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2012年5月

史上初、戦車による夜襲敢行 ~ ノモンハン事件

当時、戦車による夜襲は考えられなかった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。

  関東軍所属第一戦車団の戦車第三、第四連隊は6月20日、ノモンハン地区への出動命令を受領しました。そして安岡正臣中将を隊長とし、歩兵、砲兵を加えた安岡支隊を編成します。

  7月2日、攻撃開始。安岡支隊はバルシャガル高地南西のホルステン河とハルハ河の合流地点「川又」地区へ向けて攻勢をかけます。吉丸清武大佐率いる戦車第三連隊はハルハ河に沿って進み、玉田美郎大佐率いる戦車第四連隊は右翼で肩を並べて進撃。しかし、歩兵は既に灼熱の中、長距離行軍した疲れもあり、戦車との共同攻撃に追随できず、戦線後方に取り残されがちでした。また、ソ連軍のハルハ河西岸の銃砲や前進方向の野砲、対戦車砲を浴びせられ次第に前進が困難となりました。

  玉田連隊長は戦局打破のためには戦車第四連隊による夜襲しかないと考えました。

「連隊長としては、夜襲しようと考えるが、各人の意見はどうか」

  当然、すべての中隊長の反対にあいました。戦車というのは視界が悪く、夜に走らせて攻撃するのは無謀であり、しかも地理、地形がよくわかっていない場所です。夜襲の研究も訓練も行っていないし、連隊で夜襲かけるなど前例もありませんでした。しかし、玉田連隊長は強い決意で夜襲を敢行します。

  前進開始から30分すると激しい雷雨が周辺地帯を襲いました。この雨が戦車のエンジンの音をかきけしました。雨はちょうど戦車隊がソ連軍の前哨陣地に到着したあたりでやみました。稲妻に照らし出された日本戦車にソ連兵は驚愕しました。日本軍九五式軽戦車は車載機銃や37ミリ戦車砲を撃ちまくり、停車していたトラックや陣地に張られていた天幕を次々炎上させ、多くの火砲をキャタピラで踏みにじりました。救援にかけつけたソ連BT戦車やBA-6装甲車を集中砲火で撃破しました。大成功です。

  玉田連隊長
「敵はわが猛撃に周章狼狽して射撃もできず、肉薄攻撃してくるものも一人もいない。わが戦車は敵を追いまわし、射撃し蹂躙した。逃げ遅れて壕あるいは砲下のしたに隠れる者は機関銃、拳銃をもって射殺した。戦車をもって砲架に乗り上げ、または体当たりで砲をひっくりかえし、あるいは縦横無尽に暴れまわり、対しては至近弾をぶっ放すので敵はたちまち敗退し暗中に逃れ去った」

  残念ながら戦車隊は歩兵を伴っていなかったため、陣地確保はできず、その後の戦果拡大にはつながりませんでしたが、ソ連側に大打撃を与えました。

  俗説ではノモンハン事件で日本戦車はソ連戦車にかなわなかった、日本戦車隊は敗退した、と言われてきましたが、全くのウソです。日本戦車は小隊ごとのフォーメーションをとった連携ぶりが際立ち、相互に火力支援を行うことによりソ連装甲車両や対戦車砲を討ち取っていました。非常に高い水準の練度を有していたのです。

  この後、関東軍は戦車隊が消耗すると今後、戦車部隊を育てる芽を失うと懸念したため7月中旬ごろ戦車隊を戦線から引き揚げさせます。このことも戦後のウソ作りに使われたようです。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「世界初、雷雨を衝く夜襲!敵戦線を崩壊させた戦車第四連隊の奇策」古是三春


添付画像
  ハルハ河地区で休息中の戦車第三連隊 歴史街道2011.05

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ソ連機械化部隊を撃破 ~ ノモンハン事件

ソ連の機械化に歯が立たなかったというのは誤りだった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。5月の戦闘を第一次ノモンハン事件といい、日本側の損失は290名、ソ連側は推定600名でした。ソ連ではフェクレンコ司令官が解任され、ジューコフが司令官となりました。6月から9月を第二次ノモンハン事件といいます。

  ノモンハンの日本軍はソ連の機械化部隊に歯が立たなかったと言われてきましたが、それはウソでした。ソ連機械化部隊は大損害を受けていたのです。

  6月17日、ソ連軍司令官ジューコフは越境禁止命令を解除し、満州国諸点を爆撃。地上軍は満州軍を攻撃。日本軍は6月27日にハルハ河を越えて蒙古領内のタムスク飛行場を爆撃。不拡大方針の大本営は驚き、これより飛行制限するよう命令が発せられます。

  7月2日に日本軍はハルハ河を渡り、ソ連戦車団と大激戦を繰り広げます。ソ連車両の装甲は前面でも11ミリ、側面では6ミリであり、速射砲でしとめ、装甲車などは13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来ました。そればかりか、たまたま日本のトラックが戦車に追われたとき、荷台のガソリン缶を落としたら戦車に当たり燃え出したことから、火炎瓶でも軽く炎上することがわかります。そして日本歩兵がガソリンを入れたビンを熱いエンジンにぶつけて炎上させました。戦車はそもそも視界が悪く、ソ連戦車団は走行射撃の技術がないため、火炎瓶攻撃の餌食になりました。

  三輪義男伍長
「日本の速射砲はよく当たりますね。威力があると思いましたよ。撃った弾は全部命中したように思います。パっと火が見えたと思うと黒い煙が上がる。弾が戦車に命中したのが見えますからね。ほとんどやっつけたように思います。」

  前田義夫軍曹
「速射砲は秘密兵器でしたね。正式名は九四式三七対戦車砲と言ったと思いますが、一発づつ発射するものの、射手が熟練すると一分間に30発以上発射できるようになります・・・7月3日、台上の対戦車戦で見事な成果を上げたんです。40台以上のソ連軍戦車を沈めたんです。うちの速射砲中隊ですよ」

  辻政信 ノモンハン秘史
「次々に必中弾が浴びせられ、合計7両を約10分間に炎上させた。10発の弾である・・・約半数をやられた敵は、我が陣地に突入することなく、反転して退却した」

  しかもソ連軍は戦車団の先頭に指揮官が乗っていたため、これをやっつけるとあとは、司令塔を失い、右往左往するので、装甲の薄い側面を見せはじめ、こうなると速射砲の独壇場になったと日本兵士が語っています。最終的にソ連の戦車は800台以上破壊されました。

  ソ連側の記録ではBT戦車などの装甲車両の損失の多くは速射砲や九ニ式七センチ歩兵砲、その他の七五ミリ口径の山砲や野砲による直接照準によるものが主で、その次に日本歩兵・工兵の肉薄攻撃に用いられた地雷や火炎瓶によるものとされています。

  ノモンハン戦の記録についてソ連側の公式発表は誇張や捏造が多いようで、これは良い戦果をあげられないと粛清の対象になる恐怖から戦果を捏造したと考えられます。日本側も情報不足で大敗したと錯覚したようですが、実際にはソ連軍7万7千(23万とも)に対して関東軍3万で互角以上でした。大東亜戦争終戦後も戦前全否定、日本軍否定の中、東京裁判史観を持つ蛸壺歴史学者たちが事実を無視して日本軍大敗論、機械化部隊に歯が立たなかった、と語り継いでいったのでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
  安岡支隊の首脳部。右から安岡中将、砲兵隊の将校(後ろ向き、玉田部隊長、吉丸部隊長、山縣部隊長(後ろ向き鉄甲) 歴史街道2011.05より

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天皇皇后両陛下の被災地お見舞いと福祉施設ご訪問

大御心はありがたい。

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  天皇皇后両陛下は国内に災害などがあると災害後間もない被災地にお見舞いに行かれます。東日本大震災では平成23年3月31日、東京武道館に避難している被災者のもとを訪問され慰問されたのを皮切りに各地の被災地を訪問されています。武道館ご訪問の報道によると両陛下はすべてのグループをお声がけされ、時間が50分もオーバーしています。両陛下のスケジュールは分刻みですので、侍従は何度も陛下に耳打ちしたと思いますが、こういうケースでは陛下はお聞き入れにならないそうです。食事の時間を削ったりして調整されるといいます。

  平成23年4月14日には千葉県旭市を訪問され、初めて被災地に入られました。両陛下はいつもの通り、膝をついて被災者の方々と同じ目線でお言葉をかけられます。こうした光景は平成に入ってから見られるようになりました。昭和の時代は少し違い、戦災を受けた国民を励ますための全国巡幸が行われています。


  両陛下の被災間もない現地ご訪問 ()は災害発生日
  ・平成  3年  7月10日    雲仙普賢岳の大火砕流被災地へ(6月3日)
  ・平成  5年  7月27日    北海道南西沖十進で津波の被害にあった奥尻島へ(7月12日)
  ・平成  7年  1月31日    阪神淡路震災の被災地へ(1月17日)
  ・平成16年11月  6日    新潟県中越地震の被災地へ(10月23日)
  ・平成19年  8月  8日    新潟県中越沖地震の被災地へ(7月16日)


  この他、災害からしばらくたっているものの、伊豆諸島で続いた地震や三宅島噴火の被災地の復興状況視察やお見舞い、福岡県西方沖地震被災地の復興視察に行かれています。
  両陛下は現地の復興作業に迷惑かけないため、自衛隊のヘリや小型機を使用されたり、マイクロバスをお使いになり車列を短くするなど様々な配慮をされます。警備も最小限にするよう現地警察に申し入れたり、県警本部の本部長の同行を「復旧作業の指揮にあたってほしい」とお断りになることもあります。

  天皇皇后両陛下は被災地ご訪問のほか福祉施設を訪問されます。年3回定期訪問されます。


  子供の日前後・・・児童福祉施設
  敬老の日前後・・・高齢者福祉施設
  障害者週間前後(12月3~9日)障害者福祉施設


  このほか天皇陛下は皇太子時代より特に思いをかけられていることにハンセン病患者のことがあり、昭和50年(1975年)には沖縄の「沖縄愛楽園」を視察されています。両陛下は地方行幸啓の際に周辺に療養所があった場合、必ずと言っていいほど訪問されています。大正天皇の皇后、貞明皇后がハンセン病の予防救済に尽力されていたことを受け継がれているのだと思います。

  こうした皇室の福祉には伝統的なつながりがあり、日本最初の福祉は奈良の大仏を作った聖武天皇の皇后、光明皇后が開いた悲田院、施薬院といわれています。

  明治以降、主に皇后陛下が福祉に力を入れられ、昭憲皇太后は東京府養育院東京慈恵医院に多額のお金を下賜、看護学校の卒業式にご出席されたり災害や事故があると慰問し、お金を下賜しています。また聾学校や身障者の保護にご熱心でした。現在の皇室の福祉の取り組みは昭憲皇太后が原型をお作りになったといわれています。韓国で福祉活動をされた李方子妃殿下もこの影響を受けてのことでしょう。

  赤十字には「昭憲皇太后基金」というのがあり、明治45年(1912年)の第9回赤十字国際会議で昭憲皇太后が寄付した10万円(現在の約3億5000万円)をもとに創設され、その利子は各国の赤十字社に配分して保健衛生事業や災害救護活動に役立てられています。ちなみに美智子皇后陛下は現在、日本赤十字社の名誉総裁をお務めになっています。

  天皇皇后両陛下の福祉への思いは「大御心」であり、それは伝統として受け継がれているものです。常に天皇皇后両陛下は国民とともにあり、大御心は健常者が普段忘れがちな障害者にもちゃんと照らされているのです。



参考文献
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
参考サイト
 WikiPedia「東日本大震災に対する皇室の対応」
 宮内庁
  東北地方太平洋沖地震に伴う避難者をお見舞(東京武道館(足立区))
   http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110330-1820.html
  被災者お見舞(旭市海上公民館(旭市))
   http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110414-1838.html
 両陛下、都内の避難所をご訪問 すべてのグループに声をおかけに+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
  http://ceron.jp/url/sankei.jp.msn.com/life/news/110331/imp11033101240000-n1.htm

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東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば
http://www.youtube.com/watch?v=YhyYGt3F0C0



東日本大震災1周年追悼式
平成24年3月11日(日)(国立劇場) 天皇陛下のおことば

  東日本大震災から1周年,ここに一同と共に,震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
  1年前の今日,思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ,ほぼ2万に及ぶ死者,行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め,危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
  さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
  この度の大震災に当たっては,国や地方公共団体の関係者や,多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ,被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で,避難者の心を和ませ,未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に,被災者や被災地のために働いてきた人々,また,原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を,深くねぎらいたく思います。
  また,諸外国の救助隊を始め,多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも,日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆(きずな)を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
  被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ,被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく,子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
  今後,人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


宮内庁 http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h24e.html

太陽の先生と呼ばれた東中佐 ~ ノモンハン事件

日本はナラン・オルシス(太陽の国)と呼ばれていた。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。5月11日から6月中旬までを第一次ノモンハン事件といいます。

  5月14日、外蒙古軍による越境があり、満州国軍が撃退しましたが、翌日以降も外蒙古軍が越境攻撃してくるので、第23師団長・小松原中将は東八百蔵中佐を隊長とする捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)を派遣しました。東捜索隊が現地に到着すると外蒙古軍は退却しましたが、東捜索隊が引き揚げるとソ蒙軍は再び越境。21日、山縣大佐率いる歩兵第64連隊に攻撃命令が下り、27日夜半より攻撃にでます。東捜索隊は敵陣後方へ回り込みました。

  28日、山縣連隊は敵第一線陣地を奪い、ハルハ河の橋梁方面に進出しようとしましたが、ハルハ河左岸からソ連軍が砲撃してきて、戦況が進まなくなり、敵陣深く侵入した東捜索隊と連絡がとれなくなりました。

  関東軍参謀の辻政信参謀はノモンハンに到着すると東捜索隊危急を知り、30日、山縣隊の本部へ行きます。しかし、東捜索隊の消息がわかりません。夜間になり山縣連隊が前進し、遂に東隊を見つけました。全滅です。周りにはおびただしい敵戦車の轍痕(てっこん)があり、死体は半数以上は焼かれていました。火炎放射の戦車か死傷者にガソリンをかけて焼いたものでした。

辻参謀
「三人で一人の屍を担げ、手ぶらのものはかえってはならぬ。一つの死体を残しても皇軍の恥だぞ」(※1)

  山縣隊700名は約200の死体を担ぎ陣地へ戻りました。

  東捜索隊29日夕刻に全滅していました。生き残った池田軍医中尉の目撃談では東中佐らは最後19名ほどになり敵に包囲され、突撃攻撃を試みました。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れました。これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまいました。池田軍医は日没を待って負傷者に後退を命じて離脱しました。

  東中佐の戦死は山縣連隊長が砲隊鏡で目撃しており、東捜索隊の鬼塚軍曹が山縣隊に伝令に来たときにそれを聞いています。鬼塚軍曹は「砲隊鏡で見えるほどのほんの2キロくらいの距離なんです」と語っており、辻参謀が「(山縣)連隊長に東部隊の戦況を聞いたが何もわかっていない」と語っているのは不思議です。生き残った東捜索隊の兵士たちは山縣連隊を呪ったといいます。
  東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と呼ばれていました。日本兵捕虜から聞いたのだと思います。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいたそうです。モンゴル人が日本をどう思っていたか垣間見ることができます。

  平成2年(1990年)にノモンハンの戦場で慰霊が行われ、そのとき東中佐の三女の方が出席しました。同行していた言語学者の田中克彦氏はモンゴル軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していったそうです。



※1 辻参謀は遺体収容には参加していないという証言がある。

参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
添付画像
  最大の戦闘となったノモンハン事件中のソ連軍(PD)

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日ソ、ノモンハンで激突

ついにソ連が仕掛けてきた。ノモンハン事件。

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  昭和13年(1938年)、外蒙古(モンゴル)から満州国へ166件の越境事件が起こました。昭和14年(1939年)に入ると1月に来襲してきたソ連軍を逮捕。2月から4月にかけて17件の越境事件が起こります。

  同年5月4日、外蒙古兵がノモンハン地区を襲撃してきました。いわゆるノモンハン事件のスタートです。5月11日、外蒙古軍がが越境、これを満州国軍が撃退。15日、東捜索隊が現地到着し、ノロ高地のソ・モ軍を追い払いました。渡河退却中の外蒙古軍を軽爆撃機で爆撃。17日、東捜索隊はハイラルに帰還しますが、捕虜の尋問からソ・モ軍がハルハ河右岸に集結したとの情報を得て1,600の日満軍が出動します。ソ連のスターリンが外蒙古制圧と日本に一撃を与えて東欧に進出するために国境紛争を起こしたのです。

  これまでノモンハン事件で日本軍はソ連の機械化部隊の前に歯が立たなかったと言われてきましたが、ソ連の主力BT-5快速戦車の最大装甲は公式には13ミリで、前面11ミリ、側面では6ミリであり、日本軍は速射砲で破壊しまくりました。「一千メートル以内に入れば日本軍の速射砲は百発百中だった」(軍曹 前田義夫氏)。BA-6装甲車にいたっては最大装甲が8ミリで、13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来できました。しかもソ連戦車団は走行しながら砲撃する技術を持っておらず、当初は戦車に歩兵を随伴していなかったため、視界の悪い「鉄の棺おけ」状態でした。日本兵は容易に接近し、戦車に上り、戦車砲や機関銃を打撃して、照準を狂わせ使用不能にしたり、火炎瓶攻撃で破壊しました。

  航空機戦でもソ連軍は燦々たるものでした。日本側の主力は九十七式戦闘機、ソ連はI-16タイプ10戦闘機でした、運動性能は日本機が圧倒しており、しかもソ連軍パイロットは実戦経験が皆無な上、全くの訓練不足でした。

  歩兵64連隊 牧山重信氏
「5月28日、丁度11時、ふと空をみると驚いた。数十台の飛行機が戦闘を開始している。もの凄い空中戦。次々とソ連機が撃墜され、日本機が敵機を追いかける。四十数機の撃墜はこの時の大戦果。全く胸のすくような空中戦であった」

  5月31日までソ連機180機を落とし(※1)、日本側損失は0(あるいは7機)。ソ連機は当初、日本機に全く歯が立たず、
「日本の航空機を見たら逃げろ」と、戦闘禁止命令まで出てしまいます。ソ連側は6月中旬になってようやく実践経験のあるベテランパイロットを投入し始めています。

  ソ連は司令官のフェクレンコ中将を更迭し、ジューコフ中将を司令官にします。このジューコフ中将は後にモスクワ防衛司令官となり、スターリングラードでドイツ軍と戦い、対ドイツ戦で逆転し、ベルリンを占領した軍人です。戦後、米国ミシガン州大学のハケット教授や新聞記者や歴史学者と会談した時、どの戦いが一番苦しかったかとの質問に即座に
「ハルハ河(ノモンハン事件のこと)」と答えて周囲を驚かせ、日本軍の精強さを改めて知ったそうです。


(※1)日本側記録だが、かなり誇張された数字と思われる。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  産経新聞社出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「二日間で敵五十一機を撃墜!稲妻戦隊と荒鷲たちの激闘の日々」山之口洋

添付画像
  撃破されたソ連軍のBA-10中装甲車(PD)

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張鼓峰事件

ノモンハン戦の前哨戦。

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  昭和13年(1938年)、7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰(ちょうこほう)で満州国とソ連の国境紛争が発生しました。日本は支那事変がはじまって1年たっており、ソ連は外蒙古(モンゴル)に大量のソ連軍を入れて安全にし、更に、ポーランド侵攻を考えていましたから、日満軍の反発力を試したようです。日本軍は日満議定書により満州国の共同防衛の義務がありました。

  昭和13年7月、ソ連軍は国境を越えて張鼓峰に陣地を構築します。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始してきました。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開されます。日本軍は不拡大方針であったため飛行機の使用と戦車も出動できず、脚を縛られて戦闘しているようなもので、苦戦を強いられましたが、退かず守りました。ソ連は飛行機、戦車、重砲を惜しみなく使い、戦いはいつ果てるとも見えませんでした。

  8月11日、重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によってモスクワで停戦が合意されました。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦となり圧倒的日本軍の勝利で終わっています。このことによりソ連のブリュッヘル極東司令官らは粛清にあうことになります。

  日本軍:戦死者  526名、負傷者  914名
  ソ連側:戦死者1,200名 負傷者4,300名

  数字みても結構な規模の戦闘だったことがわかります。国境線は1860年の北京条約やその他の地図で日本側の主張が正しいことは認められています。ソ連はそれでも自分の領土だと言ってきています。撃退しなかったらずっと居座るのです。戦後の平成10年(1998年)になってやっとロシアの有力日刊紙「コムソモルスカヤ・プラウダ」が「ソ連側が日本を挑発するために国境線をわざとずらしていた事実が判明した」として、ソ連側の侵略を認めました。

  停戦後、日本軍が後退したところ、ソ連側は日本の対ソ戦争回避方針を確認していたので再度侵入してきました。この地域は朝鮮軍が防衛を受け持っていましたが、関東軍にバトンタッチしました。関東軍は現場確認を行い、写真撮影しました。その資料を参謀本部に送りましたが、参謀総長は「そのままにしておけ」という内容の回答でした。

  関東軍参謀・辻政信
「張鼓峰事件は、かくして犯されたままで幕を閉じたのである。知らぬは国民だけだ。この戦場で散った千数百の英霊は、どんな気持ちで結果を見守っていることだろう。
『敵を撃攘(げきじょう)して国境線を回復確保せよ』との大命は、現実に無視されたのである。あのときに徹底的に膺懲(ようちょう 懲らしめること)し、実力を以って主張を貫徹していたら、恐らくはノモンハンの戦闘を惹き起こさなかったのではなかろうか」


  日本の弱腰姿勢はソ連に見破られ、ソ連は外蒙古に兵を入れる目的と東欧進攻のために東の憂いを完全に抑える目的で、ノモンハン攻撃の準備を着々と進めていくことになります。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
参考サイト
  WikiPedia「張鼓峰事件」

添付画像
  満州帝国陸軍の将軍たち(PD)

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ならずもの韓国人が被害者になった歴史

朝鮮人のイメージはひどいものだったが、いつの間にか被害者にすりかわった。

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  大東亜戦争終戦直後、朝鮮人、台湾人はGHQにより三国人と位置づけされ、それぞれ内地から朝鮮半島、台湾へ戻す政策がとられましたが、内地に居残った朝鮮人がいました。彼らの中から「朝鮮進駐軍」と称して横暴の限りを尽くす集団が現れました。「直江津駅リンチ殺人事件」が代表的なもので、闇米のブローカーの朝鮮人2,3人が窓を叩き割って列車に乗り込もうとしたところ、日本人乗客に阻止され、やむを得ずデッキにぶらさがって次の駅に到着したのち、進入を防いだ先ほどの日本人を鉄パイプやスコップで滅多打ちにして撲殺した事件があります。
  警察の記録によるとこの当時在日朝鮮人によって起された事件は、昭和20年に182件、昭和21年に5,336件、昭和22年に5,681件となっています。

  昭和26年(1951年)に人類学者の泉靖一氏が東京都民を対象に行った「異民族」に対する態度調査によると、朝鮮人はもっとも好感度の低い集団とされ、
「不潔」「文化が低い」「ずるい」「経済的にためにならぬ」「日本をばかにする」「日本のためにならぬ」「日本をうらんでいる」「みにくい」「腹黒い」「無礼」といった否定のオンパレードでした。朝鮮人といえば無法者集団という印象を日本人が持っていたわけです。ところが現在はその朝鮮人が「被害者」のイメージになっています。私が子供のころも「差別があった」「"朝鮮人"と言ってはならない」と教えられました。現在でも「朝鮮人強制連行」の話などがあるでしょう。

  首都大学東京教授の鄭大均(てい たいきん/チョン・ テギュン)氏によると「60年代以前に『朝鮮人強制連行』という言葉は使われた例はほとんどない」と述べています。そしてその後の変化については以下のように推察しています。
「60年代に半ばに刊行された一冊の本に触れるだけにしたい。朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)がそれである。
  <中略>
  この本は刊行されるや、あるタイプの日本人たちには啓示を与える書となったようである。日本国の加害者性侵略者性というアイデンティティを重視するタイプの日本人がそれで、以後自分の生活地である故郷に朝鮮人強制連行の痕跡をたどろうとする活動が全国的に展開され、多くの刊行物が出版されている」


  氏はそれでもこの頃は関心を寄せる人間は少人数だったといい、状況が変わったのは80年代だと述べています。

「80年代は、日韓の間に教科書問題という外交問題が生じた時期であるとともに、在日コリアンにたいする指紋押捺制度がマスメディアに取り上げられた時期であり、またソウルオリンピックの開催を機に、韓国ブームが引き起こされた時期である。80年代は、戦後の日本において、韓国や在日のテーマが大手のテレビや新聞・雑誌で話題になったはじめての機会であり、その解説者の役割を担ったのはコリア学の専門家たちであるが、その多くは被害者論的在日論を自明のものとする人々であった。在日一世の大部分は、自発的に当時の内地である日本に渡航してきた人々であり、また日本に居残ることを選択した人々である。だから、戦時期の朝鮮人に対する労務動員を『強制連行』と表現し、それを在日コリアンに結びつけて語るような議論はおかしいのだが、そのことを指摘する在日もいなかった。日本国の加害性と在日の被害性をワンセットで考える思考は、80年代の韓国ブームの置き土産として人々の心や身体に残されたのである」

  どうやらメディアに乗って知識人らが金脈をつかんだようです。被害者ビジネスとでもいいましょうか。在日一世の中には戸惑った人もいたかもしれません。鄭氏は在日のネガティブなイメージは改善されたが、在日であるという身分を自分の人生に流用しようとするコリアンが出てくる危険性もあると指摘しています。かわいそうな被害者として特権を持てば自立できなくなるでしょう。また、加害者とされた側は被害者と付き合うのはなるべく避けるでしょう。嘘の歴史は一部の人の利益にしかならず、結果的に誰よりも在日コリアンが不利益を被るということです。



参考文献
  オークラ出版「拉致と侵略の真実」『ヤミ市を支配した朝鮮ヤクザ』野村旗守
  「歴史通」2010.1月号「在日のヒーロー姜尚中の役どころ」鄭大均
  文藝春秋「在日・強制連行の神話」鄭大均(著)
添付画像
  武装警官に包囲された朝鮮人連盟本部(PD)

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【朝鮮進駐軍】~あの団体の正体
http://www.youtube.com/watch?v=bAjM7fw1Ais

乾岔子(カンチャーズ)島事件

弱腰外交は昔から。

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  昭和12年(1937年)6月19日、満州国とソ連の国境、アムール河の満州領、乾岔子(カンチャーズ)島にソ連兵20名余りが越境上陸し、満州人に退去を強要しました。さらに金阿穆河島にもソ連兵が上陸し、満州人に退去を強要し、一部の満州人を拉致しました。
  満州国軍及び満州国警察官十数名が乾岔子島に入って現地を調査していると20日朝、砲艦一隻と警備艇一隻に分乗したソ連兵約30名が乾岔子島に上陸し、重軽機関銃による援護と共に攻撃を開始したため満州国軍は任務を終了して後退ました。ソ連兵は21日から陣地構築を始めました。

  アムール河というのはところによっては川幅が3,4キロも達する大きさで、河の中には数え切れないほどの島があり、その数は1,600を超えるといわれています。そのため、国境紛争が絶えませんでした。乾岔子島も河の中の島でしたが、国際条約では「河川を国境とする場合には航行路の中央線」となっており、乾岔子島は満州領でした。昭和9年(1934年)の満州国とソ連の間で結ばれた航行状況改善に関する協定でも乾岔子島と金阿穆河島の標識は満州国が設け管理することとなっていましたが、ソ連は一方的に破棄しました。

  日本軍第一師団は国境守備の任務から江岸を占領し、ソ連砲艇を邀撃する準備を進めました。関東軍も乾岔子島奪還の命令を発しました。準備が整ったとき、なんと軍中央は事件の拡大を極力防止するため、参謀総長の名を持って攻撃中止の命令を出したのです。しかし、第一線の大砲2門が火を噴き、満州領に侵入していたソ連砲艦1隻を撃沈、1隻を大破させました。日本と満州国はソ連に抗議し、日本の重光大使とリトヴィノフ外務人民委員との折衝の結果、7月2日、ソ連軍は乾岔子島及び金阿穆河島にいたソ連哨兵並びに両島附近に集結中の砲兵隊、艦艇の撤収を命じ、4日までにほとんどの撤収が終了しました。

  こうした満州国とソ連の国境紛争において日本は一貫して弱腰です。もし、日本軍の砲撃がなければソ連軍はずっと居座ったかもしれません。

  この事件について関東軍参謀の辻政信は次のように書いています。
「是非善悪の判決は、相手の性格によらねばならぬ。我が一歩引けば敵も進むまいと思うのはインテリの常識である。だがこの常識を超えて、弱きに乗ずる相手の正体を見極めることが現実の政治であり戦略ではなかろうか」

  この後の張鼓峰事件でも航空機の使用を禁ずるなど日本側は弱腰で、ノモンハン事件でも越境爆撃を禁じ、総攻撃を停止するなどしています。その結果、満州国の国境は侵されたままとなりました。

  相手の性格、正体を見極め押すか引くか・・・これは現在の政治・外交にもいえることですが、日本政府はいつも引いてばかりで国益を損ね、主権侵害さえも許すことになっています。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
参考サイト
  WikiPedia「乾岔子島事件」

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  満州国軍の騎兵隊(PD)

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外蒙古の悲劇 ~ ゲンデン首相

ゲンデン首相を襲った悲劇。

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  現在のモンゴル人民共和国と内蒙古自治区は19世紀には清朝の支配を受けていました。1911年に辛亥革命がおき、清朝が滅亡するとハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言します。1924年にモンゴル人民共和国が成立しました。
  昭和2年(1927年)、支那の蒋介石が反共クーデターを起こすと、コミンテルン(共産主義の国際組織)はモンゴル人民共和国と支那を切り離す路線をとり、昭和3年(1928年)、モスクワの指令によって外モンゴルから右派が一層され、昭和5年(1930年)反宗教運動、裕福な牧民からの財産没収、強制集団化、個人商業の禁止政策が採られました。

  昭和7年(1932年)、満州国の建国を見て、外モンゴル民衆は親ソ政策に対して反乱を起こし、スターリンはあわてて政策転換し、経済援助をはじめました。

  同昭和7年、ゲンデンが首相が就任しました。昭和10年(1935年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出し、戦闘を禁止します。そして外モンゴルと満州の国境調整の場であるマンチューリ会議が開かれました。

  ハルハ廟事件の前年、昭和9年(1934年)にソ蒙相互援助秘密協定が結ばれており、スターリンはゲンデン首相に公式化を要求しますが、ゲンデン首相が引き伸ばしたため、スターリンは外モンゴルの副首相のチョイバルサンを使い、日満軍を攻撃(オランホドク事件)し、国境紛争によってソ連軍の外モンゴル駐留を認めるように圧力をかけていきます。ソ連としては満州国は脅威であり、外モンゴルと満州国が手を結ぶのを恐れており、なんとしても外モンゴルを掌握したかったのですが、ゲンデン首相は抵抗します。またスターリンはラマ僧を一掃するよう要求していましたが、ゲンデン首相は仏教に帰依しており、これも抵抗の要素になりました。

  昭和11年(1936年)3月、遂に「ソ蒙間友好条約」「相互援助議定書」が締結されました。ゲンデン首相は解任。国境警備隊は内務省直轄にして親ソ派のチョイバルサンの指揮下になりました。

  ゲンデン首相には有名なエピソードがあります。(モンゴルでは有名らしい)

スターリン
「日本が攻め込んできたら君はどうするつもりなんだ。」
ゲンデン 
「私は祖国を捨てて逃げたりはしない」
スターリン
「坊主どもはどうするんだ」
ゲンデン 
「我国は人口が少ない。ラマ僧は還俗させて働かせるつもりだ」
スターリン
「ゲンデン、君はラマ僧といっしょに社会主義をやろうなんてよく言うね。モンゴルのハーンになろうとでも言うのかい」
ゲンデン 
「グルジア人のスターリンさん、あんたこそロシアのハーンに君臨しているじゃないか。私がモンゴルのハーンになって悪いかね

  このように言い放ってけんかになり、ゲンデンはスターリンのほっぺたを「平手打ち」したうえ、『足蹴にし』、「パイプを取り上げて投げつけた」と言います。

  ゲンデンは昭和11年(1936年)7月に逮捕され、拷問をうけ、自分が日本に雇われスパイになったと自白強要させられ、ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意させられました。この名簿はチョイバルサンに渡され「反ソ反革命日本のスパイ組織参加者」の一斉検挙となります。
  昭和12年(1937年)11月、ゲンデンは処刑されます。これよりノモンハン事件(昭和14年)が起きるまで2万6千の蒙古人が粛清されたといいます。外モンゴルの人口が80万人ですから、人口の約6%です。いかにすさまじい出来事だったかわかるでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)

添付画像
  19世紀後半のモンゴル人住居の風景(PD)

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哈爾哈(ハルハ)廟事件

スターリンが仕組んだハルハ廟事件。

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  昭和10年(1935年)1月8日、ソ連指揮下の外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)軍が満州国境数キロを侵犯し、満州国の監視哨を追い、陣地を作り、人員を拉致し、馬を奪います。年末まで小競り合いの状態となります。この事件の前年11月にソモ相互援助秘密協定が結ばれており、これを公式化するよう外蒙古に圧力をかけるため事件はスターリンが仕組んだものでした。

  事件当時、外蒙古の首相はゲンデンでした。国防相はデミドで、両者は親日家でした。事件を起こしたのはソ連派でした。ゲンデン首相は事件後、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出して戦闘を禁止しています。その後、スターリンはゲンデン首相をモスクワに呼び、相互援助秘密協定を公式化するよう求めましたが、ソ連軍の外蒙古駐留は経済負担を増すものでゲンデン首相は引延ばしました。この親日派の不在時にソ連派のチョイバルサンは再び日満軍を攻撃(オランホドク事件)しています。

  「満蒙」という言葉を聞いたことがあると思いますが、日本が満州国を建国したときに東蒙古の一部が満州領土内に組み込まれていたためこう呼んでいます。ホロンボイルと呼ばれる満州国の北西の地方とあわせて特殊行政区域として興安省が設置されています。関東軍は蒙古の伝統的な牧畜経済を守る政策をとっています。外蒙古がソ連の援助(侵略)で人民共和国になりましたが、内蒙古は漢人の軍閥が農耕開拓を推し進めたため、遊牧民が暮らすための牧草地がどんどん減っていたのでした。興安省では農耕民の進入を阻止して、バルガ族、ダグール族などの遊牧文化を保護し、その伝統的行政組織には手をつけず、独自の軍隊の保有さえ自由にしています。そして多くの日系参事官が行政を監督し、熱心に衛生や教育の近代化に取り組んでいます。こういった面でも関東軍が民衆に受け入れら、満州建国がスムーズにいったことがわかるでしょう。

  一方、外蒙古ではソ連による破壊的大変革が行われたため、満州国へ脱走するケースは少なくなかったようです。外蒙古にはハルハ族、満州国にはバルガ族と分かれていましたが両民族は相反するものではありませんでした。

  ハルハ廟事件はスターリンが仕組んだものでしたが、その裏ではハルハとバルガの両民族が探りあい、交流を計ったようです。この事件を機に国境確定会議であるマンチューリ会議が開催されます。第一回から第五回まで開催され意見の一致は見ませんでしたが、出席した満州川蒙古人と外蒙古人の間で反ソの密約が出来上がり、情報をキャッチしたソ連は警戒し、出席を要求しました。
 この会議の満州国側代表はリンション興安北省省長でしたが、昭和11年(1936年)に逮捕され軍法会議にかけられ死刑となります。これは通敵行為があり、現在の歴史研究でも裏づけされているようで捏造ではないようです。このとき、満州国代表に守備隊長であるウルジン将軍もおり、事件に加担していたようですが、警備軍顧問の寺田大佐が懸命に奔走し、逮捕を免れています。マンチューリ会議の外蒙古側はサンボー全軍総司令官副官でしたが、この人はソ連から代表解任され、その後処刑されました。

  ウルジン将軍の軍事顧問であった岡本俊雄氏は次のように述懐しています。
「静かに満州国という国の枠を離れて蒙古人の立場で考えた場合どうだろうか。蒙古人の如く常に異民族に征服されて来た彼等にとって、誰にも侵されない、蒙古人は蒙古人だけの国をもちたい。つくりたい、という理想を彼等がもっておっても当然のことである」

  日本人にはこういった感情が強かったようです。リンション興安北省省長が逮捕されたとき他に五名が死刑判決となりましたが、二名は減刑となっています。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
 岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)

添付画像
 西部国境に配備されていた満州国軍の興安騎兵隊(PD)

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日本国憲法は無効

日本国憲法は憲法ではなかった。

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  現在の「日本国憲法」と呼ばれるものはGHQが作ったものです。1990年以降にワシントンの国立公文書館で、OSSの機密文書が再調査されたことにより、戦後の日本の政策はOSSというCIAの前身にあたるアメリカ戦略情報局による「日本計画」の流れの延長上にあります。このOSSの実体は共産主義者の巣窟で、第一条や第九条をはじめとするGHQ憲法の内容を含め、占領政策に多大な影響を及ぼしています。

  法律家、弁護士である南出喜久治氏は占領憲法(現、日本国憲法 GHQ憲法)は「憲法」としては「無効」である、と述べ、法的階説で言えば一番上位に帝国憲法が存在しており、次に占領憲法があり、そして一般の条約と法律があると論じています。つまり「占領憲法」=「GHQとの講和条約」であり占領を容易にするための中間的講和条約という実質を備えており、サンフランシスコ条約で占領が解かれたのだから復元しなければならないものの、全面否定はしない、としています。

  従来、占領憲法はハーグ陸戦条約の条約附属書第43条[占領地の法律の尊重]に抵触するので無効と言われてきました。

「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽すべし」


  しかし、南出氏はハーグ陸戦条約は大日本帝国憲法13条の一般条約大権に基づいて締結されているので、下位の規範にあたるとし、上位の帝国憲法の改正を無効とするのは論理の飛躍と矛盾があると指摘しています。

  南出氏の「無効論」は大日本帝国憲法(明治憲法)第七十五条に論拠をおきます。

  第75条 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス

  これは摂政を置いているときは憲法を改正できない、とするものです。摂政というの天皇陛下に御不例(病気)があったというような場合に置かれるものです。占領期には摂政はいませんでしたが、この第七十五条は天皇大権を行使し得ない、そのような国家の予期しうる通常の変局時には憲法は改正できないというものですから、軍事占領下という天皇大権が行使できない、独立を奪われた異常下において、第七十五条が適用(類推適用)され、憲法改正はできないというわけです。つまり、憲法改正できないのだから占領憲法は憲法として無効になります。

  では占領憲法はどのような位置づけかというと憲法の直系としての法律ではなく「講和条約」の位置づけとしています。講和条約は国家存亡の折、国家を存続させるために、ある程度、憲法に抵触したとしても締結すべきもので、マッカーサー草案強要から政府原案の作成、国会審議の具体的経過を見れば、占領憲法というのはGHQの占領統治を容易にするための中間的講和条約という実質を備えています。ですから、全面否定しているわけではなく、占領憲法に基づいた法律がすべて無効になるというわけではありません。

  南出氏の「無効論」は私の感じる限り、このところ急速に認識され始めています。政治家でもこの無効論を支持する人が何人かいます。「改憲論」「自主憲法論」もありますが、占領憲法の「改憲」も「自主憲法」も憲法の正統性は保たれません。改正するのであれば明治憲法を改正すればよいのです。明治憲法は自主憲法であり、自主憲法論もその内容を明治憲法改正に向ければよいわけです。「護憲論」も占領憲法でよい部分があるというのなら、その内容を明治憲法の改正内容に向ければよいのです。

  日本国としての正統性、それを維持するためにまず行うことは明治憲法が「憲法」であり、占領憲法は「憲法」としては無効であり、講和条約あるいは占領基本法の位置づけであることを認識することでありましょう。急速に認識されだした「無効論」、近いうちに大きなことが起こるかもしれません。



参考文献
  ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
  総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
  展転社「戦後日本を狂わせたOSS日本計画」田中英道(著)
参考サイト
  WikiPedia「ハーグ陸戦条約」
  国立国会図書館 大日本帝国憲法 http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html

添付写真
  ダグラス・マッカーサー(PD)

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新無効論 「日本国憲法」は講和条約 (2-1) 南出喜久治 http://www.youtube.com/watch?v=3pc-SCJncLk


新無効論 「日本国憲法」は講和条約 (2-2) 南出喜久治 http://www.youtube.com/watch?v=Qw_ofGRny-Y

白洲次郎のジープウエイ・レター

従順ならざる唯一の日本人、白洲次郎。

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  戦後占領下、終戦連絡中央事務局・次長の白洲次郎はGHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。GHQ憲法に抵抗した白洲次郎の話はNHKで紹介され、テレビドラマでやっていたのでだいぶ有名になってきたでしょう。その中で「ジープウエイ・レター」の話は有名です。国立国会図書館に「ジープウエイ・レター」を見ることができますが、私の手持ちの書籍のジープウエイの絵とはちょっと違います。書き写しなどのためでしょうか。

  昭和21年(1946年)2月3日に憲法改正案(松本案)がGHQへ提出されましたが、それから10日後に民政局ホイットニー准将より"マッカーサー草案"を提出してきました。このとき幣原首相と松本国務相はこの草案はひとつの案だと捉えていました。しかし、白洲次郎はホイットニー准将に面会し、"マッカーサー草案"は指令であることを感じます。それを松本国務相に話をしたところ、松本国務相は手元の紙片に絵を描いて白洲次郎に示しました。その絵がこの「ジープウエイ」です。そして白洲次郎はホイットニー准将にこの絵を添えて手紙を書きます。

「彼をはじめ閣僚は貴下のものと彼らのものとは、同じ目的を目指しているが、選ぶ道に次のような大きな差異があると考えています。
  貴下の道は、直線的、直接的なもので、非常にアメリカ的です。彼ら(日本政府閣僚のこと)の道は回り道で曲がりくねり、狭いもので、日本的にであるに違いありません。
  貴下の道はエアウエイ(航空路)といえましょうし、彼らの道はでこぼこ道を行くジープウエイといえましょう・・・松本博士は、その感想を次のよう(な絵)に描きました・・・」


  これはホイットニーには時間稼ぎと思われ、極めて強い返書が返されました。

「あなたのお手紙では、13日に私がお渡しした文書(マッカーサー草案)を『あまりに急進的な』という言葉で形容されているが、そのような言葉でも表現できないほどに厳しいものになり、最高司令官がお渡しした文書で保持できるよう計らっておられる(日本の)伝統と体制さえも、洗い流してしまうようなものとなるでしょう」(マッカーサー草案が受け入れられない場合のことを言っている)

  もはやこれは恫喝でしょう。これにも白洲次郎と松本国務相ひるまず、返書を書いたところ、48時間の期限付き最終通告を出しました。幣原内閣は揺れに揺れて2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、受け入れを決定します。3月4日、再度松本案をGHQに提示しましたが、GHQのホイットニーやケーディスが不快感を示し、マッカーサー案を日本語化し、討議が行われ、ファイナルドラフトが作成されました。そして3月6日に閣議で新憲法の最終草案が了承され、発表されると間髪いれずにマッカーサーは声明を出します。

「天皇、政府によって作られた新しく開明的な憲法が、日本国民に予の全面的承認の下に提示されたことに深く満足する」

  このGHQ憲法には日本を管理する為の政策機関として設けられた極東委員会からも「国民は憲法を理解していない。時期尚早である」と反発があがります。しかし、マッカーサーは拒否。強引に押し通しました。
  4月10日の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなりましたが、GHQは鳩山一郎を公職追放にし、吉田内閣ができました。そして8月24日、GHQ憲法は衆議院で圧倒的多数により可決してしまいました。議場では多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしました。



参考文献
  講談社文庫「白洲次郎」北康利(著)
  河出書房新社「白洲次郎」
     『独立秘話を知りすぎた男の回想』白洲次郎
     『白洲次郎の抵抗』児島襄
  新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)
参考サイト
  WikiPedia「日本国憲法」「鳩山一郎」
  Letter from General Whitney to Mr. Shirasu, dated 16 February 1946, answering "jeep way letter"
      http://www.ndl.go.jp/constitution/e/shiryo/03/081/081tx.html

添付画像
  「ジープウエイ」国立国会図書館 ハッシー文書より
      http://www.ndl.go.jp/constitution/library/06/hussey/hussey_183l.html

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「国民主権」の危うさ

国民主権の正体。

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 現在、日本国憲法には「国民主権」がうたわれています。

前文

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

 第一条にも「国民主権」が書かれています。


第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 この国民主権について学校教材用の本を見ますと次のように説明されています。

「『国民主権』などといった場合の主権には、国の政治のあり方を最終的に決定する権力、という意味があります・・・したがって、日本国憲法では、日本国民に国の政治のあり方を最終的に決定する権力をあたえているのです」

 私が子供の頃、憲法の話が書かれた本を読んだことがあり、「国の中で誰が一番偉いか」という問いかけがありました。内閣総理大臣?天皇陛下?国民主権だから国民が一番偉いんだ!という内容です。

 学校教材用の本を更に読みますと、次のように書いてあります。

「民主主義は、個人の価値を認め、個人の人格を尊重する『個人主義』が前提となって成立します。日本国憲法第13条に『すべての国民は、個人として尊重される』とあるのは、まさに、日本国憲法が個人主義を採用していることのあらわれだといえます」

 学校では「国民主権」「個人主義」を通して、「オレ様国民は主権者様だ!」と教えているわけです。

  弁護士の南出喜久治氏によると国民主権というのは非常に暴力的なものだと述べています。100人で構成される国家があり90人が残りの異端の10人を殺してしまうという法律を作ったとします。憲法も改正できるから10人を抹殺することを容認する、これが国民主権であり、人が神になり、そういう暴力が正当化されることがあるというものです。

  国民主権はロック、ルソーによって発展させられた概念で、ルソーは「社会契約論」の中で、「一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向する」としています。一般意志は契約者全体、つまり人民であり、それが主権であると言っており、「主権」は一般的契約(法)の限界を超えるわけにはいかないと述べています。
 しかし、国民主権は南出氏の言うように「国民の意志」自体が法であり、既存の法を一瞬にして無とし、無限定な力として暴走する危険性を持っています。ですから国民主権のような観念を憲法に持ち込むべきではないとする憲法学者が世界に多いといいます。

 南出氏はイエス・キリストの話もあげています。イエスは捕らえられてユダヤのローマ総督であるピラトの前に引き出されますが、ピラトはイエスに何の罪も認められず、しかも、ここでは死刑にすることは許されなかったのに、ユダヤ人の群集に煽られてイエスを十字架刑という極刑にしてしまいます。これが国民主権の源流だと述べています。

 GHQ製日本国憲法は「オレ様は主権者様だ」と国民に教えました。3年前に中華人民共和国の習近平氏が来日したとき天皇陛下が引見しましたが、鳩山総理(当時)、小沢民主党幹事長(当時)が1ヶ月ルールを無視したのが問題になりました。こうした行為は畏れを知らないGHQ憲法世代「主権者様」の特徴でありましょう。主権者様に選ばれた政治家なんだから天皇陛下は思いのまま動くモノだという意識の現れです。官僚を批判し、政治主導にするというのも「主権者様」に選ばれたという意識を持った政治家の奢りでしょう。本来、官僚だの政治家だの言う前に能力が問われるものです。

 「国民主権」によって主権者様となった日本国民はルソーの言う「公共的利益」を志向したでしょうか。否、「国民主権」は日本国民を傲慢不遜な個人主義に育て上げ、自由だの権利だのばかり叫び、"今だけ、カネだけ、自分だけ"のエゴ国民を作ってしまったのです。



参考文献
 日能研ブックス「日本国憲法」(東京出版『あたらしい憲法のはなし』復刻版より)
  ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
  中公文庫「社会契約論」ルソー(著)/ 井上幸治(訳)
  小学館「天皇論」小林よしのり(著)
  WiLL2010.3「本家 ゴーマニズム宣言 小沢も亀井も不敬な政治家」小林よしのり

参考サイト
  WikiPedia「国民主権」

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 ジャン=ジャック・ルソー(PD)

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不思議の国ニッポン!あるのにナイ、ないのにアル、自衛隊

自衛隊はまるで禅問答?

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 デュラン・れい子著「一度も植民地になったことがない日本」に、れい子さんの夫(オランダ人?フランス人?)がこう言っています。イラク戦争あたりの頃の話と思われます。

「なーんだ。やっぱり日本には軍隊があるじゃないか!」

 れい子さんの夫は昭和49年(1974年)に日本に来て日本の高度成長、日本人のエネルギッシュさに驚いていました。そのとき、日本には軍隊はない、と思っていたようです。


「いったい全体なんだったんだ、あの昔の日本人は!みなインテリでまじめな人たちだと思っていたのに」

「彼らは口をそろえて『日本は平和憲法だから軍隊はない』と言ったんだぞ。だが自衛隊は結局、軍隊と同じじゃないか!なぜ『軍隊はないが、自衛隊はある』と言ってくれなかったんだろう」

 れい子さんの著によると自衛隊のイラク派兵が決まって以来、自衛隊の存在がヨーロッパの一般の人々にも知られるようになり、驚きを隠さない人が多かったといいます。日本通のイギリス人は以下のように表現したといいます。

「あるのにナイ、ないのにアル。日本の自衛隊はまるで禅問答」


 さらにヨーロッパの人からすれば自衛隊のイラク派兵も銃も戦車も大国日本の軍隊がオランダ軍に守ってもらっているのも謎だし、日本が米国を支持したのなら犠牲も覚悟の上が世界の常識なのにサマーワが安全か否かの調査に行くというのは、何のことやら意味不明なのだそうです。イラク派兵については是非の議論はあるでしょうが、れい子さんは自衛隊の活動はテロが起きる前にやるべきではないか、日本がイラクとアメリカの話合いの場は作れないか、と問いかけて、大国日本は不思議の国になるばかり、と述べています。

 このような不思議の国ニッポンになってしまっているのはGHQ憲法第九条があるからなのですが、昭和25年(1950年)の朝鮮戦争で日本は警察予備隊を組織しています。これは再軍備であり、海上保安庁所属の特別掃海隊は13隻の掃海艇と323名の乗組員が、仁川奇襲上陸作戦に参加し、戦死者1名、重軽傷者18名を出しています。それまでマッカーサーなどが説いていたのは日本を非武装中立にして国連によって安全保障を確保すべき、というものでしたので、GHQ憲法は戦後占領下で既に破綻していました。破綻しているのに誤魔化し続けたため、不思議の国ニッポンになってしまったのです。

 実はGHQ憲法第九条は表向きは日本が白人の脅威にならないよう再軍備不可にしたものですが、裏には共産革命の意図が隠されていました。GHQに潜んでいた共産主義者(ピンカーズ)が将来日本で革命を起こしくする目的もあったのです。革命を阻止するのは軍隊ですから、邪魔だったわけです。マッカーサー(真っ赤ーさー)はこうしたピンカーズに操られていました。

 占領下で既にGHQ憲法は国際情勢に合わないものとして破綻していたにも関わらず、講和条約後も後生大事に抱えこんでしまったことは日本を不思議の国にしてしまったばかりでなく、日本国民を平和の豚にしてしまいました。GHQ憲法を早期に破棄しておけば、日米安保なども異なった形になっていたでしょうし、米軍基地問題も解決しやすかったでしょう。拉致問題も起きなかったでしょう。残したために「憲法第九条が平和を守った」などというGHQピンカーズの亡霊に取り付かれた妄想者が叫び、マスコミを通じて平和の豚が量産されてしまいました。

 昨今北朝鮮の核ばかり語られますが、中共(中華人民共和国)はミサイル300基の照準を日本に合わせており、核弾頭も含まれているといいます。東シナ海を脅かす中共はマラッカ海峡へもミサイルの照準を合わせています。インド洋にも中共の軍艦がうろうろしています。人民解放軍の海軍は東シナ海を南下し、太平洋の制海権を得ようとしています。どれも日本のシーレーンです。航行が制限されたり、遮断されれば日本国民の台所に直結する話です。中共にとって目障りなのは沖縄の米軍基地。与那国に自衛隊配置させたくないのも中共。日本はどうすればよいか自明の理でしょう。日本はまずは普通の国家に戻るべきです。



参考文献
 講談社α新書「一度も植民地になったことがない日本」デュラン・れい子(著)
 ビジネス者「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
 光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇 義朗 (著)
 転展社「戦後日本を狂わせたOSS"日本計画"」田中英道(著)
添付画像
 護衛艦「こんごう」からのRIM-161(SM-3)の発射(PD)

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GHQ憲法記念日は屈辱の日

外国から押し付けられた憲法など屈辱と感じるのが普通。

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 5月3日は憲法記念日です。「日本国憲法」と呼ばれるGHQ製の憲法は「白洲次郎」の物語の通り、「押し付け」であることが大分、日本国民に知られており、ありがたがる人は一部のマルクス主義系の思想の人やマスコミぐらいでしょう。
 最近ではアメリカの資料公開によってOSSというアメリカ戦略情報局によって作成された「日本計画」にもとづき戦後直後のGHQによる日本統治が進められてきたことがわかっています。その中にフランクフルト学派と呼ばれる知識人向けマルクス主義者が多くおり、その流れをうけてGHQのピンカーズ(赤い奴)が日本の伝統を破壊し、共産革命に導くために日本国憲法は作られました。

 GHQ憲法の英語原文を見たとき松本国務相は幣原首相にこのように述べています。

「総理、実に途方もない文書です。こんな憲法はいまだかつて見たこともない。こういうものを決めては、わが国は混乱するばかりです。まるで共産主義者の作文ですよ」


 GHQ憲法のマッカーサー案にはこんな条文がありました。

Article XXVIII. The ultimate fee to the land and to all natural resources reposes in the State as the collective representative of the people. Land and other natural resources are subject to the right of the State to take them, upon just compensation therefor, for the purpose of securing and promoting the conservation, development, utilization and control thereof.
第二十八条 土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス
国家ハ土地又ハ其ノ他ノ天然資源ヲ其ノ保存、開発、利用又ハ管理ヲ確保又ハ改善スル為ニ公正ナル補償ヲ払ヒテ収用スルコトヲ得


 共産主義の考え方が見事に入っています。また、
「第十六条 外国人ハ平等ニ法律ノ保護ヲ受クル権利ヲ有ス」という条文もあり、これはインターナショナリズムです。フランクフルト学派の思想はインターナショナリズムです。この条文含めて外国人利権に関わるところは白洲次郎や法制局の佐藤達夫の懸命の努力により削られました。

 GHQ憲法の首魁はGHQ民政局のケーディス大佐です。彼はユダヤ人であり、OSSに所属していました。ケーディス大佐はGHQが反共に転換した後、帰国しますが、国務省にジョージ・ケナンを訪ねたとき、ケナンはケーディスに向かってこう言います。

「あなた方は日本を共産主義にしてソ連に進呈しようとしていたのだという噂もありますよね」

 ケーディス大佐は失脚し、二度と日本に戻ってきませんでした。ケーディス失脚の経緯を聞いた前第八軍司令官R・アイケルバーガー中将は厳しいコメントを残しています。

「彼は日本人に手本を示した。空虚な理想主義者は奢りと腐敗におぼれて自滅するという手本だ」


  GHQ憲法は英文を一夜で訳したせいか、憲法前文もよく読まないと何が言いたいのかよくわかりません。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」


  この部分は日本以外の国はすべて平和を愛する国だといっており、「生存」まで他国に預けるような言い方をしています。日本には主権がないような言い方です。また日本だけ悪い国で他の国はいいくにだ、とも解釈でき、日本が悪さしなければ平和なんだと言わんばかりです。

 GHQ統治下の日本には主権がなく、その時に日本の憲法が勝手にGHQによって作られたのですから、憲法としての正統性はありません。ポツダム宣言にも憲法を変えてよいことなど書いていません。また、占領下は明治憲法第75条の類推適用により憲法の改正は不可の状況であり、GHQ憲法は憲法としては無効になります。

 戦後占領下、米国GHQは共産主義者の作文憲法を日本に押し付け、プレスコードによって憲法批判を禁じ、公職追放という恐怖で言論を封じました。憲法記念日は屈辱の日なのです。しかし、多くの日本人はGHQが作ったウソの歴史を前提に「GHQ憲法はすばらしい」と洗脳され憲法記念日を祝ってきたのです。



参考文献
  WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
  「歴史通」WiLL 2009.3『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
  総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
  ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
  岩波書店「日本国憲法の誕生」古関彰一(著)
  転展社「戦後日本を狂わせたOSS"日本計画"」田中英道(著)
参考サイト
 国立公文書館 3-15 GHQ草案 1946年2月13日 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html
  WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」

添付画像
  ダグラス・マッカーサー(PD)

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【絶対正義GHQ】 http://www.youtube.com/watch?v=wEpg_n_MiYY

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