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2012年3月

情報を重視した日清戦争

国家の風格は”情報”にあり。

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 明治27年(1894年)、朝鮮半島で農民の反乱である東学党の乱が勃発し、6月12日に清国は出兵しました。日本へは天津条約に基づいて出兵を通告してきましたが、通告文の中に「属邦保護」の文字がありました。日本の対韓政策は朝鮮の独立ですから、清国の兵力との均衡を保つため、出兵し、朝鮮半島の共同改革を提案しました。

 清国の出兵は6月1日に朝鮮政府から派兵要請があったからですが、日本は翌6月2日に在留邦人保護のために派兵を閣議決定しています。すばやい動きです。これは参謀次長・川上操六や外務大臣の陸奥宗光がしっかりとした情報網をもっており、どうせそうなるだろうと準備万端だったからです。この頃は政治家が個人で情報網を作っており、伊藤博文などは情報網を持っていなかっため日清開戦に慎重だったようです。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると川上はプロシャ主義に基づき、「平和」なときからの敵の政治情勢や社会情勢、それに軍事情勢を知っておかなければならないと考え、明治17年(1884年)からベトナムで清の軍隊の実情を調査させています。調査は福島安正、小島正保、小沢徳兵、小沢豁郎らに命じ、さらに青木宣純を南支に3年間潜伏させています。義和団の乱で活躍した柴五郎も北支に潜入させています。明治20年(1887年)には朝鮮の調査を行い、上陸地や輸送、戦略目標の選定などを行っています。国家国民の安全を考えるなら当たり前の行動でしょう。

 日清開戦後、日本軍は成歓の戦い、平壌の戦い、旅順の戦いと連戦連勝。日本軍は開戦前から清国は眠れる獅子というのは真っ赤なウソであり、精強な兵士はせいぜい3,4万、それでも国家のために命をささげようなどというのはほとんどいない、ということを知っており、戦えば楽勝だということを知っていたのです。
 清国軍は若い男性を拉致して兵隊に仕立てています。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあり、兵に良民なしとも言いました。散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなります。逃亡してしまうのです。だから督戦隊の監視下で団塊の状態で戦わされていました。かたまっていますから日本軍が砲撃しようものならひとたまりもありませんでした。また、清国兵は逃げれないように足を鎖で縛られたりしていました。こういった情報も持っていたことでしょう。

 なぜ、当時このように情報を重視したのか。御茶ノ水女子大の藤原正彦名誉教授はその答えを「危機感」と述べています。江戸末期の黒船来襲から始まる、西洋の脅威。そして大陸から清国やロシアの脅威があり日本人は危機感を肌で感じ取ってきていたわけです。

 今の日本はどうでしょうか。中華人民共和国、北朝鮮から核ミサイルを突きつけられていますが、どれくらい「危機感」を持って情報収集につとめているでしょうか。国民の意識はどうでしょうか・・・



参考文献
 歴史通WiLL2010・1月「国家の風格は”情報”にあり」藤原正彦
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「川上操六」

添付写真
 川上操六(PD)

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文明国を意識した日清戦争

国際法を守った日本。

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 明治17年(1884年)12月4日、朝鮮半島で独立の志士・金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)による甲申政変は失敗に終わり、日本と清の間で天津条約を結びました。
 それから10年後の明治27年(1894年)、農民の反乱である東学党の乱が勃発。東学党は平等主義を掲げ、李朝の打倒を呼びかけます。李朝は鎮圧に乗り出しますが、東学党の勢力に押され、清国に応援を求めます。日本も出兵し、日清朝の交渉と睨み合いが続き、遂に日清戦争へと発展します。

 日清戦争では日本は文明国として強く意識していました。背景としてアメリカとの不平等条約改正を交渉中だったことがあげられます。陸軍大臣・大山巌は
「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を出し、兵士たちにジュネーブ条約解説書を配り常備携行させ、国際法学者を従軍させるなどの試みを世界に先駆けて行っています。明治天皇の宣戦の詔勅にも「いやしくも国際法にもとらざる限り」一切の手段を尽くすべしと仰せられ、国際法尊重を強く求めています。そして日本軍は国際法を尊重し、清国兵捕虜の処遇は実に懇切にしていました。

 ところが、旅順戦において。『タイムズ』や『ニューヨーク・ワールド』が
「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じ、アメリカの上院が動き出しました。日本側もこの対応には苦慮しており、日本のマスメディアも反論につとめました。また、ベルギーの駐日大使のダネタンは

「その場(旅順)に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領前に避難しており、町に残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった。日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸を見ながら、何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」

と、事実を報告し日本を援護しています。

 ダネタンの「日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸」というのは日清戦争では日本兵士は清国軍に捕らえられると虐殺され食われています。シナ人にはカニバリズムという人肉を食べる習慣がありました。鼻や耳をそがれた日本兵の生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されたりしたのです。清国軍は国際法を守ることはしないどころか、非人道的な行為を行っていたのです。

 フランスの国際法学者フオーシーユは次のように日本軍を称賛しています。

「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘わらず、自らはこれを尊重した」


 フランスのフィガロ紙の記者カレスコーとイリュストラシオン紙の記者ラローの従軍記には
「大日本帝国が世界に対して誇るに足る名誉を有する」とし、栄城湾(山東半島)上陸は「毫末の乱るるなくして」整然と行われたことに感心し、上陸した村はずれの某家に「産婦あり。入るべからず」の掲示が出ているのを発見して、予想もしなかったことであると感嘆しています。

 こうした史実にもかかわらず、3年前のNHK「坂の上の雲」で日本軍が支那の村を掠奪し、従軍記者に「兵隊さん、ありがとうと言っている。と書け」と強要したシーンがあったそうで、原作にはない非常に残念な捏造シナリオです。こうして我々は印象操作されているわけです。




参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『人道を愛した日本軍』桜林美佐
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「旅順虐殺事件」

添付画像
 平壌の戦い(PD)

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朝鮮・金玉均のクーデター

日韓同志は固く結ばれていた。

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 日本の明治維新をモデルに朝鮮の独立、近代化を考えていた金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)は明治17年(1884年)12月、清仏戦争で清が敗れたのをきっかけに日本の支持を得てクーデターを決行します。甲申事変と呼ばれるものです。金玉均は若干33歳です。事大主義で李朝を支配していた閔妃一族を実力で排除し、大院君を奉じ、李戴元を総理大臣にし、自らは財務職を担当しました。

改革政策
1.朝鮮は宗主国清から独立して国王は皇帝として君臨する
2.清国への朝貢廃止
3.税制改革を行い、宦官制度を廃止する
 など14項目


 清から独立し、立憲君主制を敷くとしています。また、李朝の財政は破綻状態であり、権力者が私腹を肥やし、庶民は困窮にあえいでいたため、税制と官僚の改革を宣言しています。

 しかし、閔妃は駐留していた清軍に支援を求めます。そこで清の袁世凱は1300の軍を出動させ、王宮を攻撃。日本軍はわずか150で激しく反撃しますが、多勢に無勢なため、仁川港から撤退。金玉均、朴泳孝(ぼくえいこう/パク・ヨンヒョ)らは日本に亡命します。この事件のときの清国兵、朝鮮人暴徒の掠奪、暴行はすさまじく、日本人家屋からの掠奪は相次ぎ、各地に避難していた日本人集団は襲われ、あちこちで婦女暴行や殺戮の惨劇がおきました。

 金玉均はその後、閔妃の放った刺客に上海におびき寄せられ暗殺されてしまいます。遺体は朝鮮に送られた後、バラバラに切断され、各地でさらし者にされます。金玉均を支援していた福沢諭吉は朝鮮側のあまりにも非道な対応に激怒し、これ以降の清や朝鮮に対する福沢諭吉の厳しい言動はこの事件によるところが大きいといわれています。

脱亜論
「今日の某をなすに、我が国は隣国の開明を待ちて共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人が之に接するの風に従って処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免るべからず。われは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するなり」

 歴史が大きく転換しようとしていても金玉均らの勢力はあまりにも弱かったといえるでしょう。また甲申事変の頃は日本はまだ清国と戦う力はありませんでした。この歴史に応えるパワーは10年後の東学党のエネルギー噴出を待つことになります。そして日清戦争となります。日清戦争の日本の勝利を待たずに金玉均が亡くなったのはあまりにも残念なことでした。

 日清戦争後の明治28年(1895年)10月の乙未事変(いつびじへん)で閔妃を殺害したのは三浦梧楼ら日本人が犯人というウソがメディアを通じて撒き散らされているようですが、犯人は朝鮮の訓練隊の禹 範善(ウ・ボムソン)とみてほぼ間違いありません。日本人が加担していますが、これらの背景に金玉均が暗殺されたことがあります。金玉均が亡命中に親交を深めた日本人、岡本柳之助と月成光は事変で日本刀を振るいますが、それは金玉均の遺愛の刀でした。




参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 「世界に愛された日本」『金玉均と李完用から見た韓国近代史』櫻井誠
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 文藝春秋「韓国併合への道」呉善花(著)

参考サイト
 WikiPedia「金玉均」「朴泳孝」「甲申政変」

添付画像
 金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件(一部) ~ 国立公文書図書館

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朝鮮近代化への道

日本の明治維新のように朝鮮半島でも近代化の動きがあった。

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 明治9年(1876年)の日朝修好条規をきっかけに朝鮮では開化・近代化派が勢力を伸ばし、日本の近代化路線に学ぼうと明治14年(1881年)には大規模な視察団が来日しています。李朝は軍の近代化のために、日本から堀本礼造(陸軍工兵少尉)を招いて新式軍隊の編成に着手しています。

 明治15年(1882年)7月、壬午事変(じんごじへん)が勃発します。李朝の軍隊の棒給米が一年以上も滞っていたことに役人の不正が発覚し、怒った兵士たちは役人に暴行を加え、捕らえられた兵士たちの指導者は死刑になってしまいます。兵士たちに庶民も加わり全国的な暴動に発展しました。この頃、李朝は閔妃(ミンビ、びんぴ)一族が実権を握っており、兵士たちは王宮に乱入し、閔妃の政敵である興宣大院君奉じます。この事件では日本公使館も破壊され、堀本礼造少尉や学生、巡査などの日本人が殺害されています。
 壬午事変は清国が即鎮圧に乗り出し、大院君は天津に拘留され、清国の大軍が駐留することになり、朝鮮は再び閔妃一族が支配し、清国の属国路線に戻ってしまいました。

 日本は李朝と済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を結び、犯人の処罰と謝罪、賠償50万円を得ます。この賠償金50万円は10万円の支払いが終わったところで、40万円は近代化資金に充てるよう朝鮮政府に寄付し、小型船一隻と山砲二門も送っています日本は朝鮮の独立を支持していたのです。
 
 李朝のエリートであった金玉均(キム・オッキュン)は明治15年(1882年)2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の教えと協力を得ます。福澤は独立自主の意義を説き、人智を開発する途として洋学を教える学校の設立と新聞の発行を勧めました。そして朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力しています。さらに40名の留学生を受け入れ、その半数は陸軍戸山学校に入校させ、他の者は各種の実業学校に入り、朝鮮の軍隊及び産業の近代化の担い手たるべき教育を日本から受けたのです。
 金玉均は李朝の閉鎖的社会構造を客観的にみつめて新しい政治体系を目指すようになり、金は「開化党」の中心人物となっていきます。そして今の李朝の荒廃ぶりは李朝が貨幣鋳造権、外交権、国土防衛など国家主権の多くを宗主国清にゆだねて属国の地位に甘んじていることを原因の一つとして考えるようになります。そして甲申事変というクーデターに発展していきました。

 このように日本が明治維新を遂げたのと同じように、朝鮮でも文明開化、近代化が芽生えたわけです。これは歴史の大きなパラダイムの変化であり、抗えるものではありません。歴史学者のアーノルド・トインビーは文明と文明の接触過程を「挑戦」と「応戦」と述べて、うまく応戦できた文明は生き残り、うまく応戦できなかった文明は消滅するとしています。日本は応戦できましたが、朝鮮は応戦できず、最終的に活路を日韓合邦に求めたわけです。

 私が受けてきた教育は日本には野心があって、朝鮮半島を侵略して植民地にしたというものでした。現在でもメディアはその論調でしょう。しかしながら史実は全く異なっています。



参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『金玉均と李完用から見た韓国近代史』櫻井誠
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島 広紀(訳)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

参考サイト
 WikiPedia「日朝修好条規」「壬午事変」


添付写真
 興宣大院君(PD)

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愛国虚言

中共ではウソは正当な行為。

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 1930年代に上海におかれた米国総領事館の副領事であったラルフ・タウンゼントはアメリカ政府が支那政府を盲目的に信用し、逆に日本を敵対視していることに警告を発していました。その中にこんな言葉があります。

「中国に長くいる英米人に、『中国人の性格で我々とはもっとも違うものを挙げてください』と訊いたら、ほぼ全員が躊躇なく、『嘘つきです』と答えると思う」
「欧米では嘘は憎悪や軽蔑と同じ響きを持つものであるが、中国語にはそういう語がない。必要なかったからである。そこで、それに近い中国語を使って『嘘ではありませんか?』と言ったとしても、非難の意味はない。ましてや侮辱には全くならない」


 「愛国虚言」・・・この言葉はウソをついて国に報いるというものです。平成11年(1999年)の「日本新華僑報」で林思云という人が以下のように述べています。

「近代に入り支那人の心性には国を愛する余りの誇張表現である『愛国虚言』が出現したという。国への愛が深ければ深いほど、また国の敵への恨みが深ければ深いほど、虚言の規模は大きくなる。そしてひとたび『愛国虚言』が出現すれば、たちまち民衆にとてのタブーとなり、虚言と知りつつも敢えて異論を唱えられない状況が構築される」

 林氏によると事実を歪めたことによる重大な代償をともなったといいます。大躍進の餓死者、文化大革命の異常、天安門の民主化運動の混乱。おもしろいのは「南京大虐殺」は虚言性の故に日本人が支那に対して謝罪しなくてもよいという理由を与えてしまった、と言っているところです。南京大虐殺は「虚言性」ではなく、「虚言」そのものです。

 支那には「愛国無罪」という言葉もあります。このほか、読み方が良くわかりませんが「政治掛帥」という言葉もあります。政治がすべての学問に優先するというものです。歴史の研究は史実の研究よりも政治へ奉仕するのが優先するというものです。だから政治のために歴史を捏造、歪曲することは正当な行為となるのです。
 数年前に中華人民共和国共産党ナンバー5・李長春氏「良好な世論を作るよう努力してほしい」と日本のメディア14社に語りましたが、我々の感覚では「世論は作られる」ですが、支那の感覚では政治優先で「世論は作る」のが当たり前ということです。
 
 だから中共の政治家や知識人は「南京大虐殺」をはじめとする歴史認識やチベットやウイグル問題でもウソをつき続けます。ウソだと知っている。でもウソは国ため政治のために正当な行為だと思っているのです。

 このように支那は日本とは全く考え方が違うわけです。果たして日本はこのような国と付き合うべきなのでしょうか。

 ジャーナリストの櫻井よし子さんはブログで
「人的交流を進めることで、中国人の反日感情は必ず消えていく。日本人は日本のあり方に自信を持ってよいのだ」と述べています。(http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2007/06/02/post_515/) ブログでは中共の友人のことや留学生のことが書かれています。確かに私の経験でも中共から来日した人は日本人の礼儀正しさ、正直さ、性善説社会に驚き、賞賛し、日本流社会の中に溶け込んできます。しかし、彼らは国に帰ったらどうなるでしょうか。再び「愛国虚言」戻らないでしょうか。いや、戻らざるを得ないのではないでしょうか。   



参考文献
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 文春新書「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸 中国の真実」ラルフ・タウンゼント(著)/田中英雄・先田賢紀智(訳)
参考サイト
 櫻井よしこブログ「日本を知れば消える反日感情 日中の人的交流が示す可能性」
    http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2007/06/02/post_515/

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 建国宣言を朗読する毛沢東(PD)

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春季皇霊祭

日本の伝統を守ろう。

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 本日は春分の日です。昼と夜の長さが同じ日を祝う?何だかよくわかりませんね。祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としています。
 実はもともと春分の日は「春季皇霊祭」といい、明治11年(1878年)にそれまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋にまとめ奉祀したものす。一般の彼岸の先祖供養に相当する祭儀です。名前を変更したのは戦後占領下でGHQが皇室によって日本がまとまっているのを脅威に感じ、皇室と国民を分断するために名称を変えたのでした。

 皇居内の宮中三殿は神殿、賢所、皇霊殿とあり、「皇霊殿」に歴代天皇、皇族の霊が祭られています。皇霊祭では天皇陛下が御告文を奉せられ、玉串を捧げて御拝礼になります。皇后陛下、皇太殿下、皇太子妃殿下も拝礼されます。また、御神楽「東遊(あずまあそび)」が楽部によって奉せられます。これは第二十七代安閑天皇の頃に駿河の有度浜(現在の静岡県三保松原付近)に舞い降りてきた天人の姿を象(かたど)った舞とされます。
 この日は春季神殿祭というのも行われており、「神殿」には国内のさまざまな神が祭られており、この神々の神恩に感謝する祭儀が行われます。ここでも天皇陛下が御告文を奉せられ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。

 春分の日、秋分の日というわけのわからない名称はやめて元に戻したいものです。GHQの悪意に満ちた呪縛のままになっているではありませんか。

 日本人は古来よりご先祖を大切にし、ご先祖の霊と対話しながら生きていきます。

柳田國男(民俗学者)
「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」
「これが何れの外来宗教の教理とも、明白に食い違う点であると思う」


江藤淳(評論家)
「生者だけが物理的に風景を認識するのではない。その風景も同時に死者が見ている、そういう死者の魂と生者の魂との行き交いがあって、初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している」

 皇室とともにご先祖に感謝する日にしたいものです。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 小学館新書「明治人の姿」櫻井よしこ(著)
 展転社「宮中祭祀」中澤伸弘(著)
参考サイト
 WikiPedia「皇霊祭」「春分の日」

添付画像
 大正期の宮中三殿 大正期の宮中三殿_実業之日本社「宮廷写真帖」より(PD)

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御神楽奉納と東遊奉納 http://www.youtube.com/watch?v=qxoipupBO1g

八坂神社の舞殿で神楽奉納

日本とベルギーの友好の話

意外に知られていないベルギーとの友好関係。

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 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が起こりました。死者行方不明者10万人、避難住民190万人、70万戸を超える建物・住宅が全半壊あるいは焼失するという大惨事でした。関東大震災のニュースは世界を駆け巡りました。
 各国は日本支援に乗り出しましたが、日本中を驚かせたのはベルギーからの支援で、大国の米が2000万円、英が400万円の支援に続いて3番目が小国のベルギーの35万円でした。ベルギーは第一次世界大戦でドイツに占領され、独立を回復して間もない頃です。国土面積は日本の1/12の国です。

 ベルギーの親日ぶりは明治26年(1893年)に特命全権公使として来日着任したアルベール・ダネタン男爵によるものが大きいようです。ダネタン男爵は16年にわたり日本に駐在しました。明治27年(1894年)に勃発した日清戦争で公正な目で日本を見ています。

「アジア人の間の戦争においてはおそらく初めてだと思われるが、日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定は遵守されている」


 明治27年(1894年)11月の旅順港の占領にあたり、日本軍が住民に対して残虐行為を行った(※1)という虚偽報道がされましたが、ダネタン男爵は報道が誇張されていると報じ、更に以下のように報じています。

「その場に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領前に避難しており、町の残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった。日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」(JJ太郎注記:シナ兵は捕らえた日本兵を虐殺して食ったり、バラバラにして吊るした)

 男爵は日露戦争でもロシア兵捕虜が虐待されているという虚偽報道を是正する報道を流しています。

 ベルギーは第一次世界大戦でドイツに占領され、国王アルベール一世はフランスに亡命します。ベルギーの惨状は日本で連日報道され、日本国民にベルギー支援の声があがり、大阪朝日新聞は日本人の魂を届けようとします。欧州特派員の杉村広太郎はアルベール一世に謁見し、日本刀を献上します。備前長船、織田信長が所有していたという名刀です。大阪朝日新聞社は義援金募集のキャンペーンを繰り返し実施し、集まったお金はベルギーへ届けられました。
 大正10年(1921年)、日本の皇太子(後の昭和天皇)が皇室史上初の皇太子洋行として欧州訪問しました。予定は英仏2カ国でしたが、皇太子殿下たっての希望でベルギー、オランダ、イタリアの追加訪問が実現します。皇太子殿下の訪問が単なる見学ではなく、第一次世界大戦による文明破壊に対する弔問の意味があるのを知ったベルギー国民は感激し、熱烈歓迎しました。

 このほかにもベルギーと日本の親交エピソードは色々ありますが、長くなるので近年の話のみ記しておきたいと思います。
 昭和天皇が崩御され、大喪の礼が行われた際、欧州の王室でトップを切ってベルギーのボードワン国王が出席を表明しました。平成5年(1993年)、ボードワン国王の葬儀に天皇皇后両陛下が出席されています。これは歴代天皇で外国王室の葬儀に出席したのは初めてのことでした。


※1 米国の「ワールド」紙など6万人が虐殺されたと報じた。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「ボードゥアン1世 (ベルギー王)」

添付画像
 ブリュッセル市庁舎(CC)
 Made by Luc Viatour. : Luc Viatour / www.Lucnix.be

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日本・ベルギー交流秘話 ~日本を救った二人のベルギー人~ http://www.youtube.com/watch?v=nQAP_L6FwOs

皇室解体を目論む人たち

マスコミに潜む日本解体イデオロギー。

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 「天皇制」という言葉は大正12年(1928年)、日本共産党がその運動方針を定めた要領を討議した会議で使われ始めました。当時の日本共産党はコミンテルンの日本支部です。

「天皇制の政府の打倒、天皇制の廃止というスローガンを掲げなければならない」

 戦後、GHQピンカーズ(赤いヤツ)の手によって日本の共産主義化が行われています。木戸内大臣の姪は共産主義者、都留重人の妻ですから天皇陛下のそばまで共産主義の手が伸びていたのです。おそろしい話です。近衛文麿は日本の共産化を防ぐため活動していましたが、共産主義者ハーバート・ノーマンに仕掛けられて戦犯指定を受けて自決しました。
 戦後、都留重人とその同志のハーバート・ノーマンら共産主義者によって、天皇を敵視し、打倒、廃止するためのスローガン「天皇制」という言葉が広められました。ですから、「天皇制」という言葉を知らず知らず使っているとしたら、そのときの影響なのです。戦後、公職追放によって空席となった大学や官公庁に共産主義者が潜入しましたので、その影響はずっと今まで続いています。マスコミにも多く潜入しているでしょう。高野岩三郎という共産主義者はNHK会長になっています。この人は「日本共和国憲法私案」を書いており、天皇制の廃止をはっきりうたっています。

 約三年前の天皇陛下在位二十年でNHKは祝典をニュースで報道しましたが、少数の反天皇の集会とデモのニュースを放送しています。100人から200人規模なのにです。1000人、2000人規模の外国人参政権反対デモは報道しません。さらにNHKは祝典のニュースを夜9時、翌朝7時のニュースのトップにもって来ませんでした。「週刊こどもニュース」では取り上げませんでした。極めて不敬な話です。

 さらにNHKはこんなアンケートを実施していました。

「天皇陛下は憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うか」
「天皇陛下の公務のうち、特に意義のあるものについては?」


 天皇陛下に対する勤務評定です。これは民意によって皇室は何とでもなると宣伝し、天皇陛下の権威をおとす目的があります。さらに

「天皇制についてどのように考えるか」

 もうわかりますね。NHKほどの組織が「天皇制」という言葉が共産主義者の打倒天皇のスローガンであることを知らぬはずがないでしょう。つまり隠れ共産主義者(フランクフルト学派と呼ばれる)と北京共産党の工作の手がNHKに入り込んでいるということです。

 天皇は制度ではありません。特権階級でもありません。日本の成立と同時に自然に形成され、国民の安寧のために祈る無私の存在、祭司王です。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 WiLL2010.1月「NHKが天皇陛下の勤務評定」水島総
参考サイト
 国立公文書館 2-13 高野岩三郎の憲法改正案 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045shoshi.html

添付写真
 皇居を竹橋付近から撮影(JJ太郎 PD)

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浸透したマルクス階級闘争史観

知らず知らずに洗脳されていた日本人。

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 小林よしのり著「天皇論」で小林氏の助手のぽかQ君が皇居の一般参賀で「天皇陛下万歳」とまわりにつられてやりましたが、その後、懺悔するところが書かれています。

ぽかQ君
「実は万歳するのをためらった。俺はすごく抵抗があった。あの人たちが階級の頂上で、俺なんか底辺の身分なんだろうなあと思って!」

 こうした階級闘争史観は学校教育やメディアを通して日本人に浸透している感があります。歴史教科書では古墳は富と権力の象徴、貴族や武士が農民を搾取した、明治憲法は天皇が最高権力者、などと書いているものがあります。天皇は特権階級でも権力者でもないのですが、刷り込まれた人は天皇を特権階級とみなし、国民と対立軸にみるでしょう。

 実は私の妻も同じで、ある日私は聞いてみましたら、
「いつも一流のものを身につけ、一流のものを食べている特権階級の人」と答えました。ヤレヤレです。天皇は無私の存在であり、国民の安寧のために祈られる祭司王であることを教えなければなりません。

 また私の妻は企業も搾取的なものと捉えているようです。何か特別な主張を持っているというより自然にそんなイメージを持ってしまっているようです。経営者と労動者を対立軸に考えています。
 日本型企業というのは日本の「村社会」を肩代わりしており、わかりやすいところでいえば冠婚葬祭を手伝ったりしているでしょう。退職金制度などの福利厚生もそうで、老後や社員の家族らも含んだ考え方をします。そして日本型企業は理念型経営であり、「金儲け」でなく、「企業理念」を中心におきます。企業の所有者は株主というより社員に重きをおきます。そして企業活動の目的を顧客、社員、株主、地域社会といったステークホルダーズを融合したところにおきます。欧米などではやたら多い役員がバカ高い報酬をもらい、株主が利権を主張しますが、日本ではそのようなことはありません。

 学校教育やメディアの報道に染まってしまうと、ポカQ君やわが妻のようになると思います。もちろん私も社会人になったばかりのときは同じでした。

 会社で退職するときに余っている年休を全部消化したいという社員がいると思いますが、階級闘争史観でみると労働者の権利であるとし、経営者と対立軸で考えます。権利は行使するもの、それによって生ずることは会社が何とかするもの、と考えます。おそらく「それはそうだ」という人が多いと思います。しかし、日本型の考えは年休というものは一人が年間これぐらい休んでも周りの人や顧客に迷惑がかからないだろう、一年間通して計画的にそれぞれ取得していきましょう、という考え方をします。上記に書いたようにCompany by employee's(会社を構成するのは従業員)という考え方があるのです。そしてCompany for stakeholder'sといって会社は誰の"ため"のものかを追求しています。

 メディアも弱者に注目して権威や権力を敵視する報道をしますね。以前、派遣村のことが話題になったことがありますが、派遣でクビになった人にスポットを当てて企業がひどい、政府が悪いといわんばかりの報道をします。不況になる以前は派遣社員の組織にしばられない生き方、生活に仕事をあわせる生き方にスポットをあてて賞賛していたはずです。派遣村がマルクス系のイデオロギーに利用されていることも報道しません。

 このように我々は何でも階級闘争を通して物事を見る癖をつけさせられているのです。この階級闘争の思考はユダヤの二元論的思考法がもとになっており、マルクスが虚構理論を作ったのです。このような見方では物事の本質を見誤る危険があります。これは注意しなければならないことでしょう。



参考文献
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 週刊東洋経済2006.2.18「ミスターWhoの少数意見 リンカーンと"会社は誰のもの"」
 日新報道「日本人に謝りたい」モルデカイ・モーゼ(著)
 
添付画像
 皇居を大手町付近から撮影(JJ太郎 PD)

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フランスは世界で最高の文明国なのか

自由、平等は両立できない。偽善。

S1789


 昭和11年(1936年)頃、フランスはベトナムのハノイ、サイゴンを文明のショーウィンドウにしようときれいな建物を建てます。ところが一歩裏通りに入ると、まるで流行遅れの古い建物ばかりでした。ベトナムはフランスの植民地だった時代です。この時代、農民の1/3は土地が持てず、2/3は一畝(約300坪)前後の耕地しか持っていない状態でした。

仏印、英印、蘭印 昭和15年11月井出諦一著(GHQ焚書図書開封2より)
「農民は飢餓線上を彷徨しており、その生活費は1日2フラン15セントから1フラン20セントで、手から口への境涯(手にすればすぐ口に入る)だから、何か事があればすぐに高利貸しの世話になり、生涯うだつは上がらない。ジョセフ・F・ワーレン氏のマンダリンロード旅行記によると「月夜ならば月光の洩れようというあばら家に住む百姓は2300万人中の90%」だということであり、その多数の農民達はフランス人46,000名中11,000名が兵隊、文官4,700名、残りが産業関係者と女性達という招集者によってこんな有様に搾取されているのである」

 いわゆる西洋で貴族が農民から搾取し、うなるような財力で庶民を従えさせたことを植民地に持ち込んでいるわけです。自国は革命によってなくなりましたが、植民地で復活させたわけです。表向きは「文明」を宣伝しているのです。

「ワーレン氏をしていわしめれば、『フランス植民地行政の内幕に潜むこれらの陰影(格差)が、かつてアルベー・サローによって、何処から見ても仏領植民地中最も重要、最も開発され、最も栄えているといわれた仏領インドシナほど明瞭に看取される所はない』のである」

「英領インド、蘭領インドに比べてみれば、フランス人の支配観念が余りにも無慈悲で不親切で利己的でフランス人そのものの影の性格を遺憾なく暴露している」

 イギリス人、オランダ人と比べてもフランス人は無慈悲で不親切で利己的と言っています。フランスは自国を「世界で最高の文明国」と称して宣伝する国です。1789年世界で先駆けて人権宣言を行い、自由、平等、博愛を掲げたのですが、どうでしょう。
 フランスがベトナムに持ち込んだものにギロチンによる死刑、公開処刑、死後のさらし首、親子兄弟を投獄し全員虐殺というのもあります。これが文明国のやることでしょうか。

 現在のフランスは道路のゴミ捨てはチュニジア人やモロッコ人の担当、不動産屋はベトナム人が多く、アパートの管理人はスペイン人が多いが持ち主はフランス人。「人種差別禁止法」というのがありますが、人種差別があるからそんな法律ができるわけです。トルコとアルメニア間でアルメニア人虐殺問題がありますが、アルメニア人が多く住むフランスではアルメニア人虐殺事件を否定することを法律で禁じています。これが自由の国なのでしょうか。こうしたフランスの偽善的な人権、自由、平等、博愛は世界に撒き散らされました。そして日本ではインテリ系がこれに飛びついて自己都合の人権、自由、平等、博愛を叫んでビジネス化しているわけです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 明成社「日越ドンズーの華」田中孜(著)
 藤原書店「だから、イスタンブールはおもしろい」澁澤幸子(著)

添付画像
 1789年の人権宣言と国民の表現(PD)

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人権国家フランスの正体 ~ ベトナムと明号作戦

侵略国家は白人の国家。日本は侵略国家ではない。明号作戦!

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 1858年8月31日、ベトナムのダナン軍港に侵入してきたフランスの軍艦の砲声によってベトナムの歴史は暗転しました。圧倒的なフランスの軍事力の前にベトナムは植民地時代に入ったのです。明治17年(1884年)、清仏戦争によりベトナムは清国との朝貢関係は絶たれ、完全に植民地化されました。この後、ベトナム人はフランスの高圧的態度に憤慨し、クーデターを起こしますが、フランス軍に鎮圧され、ベトナムの皇帝である咸宜帝(ハムギてい)はアルジェリアに流されます。フランスは九歳の成泰帝(タインタイてい)をつけ、皇帝のあらゆる権力を奪い名ばかりの皇帝にします。その後、第一次世界大戦中の蜂起を機に咸宜帝は維新帝(ズイタンてい)とともにレユニオン島の流しにされました。こうしてフランスはベトナム皇帝の権力を奪い侮蔑してベトナム人を悲憤させるわけです。

 当時ベトナム人の中にはフランスびいきで裕福な家もありました。。名誉白人に相当するのだと思いますが、こういう人はパリへ留学ができます。フランスは人権の国ですからパリへ行けば人権なるものを学び帰国します。

アンドレ・ビオリス(フランス作家)「インドシナSOS」 GHQ焚書図書開封2より
上流階級に属していたベトナム人がフランスから帰国して・・・

「彼は民主主義思想を持って帰り、フランスと協力をしようと考えていた。
 船から上がると総ての「フランス帰り」と同じようにたちまち彼も迫害の的になってしまった。彼の言うには、新聞を創刊し、それによって彼が私たちフランス人から教えられた原理に従い、人間としての権威に欠くべからざる最小限度の自由を穏やかな調子で主張し始めたのだった。
 しかるに総督府はあらゆる手段を使って、この新聞を潰そうとした。すべての印刷所に命じて印刷を禁止した。郵便局はこれを配達しないか、さもなければ彼に返送した。彼は口頭または文書で抗議した。ふんじばられた。(逮捕された)」


 フランスの主張する自由と人権をベトナムに持ち込もうとすると逮捕されたのです。ひどい話です。有色人種は人ではないから自由も人権もないということでしょう。フランスの人権は自己都合のものです。

 下流階級のベトナム人がどのような扱いをうけたでしょうか。

囚人の収容施設にて

「茅ぶきのバラックが長い列を作っていて、その中の一棟に入ったとき、私たちを迎えたものは呻き声と鉄の響きと、私の小鼻から離れない腐敗の臭気だった。窓が無いので、暗さに慣れようとする私の眼に徐々に映って来るのは、足を鉄の鎖でつながれて二列にされ、木の枠に窮屈そうに詰め込まれて、坐ったり寝たりしている囚人だった。バラック一棟に二百人の囚人が収容されていて、彼等は一斉に、その熱病患者のような絶望的な眼を私たちに向けて哀願の手をさしのべた。私には黒い皮膚がその骨の上にこびりついた顔と、衰えて皹の入った唇と、一面に膿を持った傷だらけの手足が解った。
(中略)
 その生理的な衰弱は赤痢に対する抵抗力がないために、死ぬものが少なくない状態なのだ。死体の運搬は毎朝行われ、バラックの一棟に一日に平均2,3人の死亡があるということだった。
 囚人は大部分ここへ入れられてから数ヶ月経っている。彼等は何をしたというのだろう?博士と州知事とが協議して名簿を調べている間に、私はこのような質問で数名の囚人に尋ねてみた。そしてそれを私に従ってきてくれたベトナム人が通訳してくれた。不幸な囚人たちは私の問いに低いもの憂い声で答えた。彼等は税金が納められなかったのだ」


 人権国家の正体です。一応、フランスの名誉のために書いておくと上記引用はアンドレ・ビオリスさんというフランスの女性作家がベトナムでおこっている非人道的な行為をフランス本国で告発したものです。

 そして第二次世界大戦期、日本軍はベトナムに平和進駐し、フランスと同居することになりました。戦局が逼迫した昭和20年(1945年)3月9日、日本軍は反仏クーデターを発動(明号作戦)。3万の日本軍は9万のフランス軍を撃破します。そして阮朝(グエンちょう)の保大帝(バオダイ帝)はベトナム帝国としてフランスからの独立を宣言しました。ラオス、カンボジアも同様に独立しました。保大帝は
「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語りました。日本敗戦後も多数の日本兵士がベトナム軍に参加しフランスと戦っています。(第一次インドシナ戦争) 昭和61年(1986年)に8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けています。フランスは人権国家で日本は侵略国家だったなんてわけありません。まったく逆だったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)
 WEB草紙「ベトナム秘史に生きる日本人」玉居子精宏(著)
  http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0802.php
参考サイト
 WikiPedia「ベトナム」「阮朝」「ベトナム帝国」

添付画像
 成泰帝(PD)

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板東俘虜収容所

バルトの楽園。

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 板東俘虜収容所は「バルトの楽園」という映画があったので有名だと思います。

 大正3年(1914年)から大正7年(1918年)の第一次世界大戦で日本は参戦し、ドイツ領の膠州湾、青島及び膠済鉄道全線を占領し、海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。(※1) ドイツ兵捕虜は4700人余りにのぼり、その多くは日本に移送されました。板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)はそのうちの一つです。鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)にありました。

 板東俘虜収容所の所長は松江豊寿大佐です。以下は松江大佐の口癖です。

「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」

 松江大佐は捕虜全員を集めたとき以下のように訓示しています。

「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、最後まで勇敢に戦ったが、利あらず日本軍に降伏した。私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい」


 そして松江大佐は驚くような事をし始めます。収容所の正門前に80件もの捕虜たちが経営する店を出したのです。仕立て屋、理髪屋、靴屋、写真館、製本屋、アイスクリームの販売店、家具店などのほか、音楽教室、楽器修理、金属加工や配管工事の店・・・松江大佐は捕虜たちの多くは職業軍人ではなく、手に職をもち、青島や東南アジアで働いていた義勇兵であることを知っており、彼らの知識や技術を活かしたいと考えていたのでした。
 捕虜収容所の前の土地7000坪を借り上げて運動場を作り、捕虜たちはサッカー場やテニスコート、バレーコート体操場、ホッケー場などを造成します。空き地には鶏舎や菜園が作られ、ジャガイモやトマト、キャベツ、玉ねぎなどが栽培されます。収穫物は収容所が買い上げ、捕虜たちの食事として給されました。

 捕虜たちは吉野川や櫛木海岸で水遊びや海水浴を楽しみます。これを知った陸軍省は激怒。しかし松江大佐は
「あれは足を洗わせていたもので、彼らはつい泳いでしまっただけであります」と言ってはぐらかします。それで櫛木海岸で行われえる水泳大会を「足洗い大会」と称して捕虜と地元民がお祭りを行うようになります。
 捕虜たちの外出は引受人さえいれば比較的自由で、地元民はドイツの農業技術や洋酒製造、標本作成、植物採集、気象観測、設計建築、石鹸の作り方、染色などを学び、ドイツ兵捕虜は日本の養蚕や稲作、藍作や焼き物などを学びます。
 地元の青年たちが西洋音楽を習いたいという願いを聞いた松江大佐はエンゲル・オーケストラのリーダー、パウル・エンゲルを紹介し、音楽教室を開きます。日本で初めてベートーベン交響曲第九が演奏されたのはこの板東俘虜収容所です。

 やがて停戦協定が結ばれ捕虜は日本を去ることになります。松江大佐の命令遵守に感謝するという言葉に対し、通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーはこう答えました。

「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」

 「四方の海」・・・は明治天皇御製の歌ではありませんか。

 それから50年のときを経た昭和47年(1972年)、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成しました。この板東俘虜収容所についてはドイツ人捕虜のお墓を13年守り続けた日本人主婦の話やフランクフルトで「バンドーを偲ぶ会」が行われたいたなど数々のエピソードがあります。



(※1)日本はこのほか地中海に水雷戦隊を派遣している。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 小学館「SAPIO」2009.7.8『世界から感謝される”人情の日本史”』四条たか子
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 鳴門市ドイツ館 http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/
 WikiPedia「バルトの楽園」「松江豊寿」
添付写真
 板東俘虜収容所跡(PD)

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武士が搾取したというウソ

武士が農民から搾取した?マルクス階級闘争史観。

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 教育学博士の若狭和朋氏は高校時代、日本史の教師が江戸時代に武士が農民や町民から搾取したと教えられたそうです。

先生 
「搾取により百姓は米は満足に食べれなかった・・・」
若狭氏
「誰が食べたのですか?」
先生 
「支配階級の武士や大名だ」
若狭氏
「何パーセントぐらいいたのですか・・・武士たちは」
先生 
「6%くらいかな・・・」
若狭氏
「? 武士や大名の胃袋は大丈夫でしたか」
先生 
「なにを?」
若狭氏
「米は食べ物だから、酒や酢になる分を引いても、結局は食べるしかないでしょう」
先生 
「理屈を言うな・・・」

 私も子供のころ武士や大名などの支配階級によって農民は苦しめられたというようなことを教えられました。「武士は農民を生かさず殺さず」という話も聞いたことがあります。年貢など五公五民、六公四民というように重税だったとも教わりました。
 しかし、実際は江戸時代の初期に検地が終了しており、ここで村高が確定しています。この頃の幕府領400万石のうち年貢米は150万石前後ですので、年貢率は30~40%となります。そして江戸時代にも農業は発展しているわけで、生産性の向上、収益性の高い商品作物の導入、農産加工業の進展、農民の賃金収入などがあり、村高は固定されているわけですので、実質年貢率は十数パーセントから二十パーセントぐらいになっています。現代の一般サラリーマンの税金とほとんど変わりません。

 結局、われわれは西洋の貴族が農民を搾取したというような西洋型封建制度をマルクス主義史観を通して、武士も同じだと教えられたということなのでしょう。この「ウソ」は戦後に作られたものだと思います。

 以前「武士の家計簿」という映画がありましたが、その原作を見ますと、歴史学者の磯田道史氏が加賀百万石の会計係という大藩のエリートの猪山家の36年間の家計簿を分析しています。猪山家当主の直之の一年間のお小遣いがわずか19匁。現在の価値に換算すると7万2千円です。草履取りの家来は衣食住保障され、年に給銀83匁プラスお使い代などもろもろもらっており、ご主人より懐具合がいい。武士の家の使用人である下男下女のほうがかえって豊かな商業や農家だったりしています。正月には武家の女性たちが下男下女を逆にもてなしたりしています。
 この武士の姿は外国人も指摘して、財力も権力もひけらかすことのない日本の武士が農民や町人に敬意を払われていることに驚きを覚えています。

 ちなみに江戸時代は「士農工商」という身分制度があったといわれていますが、これは支那の古い書物の呼び方で「武士」「町人」「百姓」の3つが正解のようです。職業による身分の区別であっても血統ではなく、きびしいものではありませんでした。武士から百姓になるものもいれば、百姓から武士になるものもいました。また、漁業や林業も百姓であり、百姓=農民ではない。町の鍛冶屋は町人ですが、村の鍛冶屋は百姓です。百姓とはそもそもはたくさんの姓という意味であり天皇から姓を与えられた公民の総称です。

 なんだか随分ウソ教えられてきました。江戸時代に農民一揆などありましたが、体制破壊が目的ではありません。江戸時代は権力分散型社会であり、武士は特権階級でしたが財力はなく、町人に財力があり、百姓は天皇の権威の下に多数派として存在していたのです。そのため日本では西洋のような「革命」は起こりませんでした。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「国家への目覚め」櫻井よし子・田久保忠衛(共著)
 小学館新書「明治人の姿」櫻井よし子(著)
 自由社「日本人の歴史教科書」
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 新潮新書「武士の家計簿」磯田道史(著)
 講談社現代新書「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎(共著)

添付画像
 日下部金兵衛の「稲刈り」(PD)

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日本嫌いの日本人「ジパノフォビア」

おそろしきジパノフォビア。

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 教育学博士の若狭和朋さんは16世紀に最盛期となった「太陽の没することなき帝国」スペイン大帝国はイスパノフォビア(スペイン嫌悪)という自虐に陥り凋落していったと述べています。

イギリスを自慢しているやつはイギリス人だ。
ドイツの悪口を言っているやつはフランス人だ。
スペインの悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている。


 イギリスやオランダがスペインに対してプロパガンダ攻撃をしたためスペイン人は自虐に陥っていったのです。以下、プロパガンダの一部です。
「彼ら(スペイン人)は村々へ押し入り、老いも若きも、身重の女も産後間もない女もことごとく捕らえ腹を引き裂き、ずたずたにした」
「彼らは、誰が人たちで身体を真っ二つに斬れるかとか、誰が一撃の下に首を切り落とせるか・・・賭けをした」
「漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り・・・13人ずつその絞首台につるし・・・生きたまま火あぶりにした」


 こうしたプロパガンダによってスペイン人は自信を喪失し、自己嫌悪に苦しみ、自虐に親しみ、寂しく自国を嘲笑する国民になってしまったのです。

 これは現在の日本人にも言えることで、GHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって日本は侵略国家だった悪いことをした国だと教えられており、捏造の歴史で内外から攻撃されている通りです。「南京虐殺」「従軍慰安婦」「強制連行」・・・

 以前、ブログで「フランクフルト学派」の記事を書いたとき、こんなブックマークコメントが入っていました。
《「誇りある日本、美しい日本へ」最近そういう人は発見即非表示にしています 》

 日本に誇りがもてない、ジパノフォビア(日本嫌い)の例といえます。案外多くいると思います。普通に生活していくと学校教育やメディアのせいでそうなると思います。

 上智大学名誉教授の渡部昇一さんも著書の中で警告を発しています。
「日本人は日本人自身の目で日本の歴史を見るのではなく、占領軍あるいは復讐意識で凝り固まったチャイニーズ、コリアンたちの目で歴史を見るように仕向けられた。とりわけそうした"色眼鏡”をかけさせられ反日的日本人になったのが、日教組の手で戦後教育を受けた世代の人たちです。」

 渡部昇一さんの娘さんはジュネーブの日本人学校で教えているそうで、日本の外交官や商社マンの子弟が大勢きています。ある日子供の作文にこんなことが書いてあったそうです。

「日本がアメリカから原子爆弾を落とされたのは自業自得だと思います。」

 おそろしきジパノフォビアです。英国も植民地を失い国民が自虐に陥ったときがありました。米国もベトナム戦争で負けたときに自虐に陥ったときがありました。どうやって立ち直ったかというと教育改革でした。しかし日本の現政権は日教組がバックにいるため、教育改悪しかできないでしょう。日本嫌いの日本人が増えていくことが懸念されます。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 徳間書店「日本を賤しめる『日本嫌い』の日本人」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「スペイン」
添付画像
 16世紀のスペインのガレオン船(PD)

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台湾二・二八の悲劇

台湾大虐殺。

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 戦後の台湾は支那人がなだれ込んできて、汚職、不正が横行し、支那人は台湾人にたいして差別、迫害を徹底して行い、政府の役人、官憲は支那人に占められました。台湾人は「犬(日本人)が去って豚(支那人)が来たり」と言いました。犬はうるさいが守ってくれる。豚は働かずたたむさぼるだけという意味です。

 昭和22年(1947年)2月28日。台湾のラジオ放送に突然
「守るも攻める黒金のー、浮かべる城ぞ頼みなるー・・・」軍艦マーチが流れはじめます。楊 素秋(よう そしゅう)著「日本人はとても素敵だった」によると楊さんのお父さんはこれを聞いて「おおっ、珍しい、日本のニュースが入ってくる!早く来い!日本の放送が聞こえる」と喜んで皆を呼んだそうです。すると「バンザーイ、バンザーイ」「台湾人よ立ち上がれ!」と日本語の放送が流れました。

 この二・二八事件のきっかけは2月27日、支那人(外省人)の密輸タバコ取締官が闇タバコを売っていた台湾人(本省人)の老婆から闇タバコを取り上げただけでなく、所持金まで取り上げ、更に老婆を銃で殴って痛めつけたのです。それを見ていた通行人が集まり始め、中にいた元日本海軍軍人だった台湾人が見るに見かねて支那人の取締官を殴り、取締官は発砲しながら逃げ、その銃弾が民衆に当たり殺傷してしまいました。これで民衆の怒りは一気に爆発し、警察当局を包囲します。この事件の噂は一夜にして台湾全島を駆け巡り、台湾人はついに立ち上がることになります。

 翌28日、旧総督府前の広場に詰め掛けた群衆は抗議のシュプレヒコールを上げましたが、これに憲兵隊は機銃掃射を行い、死傷者十数名が出ます。各地で抗議行動が行われ、台湾人はラジオ放送局を占拠。
「元○○飛行隊の者は○○へ終結せよ」「元海南島の○○部隊の出身者は○時に台北市の○○へ速やかに集合せよ」と日本語で召集がかかり、「軍艦マーチ」「君が代行進曲」が流されます。民衆の間では「基隆に日本からの援軍が上陸したらしいぞ!」という噂まで流されたといいます。

 劣勢となった中華民国の長官府は、一時、台湾人に対して対話の姿勢を示します。事件5日目の3月4日には全省2・28事件処理委員会が設けられ、在台湾行政長官兼警備総司令・陳儀と話し合いがもたれました。しかし、陳儀は台湾人の要求を飲むようにみせかけ裏で大陸の国民党政府の蒋介石に「共産党の反乱」として密かに援軍を要請しました。

 蒋介石
「皆殺しだ。100人の無辜(むこ 罪の無いこと)を殺しても一人の共匪を逃すな!」

 蒋介石は台湾に二個師団を向かわせ、報復攻撃を開始します。支那兵はトラックに機関銃を乱射し、町の大通りを駆け抜け、男も女も老いも若きも台湾人と見るや片っ端から射殺し、民家に押し入り略奪、暴行などの悪事の限りを尽くします。そして医師、弁護士、学者、教師などの知識層は無実のまま次々と逮捕され、裁判もなく虫けらのように処刑されていきました。その数、3万とも5万とも言われていますが、実態は解明されていません。これより40年も台湾人は声を失うことになりました。



参考文献
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
 WikiPedia「二・二八事件」
添付画像
 二・二八事件紀念碑 Auth: Allen Timothy Chang (CC)

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