日本人に助けられたユダヤ人たち
ユダヤ人は恩を忘れなかった。
昭和15年(1940年)、リトアニアでナチス・ドイツに追われたユダヤ人に対し、領事代理だった杉原千畝(すぎはら ちうね)は日本通過のビザを発給しました。その数は6000にのぼったといわれています。杉原千畝は日本のシンドラーと言われています。
杉原千畝に助けられたユダヤ人は戦後、杉原を捜し、日本の外務省に照会しますが、「該当なし」を返されます。これは杉原がユダヤ人に「センポ・スギハラ」と教えていたためと言われています。しかし「リトアニアの領事代理のスギハラ」で照会しても「該当なし」だったといいます。私にはどうもおかしな話に思えてきます。戦前の功績を隠そうとしたのでしょうか。ちょっと話しは違いますが、ジャパンタイムズの川口ユディさんが2003年に「南京大虐殺」の取材をしてアイリス・チャンの矛盾点を指摘した記事を書いたところ、なんと日本の外務省から苦情がきたそうです。おそらく外務省には日本の光を消し、GHQ製の捏造歴史を容認するような風潮が続いているのでしょう。
昭和35年(1960年)、杉原はリトアニア・カウナス領事館でビザ発給について協議したユダヤ難民の代表のひとり、ジュホシュア・ニシュリ氏と日本のイスラエル大使館で再会しました。そして杉原は昭和44年(1969年)にイスラエルを訪問し、宗教大臣のゾラフ・バルファフティクと再会します。ゾラフはこのとき杉原千畝のビザ発行が独断であったことを知り、「ヤド・バシュム賞」を贈ることになります。賞が贈られたのは昭和60年(1985年)のことです。
杉原千畝に助けられたユダヤ人の中にベンジャミン・フィッショフという人がいます。この人は日本への恩を忘れず大戦後に米国でソニーと松下電器の北米、南米地域の輸入総代理業者となります。やがてトランジスターの時代がやってくることになるのですが、この特許は米国のRCAが所有していました。しかしRCAはトランジスターにあまり関心がなかったので、フィッショフはソニーにその特許を買うように勧めます。その結果はいうまでもありません。
ショウネル・アイゼンバーグは杉原千畝のビザで助けられた人ではありませんが、昭和15年(1940年)難民として日本にやってきています。日本は敗戦後、米国の占領下では海外から原料を直接調達できませんでした。(渡航が禁止されている) そこでアイゼンバーグは日本企業に代わり、海外へ鉄鉱石の買い付けを行い、八幡製鉄所と富士製鉄に供給します。後に、三菱、日立、古河電工の海外における代理権を手にいれ世界にビジネス展開するようになります。
戦後、日本製品は品質が悪いというイメージが残っていましたが、アメリカ市場に日本製品を輸入したのは半数はユダヤ人といいます。ニコンもユダヤ人ジョセフ・エーレンライヒが35ミリカメラを作るよう進言して、大当たりしたものです。ブラザーもユダヤ人と手を組んで成功しました。ユダヤ人は商才に長けているので日本製品に目をつけたというのはあるでしょうが、ユダヤ人は日本への恩を感じており、日本人は信用を重んじる民族であるということを見抜いていたものと思われます。
参考文献
竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
オークラ出版「世界に愛された日本」
『日本ほど素晴らしい国はない』田母神俊雄・川口ユディ・西村幸祐
添付画像
杉原領事代理による手書きのビザ(PD)
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コメント
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高校生の時に、学校の課題で杉原さんの事を勉強したのを思い出しました。
今、改めて・・・やっぱりスゴイ人ですね☆
投稿: hana | 2012年2月20日 (月) 21時35分
hanaさん、コメントありがとうございます。
そうですか、高校のときに。いい学校、いい先生がおられたんですね。^^
投稿: JJ太郎 | 2012年2月20日 (月) 22時40分