人命軽視のソ連軍 ~ ノモンハン事件
日本軍のほうがはるかに人命を重んじていた。
昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。
関東軍参謀の辻政信中佐は5月30日、山縣支隊本部に到着するとソ連軍の焼けた装甲車に出くわします。中には運転手らしい者の黒こげ死体が見えました。「どうして飛び出さなかったのだろう」と、怖いもの見たさで除いてみると、死体の両足首に太い鉄鎖(てっさ)を巻きつけて車体に縛られていたのでした。運転手はモンゴル人のようです。
ノモンハン事件で国境の河を越してきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却して来る味方の部隊を火炎放射器で焼き払ったという目撃談があります。またソ連軍は退却しても5,6百メートル手前で停止したというのもあります。督戦隊がいたのです。ノモンハンに参加した日本兵の証言には以下のようなものがあります。
「破壊された装甲車を見ると、外蒙古兵が足首を鎖で縛られて逃げられない状態だった」
「外蒙古兵は高い木の上に縛られ、葉のしげみから小銃を撃って来た」
「ソ連軍は戦車に外から錠をして逃げられないようにした」
「蒙古ラマ僧侶に銃を持たせた」
ソ連はウクライナの農民を拉致したり、総合演習として称して戦地に送り込んでいました。こういう兵は士気が低い。なので、退却、逃亡させないために督戦隊を配備していたのです。督戦隊は退却、逃亡する兵士を処分する役目を持っています。ソ連兵は無理にでも前進して日本軍に接近し、手榴弾を投げると日本兵が突撃してきてます。銃剣術を知らないソ連兵は串刺しにされ、恐怖のあまり逃げると督戦隊に銃撃されるか、焼き殺されるわけです。
これは当時、ソ連だけでなくアメリカはフィリピン兵、イギリスはインド兵に対しても同じような扱いをしています。支那軍でも各地で拉致した若者を集めて軍を編成してトーチカの中に鎖でしばって死ぬまで撃ちつづけるようにしています。
田中克彦「ノモンハン戦争」によると「ソ連軍は兵士に対して戦争目的を友邦モンゴルを日本帝国主義の侵略から守ると掲げて徹底していた」と書かれていますが、拉致された兵士がソ連が掲げる目的を理解していたとは思えず、正規兵にいたっても捕虜になれば家族、子孫まで処罰の対象となるため恐怖のため戦っていたのでしょう。それに対して日本軍は督戦隊のようなものはなく皇軍として統制がとれていました。
田中克彦氏のいうソ連軍は崇高な使命で戦っていて日本軍は目的が分からず上層部の指令で動いていた、日本軍は命を粗末にしたというのが戦後の東京裁判史観であり、そこから抜け出せない歴史家は戦車の中で鎖でつながれたソ連兵士を「シートベルトだった」と解釈している人までいます。素直に見れば人命軽視はソ連軍であり米軍も英軍も支那軍も同じであり、相対的に日本軍のほうが人命を大切にしていると言えるでしょう。
参考文献
有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
添付画像
鹵獲したソ連装甲車上は歩26秋野英二少尉 「ノモンハン事件の真相と戦果」より
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