戦艦大和特攻、沖縄へ
沖縄へ向かった戦艦大和。
昭和20年(1945年)4月6日、天一号作戦(菊水作戦)により戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻が山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃しました。
この大和特攻は沖縄島残波岬に突入し、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるという作戦計画でしたが、実際には主砲が使えなくなるから無理と言われ、「一億総特攻の魁(さきがけ)」の作戦であるといわれています。しかしながら、燃料は3往復半分積んでいたという説や大和に積み込む沖縄県民のための民生品、歯磨き、歯ブラシ50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド15万人分を調達したという証言もあり、まだまだ謎は多いです。
以前、「男たちの大和」という映画を見て、その後に原作の本を読みましたが、原作本は沈没時の壮絶さが印象に残りました。戦艦大和は爆弾五発、魚雷十本を受け、機械室一箇所を除き、全部運転不能に陥り、速力は10ノットの激減し、設計上の安全最大限傾斜である22度以上に傾斜しました。そして「総員最上甲板」(総員退去のこと)の命令がでます。ここから沈没までわずか20分。
大和が沈没すると多くの乗組員はその渦に巻き込まれて海中へ飲み込まれていきます。海中で大和が大爆発を起こし、これで水面へ押しあげられ助かった人が多くいます。海上は重油が浮き、浮遊物にしがみつこうと我も我もと生き残った兵士たちが争います。固まっていると米軍機が卑劣にも機銃掃射をかけてきました。駆逐艦が救助にきてロープを投げると一本のロープに数人が群がります。重油ですべってなかなか上れなかったといいます。
高射長の川崎勝巳少佐は日ごろ「軍人精神とは死ぬべきとは死ぬことだ。敵機必殺撃墜につとめよ」といっていました。大和が沈没したとき、海上に浮遊しながら「これにつかまれ」と配下のものに円材を渡し、「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ、ばんばっていきるんだよ」と励ましました。駆逐艦が救助に来ると皆が救助されるのを見届け、駆逐艦とは別の方向へ向かうように姿を消したといいます。
沈没直後、艦長の有賀大佐は生きていました。防空指揮所にいて、沈没のときに海上に投げ出されたようです。乗組員の高橋弘氏が二、三人と漂流していると、ひとりが「艦長じゃないか!」と声をあげます。「艦長!艦長が生きとる」と高橋氏は大声をあげました。このとき有賀艦長と高橋氏の目が合い、その瞬間、有賀艦長は海に潜り、それっきり浮かんでこなかったといいます。高橋氏は「艦長は自殺したんじゃな。わしがこの目つきで艦長じゃないかと言うたし、周囲にいた者も言うたんで非難されたと思うたんじゃろう」と悔いています。
昭和20年4月7日14時23分、北緯30度43分07秒、東経128度04分25秒、大和沈没。沖縄北部の屋我地島の海岸には「中城湾行き」と記された戦艦大和所属の破損品が多数流れ着きました。
ちょうど4月7日は鈴木貫太郎内閣の親任式が行われていました。新内閣の軍需大臣豊田貞次郎の娘婿、山本祐二大佐は大和に乗りこんでおり、沈没後、漂流中に死亡しています。海軍大臣の米内光政は、皇居に参内し、天皇陛下に第二艦隊の戦況を奉上しました。
「陛下、連合艦隊は、もはや存在しません」
参考文献
ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
歴史通WiLL2009.7「歴史教科書に『大和』が載った」藤岡信勝
歴史通WiLL2009.7「技術の粋が生んだ『大和』の美」原勝洋
WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)
参考サイト
WikiPedia「大和(戦艦)」
添付画像
戦艦大和(PD)
大和 帰還セズ ~運命の特攻作戦~
http://www.youtube.com/watch?v=5XEnAoC7ujg
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