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空戦は圧勝だったのか ~ ノモンハン事件

ノモンハンで空戦は圧勝だったと伝えられてが、本当にそうだったのか。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連の機械化部隊に歯が立たず惨敗したというのは大嘘ですが、空戦では圧勝だったと言われています。

  ソ連機の被害:約1,200機
  日本機の被害:約  120機

  ソ連機の被害はかなり誇張されており、ソ連の損失は280機程度、日本側は179機・・・このあたりが妥当と思われます。数字から見ると圧勝とはいいきれません。

  最初の空戦は5月22日、哨戒行動中の松村戦隊3機が、敵の10機と交戦し、3機を撃墜しました。野口雄二郎大佐率いるハルピンの通称・稲妻戦隊、飛行第11戦隊に応急派兵が命じられ、第一中隊(島田健二中隊長)、第三中隊(藤田隆中隊長)がハイラルに移動し、松村部隊と共同で哨戒にあたることになりました。

  5月27日、28日、ホロンボイル草原上空で日ソの激しい空中戦が展開されます。稲妻戦隊と松村戦隊は51機を撃墜。味方の被害は1機のみで乗組員は無事という完全勝利でした。このためソ連側は日本の飛行機を見たら逃げるように指導し、専ら日本機のいないときに地上攻撃するようになります。

  阿部武彦中尉
「ソ連機が1段50機の3段構え、合計150機で来ても日本機が数機ではダメだが、20機も行けば逃げた」

  日本航空隊が圧倒的に強かったのは日本の九七式戦闘機がソ連I-16に比べて格段に運動性能がよかった点があります。もう一つは日本軍パイロットは練度が高かったのに比べ、ソ連軍パイロットは全くの訓練不足で、ソ連軍パイロットのボロジェイキンは
「年間八時間程度に過ぎない飛行訓練」という信じがたい指摘をしています。

  6月には陸軍中最古の伝統を誇る飛行第一戦隊、加藤敏雄戦隊長がハイラルに移動してきました。6月22日には大規模な空戦が繰り広げられます。このときは以前のソ連機よりも質、量ともに変わっていました。特に質では実戦経験のある”英雄"パイロットを投入しはじめたのです。それでも松村部隊は100機近い敵と交戦し、半数近くを撃墜しました。しかし、味方も4名の戦死者を出してしまいました。

  6月27日にはタムスクを空襲し、第一中隊の篠原准尉は敵編隊の中に飛び込んで11機を撃墜するという離れ技を演じました。この戦いぶりから新選組の「近藤勇」の異名をとることになります。篠原准尉はトータル58機を撃墜し、トップエースとなり、8月27日に壮烈な戦死を遂げました。

  序盤から中盤まで日本航空隊の圧倒的優位も、ソ連軍のベテランパイロットの投入と数にものをいわせる作戦に少数精鋭の日本部隊も徐々に消耗していきます。またソ連はI-16に防弾板を装備するなどしたので、九七戦闘機の7.7ミリ機関砲ではなかなか撃墜できなくなりました。さらに新たに投入したパイロットが初陣で撃墜されるなどの損害も広がっていきました。生き残った第11戦隊・第二中隊の瀧山中尉はノモンハンで126回も出撃し、後に
「前期は勝利、中期は五分五分、後期は苦戦」と語っており、数字には表れない現場の実感が伝わってきます。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「二日間で敵五十一機を撃墜!稲妻戦隊と荒鷲たちの激闘の日々」山之口洋
                「空戦66回!野武士戦隊の戦いの中から得たもの」瀧山和

添付画像
  第十一戦隊の兄弟部隊、第二十四戦隊の基地 歴史街道2011.05より

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