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2012年6月

インパール作戦はなぜ実行されたか

牟田口批判は司馬手法。

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  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に日本陸軍により開始され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。 この背景にはチャンドラ・ボースらインド国民軍の「インド解放」の動きも後押ししました。特務機関である光機関の山本機関長はボースの言葉を使いながら昭和19年(1944年)1月25日に次のように戦略を説明しています。


「日本軍がインド内部のイギリス軍に最初の一撃を加えるやいなや、民衆はイギリス軍の力への幻想から醒め、大きな反乱が起こることが実際に期待できる」「そのため軍事作戦は大規模に実施する必要はまったくない。我々の目的は局地的な作戦で十分に達成されよう」

  しかしながらインパール作戦は動員兵力92,000のうち、戦死38,000、戦病40,000以上と大惨敗。補給線を軽視したな作戦といわれ、とにかく第15軍の牟田口司令官の評価は現在でも非常に悪いです。
  この作戦が認可される過程を追ってみますとほとんどの参謀が反対しています。それなのに作戦が認可されたのはなぜでしょうか。

  インパール作戦は昭和17年(1942年)8月に南方軍参謀の林璋(はやしあきら)中佐が計画したもので、二十一号作戦といい、インドのアッサム地方まで進攻するものでした。このとき第15軍司令官は飯田祥二郎中将は第18師団長だった牟田口廉也(むたぐち れんや)中将に意見を聞き、牟田口中将はこう述べています。


「一挙に東部インドまで突進しようとするこの案は、後方整備の関係、特に兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの諸点からみて、あまりにも時間的余裕がなく、実現の見込みはないと思います」


  この後、二十一号作戦はインド工作の状況から無期延期となります。対インド工作は光機関が宣伝工作やスパイを潜入させていましたが、まだ十分ではないという判断が働きました。しかし、昭和18年(1943年)3月のビルマ方面軍の再編成で、第15軍司令官となった牟田口中将はインパール作戦を強硬に述べるようになり、第15軍の参謀・小畑少将が反対すると更迭するという事件がおきています。当時の各首脳のインパール作戦の意見を簡単に表します。

 大本営・参謀本部
  |  東條英機陸相「無理するな」
  |  竹田宮参謀「作戦成立の見込みなし」
  |
 南方軍司令部
  |  総参謀副長・稲田正純少将「絶対許さん!」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「疑問だが、15軍に干渉過ぎるのもよくない」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「・・・作戦構想に修正が必要だが・・・」<=温厚な人柄
  |  片倉参謀「作戦構想を修正しないととても無理!」
  |
 第15軍
   牟田口司令官「やるっきゃない」
   小畑参謀長「反対」<=更迭される

 ところが猛反対だった稲田少将が昭和18年(1943年)10月に突然転出となります。

 大本営・参謀本部
  |  東條英機陸相「十分研究しろ」
  |  真田少将「やり方が違うだろ、ガ島をみればわかる」
  |
 南方軍司令部
  |  (後任)総参謀副長・綾部中将「うーん、できればやらせてやりたい・・・」<=心優しい軍人
  |  山田参謀「必勝の信念は牟田口中将一人。ダメ。中止したほうがよい」<=後で撤回
  |  今岡参謀「補給計画の適否より作戦上の見通し」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「牟田口にやらせたい」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「危険性が高い。再考の余地ないか」<=温厚な人柄
  |  
 第15軍
   牟田口司令官「今回の作戦こそ必勝の信念」<=一回やらせろ、独裁政権
   平井謀長「軍参謀は一切意見はいわないことになっている」<=更迭されるのが怖い
   第15師団山内中将「今、タイから異動してきたばかりでよくわからん」
   第15師団岡田参謀「無理だろう」
   第31師団佐藤中将「補給は間違いなくあるんだろうな」
   第33師団柳田中将(やっとれん)

  このような人事になって稲田少将の後任、綾部中将は参謀本部に上申し、真田少将が猛反対するのですが、参謀本部の杉山参謀総長が「寺内さん(南方軍総司令官)の初めて要望であり、たっての希望である。南方軍でできる範囲なら希望通りやらせてよいではないか」(<=人情派)と言って説得しました。

  このように人事異動などにより人情劇にながされてインパール作戦は決行が決まってしまいました。これで作戦は失敗し、数万の将兵が命を落としたのですから「なんてことだ」と思う人が多いと思いますが、それは現代では結果が大失敗とわかっているから言えることで、考えて見れば真珠湾攻撃も無謀といわれ大反対された中で認可された作戦でした。
  特に戦後は東京裁判史観により日本陸軍が批判の対象とされ、最大級の損害を出したインパール作戦は批判の格好の的になっている感があります。インパール作戦は「無謀な作戦」と言われるのは大東亜戦争は「最初から無謀な戦争」というGHQの刷り込みにも同期しています。また、インド国民軍のことはほとんど語られません。これはGHQのプレスコードによるものでしょう。
  ジャーナリストの高山正之氏によるとインパールを語る戦史は最初から結論が「牟田口が悪い」で決まっており、これは司馬手法だと言っています。司馬遼太郎の乃木希典、伊地知幸助評に似る、というものです。本来日本人は人民裁判的評価は行わないといいます。

  どうやらインパール作戦は「戦後の色眼鏡」を外して見なければならないようです。



参考文献
  PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
参考サイト
  WikiPedia「インパール作戦」

添付画像
  牟田口廉也(PD)

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チャンドラ・ボース

ガンジーは語られるがボースは語られない戦後の言論空間。

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  平成19年(2007年)8月、安倍総理(当時)はインドを訪問し、インド国民軍を率いて日本と一緒に戦ったチャンドラ・ボース(ネタージ)の遺族と会いました。

安倍総理
「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」

ボースの姪にあたるクリシュナ・ボースさん
「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるなら、私たちインド人も、英国の植民地支配に抵抗するため、ボースがインド国民軍を組織したことを支援したのが日本だったことを思い出すべきだ」

  日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。

  1919年、全学生中2番の成績でコルカタ大学哲学科を卒業したチャンドラ・ボースはケンブリッジ大学に進学します。翌1920年9月には最難関とされるインド高等文官試験に合格しました。そして彼はインド独立運動に人生を捧げることに決意します。

  昭和16年(1941年)、ボースはベルリンに潜入。駐独陸軍武官補佐官の山本敏大佐と大島浩大使はボースと接触し、昭和18年(1943年)2月、ボースはUボートでひそかにフランス大西洋岸ブレストを出港し、インド洋で日本の伊29潜水艦に乗り換え、5月16日に東京に到着します。秘密保持のため「松田」という偽名を使いました。
  ボースは東条英機首相に会見を申し込みましたが、東條首相はなかなか会おうとしませんでした。東條首相は何らかの先入観を持っていたようです。6月に入ってようやく会見しました。東條首相はボースの熱誠あふれる理知的な論議に完全に魅せられ、二回目の会見のときインド独立への支援を約束しました。そしてボースは「松田」の覆面を取り6月19日、内外の記者にはじめてその姿を現しました。

  この頃、インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権はビハーリー・ボース(中村屋のボース)が持っており、二人のボースの対立が心配されましたが、中村屋のボースはチャンドラ・ボースに指揮権を移譲し、ビハーリー・ボースは名誉総裁への就任することになりました。

  インド国民軍は昭和19年(1944年)にインパール作戦で「チェロ・デリー(進めデリーへ)」を合言葉に日本軍とともに戦うことになります。ただ、すんなりとはいかず、ビルマ人はボースの自由インド臨時政府をラングーンに置くことに難色を示しました。英国はインド人を手先に使ってビルマ人を痛みつけてきたからです。ビルマ国防軍のアウンサンも父をインド人に殺されました。インドのライフル部隊はビルマ人を殺しまくりました。このインド人とビルマ人の対立は結構根が深く、戦後、ビルマでの日本兵抑留者の周りでも頻繁に対立があり、抗争などがあると「マスター(日本兵のこと)はこっちに味方してくれ」と双方から言われて困ったそうです。日本の特務機関の光機関は必死にビルマ政府を説得し、ボース自身もビルマ政府首相バー・モーの娘の結婚式に豪華な贈り物をしてビルマ人の反インド感情の懐柔に努めました。

  結局、インパール作戦ではビルマ軍はそっぽを向き、インド国民軍の声に同調して寝返ってくるイギリス側のインド軍は期待したほどおらず、アラカン山脈の中で苦戦し、国民軍兵士はくしの歯がこぼれるように脱落していきました。そしてインパール作戦は中止になります。

  昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。ボースはインド独立闘争の継続を期してソ連行きを決断します。8月17日、サイゴンからツーラン(ダナン)を経由して台北の松山飛行場に到着します。しかし、ボースを乗せた陸軍97式重爆は台北を飛び立った直後に墜落してしまいます。全身火傷を負ったボースは陸軍病院で治療を受けますが、同日午後八時に帰らぬ人となりました。臨終間近の床でボースはこういいました。

「天皇陛下と寺内さん(南方軍司令官)によろしく」
「同志があとで来るから」


  ボースの遺骨は東京杉並の連光寺に収められ、現在もあります。ボースの遺骨が祖国に帰っていないのはインド人、特に彼の出身地カルカッタの人々がボースの死を認めなかったからと言われています。



参考文献
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
  オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
  「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
  中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)

参考サイト
  WikiPedia「スバス・チャンドラ・ボース」

添付写真
  マハトマ・ガンディー(左)とボース(右)昭和13年(1938年)(PD)

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Delhi chalo -Subhas Chandra Bose-
http://www.youtube.com/watch?v=EQZ_B8D86ms

新宿中村屋のボース

中村屋のカレーはこうして生まれた。

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  ラース・ビハーリー・ボース、1886年生まれ、西ベンガル州ブルドワンで生まれました。チャンドラ・ボースとともにインド独立活動を行った人です。

  ボースは1912年、イギリス高官の暗殺未遂で当局から追われ、同志のグプタとともに日本に脱出しました。そして支那の革命家・孫文のもとを訪れ、アジア主義者の巨頭・頭山満に会います。そして内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていきます。
  しかし、日本はイギリスと同盟関係(日英同盟)にあったためイギリスはボースとグプタの日本退去を要求します。日本政府はボースとグプタに5日以内の退去を命じました。退去期限の夜、二人は頭山満のところへ挨拶に行きました。二人の警官がボースとグプタに付いていましたが、頭山は二人を脱出させました。そして新宿中村屋の店主、相馬夫妻が二人を匿ったのです。ここで同店のインド・カリーが誕生し、相馬の愛娘とボースは結婚することになります。これでボースは「中村屋のボース」と呼ばれるようになりました。

  昭和16年(1941年)、日本は対米英開戦に踏み切ります。東條英機首相はインド独立援助を声明します。

  日本軍は破竹の勢いでマレーを進撃すると、イギリス軍の一大隊が退路を絶たれ、孤立していました。その大半はインド人でした。大本営参謀の藤原岩市少佐は一切武器を持たずに大隊を訪れ、投降を勧め、200のインド投降兵の身柄を預かることに成功します。やがてその中にいた中隊長のモハン・シン大尉の主導によってインド国民軍(Indian National Army、略号:INA)創設されました。

  インド兵捕虜と藤原機関の合同食事会。モハン・シンが述べた言葉。
「戦勝軍の日本軍参謀が、投降したばかりの敗残のインド兵捕虜、それも下士官、兵まで加えて、同じ食事でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では夢想だにできなかったことである。(中略) 藤原少佐の、この勝者、敗者をこえた、民族の相違をこえた、温かい催しこそはインド兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の千万言にまさる実証である」

  昭和17年(1942年)5月、タイのバンコクでインド独立連盟が設立され、中村屋のボースが総裁となります。この後、独立連盟とINAは不和があったもののチャンドラ・ボースも加わり、自由インド仮政府を樹立し、米英へ宣戦布告しました。そして日本軍とともにインパール作戦を戦うことになります。

  評論家、日下公人氏は戦後16年たった頃、シンガポールを訪問したとき、街中にある自動車修理工場を立ち止まってみていると、インド人が修理しているのを見かけました。扱っている車はほとんど日本製でした。「これはニッサンだね」というと、「あなたは日本人か、私もかつて日本の兵隊と一緒にインパールまで攻め込んだんだ」と言ってわれもわれも名乗りを上げてきたそうです。
「日本人はブレイブ(brave=勇敢)」とそればかり言って神様のように尊敬していたそうです。

  中村屋のボースは昭和20年(1945年)、日本で客死しました。日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してボースの仕事をねぎらいました。同年6月には、長男の正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死。インドは、日本が連合国に敗北してからちょうど2年後の昭和22年(1947年)8月15日に、イギリスから独立を勝ち取りました。



参考文献
  オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「なぜ日本は『大東亜戦争』を戦ったのか」田原総一朗(著)

添付画像
  「ラース・ビハリ・ボース氏謝恩の会」(1915年)(PD)
   テーブルの向こう側中央に頭山満、その後ろにラース、両者の手前に犬養毅。

新宿中村屋
  純印度式カリー 誕生秘話 http://www.nakamuraya.co.jp/curry_room/room_01.html

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ひめゆりよ永遠に

沖縄県民斯く戦へり

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  昭和20年(1945年)4月、大東亜戦争沖縄戦で沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の先生、生徒で編成された「ひめゆり学徒隊」は南風原(はえばる、ふぇーばる)の陸軍病院で勤務していましたが、5月25日に戦局の悪化をうけて移動します。翌26日、摩文仁村伊原へ到着。山城本部壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕、伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置となります。ここは運命の分かれ道でした。伊原第三外科壕(現在のひめゆりの塔がたっている壕)が6月19日に米軍の襲撃を受け、職員は全滅、40名の生徒のうち生き残ったのわわずか5名でした。

  6月18日、本部から解散命令がきます。生徒に最後の食料が分配されます。みな従軍服を脱ぎ、制服に着替え白百合の校章と桜の徽章(きしょう)を胸につけます。分散会が催され「海ゆかば」などが歌われました。

  6月19日、ガス弾が壕に投げ込まれます。

生き残った大城好子さん・山城信子さんの手記より
  ------------
  轟然と音がひびいたと思ったら、もうもうたる硝煙が壕をおおい、パッと青い光が眼に映じた。先生!先生!と叫ぶ声。お母さん!お母さん!と叫ぶ声。兵隊の怒号も入り混じった。
  安江千江子が、
「親泊先生!外へ出ましょう。逃げましょう」
とかすれた声。外間安子の声。
「ああ苦しい。玉代勢先生!東風平先生!」
「助けて!新垣先生!奥里先生!」

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  何人かは生き残りましたが、壕を出たところで機銃攻撃を受けます。この頃、米軍は軍人だろうと民間人だろうと区別なく殺戮しまくっていました。

守下ルリ子さんの手記より
  ------------

  ドカンというものすごい爆音と同時にもうもうと真っ白い煙が立ち込めて一寸先も見えない。
「ガスだ!ガスだ!」「水はどこ!水は!」
と叫ぶ声。
  そのうちに息がだんだんつまって苦しくてたまらない。あちこちから、
「おかあさーん」「おかあさーん」「おとうさーん」
と呼ぶ声。

  (中略)

  隣では又吉さんが、
「苦しいよう、姉さん!」
「敵は中頭から上陸したのだから、私の父母も、きっとこんなに苦しんで死んだに違いない」
という。
「何を言っているの。そんなことをいったらますます苦しくなるばかりだ。しっかりしてよ」
と励ます。
「お姉さんお先にね。ああ苦しい。天皇陛下万歳!」
  この声を聞いて、こんなところで死んでたまるものか、生きるのだ!生きるのだ!絶対に死なないと自分にいいきかせているうちに、いつの間にか意識を失ってしまった・・・

  ------------

  この又吉さんも生きて壕を出ましたが、助かっていないので壕の外で機銃を浴びたと思われます。玉代勢先生も壕を出ましたが、同じ運命をたどったと思われます。

  ひめゆり学徒隊 240名(教師含む) 生存104名、戦死136名。

  ひめゆり学徒隊は戦後、「軍国主義にだまされつづけてきた短い生涯」(ひめゆりの塔)「戦場にむりやりひきずり出されながら、生き延びることの可能性については客観的にも、主観的にもそれを想像する力をうばわれている者たちとして、酷たらしく死んだ沖縄の娘たち」(沖縄ノート)と刷り込まれてきましたが、ひめゆり学徒隊の手記を読んでも彼女たちはそんなこと言っていませんし、誰かを恨んだり、自分たちを被害者としているような印象も持ちません。見えてくるのは国家のために働こうと死地にも飛び込む勇気、劣悪な環境でも健気に職務を果たそうとする姿であり、生死の狭間にあっても他人を思いやり仲間同士助け合う姿です。国家、国民、県民、家族、友、師のための公の精神です。戦後の歪んだ見方を正し、ほんとうのひめゆりの姿が人々の心に永遠に残ることを切に願います。



参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
      『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
  岩波新書「沖縄ノート」大江健三郎(著)
参考サイト
  ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html

添付画像
  ひめゆりの塔(画角 2) Author:A-gota

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  発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

左の電xx次官に御通報方取計を得度

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信が無く三二軍司令部又通信の余力無しと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず之に代して緊急御通知申上ぐ
沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど(ほとんど)顧みるに暇なかりき
然れ(され)ども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ僅に(わずかに)身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃のがれx中風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり
而も(しかも)若き婦人は卒先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦(ほうすいふ)は元より砲弾運び挺身切込隊すら申出るものあり
所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍衛門に捨つる親あり
看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思はれず
更に軍に於て作戦の大転換あるや夜の中に遥に遠隔地方の住居地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり
是を要するに陸海軍部隊沖縄に進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只々日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ遂にxxxx与へ、xことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形x一木一草焦土と化せん糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ

沖縄県民斯く戦へり(おきなわけんみんかくたたかえり)
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを

ひめゆりを支えた人たち

上原婦長ほど勇敢に自分の職責を果たした者はなかったろう。

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  大東亜戦争沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」は南風原の沖縄陸軍病院に配属されていました。5月12日~18日にかけてのシュガーローフの戦いにより日本軍は首里の防衛も困難な状態となり、24日には陸軍病院付近に米兵が出現します。そして25日には移動することになります。しかし、3,000余名におよぶ患者を全員移動させることは収容の壕もなければ輸送力もなく絶望的でした。そして重症患者には最期の処置をすることになりました。

  ひめゆり隊の一人に胸部と大腿部を負傷した渡嘉敷という生徒がいましたが、担架は壕内が狭くて使えず、おぶって連れて行こうとすると痛みにたえかねておぶろうにもおぶれない。とうとう断念し、渡嘉敷さんは「そのままにしていってください」と言い残します。引率教官の仲宗根政善氏は呆然とします。

「死!義!死!生!師弟!
  頭はかきむしられ、しめつけられるような苦悩で、私は全身がぶるぶる震えた。凡夫の身、一片の肉として散らず、教え子をおきざりにして生きようというのか、教壇での言葉はうそだったのか、教訓は口先だけだったのか。渡嘉敷の母にあったらなんと答える。
  渡嘉敷、渡嘉敷、許してくれ」

  この後、仲宗根氏は渡嘉敷さんを救出に行こうとしますが、既に米軍が壕まできており、不可能と知り絶望します。しかし、この渡嘉敷さんは生きていました。自決用の青酸カリには手をつけず、何とか壕を這い出て倒れているところを親切な米軍の救護班に助けられたのでした。終戦直後の9月に師弟は宜野座病院(ぎのざ)病院で涙の再会を果たします。

  ひめゆり隊は婦長4名、看護婦86名の下で看護業務にあたっていましたが、テキパキとした働きぶりと優しい心遣いで尊敬を集めていた人に上原貴美子婦長がいます。次々と倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話などの一切が、ほとんど婦長の指揮にたよったといいます。軍医は4日に一度の診療しかしませんでしたが、婦長は看護婦を激励しながら、毎日毎晩ガーゼのつけかえに回ったといいます。上原婦長を仲宗根氏は著書の中でこのように評しています。

「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責を果たした者はなかったろう。いや、日本の女性の中でも極めて希だったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護に使いはたしてたおれた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれた者はほかになかったろう」

  上原婦長は病院の解散後、山城の丘で直撃弾を受けて戦死しました。

  仲宗根氏は喜屋武(きゃん)の海岸まで追い詰められ、米兵に包囲されたとき、手榴弾を手に自決しようとする生徒を必死に制止し、米兵と話をして安全を確かめ投降しました。ひめゆり隊を引率した教師18名。生存5名、戦死13名。とうとう耐え切れず10名の生徒とともに自決した先生もいましたが、極限の状態の中でがんばり抜いた末の尊厳ある死といえましょう。生と死の狭間のなかで先生、看護婦さん方々、立派に職務を果たされました。


参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
        『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
  ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html

写真
  上原貴美子(PD)

  平成18年日本テレビ「最後のナイチンゲール」は上原婦長をモデルとしている。
  イデオロギー色の強い番組構成だったようで、親族からは「がっかりした。言語同断」「あの番組が放映されてから、マスコミの取材にはもう一切答えたくなくなった」という声が聞かれた。

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島唄 - 夏川里美
http://www.youtube.com/watch?v=MTl9YuhuDYk

語られていた特攻 ~ 沖縄戦

今は特攻が語られていない。

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  大東亜戦争で海軍は沖縄を決戦場と考えていたため多数の特攻機を投入しています。昭和20年(1945年)4月6日より菊水作戦が開始され、海軍は約1000機、陸軍も900機投入しています。その前にも第一神雷桜花隊(桜花15、一式陸攻(母機)18)が出撃しており(戦果なし)、3月27日には台湾へ向かうはずだった武剋隊が特攻攻撃をしています。

  特攻隊のことが当時沖縄でどう捉えられていたか知りませんでしたが、ひめゆり隊の学校長、野田貞雄がこの特攻の様子を目撃していたことが仲宗根政善著「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」に少し書かれていました。野田校長は軍より参謀部勤務を命じられていましたが、断って生徒と壕で寝食をともにしておられました。(6月21日戦死)校長は首里の崩れ落ちた城壁より海を見ていました。

「ここは観戦場なんだ。今朝未明に慶良間沖に特攻隊が出た。壮絶そのものだ。実にみごとなもんだよ。轟沈あっけない。煙がぽっと上がったかと思うとそのまま艦船は沈み、ただ煙だけが宙に浮いている」

  野田校長は丹念に日記を記しておられ、撃沈艦船の数を示しながら、今朝の特攻隊の壮絶さを繰り返して語られたといいます。必死の特攻を伝えて生徒を勇気付けようとした心が伝わってきます。
  このほか同著には一緒だった新婚の軍医が「この戦いは負ける」と口癖のようにいっているのに毎日艦船撃沈の数を数えていたことが書かれており、特攻隊に一縷の望みを持っていたことが伺えます。
  また、ひめゆり隊が喜屋武(きゃん)まで追い詰められたとき、もう最期だ、どうしようか、兵隊と行動をともにして死ねれば本望だと思ったところ、兵隊が
「いま盛んに特攻機を送るように通信しているのだ。きっと来るよ。もうしばらくの辛抱だ。勝つぞ」と励まされ、心強く思い、その日までどうしても生き延びよう、と思った手記が掲載されています。

  仲宗根政善氏の著書は戦艦大和の特攻のことが書かれていないので、おそらく情報が入ってこなかったのでしょう。戦艦大和には民生品である歯磨、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド(生理用品)15万人分を積んでいたといわれています。
  沖縄一中鉄血勤皇隊は大和特攻出撃の報を漏れ聞いており
「海岸線に乗り上げ、艦そのものが大砲台となり、形成は一気に逆転する」「いや発電機が使えないから無用の長物になる」などとカンカンガクガクで、大和沈没の悲報が流れると「日本海軍は全滅だ」「いや連合艦隊は桂島沖にあり、乾坤一擲(けんこんいってき)の反撃を狙っている」と言い争っています。

  沖縄特攻の戦果は沈没15隻、損傷174隻ありましたが、沈没艦船は駆逐艦以下の小型船で米の作戦を阻止するほどには至りませんでした。しかし沖縄県民の精神的な支えになり、それによって生き延びた人がいたということであれば、特攻で命を捧げた英霊もよろこばれることでしょう。

  戦後は特攻で散った人たちの思いも特攻に一縷の望みを託し勇戦した沖縄県民の歴史は抹殺され、沖縄には被害者史観が吹き荒れ「軍隊は住民を守らない」が合言葉のようになりました。

  鹿児島の知覧から第二十三振武隊長として特攻出撃した伍井芳夫中佐の娘・臼田智子さんは平成4年(1992年)から毎年慰霊の日には沖縄に訪れています。

「最近、ようやく沖縄の一部の人達が、父がなぜ戦死したのか分かってくれるようになった」

  沖縄を守るために特攻を敢行した父親の思いを理解してもらうには何年もかかったと言います。


参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
      『沖縄戦における軍官民関係』原剛
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
  「歴史通」 WiLL2009.7月号『歴史教科書に大和が載った』藤岡信勝
  角川学芸出版「報道されない沖縄」宮本雅史(著)
  光人社「沖縄一中鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
参考サイト
  沖縄戦史 武剋隊隊長 中尉 広森達郎 http://www.okinawa-senshi.com/hiromori.htm
  WikiPedia「特別攻撃隊」「菊水作戦」
添付画像
  神風攻撃機の攻撃を受け炎上する5月9日英航空母艦ビクトリアス(PD)

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【英霊に】 神風特別攻撃隊 魂のルフラン 【捧ぐ】
http://www.youtube.com/watch?v=ge78OW-rYdA

戦艦大和特攻、沖縄へ

沖縄へ向かった戦艦大和。

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  昭和20年(1945年)4月6日、天一号作戦(菊水作戦)により戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻が山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃しました。
  この大和特攻は沖縄島残波岬に突入し、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるという作戦計画でしたが、実際には主砲が使えなくなるから無理と言われ、「一億総特攻の魁(さきがけ)」の作戦であるといわれています。しかしながら、燃料は3往復半分積んでいたという説や大和に積み込む沖縄県民のための民生品、歯磨き、歯ブラシ50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド15万人分を調達したという証言もあり、まだまだ謎は多いです。

  以前、「男たちの大和」という映画を見て、その後に原作の本を読みましたが、原作本は沈没時の壮絶さが印象に残りました。戦艦大和は爆弾五発、魚雷十本を受け、機械室一箇所を除き、全部運転不能に陥り、速力は10ノットの激減し、設計上の安全最大限傾斜である22度以上に傾斜しました。そして「総員最上甲板」(総員退去のこと)の命令がでます。ここから沈没までわずか20分。

  大和が沈没すると多くの乗組員はその渦に巻き込まれて海中へ飲み込まれていきます。海中で大和が大爆発を起こし、これで水面へ押しあげられ助かった人が多くいます。海上は重油が浮き、浮遊物にしがみつこうと我も我もと生き残った兵士たちが争います。固まっていると米軍機が卑劣にも機銃掃射をかけてきました。駆逐艦が救助にきてロープを投げると一本のロープに数人が群がります。重油ですべってなかなか上れなかったといいます。
  高射長の川崎勝巳少佐は日ごろ
「軍人精神とは死ぬべきとは死ぬことだ。敵機必殺撃墜につとめよ」といっていました。大和が沈没したとき、海上に浮遊しながら「これにつかまれ」と配下のものに円材を渡し、「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ、ばんばっていきるんだよ」と励ましました。駆逐艦が救助に来ると皆が救助されるのを見届け、駆逐艦とは別の方向へ向かうように姿を消したといいます。

  沈没直後、艦長の有賀大佐は生きていました。防空指揮所にいて、沈没のときに海上に投げ出されたようです。乗組員の高橋弘氏が二、三人と漂流していると、ひとりが「艦長じゃないか!」と声をあげます。「艦長!艦長が生きとる」と高橋氏は大声をあげました。このとき有賀艦長と高橋氏の目が合い、その瞬間、有賀艦長は海に潜り、それっきり浮かんでこなかったといいます。高橋氏は「艦長は自殺したんじゃな。わしがこの目つきで艦長じゃないかと言うたし、周囲にいた者も言うたんで非難されたと思うたんじゃろう」と悔いています。

  昭和20年4月7日14時23分、北緯30度43分07秒、東経128度04分25秒、大和沈没。沖縄北部の屋我地島の海岸には「中城湾行き」と記された戦艦大和所属の破損品が多数流れ着きました。
  ちょうど4月7日は鈴木貫太郎内閣の親任式が行われていました。新内閣の軍需大臣豊田貞次郎の娘婿、山本祐二大佐は大和に乗りこんでおり、沈没後、漂流中に死亡しています。海軍大臣の米内光政は、皇居に参内し、天皇陛下に第二艦隊の戦況を奉上しました。

「陛下、連合艦隊は、もはや存在しません」


参考文献
  ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
  歴史通WiLL2009.7「歴史教科書に『大和』が載った」藤岡信勝
  歴史通WiLL2009.7「技術の粋が生んだ『大和』の美」原勝洋
  WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)
参考サイト
  WikiPedia「大和(戦艦)」

添付画像
  戦艦大和(PD)

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大和 帰還セズ ~運命の特攻作戦~
http://www.youtube.com/watch?v=5XEnAoC7ujg

ひめゆり学徒召集

ひめゆりの本当の姿。

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  大東亜戦争の沖縄戦では師範学校および中学校の男子は防衛招集規則によって召集されました。そして二等兵に任命されます。女子師範学校および女学校上級生は軍属として陸軍病院・師団野戦病院に配属され、看護婦としての業務に従事します。男子生徒は1780人、女子生徒は581人です。有名なひめゆり学徒隊は沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名で志願によるものです。ひめゆり隊のほかにも「白梅学徒隊(県立第二高等女学校)」「なごらん学徒隊(県立第三高等女学校)」「瑞泉学徒隊(県立首里高等女学校)」「積徳学徒隊(私立積徳高等女学校)」「梯梧学徒隊(私立昭和高等女学校)」があります。

白梅学徒隊 中山きくさん

「家族に入隊するというと『行くな』と引き止められました。那覇市外が全焼した十・十空襲の直後だし、家族としては私を手元から離したくなかったのでしょう。でも、小学校から『お国のために』と教えられてきた愛国少女でしたから、こんなときに私たちが行かなくてどうする、と思っていました」

ひめゆり学徒隊 宮里春子さん 艦砲射撃が始まった日

「先に年寄りを非難させ、父を防衛隊に送った母が、乳を飲んでいる妹をおんぶし、米一升を荷物にして、私にこうおっしゃるのであった。『お願いだから山原までいっしょについていっておくれ』と泣きそうになっては母はおっしゃっていた。
私は生徒です、ときっぱり答え、心の中では私は両手をあわせてわびながら、母と別れたのであった」


  ひめゆり学徒隊は南風原(はえばる、ふぇーばる)の沖縄陸軍病院に配属されました。当初は患者数も少なくそれほど多数の女学生を必要とせず、さらに生徒壕が超満員になったため、次々と生徒が集まってきますが、受け入れに窮し、とうとう先生がはせ参じた生徒に
「あなたがたが国難にはせさんじる気持ちはよくわかる。しかし、壕はこの通り超満員だ。帰ってはどうか」と勧めます。言われた生徒は学友といっしょに働けない寂しさがこみ上げて、立ち去ろうとしなかったといいます。

  ひめゆり隊を待っていたのは地獄のような光景でした。病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えませんでした。

比嘉園子さん

「肩から指先までギブスをまかれている兵隊、気管をやられてたえずピーピーのどをならす兵隊、脳症を起こして真っ裸になってわめきちらす兵隊、およそ百人近く収容された薄暗い壕の中で、身の毛のよだつ思いであった」

  しかし、患者のやさしい言葉に、どんなつらいことでもしのぼうと思ったと述べています。

「こんなになると(両手が不自由)、みんながうるさがって食事のせわしてくれる人もいないのです。学生さんが来てくれて自分はほんと助かりますよ」
「学生さんは親切でよい」
「ご苦労様、しっかりたのみますよ」
「あなたがたにまでこんな心配をかけてすまんですな。あとしばらくの辛抱です」


  治療が数日に1回となってくると患者も気が立ってきて
「治療班のバッカヤロウ!いったい幾日になると思うんだ。包帯も腐っちまったじゃないか。手榴弾を投げてやろうか、ほら二個も持っているぞ」と正気の沙汰ではない様相をみせるものも居ましたが、包帯を取り替えた後、「やっと人心地つきましたよ。先刻はどうも失礼なことを言ってすみませんでした」とあっさり謝ったりしていました。

  現在、ひめゆり学徒隊は「かわいそうな犠牲者」、日本軍=犠牲を強いた加害者というイメージが刷り込まれています。しかし、ひめゆり隊の生き残りの方の手記からはそのような構図は見えてきません。



参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
      『沖縄戦における軍官民関係』原剛
      『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
  ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html
  WikiPedia「ひめゆり学徒隊」


添付画像
  映画「ひめゆりの塔」のスティール写真(PD)

  ひめゆり隊の生き残りの方の声「当時は恋愛どころじゃなかった。戦争ってそんな呑気なものだったのかと思われるのは心外」「映画にしても半分見てもうイヤだと思ったんです。川で水遊びするシーンなど、少なくとも私の記憶にはありません。あんなにキレイなものではありませんでしたよ」

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沖縄に迫る米軍

迫り来る恐怖。

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  昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。9月15日、米軍がペリリューに上陸。10月10日、沖縄空襲。この空襲は十・十空襲と呼ばれ沖縄本島だけではなく、八重山諸島、宮古島を含め沖縄全域に及びました。最も被害の大きかったのは旧・那覇市(現在の那覇市の一部)で、市街地の9割が焼失して同市は壊滅し、市内の死者は255名にのぼりました。日本軍は米艦隊の集結はキャッチしていましたが、目的地はつかめず、当日レーダーで敵を捕捉していましたが、レーダーの精度が低く、報告は信頼されませんでした。

沖縄師範学校女子部教諭 仲宗根政善氏の記録
「10月10日の朝、ヨウジをくわえて井戸ばたに立っていると、高射砲の煙が西空の朝もやの中にポンポンあがった。朝っぱらから演習かなと思っていると、けたたましくサイレンがなりひびく。
  空襲だ!子供の手をひっぱって家庭防空壕に飛び込むや、たちまちズシンズシンと地響きが伝わる。正子、民子がおびえて私の顔を見つめていた。今の爆弾は1キロと離れていない。『学校へ出かけるぞ』と言ったが妻の返事はなかった。妻子を壕に残して思い切って門を出た。飛行機がひっきりなしに飛んで、道は歩けない」

  10月10日は軍でちょうど図上演習があり、指揮官は一箇所に集まっており、兵たちには単に「演習」と伝えられていた為、朝からすごい演習と思ったようです。渡嘉敷の赤松部隊の赤松大尉は兵棋教育で那覇におり、旅館で空襲にあいました。
「女中に防空壕はどこかと聞くと、無いと答う。兵隊さん、どうしたらよいかと泣き顔なり。防空壕無ければ、詮方なし。勿論、逃げるところも不明。女中には、蒲団を被って大きな部屋で伏せているよう教えて、玄関に出てみれば、将官や佐官、5,6名立っていられる」・・・米軍の攻撃に対する準備が整っていなかったことが伺えます。

  添付の写真は米国のライフという雑誌に掲載されたもので、ボーイフレンドが送ってきた日本兵の頭蓋骨を机上において、それを眺めながら手紙を書いているアメリカの少女です。10・10空襲の少し前に日本でも知られるようになりました。

「奇怪なるこの写真、これこそ肉を食い、骨をしゃぶる米鬼の正体・・・怒りの眼をかっと見開いて野獣の正体を正視しよう」

  当時、米の残虐性はインディアン虐殺やフィリピン虐殺など知られており、ライフの雑誌やサイパン玉砕の報、そして十・十空襲の無差別攻撃によって沖縄県民の恐怖は募っていったことでしょう。そして恐怖を克服するにはそれを上回る敵意、戦意を持つしかありません。

  沖縄のマスコミ
「敵米獣にたいする憎しみ、憤りは日本一であるはずだ」
「県民の戦闘はナタで鍬でも竹槍でも・・・」
「鉄砲が無ければ竹槍でいこう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう」

  年末の県議会の採択した宣誓
「われら一同協心、特攻精神を以って敵米英を撃滅」

  米軍がやってきたのは翌昭和20年(1945年)3月でした。前掲の仲宗根政善氏の記録では米軍の沖縄上陸前に卒業式を済ませています。主事室には戦局の推移を示した太平洋の地図を貼っており、職員の一人がサイパンを指でさし、手を震わせて「もうすぐですよ。いまにきますよ」と沖縄にサイパンから線を引いていたといいます。


参考文献
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
  WAC「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」曽野綾子(著)
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
        『集団自決問題の真実 - 同調圧力に屈した裁判所』秦郁彦
添付画像
 LifeMag日本兵の頭蓋骨(PD)
参考サイト
  WikiPedia「十・十空襲」

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Battle of Okinawa 1 沖縄戦 1
http://www.youtube.com/watch?v=a7u7zdR8Sbs

停戦を強く望んでいたのはソ連だった ~ ノモンハン事件

スターリンは日本軍の強さに震え上がった。

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  昭和14年(1939年)5月に勃発した満州とモンゴルの国境紛争「ノモンハン事件」は日本軍の惨敗と言われていましたが、ソ連崩壊後の資料によると実際はソ連軍は大打撃を受けており日本軍の敢闘が浮き彫りになりました。ソ連は外蒙古の支配力を強化し、国境紛争を起こし、日満軍に一撃を与え、西の憂いを無くし、東欧へ進攻する予定でした。モスクワの陸軍駐在武官の土居明夫大佐は6月中旬に関東軍首脳へ
「これは単なる国境紛争ではない」進言しています。

「英仏とソ連が一緒になってドイツと戦う時のために、極東で関東軍が手を出さないよう一度徹底的に叩いておくというのが、スターリンの狙いではないか」

  しかも土居大佐は帰国の途上、シベリアで目撃した棒大なソ連軍の東送を伝え、
「だから関東軍は全軍をあげて戦う準備をすべきだ」進言しています。

  ソ連は日本軍があまりにも強いので顔色を失い、大軍を集結させ、8月20日には大反攻作戦を展開します。そして日本側を驚かせる出来事が発生します。8月23日、独ソ不可侵条約が発表されたのです。スターリンは8月15日にはドイツに停戦の仲介を依頼しており、日本軍との戦闘拡大を食い止めるため、ドイツに譲歩したのです。ところが日本側はソ連が東への進攻を強化するのではないか、と疑念を抱いてしまいました。このあたりが日本外交、情報力の弱さでしょう。

  8月20日からのソ連軍の大攻勢に日本第二十三師団は壊滅状態となりました。そして関東軍は第七師団、第二師団、第四師団、第一師団を動員し、9月上旬大反撃を企図しました。スターリンには日本軍が10個師団を増強するとの情報が入っていました。これは満州有事の際に内地、朝鮮、支那から約10個師団を集めて決戦する、という日本軍の構想がソ連側に漏れていたと思われます。ソ連のボロジェイキン少将は
「日本軍は十個師団を集結中で補給線は日本は有利だった。これはヒットラーの急速な進撃と無関係ではない」と推測し、スターリンは1個師団でも大変なのに10個師団も来られてはと震え上がります。

  8月28日、平沼内閣は日独軍事同盟の締結交渉を進めていましたが独ソ不可侵条約に驚き、
「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を遺して総辞職しました。

  8月31日、大本営からの大陸命が届き、関東軍は大反攻作戦へ向けて沸き立ちます。
  9月1日、ドイツがポーランド進攻を開始。
  9月3日、突然、大本営は関東軍に対して掌を返すような隠忍自重の命を出したのです。そして9月7日に関東軍の植田大将以下が更迭となりました。逆にこの情報をキャッチしたソ連は日本軍の大反撃が始まる前触れと思い、10日にはソ連モトロフ外相が原状回復の条件を東郷茂徳大使に提示しました。
  9月14日、東郷大使は最終案を提示し、これを飲まねば停戦しない、と通告。
  9月15日、ソ連は受諾し停戦となります。

  9月17日、ソ連はポーランドへ侵攻。モスクワの土居大佐はラジオ放送を聴いて腰をぬかしました。ここで初めてノモンハンの停戦を強く望んでいたのはソ連のほうだったということを知ったのです。土居大佐は
「こんなことならもう2,3日粘っていれば・・・まんまと騙された」と述べています。

  日本は情報収集力、情報分析力、外交力において大きく遅れをとっていたのです。歴史を見て反省し、将来に活用するのであれば、こういう点でありましょう。
「ノモンハン戦は意味のない領地の奪い合い」「機械化部隊に歯が立たなかった」という誤った見方をしていたのでは意味のない反省しかできません。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
 歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
 モロトフ(左)とスターリン(右)  AUTH:Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum

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奮戦したフイ高地の井置支隊 ~ ノモンハン事件

フイ高地の悲劇。

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  昭和14年(1939年)5月に勃発した満州とモンゴルの国境紛争「ノモンハン事件」は日本軍の惨敗と言われていましたが、実はソ連軍は大打撃を受けており、有利な形で停戦に持ち込むため、8月20日よりソ・蒙軍は戦車、航空機、日本軍の3倍ともいう大兵力を結集し大攻勢に出ます。

  ノモンハンの北方のフイ高地は井置栄一中佐が率いる部隊が守備していました。ここにソ連軍が猛攻をかけてきます。ここを突破して日本軍の後方に回り込み、日本軍を包囲しようという作戦です。

  20日、ソ連戦車40~50輌が来襲。砲兵の射撃と火炎瓶で十数台を擱座させます。夜には火炎戦車を含めて襲撃してきますが、反撃し戦車2台と火炎戦車を全部破壊しました。

  ソ連側資料
「第七装甲車両団と第601狙撃連隊は強固な築城陣地フイ高地で、阻止され、行進しつつ占領することが出来なくなった。フイ高地の日本兵はソ連軍の攻撃を撃退し、この戦闘で狙撃連隊長のスダク少佐は英雄的戦死をした」

  21日には井置支隊の陣地に一分間に120発の砲弾が降り注ぎ、散兵壕が崩壊します。そして戦車群と狙撃兵が陣地に入ろうとしますが、連隊砲で撃退。再び戦車と狙撃兵が来襲し、手榴弾戦になるも撃退。22日は敵砲弾が1秒間に3発も降り注ぎ、野砲が全滅してしまいました。
  ソ連は22日になって精鋭の第212空挺旅団を投入。このソ連兵は他の兵のように白兵戦でひるむことなく、日本軍兵士が死守する岩の裂け目や塹壕陣地に肉薄し、手榴弾を投げつけ、火炎放射器による支援を受けながら飛び込んできました。

  水の補給がままならない井置支隊は渇きに苦しみながらもソ連空挺部隊の攻撃を何度も撃退しました。この井置支隊の奮戦ぶりをみたソ連側は井置中佐を英雄視し、やっとのことで井置支隊の抵抗を破ったありさまをソ連のシーシキンという人が次のように述べています。

「・・・フイ高地の戦闘は続行していた。日本軍守備隊は、全面を封鎖されながらもすべての攻撃を撃退しつづけた。・・・8月23日の終わりになってやっと、第212落下傘旅団の追加支援を受けた北面軍諸部隊によって、敵の抵抗を破った。日本兵は手榴弾と銃剣を持って、文字通りすべての壕から叩き出さねばならなかった。一人として捕虜にならなかった。戦闘後、塹壕と掩蔽(えんぺい)部から、600以上の日本軍将兵の死体ひきずり出された」

  600以上の日本兵というのは誇張で、25日までの井置支隊の戦死・行方不明203名です。井置支隊の269名は補給が断たれ弾薬も水も食糧もない状態になっていきました。通信機も破壊され、連絡もとれず、23日夜にはフイ高地うちの西面一帯が制圧され全滅を覚悟。24日井置支隊長は「いつの日にか戦うことを期して生き残るため、残存兵力の消耗を防ぐ」と決意し、25日未明、ソ連軍が立ち去った後、高地を脱出して一人の犠牲者もださず本隊に到着しました。この頃の日本軍は戦力がなくなったら突撃し、白兵戦で活路を見出したり、隊長は責任を感じ自決したりしていましたが、井置支隊長は自決を図って周囲に止められ、自決できませんでした。

  井置支隊長の判断は合理的ではありましたが、これは命令によらない無断撤退として罪を問われ、停戦協定後の9月16日に井置中佐はピストル自殺してしまいます。これは小松原師団長から自決勧告が出たと言われていますが、これは違法で強制力はありません。師団長については責任回避との批判があります。また辻参謀(?)が毎日のように自決を説得させたとの説もあります。小松原師団長はノモンハン停戦後の11月に井置家を訪問し、遺骨に手をあわせて男泣きに泣きました。そして翌年、胃がんで死去しました。自決との説もあります。




参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
参考サイト
  Wikipedia「辻政信」

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  塹壕から敵陣を狙う部隊 歴史街道2011.05より

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歴史を捏造してでも民族意識を高める韓国

ほとんどの韓国人は洗脳されている。

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「日本の植民地時代に民族の解放のため犠牲となった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し、国を建てたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽った」


  ソウル大学教授の李 榮薫(イ・ヨンフン)氏によるとこれが現在の韓国の認識のようです。こうして強烈な民族意識は歴史を捏造歪曲し、民族自尊史観を作り上げていきます。

  民族の戦った歴史を捏造し、そこに誇りを求めます。天安の独立記念館には「独立戦争館」というのがあり、ジオラマで独立戦争の戦闘場面が再現されています。

  小学校国定教科書
「(大韓民国)臨時政府は日本に宣戦布告して、連合軍と連絡を取りながら独立戦争を展開していった。わが民族の独立の意志が広く知られると、世界の強大国もわが国の独立を約束せずにはいられなくなった」

  わが韓民族は戦って独立を勝ち得た、ということにしたいのですね。そうだったらいいのにな、という願望を歴史の事実として捏造してしまったのです。臨時政府があったのは事実で、宣戦布告したのも事実ですが、独立戦争などやっていません。宣戦布告も意味のあるものではなく、サンフランシスコ条約に参加する資格さえありませんでした。

  人文系高等学校世界史
「倭族(日本のこと)は大概東北アジア系統の族属と南洋族そしてアイヌ族の雑種だった。彼らは一時代には今日の九州と本州西部にかけて部落諸国家を成していた。彼等のなかで特に大陸に近い部落に住む倭人は三韓から文物を受け入れ、再びわが三国時代に至り、倭人は主に百済を通じ漢字と仏教徒各種技術の同文物を受け入れた」

  高等学校世界史
「我が国の農業技術・漢字・暦法・仏教を日本に伝えてやったので大和政権はこれを活用し、国家の体裁を整えていった。日本の文化は新石器時代から我が国と中国の影響を受けて成長した」

  要するに日本は遅れた雑種部族だったが、韓民族が文化を教えてやったんだ、と言っているわけです。日本は8世紀には「日本書紀」などの正史を持ちますが、朝鮮では12世紀からです。日本には古典文学「源氏物語」「万葉集」などがありますが、朝鮮にはない。「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」のような絵巻物もない。国風文化というものが存在しないのです。李朝時代の小説は225種類あるそうですが、朝鮮を背景とした作品はたった71種でしかもそれは主人公が朝鮮出身のもので、物語の舞台が朝鮮であることを明示したものは21種類なのだそうです。ほとんどは支那人が主人公で、舞台は支那です。

  李榮薫教授は「生産と市場における信頼と法治と国家の歴史こそ真正な歴史である」として民族史のみに焦点をあてた現状に苦言を呈しています。やはり識者としてここまで歴史を捏造歪曲されているのを見ると危機感を覚え、弾圧されてでも警鐘をならしたくなるでしょう。



参考文献
  文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著) / 永島 広紀(訳)
 「歴史通」2009.7月『韓国の偽史倭人伝』八木秀次
 オークラ出版「反日マスコミの真実2010」『嘘ばかりの韓国歴史教科書』古田博司

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 信託統治反対のデモ 1945 12(PD)

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ソ連軍大反撃 ~ ノモンハン事件

日本軍はソ連機械化部隊を撃破。そしてソ連の大反撃が始まった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連の機械化部隊に全く歯が立たなかったというのは真っ赤な嘘であり、ソ連戦車、装甲車を破壊しまくりました。史上初の戦車による夜襲を行い、ソ連に大打撃を与え、運動性能に優れた九七式戦闘機はソ連機を圧倒しました。

  ソ連は日本・満州に一撃を与え、安全を確保し、東欧ポーランドに攻め込む予定でしたから、予想外に強い日本軍に顔色を失い、焦ります。日本に潜入していたゾルゲ諜報団は関東軍が8月24日に総攻撃に出るという情報を掴みモスクワに知らせ、
「日本軍の先手をとり、あとくされのないよう徹底的に叩くべき」と進言しました。そしてソ連軍は8月20日に大攻勢に出ることになります。

  ソ連軍ジューコフ司令官は大攻勢をかけるための補給に苦心します。鉄道の最寄り駅ボルジャからノモンハンまで650キロもある未舗装道路しかなく、地形的条件でいえば日本軍より3倍は困難でした。日本側もソ連の輸送能力から考えて1個師団ぐらいの展開しかできないと考えていました。ジューコフ司令官はソ連国内からトラックをかき集め、大輸送を展開し、日本側に見破られないよう盛んに航空作戦を展開し、偽装電波を流します。輸送には荷馬車まで使われたのではないかと言われています。そして日本側をはるかに上回る大兵力と物資を集結させました。関東軍参謀の辻政信中佐は
「まさかあのような大兵力を外蒙の草原に展開できるとは夢にも思わなかった」と回想しています。

  8月20日、ソ連軍は3方面から作戦を展開します。北方面フイ高地の井置支隊は奮戦するものの、22日に突破され、ソ連軍はノモンハーニー・ブルドー・オボーへ進出。日本軍は包囲されます。正面、南側ともに激しい砲撃を受け、歩兵71連隊、72連隊が壊滅。野戦重砲第一連隊も背後から攻撃を受け陣地が蹂躙されました。ノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊も全滅しました。

  ソ連軍は戦い方を変えてきており、火炎瓶攻撃にやられないよう戦車のエンジン部分にネットをはったり、速射砲にやられないよう、1000メートル地点から射撃し、戦車の後ろに狙撃兵を配置し、肉薄する日本兵を狙撃しました。そして歩兵攻撃と連携して前進してくるようになりました。

  3倍の敵を相手に、それでも日本将兵は奮戦しました。絶望的な状況下でも敢闘精神を失わない日本将兵との戦いはソ連兵にとっては悪夢そのものでした。しかし、日本将兵も心理面で崩れて、退却してしまう前線もあり、師団司令部へ40名ほどの将兵がなだれを打って退却する場面がありました。

退却してきた将校
「(辻)参謀殿!右第一線は全滅しました」

辻参謀
「何ッ。お前達が生きているじゃないか。何が全滅かッ。旅団長や連隊長や軍旗をほったらかして、それでも日本の軍人かッ」

  辻参謀はこの後、旅団救出に向かいます。27日夜、第二十三師団小松原中将は自ら手兵を率いて、バルシャガル高地、ハイラスティン河両岸で陣地を固守している歩兵砲兵部隊の救出を企図しました。

  小松原師団長訓示
「師団はこれら(前線)の部隊と連絡し、もって防衛組織を確立せんとす。その任務は重大にして困難なり。ただ全隊一つになり、決死の精神をもってこれを達成すべし。予も死を覚悟す。諸子も予と同心となり、崇高なる犠牲精神に依りこの任務を完うすべし」

  師団本部は二日二晩陣地に拠って奮戦し、30日夜、最後の突撃を準備中「突破帰還すべし」の軍命令を受領。師団長自ら先頭に立ち、軍刀を抜き5回の突撃により敵の重囲を突破し帰還しました。第二十三師団の生き残りの将兵は将軍廟に集結。師団は戦力を消耗し尽くしましが、今度は第七師団、第二師団、第四師団、第一師団による日本軍大攻勢が予定されました。ところが、これは突然中止となったのです。そして後世、第二十三師団の損耗だけつままれ、ソ連が大量の戦車、装甲車を出動させていたことから、「機械化部隊に歯が立たず惨敗」という東京裁判史観にもとずく神話が作られました。



参考文献
  歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)

添付画像
  小松原師団長と小林歩兵団長、中は田中直一副官、ノロ高地にて 「ノモンハン事件の真相と戦果」より

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人命軽視のソ連軍 ~ ノモンハン事件

日本軍のほうがはるかに人命を重んじていた。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。

  関東軍参謀の辻政信中佐は5月30日、山縣支隊本部に到着するとソ連軍の焼けた装甲車に出くわします。中には運転手らしい者の黒こげ死体が見えました。
「どうして飛び出さなかったのだろう」と、怖いもの見たさで除いてみると、死体の両足首に太い鉄鎖(てっさ)を巻きつけて車体に縛られていたのでした。運転手はモンゴル人のようです。

  ノモンハン事件で国境の河を越してきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却して来る味方の部隊を火炎放射器で焼き払ったという目撃談があります。またソ連軍は退却しても5,6百メートル手前で停止したというのもあります。督戦隊がいたのです。ノモンハンに参加した日本兵の証言には以下のようなものがあります。

「破壊された装甲車を見ると、外蒙古兵が足首を鎖で縛られて逃げられない状態だった」

「外蒙古兵は高い木の上に縛られ、葉のしげみから小銃を撃って来た」

「ソ連軍は戦車に外から錠をして逃げられないようにした」

「蒙古ラマ僧侶に銃を持たせた」


  ソ連はウクライナの農民を拉致したり、総合演習として称して戦地に送り込んでいました。こういう兵は士気が低い。なので、退却、逃亡させないために督戦隊を配備していたのです。督戦隊は退却、逃亡する兵士を処分する役目を持っています。ソ連兵は無理にでも前進して日本軍に接近し、手榴弾を投げると日本兵が突撃してきてます。銃剣術を知らないソ連兵は串刺しにされ、恐怖のあまり逃げると督戦隊に銃撃されるか、焼き殺されるわけです。

  これは当時、ソ連だけでなくアメリカはフィリピン兵、イギリスはインド兵に対しても同じような扱いをしています。支那軍でも各地で拉致した若者を集めて軍を編成してトーチカの中に鎖でしばって死ぬまで撃ちつづけるようにしています。

  田中克彦「ノモンハン戦争」によると
「ソ連軍は兵士に対して戦争目的を友邦モンゴルを日本帝国主義の侵略から守ると掲げて徹底していた」と書かれていますが、拉致された兵士がソ連が掲げる目的を理解していたとは思えず、正規兵にいたっても捕虜になれば家族、子孫まで処罰の対象となるため恐怖のため戦っていたのでしょう。それに対して日本軍は督戦隊のようなものはなく皇軍として統制がとれていました。
  田中克彦氏のいうソ連軍は崇高な使命で戦っていて日本軍は目的が分からず上層部の指令で動いていた、日本軍は命を粗末にしたというのが戦後の東京裁判史観であり、そこから抜け出せない歴史家は戦車の中で鎖でつながれたソ連兵士を
「シートベルトだった」と解釈している人までいます。素直に見れば人命軽視はソ連軍であり米軍も英軍も支那軍も同じであり、相対的に日本軍のほうが人命を大切にしていると言えるでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)

添付画像
  鹵獲したソ連装甲車上は歩26秋野英二少尉 「ノモンハン事件の真相と戦果」より

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空戦は圧勝だったのか ~ ノモンハン事件

ノモンハンで空戦は圧勝だったと伝えられてが、本当にそうだったのか。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連の機械化部隊に歯が立たず惨敗したというのは大嘘ですが、空戦では圧勝だったと言われています。

  ソ連機の被害:約1,200機
  日本機の被害:約  120機

  ソ連機の被害はかなり誇張されており、ソ連の損失は280機程度、日本側は179機・・・このあたりが妥当と思われます。数字から見ると圧勝とはいいきれません。

  最初の空戦は5月22日、哨戒行動中の松村戦隊3機が、敵の10機と交戦し、3機を撃墜しました。野口雄二郎大佐率いるハルピンの通称・稲妻戦隊、飛行第11戦隊に応急派兵が命じられ、第一中隊(島田健二中隊長)、第三中隊(藤田隆中隊長)がハイラルに移動し、松村部隊と共同で哨戒にあたることになりました。

  5月27日、28日、ホロンボイル草原上空で日ソの激しい空中戦が展開されます。稲妻戦隊と松村戦隊は51機を撃墜。味方の被害は1機のみで乗組員は無事という完全勝利でした。このためソ連側は日本の飛行機を見たら逃げるように指導し、専ら日本機のいないときに地上攻撃するようになります。

  阿部武彦中尉
「ソ連機が1段50機の3段構え、合計150機で来ても日本機が数機ではダメだが、20機も行けば逃げた」

  日本航空隊が圧倒的に強かったのは日本の九七式戦闘機がソ連I-16に比べて格段に運動性能がよかった点があります。もう一つは日本軍パイロットは練度が高かったのに比べ、ソ連軍パイロットは全くの訓練不足で、ソ連軍パイロットのボロジェイキンは
「年間八時間程度に過ぎない飛行訓練」という信じがたい指摘をしています。

  6月には陸軍中最古の伝統を誇る飛行第一戦隊、加藤敏雄戦隊長がハイラルに移動してきました。6月22日には大規模な空戦が繰り広げられます。このときは以前のソ連機よりも質、量ともに変わっていました。特に質では実戦経験のある”英雄"パイロットを投入しはじめたのです。それでも松村部隊は100機近い敵と交戦し、半数近くを撃墜しました。しかし、味方も4名の戦死者を出してしまいました。

  6月27日にはタムスクを空襲し、第一中隊の篠原准尉は敵編隊の中に飛び込んで11機を撃墜するという離れ技を演じました。この戦いぶりから新選組の「近藤勇」の異名をとることになります。篠原准尉はトータル58機を撃墜し、トップエースとなり、8月27日に壮烈な戦死を遂げました。

  序盤から中盤まで日本航空隊の圧倒的優位も、ソ連軍のベテランパイロットの投入と数にものをいわせる作戦に少数精鋭の日本部隊も徐々に消耗していきます。またソ連はI-16に防弾板を装備するなどしたので、九七戦闘機の7.7ミリ機関砲ではなかなか撃墜できなくなりました。さらに新たに投入したパイロットが初陣で撃墜されるなどの損害も広がっていきました。生き残った第11戦隊・第二中隊の瀧山中尉はノモンハンで126回も出撃し、後に
「前期は勝利、中期は五分五分、後期は苦戦」と語っており、数字には表れない現場の実感が伝わってきます。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「二日間で敵五十一機を撃墜!稲妻戦隊と荒鷲たちの激闘の日々」山之口洋
                「空戦66回!野武士戦隊の戦いの中から得たもの」瀧山和

添付画像
  第十一戦隊の兄弟部隊、第二十四戦隊の基地 歴史街道2011.05より

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アメリカは正義の国か

アメリカは昔も今も腹黒い。それを見抜けぬお花畑論者たち。

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  アメリカの独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは「人類は等しくつくられた」と言いましたが、彼は黒人の女性奴隷を所有し、子を孕ませています。

  リンカーンは黒人奴隷制の廃止を宣言したことで有名ですが、彼はダコタ族の討伐命令を下し、集団処刑しました。また、黒人の代わりにシナ人を奴隷にしました。

  日露戦争のとき、日本軍が勝利しはじめるとアメリカの新聞は戦争の結末を予想し始めました。
「日本はペンシルバニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量注文した。ロシア陸軍を翻弄してきたクロキの軍がさらに北に展開するための準備と見られる。目的地はロシアの最大の拠点ウラジオストクで、制海権を失ったいま、陥落は必至だ」
  太平洋の覇権と大陸の権益を狙っていたセオドア・ルーズベルトは日本の力が強くなるのを恐れ、講和の仲介に乗り出しました。日露戦争後は反日に転換です。

  フランクリン・ルーズベルトはアメリカ市民に
「あなた方のご子息がいかなる外国での戦争にも送られることはありません」と約束しておいて、マッカラムメモランダムという戦争挑発行動8項目の戦争開始計画を実行し、日本を戦争に引きずり込み欧州参戦を果たしました。

  第二次世界大戦でドイツ降伏後、トルーマンは日本になかなか降伏勧告せず、ポツダム宣言も陸軍長官スティムソンの原案から、天皇の地位保全条項を削り、日本が絶対に受け入れないように細工して原子爆弾を広島と長崎に投下しました。スターリンやチャーチルに対して力を誇示するためです。

  戦後、アメリカは食糧不足の日本に牛や馬の餌用のトウモロコシや脱脂粉乳を売りつけるという偽善をやりました。
  マッカーサーは「民主的」といって日本国憲法を押し付けましたが、作成したのは共産主義者であり、二段階にわけて日本を共産化する目的の憲法でした。
  マッカーサーは日本の水道水に殺菌のため塩素を入れるよう指示しました。在日米軍は
「日本の水道水はポイズン(毒)が入っているからそのまま使えない」と言います。

  レーガンは雇用の創出のために日本企業を誘致しましたが、進出した企業は屑ビルなどを掴まされ、詐欺にやられました。1980年代にはカリフォルニアに800の企業が進出し、雇用の30%を支えていましたが、90年代には1年で100社ずつ減っていきました。

  サブプライムローンというインチキ商品を世界にバラまいたアメリカは困って黒人を大統領にしました。オバマは「核なき世界」をうたいましたが、国際テロリストへの核流出、中共への牽制、米国の優位保持が目的であり、日本の核武装を抑止する効果もあります。偽善をうたいアメリカの国益を守るということです。おめでたいどこかの市民は「オバマジョリティー」とか言ってお花畑を咲かせました。独立総合研究所社長の青山繁晴氏によると
「オバマさんは原爆投下をついに反省したんですか」と聞いてくるお花畑市民がいたそうです。そんなバカなわけありません。オバマはこう思っているでしょう。「原爆投下は日本の自業自得だ。だって平和祈念公園に『過ちはもう繰り返しません』って書いてあるじゃないか」

  アメリカはご都合主義であり、昔も今も腹黒い国です。



参考文献
 PHP「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人・高山正之共(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よしこ(編)
 WiLL2010.3月「本家ゴーマニズム宣言」『日本的世間と、わしの個人主義』小林よしのり
 オークラ出版「反日マスコミの真実」『消え行く言論の自由』青山繁晴 西村幸祐 三橋貴明
 転展社「戦後日本を狂わせたOSS日本計画」田中英道(著)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)
添付写真
 アメリカ第3代大統領トーマス・ジェファーソン(PD)

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ハルハ河を渡河せよ ~ ノモンハン事件

ノモンハンは負け戦ではなかった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連機械化部隊に歯が立たず大敗北したというのは大嘘で、ソ連側の損害は日本のそれを上回っており、日本軍の大健闘だったことがわかっています。

  6月27日、日本飛行集団を総力を挙げて、国境から百数十キロ入ったタムスク飛行場を空襲しました。これでソ連軍は委縮し、空の脅威が一時的になくなりました。日本軍はハルハ河渡河攻撃を練っており、関東軍参謀・辻
政信中佐は偵察機を飛ばさせ、対岸が堅固な陣地ではなく、単に戦車の入る掩壕(えんごう)が蜂の巣のように作られていることを確認します。

  7月1日、夜間に日本軍は行動開始。第二十三師団主力の小林支隊は翌正午ごろ、フイ高地に到着。このとき先頭に敵砲弾が落下し、小林少将は乗っていた馬に一鞭あて、先方の高地に駆け上がり、「命令受領者、前へ」と命じながら双眼鏡をとって自ら敵陣地を偵察し、現地を指さして、各部隊に攻撃命令を下命しました。この結果、敵戦車を撃退し、フイ高地の一角を占領しました。

  日本軍は夜間、ハルハ河を渡河します。この日本軍の渡河にはソ連側は驚愕します。西岸では安岡支隊がソ連軍を攻撃しており、ソ連狙撃連隊と装甲車旅団が大損害を受けており、こちらの救援にやっきになっていたのです。司令官のジューコフは焦り、航空機による爆撃を命じ、できる限りの戦力を集め、迎撃に向かわせましたが、歩兵戦力が著しく不足しており、戦車単独の攻撃となります。史上初の戦車の大群と歩兵・砲兵の対決となったのです。

  日本軍先頭部隊がハラ高地に到着すると前方に戦車、装甲車の大群が見て取れます。その数は約200輌。日本軍は射程400メートルまで戦車をひきつけ、速射砲で応戦。装甲車に対しては重機関銃による集中射撃で応戦しました。ソ連戦車、装甲車は次々炎上。あまりの見事さに関東軍参謀・辻
政信中佐は兵に何か褒美をやろうと考えましたが、何もないので恩腸(おんし)のタバコを分け与えました。このタバコは宮内庁だけに納入される市販されてないもので、皇室を表す菊花紋章が入ったものです。兵たちは機関銃弾や砲弾が絶え間なく飛んでくる中でゆっくり吸いおわりましが、吸い殻をもったいなさそうにいじっていました。分隊長はそれに気づき、「おい、皆、吸い殻をポケットに入れてお守りにせよ!」と叫び、兵たちは吸い殻をポケットに入れ、再び突進してきた新手の戦車の第二派に、また必中弾を浴びせました。

  この戦闘は「戦車狩り」と言われ、砲兵と重機関銃がソ連戦車を撃破するのを見守っていた歩兵たちの間から「万歳!」の歓声が何度も沸き起こりました。砲兵が撃ち漏らしたソ連戦車は40~50メートル接近したところで、歩兵や工兵たちの手によって火炎瓶や地雷によって破壊されました。中にはBT戦車の砲塔に飛びついてハッチをこじ開け、手りゅう弾を放り込んだり、銃剣や軍刀で乗員を突き刺して擱座(かくざ)させる猛者までいました。7月3日までに100輌程度を破壊し、その情景は日本側の多くの戦記で次のように伝えられています。


「まるで八幡製鉄所をはじめとする工業地帯の煙突からたなびく煙のように、多数炎上した戦車からの煙が空にたなびいていた」

  日本軍は補給がただ一本の橋梁によらなければならなく、弾薬も残り少なくなったため、これ以上の戦果は期待できないという判断からハルハ河東岸に引き上げることに決定します。安達大隊が取り残され包囲されるというハプニングがありましたが、夜襲をかけて救出し、日本軍は7月5日には東岸へ引き揚げました。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
 産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

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 ハルハ河工兵橋 「ノモンハン事件の真相と戦果」より

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