インパール作戦はなぜ実行されたか
牟田口批判は司馬手法。
インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に日本陸軍により開始され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。 この背景にはチャンドラ・ボースらインド国民軍の「インド解放」の動きも後押ししました。特務機関である光機関の山本機関長はボースの言葉を使いながら昭和19年(1944年)1月25日に次のように戦略を説明しています。
「日本軍がインド内部のイギリス軍に最初の一撃を加えるやいなや、民衆はイギリス軍の力への幻想から醒め、大きな反乱が起こることが実際に期待できる」「そのため軍事作戦は大規模に実施する必要はまったくない。我々の目的は局地的な作戦で十分に達成されよう」
しかしながらインパール作戦は動員兵力92,000のうち、戦死38,000、戦病40,000以上と大惨敗。補給線を軽視したな作戦といわれ、とにかく第15軍の牟田口司令官の評価は現在でも非常に悪いです。
この作戦が認可される過程を追ってみますとほとんどの参謀が反対しています。それなのに作戦が認可されたのはなぜでしょうか。
インパール作戦は昭和17年(1942年)8月に南方軍参謀の林璋(はやしあきら)中佐が計画したもので、二十一号作戦といい、インドのアッサム地方まで進攻するものでした。このとき第15軍司令官は飯田祥二郎中将は第18師団長だった牟田口廉也(むたぐち れんや)中将に意見を聞き、牟田口中将はこう述べています。
「一挙に東部インドまで突進しようとするこの案は、後方整備の関係、特に兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの諸点からみて、あまりにも時間的余裕がなく、実現の見込みはないと思います」
この後、二十一号作戦はインド工作の状況から無期延期となります。対インド工作は光機関が宣伝工作やスパイを潜入させていましたが、まだ十分ではないという判断が働きました。しかし、昭和18年(1943年)3月のビルマ方面軍の再編成で、第15軍司令官となった牟田口中将はインパール作戦を強硬に述べるようになり、第15軍の参謀・小畑少将が反対すると更迭するという事件がおきています。当時の各首脳のインパール作戦の意見を簡単に表します。
大本営・参謀本部
| 東條英機陸相「無理するな」
| 竹田宮参謀「作戦成立の見込みなし」
|
南方軍司令部
| 総参謀副長・稲田正純少将「絶対許さん!」
|
ビルマ方面司令部
| 河辺司令官「疑問だが、15軍に干渉過ぎるのもよくない」<=人情派 曖昧
| 中参謀長「・・・作戦構想に修正が必要だが・・・」<=温厚な人柄
| 片倉参謀「作戦構想を修正しないととても無理!」
|
第15軍
牟田口司令官「やるっきゃない」
小畑参謀長「反対」<=更迭される
ところが猛反対だった稲田少将が昭和18年(1943年)10月に突然転出となります。
大本営・参謀本部
| 東條英機陸相「十分研究しろ」
| 真田少将「やり方が違うだろ、ガ島をみればわかる」
|
南方軍司令部
| (後任)総参謀副長・綾部中将「うーん、できればやらせてやりたい・・・」<=心優しい軍人
| 山田参謀「必勝の信念は牟田口中将一人。ダメ。中止したほうがよい」<=後で撤回
| 今岡参謀「補給計画の適否より作戦上の見通し」
|
ビルマ方面司令部
| 河辺司令官「牟田口にやらせたい」<=人情派 曖昧
| 中参謀長「危険性が高い。再考の余地ないか」<=温厚な人柄
|
第15軍
牟田口司令官「今回の作戦こそ必勝の信念」<=一回やらせろ、独裁政権
平井謀長「軍参謀は一切意見はいわないことになっている」<=更迭されるのが怖い
第15師団山内中将「今、タイから異動してきたばかりでよくわからん」
第15師団岡田参謀「無理だろう」
第31師団佐藤中将「補給は間違いなくあるんだろうな」
第33師団柳田中将(やっとれん)
このような人事になって稲田少将の後任、綾部中将は参謀本部に上申し、真田少将が猛反対するのですが、参謀本部の杉山参謀総長が「寺内さん(南方軍総司令官)の初めて要望であり、たっての希望である。南方軍でできる範囲なら希望通りやらせてよいではないか」(<=人情派)と言って説得しました。
このように人事異動などにより人情劇にながされてインパール作戦は決行が決まってしまいました。これで作戦は失敗し、数万の将兵が命を落としたのですから「なんてことだ」と思う人が多いと思いますが、それは現代では結果が大失敗とわかっているから言えることで、考えて見れば真珠湾攻撃も無謀といわれ大反対された中で認可された作戦でした。
特に戦後は東京裁判史観により日本陸軍が批判の対象とされ、最大級の損害を出したインパール作戦は批判の格好の的になっている感があります。インパール作戦は「無謀な作戦」と言われるのは大東亜戦争は「最初から無謀な戦争」というGHQの刷り込みにも同期しています。また、インド国民軍のことはほとんど語られません。これはGHQのプレスコードによるものでしょう。
ジャーナリストの高山正之氏によるとインパールを語る戦史は最初から結論が「牟田口が悪い」で決まっており、これは司馬手法だと言っています。司馬遼太郎の乃木希典、伊地知幸助評に似る、というものです。本来日本人は人民裁判的評価は行わないといいます。
どうやらインパール作戦は「戦後の色眼鏡」を外して見なければならないようです。
参考文献
PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
参考サイト
WikiPedia「インパール作戦」
添付画像
牟田口廉也(PD)
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「06.大東亜戦争・インド」カテゴリの記事
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