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2012年4月

聖帝オホサザキと昭和天皇

2000年、伝統は受け継がれた。

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  オホサザキ(仁徳天皇)は日本の第16代天皇(在位:313年2月14日-399年2月7日)です。都市を発展させ善政を敷いたため聖帝として名高い天皇です。

  あるときオホサザキは高い山に登り、山上から国を眺め国情視察を行いました。するといずれの家からも煙が立ちのぼっていません。この情景から人々が貧しいため、煮炊きができないと判断した天皇は3年間、税や使役を免除しました。
  その間、天皇も耐え忍びました。御殿が破損して雨漏りがしても修復せず、桶で雨を受けました。また、天皇自身が雨漏りのない箇所に移るという具合に自ら苦労されています。
  この仁徳天皇のあたりから天皇は宗教的な神に近い存在から、統治上の具体的な解決を示す統治者に変化してきています。そしてその特徴は人民を思いやる慈悲深さであり、天皇自らも体験して分かち合うということにあります。

  仁徳天皇のこの話は昭和天皇に通じるものを感じます。

「朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。」昭和20年8月15日 終戦の勅書 (赤誠・・・少しもうそや偽りのない心 信倚・・・信頼)

「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す」昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書の一文より。(休戚とは喜びも悲しみも、という意味)

「皇太子以下たべ盛りの子供たちはそうもゆくまいが、私の食事だけは国民と同じ配給量にしてくれ」
    ・・・戦後まもなく

「戦災の国民を考えれば私は平気だ。十日間ぐらい風呂に入らなくても構わない」
    ・・・昭和21年6月6日 巡幸に際して貨物駅に列車を止めて仮宿泊


「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物着たって当たり前だが、日本は負けて、今みんな着るものも無くてこまっているじゃあないか。洋服なんか作る気になれない」
    ・・・昭和22年夏東北巡幸を前に侍従長に洋服の新調を勧められて。

  昭和天皇は昭和19年暮れより、防空施設として造られた御文庫に住まいを移されますが、終戦後も国民に住居がいきわたるまでは、と吹上御所に戻るのを断り続けました。

「公の仕事をするには手狭なところがあるが、私生活に不自由はない、引揚者や戦災者のことを思うとそんなもの(新居)を別に造るときではないと思います」
    ・・・昭和22年6月3日 文庫の手狭な様子について宮内庁記者の質問に答えて。


「家が建ったね」
    ・・・昭和22年12月広島行幸 広島の街を眺めながら。

  昭和36年12月に新たに建てられた吹上御所に移られました。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」



参考文献
  PHP文庫「日本の神話と古代史がよくわかる本」日本博学倶楽部(著)/ 島崎普(監修)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)

参考サイト
  WikiPedia「仁徳天皇」

添付画像
  大仙陵古墳(「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より)

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昭和天皇香淳皇后その2
www.youtube.com/watch?v=hnOvL2gOPVo

昭和天皇とマッカーサーは親密だったのか

昭和天皇が国民に語りたかったこと。

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  昭和天皇とマッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。

  マッカーサーが解任されたとき昭和天皇はアメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。

共同通信 昭和26年4月15日
「玄関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやかにご歓談された」

  こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどというのを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。

  月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。

  昭和50年(1975年)、昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。
  訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウスの天皇歓迎ディナーの招待を断りました。

  明らかに昭和天皇はマッカーサーを拒否しています。

  昭和天皇はこのときの訪米を前に外国人記者団とこんなやりとりをしています。
記者
「陛下は、過去30年間における日本人の価値観の変化をお感じになりますか」
陛下
「戦争の終結以来、いろいろな人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし、広い観点からみるならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません(略)」

記者「陛下は先の質問に対するお答えで、戦前と戦後の変化はないとおっしゃいましたが、これは日本が軍事大国に復活する可能性があると、お考えになっていることを意味しているのですか?」
陛下
「考えていません。日本国憲法は日本が軍事大国になることを認めていません」

記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下
「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」

記者「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」
陛下
「いいえ、私はその可能性についてはまったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです」

  私はこれらのことを見るとGHQの政策によって洗脳され骨抜きにされた国民に対して昭和天皇はこういいたかったのではないかと思えてなりません。

「マ元帥の意思は朕の意思にあらず。日本には伝統的によいものがあり、国民は自信と誇りをもってそれを大切にせよ」 


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  「新潮45 2009/9」『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』川西秀哉
添付画像
  昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)

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【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2 www.youtube.com/watch?v=qw8N_zqbPoQ

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談

伝統によって育まれた品格。

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  添付の写真を見たことのある人も多いでしょう。この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されました。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

  この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。

作家 高見順
「かかる写真はまことに古今未曾有」

歌人 斉藤茂吉
「ウヌ!マッカーサーノ野郎」

  しかし、皇太子殿下(今上天皇)とご学友は奥日光に疎開していましたが、この写真を見るなり口々にこう叫んだというのです。

「日本が勝った!」
「マッカーサーはネクタイもしないで礼儀をしらない!」
「成り上がりの田舎っぺ!」
「アメリカはあの程度の国か!」
「日本は礼節の国だぞ!」

  皇太子殿下の前なのでご学友が気を使ったとも考えられますが、よく考えると皇太子殿下やご学友の感想は的を射ていると思います。といいますのは、日露戦争の旅順戦の水師営で行われた乃木希典・ステッセル会談を思い浮かべるからです。水師営で乃木将軍は敗軍の将にも帯刀を許し、最大限の礼をもって迎えています。会見写真は一枚も撮らせませんでした。このことは世界を驚愕させました。これは明治天皇の指示によるものです。当然、大東亜戦争当時も日本はこの精神を継続しています。ちなみに、マッカーサーの父は旅順戦に観戦武官としていましたので、マッカーサーはこの話を父から聞いているはずですが、何も学習していないと言えます。対して昭和天皇は乃木将軍より教育を受けています。

  日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉えた写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです。マッカーサーは昭和天皇が命乞いにきたと思っていました。

昭和天皇「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」(マッカーサー回想記)

 この会見の内容は口外しない約束でしたが、マッカーサーはベラベラしゃべりました。昭和天皇は昭和52年(1977年)に記者からマッカーサーとの会見内容について聞かれ、「マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした」「男子の一言は守らなければならない」とお答えになり、生涯口外することはありませんでした。


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
参考サイト
  WikiPedia「乃木希典」

添付写真
  昭和天皇とダグラス・マッカーサー 第一回会見のときの写真(PD)


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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1 http://www.youtube.com/watch?v=Ux7vS2P18kY

皇室の存在意義

世界に冠たる皇室。日本不動の核、天皇陛下。

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 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は戦後10年目の昭和30年(1955年)ドイツへ留学し、ある家庭へ招待されたときのこと、
「日本にはたしか、"テンノー"という元首がいたはずだが、敗戦後はどうなったのですか?」と訊かれました。そして「今でも天皇は戦前と変わらずに在位していますよ」と答えたところ、ドイツ人は非常に驚いたといいます。欧州では革命や戦争で敗北した元首や帝室が以前と変わらず存在しているということは信じられないことだからです。
  渡部氏はイギリスやアメリカでも日本の皇室は神話の時代から2600年以上も連綿と続いているという話をすると彼らは一様に感心すると述べています。

  世界には日本を含めて28の君主国があります。人口100万以下の君主国は9ヶ国。100万から1千万以下は11ヶ国。人口5千万以上の君主国というと日本、イギリス、タイのわずか3ヶ国となります。人口からすると日本は世界最大の君主国となります。歴史を見てもデンマークの王室が女系を含めて10世紀頃まで行き着くことができ、イギリスのウィンザー家18世紀以来で、さかのぼれば11世紀半ばのノルマン朝になります。タイのチャクリ朝は18世紀後半からの血筋です。日本は2600年の歴史があり、大和朝廷を最初に考えても3世紀半ば以来となります。

  外国人の皇室の観察をあげてみます。

  大正から昭和初期にかけての駐日フランス大使 ポール・クローデル

「日本の天皇は魂のように現存する。彼は常にそこに居るものであり、いつでも居続けるものである。・・・個々の行動を天皇に帰するのは不都合であるし、不敬でもあろう。彼は介入しない。民の問題に労働者のように口をさしはさみしない。だが、彼がそこに居なければ、物事はそれまでのように立ちゆかなくなるであろうこと、たちまち物ごとが頓挫し、逸脱してしまうであろうことは知られる通りである」

  歴史学者 ベン・アミー・シロニー

「歴史が始まって以来、日本の統一された社会、国家を象徴するものといえば天皇制であった。日本の歴代の天皇は政治手腕に欠け、経済、軍事面で非力であったにもかかわらず、他のどんな大勢力も立ち向かうことのできない、ある種の強力な権力を行使していた。他の国々とは違い、歴代天皇が日本の歴史に直接の影響を与えたことはほとんどなかったが、天皇だけが有する威力が日本人を統一させ、日本国にその正統性を与えたのであった。天皇こそが、日本の不動の核なのである」

  なかなか的を射ていると思います。もし、天皇が居なければ、ポール・グローデルの言葉を借りると
「たちまち物ごとが頓挫し、逸脱してしまう」となり国が混乱することになります。ベン・アミー・シロニーの言葉からでも、天皇が居なければ、なんらかの大権力、たとえば独裁的な勢力が出現させる可能性もあるし、日本がバラバラになり不安定になる危険がでてきます。

  こうして見ると皇位継承の問題は、日本という国の権威や日本そのものの存亡に関わような大きな問題といえます。日本人が皇室に対して無知ではいけませんし、反皇室的なメディアは日本を混乱に陥れようとする意図があることを見抜かねばならないでしょう。皇統とは何か、男系とは何か、女性天皇と女系天皇の違い、天皇陛下の祭祀のことなどをよく知っておくべきでしょう。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『世界に冠たる日本の皇室』高森明勅

添付画像
 天皇陛下がカナダのリッチモンドを訪れたときの写真 10 July 2009 Author:Shawnc (CC)

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世界最強の天皇陛下 http://www.youtube.com/watch?v=grusT6J7bXc

昭和天皇の全国巡幸

国民に勇気を与えた全国巡幸。

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 昭和20年(1945年)10月 昭和天皇から宮内府次長へ

「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」

  こうして昭和天皇の全国巡幸が始まりました。

 最初に訪れたのは川崎の工場でした。このとき、アメリカの報道陣は戦勝国の横暴を隠そうともせず、陛下を小突き回し、引っ張りまわしもみくちゃにして写真を撮りました。しかし、昭和天皇は嫌な顔ひとつしませんでした。
 
  警護していた日本人
「なんと雄々しいことだろうか。日本の再建のために、今、国民のために耐え難きを耐えていられるのだ」

  川崎の工場の士気は鼓舞され生産性はたいへん上がったといいます。

  静岡県では巡幸反対を唱える共産党員が居ましたが、昭和天皇はまったく気にせずお言葉をかけられたところ、その共産党員は陛下がお帰りの際にお召車すれすれに顔を寄せて「天皇陛下万歳!」と叫んだといいます。

  軽井沢の駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったとき、婚約者を戦争で亡くした女性教師は
「私は天皇陛下万歳といいません。そういう人間ではありません」と言っていました。しかし、お召し列車が目の前を通り、陛下が手を振っておられたとき、その女性教師は「天皇陛下万歳」を叫び号泣していたといいます。
 
  昭和22年(1947年)12月8日 読売新聞 広島行幸
「80名のいたいけな"原爆孤児"たちがお待ちする市外の観光道路で車から降りられた陛下は日夜読経に明け暮らす谷口義春(15)君など4名の法衣の孤児たちをなぐさめられ”明るく勉強なさい”と励まされると子供たちは"ハイ"と元気に返事する。(略)爆心地に近い護国神社あとの広島市奉迎場で5万人の市民の前にお立ちになった。そして陛下が浜井市長の奉迎の言葉に答えられたお言葉は、巡幸中で一番長いものであった。 - "熱心な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う、みなの受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない・・・"

  昭和24年(1949年)5月28日長崎 朝日新聞 原爆病のため面会謝絶中の永井隆博士を長崎で見舞って
「ベッドに伏したままの永井博士にお近づきになった。”どうです病気は?” "ハイ、おかげさまで元気でおります" "どうか早く回復することを祈っています、著書は読みました" このお言葉に感激した博士は"手の動く限り書き続けます”とお答えした」

永井博士が詠んだ歌
「天皇は 神にまさねば私に 病いやせと じかにのたまふ」

永井博士
「天皇陛下は巡礼ですね。形は洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、陛下の御心は、わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました」

  鉄道沿線には人垣ができてお召し列車を見送る風景が各地でみられ、昭和天皇は「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示され、人が居れば窓からお受けになりました。

 昭和天皇の巡幸は強行日程で行われ、九州巡幸では23日間、お立ち寄りの場所は190箇所にのぼり、三池炭鉱のような過酷な場所までお巡りになりました。最後の方には同行記者やカメラマンがのびている状態だったといいます。四国巡幸ではあまりの強行スケジュールにアメリカ人記者は
「この四国旅行のような、ただただ身体を酷使する旅行によく耐え得る政治家を日本でもアメリカでも知らない」と語りました。

  昭和29年(1954年)、北海道巡幸が行われました。長万部、白老、旭川ではアイヌの伝統衣装に身を固めた長老たちが日の丸を振り、陛下をお出迎えしました。長老のひとりの言葉。
 
「どういっていいか涙が出るほどのうれしさで、長生きしていればこそ、天皇、皇后さまにお会いできた。もういつ死んでも本望です」

  昭和62年(1987年)、沖縄訪問をひかえて、昭和天皇は
「戦没者の霊を慰め、長年県民が味わって苦労をねぎらいたい」と仰られていましたが、慢性膵炎で倒れられました。その思いを陛下はこう詠まれました。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

 昭和天皇のご意思は皇太子殿下(今上天皇)に引き継がれ、皇太子殿下が代わって沖縄を訪問し、天皇陛下のおことばを代読されました。

「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿を変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。(中略) 改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々や遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の苦労を心からねぎらいたい」


 昭和天皇は健康が回復すれば沖縄を訪問するご意思でしたが、もはや体調が許さず、念願の一つを果たせないまま昭和64年(1989年)、崩御されました。



参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
 昭和22年10月、山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。中巨摩郡玉幡村(現甲斐市)にて杉浦三郎による案内の様子。(PD)
 

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昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム
http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces

昭和天皇、史上初公式記者会見

記憶にある昭和天皇の記者会見。

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 私の子供のころの昭和天皇の記憶と言えば、TVで陛下が「あ、そう」とよく言われていたことを覚えています。どういう場面だったか、勲章授与の後の受勲者との会話かなにかだったかもしれません。

  小林よしのり著「昭和天皇論」では小林氏も子供の頃その印象があったようで、小林氏の父親が昭和天皇の「あ、そう」というモノマネをして、自分もそのモノマネをすると母親に「不敬な」と叱られています。小林氏は私より一回り年上ですので、昭和天皇は国民と会話するとき、長くそのようなスタイルだったのでしょう。

  あと覚えているのがTV放送された記者会見です。史上初と言っていました。最近になって調べてみると米国へ訪問して帰国したときの記者会見だったようです。それまでは戸外での立ち話形式の会見しかなく、昭和20年(1945年)9月にアメリカ人記者による記者会見が初めて報じられ、日本人記者による記者会見は同年12月に初めて報じられています。以降、年に一、二度記者会見を行うようになります。会見内容は日ごろの生活に関するものや巡幸の感想などでした。陛下が回顧的な話をされたのは昭和24年(1949年)10月6日の記者会見で皇太子時代の外遊について述べられました。昭和36年(1961年)4月24日の記者会見では還暦を迎えて皇太子時代の欧州訪問の思い出を語られました。戦争に関わるご発言が出たのは昭和38年(1963年)8月29日の記者会見で戦没者追悼式の感想を聞かれて「感慨無量」とお答えになられています。

 昭和50年(1975年)9月22日、昭和天皇は訪米を前に外国人特派員団33人と会見しました。それで国内報道陣も公式記者会見を強く望み、訪米後に国内報道陣と史上初の宮中での公式記者会見が行われました。このときにこんな問答が行われています。(昭和50年10月31日)

記者
「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」

  これはホワイトハウスでフォード大統領主催の晩餐で陛下が挨拶されたとき「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争の・・・」と述べている部分があり、これを英文でdeplore(1 …を(痛烈に)非難[批判]する, とがめる.2 …を深く悔いる, 遺憾に思う, 〈人の死などを〉嘆き悲しむ, いたむ.)と訳したため、解釈論争が起きたことが背景にあります。藤山駐米大使は「ただ"悲しんでいる"という意味である」と説明しています。

昭和天皇
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」

  言葉のアヤでなんとでも報道するマスコミやイデオロギー利用されるのを避けた妥当なお答えでしょう。

記者
「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止めれられましたか」

昭和天皇
「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っております。こういう戦争中のことですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」

  これもこの部分のご発言だけを摘んだり、言葉のアヤでさまざまな解釈が行われアレコレ言われる類のものです。映像をチェックしてみると昭和天皇は困惑気味に言葉に苦慮されお答えになられている御様子が伺えます。そもそも、訪米直後に米国を非難するご発言などできようはずがなく、記者の質問は極めて非常識でありましょう。陛下の御心は「終戦の勅書」にある通りです。

 このほか、記者から
「テレビはどんなものをご覧ですか」と聞かれ「放送会社の競争がはなはだ激しいので、いま、どういう番組を見ているかということにはお答えできません」と答えられ、会見会場が笑いに包まれたりしているところが印象的です。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
 昭和50年、昭和天皇、皇后両陛下のアメリカ訪問。ホワイトハウス内。(PD)

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1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見
http://www.youtube.com/watch?v=4b6VuxlBUYI

従軍慰安婦という捏造

従軍慰安婦は捏造された言葉だった。

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 従軍慰安婦・・・この言葉は戦後捏造されたものです。南支派遣軍福山部隊看護婦婦長・若狭ももえさんによると「慰安婦」という言葉すらそもそもあまり使われていなかったといいます。戦前は「慰安所」という言葉があり、そこで働く女性は「おんな」と呼ばれていました。戦前は朝鮮半島にいた私の祖父の半島での回想記録を見ると「慰安婦」「売春婦」「遊郭」という言葉が見られます。

 慰安所業者は軍のそばで商売すれば儲かるので慰安所を設置していたのです。そして軍は衛生上の都合や軍事機密の都合上、監視していたのです。(※1) 軍が強制的に「おんな」を狩り集めたということはありません。そのようなことをすれば軍の威信にかかわります。業者でも悪質なものは憲兵が取り締まりしています。(※2) また慰安所は民間女性の被害を防ぐ目的もありました。シンガポール首相となったリー・クアンユーは慰安所の設置でシンガポール女性の貞操を守ることができ、現実的で効率的な選択とみていました。

 韓国では「慰安婦」と「挺身隊」は同じだと教えられているそうです。「挺身隊」というのは昭和18年(1943年)に創設された14歳以上25歳以下の女性が市町村長、町内会、部落会、婦人団体等の協力によって構成されていた勤労奉仕団体のことです。女性の労働力を産業の現場に動員したということです。男性が戦争にいってしまうので、国内の労働力不足を補うためのものです。戦争があった時代はどこの国でも同じでした。韓国では在韓米軍相手の慰安婦は挺身隊とも呼ばれていたようで、このあたりから後々ごっちゃになったか、悪意ある反日思想から生まれたものでしょう。ソウル大学教授の李榮薫(イ・ヨンフン)教授によると1969年の「修羅道」という小説の中で挺身隊が慰安婦になったと書かれたことから混同が始まったのではないかと述べています。

 「慰安婦」となった女性たちは貧しい家の女性たちが多かったようです。また、業者に騙された人も多かったようです。(就職斡旋と称して) たしかに軍の強制ではなかったにしろ、慰安婦になった女性たちの運命は同情を禁じえないものがあります。しかし、そんな面だけでしょうか。
 当時は今とは全く「豊かさ」が異なります。「貧困」の中で生きるため、家族にお金を送るために耐え忍び、強く生きた女性たちの姿もそこにはあるはずです。

南支派遣軍福山部隊 看護婦婦長 若狭ももえさん談(福岡県)
「博多のさる料亭の女将さんは大陸で稼いで料亭を買い、妹と二人の弟を上の学校にやったのです。上のほうの弟は、某県の知事になりました」

 こうした話は稀ではなかったようです。朝鮮人女性でも貯金が5万円になったらソウルに戻って小料理屋をするという夢を持った人がおり、日本の軍人がそれを聞いて感動し表彰した話や、ビルマ戦線にいた文玉珠という女性は5千円もの大金を故郷の実家に送金してもまだ2万5千円が残っている貯金通帳を持っていたといいます。ラバウルで朝鮮人慰安婦が本国へ帰還する日本兵に200円預けて、実家への送金を依頼したとき、その日本兵は
”山梨にある自分の家の価格より高いな”と思ったそうです。慰安婦は月に300円~1500円ぐらい稼いでいました。陸軍大尉の月給が110円という時代です

 貧しかった時代の女性の悲劇もあれば強く生きた姿もある。歴史はこうして両面見て、未来につなげていくべきだと思います。ウソの歴史は未来にも影を落とすと思います。



※1 慰安所には軍が直接経営したもの(少ない)、軍が業者を指定したもの、軍が指定しているが民間人が利用するものとあった。
※2 女性を強制連行した業者は処罰された記事が昭和14年朝鮮の「東亜日報」にある。インドネシアでも現地女性が慰安所に連行され、軍司令部が慰安所を閉鎖、同事件に関与した将校らを処罰している。


参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
 歴史通WiLL2010.1月号「『従軍看護婦が語る』戦地の実相」若狭ももえ
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子(編)
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
参考サイト
 WikiPedia「女子挺身隊」

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 晋州の妓生の剣舞(PD)
 朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された女性。しかし実際の妓生の位置付けは芸妓を兼業とする娼婦である。(Wikiより)

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日韓合邦は韓国の文化を復活させた

易姓革命により韓国の文化は破壊されてきた。

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 日韓合邦によって日帝が韓国の伝統文化を破壊し、文化財の掠奪を行ったとか、姓を奪い、文字を奪ったというのは真っ赤なウソで、伝統文化を破壊したのは韓国人自身であり、文化を復活させたのは日韓合邦によるものです。

 韓国は支那の千年属国でしたから、易姓革命を受け継いでおり、王朝が変わるたびに前王朝の文物やすべての文化伝統を徹底的に破壊してきました。高麗朝から李朝へ交替したときには揚儒廃仏といって儒教を重んじ、仏教を排除する政策を行っています。近年でも歴史の清算なんてやっているでしょう。これも破壊の伝統を受け継ぐものです。

 韓国の旧慣、戸籍調査、本格的な歴史調査は日韓合邦・総督府時代に入ってからです。現在の貴重な文化財はすべてこの頃保存されたものです。現在の李朝の宮殿に陳列されている歴史的な遺物は日本の考古学者による発掘のものです。

 ハングル文字は1443年に二十八文字が創出されました。しかし、李朝は両班(貴族)が漢字を使っており、ハングル文字は禁止されていました。その理由は日本やモンゴル、チベットは独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからであり、彼らと同様に野蛮人になってはならない、というものです。支那を宗主として仰いでいるのだから、謀反的な行為であるという理由もありました。

 近代朝鮮語を科学的に体系化し、言語として完成させたのは金沢庄三と小倉進平という日本人学者です。日清戦争後、清国から独立した韓国に独自性を奨励しています。漢字・ハングル交じり分は福沢諭吉の提案によるものです。
 日韓合邦後、ハングルが韓国の全国民に教えられ始めます。明治44年(1911年)に朝鮮教育会が発足し、「朝鮮語及び漢文」「諺文より始めて漢文交じり文及び平易な漢文」を教育することに決まりました。そして日本人にも朝鮮語を教えています。ただ、ハングルは表記法が統一されていなかったため、統一するのには時間がかかり、ハングル学者は二つのグループに分かれ、最終的に総督府が昭和5年(1930年)に一方の主張を認めて統一することになりました。ハングルは日本人が復活させ、韓国人が民族運動としても取り入れ、総督府は協力しているのです。逆に韓国人の知識人の中には学校で朝鮮語を教える必要がない、という人がいました。朴煕道という人です。これは近代化を目指す上での言語問題を考えたことで反民族的な行為ではありません。昭和13年(1938年)に総督の南次郎と会見し、朝鮮語全廃を提案しています。しかし南次郎総督は
「日本語使用は良いが、朝鮮語排斥は好ましくない」と言って否定的見解を示しています。これは伝統文化を大事にしたい日本人の考え方でしょう。

 このように日本が韓国の伝統文化を破壊したなどというのはウソっぱちであり、歴史の捏造です。ただ、一つ留意しておきたいのは、日韓合邦時代、日本人が朝鮮半島の古墳調査を行ったとき崔南善(チェ・ナムソン)は感謝しながらもこう言いました。

「日本人の手によって初めて朝鮮人の生命の痕跡が明らかにされることは、どんなにか大きな民族的羞恥だろうか」

 韓国人にとっては真実を知っても恥であり、知りたくない真実なのかもしれません。



参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)

添付写真
 李氏朝鮮の王宮 景福宮 (PD)

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韓国の差別的身分制度を廃止した日韓合邦

朝鮮はひどい差別社会であった。

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 明治43年(1910)年の日韓合邦は日本の武力による強制というのは真っ赤なウソで韓国人が望んだものですが、既得権益者はやはり抵抗しました。
 李朝の身分制度は良民といわれる両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と賤民(奴婢、俳優、医者、巫女、白丁)がありました。両班は労働を蔑視し、国家と民衆を食い物にしていました。

 李朝末期に朝鮮を訪ねたロンドン・デーリーミラーの記者マッケンジーが役人に聞きました。
記者
「なぜ餓えている農民は土地を耕さずに放っておくのか」
役人
「耕せば耕すほど税金を取られるからだ」

 日韓合邦になるとこれらの身分制度は廃止になります。

 両班一族の日記
「おおよそ乙巳の年以降、両班と村役人たちが劫奪(こうだつ・無理に奪うこと)を受け、窮民と平民が時宜を迎えたからか、村の常漢どもが両班を名乗り、昔の呼び名はどこかに消えてしまい、争いをする時には汝や君やと呼ぶ」

 村人たちが両班を軽んじてタメ口を使うようになったということです。両班にとっては日韓合邦は不快この上なかったでしょう。
 制度を変えただけでは差別はなくならないのは当時も同じだったようで、衝平社という「白丁」の団体が身分開放の運動を1920年代に行っています。そして白丁の子弟が学校に通うようになります。すると両班が
「うちの子供を白丁の子供と同じ教室で勉強させるのか!」と怒ります。そしてデモを繰り広げるようになります。しかし、警察機構により鎮圧されました。

 中人も両班から厳しい差別を受けていました。彼らは文字も読み、計算ができる階級ですから、日韓合邦の環境変化に適応し、官界に進出したり商人として成功したり、地主として成功したりしました。子弟は日本に留学させることができました。そしてこの留学組から多くの知識人が輩出されることになります。近代朝鮮文学の父といわれる李光珠(イ・グアンス)は「民族改造論」を発表し、朝鮮文人協会を発足させました。崔南善(チェ・ナムソン)は朝鮮最初の新文化雑誌「少年」を刊行し、文化啓蒙運動を展開しました。経済学では白南雲(ペク・ナムン)が挙げられ、彼は「朝鮮社会経済史」を出版しました。(後に社会主義運動をおこす)

 日韓合邦時代に現在の韓国の近代化の基礎が出来上がるわけですが、それは人的面では李朝時代に虐げられていた身分の人たちの進出によるものです。現在、韓国ではこれらの人の多くを親日(売国奴の意味)として糾弾されていますが、とんでもない話です。韓国民にとって恩人の方々です。




参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越ニ荒之助(編著)

添付画像
 碁を打つ政府高官の両班階級 1904年 (PD)

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マニフェスト・デスティニー

白人の侵略の歴史。

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 1898年、米国はスペインと戦争を起こしました。キューバ、フィリピン、グアムが主な戦地になります。フィリピンは当時スペインの植民地で「独立させてやる」という米国の甘い言葉に乗ってスペイン軍と戦います。しかし、米国はフィリピンを植民地にしてしまいました。フィリピン人は抵抗して戦いましたがアーサー・マッカーサー(ダグラス・マッカーサーの父)の指揮で住民を殺しまくり、餓死させ、その数60万人にのぼったといわれています。(米比戦争, 1899年-1913年)

 アーサー・マッカーサーはサマール島で住民を殺しまくる米兵が逆に殺されると、報復としてこの島と隣のレイテ島民を皆殺しにします。あまりにも残忍だったので昇進を逃したといわれています。この後、フィリピン人は米軍の恐ろしさを体験し、もはやアメリカだけには反抗できなくなりました。フィリピンの小学校では全教科書が英語で行われ、教室にはワシントンの写真が貼られました。
 昭和16年(1941年)、日米開戦となるとフィリピンの米軍はダグラス・マッカーサーが指揮官となっており、日本軍を侮ったためコレヒドール島から逃げ出しましたが、二年後に再びフィリピンに戻り、レイテ島にやってきました。「島民は歓喜して出迎えた」と彼の自叙伝には書かれているそうですが、この島はマッカーサーの父が大虐殺を行ったところで、島民はそっぽむいていだそうです。
 
 「マニフェスト・デスティニー」明白なる天意、神の摂理という意味です。米国の外交政策百科事典には以下のように説明されています。

「国家の命運信仰は何も米国人だけのものではない。その信仰を持たない国家や帝国はこれまで存在しなかった。しかしながら、1840年代の『マニフェスト・デスティニー』の推進者たちにとって、この言葉は米国が政治的にも領土的にものし上がっていくのだという一般の人々による信念を反映していた。彼らはこの言葉の信念を根拠として、国家の拡大は米国民のユニークな資質 - 自分たちのエネルギー、気力、米国という国家の持つ民主的制度、自らの文明の恩恵を他の不幸な人々にまで及ぼさなければならないとする義務感 - によって実現するのだ、との考えをもっていた」

 早い話、有色人種を虐殺して領土を広げることは正当な行為としているのです。1859年に米国の司法長官は
「有色人種にキリスト教化、文明化の恩恵を与えてやろう、従属させ、征服し、君臨する権力と特権を白人は持っている」と言うような演説をして大喝采を浴びています。

 大東亜戦争で米国は対インディアン、対フィリピン、と同じように日本を見ていました。インディアン、フィリピンのような運命が見えていた日本はカミカゼ特攻隊を組織し、兵士たちは自らの命をもってして愛する日本を守ろうとしたのです。沖縄では軍民一体となり悪魔と戦ったのです。それが戦後、占領軍にとっての脅威となり、日本はフィリピンやインディアン、ハワイほどまでのことにはならなかったのです。「鬼畜米英」は単なるスローガンではなく当時の常識と言ってよいでしょう。戦後、敗戦国日本が侵略国家のレッテルを貼られましたが、それは事実ではなく、白人の国こそが侵略国家です。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 週刊新潮 09.7.30「変見自在」高山正之
参考サイト
 WikiPedia「米西戦争」「米比戦争」

添付画像
 1872年に描かれた「アメリカの進歩」(PD)

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日本人は出っ歯で近眼

日本人に対する偏見の歴史。

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 「日本人は出っ歯で近眼でチビ」・・・米国では大東亜戦争までは日本人をデフォルメして描いていましたが、軍事においても悪意で歪んで伝わっていたものがあります。

 軍事評論家のフレッチャー・プラット

「日本人は首が座る前から負ぶわれゆすられるから、バランスをつかさどる内耳に異常をきたし、急降下飛行ができない」
「近眼で鳥目だから夜間飛行はできない」
「個人主義が発達していないから一人で乗る戦闘機が被弾や故障に遭うと、何をしていいか分からない。ただ腕を組んで地上に激突するのを待つ」


 こんなことを言っていたのですから驚きです。またそれを信じた人もいるというから人種差別の強さは現代では想像できないところです。

 昭和7年(1932年)の第一次上海事変で支那軍の飛行教官だったロバート・ショートはボーイング218戦闘機に乗り込みます。そして日本の空母加賀から発進した三菱13式複座艦上攻撃機6機編隊にいきなり機銃をぶっ放していきます。日本側はなぜ米軍機が?と訝っていましたが反撃し撃墜しました。単機で6機に攻撃するなど普通ありえませんが、フレッチャー・プラットの言うことを信じていたのです。

 大東亜戦争当時もこういわれていました。

「日本人はほとんどサルに毛が生えたようなものである」
「日本の飛行機を操縦しているのはドイツ人の飛行士に決まっている」
「日本人には飛行機なんか作れない」


 そんな劣等民族が真珠湾を攻撃したのですから、驚いたことでしょう。ブレーク・クラーク著「真珠湾」では以下のように書かれています。

「われわれは日本人は独創力と想像力に欠けている - わずかに能力ありとすれば、それは単に模倣性にしか過ぎぬといったような根も葉もない話ばかり聞かされてきた」
「もしそれが真実であるとするならば、日本海軍の軍艦は荒天に乗り出すやいなや、ただちに一隻残らず転覆していなければならぬ筈である」


 戦後すぐ、淵田美津雄大佐はGHQのG2に呼び出され、真珠湾攻撃隊長だったことがわかると
「失礼ながら、われわれは日本人を侮っていましたからね。ジャップにしては出来すぎると思いました。それで指揮官はドイツ人将校だろうなどと話し合っていたのでしたがね」と語りかけられています。

 大東亜戦争を転機に米国人の日本人に対する見方は変わってきましたが、そう簡単に大きく変わるはずもなく、戦後も
「日本人にはテレビはつくれない」「自動車をつくれるはずがない」と言われたのです。映画「猿の惑星」の猿は日本人がモデルだそうです。

 今は黒人が大統領になる時代ですから、米国の人種差別意識はかなり薄れていると思いますが、まだまだどこか潜在的に残っているでしょう。



参考文献
 「歴史通」2009.10『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 講談社文庫「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」中田整一(編/解説)

添付画像
 ビゴーが創刊した漫画雑誌『トバエ』の表紙(PD)
 欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「眼鏡をかけて出っ歯」という姿はビゴーが広めたとも言われる。ビゴー自身は偏見を抱いていなかった。

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ビゴーの絵

魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア

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鹿鳴館での舞踏会のあいまの淑女のようすを風刺したビゴーのスケッチ

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ノルマントン号事件を風刺したビゴーのスケッチ

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国土が荒れた韓国を復興させた日本

韓国は破綻していた。

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 朝鮮半島は14世紀から李朝が統治していましたが、18世紀の中盤から終わりにかけて環境が破壊されていきました。人口が増え、食糧の需要が増加すると、木を伐採して山地を開墾しました。暖房に必要な燃料である薪の需要も増加し、木を切り倒しました。こうして山林が荒廃し19世紀の末になると大部分の山野が赤く禿げ上がってしまいます。

探検家 ベ・エム・ジェロトケビイチ 朝鮮旅行記 1885年
「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草もすべて燃料のために刈り取られる」
「山地が痩せていて、昨年もたくさんの餓死者が出た」
「ここは退屈極まりない土地で、山は禿山、植生はほとんどみられない」
「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は皆無で、燃料には藁と草が使われている」

旅行家 イザベラ・バード 朝鮮紀行 1894年
「ソウル、海岸、条約港、幹線道路の周辺のはげ山は非常に目につき、国土に関してとても幸先のよくない予想をいだかせやすい。朝鮮南部の大部分において、木立という名に値するものが残っているとすれば、それは唯一、墓地のあるおかげである」

 山林が荒廃すると洪水も発生しやすくなります。土砂が田畑に流れ込み農業生産が減少し始めます。18世紀の中ごろに比べて19世紀の末には土地の生産性が1/3まで落ち込んだといいます。
 しかし、租税は減免されることはなかったため、農家には大きな負担となり、各地で一揆が起こり始めます。この一揆の頂点は明治27年(1894年)の東学党の乱です。

 李朝は財政破綻し、荒れた国土は放置され、自滅しました。日清戦争で日本は韓国の独立をかけて戦いましたが、もう韓国は独力では復興できないところまできており、結局独立は無理で韓国が日韓合邦を望んだのです。日本が滅亡に追い込んで植民地化したのではありません。

 初代朝鮮総督・寺内正毅は「治山しなければ治水しても効果は無い」として、朝鮮半島の治山治水に力を入れます。大正4年(1915年)より治水調査システムをスタートさせ、気象、水位、流量、改修築予定区域の実測調査に着手します。これは10ヵ年計画の治水事業とされ、予算5000万円で帝国議会を通しました。(日本国民の血税です) 森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病虫害駆除、森林組合への補助、林業試験場の整備、地方庁職員の増員など、実践的な政策を次々に断行していきます。
 また総督府は山林を縁故者に無償で譲る法令を出し、民有化を進め、生態保護に努めます。更に、愛林思想を育成するため、農林局は明治44年(1911年)から毎年記念植樹を行い、30年間で5億9千万本の植林を果たす計画をたてます。それから砂防工事が朝鮮全土規模で実施されました。
 こうして山林は回復していき、水田面積は明治43年(1910年)の84万7千町歩から昭和3年(1928年)頃には162万町歩へ倍増していきました。

 現在、韓国では日本統治によって森林が掠奪されたという話があるようですが、それは真っ赤なウソです。



参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島 広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 講談社学術文庫「朝鮮紀行」イザベラ・バード(著)/ 時岡敬子(訳)
 祥伝社黄金文庫「歴史再検証 日韓併合」崔基鎬(著)

添付画像
 李朝時代の西大門1900年(PD)

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KOREA 韓流 日韓併合前の韓国 http://www.youtube.com/watch?v=NorHJJ78QMY


日韓合邦を亡国と思っていなかった韓国人

国家意識も民族意識も薄かった韓国人。

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 明治43年(1910年)の日韓併合は武力による植民地化ではなく、条約に基づいた併合であり、チェコ・スロバキア、ユーゴ・スラビアといったように当時では珍しくない合邦国家形態です。戦後になって「植民地」と言い出し、歴史を歪曲させたのです。

 明治27年(1895年)の日清戦争まで韓国(李朝)は清国の属国であり、一部の知識人を除く朝鮮人には「国家」の意識が薄く、更に、朝鮮民族という「民族」の意識も非常に薄いものでした。「民族」というのは日本語であり、日韓合邦後に朝鮮半島に広まり「民族」の意識が芽生えたようです。現在、韓国人は白頭山(はくとうさん/ペクトゥサン)を民族の聖地としていますが、これは日韓合邦後に生まれた学説です。

 民族意識が薄かった韓国人は日露戦争後、一進会を中心に日韓合邦を望みました。

 明治42年(1909年)12月「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)
「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかもわからないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

 国家意識も民族意識が薄い韓国人は日韓合邦を亡国とは思っていなかったようです。思想的には一進会の宋秉畯(ソン・ビョンジュン そうへいしゅん)は超民族主義者としてアジアの大勢を見ていたようです。

「連邦制では強固な国家足りえない。合邦する以上、日韓を不即不離のものとするため、韓国皇帝のすべてを日本天皇陛下に委譲することがもっとも現実的な方策だ」

 こうした一進会の動きに反対した勢力は李朝・守旧勢力であり、国家が消滅すること、朝鮮民族のことを心配して反対したわけでなく、既得権益が損なわれるから反対していたわけです。戦後、この歴史は歪曲され、一進会は日本の御用団体にされ、李朝・守旧勢力が「義兵」にすり替えられてしまいました。朝鮮民族が極貧と飢餓で疲弊しており、日韓合邦によって救われたことは隠しています。第二次世界大戦後、アメリカに擁立された韓国の政権が政権の正統性を作り出すために国家的に偽史を作り上げたのです。日本では学校教育や偏向マスメディアによってアメリカ製のウソの歴史が広められました。



参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著) / 永島 広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)

参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「白頭山」「一進会」

添付画像
 一進会会長 李容九(労働経済社「映像が語る日韓併合史」 PD)

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日本が韓国人から土地を収奪したというウソ

ウソを撒き散らすマスコミ。

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 ジャーナリストの水間政憲さんによると平成17年(2005年)に枚方市人権制作室が実施した「人権課題に関する市民意識調査」では「現在、日本に住んでいる韓国・朝鮮人の多くは、かつて日本の植民地政策によって農地を奪われたりして、日本への渡航を余儀なくされたり、あるいは戦争中に労働力として強制的につれてこられ、差別を受けてきた人々やその子孫であることが多いといわれています。あなたはこのような歴史的経過を語ご存知ですか」とアンケートをとったところ「知っていた」が84%であり、そのうち、
「新聞・雑誌などで読んで知った」が64.9%と1位だったそうです。これらは大嘘なのですが、嘘を垂れ流すのがマスコミであることが良くわかる事実です。

 もともと朝鮮半島では李朝が公田制を敷いていましたが、一部豪族の反対で私田収租権の世襲を公認せざるを得なくなり、公の収租地が有力豪族が官吏の私有地になったり、公田の名を借りた私田の略奪があったりして暴力による土地収奪や所有にめぐる抗争が絶えませんでした。李朝の土地制度と租税制度は混乱の域に達していたのです。
 日韓併合後、明治43年(1910年)から大正7年(1918年)にかけて土地調査事業が行われて、これにより土地所有が確定されています。所有が証明できない場合や所有権が明確でないケースにおいて国が土地を接収しました。これによると日本が朝鮮政府から引き継いだ農地はわずか2.7%です。引き継いだ農地は割賦払い下げしたり、その代金で教育機関の増設や水利および農業の調査奨励など国利民福を推進しています。

 李榮薫(イ・ヨンフン)著「大韓民国の物語」によると氏は土地調査事業当時に作成された文書群が大量に発見されたときの研究発表で一働きしており、総督府は国有地をめぐる紛争の審査においては公正であり、さらには、既存の国有地であっても民有である根拠がある程度証明されれば、これを民有地に転換するという判決を下すのに吝(やぶさ)かではなかったと述べています。※1

 朝鮮では李朝時代、土地制度がくずれて農地は官僚や貴族たちの争いの場になりましたが、日本統治により農民による土地所有権が確立したばかりでなく、耕地面積はどんどん増え、匪賊の出没から朝鮮農民を保護していたのです。


<参考>耕地面積(単位:町)
1910年 2,464,904.4
1929年 4,392,115.6

<参考>農業戸数
1928年(昭和3年)
内地人:               10,390人
朝鮮人:            2,801,827人
満州国人及び中華民国人     3,039人

1942年(昭和17年)
内地人:                5,893人
朝鮮人:            3,043,465人
満州国人及び中華民国人     4,087人

※1 李榮薫氏 2004年韓国日報のインタビューに答えた主張
「私が日帝植民地時代のイメージを修正するようになった個人的動機は、1990年、日帝の<土地調査事業共同研究>のために全国を巡回し、土地台帳など原資料を蒐集(しゅうしゅう)したことだった。
 慶南・金海市には、大量の原資料が残っていた。それらの資料を検証して、教科書とはあまりにも異なる内容に驚いた。『土地申告をやらせて、無知な農民たちの未申告地を容赦なく奪った』と教科書の記述にあるが、実際はまるで異なり、未申告地が発生しないよう綿密な行政指導をしており、土地搾取が発生することのないよう、繰り返し指導と啓蒙を進めていた。
 農民たちも自身の土地が測量され、地籍簿に記載されたのを見て喜び、積極的に協調した。その結果、墳墓・雑種地を中心に0.05%程度の未申告地が残ったにすぎない。それを知った時、私が持っていた植民地朝鮮のイメージは、架空の創作物にすぎないものであったことを自覚した




参考文献
 SAPIO2009/11/11「朝日新聞<朝鮮版>の研究」水間政憲
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島 広紀(訳)
 祥伝社黄金文庫「歴史再検証 日韓併合」崔基鎬(著)

添付画像
 戦前の安州市街 国書刊行会「望郷 朝鮮」より(PD)

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海戦も圧勝した日清戦争

陸戦も海戦も圧勝した日本軍。

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 明治27年(1894年)~明治28年(1895年)の日清戦争で日本軍は陸戦で連戦連勝しました。海戦でも9月17日の黄海海戦で北洋艦隊を撃滅。清国の残存艦隊は威海衛に集結したため日本軍は陸海より攻撃することとし、明治28年(1895年)1月末に陸軍第二軍の一部が山東半島の栄城湾に上陸。威海衛の砲台を占領しました。海軍は2月初旬に、水雷攻撃で清国の旗艦・定遠をはじめとする諸艦を撃沈しました。北洋艦隊は2月12日に降伏し、17日に日本軍は軍港威海衛を占領しました。

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると海戦は清国が断然有利と世界の専門家が予想していました。清国には定遠、鎮遠という本格的戦艦があるのに対し、日本艦隊は巡洋艦が主力であり、大艦巨砲が勝利の決め手になるという絶対原則から当然そう考えられていました。ところが米海軍の少将ジョージ・E・ベルナップは日本海軍の全面勝利を予想しました。ベルナップ少将は日本の司令官が22隻の艦隊を連動させているのを見て、英国艦隊となんら遜色がないことから、練度の低い清国艦隊が相手であれば、結果がどういうものか容易にわかると述べました。実際結果はその通りとなりました。

 日清戦争前の明治19年(1886年)、清国海軍の定遠、鎮遠が長崎に寄港しています。その威容に日本国民は戦慄しました。東郷平八郎は呉でこの艦隊を見ています。そして
「こんな国怖くない」と断言しました。呉に寄港中、清の兵士たちは洗濯物を戦艦の大砲に干していたというのです。

 日本海軍は定遠、鎮遠に対抗するため松島型防護巡洋艦三隻を建造しています。これにはちょっとしたエピソードがあります。それぞれ松島(まつしま)、厳島(いつくしま)、橋立(はしだて)と日本三景にちなんで命名し、三景艦といわれました。なんだか強そうな名前の付け方ではないですね。この三景艦はフランスからエミール・ペルダンという造船技師を招いて建造しました。ところが、排水量に比べて定遠を上回る32センチ砲を一門添えて一点豪華主義のようになっており、実戦には疑問がつきました。しかも松島の主砲は後ろ甲板につけるという???でした。実は前甲板と後ろ甲板に32センチ砲をつけた2隻ずつ合計4隻造るつもりで、定遠、鎮遠の砲門と排水量に対する数合わせでした。しかし、こういう妙な設計は特別な戦術や訓練も要するわけで、さすがに海軍首脳部はおかしいと気づき、三隻でエミール・ペルダンとの契約を解除し、エミール・ペルダンの顔をたててあげるため「三景艦」と名づけて、「もともと三隻を予定していた」ということにしたわけです。他人の名誉をも重んじる日本人らしい気遣いです。三景艦は海戦で主砲は役に立ちませんが、副砲である速射砲と高速の運動性能により大活躍しました。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「松島型防護巡洋艦」「鎮遠 (戦艦)」

添付画像
 松島型防護巡洋艦(PD)

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