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張鼓峰事件

ノモンハン戦の前哨戦。

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  昭和13年(1938年)、7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰(ちょうこほう)で満州国とソ連の国境紛争が発生しました。日本は支那事変がはじまって1年たっており、ソ連は外蒙古(モンゴル)に大量のソ連軍を入れて安全にし、更に、ポーランド侵攻を考えていましたから、日満軍の反発力を試したようです。日本軍は日満議定書により満州国の共同防衛の義務がありました。

  昭和13年7月、ソ連軍は国境を越えて張鼓峰に陣地を構築します。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始してきました。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開されます。日本軍は不拡大方針であったため飛行機の使用と戦車も出動できず、脚を縛られて戦闘しているようなもので、苦戦を強いられましたが、退かず守りました。ソ連は飛行機、戦車、重砲を惜しみなく使い、戦いはいつ果てるとも見えませんでした。

  8月11日、重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によってモスクワで停戦が合意されました。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦となり圧倒的日本軍の勝利で終わっています。このことによりソ連のブリュッヘル極東司令官らは粛清にあうことになります。

  日本軍:戦死者  526名、負傷者  914名
  ソ連側:戦死者1,200名 負傷者4,300名

  数字みても結構な規模の戦闘だったことがわかります。国境線は1860年の北京条約やその他の地図で日本側の主張が正しいことは認められています。ソ連はそれでも自分の領土だと言ってきています。撃退しなかったらずっと居座るのです。戦後の平成10年(1998年)になってやっとロシアの有力日刊紙「コムソモルスカヤ・プラウダ」が「ソ連側が日本を挑発するために国境線をわざとずらしていた事実が判明した」として、ソ連側の侵略を認めました。

  停戦後、日本軍が後退したところ、ソ連側は日本の対ソ戦争回避方針を確認していたので再度侵入してきました。この地域は朝鮮軍が防衛を受け持っていましたが、関東軍にバトンタッチしました。関東軍は現場確認を行い、写真撮影しました。その資料を参謀本部に送りましたが、参謀総長は「そのままにしておけ」という内容の回答でした。

  関東軍参謀・辻政信
「張鼓峰事件は、かくして犯されたままで幕を閉じたのである。知らぬは国民だけだ。この戦場で散った千数百の英霊は、どんな気持ちで結果を見守っていることだろう。
『敵を撃攘(げきじょう)して国境線を回復確保せよ』との大命は、現実に無視されたのである。あのときに徹底的に膺懲(ようちょう 懲らしめること)し、実力を以って主張を貫徹していたら、恐らくはノモンハンの戦闘を惹き起こさなかったのではなかろうか」


  日本の弱腰姿勢はソ連に見破られ、ソ連は外蒙古に兵を入れる目的と東欧進攻のために東の憂いを完全に抑える目的で、ノモンハン攻撃の準備を着々と進めていくことになります。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
参考サイト
  WikiPedia「張鼓峰事件」

添付画像
  満州帝国陸軍の将軍たち(PD)

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