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乾岔子(カンチャーズ)島事件

弱腰外交は昔から。

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  昭和12年(1937年)6月19日、満州国とソ連の国境、アムール河の満州領、乾岔子(カンチャーズ)島にソ連兵20名余りが越境上陸し、満州人に退去を強要しました。さらに金阿穆河島にもソ連兵が上陸し、満州人に退去を強要し、一部の満州人を拉致しました。
  満州国軍及び満州国警察官十数名が乾岔子島に入って現地を調査していると20日朝、砲艦一隻と警備艇一隻に分乗したソ連兵約30名が乾岔子島に上陸し、重軽機関銃による援護と共に攻撃を開始したため満州国軍は任務を終了して後退ました。ソ連兵は21日から陣地構築を始めました。

  アムール河というのはところによっては川幅が3,4キロも達する大きさで、河の中には数え切れないほどの島があり、その数は1,600を超えるといわれています。そのため、国境紛争が絶えませんでした。乾岔子島も河の中の島でしたが、国際条約では「河川を国境とする場合には航行路の中央線」となっており、乾岔子島は満州領でした。昭和9年(1934年)の満州国とソ連の間で結ばれた航行状況改善に関する協定でも乾岔子島と金阿穆河島の標識は満州国が設け管理することとなっていましたが、ソ連は一方的に破棄しました。

  日本軍第一師団は国境守備の任務から江岸を占領し、ソ連砲艇を邀撃する準備を進めました。関東軍も乾岔子島奪還の命令を発しました。準備が整ったとき、なんと軍中央は事件の拡大を極力防止するため、参謀総長の名を持って攻撃中止の命令を出したのです。しかし、第一線の大砲2門が火を噴き、満州領に侵入していたソ連砲艦1隻を撃沈、1隻を大破させました。日本と満州国はソ連に抗議し、日本の重光大使とリトヴィノフ外務人民委員との折衝の結果、7月2日、ソ連軍は乾岔子島及び金阿穆河島にいたソ連哨兵並びに両島附近に集結中の砲兵隊、艦艇の撤収を命じ、4日までにほとんどの撤収が終了しました。

  こうした満州国とソ連の国境紛争において日本は一貫して弱腰です。もし、日本軍の砲撃がなければソ連軍はずっと居座ったかもしれません。

  この事件について関東軍参謀の辻政信は次のように書いています。
「是非善悪の判決は、相手の性格によらねばならぬ。我が一歩引けば敵も進むまいと思うのはインテリの常識である。だがこの常識を超えて、弱きに乗ずる相手の正体を見極めることが現実の政治であり戦略ではなかろうか」

  この後の張鼓峰事件でも航空機の使用を禁ずるなど日本側は弱腰で、ノモンハン事件でも越境爆撃を禁じ、総攻撃を停止するなどしています。その結果、満州国の国境は侵されたままとなりました。

  相手の性格、正体を見極め押すか引くか・・・これは現在の政治・外交にもいえることですが、日本政府はいつも引いてばかりで国益を損ね、主権侵害さえも許すことになっています。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
参考サイト
  WikiPedia「乾岔子島事件」

添付画像
  満州国軍の騎兵隊(PD)

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