、ウソ(誤り?)もくっつくというオマケまであります。

 このほか、尹奉吉(ユン・ポンギル)も韓国では英雄視されています。昭和7年(1932年)1月、第一次上海事変がおこり、3月には白川大将率いる上海派遣軍が上陸したため支那軍は退却し、事態は収束に向かい、白川大将は停戦を命じて、外交交渉に委ねることになりました。そして4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)の式典が行われたとき、尹奉吉が爆弾を投げ、複数の日本政府、日本軍人を殺傷しました。このことが英雄視されているのです。この事件は停戦交渉を妨害しようとした支那側の謀略ではないかと疑われたほどで、和平に向かっているムードの中でのテロ行為は果たして英雄的行為か?当時の国際連盟総会のイーマン議長は
「かかる行為は断じて排斥すべき」と演説を行っています。

 まったくもって意味不明の韓国の歴史観です。われわれはこのような歴史観に付き合う必要はなく、韓国は韓国の歴史観があり、日本は日本の歴史観でよいわけですが、日本の教科書に安重根を「壮士」と書くと韓国は「壮士」にはゴロツキの意味があるとして書き直しを要求するなど、韓国は韓国の歴史観を日本に押し付けてきているのです。こうしたことは許してはならないでしょう。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『朝鮮人テロリスト列伝』花御堂久子
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)
参考サイト
 WikiPedia「安重根」「金九」「李奉昌」「乙未事変」

添付画像
 桜田門事件現場(×の地点に爆弾が投擲された PD)

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九人の乙女の悲劇

樺太でおこった悲劇。

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 昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破り、日本に宣戦布告しました。樺太では北緯50度線を越え、侵攻してきました。
 8月15日のポツダム宣言受諾後も、ソ連軍による樺太侵攻が行われ、8月20日、真岡に上陸してきました。この時に真岡郵便電信局で仕事を続けていた電話交換手9人の若い女性に悲劇が訪れました。

 16日から民間人は本土へ引き揚げを始めていますが、大半の人は順番待ちをしているところでした。真岡に上陸したソ連軍は女子供にも容赦なく砲弾、銃弾を浴びせかけます。この時、真岡郵便局には交換手12名が残っていました。17歳から24歳の若い女性です。彼女たちは強い意志で残留を希望した人たちでした。

 志賀晴代さん(殉職)の兄・満喜さん

「女子どもは引揚げることになっているのに、中学生を指導してから引揚げることになっているというし、それまで三つ編みにして伸ばしていた晴代の髪がハサミで切り落とされている姿を見て、妹に問い詰められなかった」

 晴代さんは髪をザン切りにし、新聞紙に来るんで妹たちに差出し、
「この髪を一緒に持って行って。わたしの分まで親孝行してちょうだいね」と話かけました。そして戦死した兄・寿治さんの遺品、日の丸をブラウスに腹巻のように巻きつけ、モンペの下にゲートル巻いて職場に行きました。

 運命の20日、ソ連艦隊の急襲の一報の知らせが入り、局員は急いで郵便局へ向かいます。局内にも容赦なく弾が飛び込む中、彼女たちは交換業務を続けます。そしてとうとう九人の交換手が「さようなら」の通信を最後に自決したのです。

 伊藤千枝さん、泊居局への最後の言葉

「もうみなさん死んでいます。わたしも乙女のまま清く死にます。泊居のみなさん、さようなら」

 稚内に建てられた真岡郵便局の九人の乙女の慰霊碑「氷雪の門」には当初、「昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は、青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に、日本軍の命ずるまま青酸カリをのみ・・・」と書かれていました(※1)。当時の日本人は他者から強制された死というのは恥と考えており、他のものから命令されて自決することなどありえません。また命令ではなく、自決に追い込まれていったというどこかで聞いたお決まり論もあるようです。九人は自決しましたが、生き残ることを選択した人もいます。また当初の避難勧告で避難した人もいます。自決した九名は崇高な使命感を持ち職場に残り、自ら命を絶ったのです。


※1 上田局長が否定し、後に「…その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた…」と訂正された。


参考文献
 河出文庫「永訣の朝」川嶋康男(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『樺太真岡郵便局 九人の乙女の悲劇』桜林美佐
参考サイト
 Wikipedia「樺太1945年夏 氷雪の門」「真岡郵便電信局事件」

添付画像 動画より

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あの時のことは、何故忘れ去られたのか?1/13
http://www.youtube.com/watch?v=f4aSf9XEITI


http://www.youtube.com/watch?v=ADP1JuP76l0


http://www.youtube.com/watch?v=VQiCwS_OfyM


http://www.youtube.com/watch?v=H4CGFM_iuFc


http://www.youtube.com/watch?v=ZAGrHIvlcnE


http://www.youtube.com/watch?v=WS_oFK4mvkM


http://www.youtube.com/watch?v=kpPbFnev5TY


http://www.youtube.com/watch?v=hfk6vWEjwHc


http://www.youtube.com/watch?v=4-swVPa0v2w

10
http://www.youtube.com/watch?v=PoNkgfXisEY

11
http://www.youtube.com/watch?v=FByGx4yImP8

12
http://www.youtube.com/watch?v=d6DmPW80Ke8

13
http://www.youtube.com/watch?v=GB7fosAv3t8

台湾の「君が代少年」

君が代少年の神話。

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 昭和10年(1935年)4月21日、台湾中北部を大地震が襲い、公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷きになりました。少年は虫の息になりながらも、駆けつけてきた先生を見上げて国家「君が代」を歌い、そして静かに息を引き取りました。この少年は「君が代少年」と呼ばれ学校には少年の銅像が建てられました。

 この話は新聞に載り、戦前の教科書に使用されました。それは主に国語教育の普及を目的としていました。昭和17年(1942年)に内地の教科書に載り、翌年は朝鮮半島、台湾の教科書に採用されました。台湾の「君が代少年」は瀕死の状態でも台湾語を使わず「国語」を使ったからです。

 これは作り話かもしれない、と思っていましたが、作家の村上政彦氏が取材した記録の「君が代少年を探して」によると台湾の苗栗というところの詹徳坤 ( せん とくこん )君のことで、先生がお見舞いに来たときに「君が代」を歌ったようです。徳坤君は頭を負傷したので、意識が朦朧としており、先生が来たとき朝礼と勘違いして歌ったのではないかという説もあります。

 戦後、こうしたものは皇民化教育といって否定的に捉えがちですが、国家の中で「国語」を普及させるのは当たり前の話ですし、台湾での国語の普及についていえば、台湾には多くの民族があり、民族同士で言葉が通じないので、日本語を共通語にすることでコミュニケーションが取れるようになっています。これは明治維新の時の日本でも同じで、方言同士ではコミュニケーションがとりにくく、「国語」を定めて意思疎通しやすくなっています。さらに台湾では近代化に向かうために必要な日本語の文献が読めるようになり、知的水準が向上しています。

 楊 素秋さん著「日本人はとても素敵だった」によると、君が代少年のことは当時の日本人(台湾人)が「公」というものを強く意識していた証左と述べています。台湾では学校の先生が黒板に「公」という字を大きく書いて「私」という字を小さく書く。これが国民の誉れと教え、国家と国民のあるべき精神と教えていました。おそらく内地でもそう教えていたでしょう。「滅私奉公」の精神であり、これは教育勅語の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」として国民の義務として教えられていました。
 戦時体制下、台湾でも金属などの供出が行われ、家庭でもネクレスやイヤリングといった指輪まで供出しました。楊素秋さんによると「この指輪だけは」という母に対して父が「国が無かったら駄目だが、平和になればいくらでも買えるんだよ」と言って説得したと書かれています。「公」が無ければ「私」が無いということを言っています。

 戦後、教育勅語は廃止になり、「公」を教えなくなり、滅私奉公などばからしいという風潮になってしまいました。残ったのが「私」だけとなれば国民は「求める」だけになります。求めても応じられなければ、親が悪い、世の中が悪い、政治が悪い、になります。求めに応じてもらっても感謝せず当たり前という感覚になります。我々日本人は「戦前全否定」によって大切なものを失ってしまったように思います。



参考文献
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
 平凡社新書「『君が代少年』を探して」村上政彦(著)

添付画像
 高雄駅1941年4月28日(PD)

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戦後になって民主主義になったというウソ

戦後日本人はウソを教え込まれた。

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 戦前は民主主義ではなく、戦後になってGHQが日本を変え日本国憲法が定められ民主主義になりました、と私は教えられて育ちました。ああ、GHQってありがたかったのか。戦前はひどかったのか。日本人は解放されたのだ、と思って大人になりました。

 ポツダム宣言という連合国から日本の降伏条件を記した宣言書の十項にこう書かれています。


「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化における一切の障害を除去すべし」

 「民主主義的傾向の復活強化」と書かれており、戦前民主主義的傾向があったと言っています。これはイギリスの日本専門家であるサムソン卿が加筆したものです。

 昭和21年1月1日に昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発布し、一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。 一、上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし・・・と明治天皇の五箇条の御誓文を提示し、日本には独自の民主主義があることを強調しています。明治天皇の五箇条の御誓文は自由民権運動、大日本帝国憲法につながっています。

 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で有名な武士道を説いた「葉隠」にも「正義」という分別に対して自分の信じる正義が確認され、実証されるためには、第三者の判断を待つ、という民主主義の原理が取り入れられており、古くからの日本の伝統であったことが伺われます。

 戦争中は戦時体制として軍部が主導権を持っていましたが、もともと日本には民主主義の考え方があったのです。戦時体制化でも国民の声の影響力は強く、東條英機は首相のときに、市中に出かけ、衣料品が不足している、おしめに困っている、砂糖が足りないなどの主婦の声を聞いてまわっています。対米開戦に踏み切ったのも国民が支持したからです。幣原外交に代表される弱腰外交に怒り、アメリカの執拗な嫌がらせに国民が怒ったのです。

 戦後の婦人参政権や男女平等に基づく労働基準法というのは実は大日本帝国憲法下の帝国議会で日本主導で行っています。婦人参政権はワイマール時代にドイツ留学した堀切善次郎内相と大正デモクラシーの普通選挙法を担当した坂千秋次官で行われています。大日本帝国憲法は先に書いたように五箇条の御誓文、自由民権化運動の結晶であり、運動婦人参政権や労働基準法を認めるのになんら障害にはなっていなかったのです。言論の自由や結社の自由は東久邇宮内閣が組閣(昭和20年年8月17日)直後に方針を出しています。

 このように何でもかんでも戦前は悪で、戦後のGHQが与えた民主主義によって光がもたらされたというのはGHQがつくったウソで、GHQに媚びるマスコミや知識人たちが広め、彼等はそういってきた以上、自分達の権益を守るため「ウソでした」とは言えなくなって今日に至っているのです。



参考文献
 小学館文庫「『真相箱』の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 文藝春秋「父が子に教える昭和史」『民主主義』岡崎久彦
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 新潮文庫「葉隠入門」三島由紀夫(著)
参考サイト
 昭和天皇「新日本建設に関する詔書」(国立公文書館)
  http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&REFCODE=A04017784700
 WikiPedia「五箇条の御誓文」
添付画像

 動画より

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封印された動画.flv
http://www.youtube.com/watch?v=sXIAWMZkoPA

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